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二人の生活

第二章 4



 翌日の日曜日。俊と私は裸で縺れ合ったまま、朝の10時過ぎまで眠っていた。

 目を開けると自分の鼻先に俊の温もりと、顔にかかる息を感じる。

 まだ目を閉じたままの俊の顔にそっと近付いて、薄桃色をした可愛らしい唇にそっとキスする。

 薄っすらと目を開けた俊がふふっ……と子供みたいに微笑む。

 その日は一日中布団を敷いたままで、二人とも裸のまま過ごした。

 昨夜三作目の途中でやめてしまった「ロード・オブ・ザ・リング」の続きを見て、観終わるとカップラーメンを食べ、昼過ぎにまた愛し合った。その後ゲームをして、お腹が空くとお菓子を食べて、また求め合った。

 気が付くともう外は夕暮れになっている。お風呂に入って、夕食はデリバリーでケンタッキーのフライドチキンを取り、二人で手や顔を油まみれにしながらムシャムシャ食べる。そしてまた求め合う。

 俊の体力は呆れるくらい回復が早く、求め合う度にすぐ始めての時と同じくらい熱くなる。

 その瞬間だけは、俊一も全てを忘れられるのかもしれない。終わると思い出すので、また求める……。


 夜が明けて月曜日になった。週末が終わった月曜日の朝というのは、目覚ましが鳴って目を開けると憂鬱な気持ちになってしまうものだけど、今は目を開けると一人ではない温もりがあって、一緒に目を覚ました俊がお早うのキスを求めて来る。

 名残惜しいけれど仕事に行かなければならない。俊を残して布団を出ると、洗面と歯磨きを済ませ、お弁当を作りにかかる。

 昨夜タイマーを掛けておいた炊飯器を開けて、炊きたてのご飯を弁当箱に詰める。おかずはレンジで暖めるだけの冷凍コロッケに付け合せはレタス。

 朝食代わりのバナナを俊も食べると言うので冷蔵庫から2本持って6畳間へ戻る。

 テレビを点けて朝のワイドショーを見ながら、二人でモグモグとバナナを食べる。

 リモコンでパチパチとチャンネルを変えて見るが、どの局も週末に起きた各地の殺人事件や酷い交通事故、それに芸能人のスキャンダル等が目白押しで、俊の事件についての報道は無い。

 世間では次々に恐ろしい事件が起きて、俊の起こした事件のことはもう古い話題になっているのかもしれない。

 このまま誰からも忘れ去られてしまえば良いのに……と思う。そうなれば俊はずっとここに閉じ篭っていなくても、外へ出て一緒に街を歩くことだって出来る。

 等と思っているうちに時間も無くなるので弁当箱をバッグに入れ、簡単にお化粧して身支度を整えると家を出る。

「行ってきます……」

「行ってらっしゃい、早く帰って来てね……」

 その顔にはもう俊を残して始めて会社へ出掛けた日の様な不安の色は無い。もう私が裏切ったり、帰って来なくなってしまうのではないかという不安はないのだ。

 パタンとドアを閉めて、外から鍵をかけ、アパートの敷地を出る。


 6月に入って梅雨に近づいて来ているせいか、空はどんよりと曇って、空気が生暖かい。

 いつもならこれから金曜日までの仕事を思って暗鬱な気持ちに耽ってしまうのに、今日はこの空模様の下を歩いていても、まるで広い大海原へ漕ぎ出して行く様な感じがする。

 ワクワクするというのとは違うだろうか、半分は空恐ろしい。来たことのない未知の世界を開拓して行く様な感じだろうか。

 駅へと続くいつもの道も、いつもの様にすれ違うくたびれたおじさんも、子供を乗せた自転車のお母さんも、全てが違って見える。

 まるで世界が変わってしまったかの様に。いや、世界が変わったのではなく、変わったのは私の方なのだ。私は今、歩いたことのない新しい道へと踏み出したんだ。

 一体この道の先はどうなっているんだろう。恐い気もする。私は小さな船で岸辺を離れ、大海原へと漕ぎ出してしまった。俊一という少年を乗せて。

 でも一方では清清しい気持ちが身体中に湧き上がって来るのも感じる。この曇った空の下で、私にだけは遥かに広がる大きな大海原が見えている様な気もする。

 いつもの様に経堂駅から電車に乗って、代々木上原~表参道と地下鉄を乗り継いで、日本橋駅に着いて地上に出る。立ち並ぶビル群の間を歩いてオフィスへと向かう。

 いつもはこの辺りを過ぎる度に、スーツ姿の男たちの中に隆夫を探していたのだけれど、そんな自分はもういない。

 ビルの玄関を入り、他の社員たちと一緒にエレベーターに乗る。

 いつもの様にロッカールームで着替え、タイムレコーダーを押してデスクへ向かう。

 いつもと同じいつもの職場。でも全てが違っている。例えれば両足が床から2センチくらい浮いているという様な。

「お早うございま~すぅ」

 時間ギリギリになって淵松絵美子さんが駆け込んで来る。隣のデスクの椅子にドカッと座り、パソコンのスイッチを入れる。

 モニターの背景いっぱいに堂本剛君の爽やかな笑顔が浮かび上がって来る。

「ツヨシお早う~あ~今日もしっかり仕事しなくっちゃねぇ」

 パソコンが立ち上がる間に絵美子さんは持っていた袋からおもむろに菓子パンを出してムシャムシャと食べ始める。

 亜希子は思う……ああ~絵美子さんに言ってみたい。私の家には17歳の美少年がいて、私の帰りを待っているのよ、って。私の秘密の恋人なのよ、って。

 そんなことを考えて絵美子さんの横顔を見ていたら「えっ? 何倉田さん」と声を掛けられてしまった。

「あ、いえ、何でもないです……」

 慌てて自分のパソコンに向き直り、先週からやりかけの伝票を表示する。


 就業時間になるとそそくさとオフィスを出て、電車の乗り継ぎももどかしく早足に歩く。

 経堂駅に着くと買い物もせず商店街をスタスタと過ぎ、アパートを目指す。

 私の留守中に誰かが訪ねて来てしまうといけないので、部屋の中は電気も点けずに真っ暗なままだ。それは一週間前までの、私が一人暮らしをしていた時と同じ。

 鍵を開けて真っ暗な中へ入り、ドアを閉める。

 電気を点けると6畳間で待っていた俊が「お帰りなさい」と立ち上がって来る。バックを片手に提げたまま、抱きついて来た俊の身体を受け止めてキスする。

 外出着も脱がず、そのまま縺れる様に倒れ込み、お互いの身体を確かめる様に愛し合う。


 その晩一度目の行為が終わると、さすがにお腹が空いてきて、何か食べなきゃ、ということになった。

 でも台所に行こうとする亜希子の手を、俊一がつかんで離さない。

「ちょっと俊、御飯作って食べなきゃでしょ」

「何か出前取って、来るまで寝たまま待ってればいいじゃんか~」

「ダメだよそんな、毎日贅沢してちゃ」と振り切って台所に立つ。

 スパゲティの麺を茹でて、夕食の準備をしている間も、俊は側に来て亜希子の髪を触ったり腰に手を回してきたりする。

「もう、危ないでしょ」

 と言ってるのに尚も脇の下を突ついたり項を撫ぜて来たりする。

 キャッキャとはしゃぎながらどうにか二人分のスパゲティを作り、六畳間に運ぶ。

 この狭い部屋の中で二人きりなのに、片時もお互いの身体から離れているのは嫌だという様に、ちょっかいを出してはふざけている。

 この数日の間にどれだけ俊と身体を重ねただろうか。それでもその度ごとに激しさを増して行く様だった。


 次の日の帰りに、俊一の着替えを買ってあげようと思い、経堂に着くと商店街にあるジーンズショップに入った。

 その店があることは知っていたけれど、ジーパンや若者向けのファッションが中心の店だったので、入るのは始めてだった。

 俊一は着の身着のままで亜希子の部屋に逃げ込んで来て、その服は処分してしまったので、着替える物がない。

 まずは下着を買おうと思う。俊一が最初に履いていたパンツは白のブリーフだったけれど、柄の付いた明るい色のトランクスを選んでみる。俊はこんなの履いたこと無いんだろうか……と思いつつ買う。

 それから部屋着用の上下のトレーナーとパジャマ。俊は外へ出られないから部屋着しか買う必要は無い。でも店内の見本用にマネキンが着ている若者向けのジーパンやニットのシャツの組み合わせを見ていると、俊が着ればきっと似合うだろうなと思う。

 一度で良いから俊に私の選んだ服を着せて、一緒に街を歩いてみたい。

 アパートへ帰って来て、ドアを開けて真っ暗な部屋へ入って電気を点ける。

 買い物袋を置く間もなく飛びついて来た俊に抱きすくめられると、気が遠くなってしまう。


 次の日亜希子が帰って電気を点けて驚いた。部屋の中が引っくり返した様に散らかっている。

 見ると俊が退屈だったのか、押入れを開けて中を漁っていたらしく、長年入れっぱなしになっていたダンボール箱を引っ張り出して、中から水彩画の画材やキャンバスを出している。

 すっかり忘れていたけれど、20代の頃、何か高尚な趣味でも持って教養を付けたいと思い、水彩画教室に通っていたことがあった。それは亜希子がその時の写生会で描きかけてやめてしまった絵だった。

 見ると一緒に入っていた筆と絵の具やパレットを使って、俊は描きかけだった絵に色を塗り、完成させてしまっている。 

 当時他の生徒さんたちと一緒に高尾山に写生に行って描いた物で、山の上から眼下に広がる町並みを描いた風景画だった。

 水彩画教室には2ヶ月近く通っていたけれど、亜希子はセンスが無いのかちっとも上達しなかった。他の生徒さんみたいに上手に描くことが出来なくて、やる気も薄れてしまい、やめてしまったのだった。

 俊一はその画を鮮やかに完成させつつ、その背景に、手を繋いで空を飛んでいる二人の男女の姿を描き込んでいる。

 遥かな空へ向かって飛び立っているその男と女は、俊と亜希子の姿なのだと言う。

 思わず笑ってしまったけれど。ずっと忘れていた失くし物を俊が見つけてくれた様な気がした。

 途中で投げ出してしまっていた亜希子の絵は、空と街の一部には着色していたけれど、後は殆どデッサンのままだったのに、まるであの風景が目前に広がっているかの様に、見事に仕上げてしまっている。

「ごめんね、思ったより綺麗に出来なかったんだけど」

 と言うので「何言ってるの凄いじゃない、本当、凄い、ビックリしちゃったよ」

「イラストとか描くの昔から好きだったんだけど、もうずっと描いてなかったから」

 そんな俊の趣味も才能も、俊の親たちは伸ばしてやることをせず、ひたすら国立大学に入る為に勉強することだけを強いて来たのだろうか。

「俊はイラストレーターとかになりたかったの?」

 と聞いてみる。

「ううん。僕ね、医者になりたかったんだよ」

「えっ?」

「お父さんみたいな」

「お父さんみたいな?」

「うん。僕の父さんはね、凄い医者なんだよ。他の人みたいにお金儲けとかが目的じゃなくて、本当に患者さんのことを心から思ってあげて診察してあげるんだ。僕も将来お父さんみたいな医者になれたらいいな、って思ってた」

 そうなんだ……俊は必ずしも嫌々勉強させられていた訳ではないんだ。自分でも医者になりたいという夢を持っていたんだ……。

「父さんの患者さんだった人が元気になって退院してからね、わざわざお礼を言いに家まで来たこともあったんだよ」

 それじゃあ何故……という言葉が出掛かったけど、今はまだ黙っていよう。それは俊が自分から語ってくれるのを待っていた方が良いと思う。


 木曜日になった。会社で仕事をしていても、早く帰って俊の顔を見たい、という思いが募って来る。でも家の食糧が少なくなってるし、今日は買い物をしなければならない。

 商店街で手早く買い物を済ませ、両手いっぱいに買い物袋を提げて帰って来る。

 いつもの様に真っ暗な部屋へ入りながら亜希子は「ただいまぁ~俊。今日は買い物して荷物がいっぱいだからねー、置くまでちょっと待っててよお願いだから」

 と言いつつ荷物を置いて電気を点けると、いつもの様に立ち上がって来る俊の姿が無い。

 あれ? と思って見回すと、部屋の隅に座った俊が「お帰りなさい」と元気の無い返事をする。

「どうしたの?」と聞くと、今日の昼間また刑事たちが聞き込みに来たのだと言う。この部屋へは来なかったけれど、隣の部屋を訪ねて来て、住人が刑事たちの質問に答えるのが聞こえたのだと言う。

 きっとあの日聞き込みに来た時は隣の住人が仕事に行って留守だったので、今度は時間帯を変えて聞き込みに来たということだろう。

 隣の男の人はやはり俊の顔写真を見せられている様子で、この少年を知らないか、等と聞かれていたが、知らないと答えていたと言う。

 心配そうな俊に「大丈夫だよ、心配いらないから」と言ってあげたけど、俊の浮かない顔を見ていると、亜希子の気持ちも沈んで来てしまう。

 俊の横に座り、肩を抱いてあげる。俊の顔を両手に包んで自分の方へ向かせ、安心させてあげようとキスする。


 金曜日の朝になった。今日一日頑張れば、ずっと俊と一緒に過ごせる週末が来る。

 いつもの様に「行って来るね……」「行ってらっしゃい……」と小声を交わしながらドアを出た時だった。思いがけず隣の住人が外の道からアパートの敷地へ入って来た。

 ドキッとする。顔を合わせるのは何ヶ月か振りだった。今の俊との小声の遣り取りを見られてしまっただろうか。

 なんでこんな時間にこの人が……と思うけど、休みで何処かへ遊びに行った帰りか、夜中の仕事が早く終わったので、帰って来たところなのかもしれない。

「こ、こんにちは」とぎこちなく会釈を交わして擦れ違った時、その男はチラッと流し目をくれながらニヤリと笑った。

 ドキリとして、思わず振り返る。男は素知らぬ顔で自分の部屋の鍵を開けている。

 その瞬間思った、この人は私の部屋に俊がいることを知っている……。

 それが近所で母親を刺して逃げている高校生だということまでは気付いてないとしても、隆夫と別れて以来ひとりだった私が新しい男を作って部屋に連れ込んでいる。くらいに思っているのかもしれない。私と俊との話し声とか、それと……夜の声が聞こえたんじゃないだろうか。

 隣の男がドアを開けて出かけて行く音を毎晩確認していた訳ではないから。いつもいないものと思って気にせずに声を出していたけれど、考えてみればあの男にだって休みの日はある筈だ。

 隣の住人がいるとも知らずに、声も気にせず俊とお喋りして、いつもの行為を繰り広げていた時に、あの男が壁の向こうで聞き耳を立てていたとしたら……。

 商店街を歩きながら、顔に血が上って真っ赤になって行くのを感じる。

 それに、あの男も昼間聞き込みに来た刑事に俊の顔写真を見せられているのだ。まさか私の部屋にいるのが行方を捜査されている少年だとまでは考えが及ばないとしても、何かの弾みで俊の顔を見られでもしたら……。

 ホームで電車を待ちながらゾッとしている。今夜からは隣の男がいるのかいないのか、こちらも聞き耳を立てて確認する様にしなくちゃ……。


 待ちに待った週末が来た。今日と明日の二日間はずっと俊と一緒に過ごすことが出来る。

 昨夜は隣の男が出掛けて行く音が聞こえたので、夜中まで気にせずに激しく愛し合っていた。

 目が覚めてもまだ昨夜の余韻の中を漂っている様で、二人は裸のままお昼頃まで布団の中でまどろんでいる。

 いい加減に眠気も覚めて来たので、そっと首に巻き付いた俊の腕を離して布団を出る。台所に立って、買っておいたインスタントラーメンを作ろうと思う。

 お鍋にお湯を沸かし、冷蔵庫から長ネギを出して刻む。

 ラーメンが出来る頃、匂いを嗅ぎつけた俊がノソノソと起き出して来る。

 小さなテーブルにどんぶりを並べて、テレビを見ながら二人で啜っている時だった。

 コンコン……最初は風で何かが揺れた音がしているのかと思った。だが、しばらくしてまた、コンコン……。

 テレビのボリュームを下げて、俊に静かにする様に口に人差し指を立ててみせる。

 コンコン……耳を澄ましているとまた音がする。隣の部屋かと思ったが、それは紛れも無くこの部屋のドアをノックしている。

 俊を手で制して、足音を忍ばせてそっと台所に行く。

 と思うと台所のガラス窓にヌーッと中を伺っている何者かの影が映った。

 ドキリとする。でも台所の窓は磨りガラスなので、中を見ることは出来ないだろう。

 もし電気が点いていたら不審に思われたかもしれないけど。昼間なので電気を点けていなくて良かった。

 音がしない様にゆっくりと近付いて、そ~っとドアの覗き穴から外を伺う。

 誰かいる……コンコン……またノックする。確かにこのドアをノックしている。

 広角レンズで湾曲して見える覗き穴の下の方で、人影が何かもぞもぞと動いている。年配の女の人の様だ……と思うと屈みこんでいたその人が起き上がった。

 お母さん!

 顔を上げたのは八王子の実家に住んでいる亜希子の母だった。

 思わず息が止まる。何故お母さんが……ドア一枚を隔てて母親がいる。でもまさかドアを開ける訳には行かない。

 息を詰めて見ていると、何か紙袋に沢山持っている様子だ。

 何をしに来たんだろう。今までこんな風に、突然訪ねて来ることなんて無かった。

 母は少しウロウロした後、留守だと思って諦めたのか、帰ろうとして、また思い止まった様に振り返り、手にしていた紙袋をドアノブに下げる。

 今年で62歳になるんだろうか、すっかり老け込んで、白髪と皺だらけになった母の顔を、小さな覗き穴から湾曲した視界の中で、息を詰めながら見ている。

 母はハンドバックから手帳を取り出すとペンで何か書き込んでそのページを破り、ノブに吊り下げた紙袋に入れている。

 そして帰って行く。丸まった小さな背中を見送る。これから八王子まで帰るんだろうか、電車があまり混まないで座って行けると良いけど……。

 わざわざ遠くから訪ねて来たというのに、居留守を使って帰してしまった。何て酷い娘なんだろう……後ろめたい気持ちが湧き上がって来る。

 そのまま暫く待って、本当に行ってしまったことを確認する。

 振り返ると、俊が心配そうに見ている。

「誰だったの?」

「お母さん」

「お母さん? アキコの?」

「うん」

「大丈夫なの?」

「うん、もう帰っちゃったから」

「そう……」

 母がドアノブに掛けて行った紙袋は、用心の為に夕方までそのままにしておこうと思う。それに今日は念の為、外に買い物に行くのもやめておこう。

 外が暗くなって、電気を点けないと不自然な時間になってから、そっとドアを開け、ノブに掛かっている紙袋を取る。

 中には大きな乾燥ワカメが入っている。それにビニールに入った玄米と大きな夏蜜柑が二つ。

 ワカメはきっと横須賀に住んでる叔母さんから送って来た物だろう。玄米は前に実家に行った時、ご飯を炊く時に少し混ぜると良いって言ってたから、私にもやれということなのだろう。それから二つの大きな夏蜜柑。こんなの近所の八百屋に行けばいつでも買えるのに。

 それからさっき何か書いていたメモが入っている。走り書きで震えた字だった。

『亜希ちゃん。たまたま用事があって近くまで来たので寄りました。身体に気を付けてね、また連絡します』

 フォローしておいた方が良いと思い、実家に電話を入れる。

 電話に出た母に今日は朝から会社の友人と遊びに行っていたので留守だったと嘘をつく。

 そして、今度から来る時は必ず前もって連絡してから来る様にと念を押す。

 それから最後に、本当はそんなに嬉しくも無かったけど「ワカメとかありがとう」と言って電話を切る。

 母と電話で言葉を交わしている間、俊は音声を消してテレビゲームをしている。


 亜希子は思う。このアパートにいてはまた母は来るかもしれない。警察もまた聞き込みに来るかもしれない。それにあの隣りの男が私たちの話声を聞きつけて怪しむかもしれない。突然訪ねて来る友達等は思い当たらないけど、その可能性だって無いとは言い切れない。

 この生活を、俊との暮らしを誰にも邪魔されたくない。何処か誰にも見つからないところへ行って、俊と二人で暮らせたら良いのにと思う。それにはやはり、何処かへ引越すしかない。

 何よりも事件が起きた俊の家からは遠く離れた方が良いに決まっている。

 そして、母が訪ねて来るには日帰りでは来られないくらい離れたところが良い。

 それには仕事に通うのが大変になったとしても、少し都心から離れなければならないだろう。

 マンションを買う程のお金はないから、賃貸で、そしてこのアパートの様に隣の音が聞こえる様な部屋ではなく、防音がしっかりしている建物が良い。そして出来れば外からは部屋の中が見え難い様なところが良い。

「ねぇ俊。私たち、いつまでもここに住んでると、そのうち誰かに見つかっちゃうと思うのよ」

 と話を切り出すと、俊は「えっ」と心配そうに顔を向ける。

「それでね、私考えたんだけど、何処かに引っ越しちゃえば良いと思うの」

「えっ、引っ越すの? 僕も一緒に?」

「勿論よ」

 そう言うと俊は少しホッとした顔をする。

「それでね、引っ越す場所は何処が良いかって考えてるんだけど」

「うん」

「俊はどの辺が良いと思う?」

「うん……そうだね、どうせならどっか凄く遠いところで、誰にも見つけられない様なところが良いけど」

「でも私は仕事に行かなきゃならないから、ギリギリでも日本橋までは1時間半くらいで行ける所じゃないと困るのよ」

「僕はアキコと一緒なら何処でも良いけど、でも出来たら、窓から良い景色とかが見えるところがいいな」

「良い景色が見えるところ?」

 そうだ、例え何処に住もうとも、俊は家から一歩も出られないのだから、何処にあろうと関係ない。でも、せめて窓から外の開放的な世界が見られるのなら、ずっと家に篭りきりでも気持ち的に大分楽なのかもしれない。

 ラックから最近あまり使っていなかったノートパソコンを出して来て、電源を入れ、電話回線に接続してインターネットに繋げる。そして東京近郊の地図を検索して見る。

 第一の条件は、家族や知人が訪ねて来るには遠いところ。そして会社にはギリギリ通える範囲であること。

 実家のある八王子方面に隣接する埼玉県や神奈川県は除外して、考えられるのは千葉県や茨城県辺りだろうか。

 俊は窓からの景色が良いところがいいと言う。山の自然等の景観が良いところとなれば、それこそ栃木や群馬まで行かなければならないだろう。でもそこまで行くと通勤時間が掛かり過ぎてしまう。そう思うと手頃なのは千葉県かと思う。地図を見ると東京湾をぐるりと囲む様に、電車の路線が海の沿線を走っている。

 窓からの景色が良いところ……それがもし山ではなくて海だとしたら、もっと良いのではないか。

 千葉の東京湾沿岸なら、もしかしたら窓から海が見える賃貸マンションもあるかもしれない。

 俊は千葉の東京湾沿岸という考えに「それ良いよ、窓から海とか見えたら最高じゃん」と嬉しそうに笑う。

 不動産の物件を探す為に東京湾沿岸を走る電車の駅を探す。

 一番海沿いを走っているのは東京駅から出ているJRの京葉線だった。

 ディズニーランドのある舞浜駅や野球場のある海浜幕張駅等は、観光地なのであまり賃貸マンションはないのではないかと思う。

 もう少し先の駅ならどうだろう。幕張駅の先には検見川浜や稲毛海岸という駅名がある。

 不動産情報のサイトを検索して、京葉線沿線の物件を調べてみる。

 条件としては、なるべく海に近くて、今とそれ程変わらない家賃で借りられるしっかりしたマンション。

 しかしマンションともなれば、このアパートと同じくらいの家賃という訳には行かないかもしれない。

 そう思ったけど、調べてみると都心から離れているせいか、今の家賃に少し上乗せするくらいで住める物件が幾つかあった。

 でも、窓から海が見えるということは、他の建物よりも一番海沿いに建っているマンションでなければならない。

 掲載されている物件の地図を探しても、海が見えそうな場所に建っているマンションは見つからなかった。

 やはり見晴らしの良い物件は人気があって、空きが出てもすぐに入居されてしまうのかもしれない。

 窓から海は見えないかもしれないけど、なるべく海に近いところ、という範囲に広げて、掲載されている物件を検討する。

 そして、幾つかの物件に目星を付けて、明日にでもその物件を扱う不動産屋へ行ってみようということになった。

 折角の日曜日だったけど、早くした方が良いからと俊にも納得させて、明日は一人で千葉まで出掛けて行くことにする。


 日曜の朝、「頑張ってね」と少し寂しげに見送る俊を残して家を出る。

 会社へ行く時と同じ様に小田急線で代々木上原から千代田線に乗り換える。そして日比谷駅で地下鉄日比谷線に乗り換えて八丁堀まで行き、そこから幕張方面へ向かうJR京葉線に乗る。

 日曜日なので京葉線はディズニーランドへ向かう家族連れやカップルで満員だった。

 そんな中でひとり吊り革につかまって窓の外を眺めている。電車は大きな川を何度も渡り、次第に東京湾が見え始める。

 俊と一緒に来られたらいいのに……と考えていると、あの日俊がポツリと語った『お父さんみたいな医者になりたかった』という言葉が浮かんで来る。

 俊はお母さんに無理やり勉強させられていたのではなく、自分も医者になりたいと思っていたんだ……それならどうして?……その疑問が頭の中に渦巻いて来る。

 私を信じてくれているのなら俊はきっと話してくれるだろう。その時が来たら、そこからまた先のことを考えれば良い。

 ディズニーランドがある舞浜駅で殆どの乗客が降りてしまい、途端に電車の中はがらんとしてしまう。

 目的地である検見川浜駅はここからさらに7駅も先にある。次第に大きく車窓に迫って来る東京湾を眺めながら、通り過ぎて行く駅を数えて、やがて検見川浜駅に着いた。

 改札を出ると、そこは想像していた田舎じみたイメージとは違い、美しく整備された新興住宅地だった。駅前のロータリーも広々として開放感がある。むしろそれが寂しい感じもする。

 ネットで見つけた不動産屋は、駅前の繁華街にあった。

 あらかじめアポイントは取っていなかったけれど、訪ねると背広を着た温厚そうなおじさんが応対してくれた。

 目星をつけておいた物件を説明すると、案内してくれると言うので、おじさんの運転する車に乗って出発する。

 走る窓から見ていると、この辺りはまっさらな状態から区画整備して建てられた住宅地だということが分かる。整然と立ち並ぶ団地やマンション群が、駅を囲んでどこまでも続いている。

 そんな中を走り抜けて最初に連れてこられたのは、駅を挟んで海とは反対側にある、ズラリと並ぶマンション群のひとつだった。

 こんなに同じ建物が並んでいれば、誰かに俊と私がこの辺りに住んでいることが分かっても、詳しい番地を知られさえしなければ、探し出すことは出来ないだろうと思う。

 その部屋は4階で日当たりも良さそうだけど、ベランダに出ると向かいに建っている棟の同じ階の窓が良く見える。

 こちらから見えるということは、あちらからも見えるということだ。

 窓には常にカーテンを張っておくとしても、昼間ずっと家にいる俊が何かの拍子に向かいの住人から見られてしまうかもしれない。

「なかなか良いところですね、でも他の部屋も見てみたいです」

 と言って二つ目の物件へ連れて行って貰う。

 ふたつ目は更に駅から離れたところにあり、やはり鉄筋のマンションの3階で、ズラリと並んだ棟の一番外れにあった。隣の棟とはかなり角度が付いて建っているので、同じ階からでも中を覗かれる心配はなさそうだった。

 だが、ここからでは検見川浜駅を挟んで海からは大分離れてしまう。ここまで来てしまうと、京葉線の沿線というよりは少し離れたところを平行して走っている総武線の検見川駅の方が近い。

 私が難色を示すと「それじゃ次のところへ行きましょう」と三箇所目の物件へと向かう。

 検索して目星を付けておいた物件は4件ある。最低でもそれを全て見て来たいと思う。

 三件目の物件は今までの中で一番駅に近く、つまり海にも近いところにあった。近いと言っても海へ出るまでには歩いて10~20分くらいかかってしまいそうだけど。

 マンション群からは少し離れた住宅地にあり、二階建ての各階に5世帯ずつのアパートだった。

 空いていた2階のその部屋へ入って見ると、2部屋あって、今住んでいる世田谷のアパートに6畳間がもうひとつ増えた様な感じだった。

 アパートの向かいは普通の一軒家で、境には木が茂っているので、窓から見える心配は無さそうだ。ただやはり、こうしたアパートだと隣の部屋との防音が気になる。

 今までに回った3箇所の物件を思い出して考えながら、4件目の物件に向かう。

 出来れば今日中に決めて、来週の週末には引越してしまいたい。


 誰にも手の届かないところで、俊と二人で秘密に暮らしたい。

 でも考えてみれば、いくら実家から日帰りで来るには遠い場所へ引っ越したとしても、引越し先の住所を内緒にしておく訳には行かないだろう。それに会社にも。

 でもここまで引っ越して来てしまえば、母が連絡無しに突然訪ねて来ることは無いだろうと思う。職場の人間が訪ねて来ることはまず無いし、他に家を訪ねて来る様な友達もいない。

 会社にも実家にも嘘の住所を教えてしまおうか、とも考えたけど、それではむしろ後で分かってしまった時に言い訳するのが苦しくなる。

 あれこれ考えているうちに車は最後の物件に着いた。

 そこは距離的にはまた駅から離れてしまうけど、海からの距離は3件目とそれ程変わらない、5階建てのマンションの最上階だった。

 間取りは2DKで、四畳半程度のダイニングキッチンと六畳の和室、それにもう一部屋は四畳半の板の間で、その部屋は納戸の様に窓が無い。

 この部屋なら俊が隠れているのに丁度良いかもしれない。

 ダイニングと和室に面したベランダに出て見ると、向かいのマンションとの間には公園があって大分距離がある。向こうからこちらの窓を覗くとしても、望遠鏡でも無い限り人の顔も判別出来ないだろう。

 それにこの部屋を気に入った理由はもうひとつある。ベランダから見える無数のマンション群の合間から、ほんのちょっとだけれど、どうやら海の切れ端が確認出来るのだ。

「ここに決めます」

 と言うと不動産屋へ戻り、駅前にあるATMで現金を引き出す。

 家賃が七万円で契約時には一か月分の前家賃と、それぞれ2ヶ月分の敷金礼金の合計を支払わなければならないので、全部で三十五万円プラス手数料と税金が掛かる。

 来月からの契約では来週引っ越して来ることが出来ないので、家賃を日割りにして貰い、土曜日から住める様にして欲しいとお願いする。

 気の良いおじさんはこちらの希望を聞いて、その通りに契約書を作ってくれた。


 俊との新しい住まいが決まった。少し興奮しながら不動産屋を出ると、家で待っている俊に携帯で電話をかける。

 自宅の電話番号を押して発信ボタンを押す。3回目のコール音の後に留守電に切り替わり、亜希子の吹き込んだ応答メッセージが聞こえてくる。

『はい、倉田です。ただ今留守にしております。発信音の後にメッセージをお入れ下さい』

 ピー音の後に亜希子は語りかける。

「もしもし、俊、私、亜希子だよ」

 すぐにガチャッと受話器を取る音。

『もしもし……』

 と俊の声が答える。

「大丈夫? 変わったことない?」

『うん』

「今部屋決めて来たからね」

『良いところ見つかった?』

「うん、昨日見てた中のひとつだよ」

『そう、今何処から掛けてるの?』

「不動産屋のお店を出たところ」

『すぐ帰って来る?』

「うん……」

 契約が終わったらすぐに帰ろうと思っていたけれど、折角ここまで来たのだし、これから俊と住む街を少し歩いて散策して、東京湾もどんなだか見てみたいと思った。

「少し街の様子とか見て回ってから帰るから、心配しないで、待っててくれる?」

『うん、でもなるべく早くね』

「うん分かった、じゃね」


 携帯を切るとパソコンから打ち出しておいた地図を見て、海の方へ向かって大きな通りを歩く。

 季節は梅雨に入ってるんだろうか、相変わらず空は灰色の雲が覆っているけれど、まだ本格的な雨は降り出していなかった。

 車道は広く、走っている車の数も少ない。地図によると海岸沿いには緑に包まれた広い公園がある。

 歩いて行く先に、生い茂る森の様な一帯が見えて来る。あれがきっと公園なんだ。

 公園に入ると、広々とした駐車場が広がっている。でも止まっている車は一台も無い。

 森の中を縫って続く道を歩いて行く。他に人影は無い。あんまり寂しいのでもしかしたら工事か何かをやっていて、立入り禁止なのを気付かずに入って来てしまったのかな、とまで思ってしまう。

 歩いて行くと広場へ出た。滑り台やトンネル等が付いた大きな遊具の上で、小さな女の子を遊ばせている若いお母さんがいた。

 あ、やっと人がいた……と思ってホッとする。でもこんな寂しい公園で一人子供を遊ばせているその女性の姿が、何か物悲しい感じがする。今日は日曜日なのに、お父さんはいないのかな……。

 等と思いながら通り過ぎて、再び森の中の道へ入り、海の気配がする方へと歩く。風に潮の匂いが混じって来た気がする。

 やがて道に沿って左右に開けた森の間から、海の一角が青く顔を覗かせた。波の音もしてくる。

 森を抜けると海辺に沿って草の生えた堤防がある。上へ登るとその先は砂浜になっており、視界いっぱいの海だった。

 見渡す限り誰もいない……風の音だけがする。東京駅から電車で30分足らずで、こんなところがあるなんて。

 この辺りはU時型に湾曲した東京湾の一番奥まった部分なのだろう。右側には遥かに延びた陸地の上に品川辺りのビル群が見える。そして左側に延びる陸地の先には遠く石油コンビナートが建ち並ぶ工業地帯が見える。

 左右に湾曲した陸地に囲まれた先には遥かな海が広がっていて、遠く船が行き交っているのが見える。

 埋め立ての人工海岸なのだろうか、あとひと月もして夏になれば、きっと海水浴客たちで賑わうのだろうけど、シーズンオフの海というのはこんなにも寂しいものなのか。

 ここならば、俊と一緒に来られるかもしれない……。


 夕暮れが近くなって、帰りの電車に揺られながら、引越しのことを考えている。明日からは会社から帰ったら荷造りを始めなくちゃ。

 引越し屋さんはよくチラシが入っている安い業者で、軽トラック1台と運転手さん一人だけのパックを頼もう。

 だけど……私が業者さんを呼んで引越しをしている間、俊をどうしよう。



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