くちづけ
第二章 2
「それじゃ、行って来るね」
「行ってらっしゃい」
近所に聞こえない様に小声で言って、出来るだけ細く開けたドアからサッと外へ出ると、鍵を掛けてアパートを出る。そしていつもの様に会社へと向う。
いつもここで制服姿のシュンイチを垣間見ていた。そしてタバコを吸って歩くくたびれたおじさんに会い、商店街では子供を乗せたお母さんの自転車とすれ違い、駅のホームにはカッコいいキャリアOLのお姉さんがいる。
前と違うのは、ただ私の部屋にあの可愛い高校生がいるということ。そこから一歩も外へ出られずに、私の帰りを待っている。
「お早うございます」
制服に着替えるとタイムカードを押して、いつもの様にデスクに座り、パソコンを立ち上げて業務に取り掛かる。
他の社員たちもそれぞれの仕事に就く。亜希子は誰にも見られていない隙を伺って、また事件報道の画面を開く。
事件に関する報道は昨日とあまり変わっていないが、少年を取り巻く家庭環境の事が少し詳しく書かれている。
『……父親によれば殺された少年の母親は以前父親と同じ都内の大学病院の勤務医であったが、愛知県にある妻の実家は総合病院を経営するエリートの家族であり、妻はひとり息子である少年を国立大学に入れる為に厳し過ぎるくらい熱心に教育に当たっていたのだという……』
あの夜、夢に魘されていたシュンイチの言葉が思い出される『……ごめんなさい、次はきっと頑張るから……痛い……痛いよう……』。
シュンイチは痛い痛いと言って、誰かから殴られている様に自分の顔や頭を庇っていた。あれは、お母さんに叩かれていたんだろうか。幾ら教育熱心だからといって、テストの成績が落ちたことを理由に自分の子供をそんなに酷く殴ったり出来るものなんだろうか。
『……やめて、やめて下さい痛いよ、ごめんなさい、許して、お願いします……』
そしてその後豹変した。
『チクショウこの野郎ぶっ殺すぞ! お前が悪いんだぞ! ちくしょうお前のせいだ! このやろう、殺してやる、殺してやるー……』
テストの成績が落ちたことに対する母親の仕打ちが余りに酷いので、遂に頭に来て切れてしまったということなんだろうか。
私に本当の胸の内を話して欲しい。もう少し時間がかかるとしても、シュンイチの苦しみを分かってあげたいから。辛い気持ちを話してくれなければ、力になって上げることが出来ないもの。
その夜。アパートに帰宅してご飯を食べた後、亜希子はシューティングゲームをしようとシュンイチを誘い、出来るだけ楽しく盛り上がる様にしておきながら、それとなくタイミングを窺って切り出してみた。
「ねえシュン君」
「えっ?」
「覚えてる? 最初にここに来た日のこと」
「えっ? 何?」
忙しくコントローラーを操作しながら、シュンイチは画面に顔を向けたまま答える。
「私会社に行ってるから分かるんだけど、外では凄い騒ぎになってるのよ」
「何が?」
「この近所で起きた事件のことで」
「えっ……」
一瞬シュンイチの手が止まり、画面では敵の攻撃を受けてやられてしまった。
きょとんとして亜希子の顔を見ている。
「勿論ここにいれば絶対安全なんだけど、でも外では大騒ぎになってるのよ」
「えっ……」
「私はここにシュン君がいるってことは絶対誰にも言わないけど」
「……」
「でも、覚えてるでしょう? ここに来る前に、シュン君が自分の家でしてしまったこと」
「……」
「ねぇ……」
シュンイチのコントローラーを操る手が止まっている。亜希子が急に言い出したことが理解出来ないという様に、亜希子の顔を半ば呆然として見ている。
と思うとコントローラーを投げ付けた。
「うるせえなぁ……分かってんだよそんなことは!」
急に怒り出したのでビクッとして亜希子は硬直してしまい、シュンイチの顔を見る。
「アキコも知ってんだろう! 白々しいこと言ってんじゃねえよ!」
「シュン君……」
「俺がやったんだよ、そうだよ俺が殺したんだよ、母親をよぉ、俺だよ、何か文句あんのかよ!」
大声を出して立ち上がる。
「……でも、何で」
「あのババァがよ、笑ったからだよ」
「えっ? 笑ったって? どういうこと?」
「俺の成績が落ちたからってなぁ、笑いやがったんだよ!」
「えっ……なんで?」
「グズでノロマな女だったんだよー」
「恐かったんじゃないの?」
シュンイチの変貌振りに驚きながらも、亜希子は疑問に感じたことを聞き返す。
「お前だってもう知ってんだろう、ぶっ殺してやってスッキリしたよ!」
……報道では教育熱心な母親がシュンイチに対して異常に厳しく当たっていたと書いてあった。シュンイチの言う「グズでノロマな女」というのとは大分イメージが違う気がする。
「その包丁でブッ刺してやったら俺を捕まえようとして抱き付いてきた来たからよう、思いっきり刺しまくってやったんだよ。ブスッ、ブスッ、ブスーッて、あっはははははは……そしたら血だらけになって遂に手を離したから逃げて来たんだよぅ!」
このシュンイチは本当のシュンイチではない。亜希子は知っている。シュンイチは本当は大人しくて気の優しい男の子なんだ。亜希子の身体にしがみ付いて眠る顔を見ていれば分かる。シュンイチは理不尽な力に押し潰されそうになって、力尽くで歪められてしまっているんだ。
「何か文句あんのかよこの野郎っ!」
シュンイチの顔を見つめたまま、目からボロボロと涙が零れ落ちて来た。
驚いてシュンイチは大きな声を出すのを止める。
戸惑って側へ来ると、亜希子の肩に手を置いて声をかける。
「アキコ……」
拭っても拭っても流れ出る涙を滴らせながら、シクシクと亜希子は泣き続ける。
「ごめんねアキコ、もう泣かないでよ、僕はアキコのことは絶対殺したりなんかしないから、大丈夫だよ、ねぇ安心してよ」
亜希子はいつまでもしゃくり上げるだけで、まともな言葉を口にすることも出来ない。
そんな亜希子にシュンイチはどうしていいか分からなくなり、まるでコロコロと態度の変わる子供の様に優しくなって、亜希子の肩を抱いてくれる。
「ねぇどうしたの? 大丈夫だよ、もう泣かないでよ、ねぇってば、お願いだから……」
亜希子はシュンイチをギュッと抱きしめる。
「アキコ……」
戸惑って囁くシュンイチを抱きしめた亜希子は、シュンイチの唇を自分の唇で包む。
驚いたシュンイチは身をよじろうとするが、亜希子がシュンイチの唇をいつまでも包んでいると、力が抜けて亜希子にされるがままになる。
亜希子の涙がシュンイチの頬に伝って行く。テレビにはゲームの画面が点けっ放しになったまま、部屋はしんと静まっている。