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刑事の来訪

 


  第二章 1



 ニンジンとジャガイモの皮を剥いて、一口サイズに切ってフライパンで炒める。牛肉も炒めて一緒に鍋に入れ、水の量を測って茹でる。亜希子は玉ねぎがあまり好きじゃないので入れないことにする。

 カレーを作っている間、シュンイチは六畳間でテレビを見て待っている。

肉と野菜が茹で上がって、カレールウを溶かして煮込み始めると、カレーの臭いが辺りに充満して行く。

「わー美味そうだなぁ~、ねぇ早く喰いたいよ~もう出来てるんでしょ」

「待ってね、よーく煮込んだ方が美味しくなるんだから」

「うう~俺もう飢えて死んじゃいそうだよ」

 カレーを溶かした鍋をお玉でかき回していると、ふとシュンイチのお母さんもこんな風にシュンイチ君にカレーを作って上げたことがあったんだろうか、と思う。

 もし自分にもこんな子供がいたとしたら、きっといろんな料理の作り方を勉強して、毎日でも作って上げるんじゃないかと思う。

亜希子の同級生たちはもう殆どが結婚して子供もいる。皆きっとこんな生活を送っているんだろうな、夫がいて、子供がいて、せっせと作る晩御飯……。

 そんな人生が亜希子にもあったろうか、あったのかもしれない、でも自分でそれ程強くそうなりたいとも思わなかったから、ならなかったのかもしれない。かと言って今の生活がそれ程嫌だという訳でもないけれど。

 今更ながら家庭に入る暮らしってのもそんなに悪く無いのかな……と思う。

 でももう、少なくとも亜希子には子供がいるという暮らしは殆ど不可能なのだけれど。


美味い美味いと言いながらシュンイチは夢中で食べている。

 本当に私が自分のことを誰にも話さずに帰って来たと信じてるんだろうか。まぁ実際そうなんだけれど……。

 それにしてもこんな華奢な身体つきをしているのに、この食べっぷりはどうだ。若いということを思い知らされる。

 私の作ったカレーの味はどうだったんだろう。お母さんの作ってくれたのとは違うのかな……聞いてみたいけど、聞いてみることは出来ない。

 シュンイチは呆れて見ている亜希子を尻目に3杯もお代わりして、4号炊いたジャーのご飯を全部平らげてしまった。

 食べ終わった頃不意に、外で複数の足音が響いたかと思うと、ドアをノックする音が聞こえる。

 ドアを開く音がして、人の声が聞こえて来る。

「夜分にすみません。北沢署の者ですが、ちょっとお伺いしたいことがありまして……」

 ドキリとしてシュンイチと顔を見合わせる。

 その音は隣りの部屋を挟んだもう一つ向こうの部屋から聞こえて来る様だった。

「実は最近この近所で事件がありまして、この少年を探しているんですが、お心当たりはないでしょうか……」

 真青な顔をして亜希子の顔を見ていたシュンイチは、咄嗟に近くに置いてあった包丁を手にする。

 亜希子は押入れを開けて慌ただしく布団を引っ張り出すとシュンイチに言う。

「早く、中に入って」

 シュンイチは窓の方を見ながら逃げようかと迷っていたが、亜希子に従って包丁を手にしたまま押入れの中へ潜り込む。

 押入れの襖をパタンと閉めて、テーブルに乗った二つの皿をどうしようかとオロオロしていると、隣の部屋をノックして「ごめんください」と呼びかけている声が聞こえてくる。

 隣はきっといないだろうから、すぐにこの部屋へ来てしまうだろう。

 二つの皿を流しに運べば玄関から見えてしまうかと思い、テーブルの下に置く。

 その時コンコンとこの部屋のドアをノックする音が響いた。

「こんばんは、夜分にすみません」

「はい……」

 六畳間と台所を隔てるガラス戸を閉めて、玄関のドアを開く。

 二人の男が立っている。少しくたびれた感じだが、二人ともきちんと背広を着た中年で、片手に警察バッチの付いた身分証を呈示している。

「北沢署の者ですが、ちょっとお伺いしたいことがありまして」

「はぁ、な、何でしょうか……」

「実はこの近所で事件がありまして、行方不明になっているこの少年を探しているんですが」

 と亜希子に見せたのは、パスポートや免許証に貼る様な、人物が無表情に正面を向いた証明写真で、そこに写っているのは紛れも無く高校の制服を着たシュンイチの顔だった。

 未成年の犯罪はそれが殺人であったとしても、本人の顔写真がマスコミに流れることはない。でもこうした警察の聞き込みの場合には、やはり本人の写真を持って目撃者を探すのだろう。

亜希子は平静を装っているが、足のふくらはぎの後が両脚ともブルブルと震えている。

「さぁ……見たこと、無いですけど……」

 ぎこちない棒読みの返事だった。顔に血が登るのが分かる。

 刑事さんというのは人の表情や嘘を見抜くプロなのだ。きっと私の不自然な喋り方は嘘を言っていることが見え見えに違いない。 

 表情ひとつ変えずにじっと亜希子を見つめている刑事の目が、全てを察知したと言っている様に見える。

「そうですか? このすぐ近くに住んでいたんですけどね、一度も見たことありませんか」

「は、はい……」

 私は嘘を付いている。でも、今ならまだ、その少年に包丁で脅されていたので、恐ろしくて本当のことが言えませんでした。と言い訳が出来るかもしれない。

「そうですか、それじゃ今度、この少年に似てる人を見かけたらすぐにこちらへ連絡して下さい」

 と言って後にいた方の男が名刺を差し出した。名刺の肩書きには警視庁北沢署捜査一課刑事……と書かれている。

「それではご協力お願いします」

二人は帰って行った。ドアを閉めてもまだ足が震えている。

あの二人は分かってたんじゃないだろうか、私が本当のことを言えないのは、きっと中にいる犯人の少年に脅されていたからだと、そこまで見抜いて帰って行ったんじゃないだろうか、だって私の声が震えてたのが自分でも分かるもの。

 耳を澄ませ、二人の足音が完全に聞こえなくなるまで待つ。

 聞こえなくなっても暫らくドアの前でじっとしている。覗き穴から外を見てみる。誰もいない。

 六畳間に戻り、押入れに向かって「大丈夫だよ」と声を掛ける。返事が無いので襖を開く。

 真青な顔をしたシュンイチが包丁を持ったまま座っている。

「もう行っちゃったから大丈夫だよ」と無理に笑顔を作って言うと、シュンイチは包丁を手放して、そのまま亜希子の方に両手を伸ばし、抱っこをせがむ子供の様にすがり付いて来た。

 腕の力が強過ぎて息が苦しい。亜希子はシュンイチの肩越しに、放り出された包丁の鈍い光を見ている。


ザッパーン……ザザー……シュンイチが風呂に入っている音を聞きながら、亜希子は台所を片付け、明日持って行くお弁当の下ごしらえをする。

 下ごしらえと言っても冷凍保存してあるレトルトのハンバーグを解凍したり、付け合せにする野菜を刻んだりするくらいなのだが。

 この部屋の風呂に他人が入っている。隆夫がいた時を思い出して少しドキドキしている。

 シュンイチが風呂に入ると言った時、目の前で裸になられたらどうしようと思ったけど、シュンイチは下着を着たまま風呂場へ入り、細く開けたドアの隙間から脱いだ下着を放り投げて、パタンとドアを閉めた。

 シュンイチはゆっくりと入浴している。もう自分が風呂に入っている間に亜希子が外へ逃げてしまうという様なことは考えていないのだ。

さっき訪ねて来た二人の刑事がまた戻って来る気配も無い。あの刑事たちは私の言ったことを信用したのだろうか。自分ではあんなにオドオドして、嘘を言っているのがモロ分かりだと思っていたけど、聞いている側からはそれ程怪しい言動には見えなかったのだろうか。何の縁も無い私がシュンイチのことを匿っているとは思わなかったのかもしれない。

 匿う……そうだ。私は警察に嘘を付いて、犯罪者を匿った……。私にはまだシュンイチに包丁で脅されていたので仕方無く嘘を付いたという言い訳が残されているだろうか。

 それは出来るかもしれない。もしシュンイチを引き渡したら後から恨まれて仕返しされるのではないかと思って、恐かったって言えば、言い逃れをすることが出来るかもしれない。

 でも私には分かっている。私は自分の意思で刑事さんに嘘を付いた。殺人事件を起こした犯人を、自分の母親を刺して逃げている犯人を、自分の意思で匿ったんだ。


「ねぇ、出るからタオルちょうだいよ」

 と言う声に我に返り、ドアの隙間からバスタオルを渡し、ワゴンの上にTシャツと短パンを用意してあげて、六畳間に入ると仕切りの戸を閉める。

 出て来たシュンイチと入れ替わりに、亜希子は何日振りかの湯船にゆったりと浸かった。

 シュンイチ君……私のことを本当に信じてくれたのなら、本当のことを、自分の犯した事件のことを包み隠さず話して欲しい……。


 風呂から出ると、シュンイチはすっかりリラックスした様子で寝転んでテレビを見ている。刑事が自分を捜しに来たというのに、私が嘘をついてまで庇い、追い帰してくれたということで、ここにいる限り自分は安全なのだと安心しきっているのか。

 明日からはちゃんとお弁当を作って会社へ行くので、もう寝なければならないと言うと、シュンイチはテレビを消して押入れから布団を出して敷いてくれる。

 一組しかない布団を部屋の真ん中に敷く。そして昨夜までの様に隣に座布団を並べようとはしない。

 どうするのだろうと見ていると、シュンイチは敷いた布団の中に入り、少し横へずれて、私にここへ来て一緒に寝ようと言う。

 躊躇した……私は38歳。シュンイチ君は17歳。

「早く、電気消してこっちに来いよ」

「まさか一緒に寝ないと殺すって言うんじゃないでしょうね?」

 と言って笑いながら、電気を消して布団に入る。シュンイチはまるで子供みたいに亜希子の身体に手を回してすがり付いて来る。

 そうだ……子供なんだ。そう、まるで親戚の子供、私は親戚の叔母さんなんだきっと。

 シュンイチはきっと私のことをそんな風に思っているのだろう。そして今は自分を匿ってくれる唯一の味方。

とはいえ、子供と言うにはやはり身体が大きい。年齢よりも子供っぽく見えるといっても、シュンイチは高校生なのだ。もう身体だって立派に機能が発達しているに違いない。

 亜希子の身体にピッタリと寄り添うシュンイチの両脚の間に意識が行った。ちょっと盛り上がっていて、フニャッとした感じがする。気のせいか、そこだけ温かく汗ばんでいる様な感触がある。それは隆夫と別れて以来、何ヶ月か振りに感じる異性の温もりだった。

 隆夫と付き合っていた時は、今まで生きて来た中であれ程セックスに貪欲だったことはなかった。その暖かさも、激しさも、好きな男性と一体になる幸せも始めて味わった。

 亜希子にとって隆夫が始めての男性だったという訳ではないけれど、あんなに一人の相手と集中して身体を求め合ったことはなかった。

 シュンイチの感触にふと自分の身体が反応しかかっているのを感じて、はしたないと思い、そんな自分を振り払う。

シュンイチはただ亜希子の胸に顔を埋めて目を瞑っている。以前アパートの入り口で朝よく見かけていた、制服を着たシュンイチの姿が浮かんで来る。

 名門の高校に通って、真面目に勉強して。女の子のこととか、エッチなことにはまるで興味がないのだろうか。

 嫌、17歳の健康な男の子ならそんなことは無いと思う。シュンイチ君は教育熱心なお母さんの為にそんなことは我慢して、学校の勉強だけに専念する様に仕向けられていたのかもしれない。

 隆夫の家も、両親が揃って教育熱心で、隆夫は高校を出るまでデートはおろか、女の子の友達さえ一人もいなかったと言っていた。

 この子の母親は教育熱心が過ぎて、息子に自分に対する憎しみを抱かせてしまい、遂には殺されることにまでなってしまった。隆夫の両親の場合はどんなだったんだろう。

 隆夫は自分の親は大事にしていると言っていたけれど、私から見るとどこか遠慮しているというか、恐れている様なところがあった。

 交際していた5年間に、亜希子は一度も隆夫の両親と顔を会わせたことはなかった。結婚の挨拶ということにでもならない限り、会う機会も無いだろうとは思っていたけれど。結局一度も顔を会わせることなく終わってしまった。

「結婚」ということをもっと早くに考えていれば……と思わないこともないけれど、今となっては遅すぎる。

 付き合い始めた当初から、二人とも結婚は全く意識していなかった。というか私は子供が出来ない身体だということもあったので、半ば諦めてもいた。

 だから隆夫に結婚を迫ろうという気も無かったし、隆夫とも結婚について敢て話そうとはしない様にしていた。

 まだ私も30代に入ったばかりで、気楽な20代の延長の様な気持ちでいた。それに隆夫がいることで、何はなくとも余裕をこいてしまっていたのだ。

 27歳だった隆夫も、結婚はまだ先のことだと考えている様だった。

 けど心の何処かでは、いつかはきっと隆夫が結婚してくれるものと高をくくっていたのかもしれない。お互いに暗黙の絆の様な物が出来ているに違いないなんて、私だけが勝手に思い込んでいたのだ。

 隆夫は異動して間もなく川原部長の取り持ちにより、大規模建築資材部の受付け嬢で、大手の取引先の娘でもある25歳の女と交際を始めた。そして結婚したいので別れて欲しいと亜希子に言って来た。

 その入社三年目の遠藤由利子という女の顔を、以前に見かけたことがあるかもしれないけど、名前を聞いても思い出せなかった。敢て見ようとは思わなかった。だって見たってしょうがないと思うし。

 5年が過ぎて、隆夫も30歳を過ぎたのと、社の花形部署である大規模建築資材部へ異動して仕事が充実し始めて、結婚して家庭を持つということを考え始めたのかもしれない。

 隆夫にとって私は、それまでの間繋ぎだったのだ。やっぱり隆夫は子供の出来ない私とは結婚する気は無かったのだと思う。

 隆夫は私にとって自分は数ある恋愛経験のうちのひとり、くらいの位置付けだと思っていたのかもしれない。

 自分と別れたとしても、また新しい彼氏を作って新しい恋愛をして行くのだろう。くらいに思っていたのかもしれない。

 シュンイチの寝顔を見つめながら、つらつらとそんなことを思っている。



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