解放とはじまり
第一章 4
木曜日の朝になった。目が醒めるとテレビの横にあるデジタル時計は6時14分を表示している。きっと昨夜は早い時間に寝たので、それだけ早く目が覚めたのだろう。
片手に温もりを感じる。亜希子の手はまだしっかりとシュンイチの手と重ね合わされている。
見るとシュンイチも同時に目を覚ましたのか、瞼をパチパチしながら亜希子の顔を見ている。
「おはよう」と声を掛ける。
「おはよう」
「ねぇ……」
「うん?」
「相談があるんだけど……」
「なぁに?」
「あのね、私あんまり何日も仕事を休んでると、会社の人がおかしいと思って様子を見に来ちゃうかもしれないのよ」
「……」
「そうしたら、シュンイチ君のことが見つかっちゃうでしょう。だからさぁ、私、今日は普通に会社に行って帰って来るから、シュンイチ君がここにいるってことは絶対誰にも言わないで帰って来るから、今日は会社に行かせてよ」
朝になったらそう言おうと考えていた訳ではなかった。目が覚めて少し寝ぼけた目でシュンイチを見ていたら、口から自然に言葉が出て来た様な感じだった。
「だって私仕事に行かないとクビになっちゃうし、そうしたらお金が無くなって暮らして行けなくなっちゃうよ」
シュンイチは困った様な顔をして考えている。
「そのかわり私を仕事に行かせてくれたら、ず~っとここにいてもいいから」
「本当?」
「うん」
「本当にずっとここにいてもいいの?」
「うん」
「僕がここにいるってことは絶対誰にも秘密だよ?」
「うん勿論」
亜希子の言葉を信じたかに見えた。亜希子が絶対誰にも言わないと約束すると「うん、分かったよ」と答える。
シュンイチは亜希子が会社に行って来てもいいと言うのだ。
そうと決まればまずシャワーを浴びる。月曜日から3日も風呂に入っていない。髪も洗いたかったけど、乾かしている時間は無いと思い、諦める。
風呂場のドアは台所の脇にある。六畳と台所の仕切りの戸は磨りガラスなので、閉めておけば裸のまま出てもシュンイチに見られることは無いと思うけど。でもいつガラス戸を開けられるかもしれないと思い、バスタオルで身体を覆って風呂場を出ると、慌てて用意してあった衣服を着る。
顔には殴られた痕は無かったけど、手首や足首が長い間縛られていた為にまだ痣になっている。それを隠す為に手首まで隠れる長袖のブラウスを着て、足には季節にそぐわないけれど長めの靴下を履く。
簡単にお化粧をして外出用の服を着てしまうと、シュンイチの気が変わってはいけないと思い、そそくさと出掛ける支度をする。
いつもならお弁当を作って行くのだけど、会社には風邪を引いて休むと説明してあるので、今日はまだ作れなかったという方が自然だろう。それに炊飯器のセットもしていないので、お弁当にするご飯も無い。
昨夜食べきれずに残っていたふた切れのピザをレンジで温めて、シュンイチと一つずつ分けて食べる。
「冷凍食品のハンバーグとかあるから、面倒臭いかもしれないけど、お昼とかお腹が空いたらレンジで温めて食べといてね、夜は買い物して帰って来るから、何か作ってあげるからね」
忙しく温めたピザの切れ端を食べる亜希子を、シュンイチは不安そうに見つめている。
「本当にちゃんと帰って来てくれる?」
「うん、大丈夫だよ」
「本当に帰って来てよ、約束だよ」
「うん……」
亜希子の言葉を本当に信じて良いのかどうか、迷っている様子だった。
「もし誰かドアをノックする人がいても、知らんぷりしてればいいんだからね」
出来るだけシュンイチに喋る間を与えない様に、あれこれ自分で喋りながら、身支度を整えると靴を履きにかかる。
「待ってるからね。早く帰って来てね」
ドアを開け、すぐそこにある開放された空気に引かれる思いを感じながら、もう一度振り返ると、シュンイチはまるで捨てられるのが分かっている犬みたいな顔をしている。
「僕待ってるから……」
「……うん。大丈夫だよ。それじゃ、行って来るからね」
最後まで精一杯に普通を装って、部屋の外へ出る。パタンとドアを閉めると、震える手を押さえながら鍵を掛けて歩き出す。
ブロック塀の囲みを抜けて、アパートの敷地を出る。
外を歩くのは2日振りだった。まだシュンイチに殴られたり蹴られたりしたところが痛くって、よろけて歩き方が不自然になってしまうけど、亜希子はちゃんと自分の足で歩いている。
見ると眩しい程の青空に白い雲が幾つも浮かんでいる。5月の終りの清々しい空気を胸一杯に吸い込む。
「ああ、やっと外へ出られた!」
少しフラフラしながらも駅への道を歩き出す。一体この3日間は何だったのかと思う。
路地から広い道へと出る角を曲がる。途端にいつもの日常が戻って来る。
もう戻れないかもしれないと思っていた日常に、瞬時にして戻っていることが不思議でならない。全てが夢だったんだろうか。
とにかく隆夫に電話しなくちゃ。と思い、バックから携帯電話を出して登録ダイヤルから隆夫のナンバーへ発信する。
別れて以来一度も電話したことなんか無かったけれど、こんな緊急事態なのだから、隆夫もきっと電話するのも仕方がないと思ってくれるだろう。
呼び出し音が続いているが、相手が出る気配は無い、留守電にも切り替わらない。
ふと通り過ぎる角の奥に止まっているパトカーが見える。
携帯を切って駅へ向う方向を変え、角を曲がってパトカーが止まっている方へと近付く。
月曜の夜帰って来た時に沢山のパトカーが止まっていた場所だ。やっぱりここで何かあったんだ……。
パトカーには誰も乗っていない様だった。辺りを見たが、警察官の姿は無い。
ふと気が付くと、元の通りをいつもこの辺ですれ違う疲れたサラリーマン風のおじさんが、タバコを吹かしながら通って行く。
なんだか懐かしい……あのおじさんも、元気で頑張っていたのかな。
元の道へ戻り、少しフラフラしながらも、また駅へ向って歩いて行く。
この3日間の疲労が亜希子の意識を半ば朦朧とさせている。シュンイチとの約束は助かりたい一心で無意識に言ったことなのか、自分では嘘を付いたつもりもない。ただ、いつもの様に会社に行かなければならないと思っている。
信号機のある車道を渡り、農大通り商店街に入る。
いつもならこの辺で自転車に乗った……あ、来た来た。思わず微笑んでしまう。言葉を交わしたことは無いけれど、きっとお互い面識のあることは分かっている。前に取り付けた子供用の椅子に男の子を乗せて自転車を漕いで行くお母さん。
一瞬だがチラリと合った目が亜希子に向って『あら、ここ2日ばかり見なかったけど、久し振りね』と言っている「どうも、ちょっと信じられないことがありまして……」と心の中で答える。
まるで今朝までのことも、そしてこの瞬間も、まだ夢の中にいる様な気がする。駅へと向う通勤者たちの流れが徐々に増えて来る。
いつもの様にいつもの駅へ歩いてる。シュンイチ君が私のことを信じてくれたお陰で。いつもの様に電車に乗っていつもの様に会社へ行って、いつもの一日が始まるんだ……。
商店街も終りに近付き、更に通勤者たちの数も増えて来ると、自然と亜希子の足も流れに乗り遅れまいと早足になる。
駅へと続く階段を雪崩れ落ちて行く人の群れに、押し流される様に亜希子も急ぐ。
隆夫が家に泊まった次の日は、同伴出勤して、人ごみの中で離れない様に手を繋いで階段を降りたっけ……。
入り口の脇にある交番を通り過ぎ、改札へ向う階段を亜希子も早足に降り初めている。
亜希子の足はスタスタと改札を抜けて、人の群れに揉まれてホームへと上って行く。
経堂の駅は高架になっており、ホームから街並を見るとまるで高台から見下ろしている様な感覚だった。仕事を休んだのはたったの2日だったけど、この景色を見るのはずい分久し振りの様な気がする。
ホームのいつもの場所に並ぶと、いつも先に来て待っている長身のカッコ良いキャリアOL風のお姉さんがいる。7時51分発の新宿行き、いつもの時間。
いつもの混雑した電車がホームに滑り込んで来る。そこへさらにホーム一杯の人が押入って電車の中がギュウギュウになる。いつもと同じ。
でも今日は鞄にお弁当が入って無いから、気にしなくていいから楽だ。バックの中から3日前に中断していた読みかけの文庫本を出し、読もうとする。
ギュウギュウの通勤客たちの隙間から、窓の外を電車の揺れと共に街が流れて行くのが見える。
僕待ってるから……
不安そうに亜希子を見送ったシュンイチの顔が浮かんで来る。
本当にシュンイチ君は母親を刺すだなんて恐ろしいことをしたんだろうか、でもそれにはきっと何かどうしようも無い理由があったのではないだろうか。
毎日の様にテレビで報道される似たような高校生の起こした事件を見ると、どれも少年を取り巻く環境にそこまで少年を追い込む悪い原因があったことが報じられている。
シュンイチ君には何があったのか、亜希子はまだあの少年がしたことの内容をまるで知らない。
会社へ行ってインターネットで調べれば、何か事件についての情報が出ているかもしれない。
いつもの様に代々木上原駅で反対側のホームに待っている千代田線に乗り換える。そして更に表参道駅で銀座線に乗り換える。
隆夫と一緒に会社へ行った時は、乗り換えに歩く時も手を繋いで、周りの人に仲の良い同伴出勤を見せ付けてるみたいな気がしてた。
通勤ラッシュも好きな人と一緒だとあんなに楽しかったのに、一人でいるとこんなにも苦痛だなんて。
無言のままゾロゾロと急ぎ足に歩く牛の群れの様な群集に紛れながら、いつもの煩わしい乗り換えを繰り返す。そうしていると自分の存在の気薄さが一層感じられて、惨めになって来る。
日本橋駅に着いて8時31分。いつもと数分の誤差もなく、いつも通りの出口を出て、ビルの建ち並ぶオフィス街を歩き、会社へ向う。
亜希子の勤める会社は北田建築資材販売株式会社と言い、日本で有数の大手商社である北田商事の系列会社であり、主に鉄鋼系の建築資材や特種建材を扱っている。
その中で亜希子の勤めている部署は住宅建築資材部、略して住健部と言って、文字通り個人住宅用の建築資材を扱っている部署だ。
自分のオフィスのあるビルへと向いながら、ふと角の向こうにある別のオフィスビルを見上げる。そのビルには大規模建築資材部(大建部)があって、隆夫がそこに勤めている。
住建部の入っているビルはもうかなり古い建物だが、大建部のあるそのビルは、まだピカピカで新しく、ずっと大きい。亜希子のいるビルとはほんの数十メートルしか離れていないのに、この距離が隆夫との間を隔てるきっかけになってしまった。
去年の秋に隆夫は社の花形部門である大建部へ異動になった。
大建部は住建部が扱う個人住宅とは比較にならない規模の大きな、体育館とか公会堂の様な、国からの受注を受けて建設する巨大な建築物の事業に携わっている。北田建築資材販売株式会社の主軸を成す部署だ。
そこに異動になったということは、今後の出世を約束されたということであり、教育熱心だった隆夫の両親にしてみれば、きっと息子の優秀さが認められたと喜んでいるだろう。
だけど、会社人間としての隆夫をここまで育てたのは私なのよ。と亜希子は言いたい。
隆夫が住建部にいた間に、社内での裏の人間関係から取り引き業者たちとの利権が絡む本音と建て前まで、あれこれ教えてあげたのは私なのだ。隆夫は仕事のことから私生活に至るまで私に甘えて、頼りにしていた。
そして真面目だけが取柄と言う感じで大人しい性格だったのが、私と付き合う様になってから、徐々に自信を持つ様になった。
異動してからの隆夫は更にエリート意識に目覚めて、年上で常にリードしているつもりだった亜希子への態度も偉そうなことを言う様になった。でもそれは隆夫が逞しく成長しているということなので、亜希子にしてみれば嬉しく、また頼もしく眺めていた。
花形部門でバリバリ仕事をこなせる様になれば、隆夫はもっと成長して行くだろう。課長、部長と出世して行く隆夫を、亜希子は見たいと思う。
だが実は今回の異動は隆夫の能力が評価されたと言うよりは、大建部の川原部長が、自分と同じ大学の後輩である隆夫を加えることで、自分の派閥を広げるのが目的だったのだろう。というのが社内の風評だった。
勤勉で真面目な隆夫は決して上司に逆らったりしないから、川原部長としては派閥に加えるのに適していると考えたのだろう。
でもそんな噂なんてどうだって良い。これから隆夫が頑張って、誰からも文句なく認められる様な結果を出して行けば良いのだから。頑張って欲しい……。
そんなことを思いながら、亜希子は隆夫の勤めるビルに向かって歩いて行く社員たちの姿を見ている。
ここで出社して来る隆夫に会えないだろうか……バックからもう一度携帯を出して隆夫のナンバーへ発信する。
この月曜からの三日間の出来事を、隆夫に聞いて欲しい。シュンイチ君には誰にも言わないって言ったけど、どうしても隆夫にだけは聞いて欲しい。私がどんな目にあったのか、どんなに恐かったのか……。そして、相談に乗って欲しい。これから私はどうしたらいいのかを。
呼び出し音が続いているけれど繋がらない。ああ、どうして出てくれないんだろう。
隆夫の姿も見つからない。似ている体格の人を見つける度にアッと思うけど、よく見るとどの人も違う。
「あら倉田さん、お早う~今日は大丈夫なの?」
後ろから声を掛けられてビクッとして振り返ると、出社して来た小石さんだった。
「あ、どうも、お早うございます。どうもすみませんでした。ご迷惑お掛けしちゃって」
と言いながら携帯を切ってバックに戻し、さり気なく住建部のあるビルの方へ歩き出す。
「心配したわよ、倉田さんが風邪で2日も休むなんてこと一度も無かったからね、何か大事にならなきゃ良いって皆で言ってたのよ」
「はぁ、どうも、すいませんでした。月末なのに休んでしまって」
私がここで立ち止まって何をしてたのか突っ込まれたらどうしようと思ったけど、小石さんは何も言わない。でも内心では私が隆夫を探してたことを察しているのかもしれない。
適当に会話を交わしながら、住建部のあるオフィスビルの入り口へと向かう。
住建部はそのビルの6階にある。社員は全部で31人。今ではそのうちの半数が若い派遣社員で占められている。派遣社員なんて制度の無かった頃は年配の男性社員が殆どだったのに、リストラと言う言葉が流行り始めてから、正社員の数はどんどん減って行った。
亜希子もそのうち辞めさせられるのではないかと恐れを抱いていたけれど、年功と共に給料が上がって行く男性社員とは違い、いつまでも低賃金で小間使いの様な仕事をする女子社員は、リストラの相手にすらされていないらしかった。
亜希子は入社17年目のベテランだけど、ベテランと言ってもしている仕事は殆ど一日中パソコンの画面に向ってキーを打つだけ。
注文書の打ち込み~発送の手配~伝票起こし~請求書の発行~という、言わば画面上の流れ作業をしているだけだ。
男性の正社員は建築家の設計プランから関わって家を建てる為の資材を選択し、工事現場にも立ち合って、完成まで見届ける。
女子の仕事はパソコン上の流通を担うだけなので、商品の流れは分かっていても、現物を目にすることは無いので具体的な仕事をしている実感は無い。
サイディング(外装資材)床板・壁・天井板。それにシステムバスやキッチン等の設備も扱っているが、変わった名前の付いた鉄のパイプやボルト等、画面上で品名を知ってはいても、何に使っているのかも分からない物もある。
支払いや請求の締め日が迫る月末は忙しいけれど、あとは大体同じ様な一日が過ぎる。
亜希子がやっている様な仕事は、若い派遣社員でも要領を覚えれば容易にこなせるだろう。
むしろ若い人の方がずっと迅速に処理出来るのではないか。会社がそんな考えになれば自分も辞めさせられるのではないかと思い、亜希子は事務的な仕事以外にも、お茶汲みから雑用までどんなことでも文句を言わずにこなした。そうして少しでも会社にとって自分は必要な人材なのだということをアピールする様に心がけている。
職場での亜希子には静かで物分りのいい人……というイメージが定着している。若い人みたいに希望とか野心を抱いても、もう何も無いのだから、これからは大人しく、ただ安定した生活の為に、嫌なことがあっても我慢して、目立たぬ様に、でも与えられた仕事はちゃんとこなせる人として、ここにいさせて貰うようにしよう。
それより他に生きて行く方法は無いのだから、と自分なりに割り切ってやって来た結果が、亜希子に対して周りが感じているそうした印象なのだろうと思う。
コレが私の人生なんだ……小さい頃夢見ていた。コレが私の将来なんだ。特に何になりたいとか具体的な夢を抱いていた訳ではない、だからいけなかったのかもしれないけど。けどきっと将来には何か待っている様な気がしてた、何の根拠もなく期待していた。
そして今では何の資格も特技も無い、パソコンを叩く以外何も出来ないただのオバサンになってしまった。
ある日私がいなくなったとしても、代わりの人は幾らでもいる。この会社にいる限り生活は安定していても、これ以上出世することも給料が上がることも無い。
エレベーターで6階のフロアーへ到着するとロッカールームへ入り、制服に着替える為に自分のロッカーを開く。小石さんのロッカーは奥の方にある。
「本当にどうもすいませんでした。月末なのに休んでしまって」
「いいのよそんなことは、それよりもうすっかり大丈夫なの?」
「はい、お蔭さまで、只の風邪でしたので」
「今日は大事にしてなさいよ、もし具合が悪くなったらすぐ言ってね」
「はい、ありがとうございます」
小石さんは私のことを思い遣ってくれている様だけど、本当は普段あまり会話の弾まない私が愛想良く言葉を返すことが嬉しいのか、ちょっと楽しそうな感じがする。
私としては忙しい時期に二日も休んでしまった後ろめたさもあったし、また仮病がバレてはいけないと思ったので、あまり媚び過ぎない様にと気を付けながらも、なるべく愛想良くしていなくちゃと思う。
「あら? あれっ、何よそれ! どうしたの?」
スカートを脱いだ私を見て、急に小石さんが大きな声を上げる。
何だろうと思って自分の身体を見ると、ブラウスとパンツの間から覗いた腰の脇に、大きく紫色の痣が出来ている。俊一に蹴られた時のものだ。アッと思って慌てて隠す。
「あ、コレ家でちょっと、転んじゃって、フラフラしてたもんだから」
「本当? ぶつけたの? まぁ~酷いじゃないのそれ、誰かに殴られたみたいじゃないの」
ドキリとする。
「あの、大丈夫ですから」
「ダメよこれ、湿布でもしとかなきゃ、ちょっと救急箱持ってくるわよ」
「あの、ホントに、大丈夫ですから、もうホントに……」
と小石さんの手を振り退けて、そそくさと着替えを終えてロッカールームを出る。
タイムカードを押してオフィスへ入る。
「お早うございます~」と努めて明るい調子で言いながら、自分のデスクに向かう。
隣の席の淵松絵美子さんが、朝食の菓子パンをコンビニの袋から出して食べているところだった。
「あら倉田さん大丈夫~?」と口をモグモグさせながら言う。
「はい、すいませんでした。今日は大丈夫ですので……」
と答えながら自分のデスクに置かれているメモや届けられている書類を確認する。
その中に宛名も差出人も書かれていない封筒が混じっているのに気が付いた。中に何か入っているのか、少し膨らんでいる。
蓋も貼られていないので中を見ると、鍵が一本入っている。
ハッと思って絵美子さんに見られない様に気を付けながら、そっと掌に出してみる。
それは亜希子のアパートの合鍵だった。隆夫が持っていた筈の……。
私が休んでいたこの二日間のうちのどちらかに隆夫が訪ねて来て、ここの誰かに言付けて行ったんだろうか。
でもこれを渡された人は私と隆夫との事情を知っているから、気を遣ってさり気無く他の郵便物と一緒にしておいてくれたのだろうか。
ショックを感じながら鍵をポケットに入れると、何も気にしていない様にパソコンを立ち上げる。
休んでいた間に来たメールと、建設会社や工務店からの注文をチェックするのだが、気持ちが動揺してるせいで、なかなか頭に入って来ない。
隆夫が来たのなら、私が風邪で休んでいることも伝わっていたのではないか……。
「倉田さん、お早うございます」
振り向くと課長の牧が間近に立っている。
「大丈夫? 心配したけど、ああ、顔色良さそうだね」
と顔を近づけて来るのを我慢しながら「はい、もう大丈夫ですので」と引きつる微笑みを浮かべて答える。
牧は何気なく亜希子の座っている椅子に手を掛けながらパソコンを見る。椅子に置かれた牧の手に身体が触れるのが嫌だ。
「注文見といたけど急ぎの納期の物は無かったから、まぁボチボチやってよ、良かったら何か栄養のある物でも御馳走するからね」
「はぁ……」結構です! と言いたいけど口には出さない。
仕事を始めると他の社員たちもザワザワし始めて、以前と同じオフィスの日常が戻って来る。そう、これが私の日常なんだ。まるで何事も無かった様だ。
それはそうだ。何かあったのは私だけで、ここでは何事も無かったのだから。ほんの2日間私が風邪で休んだことなんて、会社からみればほんの一粒のチリが落ちたくらいのことでしかない。
モニターを見て溜まった受注を処理しているフリをしながら、密かにインターネットに接続して新聞社の報道サイトを立ち上げて見る。
幾つか掲示されている事件の中からすぐにその見出しが目に飛び込んで来る。
『世田谷区で起きた高校生の母親刺殺事件』
……刺殺!
記事の内容を読む……
『世田谷区で高校二年生の少年が母親を包丁で刺して逃亡するという事件が起きた。少年の行方は未だに分かっておらず、警察による捜索が続いている。事件は26日の夜父親が帰宅したところ、妻が室内で血を流して倒れているのを発見。直ちに通報し、病院へ運ばれたが、母親は昨日病院で死亡が確認された……』
26日の夜……やっぱり月曜日だ。その画面には記事と一緒に事件のあった家の写真が載せられている。詳しい住所は伏せられているけれど、その家は亜希子のアパートの近くの、今朝もパトカーが止まっていたあの家に間違いない。
両脚から小刻みに震えが上がってくる。殺人……母親を刺殺……サイトに踊る文字が改めて恐ろしい事実を突き付けて来る。
そうだ。あの子は人殺しなんだ。あんな可愛い顔をしていても、あの子が人を殺したということは事実なんだ。しかも自分の母親を。私だって約束を守って帰らないと、裏切られたと思って恨んで殺そうとするんじゃないだろうか……。
最初の夜、正体の分からなかったシュンイチに縛られて、殴られたり蹴られたりした時の恐怖が蘇ってくる。
自分のお母さんを殺すなんて、一体何があったというんだろう。警察は父親から詳しい事情を聞いているという……。
事件に関する記載はそれだけだった。事件が起きた時に実際にどんなことがあったのかまでは書かれていない。
被害者は意識が戻らないまま亡くなってしまったし、目撃者もいないので、事件が起きた時の状況は誰にも分からないということなのだろう。逃亡中である少年が見つからない限り……。
刺されたお母さんは昨日病院で亡くなったと書いてある。昨日亡くなったということは、昨日までは生きていたということなんだろうか。昨日シュンイチがテレビで何かの報道を見て暗く落ち込んだ表情になっていたことが思い出される。アレはきっとお母さんが息を引き取ったことを知って、ショックを受けていたんじゃないだろうか。
昼休みになった。今日はお弁当が無いので外に買いに出る。コンビニでふたつ入りのオニギリと、カップにお湯を注ぐだけの味噌汁を買って来る。
会議室に行くと、他の社員たちがそれぞれ自前の弁当や買って来た物を食べている。いつも通りの風景を見ていると、月曜の夜からの出来事が本当に夢だったのではないかという気がしてくる。
今日家へ帰ったら、シュンイチ君はいなくて、割れたガラスも元に戻っているかもしれない。そもそも何も無かったのだと言われても、ああやっぱり夢だったのかと納得出来そうな気がする。
何処に座って食べようかと見回すと、他の人たちとは少し離れて、例の派遣の安高君と木村由さんが仲良く一緒に食べている。
……なんだ。安高君ったら『僕が正社員じゃないせいで相手にされない』なんて言ってた癖に、結局は上手く行ってるのかな……。
等と思いながら見ていると、後から入って来た小石さんが私を見て、近くに来たそうな感じだったので、そそくさと奥の窓際に行って、角の椅子に座る。
誰にも話しかけられたくない。仲好さそうに食べている安高君と木村さんを少しやっかむ様な気分になりながら、そ知らぬ顔をしてオニギリを食べる。
さっき買い物に出た時、もう一度隆夫に電話してみようと思っていたのだけれど、結局電話しなかった。封筒に入っていた鍵のことが気になっている……。
宛名も差出人も、何も書かれていなかった封筒。ただ鍵だけが入っていて、メモも付箋も貼られていなかった……。
近くの席で絵美子さんが、既に食べ終わったコンビニ弁当の残骸をテーブルに並べたまま、食後の肉マンを頬張って週刊誌のグラビアを見ている。
「倉田さん、昨日行って来たのよ東京ドームのコンサート、やっぱり光一最高だったわ、私デビューした時からずっと目を付けてたのよ、この子はきっと大きくなるってね」
「そうですか、凄いですね」
気を付けたつもりだったけど、ちょっと突き放す様な口調になってしまった。
絵美子さんはちょっと私の顔を見ると、また週刊誌に目を落として、話し掛けて来なくなった。
よく「女の腐ったの」って言い方をする。私は腐るもんか、って思うけど。どんな果物でも食べずに時が経てばやがて熟れ過ぎて、腐ってしまう様に、女だって生ものだから、何処かで腐って行くのかもしれない。
隆夫は今33歳。男の33歳はまだこれから頑張って社会的地位を築いて行く歳だけど、独身で社会的地位もない女の38歳は厳しい状況に追い込まれてる。
でも私は捨てられたのだとしても、隆夫を恨む気持なんかない。だって本当に貴方を愛していたんだもの。私を踏み付けにするなら喜んで踏み台になる、あの気の弱かった隆夫が強くなって、花形部門でバリバリ活躍して行くことの方が私にはずっと嬉しい。そして自分に悔いの無い人生を過ごして行って欲しいと思う。
そんなこと口に出して言えば、きっと負け惜しみに聞こえるだろうから言わないけど。私は本当にそう思ってる。そうとでも思わなければ自分が救われないからかもしれないけど、私はそんなことはないと信じてる。
だってそれが本当の私なんだもの、きっと……。
ふと窓の外を見ると、連なるビルに挟まれた大通りを自動車や人々が絶え間なく行き交っている。遠く車道に交差した線路の上を電車が走ってる。あれにも大勢の人が乗っていて、それぞれに抱えた問題とか、恋愛とか、いろんなことを思っているんだろうな……。
見るともなく見ているうちに気が付くと、隆夫のいる大建部のあるピカピカのビルに目を止めている。
思えばお母さんも、酔っ払って荒れたり、会社で嫌なことがあるとウジウジいじけてたりするお父さんのことを、いつも支えて上げて、頑張るべき時には叱咤してお尻を叩いてあげていた。だから家ではあんなに頼りなかったお父さんでも、立派に地方銀行の副支店長と言う役職を務めることが出来たんだ。そんなお母さんのDNAが、私にも受け継がれてるんだきっと。
そんなことをとりとめも無く考えているうちに、お昼の時間が終り、皆が仕事に戻り始める。
亜希子もゴミを片付けて席を立とうとしていると、タイミングを見計らった様に小石さんが側へ寄って来る。
「ねぇ倉田さん」
「はい」
「具合はどう?」
「はい、大丈夫ですので、ありがとうございます」
良い人なのだけれど、何かと訳知り顔で近付いて来ようとするところに、少しイラッとした感情を抱いてしまう。
「あ、そうそう昨日浜下君が大建部から来てね、倉田さんにって言付かった封筒置いといたんだけど」
「はい、受け取りました」
「そう」
「どうもすいませんでした」
まだ何か言いたそうに見ている小石さんを振り切って行こうとするが、ふと亜希子は振り返る。
「あの、小石さん」
「えっ? なあに?」
「あの、浜下君は、いきなり訪ねて来て封筒を渡して行ったんですか?」
「えっ? ああ……」
小石さんはちょと考える表情を浮かべる。
「いぇね、最初に電話があってね、それは業務連絡だったんだけど、その時貴方が珍しく風邪で休んでるって話をしたのよ、そしたら、その後しばらくしてから来て、あの封筒を倉田さんに渡して下さいって預けて行ったの」
「そうですか、ありがとうございました」
小石さんを残して会議室を出る。
隆夫は私が風邪で会社を休んでいることを知っていて、鍵を返しに来たんだ。
隆夫は見舞いに来てくれなかったし、電話もしてくれなかった……。
でもそんなこと当たり前じゃないか。別れた男に私は何を望んでいるというのだろう。
そうだ、隆夫には若いフィアンセがいるんだから、風邪を引いて休んでるからといって、前に付き合ってた女に連絡を取るなんてことをする訳が無い。
隆夫ったら私と付き合ってた頃はあんなに頼りなかったのに、栄転して少しは大人のルールもわきまえられる様になったのね……。
午後になった。溜まっていた受注品の発注と、業者へ発送する請求書の準備も大方追いついて、少し落ち着いてお茶を飲む余裕も出来た。
まるで何事も無かった様に以前と変わらない一日が過ぎて行く。それに連れて亜希子の頭の中も冷静に考えることが出来る様になって来ている。
誰にも言わないと約束したからシュンイチ君は私を会社へ行かせてくれた。
でも、隆夫にだけは話そうと思った……。どうしたらいい? 私が警察に連絡すれば、家に来てシュンイチ君を逮捕してくれるだろう。
シュンイチは本当に私が誰にも言わずに帰って来るなんて信じているんだろうか。もう今頃はアパートを出て何処かへ逃げて行ってしまっているのかもしれない。
でも……もし本当に待っていたら、もし本当に約束通りシュンイチ君が私の帰りを待っていて、そこへ警察官を連れた私が帰って来たりしたら、シュンイチは私に何て言うだろう。
「信じて待ってたのに! 裏切ったな、裏切り者!」
警察官たちが私の部屋に土足のまま雪崩れ込んで、泣き喚くシュンイチを羽交い絞めにして引き摺り出して行くんだろうか。
「信じてたのに! 信じてたのに!」
お母さんを刺してしまうなんて、何か余程の事情があったのかもしれない、誰にも相談出来ずに悩んでいたのかもしれない、それが私のことをうっかり信じてしまったばっかりに、捕まることになってしまったら、裏切られたと思ったら……私のことを恨んで、それこそもう誰のことも信じることが出来ない人間になってしまうのではないだろうか。
未成年の犯した犯罪というのは、例え殺人であっても普通の刑務所には入らずに、少年院と言うところに入れられる筈だ。
少年院では刑務所の様にただ閉じ込めて労働させるというのではなく、社会に更生出来る様に専属の教官がついて教育するのだと聞いたことがある。
後から恨まれたらと思うと恐いけど、でもあの子をこのまま私の家にいさせてあげたとしても、私なんかに何がしてやれるっていうんだ。そうだ、警察の人に頼んで少年院に入れて貰って、社会に更生出来る様にして貰った方がずっと本人の為になるに違いない。
でも……もし本当に私のことを信じて待っているのだとしたら。あの部屋に警官が駆け込んで来て、泣き喚くシュンイチを乱暴に引き連れて行く様を見るのは嫌な気がする。
そりゃ身動きも出来ない程ギュウギュに縛られて、あんなに酷く殴られて、痣になる程蹴飛ばされたりもしたけれど、亜希子の手を握ったまま『魘されてたら起こしてよ……』と言って目を閉じたシュンイチの顔が思い出される。
5時になり、周りもそわそわし始めて、仕事を切り上げて帰る算段をし始める。亜希子はパソコンでもう一度事件について報じられているサイトを開いて見る。
事件の続報が入っている。それは殺された母親の夫、つまりシュンイチの父親の証言だった。
『……殺された母親は普段から少年の教育に厳し過ぎる程熱心に当たっており。少しでも成績が落ちると酷い折檻をしていたという。
事件の起きた日は少年の通う高校で父母会があり、一学期の中間テストの成績表が父母たちに渡された。父親は母親が学校から渡されたテストの成績について、帰宅してから少年との間で諍いがあったのではないかと証言している。父親は大学病院に勤める内科医であり、母親も元は同病院に勤める医師であった……』
教育熱心が高じて? シュンイチ君のお母さんは自分を殺す程に子供に憎しみを抱かせてしまったというのだろうか……何という悲劇だろう。
「倉田さん。どう調子は?」
ハッとして画面を切り換える。牧課長が笑顔を向けて後から話し掛けている。
「はい、大丈夫です」
「そう……」
牧はちょっと周りを気にする様に見回してから、小さな声で話しかける。
「それじゃどう、病み上がりになにか栄養付けて、元気になる為だったら俺喜んで御馳走するからさ」
「はぁ」
「元々完全に健康な身体じゃないだろう。少し精付けた方が良いと思うよ」
「すいません。でも今日は、やっぱり真っ直ぐ帰って、大人しくしてた方が良いと思いますので……」
と言い、なるべく屈託の無いように笑顔を浮かべる。
「そう、それじゃもう少し様子を見てからだね、どっちにしても身体を一番に大切にしなきゃね」
聞いてるこっちが恥かしくなる様な優しい言葉を振り撒いて、今日は諦めたのか離れて行った。
牧の言葉が引っ掛かっている「完全に健康な身体じゃないだろう……」。
12年前に府中駅で倒れた時の件で、私が子供の出来ない身体になっていることを牧課長は知っている。
さり気無く私の身体を気遣ったつもりなのだろうけど、その一言で自分でも気にしていなかったことを穿り返されて、どれだけ感情を乱されているのかを、あの人には分かる筈も無いのだろう。
定時の5分前になったので、パソコンを切り、デスクの上を片付けて、帰りの支度をする。
5時半にチャイムが鳴るとロッカールームへと急ぐ。
制服のポケットに入れたままになっていた合鍵を出して、バックへ入れる。
私が風邪で休んでいることを知って、それから鍵を返しに来た。私と顔を合わせずに、鍵を返せる良い機会だったから……。
隆夫が亜希子に別れ話を持ち出して来た時、隆夫はポロポロ涙を流して泣いた。
「ごめんね、でも僕、あの子のことが凄く好きになっちゃったんだよ」それでも32歳の男か! と思ってしまったけど、それが隆夫なのだった。
隆夫の涙はきっと、私に対して悪いと言うよりは、そんな悲劇の状況に陥ってしまった自分に酔っている様に見えた。
「あの子は弱いから、僕が守ってやらなくちゃダメなんだよ」その言葉「守ってあげたい」は私が付き合い始めた頃隆夫に対して持っていた感情だった。
あの頼りなくて可愛かった隆夫が年下の女と付き合うことが出来るなんて思えない。しかも7歳も年下だなんて。私が面倒を看てあげなきゃ何も出来なかった癖に……。
ひとしきり涙の別れ話を快く? 受け入れてあげた後、私は何の気なしのフリをして聞いてみた「何で私じゃダメだったんだろうねぇ~」って、そうしたら隆夫はこう言った「亜希子は何を言っても優しいだけで、張り合いが無いんだよ」って。私にその優しさを求めたのは貴方じゃなかったのか!。
そっちにとっては他に好きな人が出来たから終わらせれば良いということなのかもしれないけど、私にはまた他に好きな人を探せば良いという程余裕は無い。何も考えずにそんな言葉を口にする隆夫が許せなかった。
あの時惨めに「捨てないで」と形振り構わず縋り付いていれば……と思わないこともないけれど、そうなればもっと悲惨な別れ方をして傷ついたと思う。けどあれで本当に良かったのか、私はプライドを捨てることが出来なかったのか……。
いつもの様にそそくさとビルを出て、いつもの様に夕暮れの中を、帰宅を急ぐ他の会社員たちと共に駅へ向う。
日本橋駅から地下鉄銀座線に乗り、表参道駅で千代田線に乗り換える。そして代々木上原駅からは地上へ出て、小田急線で経堂へ向う。
電車の窓の闇の中に家の灯りがぽつぽつと浮かぶのを見つめていたら、ふとそこに他の乗客に紛れて自分の顔が映っているのに気が付いた。
近頃は鏡を見ると愕然としてしまう。もう一生取れない染みや皺がどんどん増えて行く、顔全体が徐々にだけれど確実に枯れて萎びて行っているのが分かる。もうここから若返ることは無いんだ。コレがもっと進行して行くだけなんだ。40歳を前にした女にはもう後が無い。隆夫にはこんな私の心を思いやる余裕はきっと微塵も無いのだろうと思う。
いつもの様に帰って来た。まるで何事も無かった様に……。
これで家に帰った時、誰もいなくなっていれば、もう本当に何の変哲もない、いつもの日常だ。もしかして割れたガラスも元通りになってたりして……。
そしたら私は思うだろう。あの出来事は幻だったのだろうって、そして何の問題もなく、また寸分違わぬ生活に戻るのだ。ひとりぼっちの詰まらない、取るに足りない人生に。
つらつらと思いながら、駅を出た亜希子はいつもの様に商店街を回って買い物をする。
えっと、今日はカレーを作るから、ニンジンと、ジャガイモと……お肉は奮発して牛肉にするかな、あの子はいっぱい食べるから300グラムくらい買っていこうかな。
一緒に食べるサラダのことも考えて、レタスやトマトまで買ったので、いつになく両手に提げた買い物袋が膨らんで重くなる。
商店街を抜けて信号を渡り、アパートへと続く住宅街を歩く……。
駅前にある交番はまるで存在しなかったかの様に、亜希子の視界に入らなかった。
一体何をしてるんだろう。あの子との約束を守って、二人分のカレーの材料を買って帰ろうとしている。
本当にあの子の為を思うなら、警察に捕まって少年院に入り、犯してしまった罪を反省して、更生出来る様に指導して貰う方が良いに決まってるじゃないか。
……だけど、その為に私があの子に恨まれてしまったらと思うと恐い。いや私の気持ちはそれだけではないという気もする。
出来ることなら私に話して欲しい。どうしてお母さんを刺してしまったのかを。
教育熱心だったというお母さんは、本当にそんなに酷いお母さんだったのだろうか。シュンイチ君は本当はどんな気持ちでいたのか。刺してしまったお母さんのことを今はどう思ってるのか、私を信じてくれたのなら、本当のことを話して欲しい。
そして私はこれからの彼の為に、自分から罪を反省して警察に出頭して行ける様に諭して、勇気付けてあげたい。そしたら私は一緒に警察署まで付き添って行ってあげる。
建ち並ぶ高級住宅地の中を歩いて、もうすぐアパートに着いてしまう。
でもきっと、もうあの少年はいないかもしれない。幾らなんでも、あんなに酷いことをされた私が、本当に約束を守って誰にも言わずに帰って来るなんて、本気で信じているとは思えない。いくら17歳の高校生といったって、そこまでバカじゃないんじゃないだろうか。
もし本当に部屋からいなくなっていたら、それならそれで、私は約束を破らなかったし、また普通に元の生活に戻れるだけなんだ。
いよいよアパートに続く路地に近付くと、まだ同じ場所にパトカーが止まっている。
もしかしたらシュンイチ君はもう捕まって連行されてしまってるんじゃないか……。
心配になって自然と急ぎ足になり、狭い路地を抜けて、ブロック塀に囲まれたアパートの敷地に入る。
部屋の電気は点いてない。誰か訪ねて来た時の用心に消してるんだろうか、ノブをひねると鍵は掛かったままだ。
鍵を開けて中へ入る「ただいま」と声をかけてみる。暗い六畳間から返事は返って来ない。
台所の床に買い物袋を置いて、六畳間に入って電気を点ける。
パチパチッと明滅して部屋が明るくなる。
部屋の隅に敷かれた座布団の上で、蹲る様にして寝ているシュンイチがいる。
本当に待ってた……。
気がついたシュンイチは眩しそうに目を開ける。
「もう~遅かったじゃんかよ、お腹空いて死にそうだったんだからな」
「ごめんごめん、今急いで作るから」
手を洗って部屋着に着替えた亜希子は、急いで夕食の準備に取り掛かった。