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少年の笑顔

第一章 3



「お早う、ねぇお早うってば……」

 翌朝亜希子はシュンイチに肩を揺すられて目を覚ました。

 また魘されてたら自分を起こせと言うシュンイチの寝顔を見つめながら、ついウトウトと寝に入ってしまったのだ。

 カーテンの外はすっかり明るくなっている。

「あ、おはよう……」

 寝てしまったことを責められるのではないかと思ったけど、シュンイチはもう昨夜のことなど頭に無い様だった。

 ボサボサになった頭を気にしながら、亜希子も起きる。

「ねぇ、おしっこしたいんだから、早くこっちに来いよ」

 とシュンイチは二人の足首を結んでいる紐をピンと張らせて、亜希子の足を引っ張る。右手には包丁を持っている。

「あ、はい」

 見るとシュンイチの履いているスウェットの股間の辺りに、ひとつピンと内側から突き出している部分があるのが分かる。

 ふと目のやり場に困りながら亜希子は立ち上がって、シュンイチに引かれるままにトイレの前まで行き、小便をしている間ドアの前で待っている。

 そのまま入れ替わりに亜希子が入り、シュンイチはビニール紐を挟んだドアの向こうに立って、亜希子が用を足すのを待っている。

「なぁ、お腹空いたよ、何か作れよ」

「うん分かった。でも、その前にお願い、私洋服を着替えたいんだけど」

「分かったよ」

 着替えを持ってトイレの中で着替える。足の紐は外して貰ったが、シュンイチはドアの外で包丁を手にしたまま亜希子に不審な様子がないか伺っている。

 着替える服を考えた時、逃げ出すことを考えてジーパンに上は長袖のシャツの様な、そのまま外に出られる物を選ぼうかと思ったが、そんな服を着て逃げるつもりではないかと勘ぐられてはいけないと思い、逆にいかにも部屋着と言う感じの、そのままパジャマ代わりになりそうなトレーナーに下はタオル地のスウェットを選ぶ。

 着替え終わると着ていた物を丸めて洗濯籠に押し込み、また身体を結んでおいて、とシュンイチにいう。

「分かった」

 と言うとシュンイチは亜希子の腰にビニール紐を何重にも回して結び、その紐の端を自分の左手に結び付ける。

 朝食を用意しようと思ったが、その前にしなければならないことがある。

「ねぇ、今日も会社にお休みするって電話しといた方が良いと思うんだけど」

 と自分から言う。

「分かった。じゃ早くしろよ」

 電話のところに行って受話器を取り、会社の番号をダイヤルする。

 こうして少しでも自分のペースで事が決められる様になることは、とても良い兆しの様に思える。

 だがシュンイチはすぐ側へ来て受話器を持つ亜希子の喉元に包丁を突き付ける。

「何か余計なこと言ったら殺すからな」

「はい……」

 やっぱりまだ信用されてる訳じゃないんだ……。

 数回の呼び出し音の後、相手が受話器を取る音がして『もしもし』と昨日と同じ小石さんの声がする。

 亜希子は努めて平静を装いながら話す。

「あのう、倉田ですけど、すみません。まだ熱が下がり切らない様ですので……」

『あらそう、そりゃ変にこじらせちゃったら大変だから~いいわよ仕事の方はなんとかなってるから、ゆっくり休んでいらっしゃいよ』

「はぁ、ありがとうございます」

 今までこんな風に仮病を使って何かをサボった経験は無かった。喋り方で嘘がばれるのではないかと思い、ドキドキする。

『何か困ったことは無いの?』

「はい、大丈夫です」

『お医者には行ったの?』

「あ、はい、今日行く予定でいますので」

 病弱な感じを出す為に出来るだけ元気の無い話し方をしているつもりだったが、上手く出来ているかは分からない。

『そう、大事にしてね、何か困ったことがあったらすぐ電話して来なさいよ』

「はぁ、ありがとうございます」

 あんまり話すと余計なことを口走ってしまいそうで恐い。

「それじゃどうも、失礼します」

 まだ何か言いたそうな小石さんを遮る様にして会話を終わらせる。

 受話器を置くとシュンイチは喉元に突き付けた包丁を退けてくれたのでホッとする。

 台所に行って食事の用意に取り掛かる。

直ぐに食べられるパン等の買い置きは無かったし、朝からまたスパゲティやラーメンというのもどうかと思ったので、多少時間は掛かってしまうけど、お米を研いでごはんを炊くことにする。

 シュンイチはまた身体を結ぶ紐を長くして、台所で自由に調理が出来る様にしてくれた。

 食事の用意をしている間、シュンイチは六畳間でテレビを点け、パチパチとリモコンでチャンネルを変えながら見ている。

 やっぱりテレビの報道が気になるんだろうか……亜希子にはまだ昨日のワイドショーで司会者が言っていた『高校生が母親を刺して逃亡……』という言葉が引っ掛かっている。

 本当にこの子は母親を刺して逃げているんだろうか、だとしたら、やっぱり自分の刺した母親の安否が気になるんだろうか、それでテレビを見ているんだろうか。


 ご飯が炊き上がった。インスタントの味噌汁に刻んだ長ネギと乾燥ワカメを入れて、お湯を注ぐ。

 オカズはパックのキムチと納豆くらいしか無い。納豆は苦手な人もいるので、聞いてみると大丈夫だということだった。

 六畳間のテーブルに二人分の朝食を運ぶ。

 朝の報道番組が続いているが、朝食の用意が出来るとシュンイチはテレビを消してしまう。

「いただきます」

 また二人向かい合って食べる。静かな部屋にカチャカチャと箸の音だけが響く。

 食事が終わると亜希子は食器を片付けて台所へ運び、流しに入れて洗う。

「ねぇ、お茶飲む?」と台所から呼び掛ける。

「うん」

「待ってね、今洗い物が終わったら入れるから…た…」

 隆夫……と言いそうになった。今6畳間にいるあの後姿が隆夫だったら……休みの日に隆夫が来ていた時の光景がダブって見えた。

 シュンイチはまたテレビを見ているが、ボリュームを小さくしているのと、食器を洗う音とで内容を聞き取ることは出来ない。

 食器を洗い終わり、二つのマグカップにお茶を入れて六畳間に入って行くと、シュンイチはテレビを消してしまう。

「はい」

 とマグカップを差し出しながら、シュンイチの顔を見て驚いた。その表情が酷く変わっている。

 落ち込んでいるというか、何か酷く精神的なショックを受けた様な感じだった。テレビで報道された内容に何か関係あるんだろうか……と思ったが、聞いてみることは出来ない。

「ねぇ、今日洗濯してもいいかなぁ、天気も良いから」

「ああ」

 シュンイチはそっぽを向いたまま気の無い返事をする。その返事をよしと見て溜まった洗濯籠を持ってベランダへ出る。

 ふとビニール袋にまとめた血だらけの制服のことも考えたけど、やはり恐ろしくて手を触れる気にはならない。

 だけどシュンイチの様子の変わり様は尋常ではない。テレビで何を見たというのか、それが何なのかは分からない。嫌それだけじゃない、亜希子にはシュンイチのことは何ひとつ分からない。

 ベランダの隅にある洗濯機のスイッチを入れると、シュンイチが来て窓の縁に座った。

 考えてみれば、シュンイチはこの部屋に侵入する時、ベランダの欄干を乗り越えて入って来たのだから、逆に亜希子がここから欄干を乗り越えて逃げるということも考えられる。

 亜希子は努めていつもしている様に、普通に洗濯機の電源を入れて、スタートボタンを押す。ジャーと音をたてて水が迸り始める。分量を量って粉末の洗剤を入れる。

 洗濯機を回して部屋に戻ると、シュンイチはまたプレイステーションを繋いで、昨日と同じシューティングゲームを始める。

 亜希子は近くに座って、ゲームの画面を見ながら時おり「惜しい!」とか「あっ上手い上手い!」等と応援して、出来るだけ和やかな時間が過ぎる様に努める。だがシュンイチは全く反応を見せず、無表情にコントローラーを操作している。

 やがてベランダで洗濯の終わるアラームが鳴り、亜希子は外へ出て洗濯機から衣類を取り出して籠に入れると、一枚ずつ広げて物干しの洗濯バサミに挟んで行く。

 シュンイチは部屋に残ったままゲームを続けている。窓の脇からそっと見ると、相変わらず無表情で放心した様に、激しくコントローラーを操作している。

 洗濯物を干し終えると部屋に戻り、今度は昨日シュンイチもカビが生えているといっていたお風呂を掃除してもいいかと尋ねる。

「そんなの勝手にすりゃいいだろ!」

 突然怒った様にいう。

「あ、はい、すいません」

 慌てて謝って、風呂場の掃除に取り掛かった。何を怒ってるんだろう……。きっと私のせいじゃない、何かテレビで見たんだ。きっと自分がしてきた事件のことで……。

 浴室に入るとシャワーで床を濡らし、洗剤を撒いてスポンジで擦る。

 とにかく何かしていないと不安で堪らない。出来るだけ二人で沈黙している時間を作りたくない。


 風呂の掃除を終えると今度は台所の掃除をしようと思ったが、許しを得ようとして聞けば、またさっきみたいに怒鳴られるのではないかと思い、黙って押入れから掃除機を出し、床に掃除機をかけて、雑巾掛けをする。

 六畳間からはゲームの音が絶え間なく続いている。

 亜希子は掃除を終えると昼食の用意に取り掛かる。

 シュンイチを刺激しない様に、努めて平静を装って振舞って来たが、精神的にかなり追い詰められていることが自分でも分かる。

 昼は買い置きのインスタントラーメンを茹でて、朝味噌汁に入れた残りの長ネギを切ったのと、生タマゴを入れて食べることにする。

 鍋に水を入れて、ガス台に乗せて火を点ける……いつまでこんなことが続くんだろう……考えても仕方が無いと思い、スルーする。

 いつまでもこんなことが続けていられる訳はない、そのうち、いやそれはきっと近いうちに、何等かの破綻が来るだろう。

 私だってそう何日も会社をズル休みしていられる訳はないのだから。職場の人たちだってそのうちおかしいと思うに違いない。

 不意に誰かが訪ねて来て、シュンイチがここにいることが外の人にバレてしまうかもしれない。そうなれば一気に警察が来て、このアパートを取り囲んでしまうかもしれない。

 そんなことになるのが一番嫌だ。だってもしそうなったら、シュンイチ君が自棄を起こして、道連れにされてしまうかもしれないもの。

 だから今は我慢して、出来るだけフレンドリーに振舞って、私のことを仲間だとさえ思ってくれる様にしておかなくちゃ、それ以外に助かる方法は無いんだから。

 思い直して自分に言い聞かせ、おかしくなりそうな感情を必死に宥める。


 昼食のラーメンを食べ終えて、食器の片付けも終わるといよいよすることが無くなって来る。

 朝干した洗濯物を取り込もうかと思ったが、さすがにまだ早すぎるだろう。外は晴れて良い天気だけれど、この部屋のベランダには直接日光が当たらないから、まだ乾いている筈もない。

 シュンイチは隅のマガジンラックから亜希子の買っているテレビガイドを見つけて、暫らく番組表を見ていたが、何か確認するとテレビを点けた。テレビでは昼間放映している映画をやっている。

 見たことのないアメリカの刑事映画だった。ロッキーのシルベスタ・スタローンが出ている。

 凶悪なテロリストをスタローン扮する刑事が追いかけて行くという内容で、シュンイチは黙って観始めたが、その無表情からは本当に集中して見ているのかどうかを読み取ることが出来ない。

 他にやることもないので、亜希子も一緒に見ているしかない。

 一見二人して映画に集中している様な格好になった。休日に隆夫とこうしていたことが思い出される。あの時DVDをレンタルして観た映画は何だったろう……。

 映画も終りに近付いてきた。逃亡したテロリストが狙っていた女性の後からそっと近付き、殺そうとする。ハラハラするシーンだった。その時、女性がバッと振り返ると、それはカツラを付けて女装したスタローン刑事だった。それを見て二人そろってアハハハハ……と笑い声を上げる。

 思いがけず顔を見合わせて笑った。それは一瞬の表情だったけれど、普通の高校生の男の子だった。

 こうして映画を観ていれば間が持つのだと思い、亜希子は持っているチャップリンの「街の灯」のDVDを面白いから観ようよ、と言って勧める。

 DVDプレーヤーにセットして、また二人で観る。人を刺して逃げている高校生と、命の危険にさらされながら一緒に観ている自分、という状況がおかしいなと思いつつ、何回目かの大好きな映画を観る。

 シュンイチはさっきと同じ様な表情で画面を見ている。今度はこれが夢中になって観ている様子なのだということが分かる。

 シュンイチはチャップリンという名前も知らなかったという。きっと古い白黒の無声映画が珍しいと思って観ているのだろう。

 亜希子は何回も観ているので、可笑しいシーンも胸にジンと来るシーンも、次にどんなシーンになるのかも分かっている。

 笑えるシーンでは努めて声を上げて笑う様にして、ウルウルするシーンではわざと鼻を啜ってみたりして、一緒にシュンイチの感情を呼び覚ませれば、と思った。

 こうして和やかなムードを盛り上げて、一緒に笑い、一緒に感動して、もっともっとフレンドリーな雰囲気に持って行きたいと思う。

 映画は終盤に近付き、目が見えなかったヒロインがチャップリンの必死の活躍で手術に成功し、目が見える様になって、感動の再会を果たすシーンで終わった。

 シュンイチは何も言わないけれど、その表情を見れば分かる。きっと私が始めてこの映画を観た時と同じ様に、暖かくて優しい気持ちになっているんじゃないだろうか。

 亜希子はシュンイチが人間的な表情を見せてくれたことに凄くホッとした気持ちになれた。きっとチャップリンのヒューマニズムがこの少年を救ってくれるかもしれない……なんてロマンチックなことを考えてみる。

 何とか今日も無事夕方を迎えることが出来た。けどまた夜の食事のことを考えなければならない。

 買い置きの材料で作れる料理もネタが尽きて来たので、亜希子は隆夫が来ていた時によく取っていたデリバリーのパンフレットをシュンイチに見せてみる。

 ピザやお寿司や中華料理等、いろんな種類のデリバリーの広告が毎日の様に郵便受けに入れられている。

「ねぇ、夜はちょっと贅沢しようか、中華料理とかも取れるんだよ」

「へぇ~僕の家はこうゆうの取ってくれたことなかったから、食べたことないや」

 と言って珍しそうに料理の写真がいっぱい載ったパンフレットを見る。

 だがデリバリーを取るということは、それを持って来る配達員が来た時にドアを開けてお金を払わなければならない。

 シュンイチはいろんな種類のメニューを美味しそうだと言って見ているけど、考えていることは分かる。

「私絶対何も言わないでお金だけ払って受け取るから、約束するから、ねぇ、私が何か余計なこといったりしたら脇に隠れてて包丁で刺せばいいじゃない」

 そう言った時、シュンイチは亜希子の顔をギロッと見た。凄く恐い目だったけど「いいよ、じゃ注文しろよ」と言う。

「何がいい?」と訪ねると。

「そうだな、ピザかお寿司が良いけど……」

「それじゃ、両方取っちゃおうか?」

「えっ?」

「シュンイチ君いっぱい食べるでしょ? 私ひとりじゃ食べきれないけど」

「いいの?」

「うん、いいよ」

 出来る限りの笑顔を作って微笑みかけたつもりだった。

 努めていつもと同じ調子で電話を掛けて、ピザのMサイズと握り寿司2人前をそれぞれの店に注文する。

 近頃は倹約しているので、普通ならそんな贅沢は考えられないけど、今は非常事態なのだ。少しでもシュンイチ君に喜んで貰わなくちゃ……。

 注文の電話をしてから暫らくして、外にバイクの止まる音がして先にピザが、後からお寿司が届いた。

 配達の人がドアをノックして、私が開いて品物を受け取り、お金を払う間シュンイチは包丁を手に台所の陰に隠れていたけれど、私はごく自然にいつもの様にお金を払い「ごくろうさまです」と言って配達員を帰すことが出来た。

 これでまた一層シュンイチ君の信頼を得ることが出来たかもしれない。

 Mサイズのピザと2人前のお寿司を乗せると、小さなテーブルは一杯になった。

「わー美味そう、食べきれない程あるねぇ」

 シュンイチは始めて本当に屈託のない笑顔を見せた。それはドキリとする様な可愛らしい笑顔だった。

 その笑顔を見た時、遠い昔隆夫の見せた初めての笑顔が思い出された。

 隆夫は5年前に亜紀子のいる住宅建築資材部に配属されて来た。最初は見ているとイライラするくらい煮え切らない感じの男……というより男の子だった。

 慣れない職場なのに一生懸命な思いが空回りするだけで、可哀相なくらい頼りない。

 それは隆夫がそれまで一から十まで親の言いなりになって育って来た結果なのかもしれない、と思った。隆夫は両親と姉の4人家族で、中堅サラリーマンの父親と母親はとても教育熱心で、子供の頃は勉強ばかりしていたという。

 私はそんな、何かに付けて困っている隆夫のことを見かねて手伝い、面倒を診てあげた。その度に「すいません」と照れた様に笑う顔にキュンと来る物があって、それから意識しなくてもいつも気になる存在になっていた。

 亜希子は学生時代から奥手で大人しい性格だったこともあって、それまで彼氏と言う物と本気で付き合ったことがあまり無かった。

 20代に入って社会へ出ても、何人か軽い付き合いをした男性はいたけれど、まだこれからきっと特別な人との出会いがあるに違いない……等とありもしない願望を抱いているうちに過ぎてしまい、26歳の時に駅で突然の激痛に襲われ、片方の卵巣と子宮を失ってしまった。

 そして一生を共にしたいという様な深い交際の経験も無いままに、結婚を諦めた。

 そんな時知り合った隆夫は5歳も年下であり、交際するとかそんな意識も全く無いままに、気が付くと親密な関係になっていた。

 それは結婚を前提とした付き合いを私が諦めていたから、逆に余裕を持って隆夫に接することが出来たからではないかと思う。そうだ、隆夫はきっとそんな私にとって、あるべくしてあった恋人だったのだ。

 ある日窓を開けると吹いて来た春の風みたいに、隆夫は私の中へ舞い込んで来た。それが当然の流れの様に仲良しになった。今でもあの頃のひとつひとつを思い出すと顔が笑ってしまうくらい、楽しかった。

 シュンイチ君はガラス窓を割って、この部屋へ侵入して来た。シュンイチ君との出会いも、こんな異常な状況のものでは無かったら、どんなにか素晴らしかったかもしれないのに。


 ピザと一緒に頼んだコーラで乾杯して、久し振りの御馳走を夢中になって食べる。

 シュンイチ君は「配達のピザなんか食べるの始めてだよ」と美味しそうにパクパク食べている。

 親戚の男の子が遊びに来たりするのはこんな感じなのかな、と思う。

 亜希子には三つ違いの真由美という姉がいる。姉の娘の由香里ちゃんが今高校一年で16歳だから、由香里がもし男の子だったら、きっとこんな感じなのかもしれない。

 今夜は亜希子が欠かさず見ているダウンタウンのお笑い番組がある日だった。

 面白いから見ようと言って、お腹一杯になった後、ピザやお寿司の残骸を食べ散らかしたまま寝転んでテレビを点ける。

 亜希子は冷蔵庫に残っていた発泡酒を開けて飲む。一応シュンイチにも飲むかと訪ねてみたけれど、いらないと言う。

「フフッ、ハハッ……アッハハハハハ……」

 見ている間何度も同時に笑い声を挙げた。この部屋にまた男の人の笑い声がするなんて、ここ数ヶ月夢にも思わなかったことだ。

 笑いながら亜希子は涙を流している。それはテレビの内容が可笑しくて、笑い過ぎてというだけではなく、突然こんな状況に貶められて、死ぬ程の恐怖を味あわされていながらも、今この少年と一緒にテレビを見て笑っている。こんなに和やかな雰囲気になれている。それが本当に良かったと思う涙だった。発泡酒の酔いも手伝っていたかもしれないけど、半分はそんな涙だった。


 今夜もまた布団を敷いて、亜希子はその横に座布団を並べて寝ることにする。

 シュンイチはもう忘れているのか、それとも亜希子が自分を裏切らないと信じてくれているのか、足を紐で結ぼうともしない。

 そしてまた「僕が夢見て魘されてたら、そうっと起こすんだぞ」と言う。亜希子は当然の様に「うん分かった」と答える。

 もし昨夜みたいに魘されることなくシュンイチが熟睡していてくれれば、今夜こそ逃げられるかもしれない。何しろ足も結ばれていないのだから。

 だが、二人並んで横になり、電気を消すと暫らくして、シュンイチは亜希子の手を握って来た。

 戸惑ったが、仕方なく亜希子もそっと力を入れて握り返す。

 暫らくして、スースーと規則的な寝息が聞こえて来る。そっと見ると、シュンイチは安らかな顔をして眠っている。

 だが亜希子の手は握られたままだ。これじゃまた今夜も逃げられないな、と思う一方でシュンイチに、今日は魘されずにゆっくり眠れればいいね。という気持ちも起きる。

 見れば見る程あどけないと思う、女の子の様に綺麗な顔をしている。見つめていると胸の奥がキュンとなる。

 隆夫……と胸の内で呼びかける声が聞こえたけれど、この部屋で寝ていた隆夫の顔が浮かんで来ることはなかった。

 寝ているシュンイチの向こう側、すぐ手の届くところには、今も鈍い光を反射させて包丁が置かれている。

 この少年の胸の内にはどんな思いが渦巻いているというのか。亜希子には何も分からない。

 このことは何時まで続くんだろう……私はまた元の生活に戻ることが出来るんだろうか、あの会社に通うだけの日々に。それまで私の精神は持つんだろうか。

 会社で自分の持ち物にキンキキッズの堂本光一の写真を貼っている淵松絵美子さんのことを思い出す。絵美子さんに言ってみたくなった「うちにはこんな綺麗な顔をした男の子がいるのよ」と。そんなことを思ってる自分をバカだなと思う。

 そして、この子が私といることにここまで安心してくれる様になれば、もう私に危害を加えることは無いのではないか……という希望的観測も起きてくる。勿論まだ油断は出来ないけれど。

 とはいえ、ずっとこのままでいられる訳は無いのだから。どうにかしなくちゃ……どうにか……。





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