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孤独な少年

第一章 2の2


 亜希子もチャーハンを食べ終わると、静かに食器を片付けて台所に運ぶ。紐の長さが流しまで足りなくなると、少年も立ち上がって紐が届くところまで来てくれる。

 流しに食器を置いて、湯沸し器を点け、スポンジに洗剤を付けて洗う。

 少年はまた台所と六畳間の境に立って見ている。亜希子は手を動かしながら言う。

「あの……」

「えっ」

「良かったら、服を着替えたら……少しだけど男の人の着る物もあるから……その服、汚れてるから……」

「うん」

 亜希子は食器を洗い終えると手を拭いて六畳間へ戻り、洋服タンスから隆夫が泊まる時によく着ていたブルーのTシャツと、黄色いスウェットのパンツを出してあげる。

 少年に「こ、こんなのどうかな」と言うと「いいよ」と答える。

「着替えるからそっちに行ってろよ」

 と包丁の先を振って台所に入っていろと指図する。

 亜希子は台所に入り、少年に背を向けて立っている。

 ガサゴソと着替える音がする。

「なぁ、ビニール袋ある? なるべく大きいヤツがいいんだけど」

 脱いだ服を入れるのだろうと思い、冷蔵庫の横に沢山ぶら下げてある買い物袋から大きめのを選んで出す。

 隆夫も細い体をしていたけれど、この少年は身長が低いのと、上背も無いせいで、隆夫のTシャツを着てスウェットを履くと、その姿は一層華奢な印象になった。

 また幼さが残る整った顔立ちをしているので、まるでほんの子供の様に見える。ただ片手に持った血だらけの包丁を除けば……。

「コレをその中に入れろよ」

 と脱いだワイシャツとズボンを蹴る。

 それ等を拾ってビニール袋に入れる。触れるのも嫌なくらい恐ろしくて気持ち悪いけど、努めて平静を装う。口を縛って隅に置くと、六畳間に戻る。

 亜希子も着替えたい。昨夜仕事から帰って来てからそのままなのだ。それに漏らしてしまった小便がスカートに幾らか沁み込んでいる。でもあまり贅沢を言ってはならないと思い。我慢する。

 とにかく今はこの少年に気に入られる様にしなくちゃ、何を言っても絶対に私が逆らったり逃げたりはしないということを信じて貰わなければ。今はそれしか自分の身を守る方法は無いのだから。

「ねえ、割れてるガラスのところに何か貼り付けておこうよ」

 と提案してみる。

「ガラスに?」

「うん、風が入るし、雨とか降って来たら降り込んできちゃうでしょう」

「うん」

 五月も終わりに近づいて気候は暑くもなく寒くもないけれど、寒がりな亜希子にはまだ窓を閉めてストーブを点ける日もあるくらいなので、また夜になって寒くなったら嫌だと思う。

 押入れを開けて、上の段にしまってあったDVDプレーヤーの空き箱を取り出した。もう必要無いと思いながらも、いつか引越しをする時が来たら便利だと思うと捨てられないのが亜希子の性分だった。

 中の発泡スチロールを取り出して、ガムテープを張ってある底を開くと四角い筒状になった。その一角を切り離すと結構大きなダンボール紙になる。

 割られた窓の内側にこぼれたままになっているガラスの破片を、注意しながら摘み上げてゴミ箱へ捨てる。

 窓を開いてベランダに出る。見ると少年が履いて来たらしいスニーカーが窓の脇に揃えて脱いである。空き巣等が部屋に侵入する時は土足で入るんじゃないかと思うけど、やはりこの少年は育ちが良いのだろうかと思う。

 このアパートは車の通れる道からは狭い路地を入って、敷地の四方をそれぞれ大きな一戸建ての家に囲まれて奥まったところにある。なのでベランダに出ても前を大きな壁に阻まれており、陽も当たらない代わりに通行人から目に付くこともない。

 だからきっとこの少年もここを選んで逃げ込んで来たのではないかと思う。

 しかし目の前を覆っている壁の中には人が住んでいるんだから、ここから大声で叫んで助けを求めれば聞こえるのではないか、という考えが閃いたが、やはりそんな不確実なことは出来ないと思う。そんな考えが浮かんだだけで足が小刻みに震えている。

 亜希子がガラス窓に当てたダンボールの四隅に苦労してガムテープを貼り付けて行くのを、少年は部屋の中から見ている。

 作業を無事に終えると少年は部屋の隅に座り込んだ。右手に包丁を持って、左手には亜希子の腰に結びつけたビニール紐を巻き付けている。

 隙を見て玄関の方へ走っても、きっとビニール紐を引っ張られて、ドアに辿り着く前に包丁で切り付けられてしまうだろう。

 もし逃げようとしたら、この少年は本当に包丁を刺して来るだろうか、黙っている表情からは何も読み取ることは出来ない。でも、現にこの人はここに来る前に人を刺して来ているんだから。しかも、もしかしたら自分のお母さんを……。

 少年はずっと黙っている。何を考えているのだろうか、表情が読めないだけに黙っていられるのが恐い。

 何の前触れもなくワァーと叫んで突進して来て包丁を刺されるのではないか……という恐怖から片時も逃れることは出来ない。

「ねぇ、テレビでも見ようか」

 黙っていると居た堪れなくなるので、言葉をかけてしまった。

 少年はただ「いい」と言って黙ってしまう。

 一体何を考えているんだろう……もしかしたら昨夜ここへ逃げ込んで来る前に自分のして来たことを思い出しているんだろうか『高校生が母親を刺して……』ワイドショーで司会者が言っていた言葉……。

 母親……自分のお母さんを刺したの? 果たしてそのお母さんは助かったのだろうか、その包丁に付いた血の跡やあのワイシャツからすると、かなり深いところまで刺さって血がいっぱい出たんじゃないかと思う。

 だとしたらお母さんの安否が気にならないのだろうか。そもそもどうしてそんな恐ろしいことをしてしまったというの。

 黙っているので全く心の内を窺い知ることが出来ない。私に人の心を読む超能力でも備わっていれば良かったのに……等と取りとめもないことさえ思ってしまう。

 隆夫……今私がこんな状況になっていることを知ったら、隆夫は助けに来てくれる?。 もしかしたら、風邪で会社を休んでいることが何かの拍子に、隆夫が業務連絡をして来た時に、お喋りな小石さんから伝わるかもしれない……そしたら隆夫はお見舞いに来てくれるだろうか。この部屋をノックしても何の応答も無かったら、私が起きられない程具合が悪いのかと思って、合鍵を使って入って来てくれるだろうか。

 でも、もしそんなことになったら、この少年が何をするか分からない……ああ、隆夫、来ちゃダメ、来ちゃダメだよ。

 嫌、来ないだろう。そんなこと心配する必要なんて無い。隆夫はきっと来ない、でももし来てしまったら、隆夫は自分の危険も省見ずに私を助けてくれる?。

 嫌来てはダメよ、若い彼女と上手く行っているのなら、将来のある貴方の身にもしものことがあったら……私はそれこそ生きて行けなくなっちゃうもの。私はこれ以上惨めになりたくない。いや、大丈夫だろう。そんな心配する必要なんて全く無いのに、ハハ……私ったらバカみたい、何を考えてるんだろう。隆夫が来てくれる訳なんかないのに……。




 少年と亜希子は黙ったまま向かい合って座っている。

 こんな状態で、一体この先どうしようと思っているんだろう……少年は呆けた様に黙っている。表情は全く無いけれど、スベスベして澄んだ肌、まつ毛が長くパッチリとした瞳、ツンとした鼻と小さな唇。澄ましていると女の子の様な綺麗な顔立ちをしている。

 少年もきっとこれからどうしたら良いのか分からなくて、この事態の収集がつかないでいるんじゃないだろうか。今は落ち着いて見えるけど、とてつもない不安の重圧に押さえ付けられて、それから逃れる為には何も考えないことしかない……という状態にいるんじゃないだろうか。

 少年がその重い不安の重圧に耐えかねて自暴自棄な行動にでも出られたら、と思うと震え上がってしまう。

 このまま沈黙していることは耐え難かった。

「それじゃDVDでも見る? 映画とかもあるけど」

「何があるの?」

 亜希子の持っている映画のDVDは安売りで買った「ローマの休日」と人から貰ったチャップリンの「街の灯」しかない。

 映画は好きでよく観ているけど、好きな映画でもそんなに何度も観ることはないので、ビデオやDVDは買わずに専らレンタルだった。DVDプレーヤーも最近やっと安売りで買ったばかりだった。

 音楽のDVDはどうしても欲しくて買った小田和正のライブがあった。それ等を戸棚から出して少年の前に並べてみる。

 隆夫が友達に貰ったけど自分の家には置いておけないからと言って、無理矢理置いていったアダルト物もあるけれど、まさかそれを見せる訳には行かない。

「もっと最近のアクション映画とか無いの? ロード・オブ・ザ・リングとかスパイダーマンとか」

「ごめん、それは無いんだけど、今度レンタルで借りて来てあげるから……」

 何を言ってるんだろう……今度借りて来てあげるって、一体何時のこと?。

 少年が見たい様なDVDは無かったので、あまりソフトは無いけどプレイステーションがあるよ、と言ってみる。

「うんやる」

 と言うので戸棚で埃を被っていたのを引っ張り出してテレビにセットする。

 隆夫が来ていた頃は時々遊んでいたけれど、近頃は全然使わなくなってしまっていた。こんなことでも無い限りずっと思い出しもしなかったかもしれない。

 やれば結構面白いのは分かっていても、一人でやっていても虚しさを感じてしまうのだ。

 ゲームのソフトは初期のドラゴン・クエストと戦争物のシューティングゲームしか無い。敵の陣地に乗り込んで行って、出て来る敵のキャラクターを撃ってやっつけて行くというものだ。少年は今までテレビゲームをやったことが無いという。

 シューティングゲームの方がルールが簡単ですぐに出来ると思い、本体にセットする。

 最初は後で見ている少年の前で亜希子がコントローラーを持ってやってみせる。

 ヘタクソだけど次々に出て来る敵をバキュンバキュンと撃ち倒して行く画面を少年は珍しそうに見ている様子だった。

 このぐらいの年頃の男の子なら、誰でもテレビゲームには夢中になっていると思い込んでいたので、一度もやったことが無いというのは意外だった。

「やってみる? 簡単だよ」

 と言ってコントローラーを渡そうとしたけれど、少年は両手に包丁と紐の先を持っているので、どうしよう……と戸惑っている。

「私のこと動けない様に縛ってからやってもいいよ」

 と飽くまで卑屈になって言う。

「じゃ、何かしたら見える様に、そこのテレビの横に気を付けして立ってろよ」

 と言うのでゲームをしていても動けばすぐに分かる様に、亜希子はテレビの横に軍隊の見張り番の様に気を付けをして立つ。

 少年は脇に包丁を置いてコントローラーを手にしたけど、持ち方も分からない。

 ゲームの始め方からコントローラーの使い方までやり方を説明してあげなければならなかった。

「分かったよ、うるせえな!」

 分かりやすく教えて上げているつもりだったけど、それがくどいと感じたのか、言葉を荒げて言い返した。ビクッとして慌てて「すみません」と謝る。

 やり方が分かって来ると、夢中になってやり始めた。意識が画面に集中しているのが分かる。

 テレビの横に直立不動で立ち、少年が夢中でゲームをしているのを見ながら、一体警察は何をしているんだろう……と思う。

 あんなに近くで事件が起きて、犯人は行方不明になっているのだから、付近を捜査したり聞き込みに来たりしないのだろうか、どうでもいいから早く私のことを助けて欲しい。

 でもいざここへ警察が捜査に来た時、少年が逆上して私を殺して自分も死のうなんて考えを起こされたら……と思うと恐い気持ちも起きてしまう。

 そのまま少年は何時間も繰り返しゲームを続けた。こんな古いゲームがそんなに珍しいのかと思うけど、ゲームをしているうちは安全なのだと思い、黙って立っている。

 でもそのうちに足が痺れて来て、またトイレにも行きたくなる。仕方なく一度少年に頼んでトイレに行かせて貰い、その時ゆっくり便座に腰を下ろして、少しでも足の疲れを取っておこうと思った。

 そのうちにまた陽も暮れ出して夕方になると、夕食のことを考えなくちゃならない。

 少年に頼んで腰を結んでいる紐を長くして貰い、少年が六畳間でゲームをしていても亜希子が台所で自由に料理が出来る様にして貰おうと、少年に説明する。

「私が台所で何をしてるかは音がするから良く分かるでしょう? それに何かしようとしたらその紐を引っ張れば逃げられないし、大丈夫でしょ? 夜はスパゲティを作りますから、ソースはレトルトだけどミートソースとかクリームソースとかいろいろあるし、結構美味しいんだよ」

 と言うと「分かったよ」と言ってビニール紐を継ぎ足して長くしてくれた。

「それじゃ早く作れよ」と素っ気無く言ってまたコントローラーを操作する。

 チャンスだ! 少年がゲームに夢中になっている間に、流しの引き出しに入っているハサミで紐を切って、こっそりと玄関のドアから出て行けばいい。

 スパゲティを茹でるのとレトルトのソースを温める為に二つの鍋に水を入れ火に掛ける。やがて沸騰してゴボゴボと音を立て始める。

 先に二人分のスパゲティを鍋に入れる。煮始めると音が一層大きくなった。

 そっと見ると少年は夢中になってゲームの画面に見入っている。

 音がしない様にそ~っと流しの引き出しを開ける。ハサミを取って腰に結び付けられたビニール紐を片手に持ち、挟む。

「ねぇ」

 ギクリとしてハサミを元に戻す。

「え、何?」

 振り向くと台所と六畳間の境に立った少年が、コントローラーを手にしたまま、亜紀子を見ている。

「ソースは何があるの?」

「え、今あるのはカルボナーラとアサリのトマトとナスのミート……」

 声が震えてしまう。

「俺じゃあそのナスのにして」

「はい……」

 少年はそのまま部屋に戻ってゲームを続ける。

 脚が震えている。逃げるタイミングを削がれてしまった。また次の機会を伺うしかない。




 また小さなテーブルに向かい合って。スパゲティを食べる。亜希子はバジルのトマトソースというのをかけた。少年には山盛りのスパゲティにナスのミートソースをかけてあげる。

 二人で食べていると隣の部屋でドアの開く音がする。隣りの住人が何処かへ出掛けて行くらしい。

 少年は食べていた手を止めたけど、私が「大丈夫だよ、夜中の仕事してるから、きっとこれから出掛けて行くんだよ」と言うと安心した様子だった。

 この事態に陥って、昨日の夜からまる一日が過ぎようとしている。何という一日だったのだろう。早く終わって欲しい、早く終わって欲しい……と思う一方で、なるべく従順にこの少年の機嫌を損なわない様に、目一杯の気を遣って振舞う様にしなければ、と思う。そのパターンに、少し馴れて来てもいる。

 食事の後、少年はまたゲームをして、飽きもせず12時になるまでそれを続けた。

 亜希子は大分信用されたのか、もうテレビの横で直立不動はしなくてもいいと許されて、ゲームをする少年の横で座布団の上に座っている。

 途中少年がトイレに行きたいと言うので、亜希子は「紐は結んだままで、私はトイレのドアのすぐ前に立っているから、安心して」といった。

 きっと大便をするのだろう。この機会を逃してはならないと思い、縛られた位置から伸ばせる様にそっと紐を握り、身体に引き付けておく。

 少年が紐を引っ張りながらドアを閉めると、緩まない様に気を付けてその分を伸ばして流しへ行き、引き出しからハサミを出す。

「ねぇ……」とトイレの中から話し掛けて来た。

「は、はい」

「タイルにカビが生えてるから、掃除した方がいいよ」

「あ、はい……」

 私が何かしてるのではないかと伺ってるんだ。

 そっとしゃがんで、六畳間のカーペットの上にハサミを滑らせる。

ハサミは上手い具合にテレビの前に散らばったゲームソフトのパッケージの下に滑り込んだ。

 今逃げようとすれば追い掛けられてしまうので、夜中に少年が寝ている間を狙おうと思う。




 トイレを出ると少年も大分疲れた様子なので寝ようということになった。

 今夜はちゃんと押入れから布団を出して敷いて寝たかったけど、布団は一組しかない。

 当然の様に布団には少年に寝て貰い、亜希子はその横に座布団を二枚並べて、毛布を掛けて寝ますといった。

 寝る前にまた身体中を縛られたらどうしようと思ったけれど、縛ろうとはしなかった。

 それでも眠っている間に逃げようとするのではないかと疑われてはいけないと思い、自分の足首と少年の足首とを紐を短くして結び、私が動けばすぐ分かる様にしておきましょう。と自分から言って少年を安心させる。

 この位置で寝れば、ハサミは私の手の届くところにある……。

 少年が眠ったらそっと紐を切って外に逃げよう。あの路地まで行けば、集まっていたパトカーがまだいるかもしれない、もしそれがいなくても、商店街を抜けて駅前の交番まで辿り着ければ助かる。でもそこへ着くまでに少年が気付いて追い掛けて来たらどうしよう……とも思うけど、逃げなければこの状態が明日も明後日も続くのかと思うと、頭がおかしくなってしまいそうだもの。




 二人の足首を結ぶと少年は布団に横になった。包丁は亜希子とは反対側の、少年の手のすぐ側に置かれている。

 蛍光灯のスイッチを引いて、小さなオレンジ色の常夜灯だけを残す。紐で結ばれた右足を少年の左足と並べて、座布団の上に仰向けになる。

 自分が先に眠ってしまったらどうしようと思ったけど、その心配はなかった。眠れるはずなんかない……。

 少年と並んで横になり、じっとリラックスしているフリをして、静かに深呼吸を繰り返す。

 何十分も経ったけど、少年は静かで、眠っているのかどうか分からない。亜希子はじっと我慢して待っている。少年が熟睡していると確信が持てるまでは、動くことは出来ない。

 どうやら少年が寝息らしい音を立て初めて、それからさらに2時間近くが経った。テレビの横にあるデジタル時計が午前2時23分を表示している。

 少年は静かに規則正しく呼吸を繰り返しており、その呼吸の音に合わせて胸が上下しているのが分かる。眠っているとしか思えない。

 亜希子は上半身だけをそっと起こして、テレビの方へ手を伸ばす。

 さっきゲームソフトのパッケージの下に隠しておいたハサミを手にする。

 少年にも聞こえやしないかと心配になるくらい、心臓の鼓動がドキドキと胸の中を響き渡っている。手を伸ばしてそっと足首に結ばれた紐を持ち、もう片方の手に持ったハサミを開いて挟む。

「ごめんなさい……」

 ハッとしてハサミを座布団の下に隠し、慌てて横になる。

「……」

 その一言を発したまま少年は沈黙している。

 えっ? 私に謝ってるの? まさか……。

 横になったまま暫らく様子を伺っていたが、少年は目を閉じたまま寝息を立てている。

 どうやら単なる寝言だったのか、と思い、もう一度ハサミを取ろうとした時、また喋った。

「ごめんなさい……次は……次はきっと頑張るから……」

 やはり亜希子に謝っているのではないらしい。

「許して下さい、あっ、痛い……痛いよう、嫌だようもう許してよう……」

 魘される様にして身をよじる。

「ごめんなさい! ごめんなさい今度は頑張るから本当にこの次は頑張るから……」

 喋り続けているが目は瞑ったままだ。

 それが暫らく続いたかと思うとまた静かになる。そして何事も無かったかの様に静かな寝息が続く。

 もう一度少年が寝ているのを確認すると、そうっとまたハサミを取る。さっきの寝言の間もずっと眠っていたんだから、きっと大丈夫だろう……。

「痛い、痛いよう止めてようお願いだから」

 ハッとしてまた手を引っ込める。

 少年は魘されながら誰かから顔や頭を庇う様に両手を振り翳し始める。

「やめて、やめて下さい痛いよ、ごめんなさい、許して、お願いします……」

 そしてまた一瞬静かになったと思ったその時だった。

「チクショウこの野郎ぶっ殺すぞ!」

 ビクリとして亜希子は息を飲む。

「お前が悪いんだぞ! お前が悪いんだぞ! ちくしょうちくしょうお前のせいだ! このやろう、殺してやる、殺してやるー……」

 錯乱し始めた。今にも側に置いた包丁を取って振り回すのではないかと思い、震え上がる。少年は何かを抗う様に両手を激しく振っている。

 堪らず亜希子は声を掛ける。

「……ねぇ、大丈夫、ねぇ大丈夫だよ誰も何もしないよ、大丈夫だよ、私しかいないよ誰も何もしないから」

 少年は側に置かれた包丁をつかむと宙に向って振り回し始めた。

「きゃあーっ!」

 メチャクチャに振り回される包丁が亜希子の身体をビュンビュンとかすめる。

 側から離れなければと這って逃げようとするが、足に結び付けられた紐がビンと張って少年の足を引っ張る。

 その途端目を開けた少年は手を止め、茫然とした様に辺りを見回す。

 そして驚愕の目で自分を見つめている亜希子を見た。

「……」

 荒く息をしている少年に亜希子は宥める様に声を掛ける。

「ど、どうしたの、何もしないよ、大丈夫だよ、ここには誰もいないし、安全なんだよ……」

 とにかく落ち着いて貰わなければと思い、必死に宥める。

 ハァハァと少年は暫らく息を弾ませながら辺りをキョロキョロしていたが、自分の今の状況を思い出したらしく、落ち着きを取り戻し始め、亜希子の顔をじっと見つめる。

「……」

「どうしたの? 恐い夢見たの? 大丈夫だよ、ここには私しかいないんだから、私は何もしないから、安心していいんだよ」

 気持ちを静めてやらなければと思う。

「此処どこ?」

「私の家」

「……僕、どうなってたの?」

「何か恐い夢を見てるみたいだったよ。魘されて、苦しそうだったよ……」

「そう……」

 といって少年は手にした包丁を見つめる。

 亜希子は落ち着いている風を装って、少年の隣りに座り直す。

 少年は亜希子の言葉で我に返り、少し安心した様子だった。包丁を脇に置くと、布団に横になる。

 そのまま上を向いて黙っているので、亜希子も元の様に座布団に横になる。

 少年が口を開いた。

「ねぇ」

「はい……」

「おばさん、名前はなんて言うの」

 おばさん……。

「私、亜希子だよ」

「アキコ?」

「うん」

 少年は亜希子の顔を見つめている。

「キミは?」

 まさか素直に答えてくれるとも思えなかったけど。

「シュンイチ」

「シュンイチ君?」

「うん。ねぇ」

「うん?」

「アキコは起きててよ、それで僕が寝て、また魘されてたら起こしてよ」

「……うん」

「約束だからね、ずっと僕の顔を見て、恐い夢見てるみたいだったら、また今みたいに大丈夫だって言って起こすんだよ」

「分かった」

「いいな、約束だからな」

「うん」

 亜希子がそう答えると、安心した様に目を閉じる。

 亜希子はそのまま肩肘を立てて、シュンイチの寝顔を見ている。そういえばこんなふうに、隆夫の寝顔を見つめていたこともあったっけ。

 あどけない……この少年が、ニュースで言っていた母親を刺して逃げている高校生なのだとしたら、まだ16歳か17歳くらいなんだろうか。

 5歳年下だった隆夫の顔も亜希子から見ると可愛い感じがしたけれど、この少年はまだ10代で私とは20年も歳が違うんだ。見ているとまだほんの子供の様に思える。何があったのかは知らないけど、ふと可哀相だという思いが過ぎってしまう。

 けれど、私がそんなこと思っている場合じゃないじゃないか、何しろ私は生命の危険に晒されているのだから。

 と思っていると、少年が不意に目を開いた。亜希子が約束した通りに自分のことを見ているかどうか確かめているのだ。

 亜希子がちゃんと見ていることを知って、安心した様にまた目を閉じる。

 ……こうなるとまたいつ目を開けるか分からなくなってしまった。そしていつまた魘されて、さっきの様な錯乱を起こすかもしれない。

 亜希子は再びハサミを取る勇気を削がれてしまった。

 そしてそのままシュンイチの寝顔を見つめている。だが、やがて睡魔に襲われて、肩肘を立てたまま船を漕ぎ始め、やがて眠りに落ちてしまった。

  


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