決着
第四章 9
ビルの間から出て来ると、ふらつく足取りで地下鉄の駅へと戻る。最初の頃検見川浜から会社へ通っていた時のルートを辿って東西線で茅場町まで行き、そこから日比谷線で八丁堀へ向かい、八丁堀からは京葉線に乗って蘇我まで行き、そこから内房線に乗り換えようと思う。
無事に二回の乗換えをクリアして京葉線に乗ると、窓から東京湾の青が見えて来る。
検見川浜のマンションはまだそのままになっているだろうけど、もう寄り道している余裕はない。もうあそこへ戻ったって俊がいる訳もないのだし、まだ残っている荷物はお母さんたちが引き上げてくれるだろう。
通勤快速は検見川浜を通り越して、終点の蘇我駅までガタンガタンと激しく振動しながら突っ走って行く。
蘇我駅に着くと少し食べ物を買っておこうと思い、駅を出てコンビニに入り、オニギリのセットとサンドイッチとお茶のペットボトルを買う。
身体は大丈夫だろうかと心配してたけど、いつもより早いペースで飲んでいる痛み止めと座薬のお陰なのか、今のところは調子良く、痛みに襲われることも無かった。後はちゃんとあの診療所まで辿り着くことが出来れば。
食料を手に蘇我駅へ戻り、九重駅までの切符を買ってホームに入る。
内房線が走り出すと、他に誰も座っていないベンチシートに座って、身体を窓の方へ斜めに傾け、ぼ~っと外を眺めている。
こうして潮風に吹かれながら遥かに広がる海を見ていると、まるで休日をひとりで気ままに過ごしているみたいだなと思う。
コンビニで買ったオニギリセットを膝の上に広げ、手づかみで食べる。
蘇我から2時間程で電車は九重駅に到着する。降りたのは亜希子一人だった。
無人駅のボックスに切符を入れて外へ出る。
ほぼ1時間に一本しか来ない路線バスの時刻表を見ると、次のバスが来るまで20分くらいだった。
そっとベンチに座って身体を休め、ようやく来たバスに乗り込む。亜希子の他に3人程の乗客を乗せたバスは、この前と同じ様に山の中へ入って行き、曲りくねった車道を縫う様にして登って行く。
紅葉のシーズンには早いのか、山はまだ殆ど緑で、ところどころに少し薄くなった茶色い部分が出来ているくらいだった。
両側を森に囲まれて、右に左によろめきながらバスは走って行く。
窓から過ぎて行く眺めを見ていると、亜希子の心はまた時空を飛び越えて、今度は小学生の頃の遠足の光景が蘇って来る。
……あの遠足は何処へだっただろう? 富士山? それとも群馬県の方だったろうか、あの時帰りのバスの中で理恵ちゃんが気持ち悪くなって、ゲロ吐いちゃって……何で今更そんなこと思い出してんだか、と自分に苦笑しながら揺れ動く景色を観ている。きっと今は自分が気持ち悪くなりそうで心配だから、そんなこと思い出してるのかもしれない……。
やがてバスは会沢診療所に最寄のバス停へ着いた。降りたのは亜希子だけで、バスが走り去ってしまうと辺りは森と畑だけで人影も無い。
2度目だから、こないだみたいに道に迷うことはないと思う。
少しフラフラして力が入らない様な感じだけれど、大丈夫、きっと診療所までは行けると思う。
身体が疲れない様にゆっくりゆっくり進みながら、やっと診療所が見えるところまで来ることが出来た。
震えだす脚を無視する様にしっかりと歩かせ、一見普通の一軒家な建物へと近づいて行く。表にはこの前越川が乗っていた自転車が止められている。
玄関の前まで来て、ごめんくださいと言って扉を開く。
「はい、どうぞ~」
と奥から会沢所長の声がするので、靴を脱いで上がり、廊下を歩いて診察室の扉を開く。
「あのう、その節はありがとうございました」
と言いながら中へ入ると、机に座って書類を書いていた会沢所長が「はぁ?」と言いながらこちらを振り向いた。
「あのう、先日こちらに来ていた時に急に貧血を起こしてお世話になった者なのですが」
と言うと、所長はちょっと思い出す様な顔をして。
「あ~あ~そうでしたかそうでしたか、今日はまたどうなさいましたか?」
「いえ、またこちらに来る予定があったものですから、一言先日のお礼をと思いまして」
「それはわざわざどうも、どうぞお座り下さい」
と診察用の椅子を勧めてくれるので腰を下ろす。
「何かお顔の色がお悪い様ですけど」
「はい、近頃体調を崩して寝込んでおりましたものですから、でも大丈夫ですので……」
等と話しながら、越川は何処にいるのだろうと辺りを見回す。また回診に出ているのだろうか、表に自転車はあったのに。と思っていると、窓の外で長靴に軍手をした男が何やら庭仕事をしているのが見える。
アレがそうだろうか、と思っていると、その男は庭側の窓から奥の部屋へと入って行く。チラッと横顔が見えた……アイツだ。思わず震え出しそうな身体に力を入れる。
足音がして診察室のドアを開けて越川が入って来た。
「先生、そろそろ河野さんのところへ伺おうと思いますので」
「あ、ハイ分かりました」
会話の途中、チラッと亜希子の顔を見た越川の目が物凄く恐い。
亜希子は立ち上がる。
「どうも、その節はお世話になりました。たまたま近くを通り掛かったものですから、一言先日のお礼を言いたいと思いまして」
となるべく何気ない風を装って越川に言う。
「ああ、そうでしたか」
と答える越川の顔が心なしか引きつっている様に見える。
「それから、あの時帰り道に見た、この先の東京湾の眺めが忘れられなくて、どうしてももう一度、あの景色が見たいと思いまして、今日来ました……」
と自分の目玉にじっと越川から目線を逸らすことを許さずに言う。伝わっただろうか。
「ああそうでしたか、それはわざわざどうも」と言って再び亜希子の顔を睨んだ後、何もなかった様に隣の部屋へ入って行く。
亜希子はもう一度会沢所長に丁寧に礼を言って、診療所を出る。
表に止めてあった自転車がない。越川は何処だろうと見回しながら、森への道を歩いて行く。
その時不意に胸の奥で痛みが起きて来て、それはみるみる腰の辺りにまで広がって来る。
痛い……ああ痛い痛い……。
立っていることが出来なくなってしまい、道端に手を着いてしゃがみ込んでしまう。深呼吸して身体を持ち直そうとする。
「おばちゃん?」
と言う声に驚いて振り向くと、ランドセルを背負った小さな女の子が、心配そうな顔をして亜希子を見ている。
「どうしたの、お腹痛いの?」
小学1年生か2年生くらいだろうか。なんて可愛らしいんだろうと思う。
「あのね、私のうちはお医者さんだからね、呼んで来てあげようか?」
そんなことをされてはまずいと思い、無理やり笑顔を作る。
「大丈夫だよ、ありがとうね、おばちゃん大丈夫だから……」
と言ってふらつく足に力を入れて立ち上がる。
「貴方お名前は?」
「あ、い、ざ、わ、さ、お、りっ」
会沢先生のお孫さんだろうか。
「さおりちゃんて言うの? 優しいんだね、どうもありがとう」
と頭を撫ぜてあげる。
「でも早く帰らないとお家の人が心配するよ」
「うんっ!」
と頷いてクルリと向きを変えると、タッタッタッと診療所の方へ走って行く。
きっと私に最後の力を与えに来てくれた天使なんだろうと思う。
小さな後姿を見送った後、よしと踏ん張って歩き出し、目的の場所を目指して行く。ここで頑張らなきゃ、あと少し、もう少しなんだから。
力を振り絞り、痛みにうな垂れてしまいそうになる上半身を奮い起こして歩いて行く。時々道端の木に手をついて身体を支えながら、体勢を立て直しては歩く。
そうこうしながらどうにか森の入り口まで来ることが出来た。辺りに人影はない。入って行くと木々の間から東京湾の青が広がって来る。絶壁の近くの木まで来て、もたれ掛かる様にして腰を下ろすと、今来た道を振り返る。
辺りはしんと静まっており、崖下からはザザーンと岩に当たった波が砕ける音が響いて来る。
大きな木に身体を預けながら、その音を聞くとはなしに聞いている。
そのうち波の音に混じって自転車の音が近付いて来る。ブレーキを掛けてガシャンとスタンドを立てる。そして木々の間から姿を現した越川が、まるで落ち着き払った足取りでこちらへ向かって来る。
ここまでは予定通りに来た。今更になって出来る訳が無いと心が動揺しそうになるのを押し留めて、絶対やるのだ。もう決めたことなのだから、ここまで来てやめることなんて出来ないんだから、と気持ちを一色にする。
「おい」
近くまで来た越川が、木に寄り掛かっている亜希子の前に立つ。
「どういうつもりだよ。これ以上俺たちに構うなって言っただろ。まさか金でも要求しに来たんじゃないだろうな」
亜希子は肩に下げていたバックを開き、中から用意しておいたノートを出して、越川の前に突き出して見せる。
「何だよ」
「……このノートには、今までのことが全部書いてあるのよ」
「何がだよ」
「あの日、私のアパートに逃げて来た俊一君と、私が過ごして来た4ヶ月の間のことが、全部事細かに記録してあるのよ」
「……それで?」
「貴方のことも、今まで貴方が俊一君にして来たことも、全てが書いてあるのよ。エリート教育の為に俊一君に暴力を振るっていたのは詩織さんではなくて、貴方だったことも。俊一君がお母さんを刺してしまったのは、詩織さんが俊一君を厳しく教育しようとしていたせいではなくて、俊一君に暴力を振るっていたのは全て貴方で、俊一君が詩織さんを刺してしまったのは、貴方が俊一君を追い詰めたのが原因だったということも書いてあるのよ」
「……」
「いい? これが公になれば、本当に悪いのは貴方だということが世間に公表されるのよ」
「……だからどうだっていうんだよ。そんなのは全部お前の想像したことだろ」
「貴方は詩織さんを愛してなんかいなかった。貴方が欲しかったのは、詩織さんの実家の総合病院だけなんでしょう」
「……」
越川は半ば絶句した様に目を見開いて、亜希子のことを睨んでいる。
「貴方は誠実で優しい医者なんかじゃない、本当は学歴が低い劣等感で一杯で、世間に卑屈に媚を売ってしか生きられない卑怯者なのよ」
「……それで? 俺にそのノートを買えって言いたいのか? 悪いけど俺もこんな有様だからな、金なんかちっとも持ってないけどな」
「お金なんか要らない。私は世間や警察に貴方のして来たことを全部知って貰って、俊一君に貴方とは決別して、ちゃんと自分の人生を歩いて行って欲しいと思ってるだけ」
「それで、どうしようって言うんだよ。そんなこと誰に話したってお前の言うことなんか相手にしちゃくれないと思うけどな」
「そうですね。このノートを見せただけじゃ、私の言うことなんて誰も聞いてくれないかもしれませんね」
亜希子はノートを持った手を思い切り断崖の方へ振り、ノートを下へ放り投げる。
バサッと音がしてノートが崖下へ舞い落ちて行く。
訳が分からずに見ている越川を見ながら、亜希子はよろよろと立ち上がる。
「でも……今私がここから飛び降りて、私の死体の側であのノートが発見されたとしたらどうですか……それに私が死んだ時、すぐ側には俊一君の父親である貴方がいたのだとしたら……あのノートを私が書いたことは確かだし、警察が事実関係を調べれば、ノートに書いてあることが全部事実だったということは、明白になると思いますけど」
じっと越川を見据えながら、亜希子は一歩ずつ後ろへ下がる。
「私はね……身体の中に悪性の腫瘍が出来ていて、手術したけど他にも転移してて、もう助からないんです。どの道長くは生きられないんですよ……だから私は、自分の命を使って、世間に貴方の正体を暴いて、俊一君を助けてあげたいと思うんです」
ここでよろければ落ちてしまうのではないかと思うくらい、亜希子の身体は崖縁に近付いて行く。
ようやく亜希子が本気なのかもしれないと思った越川は、顔色を変える。
「ちょっと……待ちなさいよ、貴方、そんな早まったことをしてはいけないよ、貴方はどうかしてるんだよ、私たち親子なんかの為に貴方がそこまでする必要は無いじゃないか。いいですか、私の言うことを聞きなさい」
越川は急にあの誠実で思いやりのある面に変わって、亜希子に歩み寄ろうとする。
「来ないで下さい。私はもう、いいんです。こんなことしたくなかったけど、貴方にはもう、俊君から離れていて欲しいんです、お願いします」
そう言いながら本当は自分にはそんな勇気が無いことを、本当は恐くて、飛び降りる前に越川に止めて欲しいのだということを、完璧に演じる。でも半分は本当にそんな気持ちがあることも分かっている。
「貴方ね、どんなに悪いのか知らないけど、今は医学が進歩してるんだから、きっと生き延びる道だってあるんだから。ねっ、希望を捨ててはいけないよ。きっと私も力になりますから、ねっ、約束しますから」
貴方が本当にその部分だけで出来ている人だったとしたら、俊も詩織さんもどんなにか幸せな人生を送ることが出来たかもしれないのに……。
「私……私……」
吸い込まれそうに遥かな海に背を向けて、崖の縁に立ちながら、亜希子は閉じた目から涙を溢れ出し、うううう……と呻き声を漏らす。
「大丈夫だから、ね、何も心配しないで、きっと私が力になってあげますから……ね、ねっ……」
と言いながら近付いた越川が亜希子の腕をつかんだ瞬間、亜希子は越川の身体に両腕を回す。
抱き付いた亜希子はそのまま足を前へ踏み出して、渾身の力を込めて後ろへ引っ張る。
「わっ、バカ、何するんだ!」
一歩……もう一歩。
「お、おい、やめろ、バカやめろ、やめろっ、おいっ……」
……まだか……もう一歩、あと一歩……そこに地面は無かった。後ろへ反り返る様にして、越川を抱きしめたまま倒れて行く。
「うわああああああー!」
越川の絶叫と同時にズザッと音がして、ガガッと岩か木に身体をぶつけて跳ね上がり、ビュウゥーーと凄い風が吹き上げて来る。違う、私が落ちてるんだ。越川も落ちたろうか、落ちた……きっと落ちた……。
ザッバーン! 衝撃と共に何もかも消えて無くなる。




