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亜希子の慟哭


第四章 8




 その夜。明け方の4時に寝床を出る。何かあるといけないということで、亜希子の部屋は常夜灯を点けて寝ているので、そのまま準備をすることが出来る。

 用意する物は昨夜のうちに整えておいた。ペットボトルを開けて痛み止めを飲み、座薬も入れる。検見川浜のマンションから母が取って来てくれた衣服の中から靴下を出して履く。ブラウスとスカートを選んで着替え、寒いといけないので少し厚手のコートを着て行こうと思う。

 お化粧もしたいけど、洗面所を使うと両親が起きてしまうかもしれないのでやめる。

 もう一度バックの中を点検し、必要な物が揃っているか確かめる。お財布と預金通帳もある。病院で貰ったありったけの痛み止めと座薬を忘れる訳には行かない。

 6時頃になると父さんも母さんも起きだして、庭の掃除や朝食の準備を始めてしまうので、それまでには家を出なければならない。

 洋服に着替え終わって、布団を綺麗に整え、その上に用意しておいた一枚の手紙を置く。バッグを肩に掛け、そっと襖を開けて部屋を出る。

 手紙には「今日どうしても行っておきたい所があるので行って来ます。大丈夫なので心配しないで下さい」とだけ書いておいた。

 足音を忍ばせて階段を下りる。一階の廊下をそっと歩き、両親の寝ている部屋の前を過ぎて玄関へ向かう。ふと振り返って両親の部屋を見る。

 お父さんお母さん、行って来るね……。これから私がしようとしていることは、いつかきっとお父さんもお母さんも解ってくれる日が来ると思う……。

 泣いている暇はないのでそのまま玄関に来て、そっと靴を履く。音を立てない様に物凄くゆっくりと鍵を開けて扉を開く。

 10月の夜明けの冷たい空気に身体が包まれる。身体がふらつかない様に気を付けながら扉を閉める。家の鍵は持っていないので外から鍵を掛けることは出来ないけれど、もう一時間もしないうちに両親も起きるだろうし、大丈夫だろう。

 家の門を開けて、まだ暗い街へ踏み出して行く。京王線の北野駅を目指して歩き出す。

 キャッシュカードもあるからいざとなればお金を引き出して、千葉までタクシーで行くことも出来る。

 貯金は500万円くらいある。セコセコ生活を切り詰めてして来た貯金だけれど、生涯賭けてこれっぽっちなのかと思うけど、私が自由に使う権利があるお金なんだ。 

 ふらつく身体のバランスを取りながら歩いていると、夜が明け始めて街がだんだん青く見えてくる。昔住み慣れた街。この角の向こうへ行くと通っていた小学校が見えるんだ。

 あ、この家は、中学の時一緒にテニス部だった早苗ちゃんの家だ。どうしてるのかな、久しぶりに会ってお茶でもしながらお喋りしてみたい。

 生まれた時からずっと過ごして来たこの街。この街で一緒に育って、今は大人になってバラバラになってしまった友達はみんなどうしているだろう。それぞれに家庭を持ってお母さんになったり、それとも一人身のまま仕事に頑張ったりしてるんだろうか。自分がこんなだから思うのかもしれないけれど、皆幸せに暮らしていて欲しいと思う。

 高校時代電車で通学していた頃、北野駅まで自転車で走った八王子バイパスの脇の歩道を歩いて行く。

 大通りに出ると冷たい風が吹いて寒くなってくる。空が青く明けて来て綺麗な空気に包まれてくる。チヨチヨと鳥の声が響く。

 時々ビュンビュン通り過ぎて行く自動車を横目に見ながら、フラフラする足取りでゆっくりとだけど、確かに自分の脚で歩いている。

 私がやろうとしていることを他の人が知ったら、きっと何故通りすがりの殺人者である少年の為にそこまでするのか、って不思議に思うだろう。貴方バカじゃない? って言うかもしれない。

 あの事件が起きるまで私と俊とは何の関わりも無かった。俊の起こした事件だって全く他人事のお家騒動なのだ。そもそも亜希子は巻き込まれてトバッチリを受けた被害者だったのに……何で? それなのに何で私は今こんなことになって、こんなことをしているのか……って自分の胸に問いかけてみても、亜希子にはこんな答えしか思いつかない。それはきっと、私が私だから。




 かなりの時間をかけて、ようやく京王線の北野駅まで辿り着く。家から30分くらいはかかったろうか。今にも起きて気が付いた両親が追って来て、連れ戻されてしまうんではないかと思いながら、新宿までの切符を買って自動改札を通る。

 まだ朝早いせいかエスカレーターは動いていない。仕方なく手すりに捕まりながら階段を登ってホームまで行く。

 広いホームにはまだまばらにしか人がいない。電車通学を始めた高校時代、それから短大へも、就職が決まった会社へも最初の4年間はこの駅から通っていた。

 この駅には私の人生の一部が刻まれているんだ。なんて大げさな感慨に浸っている自分が可笑しくなってしまう。死期が近くなった人間だからそんなことを考えたくなるんだろうか。

 今日も世界では戦争や災害で多くの人が亡くなっていて、こんな私一人がどうなったって些細なことなんだ……という思いもある。自虐的になっているというよりは、本当にどうでも良いことの様にも思う。

 朝早いので電車の本数も少なくて、次の電車が来るまでに15分も待たなければならない。それまでに両親が探しに来てしまうのではないかと思い、早く電車が来ないかと思う。

 そんなことを心配するくらいなら駅前のロータリーに止まっていたタクシーに乗ってしまえば良かったとも思うけど、タクシーだと運転手さんが私の顔色を見て具合が悪そうだと心配して、目的地まで連れて行って貰えないかもしれない。

 でもそんな考えとは別に、今日亜希子はどうしてもこの駅から電車に乗って行きたいと思った。

 やがてホームに通勤快速の電車が入って来る。空いているシートに腰を掛けると扉が閉まり、ホームが流れて行く。もう両親に捕まることは無いだろうと思う。

 このまま終点の新宿まで行って、中央線に乗り換えて東京駅まで行き、そこから千葉へ向かおうと思う。

 電車は多摩川を渡り、25歳の時に初めて一人暮らしをした府中駅に止まる。忘れもしないここに住んで1年くらい経った頃、あの朝発作が起きて、倒れて、私の人生が変わってしまった。その後何ヶ月か置きに八王子の病院へ検査を受けに行きながら5年間を過ごした頃も、この駅から会社へ通ってた。

 ここも私の人生の一部なんだ。あの朝倒れたのはあの辺りだったろうか。と思う間に電車は走り出し、亜希子は微笑みながら府中駅を見送る。

 電車は調布駅を過ぎて、明大前駅を過ぎる。時間はまだ7時前だ。電車が新宿に近付いて来ると、ふと亜希子は思った。少し会社の風景を見て行こうかな……でも心の奥で本当に見たいものが何であるのかは分かっている。

 隆夫の姿をもう一度見たい。声は掛けなくてもいい、遠くからチラリと姿を見るだけでもいいから。隆夫がちゃんと生きて、歩いて行くところを見たいと思う。

 そんな寄り道をしているうちに発作に襲われて倒れてしまったらどうしようとも思うけど、何をしようと私には全ての決定権があるんだから。私がそうしたいと思えば、そうするんだ。

 電車内に貼ってある路線図を見て、日本橋への乗り継ぎを考える。

 笹塚で都営新宿線に直通の電車に乗り換えて九段下まで行き、そこから東西線に乗って日本橋まで行くことにする。

 電車が新宿に近付くに連れて乗客も増えて来る。笹塚駅で乗り換えて、九段下駅で降りる。さすがに人通りも多く、足取りがふらついて、気を付けていないと早足に歩いている人にぶつかってしまいそうになる。

 身体が疲れない様になるべくゆっくりと歩きながら東西線に乗り換えて、どうにか日本橋駅へ着いたのは7時半頃だった。

 今ならまだ出社して来る人はいないだろうから、会社の人に見つかる心配も無いと思う。ゆっくり歩いて、出社して来る隆夫が見られる場所を見つけて身を潜めていようと思う。

 駅から地上へ出ると眩しい朝日が照り付けてくる。大きなビルの立ち並ぶ中をいつも通っていた道を歩いて行く。

 住宅建築資材部のあるビルの通りを過ぎて、隆夫が勤めている大規模建築資材部が入ったピカピカのビルまで来る。

 出社して来た隆夫はここからビルへ入って行くに違いない。そしてここを通る隆夫を見るには……あまり遠くだとよく見えないし、かといって近過ぎても私のことに気付かれてしまうかもしれない……。

 と考えて辺りを見回した結果、ビルの入り口から斜め前にある歩道の植木の後ろに立っていることにする。距離的には凄く近いけど、隆夫が駅から歩いて来る方向とは反対側だし、こんなところで私が隠れて見ているなんて思いもしないだろうから、見つかる心配はないと思う。

 社員たちが出社してくるまでにはまだかなり時間があるので、側のコンビニに行ってお茶を買い、そこにあるベンチに座って痛み止めの薬を飲む。

 出来れば出社時間になるまで、ここで座らせて貰っていようと思う。もう10月だけれどまだ気温はそれ程下がらないので、寒さを感じなくて良かったと思う。

 この後電車を乗り継いで房総半島まで行く段取りを復習したりしているうちに時間は過ぎて、そろそろかもしれないと思い、コンビニのベンチを離れ、ビルの入り口の斜め前にある植え込みの陰に立つ。

 やがて背広姿の男や女性社員たちが出社して来た。次々にビルの玄関を入って行く。隆夫の姿を見損なわない様に目を凝らして一人一人を確認する。

 そのうちに隆夫を大建部に引っ張って異動させた川原部長の姿が見えて来た。アッと思うとその後ろから川原部長に何か話しながら付いて来る隆夫の姿が見えた。

 ……隆夫……間違いない……川原部長に話をして、機嫌を取っているんだろうか、川原部長に追従して行くことでしか隆夫が出世して行く道は無いから、一生懸命なのかな……。

 みるみる近くへ迫って来て、亜希子のほんの数メートル先のところを他の社員たちと一緒にスーッと通り過ぎて行く。

 隆夫……頑張ってね、上司のご機嫌を取ったりいろいろ大変だと思うけど、きっと会社の中心人物になって活躍して行くこと、祈ってるからね……。

 川原部長に続いて隆夫の姿がビルの中に消えてしまうと、何かホッとした様な気持ちになって入り口を見つめている。

 その時不意にビルから隆夫が出てきてこちらを見た。ビックリして思わず木の陰に背を向けると足音が近付いて来る「亜希子? ねぇ亜希子なの?」と呼ぶ。

 こんな姿を見られたくない……俯いて身体を丸める様にしてそそくさとビルの反対側へ歩き出す。だが隆夫は後を追って来て亜希子の肩をつかむ。

「ねぇ、亜希子、亜希子でしょう? どうしたの? 心配してたんだよ」

 走り出す元気は無いけれど、そのまま止まらずに歩く。隆夫は小走りに亜希子の前へ来て、亜希子の両肩をつかんで止まらせ、俯いた顔を覗き込んで来る。

「……やめてよ」

 と振りほどいて顔を背ける。

「どうしたの? 住建部の人に聞いたら病気で暫く休んでるっていうから心配してたんだよ」

 お見舞いにも来てくれなかったくせに……。

「もう治ったの? ねぇ……すっごい顔色悪いよ、ねぇ大丈夫なの?」

「何言ってんのよ、アンタそんなことしてる場合じゃないでしょ。川原部長のことひとりで行かせちゃダメじゃないの! ホラ、早く、部長のとこに行って」

「えっ……でも」

「私のことは心配いらないんだから、隆夫はこれから頑張って出世して行かなくちゃならないのよ、これから会社のことを背負って立つエリートなんだよ、自分の立場分かってんの? 皆隆夫に期待してるんだよ」

「……」

 隆夫は急に現れた亜希子が何故そんなことを言い出すのか、理解出来ないという様にポカンと見つめている。

「いいから、頑張ってね、ホラ、早く行かないと遅刻するぞ、行って、早く! 行くの」

 元気そうに言うことが出来た。本当はカラ元気だったけど、隆夫はそんな私の剣幕に気圧されたのか「う、うん。分かったよ、でも……」と戸惑っている。

「いいから! さぁ、はやく行ってらっしゃいっ」

「う、うん。また連絡するから」と言って心配そうに振り返りながら小走りに戻って行く。

 隆夫の姿が見えなくなる。良かった……不意に込み上げて来るものがあって、慌てて側にあるビルとビルの間によろめいて入る。狭い地面があって空き缶や紙くず等が散らばっている。

 そのまま両手をついて四つん這いになり、胸から顔に込み上げて来るものに備える。

 地面に顔を擦り付けるとガクガクと震え出して、口から唸りが漏れだした。

「うっ……うっ、うっ、うっ、うううう~~~」

 くちゃくちゃに顔が引きつったまま涙が溢れ出して行く。まだ身体の中にこんなに水分が残っていたのかと思うくらい、湧き出して、流れ落ちる。

「わあああああ~ああ~あ~あ~」

 構うもんか……どんなに声を上げたって、通りすがりの人に聞こえたって、きっと仕事に行くところだし、皆自分のことで精一杯で、ビルの隙間で泣いてる女のことなんて、構っている暇なんて無いんだから。

「ああああああ~お~お~お~」

 全部出し切ってしまおう。最後の一滴まで出してしまって。さっぱりしておいた方が良いんだ。

「わぁ~ん~わぁ~~ん~~はあああ~おおおお~お~お~おおおおおーーー!」

 自分の声がまるで獣の唸り声みたいだ。かと思うとしゃくり上げて甲高く裏返る。

「はあああああーーあーあーはあああああー」

 子供みたいに時々しゃくり上げては引きつりながら、終わるまで咆えるに任せている。

 そのうちに治まるだろう。そうすればきっとまた勇気が出て、立ち上がれるに違いない。

 朝の日本橋のオフィス街で、見知らぬ女の泣き声がビルの谷間にこだましている。


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