亜希子の決心
第四章 7
2階の部屋に布団を敷いて貰い、横になる。そこは25歳の時に家を出るまで亜希子の部屋だった。
今は来客用の部屋になっていて、亜希子が使っていた勉強机もベッドも無くなっているけれど、押入れを開けてみるとまだ小学校から短大までの卒業アルバムや懐かしい日記帳等が入ったダンボール箱がそのままになっている。
まだ昼間だし全然眠くなんかないけれど、ミイラの様な私には布団に横になっているのが自然な姿の様な気がする。
お母さんに9月30日からの新聞がまだ捨ててなかったら見たいと言って全部持って来て貰う。俊が警察に保護された日から今日までの記事をもう一度見てみようと思う。
だが、9月30日に中央区の交番に保護されたという記事が翌日の10月1日に載ってから後は、俊についての報道は何も無かった。
私に出来ることは何だろうといろいろ考えて来たけれど、これだけは言えると思うのは、俊を立ち直らせるには、詩織さんは決して俊を嘲っていたのではなく、微笑みかけていたのだということを俊に自覚させなければならないということだ。
自分はそんな母を刺し殺してしまったのだということを、目を逸らさずに直視して、その罪と向き合うこと。
それはどんなに辛いことかもしれないけど、後悔の念に押し潰されてしまうかもしれないけど、一度メチャメチャになってしまわない限り、立ち直るということもない。
どうしたら俊にそのことが出来る様にしてあげられるんだろう。果たして俊にそんな時が来るんだろうか。少なくともこのままでは無理だ。あの父親と一緒にいる限りは。
例え嘘で固めた罪を償って出所して来たとしても、俊の人生は越川によって支配されて行く。生涯逃れることが出来ず、恐怖に慄きながら卑怯者の人生を送ることになる。
俊はこのままでいいの? そこから脱出して自分の人生を取り戻したいという本能の様な物は無いの? このまま死ぬまであの父親に支配されながら過ごして行くつもりなの?。
これから先も俊は警察に本当のことは言わないだろう。越川は俊に私のことを「お前をたぶらかした悪い女だ」とでも思い込ませているのかもしれない。だから私が出頭しても俊を助けることは出来ないと思う。
……ああ、それよりも何よりも、こんな身体になってしまっては、もう何もすることが出来ないじゃないか。こんな身体の私でも何か出来ることはないだろうか。私は生きているうちにまた俊と会えることがあるんだろうか。
母さんは私の着替え等を取って来てあげると言って、検見川浜のマンションの鍵を持って父さんと出掛けて行った。
一度会社に連絡しておこうと思い、二階にある子機から掛けると、いつもの様に電話に出たのは小石さんだった。
「ご迷惑ばかりお掛けして申し訳ありません」と言うと『早く良くなって復帰出来るの楽しみにしてるからね』と言ってくれたので恐縮してしまう。
もうあの職場へ戻ることも出来ないのだろうか。そう思うと、20年近くもあの会社で働いていたことも、何か遠い世界の事だった様な気がする。
次の日、夜になって食事の用意が出来たと言うので下の部屋へ降りてみると、いつの間に用意したのか居間のテーブルにご馳走が並んでおり、真ん中には蝋燭を立てたケーキが用意してある。
ケーキに乗ったチョコレートのプレートに「アキコちゃんお誕生日おめでとう」とクリームで書かれている。まるで小学生みたいだな、と笑ってしまう。
10月11日。すっかり忘れていたけれど、今日は亜希子の39歳の誕生日だった。
こんなに沢山の御馳走は食べきれないだろうに、どうするのかなと思っていたら「こんばんは~」と声がして真由美姉さんが吉村さんと娘の由香里ちゃんを連れて来た。
「亜希子さん誕生日おめでとう」と高校生の由香里ちゃんがプレゼントを渡してくれる。 小さい頃から会う度に私のことを「叔母さん」ではなく「亜希子さん」と呼びなさいと言い付けて来たことを守ってくれている。
プレゼントの包みを開けてみると、小田和正の新しく出たベスト盤のCDと、お笑いコンビダウンタウンのDVDのセットだった。
「どっちにしようか迷ったんだけど、由香里が両方にしようって言うから。まだ暫くは静養してるから観る時間沢山あるんでしょ」
と姉さんが言う。私の好きな物をちゃんと覚えていてくれるんだ。と思うと、ホロリと涙がこぼれそうになってしまう。
ただ、皆が私の顔を見て、あまりのやつれ様に一瞬動揺した表情をしてしまうのが分かるのが辛い。
皆で御馳走を食べながら昔話に花を咲かせていると不意に「私はね、亜希子には悪いことしたと思ってるんだよ」と母さんが言い出した。
「あの時、12年前に菅橋先生が子宮と卵巣を摘出するって言った時、どうしても片方の卵巣だけは残してあげて下さいってお願いしたから、また悪い病気が再発してしまったんだからね、あの時私があんなお願いしなかったら、こんなことにならなかったかもしれないんだからね」
「そんなことないよ母さん。私だってあの時残して欲しいってお願いしたんだから。それに腫瘍が出来たのは肝臓だよ、残した卵巣は今だってそのままなんだから、きっとあの時両方の卵巣を取ってたとしても、こうなってたんだと思うよ」
卵巣腫瘍と一緒に子宮を全摘出すると言われた時、どうにか片方の卵巣だけでも残して欲しいとお母さんと一緒に菅橋先生に頼んだ。
だって両方の卵巣を失ってしまったら、女性ホルモンの分泌が無くなるっていうから、女性らしさが全く失われてしまうんじゃないかと思った。
もう自力で子供を産むことは出来ないとしても、少しでも自分が女である部分を残しておいて欲しいと思った。だってせっかく女として生まれて来たんだから。
くよくよしている母さんを元気付けようと思って、亜希子は努めて明るい表情をして言う。
「お父さんもお母さんも、私のこと育ててくれて、今まで生きて来られたこと、ありがとうね」
「そんなまるで助からないみたいな言い方するのはやめなさいよ。大丈夫なんだから」
と父さんが言う。
「うん。でももしものことがあったとしても、私は父さんと母さんの子に生まれて来て、幸せだったからね、何があってもそれだけは信じていてよね」
元気付けようと思ったのが逆効果になってしまい、泣き伏してしまう母さんの背中を擦りながら、亜希子は言葉を続ける。
「だってねお母さん。私はきっと片方だけでも卵巣が残ってたから、少しは女でいられたんだと思うよ。本当だよ」
……そうだ。私にはまだ片方の卵巣が残されていた分だけ、女らしいところも残されていたんだきっと。
そのお陰で隆夫との出会いや思い出も出来たんだし。そして俊とのこともこうなったのかもしれない。
あの時もし両方の卵巣を失っていたら、女性ホルモンが出なくなって、もしかしたら男性に対する恋愛感情や優しさも失っていたのかもしれない。
そしてあの日、俊に帰ってくると約束してアパートを出た時も、きっと真っ直ぐに交番へ駆け込んでいたのではないだろうか。
そうだ。全ては私の意志なんだ。だから私には、今までのこと全てに後悔なんて無い。きっとこれからも。
「お母さん。私は自分の人生を歩んで来たんだよ、だから母さんが自分を責めたりするのはやめて欲しいよ、ねっ、お願いだから」
ウンウンと頷きながらも、母さんはなかなか顔を上げてくれなかった。
そんなこんなでパーティーは終わり、姉さんたちも帰って行った。その後、一人で二階の部屋へ戻って来た時に、痛みが襲って来る。
胸の奥が針金で縛り付けられるみたいに痛い。それから腰も折れてしまいそうで、布団に倒れたまま身動きも出来なくなってしまう。
退院する時に渡されたオキシコンチンと言う麻薬系の飲み薬と、ボルタレンと言う座薬の痛み止めをお昼に入れたはずなのに、もう効き目が薄れてしまうということは、それだけ症状が進行しているんだと思う。
枕元に用意してあるペットボトルで薬を飲んで、パンツを下ろして座薬を入れる。呻き声が漏れるとまた母さんが上がって来てしまうので、必死に堪えてゴロゴロと布団の上を転がる。
だけど今日は思いがけず誕生日で、父さんと母さんに「今までありがとう」って言えて良かった……。
自分でも忘れていた誕生日を覚えててくれるなんて、これが家族なんだな、せめて私は一人で死んで行かなくて済むんだもの。ありがたいなと思う。
痛みに声が漏れそうになるので枕の端に噛み付いて耐えていると、脳裏に浮かんで来たのは検見川浜のマンションで俊と暮らしていた頃のことだった。
……あれは夢を見ていたんだろうか、あの朝、二人で迎えた東京湾の夜明けの情景。亜希子と俊一は世界で二人きりだった。それが段々俊の心が荒んで来て、俊一を社会復帰させて、医者になる夢を実現させてあげたいと思ってしたことが、こんなことになってしまった。
まだ私に出来ることはあるだろうか……。何かしてあげなければ、まだ私が生きているうちに。でも、こんなボロボロの私に何が出来るというのだろう。まるでもう、家の中で死ぬのを待っているだけみたいな私に。
11日前に中央区の交番に保護されたという俊一が、今何処でどうしているのかは全く分からない。少年事件は非公開の為、刑事裁判にならない限り裁判の傍聴は勿論、いつ何処の裁判所で行われるのかも、その結果を知ることも出来ない。
俊一の送られる道筋は、おそらく鑑別所から家庭裁判所、そこでもし検察へ送致されれば刑事裁判、そして行き着く先は少年院か少年刑務所ということになるのだろう。
俊一は今、何処かの鑑別所へ入れられていて、裁判にかけられるんだ。居場所さえ分かれば、そこでもし面会が許されるというのなら、まだ動けるうちにせめて様子を見に行きたいと思うけど、何処へ行けば良いのかも分からない。
裁判には越川が保護者として付き添っているに違いない。本人が反省していることや、家庭に問題があったということで、行き先が少年院に決まれば、きっと1年くらいで退院出来るのではないかと思う。
その後はあの父親にどんな風に扱われるのか……越川はまたきっと俊一を支配して、思うがままにしようとしているんだ。
私に出来ることは何? 私が生きているうちに……。
苦しみうごめきながらも回転させている頭の中に、只一つ小さな石の様に確固たるものがあるのを感じる。
その思いに至った時。苦痛にのたうっている身体に戦慄が走る。けど同時にそれが否応無く決定していることとして、自分のしなければならないこととして身体がリセットしてしまった様な感じだ。
それは自分がもうすぐ死ぬということと同じくらいに、そこから逃れることの出来ない真実として、そこにある。
亜希子にはずっと前からそれをしなければならないことが決まっていた様な気がする。それは俊が私のアパートに侵入した時からだろうか? それとも隆夫に捨てられた時から? いや隆夫と出会った時からか? もっと前? あの朝府中駅でお腹を押さえて蹲った時だろうか? それとももっと……もしかしたら、私がこの世に生まれて来た時から……。
そんなことが出来るはずが無いことは分かっている。でも、まだ針で明けた穴の様に小さな光だけれど、確固たる意思を持って瞬いている光が、やがて大きくなって私の意志を支配するであろうことも分かっている。
怖い、絶対に出来っこない、でも私はそれをしなければならない。中学の時お父さんからテニス部に入ることを反対された時も、父さんに逆らえるはずなんて無いと思っていたけれど、心の片隅に今と同じ光があることに気付いてた。
今は不可能に思えても、きっとまたあの光が大きくなって、私を包み込んで行くんだ……。
だけどこんなヒョロヒョロな私に出来るだろうか。私はどうなったって構わない。けど他にも考えなければならないことがある。それは父さんや母さん、それに姉さんや吉村さん、それに由香里ちゃんにも誰にも、決して迷惑が掛からない様にしなければならないということ。
どうすればいいんだろう。どうすれば出来るんだろう。手掛かりは、私がもうそう長くは生きられないだろうということ……。
痛みに蠢きながら、考えに耽り、殆ど眠りに付くことも出来ないまま朝を迎える。でもようやく痛みも治まって来て、朝ご飯を持って来た母さんと普通に言葉を交わすことが出来た。
朝食を食べた後、洗濯していた母さんが父さんと一緒に買い物に出掛けたところを見計らって、寝床の中で子機を使って電話を掛ける。
電話番号が分からなかったけれど、番号案内に掛けて大体の住所と名称を告げると、調べて貰うことが出来た。
電話に出たのが誰でもいい様に頭の中でシュミレーションを確認し、緊張しながらダイヤルを押す。
呼び出し音が暫く続いた後、相手が出る。
『はい、会沢診療所です』
所長の会沢さんの声だった。
「あの、もしもし、越川先生は、いらっしゃるでしょうか?」
『ああ、回診に行ってますけど、どういったご用件でしょうか?』
「あ、分かりました。また後ほどお電話しますので、すみません」
電話を切る。回診に行っているということは、まだあの診療所に勤務しているということだ。
きっと私に居場所を知られていることなんて、気にしてないんだ。私には犯罪者を匿っていたということだけでなく、未成年者に猥褻行為を行なったという引け目もあるし。
そもそもアイツは私が俊を弄んで、飽きて始末に困ったから自分に押し付けに来たのだとしか思ってないから。そんな私を殴り倒して懲らしめたことで、もう二度と近付いては来ないだろうと高をくくっているんだ。
確かに私には、アイツの名前を思い浮かべただけで震えてしまうくらいの恐怖を植え付けられている。それは今電話機を握っているこの手の震えを見れば分かる。
恐怖とは戦うことが出来るだろう。心配なのは身体の方だ。
痛み止めの薬を常時飲んでいるし、座薬も入れてはいるけれど、痛みの発作に襲われてしまえばその場で動けなくなってしまう。しかもその症状は日が経つに連れて悪化して来ている。
一日でも早くしなければ、今にも力が無くなってしまいそうな気がする。だから、自分でもそんなに急にとは思うけど、明日決行しなければならないと思う。それはもう、否応もない決定事項だ。




