一夜が明けて……
第一章 2の1
いつも6時半にセットしている目覚まし時計は鳴らないだろう。
プルルルルル……。
しんとした部屋に大きな音が鳴り響く。
家の固定電話が鳴っているのだ。
その人が身をよじる気配がする。電話はすぐに留守番電話に切り替わり、応答用の亜希子の音声が流れる。
「はい、倉田です。ただ今留守にしております。発信音の後にメッセージをお入れ下さい」
ピーッ……。
「……」
相手は何も言わず、ブツッと切れる音がしてプーップーッと不通音に切り替わる。
「午前9時30分です……」
着信時間を告げる電子音声がして沈黙する。
午前9時30分……きっと会社からだ。めったに遅刻したことの無い私が始業時間を30分も過ぎても来ないので、心配した誰かが電話を掛けて来たんだ。
その音で目覚めたその人はガサゴソと起き出して、台所に行ったり、部屋のカーテンを捲ったりしている音が聞こえる。外の様子を伺ってるんだろうか。
ジョロジョロとおしっこをする音が響いて来る。トイレのドアを開けっ放しで、立ったまましている。隆夫が来ていた頃によく聞いていた音だ。私がドアを閉めてしてよ、と言ってもちっとも聞いてくれなかった。今にして思えば懐かしい音だなと思いつつ、やっぱりこの人は男の人なんだなと思う。続いてバシャーと水を流す音。
ああ、今日は会社を無断欠勤することになってしまう……。
隆夫と別れて以来、会社での周囲の目線が嫌だったけど、生活の為には仕事を辞める訳にも行かなくて、気にしない振りをして頑張って来たのに。牧課長のセクハラもやんわりとかわして、周りにも気を遣って勤めて来たというのに。
もしこのまま何日も無断欠勤を続けることになれば、きっとおかしいと思って誰か自宅まで様子を見に来るかもしれない。
でもそうなったらきっと、直接私の家を見に来る前に、八王子の実家の方に連絡が行くんじゃないだろうか、もしそうなったら、多分様子を見に来るのはお母さんだ。
もしそんなことになったらこの人はどうするだろう。その前にこの部屋から出て行ってくれればいいけど、もしお母さんが訪ねて来た時に、ここで包丁を持ったこの人と出くわしたら……。
プルルル……再び電話のベルが鳴る。
留守電の応答メッセージに切り替わり、再び亜希子が吹き込んだ音声が流れる。
「はい、倉田です。ただ今留守にしております。発信音の後にメッセージをお入れ下さい」
ピーッ……。
「もしもし……倉田さん? お早う~小石です。今日はどうしましたか?……もしいたら連絡下さい~」
それだけ言ってプツッと切れ、後にプーッ、プーッと不通音が響く。
「午前9時、46分です……」
そして沈黙する。
「おい……」
男だか女だか分からないその人の声が聞こえたと同時に、ボカッと亜希子のお腹の辺りに蹴られたか叩かれたかした衝撃が響く。多分つま先で蹴ったのだろう。
「会社に電話して風邪で休むって言えよ」
この状態でどうやってやれっていうのか。
そう思った時いきなり腕と腿の辺りをつかまれて、乱暴にうつ伏せにひっくり返される。痛い! そして口に噛まされたタオルが後で無雑作に解かれる。一晩中口に噛まされていたタオルが取られ、顎がカクカクする。
「余計なことしゃべったら殺すからな」
亜希子の頬にペタペタと当てられる金属質の冷たい感触がする。ヒッ、とする。あの血の付いた包丁だ……恐い、刃先はどっちを向いてるんだろうか。
亜希子は頭を動かしてウンウンと頷く。
その人はノートパソコンやCDを並べてあるラックの上から家の固定電話を引っ張って来て、側に置いているらしい。
「会社の電話番号を言えよ、かけてやるから、繋がったら今日は風邪で休みますって言えよ、分かったか」
夢中でウンウンと頷く。
震える声で間違えない様に自分の部署に直通の電話番号を言う。
その通りにプッ、プッとプッシュボタンを押す音が響く。
耳に受話器が当てられる。きっとこのまま喋れば良い位置にあてがわれているのだろう。
プルルル……相手の呼び出し音がして、すぐに相手が出る。
『はい、北田建材住宅資材部でございます』
さっき電話をくれた小石さんの声だ。
「……あのう、倉田です……」
『ああ、倉田さん、どうしたの?』
「すいません。風邪を引いたらしくって」
『あらそう、大丈夫?』
「はい……」
オフィスで電話を取っている小石さんの姿が目に浮かぶ。本当は私も今あそこで制服を着てパソコンの前に座っているはずなのに。それがまるで違う世界に飛ばされてしまっている。あそこにあった私の日常……毎日詰まらないけれど、私はまたあの世界に戻ることが出来るんだろうか……。
1
「今日はお休みしますので、連絡が遅れてすいません」
そろそろ月末が迫って忙しくなってくる時期だから、休んだら迷惑が掛かってしまうけど、この状態ではどうすることも出来ない。
『そう、分かったわ』
「御迷惑おかけしてすみません。なるべく早く体調を直して行きますので……」
『大分悪いの?』
「いえ、それ程でもありませんので……」
小石さんのお喋りが始まると長くなるから、上手く切り上げなくちゃ……。
『分かったわ、それじゃ課長に伝えとくから、お大事にね』
「はい……ありがとうございます」
それだけ言った時、その人がガチャッと受話器を置いてしまう。
上手く喋れただろうか、不審に思われなかっただろうか、ほんの一言二言の会話だったけど。普段から小石さんとはそんなに打ち解けて話してる訳でも無いから、きっと大丈夫だろうとは思う。
今の電話を不審に思って小石さんが誰かをここに寄越して来たりするのは避けたい。だってこの状況で誰かが訪ねて来たりしたら、この人がパニックを起こして何をするか分からないもの。
その人は電話機を何処かに置いた後、また口にタオルを噛ませようとして来る。
「あのう……」
恐る恐る言ってみる。
タオルを噛ませようとする手が止まる。
「すいません、おしっこがしたいんですけど」
また漏らしてしまうのは嫌だった。昨夜漏らした時は拭いてくれたのだから、少しは融通を効かせてくれるのではないかという希望があった。
「……」
その人は黙っている。
「また……漏らしちゃったら、嫌だから」
「しょうがねえなぁ」
「絶対余計なことはしませんから、お願いします」
「それじゃ足だけ解いてやるからな、逃げようとしたら殺すからな」
「はいっ」
その人は足首と膝の辺りを縛っていた布を解こうとするが、メチャメチャに縛っていたので中々解くことが出来ない。
それでも何とか両方解いてくれて、再び私を仰向けに引っくり返す。
解かれた足を伸ばすとやっと血が通い始める。
「じゃあ立てよ」
と私の両肩を引っ張って上体を起こさせ、後手に縛られたままの腕をつかんで立ち上がらせようとするのだが、腕をつかまれた瞬間物凄い痛みが走る。
「痛い!」
「えっ」
と言ってその人は手を離す。
ギュウギュウに固められて痛みも麻痺していた腕を急に動かされたので、折れてしまったかと思うくらい軋んで痛かった。
「じゃ、どうすればいいんだよ」
「あの、ゆっくりで……」
「後からなら大丈夫か」
そう言って後ろに回ると、両手で私の上半身を抱え込む様にして身体を持ち上げようとする。だが私の身体が重いので中々立ち上がることが出来ない。
解かれた両方の膝を曲げ、上体を引き付ける様にして体重を前に移動し、後ろから持ち上げてくれるタイミングに合わせて足に体重を乗せる。やっとしゃがんだ状態まで身体を持ち上げることが出来た。
よろけながら立ち上がる私の身体をその人は転ばない様に支えてくれる。
目隠しをされたままの私は何も見えないので、トイレの方まで連れて行ってくれた。
部屋の間取りも、トイレの前にある段差も分かっているので、それ程造作なくトイレの中に入ることが出来る。そして足探りでそこにあるはずのスリッパを見つけ、両方の足に履く。
でも、後手に縛られたままではどうやってパンツを下ろせばいいんだろう……。
トイレに入って、ドアを閉める段になってもう一度頼んでみる。
「あのう、もうひとつお願いがあるんですけど」
「……なんだよ」
「手を、後ろで縛ってるのを、前にして貰えないでしょうか、そうすれば自分で下着を下ろすことが出来るので……」
「それじゃ後向けよ」
後を向くとその人は縛った手首を解きに掛かる。だが腕もビニール紐でメチャメチャに結んであるのでなかなか解くことが出来ない。
少し緩んで来た紐の間に包丁を入れてゴシゴシと切っているらしく、それが手に当たったらと思うと恐い。
やがて両手が解かれて自由になる。さっきは折れたかと思うくらい痛かった肩が動かせる様になったけど、まだ急に動かすと痛みが走る様で、そ~っと動かして両手を身体の前で縛りやすい様に組み合わせる。
その人は私が前に回した両手を、後手に縛るのに使っていたビニール紐で縛り直しにかかる。適当に包丁で切ったので短くなってしまっているはずだから、切れ端を繋ぎ合わせて長くしているらしい。
今この人は両手を使って私の腕を縛っている。だから包丁は何処かに置いて、持ってないはずだ。でも私は目隠しをされたままなので何も見えない。この状態で飛び掛ろう等という考えは微塵も起きない。そんなことをしたらすぐに近くにある包丁で刺されてしまうに違いないもの。
何度も念入りに力を入れて、前で組み合わせた亜希子の腕を縛る。
良かった。これでパンツを下ろしてトイレをすることが出来る。
「ありがとう……」
場違いかもしれないけれど、思わず漏れた言葉だった。
その人は何も言わずにトイレのドアを閉める。
縛られたままの両手で苦労しながらスカートの中をゴソゴソとパンツを下まで降ろす。昨夜失禁したのでまだ湿っている。
足を揺らしてパンツを床まで降ろしてしまい、片足で便座の影の見えないところへ蹴ったつもりだったけど、ちゃんと便座の後に隠れたかどうかは分からない。
ようやく便座に座ろうとしてアッと声を上げた。便座が上がっているのだ。目隠しをされているので見えなかった。さっきあの人が小便をした時に上げたのだ。お尻がベンキにはまり込みそうになってしまう。
「どうした」
その人の声がする。
「何でもありません、大丈夫ですから」
隆夫が来なくなってからは、このトイレを男性が使うことなんて無かったから、思いつかなかったのも無理もないや。
あの人は間違いなく男なんだ。いつもは気にせずにしているところを、音を聞かれるのは嫌だと思い、縛られた両手で水を流して、それから便座に座る。
無事におしっこは出来たけど、便座の裏へ隠したつもりのパンツをまた履く気にはなれない。でもどうしよう……そんなこと構っている場合ではないのかもしれないけど、このままノーパンでいて、何かの拍子であの人にスカートの中が見えてしまうのはとても嫌だ。
「おい、終わったら早く出て来いよ」
ドアをそっと開けて言う「あのう……すいません。またお願いなんですけど」
「今度は何だよ」
「そこのタンスから、私の下着を渡して貰えないでしょうか、昨日汚してしまったから、履き替えないと、気持ち悪いので」
そこまでの頼みは聞いて貰えないかと思ったが。その人がタンスの所へ行って引き出しを開ける音が聞こえる。そして足音が側へ来て、ドアの間から出した両手の上に下着を持たせてくれた。フワリとした感触がある。
「あ、ありがとうございます」
考えてみれば、自分の下着を持って来て貰うなんて、こんなに恥かしいことも無いけれど、目が見えない状態だから恥かしさもそんなに感じなかったのかもしれない。
その人が渡してくれたパンツの向きを履き易い様に確かめる。縁に付いているフリルの感触で、それがどのパンツなのか分かる。見えないけれど色柄も分かる。
見えない上に縛られたままの両手で苦労してパンツを履く。
トイレを出ると目が見えずに手探りの亜希子の手をその人はつかんで、六畳間のカーペットの上に座らせる。
その人は亜希子の足を縛り直すこともせず、テレビを点けて見始める。
リモコンでパチパチとチャンネルを回しているらしく、音声が度々切り替わる。
ワイドショーらしい音声が聞こえて来る。よく耳にしている司会者の声が流れる。
「え~また悲惨な事件が起きてしまいました。昨日世田谷区で、高校生の少年が母親を刺して逃げるという事件が起きました……」
またチャンネルが変えられて声が途絶え、別の番組に切り換えられる。
「……北海道の函館市で観光バスが衝突事故を起こして横転し、乗っていた観光客のうち3名が頭を打つなどして、怪我をした模様です……」
またチャンネルが切り換えられ、別の番組の音が聞こえて来る。
と思うと急にテレビのボリュームが下げられて、聞き取れないくらい小さな音になった。
どうしたのだろう。最初はどういう訳なのか分からなかったけれど、思いついた。もしかしたらこの人が関係している事件の報道が流れていて、それを私には聞かれたくないから、自分だけテレビに耳を近付けて聞いているのではないだろうか……。
それから暫らくテレビの音が小さくゴニョゴニョしていたかと思うと、急に肩を叩かれる。
「おい」
いつの間にか近くに来ていた声に驚いて身を硬くする。
「はい」
「腹減ったんだよ、冷蔵庫の他に何か食べる物ないのかよ」
「あの、あそこの戸棚の中に」
「お菓子とかしかないじゃんかよ」
「ラーメンとかスパゲッティとかも買ってありますけど」
「そんなの作るの面倒臭いだろ」
「……」
冷蔵庫の中にはタッパーに入れたご飯やリンゴやバナナもあったはずなのに、それ等もみんな食べてしまったんだろうか。
「あの、良かったら私、何でも作りますけど」
「何作るんだよ」
「スパゲティでもラーメンでも、お米があるからご飯だって焚けるし、レトルトのカレーとかもありますから」
「そんなこと言ってどうやって作るんだよ、縛られたままで作れるのかよ」
「あの……信じて下さい、私ヘンなことは絶対しませんから」
「解いたら逃げるつもりなんだろ」
「心配だったら、身体に何か巻きつけて逃げられない様にしといたらどうですか、そんなことしなくても私絶対逃げませんけど、そうだ、身体に紐を結んで、その紐を貴方が持っていればいいじゃないですか」
あまり調子に乗って喋っていると、うるせえ! とか言って逆上されるのではないかと思ったけれど、黙って聞いてくれる様なので、出来るだけその人に従順に従いますという意志表示をしようと一生懸命に話す。
「私いろいろ買い置きしてありますから、何でも作りますから」
「でも目隠ししたままじゃ作れないだろ、目隠し取ったら俺の顔が見えちゃうだろ」
「あの、そっちは見ない様にしますから、私は台所にいて、こっちの方は絶対見ませんから、貴方はこの部屋にいて、私の身体に結んだ紐の端を持って待っててくれればいいですから、お願いします。何か食事になる物作りますから……」
「……」
考えている様だった。
「……分かったよ、もし俺の顔見たら殺すからな」
「はい」
その人は亜希子の腰に新しいビニールの紐を結び始める。
メタボリック、と言う程ではないけれど、30代も後半になって、気を付けているつもりでもだんだんお腹にお肉が付いて来るのをどうしようもなくて、こんな状況でもお腹を触られるのが恥かしい。
お腹を膨らませた状態で縛って貰えたら、後で苦しくなくて良いと思うのだけれど、その人は何重にも巻き付けて力を入れて縛るので少し息が苦しくなってしまう。
手で引き千切るのは無理だろうけど、ビニールの紐なんて、ハサミひとつあれば簡単にチョキンと切ってしまえる。ハサミは台所の流しの引き出しに入っている。隙があったら切って逃げることが出来るかもしれない。
その人は私の腰に固く紐を結んでしまうと、今度は両手に巻きつけている紐を解きにかかる。
「腕の間を出来るだけ広げて、そのままにしとけよ、包丁で切るからな」
少し緩んだ両手を左右に力を入れて引っ張っていると、その間でゴシゴシと揺れる様な感触があって、やがてバッと両腕が離れる。後は目隠しだけだった。
「じゃあ立てよ」
手を取られてよろけながら立ち上がる。腰に結ばれたビニール紐がワサワサと音を立てる。
「こっちに来い」
どうやら台所の縁に立たされた。
「目隠し取るからな、絶対こっち見るなよ、包丁持ってるからいつでも刺せるんだからな」
「はい」
ガサゴソと目隠しが解かれる。取られてみるとそれは冬用のトレーナーだった。タンスの奥にしまってあった物だ。
ずっと暗闇の中にいたので、視界が歪んで見える。でもだんだん良くなって来る。
見慣れた台所がある。私は警察官にしょっ引かれる犯人の様に紐で腰を繋がれて、その端をその人が持って弛まない様に引っ張っている。少し歩き難い。
あーやっぱり買い物袋は昨日ここに置いたままになってる……。
一番心配だったアイスクリームは……どうしても止められないジャイアンツコーンとチョコモナカを買ったと思うけど、入ってない、あの人が食べたのか、見るとゴミ箱の脇に破いた包み紙が落ちている。
お弁当用の冷凍食品のコーンコロッケとミニハンバーグは溶けて柔らかくなってしまっているけど、また冷凍すれば問題無いかな……それ等の包みを冷凍庫に入れる。絶対に後は見ない様にして。
総菜屋さんのおばさんがオマケしてくれたイカフライとメンチカツはやっぱり食べちゃったんだ……半分ずつにして昨夜のオカズと今日のお弁当にしようと思ってたのに、どうせ両方とも必要無くなったからいいか……。
投げ出されて中を物色されたバックには、空のお弁当箱がそのまま入っている。手帳や携帯電話はあの人が出してしまったらしい。
弁当箱の蓋を開けて流しに入れる。
台所と六畳間の境に立っているその人の方は絶対向かない様にして、買い物袋に残ったその他のレトルト食品や長ネギを出す。
長ネギを入れる為に冷蔵庫を開ける。毎日小出しにしながらお弁当にしているタッパーに入ったご飯がそのまま残っていた。
「あのう、良かったらチャーハン作りましょうか、お冷ご飯が沢山あるから」
「何でもいいから早く作れよ」
「はい……」
チャーハンで良しとみて、まず冷凍庫に入っているウィンナーをレンジにセットして解凍し、長ネギを刻む為に引き出しから包丁を出す。コレで紐を切って……と思うけど、その人はあまりにも近くで包丁を握ったまま私のすることを見つめている。紐を切るよりも早くブスリと刺されてしまうのは目に見えてる。
そんなことを一瞬でも考えたことをおくびにも出さない様にして長ネギを刻み、生卵を解く。
スープもあった方がいいだろうと思い、ヤカンを火にかけて、ふたつのマグカップにインスタントスープの粉末を入れる。
きっと沢山食べるかもしれないと思い、お冷ご飯をタッパーごとレンジにかけて、固くなっているのが少し解れるくらいに温める。
フライパンを熱し、サラダ油をひいて、先にスライスしたウィンナーを溶き卵と一緒に炒める。
途端にジュワージュワーと音がして香ばしい香りが沸き立って来る。換気扇を回す。
そこへレンジで解したご飯を入れて、刻んだ長ネギと和える。塩とコショーを振りながらしゃもじでご飯を解しながら炒める。
そこへ仕上げの「チャーハンの素」を振りかけて混ぜ合わせる。
ひとりの時はこんなにいっぱい作ることはない、重いフライパンを苦労して揺すりながらしゃもじでご飯を混ぜ合わせる。こんなに沢山一度に作るのは、隆夫がいた頃以来だ。
それにしても、こんな状況でよく落ち着いて出来る物だと自分で感心するくらい、手際良く出来た。
……だってやるしかないんだもの、他にどうすればいいって言うの……。
だが台所と言っても三畳程の広さしかない狭い空間だ。フライパンを振ったり戸棚を開いたり、キョロキョロするうちにどうしても眼線の脇がチラッと六畳間の方を過ぎってしまう。
亜希子の腰に結び付けたビニール紐の端を持って立っているその人の姿が、瞬間的にだけど視界の端に映ってしまう。
チラッ……チラッ……私の目に一瞬でも写ってしまったことがその人には分からないのだろうか、見まいと思いながらも、瞬間的に眼線が過ぎってしまう度に、見たなこの野郎! と怒り出すのではないかと思い、ビクビクしている。
時折チラッと過ぎる範囲なので、しっかりと見ることは出来ないけど、思ったよりも背は高くない様だ。やはり男性の様だけど、身体付きも決して逞しい感じじゃない、私の腰に結び付けた紐の端を持っている手も細い感じだ。でももう一方の手に持ってこちらに向けられている包丁の刃が異常に大きく見えて恐い……服装は、上は半袖の白いシャツに下は紺色のズボンを履いている。
白いシャツには全体に迷彩服の様な模様が描いてあるのかと思ったが、それには少し違和感がある。元々真っ白なシャツだったのが酷く汚れた様な……それが人の血の跡だと分かると足がブルブル震え始める。
しっかりしなきゃ、動揺してるのを悟られない様に、出来るだけ普通に振舞わなくちゃ……。
時々視界の隅を過ぎってしまうことを隠しながら調理を続け、チャーハンが出来上がる。お湯が沸いたのでガスを止め、スープのカップにお湯を注ぎ、スプーンでかき混ぜる。
フライパンから皿にしゃもじでチャーハンを盛っていた時、誤ってこぼしそうになり、アッと思って受け止めた瞬間に、弾みでその人の方へ顔が向いてしまった。
一瞬眼があったけど慌てて背け、見なかった様に振舞ったけど、きっとその人にも分かってしまったに違いない。
「あの……私貴方のことは知りませんから、例え見えちゃったとしても誰だか全然分かりませんから……」
慌てて言い訳している。見たなこの野郎、と怒り出すかもしれないと思い、取り繕った様な感じになってしまう。
「今見ただろう」
とその人は言う。
「いえ、あの、見ていませんから」
「嘘つけよ」
恐怖が走るが、黙ってチャーハンを皿に移す作業を続ける。しゃもじを持つ手がブルブル震えている。私の分は少しにして、その人には沢山食べて貰おうと山盛りにする。
でも本当は今見てしまった姿はハッキリ脳裏に焼き付いている。白かったはずのワイシャツに引っかぶった様な血の模様が、茶色く変色して乾いた様な感じだった。顔はそれまで想像も出来なかったけど、まるで子供みたいに若くて、男か女か分からない様な中性的な顔立ちをしていた。
「見ただろう!」
これ以上嘘を付くのは逆効果かもしれないと思う。
「はい……すみません。でも私、貴方のことは知らないし、後で誰かに聞かれても絶対見なかったと言ってごまかしますから……」
そんな言葉を信じて貰えるとは思えないけれど、言わずにはいられない。
「早く出来たら持って来いよ」
慌てて脇にスプーンを刺した山盛りのチャーハンの皿と、スープの入ったマグカップをお盆に乗せて、その人に渡す。その時も出来るだけ見ない様に顔を背けながら。
その人は受け取って六畳間にある小さな低いテーブルに乗せる。
亜希子は後を向いたまま台所で流し台の上に置いて食べようとするが、そこまでは結ばれた紐の長さが足りなくて、その人が六畳間で座ってテーブルに付くと、亜希子は台所の入り口まで引っ張られてしまう。
「もういいよ、どうせ今見たんだろ。ここに来て食べろよ!」
と紐の端をグイと引っ張る。
仕方なくチャーハンの皿とスープのカップを持って六畳間に持って来る。それでも出来るだけその人の顔は見ない様にしながら。
その人はムシャムシャと夢中でチャーハンを食べ始める。
俯き加減で亜希子も食べたが、今度は小さなテーブルを挟んで正面にその人が座っているので、俯いていても、どうしても相手の顔が眼に入ってしまう。
それが分かっているはずなのに何も言わない、この人はもう見られても仕方が無いと思っているのか。
まだ10代かと思われるくらい若い男、というより少年だった……しかも私は何処かでこの人を見たことがある。ちょっと考えてすぐに思い当たったのは、あの可愛らしい顔をした高校生のことだった。
いつも朝出勤する時、アパートを出た所で出くわしていた。きちんと制服を着て自転車に乗った高校生……そうだ。この少年が着ているのはあの制服のワイシャツとズボンなんだ。
勿論声を聞いたことも無いし、まさかこんな風に乱暴な言葉で声を荒げている様子なんて、あの儚げで物静かな感じからは想像も出来なかった。
この人がこんなことをするなんて、全く信じられない、私はこんな華奢で可愛いらしい顔をした人に、命を危険に晒されて、昨夜から翻弄されていたというの……。
この人なら、その気になれば、つかみ合いになっても負けないのではないか……黙々とチャーハンを食べながらそんな考えが頭を過ぎる。だがこの人の側らにはあの血の付いた包丁がいつでも持てる様に置いてあるのだ。その血塗られた刃を見ると、やはり恐ろしさに身体が縮み上がってしまう。
この人は毎朝すれ違っていた私のことを覚えていないんだろうか。
それとも私の家に来たのは私のことを知っていたから? いや今までの様子からしてそんなことはないと思う。
だけどこの人はどうしてこんなことをしているんだろう……。
そう思った時、やはり浮かんだのは昨夜帰り道に近所で出くわしたパトカーの赤色灯の群れだった。そしてさっきチラリと聞こえたワイドショーの司会者の声『……昨日世田谷区で、高校生の少年が母親を刺して逃げるという事件が起きました……』。
世田谷区で……高校生……この子のことなんじゃないだろうか、母親を刺して……この血糊が付いた包丁……返り血? を浴びたワイシャツ。
亜希子は意識して何食わぬ顔を装っているが、身体中をゾワゾワと鳥肌が包み込んで行くのを感じている。
人間という物はここ一大事という時には、不思議と自分でも思ってもみなかった程落ち着いた対応が出来てしまうことがあるという。
なるべく平静を装ってチャーハンを食べながら、内面では驚愕の思いに駆られている亜希子の口から出た言葉は、まるで拍子抜けする程呑気で、間が抜けて聞こえる程だった。
「……美味しい?」
「うん」
「ちょと味薄くないかな? ご飯入れすぎたかな」
「ううん。大丈夫……」
少年は美味しそうにムシャムシャと食べて、山盛りだったチャーハンをあっという間に平らげてしまった。
その時外で不意に足音がして、ガチャガチャと扉の鍵を開ける音が響いて来る。
少年はビクリとして包丁を取り、ドアの方を見る。
隣りの住人が帰って来たのだろう。普段から夜に出かけて行ったりするので、夜中の仕事をしているらしいとは思っていた。今仕事を終えて帰宅して来たのかもしれない。
「大丈夫だよ、きっと隣りの人が帰って来ただけだから」
驚いて立ち上がった少年を安心させようと思った。
少年はカーテンを捲って外の様子を伺う。見ると窓の鍵の近くが割れていて、穴が空いている。きっと昨日そこから手を入れて鍵を開けて入って来たに違いない。風でカーテンが揺れていたのはそのせいだったんだ。
少年は隣りの部屋からのガサゴソという物音に聞き耳をたてている。
「声出したら殺すからな」
と包丁を突きつける。亜希子は頷きつつ、チャーハンを食べる。
何事も無いことが分かると、少年は落ち着いて座った。