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事件の真相


第四章 5




 ピーッ、ピーッ……規則的になり続けている電子音に気が付いて目を開けると、透明な管を垂らしている点滴のバックが見える。点滴は反対側にも立っていて、それぞれから垂らされた管の先が腕の内側に刺さっている。

 身をよじろうとすると鼻の穴に管が差し込まれていて、口には酸素マスクが当てられている。人差し指が大きな洗濯バサミみたいなので挟まれて、そこからコードが繋がっている。足首にも何かの管が付けられてるみたいだ。股間にも管が差し込まれてる。これは尿管というんだろうか。

 ピーッピーッと絶え間なく響いていた音は、心拍数を示す機械のアラームだった。そこから伸びた導線が胸に貼り付けられている。

 虚ろな目でそのままボンヤリしていると、看護師が来て亜希子の顔を覗き込む。

「気が付かれましたか、そのまま安静にしていて下さいね」

 これじゃ安静にしてるより他はないと思うけど、どうなっているんだろう……マンションで意識を失ってから、一体どれくらいの時間が過ぎたのだろう。

身体の痛みは無くなっているけれど、全身が脱力してしまって、何処にも力が入らない感じだ。私の身体はもう、口に当てられたマスクから空気を送って貰わなければ呼吸することも出来ないんだろうか。繋がれている無数の機械によってしか生きることが出来なくなってしまったんだろうか。

 ベッドの脇に窓がある。寝たままでは見えないけど、外は明るいみたいだ。




程なくして看護師に連れられてお母さんとお父さんが来た。

「亜希子、もう大丈夫だからね」

 心配そうに亜希子の顔を見つめる母を見て、ゆっくりと頷くと目尻から涙が滴って行く。

 亜希子が言葉を発しようとしているのを見て、看護師が口に当てられたマスクを外してくれる。

「ごめんなさい」

 そのまま声を上げて泣き伏してしまいたい衝動に駆られるけど、それも許されない程に身体の自由を奪われている。

 検見川浜のマンションから亜希子が担ぎこまれたのは、東京湾の海辺に建つ救命医療センターという大きな病院だった。

「亜希子、ビックリしたのよ。身体の調子が悪いのに自分で気付かなかったのかい?」

「うん……」

 担当した医師の話では、気を失っている間にCTスキャンを撮った結果、肝臓に腫瘍らしい影が出来ているとのことだった。

 亜希子の場合、12年前の病歴からそれが悪性である可能性が高いので、早急に手術をする必要があるのだという。

 ついては12年前に亜希子の手術を担当した菅橋医師のいる八王子の病院へ、容態の安定を待ってから転院することになっているらしい。

「菅橋先生に連絡したら、すぐにでも手術出来る様に日程を開けておいてくれるそうだからね。心配しなくても大丈夫だからね」

「うん……」

 あの日母さんは亜希子に連絡を取ろうとしていたのだが電話が繋がらず、心配になって会社へ問い合わせてみたところ、数日前から病欠だというので検見川浜のマンションを訪ねてみたのだという。ところが呼び鈴を押しても反応が無いので、止む無くマンションの管理会社に連絡を取って鍵を開けて貰ったということだった。

あの何度か掛かって来た電話は母さんだったんだ……。




「それより亜希子、お部屋を見たら、誰かと一緒に暮らしてたみたいだけど、その人はどうしてるの?」

 と言われてドキーとする。

「まぁそんな話はまた後でいいじゃないか」

 と父さんが言う。

「うん、喧嘩して、出てっちゃって、それっきりだったから。私が倒れたのはその後だったから」

 と咄嗟に取り繕って言い訳する。

「だけどお前、少し顔に傷があったけど、暴力でも振るわれてたんじゃないのかい?」

「違うよ」

「レントゲンだと肋骨にもひびが入ってたっていうじゃないか」

「それは……急に苦しくなった時、倒れて打ったからだと思う」

 こんな時でもよくスラスラと言えるものだと思いながら、普通に口にしている。

「本当にそうなのかい?」

「当たり前じゃない、暴力を振るう人なんかと付き合わないって……」

「それなら良いけど……」

「……」

「身体が疲れるといけませんので、今日のところはこの辺で、もう意識が戻りましたので、徐々に沢山お話出来る様になると思いますので」

 と看護師に促され、父と母はまた明日来るからと言って帰って行く。

 これから二人で八王子まで帰るのかと思うと、こんなに心配を掛けて、私は何て親不孝な娘なのかと、今更ながら心苦しくなってしまう。




暫く病室に一人きりで放置されていたかと思うと、夜になってまた先ほどの看護師が機械の表示をチェックしに来て、点滴の袋を取り替える。また痛み止めの注射をしてくれて、座薬を入れるので横向きになってお尻をこちらに向けて下さいと言う。恥ずかしがっている状況でもないので黙って言う通りにして、座薬を入れて貰う。

痛み止めのお陰であの痛みから解放されているのかと思うと、とてもありがたいと思う。

 看護師さんに頼んで、窓のカーテンを開けて貰い、外が見られる位置までベッドの背を起こして貰うと、窓から遠く真っ黒な海が見える。

 ここは東京湾のどの辺なんだろうか、あの日、俊と抱き合った朝のことが遠い昔の様に思い出される。

 私の身体はどうなってしまってるんだろう……また元の様に歩いたり出来る様になるんだろうか。

 担当の先生によればどうやら容態は安定しているということなので、明日八王子の大学病院の医療センターへ転院することになった。




 朝になって、脈拍や血圧や体温をチェックしに来た看護師さんに頼んで、ベッドの背を上げて貰う。少しで良いので窓を開けて下さいと頼むと快く開けてくれた。

 朝の東京湾が青く見渡せる。潮の匂いも舞い込んで来る。

 ……12年前、八王子の病院で手術を受けてから数ヶ月置きに5年間も検査に通ってた。行く度に血液を採ったり、エコー診断やCTスキャンを撮って身体の中を調べて貰っていた。

 あの頃、検査に行く度にまた恐いことが起きるんじゃないかと心配だったけど、5年目の検査が終わったところで主治医の菅橋先生から「ここまで異常がなければ心配はないでしょう。完治したと思って大丈夫ですよ」と太鼓判を押されていたのに。

 あの病院へは二度と行くことは無いと思ってたのに。忘れた頃にまた振り出しに戻ってしまう気がする。

 この街で過ごした俊との生活は幻だったんだろうか……と思うけど、窓の外に広がっているあの海は、決して幻なんかじゃない。




 欲求不満のバカ女が!




 越川の罵声が耳に残っている。

『……よくも人の息子を慰み者にしてくれたな、犯罪者だから逃げられないと思って弄んでたんだろうが! テメェのしたことは犯罪なんだぞ、分かってんのか!』

 殴られてひっくり返った時、バチが当たったと思った。私は17歳の俊君を慰み者にしていた。犯罪者を弄んで楽しんでいたんだ。

 越川の言う通り、世間から見ればそれは立派な犯罪だった。犯人隠匿ということだけではなく、未成年者に対して猥褻行為を働いたという、青少年を保護する法律にも違反するのだ。

 だけど……あれが本当に、あの優しく誠実の塊の様だった越川の言葉だったんだろうか。心から息子のことを心配して、自分が情けなかったと涙を流して反省してた。私にあんなに感謝してたのは全部嘘だったというのか。

 越川はあの時初めて俊一を殴ったんだろうか。いや、あの様子からしてそうではないと思う。あの男は俊が詩織さんを刺して逃げるよりもずっと前から、日常的に暴力を振るっていたのではないか……。

 あの夜ひなびた倉庫で越川に殴られた時、俊が『もう叩かないって約束したじゃないか!』と言ったのは、きっと電話で越川と話した時に、もう叩かないと越川が俊に約束していたからだと思う。俊が電話で号泣したのはそんな越川の優しい言葉があったからなんだ。でもそれは俊を安心させて自分の元へ来させる為の嘘だった。

 俊が怖がっていたのは警察でも世間でもない、父親のことだった……。俊は誰よりも父親に見つかることの恐怖に怯えていたんだ。俊……何故私に本当のことを言ってくれなかったの? それはきっと幼い頃から父親への恐怖に浸かって生きて来たので、他人にはそんな父親の正体を語れないくらい心身共に支配されていたからではないだろうか。

 だとしたら越川は詩織さんと一緒になって俊に暴力を振るっていたのか? 俊は両親二人ともから教育という名の虐待を受けていたというのか?。

 ずっと引っ掛かっていた俊の言葉がある。あの時経堂のアパートで詩織さんのことを『グズでノロマなババアだった』と罵ったことだ。報道されていた様に俊が詩織さんのことを鬼の様な母親として恐れていたのだとしたら、あの言葉には違和感がある。

 俊は越川と詩織さんの二人ともから暴力を受けていたのではなく、暴力を振るっていたのは越川だけだったのではないだろうか。詩織さんは日進市の実家で見た遺影の印象の通り、清楚で物静かな女性だったのではないだろうか。詩織さんのお母さんが言った通りの、子供を叩いたりするはずのない優しい人だったのではないだろうか。

 俊を殴っていたのは越川だけで、詩織さんは俊からグズでノロマなババアと罵られていた……。

 越川と詩織さんが結婚したのは純粋に恋愛を経てのことだったという。でも、詩織さんの両親に結婚させて下さいと何度も頭を下げて頼みに来た越川の本性は、詩織さんの御両親が見抜いていた通り、本当に詩織さんを愛しているというのではなく、詩織さんの実家の総合病院に惹かれていただけだったのではないだろうか。その偽りの愛に詩織さんは騙されてしまった。

 お嬢様育ちの世間知らずで、ひたすら朗らかで、無力で何も出来なかった詩織さん。患者思いでお年寄りから「ヨイ先生」と慕われていた。そんな詩織さんは、実家の総合病院が目当てだったとも知らずに、自分にここまで恋焦がれてくれるのかと思う越川の猛アタックに絆されて、親を裏切ってまで結婚してしまった。

 越川を見てそのことを見抜いていた詩織さんの両親は、強引に結婚した越川には何一つ親族の恩恵を与えなかった。言わば詩織さんを勘当した様な形にして、越川が何を申し入れて来ても一切の接触を断った。そして越川はもうどうにもならないと悟ると、詩織さんの両親に対して憎悪を抱く様になり、それは反転して俊一にエリートコースを強要する厳しい教育になった。

 亜希子が縛られて失禁してしまった時、俊一は亜希子のパンツをタオルで拭いてくれて『僕も小さい頃ね、夜中にオネショした時、よくお父さんがこうやって拭いてくれたんだよ』と言った。まだ俊一が幼年の頃までは越川も人並みの優しいお父さんだったのではないだろうか、そう……まだ詩織の実家に喰い込んで甘い汁が吸えるかもしれないと思っていた間は。

 俊一に猛勉強させて将来は大病院の院長になるなり大学病院の教授になるなりさせて、詩織の親族に負けない権威を習得させるべく厳しく当たった。それはもう教育と呼べるレベルではなく、虐待だった。越川にとって俊は詩織さんの親族に対するコンプレックスを晴らす為の道具であり、俊自身の意思などはどうでもよかったのだ。

 あの誠実そうな越川はあくまで世間へ向けての演技だった。越川に取材して『私は息子を殴る鬼の様な妻を止めることが出来ない不甲斐ない父親でした』というあの週刊誌の記事を書いた記者も、すっかり騙されていたんだ。越川は外では周りに気をつかい、全てに媚び諂ってペコペコ頭を下げて、仕事熱心で誠実な医者というイメージを作り上げていたのだ。

 でもきっとあの誠実で真面目な一面も、あの男の一部分なのではないかと思う。俊が『お父さんみたいな医者になりたい』と言ったのは、その部分だけを尊敬し受け継いで行きたいと思っていたからではないだろうか。

 外では誰に対しても誠実で職務に忠実な越川の腹の中は、実は世間に対する劣等感で煮えくり返っており。その怒りは全て家に帰った時詩織さんと俊一に浴びせられていた。

 立場の低い仕事での鬱憤、詩織さんの親族への劣等感を全て俊一を出世させることで晴らそうとしていたのだ。

 家に帰ると成績が上がらない俊一を殴る。妻の詩織さんを奴隷の様に扱う。俊一にも詩織さんを自分と同じ様に扱う様に仕向ける。

 俊が詩織さんのことを『グズでノロマなババア』と言ったのは、きっと越川が普段から詩織さんのことをそんな風に罵倒していたからではないのか。きっと俊一はそんな越川の言葉を子供の頃から聞かされていたんだろう。

 俊は四六時中そんな越川の顔色を伺っていなければならなかったに違いない。そして常に越川の言葉に同調して、越川が詩織さんのことをババアだと言えば、俊も一緒になってババアと言って越川のご機嫌を取る……。

 そして俊は越川に殴られたり理不尽な思いをさせられると、その不満を無抵抗な詩織さんに辛く当たることで晴らしていたんじゃないだろうか。それはまだ無力な子供にしてみれば無理からぬことだったのかもしれない。そうなるより仕方がなかったのだ。

 そうやって俊の人格は壊されてしまったのだろう。そこには俊一本人は全くいない。本来の俊一は存在を認められず、透明人間の様になっていた。まだ子供だった俊一にはそのことに自分で気づくことさえ出来なかった。でも亜希子は知っている。本当の俊一はあの亜希子の描きかけの絵を鮮やかに完成させてくれた、笑顔の可愛いあの俊一なのだ。

 心の奥底では子どもらしく母親に甘えたいという衝動もあったに違いない。そのことは私が身をもって感じさせられた。でも可哀相に、家庭では父親という暴君の力が絶対だった為に、俊のそんな心を抑圧し、父の恐怖によって母を蔑む様に仕向けられてしまっていたんだ。

 俊一が詩織を刺して逃亡してしまい、全てを失った越川は、詩織が鬼の様に俊一に厳しくしていたことにして、世間に言い訳した。

 越川があの辺鄙な診療所に勤務しているのは、今の状況から身を立て直す為には更に世間に媚を売って卑屈に生きて行くより他に仕方なかったからなんだ。

 周りの全ての人のご機嫌を取って。誠実に頑張っている振りをして。息子の犯した事件は自分に責任があると言いながら、悪いのは全て詩織さんのせいにしていたんだ。

 そして越川の胸の内は、自分をこんな境遇に貶めた俊に対する怒りで煮えたぎっていた。

 それがあの時爆発した。俊の身体がバラバラになってしまうかと思うくらい殴って、蹴って……ああ、どうしてあんな酷いことが出来るの……。

 その光景が蘇って亜希子は顔を覆ってしまう。

 あの怒りに満ちた越川の形相、止めようとした亜希子を振り向き様に殴りつけた衝撃が蘇ると、身体中が震え慄いてしまう。何の躊躇も手加減もなく、渾身の力を込めた大人の男の怒りが、私の顔にぶつけられた。

 あの後、越川は俊を車に乗せて何処へ連れて行ったのだろう……警察に出頭させると言っていたけれど、もしかして俊はもう死んでしまって、何処かに埋められているのではないだろうか、恐ろしい想像が湧き上がって来る。

 病室の窓の外には、ただ青い東京湾の海が広がっている。俊……貴方は無事でいるの? それさえも確かめることは出来なくなってしまった。




 病室で昼食をとった後、父さんと母さんが来た。これから看護師さんにも付き添って貰い、病院の救急車で八王子の大学病院まで搬送して貰うことになっている。

 ベッドを降りて車椅子に乗り、看護師さんに押して貰い病室を出る。

 両親に付き添われながら病院内を移動する間も、亜希子の頭は俊を巡る考えに満たされている。




 ……俊が何故詩織さんを蔑む様になってしまったのかは理解出来たけど、それでも亜希子には、俊が詩織さんを刺した時、実際の状況はどうだったのか、確かなイメージを浮かべることが出来ない。

 俊が詩織さんを刺したのは、越川に対する恐怖が大きすぎて、その歪んだ捌け口にしていた詩織さんへの八つ当たりの度が過ぎて、刺してしまったということなんだろうか? 多分そうなのだろうとは思う。

 そもそも詩織さんは何故そんな夫から逃げなかったのか、それは実家に戻ることを許されなかったということもあるだろうけど、何よりも俊の側から離れられなかったからではないだろうか。

 俊一を連れて実家に戻ることも許されなかった詩織さんには、越川に従順に従うことでしか、俊一を守ることが出来ないと考えてたんじゃないだろうか。

 それなのに、俊一は唯一の味方だった母のことを刺してしまった。俊が詩織さんを刺したのは、中間テストの結果を知った詩織さんが、笑ったからだと言っていた。

 俊は尊敬している父親の期待に応えられない自分に酷く罪悪感を感じてた。テストの結果を知れば越川に殴られることは目に見えている。そんな俊一のことを詩織さんは本当に笑ったりしたのだろうか?。




 看護師さんに押され、一階の待合室まで来る。亜希子の頭の中は事件の事が駆け巡っていて、側から見るとボンヤリしている様に見えたのか「亜希子、大丈夫かい?」と母さんが声を掛けて来る。

 我に返って「うん。ちょっと考え事してたから、大丈夫だよ」と笑って答える。

 看護師さんに、救急車の準備が出来るまで両親とここで待っている様に言われる。

「売店で何か買って行こうか、途中で喉が乾いちゃうといけないから」

 と言って父さんが売店へ走って行く。

 その時何処からか泣き喚く子供の声が聞こえて来た。

 何だろうと思って見ると、どうやら迷子になっていたらしい小さな男の子が、やっと見つけたお母さんの胸をポカポカとぶっているところだった。

 5歳くらいだろうか、小さな拳をポカポカとお母さんの胸にぶつけて泣き叫んでいる。彼の気持ちとしてはきっと『何故僕をひとりにしたんだよう! 恐かったんだぞ、何故もっと早く見つけてくれなかったんだよう!』といったところだろうか、ポカポカと叩かれている若いお母さんは「ごめんね、ごめんね」と言いながらニコニコと微笑んでいる。微笑んでいる!。

 子供の顔が俊に見えた。でもその手には包丁が握られている。グサグサと胸に包丁を刺され、血しぶきを上げながらもお母さんは笑っている。

 ……詩織さんは俊を笑ったのではない、微笑んでいたのではないだろうか!。

 テストの成績を知った時、そのことが知れれば俊一が越川から酷い目に遭わされることを知っている詩織さんは、そんな俊一のことを不憫に思って、でも自分では助けてあげることも出来なくて、ただ俊一に微笑んであげることしか出来なかったのではないだろうか。

 そんな、そんなことが……。身体中に衝撃が走り、崩れ落ちていく様だった。




 用意が出来たので行きましょうと看護師が救急車の隊員を連れて迎えに来る。

 唖然としたままストレッチャーに身体を移されると、そのまま急患用の出入り口から出て、開かれた救急車の後部扉からストレッチャーのまま乗せられて行く。

 救急車の中には心電図等のモニターや血圧計、心臓が止まった時に電気ショックを与える機械や呼吸機等、様々な設備が整えられている。

 運転席と助手席に隊員の男性が乗る。亜希子の寝ているストレッチャーの脇には跳ね上げ式の席があり、そこに看護師さんが付いてくれて、亜希子の胸に付けたラインから心拍や呼吸のチェックをしてくれる。そして後ろまで続くサイドシートには父さんと母さんが並んで座る。

 扉が閉められるとエンジンを掛け、病院の裏門を出て外の街を走り出す。

 寝ている状態では窓の上の方しか見えないけれど、海沿いの道路を走っている様だ。反対側の窓には立ち並ぶマンションの上の方が次々と過ぎって行く。

 もしかしたら俊が逃げてマンションに帰って来てはいないだろうか……と思い、八王子へ行く前にマンションに寄って欲しいと看護師さんにお願いしてみるが「何か必要な物があれば私が取って来てあげるから」と母さんが言い、願いは聞き入れられなかった。

 俊と暮らした街がみるみる流れ去って行く。

 

 俊……俊は心の中で、自分では気付いていなくても、きっと自分を認めない暴君の様な父親を憎んでいたんでしょう? でも本当に憎い相手には叶わないので、そのはけ口が弱い者へ向かって母を刺してしまった。

 それは母に助けを求める行為だったのかもしれない。母に甘える行為だったのかもしれない。父親に怒られた腹いせにどんなに辛く当たっても優しかったお母さん。

 そんな母への究極の甘えが包丁を刺すという行為になってしまった。それは『何故僕を助けてくれないんだよう』という心の叫びであったのかもしれない。

 詩織さんは包丁を持つ俊一の手を胸に受け入れた。私が守ってあげられないばかりに、ここまで追い詰めてしまったのね、ごめんね、ごめんね俊ちゃん……と思いながら。

 俊一が母を刺した時に『俺を捕まえようとして抱き付いてきた』と言ったのは、捕まえようとしたのではなく、俊一の身体を抱きしめようとしたのではないのか。包丁ごと……そして俊一はその詩織さんを振り解こうとして包丁を何度も突き出した。そんな俊一を詩織さんは包み込もうとした。俊は子供が甘えて母親の胸をポカポカと叩く様に、詩織さんを刺した……。

 でも俊、私には分かる。貴方はそんな詩織さんの心を本当は分かっていたんでしょう?。

 貴方は自分でも見ない様にしているけど、本当は詩織さんを刺してしまったことを酷く後悔しているんでしょう? だからあの時、テレビで翌日詩織さんが死亡してしまったことを知った時、ショックを受けていたんでしょう?。

 俊はあんなに頭の良い子なのだから。詩織さんだけが唯一心から自分のことを思い遣ってくれる肉親だったということを、心の奥では分かっているに違いないんだ。自覚することを避けているのかもしれないけど、きっと俊には分かっているはずだ。分かっていて目を背けてるんだ。ちゃんと見ることが恐いから。それを見る勇気が無いから。自分の弱さと、罪の深さを見ることが出来ないんだ。恐怖の為によじれてしまった自分の狂気。でもきっと頭では分かっているに違いない……。私には分かる、そうだよね? きっとそうだよね俊……。

 でもね俊、貴方はあの凶暴な越川に立ち向かって行くには幼くて弱すぎたのかもしれないけど、でも男の子はね、そんな卑怯な真似をしてはいけないのよ。




 救急車は習志野インターチェンジから高速道路に入り、東京湾を横目にグングン走って行く。

 俊とウキウキしながら探した検見川浜の街、思えばほんの3ヶ月だったけど、あのマンションで俊と暮らした日々が、もう戻らないものとして過ぎ去って行く。

 やがて荒川を過ぎるとお台場からレインボーブリッジを渡り、首都高速に入るとみるみる都心へと入って行く。

 都心を横断して中央自動車道へ入り、亜希子の生まれ育った八王子へと向かう。

 ぼ~っと窓へ目をやったまま物思いに耽っていると「苦しくないかい?」「大丈夫かい?」と亜希子の顔を心配そうに覗き込んでお母さんが声を掛けてくれる。

 お母さん。こんなに優しいお母さんなのに、私は今まで何の親孝行も出来ずに、今またこんな心配を掛けて、本当に済まないと思う。ねぇ俊、貴方のお母さんも、きっと同じお母さんだったんだよ。

「亜希子、お前の通ってた中学校が見えるよ」

 そう言われてそっと身体を起こして見ると、高速道路の下に広がる町並みの中に、小さく八王子市立第二中学校の校舎と体育館の屋根が見える。懐かしいというよりも、あのちっぽけな敷地の中で過ごした日々は、もう遠く微かな思い出としてしか残っていない。

 あの頃テニス部で一緒に頑張ってた友達は皆どうしてるんだろう。

 中学に入って私がテニス部に入りたいと言った時、父さんは許してくれなかった。それはきっとテニスをやりたい理由がアニメの「エースをねらえ」に憧れてのことだったから、その時は父さんがアニメを嫌いなせいだと思ってた。

 でも父さんは一度学内の試合を見に来てから急に応援してくれる様になったので、父さんが心配してたのはきっと、選手たちがアニメみたいにお化粧したり、ミニスカートをヒラヒラさせながらやっていると思っていたからではないかと思った。

 だからその時の私たちを見て、アニメの世界とは全然違うことが分かって安心したのだろうと思った。

 テニス部で三年間頑張っていたけれど、結局私は選手としてはあまり活躍出来なかった。でも本当に一生懸命だったし友達が沢山いたから楽しかった。

 じっと揺られている父さんの顔を見ていたら「何笑ってるんだ?」と聞かれてしまい「ううん。なんでもない」と答える。


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