亜希子の危機
第四章 4
翌朝会社に具合が悪いから休むという電話を掛ける。
殴られた顔が一層腫れ上がって酷い有様になってきた。今日は金曜日なので、そのまま続けて週末の3日間は休んでいることが出来る。
頭の中はまだ何も考えられないまま、氷で顔を冷やす。脇腹には氷水で絞ったタオルを当てておくことにする。
その他は軽い擦り傷だけなので、脇腹の骨が折れてさえいなければ、病院へ行かなくても済むのではないかと思う。
だが、心の中はもう何者にも立ち向かうことが出来ない恐怖に埋めつくされている。
目を閉じても閉じなくても否応無しに浮かんで来るあの怒りに満ちた形相……あの温厚で誠実だった越川医師が……本当に同一人物だったんだろうか、始めは何かの罠で、誰かが越川の代わりに待ち伏せしていたのかと思った。テレビに出てくる暴力団の人かと思った。
翌日の土曜日になっても惚けた様にただ目を見開いて横になっている。
しんとした部屋。綺麗に整理された俊の部屋。時間だけが流れている。昨日からカーテンが開いたままの外では陽が沈み、今朝また明るくなって、やがてまた暗くなって行く。
日曜になっても何も食べたいとも思わない。ヨロヨロと歩くことは出来るけど、外へ出ようという気は更々起きない。布団に蹲ったまま、殆ど微動だにせずに何も見えていない目を開いている。
プルルル……不意に電話が鳴ってビクリとする。受話器を取る気力も無く、そのままでいると留守電に切り替わり、応答用の亜希子の音声が流れる。
「はい、倉田です。ただ今留守にしております。発信音の後にメッセージをお入れ下さい」
ピーッ……。
『……』
プツッ……相手は何も言わずに電話が切れてプーッ、プーッと不通音が続く。
「午後2時16分です……」
夜になって大分腫れも引いて来たので、傷跡をどうにかファンデーションで誤魔化せば明日は会社へ行っても大丈夫だろうと思う。けど行くことは出来ないと思う。
この近くに越川が来るなんてことは無いだろうけれど、もう一歩も外へ出ることは出来ない。人という物が恐ろしくて、身体中が萎縮してしまっている。人が映っていると思うとテレビさえ点ける気になれない。
月曜日の朝になっても、亜希子はそのままの状態で布団に横になっている。
プルルル……電話のベルが鳴り出す。応答用の亜希子の音声が流れる。
「はい、倉田です。ただ今留守にしております。発信音の後にメッセージをお入れ下さい」
ピーッ……。
『もしもし? 倉田さん?』
小石さんの声だ。
『お早うございます。まだ具合悪いのかしら、電話に出られないようだったら病欠扱いにしておくから、心配しないでね、お大事になさって下さい、連絡出来る様でしたらお電話下さい……』
電話が切れてプーッ、プーッと不通音が続く。惚けたまま宙を見つめている。
「午前9時11分です……」
そのままずっと、夜まで寝たままでいる。
そして夜が明けて、外が白くなり、鳥の声がして、やがて子供たちの遊ぶ声や、遠くから近づいて来て飛び去って行く飛行機の音が聞こえる。
今朝は電話が鳴らなかった。きっとまた休むだろうと予測して、小石さんは電話して来なかったのかもしれない。
昼頃にまた一度電話が鳴ったが、相手は亜希子の応答メッセージの後、何も言わずに切ってしまった。
やがてまた陽が傾いて、部屋の中も暗くなる……。
経堂のアパートで俊に監禁されていた時は、三日も仕事を休んだら職場の人たちに迷惑を掛けてしまうと思って心配したけれど、今は気にもならない。というよりも今の亜希子には、何かを思うべき気力さえ無くなっている。
あの四畳半の板の間にいつも篭もっていた俊がいない、あの日から俊は影も形も無くなってしまった。
アレは幻だったのか、経堂のアパートで起こったあの出来事も、事件のことも、しばしの日々を過ごした俊とのことも。全ては夢だったというのか。
夕方また電話が鳴る。
「はい、倉田です。ただ今留守にしております。発信音の後にメッセージをお入れ下さい」
ピーッ……。
『もしもし? 亜希子? お母さんです、亜希子? いないんですか、会社にお電話したら先週から休んでますって言われたんだけど、大丈夫なの? もしもし、もしもし……』
電話が切れてプーッ、プーッと不通音が続く。
「午後6時6分です……」
お母さん……そうだ。金曜からこうしてもう5日目なんだもの、もういい加減に起きて、やることをやらなくちゃ……。
と思って起き上がろうとした時、腹部に強烈な痛みが走って再び寝転んでしまう。
それは越川に蹴られた傷の痛みではない、それはきっとあの、亜希子のお腹に巣食っている異物の発する痛みだった。
もうハッキリと自覚している。あの朝府中駅で亜希子を襲ったのと同じ病魔が、また身体の中を蝕んでいるに違いないんだ。
立つことが出来ずに呻き声を上げて転がっていると、そのうちに意識を失ってしまった。
あれからどれくらいの時間が過ぎたのだろう……意識が朦朧とする中で強烈な痛みにのたうち、苦し紛れに何度か嘔吐して呻き声を上げていたような気がする。
その度に昼だったり夜だったりして、脳裏には血みどろになって越川に殴られている俊の姿が浮かぶ、その中で亜希子は声にならない叫びを上げている。
身体が衰弱し切ってどこにも力が入らない。このまま死んで行くんだろうか。それでもいいと思う。むしろその方が安らかになれる気がするもの……。
夢うつつの中で、誰かがドアの鍵を開けて、ドタドタと入って来た様な気がする。隣の部屋だろうかと思ったけど「亜希子、亜希子」と呼ぶ声がして、どうやらそれがこの部屋で、入って来たのがお母さんかもしれないと思った。