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父との再会


第四章 3




二度目の痛みが襲ったのは、その翌日会社に向かう電車の中だった。

 人ごみの中で揉まれながら、あの時と同じみぞおちの辺りで、何か異物が転がっている様な感覚がある。

 アッと思う間もなくそれは痛みに変わって、キリキリとした痛みが身体を突き抜けて腰の裏側へと広がって行く。

「うっ……」と声が漏れてしまいそうになりながら前屈みになって腰を押さえる。

 12年前の府中駅での様に、蹲ってしまうくらい痛くなったらどうしようと思い、じっと耐えていると、少しして波が引いていく様に治まって来る。

 ホッとしてそのまま会社へ向かったが、こうなっては一度病院へ行って診て貰わなければならないと思う。

仕事が終わってから、夜遅くまでやっている近くのクリニックを訪ねる。

 医師に症状を告げると、お腹のレントゲン写真を撮ってみることになった。

 レントゲンの部屋へ入り、衣服を脱いで上半身ブラジャーだけになり、撮影台に乗ると左右に付いている手すりを持ってアクリル板に向かう。

 隣の部屋から医師の声がする「はい、息を吸って……止めて下さい」カシャッと音がして「はい結構です」。

 服を着て待合室で待っていると暫くして名前を呼ばれる。

 医師は大きな白黒のレントゲン写真を手に亜希子に説明する。

「見たところ特にはっきりした異常を確認することは出来ないんですが」

と言って医師は亜希子のお腹に手を当てて押してみたり摩ってみたりするのだが、特にしこりがあると感じることは出来ない様だった。

「それと、倉田さんは以前に子宮の摘出手術を受けていますか」

「はい」

「それはどんなご病気で?」

「卵巣に腫瘍が出来て、悪性だったものですから、手術して子宮と片方の卵巣を取りました」

「そうですか、腹部の場合は何か新しい腫瘍が出来ているとしても、レントゲン写真だけでは正確に判断することは難しいんですよ。でもそう言う事情でしたら早急に設備の整った病院で検査をされることをお勧めします。私の方から紹介状を出しますので、明日にでも伺ってみた方が良いと思いますよ」

 と言って国立病院への紹介状を書いてくれた。

12年前……府中駅のホームで倒れて、救急車で搬送されて、八王子の大学病院で片方の卵巣と子宮の摘出手術を受けた。

あの腫瘍が再発したんだろうか。紹介された病院に行って検査を受ければ、そのまま入院ということになってしまうかもしれない。

 そんなことになれば、マンションから一歩も外へ出られず、食べ物を買いに行くことも出来ない俊一は生活出来なくなってしまう。

俊をお父さんの元へ引き渡すまでは、入院なんてしてられない。急がなくちゃ……。




 いつもの公園で越川に電話を掛け、俊一を引き合わせる日時と場所を相談する。越川はまだ最初は誰にも見られない所で、三人だけで会う様にした方が良いと言い、亜希子もその方が良いと思う。

 日時は3日後の木曜日に診療所での勤務が終わってから、場所は越川が適当な所を探して連絡するということになった。

 亜希子が帰って来ると、俊一は部屋の中を綺麗に掃除している。今まで散乱していた板の間の部屋も、綺麗に整頓されている。

「綺麗になったね」と言うと「うん……」と言ったまま俯いて黙ってしまうので「どうしたの?」と聞くと、俯いたまま消え入りそうな声で「今まで……どうもありがとうね」と言う。

 黙って俊の身体を抱いて、腕にギュッと力を入れると、俊は亜希子の胸に顔を埋める。




 水曜日になって越川から連絡が来た。明日は亜希子が診療所を訪ねた時に降りたのと同じ、内房線の九重駅まで、俊を連れて夜の8時に来て欲しいと言う。

夜8時に九重駅へ着くとすると、会社が終わってからでは間に合わない。木曜日亜希子は身体の調子が悪いので病院へ行くと言って、午後は早退して帰って来た。

 そしてここへ引越して来た時の様に俊に変装させる。

 越川のところへ行くまでに発見されるという心配はそれ程ないとは思うけど、誰にも邪魔されずに越川と会うことが出来るまでは、責任を持って俊の安全を守らなければならない。

九重駅までは2時間半くらい掛かってしまうので、約束の8時から逆算して、夕方の5時にマンションを出ることにする。

 俊を連れてエレベーターのある中央までの通路を歩く。誰にも見られなかった。下から上がって来たエレベーターが扉を開く、誰も乗っていない。

 エレベーターに乗って1階へ降り、道路へ出たところで帰って来た男の人とすれ違ったけれど、特に亜希子たちの方を気にする様子はなかった。

 駅へ近付くと人の数も増えて、そのまま紛れる様にして切符を買うと、京葉線の蘇我方面行きの電車に乗る。まだ通勤ラッシュの時間には早いのか、電車はそれ程混んでもいない。

 蘇我駅に着くと、外はもう暗かった。内房線に乗り換える。電車はガラガラでまばらにしか乗客はいない。

 俊は黙りこくったまま俯いて座っている。少女の様な横顔を見ながら亜希子は思っている。もうこれで、きっと俊とはお別れなのだろう。でも、これで良いんだ。

 俯いていた俊が亜希子の顔を見て言う。

「ねぇアキコ、僕、やっぱり行かなきゃダメかな?」

「……何言うのよ」

「ダメだよね、お父さんが待ってるんだから」

「そうだよ、これからは私じゃなくてお父さんがいるんだから、お父さんが力になってくれるんだから、元気出して一緒に頑張るんだよ」

「……」

「ねぇ俊、まだこれから辛いこととか大変なこともあるかもしれないけど、俊はとても優秀なんだから、これから頑張って絶対お父さんみたいなお医者さんになるんだよ」

「……うん」

「きっとだよ、それだけは約束して欲しい」

「うん」

「いつも心の中で俊のこと応援してるからね……これで何年も会えなくなるかもしれないけど、出来たら私のことも忘れないでいてね」

「うん……」

 でも、俊はこれから越川に引き取られて警察に出頭し、罪を償い、自分の夢に向かって頑張って行くうちに、きっと亜希子のことは忘れてしまうだろうと思う。それでも仕方無いと思う。

 俊は俯いてポケットからハンカチを出すと目を拭う。そして「今までどうもありがとうね」と言う。

 肩を抱いて頭を撫ぜていると亜希子の方に顔を上げる。涙で濡れた瞳を見つめながら、亜希子は顔を寄せてそっとキスする。

 俊の身体が小刻みに震えているのが分かる。

「大丈夫だよ、俊。心配ないよ、頑張ればきっと俊だって、お父さんみたいに立派なお医者さんになれるんだから、ね」

「うん……」




 海が近くなると窓の外は真っ暗になった。ガタンガタンと線路の音だけが響く。

 蘇我駅から2時間掛かって電車は九重駅へ着いた。時間は8時5分だった。

 駅を降りると辺りは真っ暗で、ただでさえ無人駅なところへ降り立ったのは亜希子と俊の二人だけだった。電車が走り去ってしまうと辺りは静寂に包まれる。

 こんな遅い時間にこんなところまで来てしまって、帰れるだろうかと思うけど、時刻表で10時前の最終電車に間に合えば、検見川浜まで帰れることを確認してある。

 駅前の車道を横切る車も殆ど無い。二人きりで暗い駅前の広場に立つ。何処から越川が現れるのだろうと辺りを見回していると、亜希子の携帯が鳴る。『越川康弘』と言う発信者名を確認して耳に当てる。

『駅へ着きましたか?』

「はい」

『では駅前の道を左にまっすぐ進んで下さい。少し行くと道が線路に近づいて渡れるところがありますから、渡ったら左に曲がって下さい。そこから駅の裏側に向かって道がありますから、道なりに進んで、そのまま森沿いの細い道に入って下さい』

「分かりました」

 越川の指示に従って俊と二人歩いて行く。駅を離れると街灯も無く、一層暗くなってくる。線路を渡ると道は田圃の中を突っ切る様になり、森が近づくと虫の声が大合唱になって辺りを覆ってくる。

 携帯を耳に当てたまま歩き、越川の道案内を聞く。

『そのまま暫く行くと左側にトタン屋根の倉庫が見えてきますから、そこへ入って下さい』

 暗いあぜ道を歩いて行くと、草木に囲まれた中にそれらしい建物が見えてくる。

周りは鬱蒼とした木々が生い茂り、付近には明かりのついている家もなく、恐ろしいくらい寂しいところだった。見ると建物の前に白い乗用車が停まっている。車の中には誰もおらず、倉庫の中へ入れと言う指示なので、入り口へと向かう。

 壁にかすれた文字で「……倉庫」と書かれているのが辛うじて読める。明かりも点いていない様だ。

 凄いところだな、と思いながら入り口の扉をスライドさせて開く。中は真っ暗で何も見えない。

「越川さん?」

 と呼び掛けてみる。返事が無いので中へ入り、暗闇の中を歩いて行く。

「越川さん?」

「ここまで誰にも見られずに来られましたか?」

 急に声がしたので驚いて辺りを見回す。

「……はい、大丈夫です」

 ピカッと近くから懐中電灯の光が向けられて目が眩む。

 ズザッと近付いて来たかと思うとドカッと音がして、隣にいた俊の頭が仰け反り後ろに引っくり返る。

「何だと思ってんだこのクソガキ! テメェのやったことが分かってんのか!」

倒れた俊の顔や身体をドカドカと上から踏みつけにする。

 何が起こったのか分からなかった。

「わぁーん」

 俊が泣き声を上げる。

「ただじゃ済まねぇからなこのガキが、ぶっ殺すぞコラァ!」

「何をするんですか! 誰なんですか貴方は!」

 叫んだ亜希子には見向きもせずドカドカと俊を踏みつけにする。

「ごめんなさいごめんなさい、痛いよう、叩かないって約束したじゃないかぁ、わぁーんやめて、やめて下さい痛いようー!」

「ちょっと貴方どう言うつもりなんですか」

「煩せえぞこのクソが!」

 振り向き様に凄い勢いで越川の腕が亜希子の顔を殴打する。衝撃によろめいて横様に倒れる。

「よくも人の息子を慰み者にしてくれたな、犯罪者だから逃げられないと思って弄んでたんだろうが! テメェのしたことは犯罪なんだぞ、分かってんのか!」

 と言いながら倒れた亜希子から携帯を取り、両手で二つに引き千切る。

 何が起こっているのか理解出来ないまま、殴られたショックで意識が朦朧とする。

「もぅ、もぅぶたないって、約束したじゃないかぁーうううううう……」

 俊が子供みたいに泣きじゃくっている。

「何言ってんだテメェ、よくもやってくれたな! お前のせいで俺がどんな目にあって来たと思ってんだ! ふざけた真似しやがって、絶対に許さねぇからな!」

 俊の身体を引きずり起こし、片手を振り上げたかと思うと凄まじい勢いで殴りつける。

 バカンと音がして俊の顔が取れてしまったのではないかと思うくらい、弾かれて倒れる。

「やめて下さい~ごめんなさいごめんなさい、許してっ、許して下さい~お父さんごめんなさい……」

 転げ回って哀願する俊一のことを越川は全く容赦しない。

「やめてっ、ああっ、ひどい、ひどいそんなことしないで」

 倒れたまま亜希子も必死になって言う。

「ふざけんじゃねえぞこのクソ女が!」

 懐中電灯がこちらを向いたかと思うと、身体を起こそうとした亜希子のお腹を蹴ってくる。靴の先がめり込む。

「うぐっ……」

 身体を曲げて蹲ったまま悶絶して声も出なくなってしまう。

「欲求不満のバカ女が、よくも俊一をおもちゃにしてくれたな、散々慰み物にしといて、結局始末に困ったから俺に押し付けようとして来たんだろうが、俊一の将来の為だとか何だとか調子のいいこと言いやがって! このクソが!」

 亜希子を罵るその口調を聞いた時、思い出した。初めて俊一が亜希子のアパートに侵入した時、亜希子を縛りながら殴る蹴るの暴行を加えて来た時。俊一の口調はコレと同じだった。

 あの暴力は父親の影響だったんだ。目が覚める思いだった。そして朦朧としていく意識の中で、取り返しのつかないことをしてしまったと知った。

「もう二度と俺たちの前に姿を現すなよ、俊一は俺が警察に連れて行く。いいか、お前のしたことは犯人隠匿と言う立派な犯罪なんだからな、未成年者をたらし込んで、自分の思い通りにしてたんだろうが……」

 と倒れたままの亜希子の顔を踏みつけにする。顔が変形してしまうと思うくらいギュウギュウ踏みにじる。

「うっ、うう……」

 何か言わなくちゃ、殺されると思って「ごめんなさい」と言おうとするが、靴の裏で顔が潰されて言葉を発することが出来ない。

「もしまた俺達に関わってきたらお前も警察に突き出してやるからな、そしたらお前も捕まって刑務所行きだぞ、お前の人生もムチャクチャにしてやるからな、分かったか!」

 亜希子の顔から足を離すと倒れている俊を引きずり起こす。

 俊の口元は血だらけで鼻が曲がってしまっている。

 微塵も動くことの出来ない亜希子を残し、血みどろの俊一の胸倉をつかんで、そのまま出口の方へ引き摺って行く。

意識を失っているのか、俊の身体は死体の様になされるまま、ボロボロの人形みたいに引き摺られて行く。

そのまま外へ出て行く。やがて外で車のドアが開け閉めされる音がして、エンジンが掛かり、走り出したかと思うと遠ざかって行く。

どっちの方へ走って行ったのかも分からない。車の音がしなくなると、辺りは闇に包まれて、開け放しにされた入り口から外の明かりが仄かに入って来るだけになった。木々の間から虫の鳴く声が急に音量を上げた様に響いて来る。

 地面に突っ伏したまま顔全体がズキズキと痛む、身体が小刻みに震えている。まるでお腹がえぐれてしまったかの様に痛い、寸分も身体を動かすことが出来ない。虫ケラの様に這いつくばった亜希子には、もう何の存在感も無い。何がどうなったのかということよりも、ただひたすらに恐い。




その後どうやって帰って来たのか、定かには思い出せない。暫くして暴力を振るわれた衝撃が治まり、ようやく立ち上がると汚れた服を払い、ヨタヨタしながらも駅まで辿り着いて、調べておいた帰りの最終電車に乗ったのだろうと思う。

 電車はガラガラで、無人の駅からひとり乗って来た亜希子の顔を見る人などはいなかっただろうけど、見ればきっと目立つ程顔が傷になっていると思い、なるべく前髪を垂らして俯き加減で座っていた。

 そして蘇我駅で京葉線に乗り換えて、検見川浜に着いてからもただ呆然としながら、ヨタヨタと歩いてマンションまで辿り着いた。

 さっきの出来事が悪夢であったかの様に頭が朦朧としている。気が付くと身体が小刻みに震えている。洗面所で鏡を見ると顔の半分が擦り剥けた様に赤くなって、片目が真っ赤に充血している。

服を脱ぐと脇腹が大きく紫色に腫れあがっている。

 お風呂に入って、そっとぬるめのシャワーを浴びる。脇腹は骨が折れているのか、少しでも動かすと酷い痛みが走る。まだ訳が分からずにいる。身体の中から込み上げる物があって、肩を引きつらせながらタイルの上に嘔吐する。


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