希望の兆し
第四章 1
亜希子は東京駅のネットカフェで調べた千葉県の芳辺谷村にある会沢診療所へ送る手紙を書いた。
調べた住所を検索して地図に表示してみると、その村は亜希子たちが住んでいるのと同じ千葉県とは言っても、東京湾のずっと先の房総半島の突端近くで、山間部の中にあった。
宛名は『会沢診療所御中越川康弘様』とした。まずは相手の出方を見なければならないと思い、差出人の名前は書かず、この手紙が越川医師に届けば連絡が貰える様に、俊がパソコンで使っていた、正規のアドレスを知られることなくメールのやり取りが出来るフリーメールを登録して使おうと思う。
越川医師に送る手紙に携帯から登録したフリーメールのアドレスを添えて、次の様に書く。
『私は貴方の息子さんの俊一君の居場所を知っています。この手紙を読んで頂けたのなら、誰にも知らせずにこのアドレスへご連絡ください』
越川医師がその診療所に勤務しているのであれば、きっとメールを送って来るだろう。
その手紙を出した翌日から、会社は5日間のお盆休みに入った。
旅行に行く予定もないし、一日くらいは八王子の実家にも顔を出さなければと思い、姉の真由美と連絡を取って、二日目の朝から行くことにしている。
一日目の今日は家にいても俊と話すことは殆どないし、普段出来なかった片付け物やベランダの掃除等をしたけれど、それも一通り済ませてしまうとやることもなく、度々携帯を開いては越川医師からのメールが来ていないかと気になっている。
次の日は朝から家を出て、電車を乗り継いで新宿から京王線に乗る。実家に近い北野駅に着くと検見川浜から2時間半くらいだった。遥か彼方へ引っ越したつもりでいたのに。思ったよりも時間が掛からなかったので驚いてしまう。
玄関を開けて「おう、お帰り」と出迎えてくれたのはお父さんだった。
私が家にいた頃は何処となく頼りなくて、いつもお母さんにお尻を叩かれるみたいにして仕事に通ったいたお父さんは、まるで気の小さい恐妻家だなと思っていた。
けれど銀行を定年退職してからは、逆に威厳が出て来たと言うか、ふと黙って座っているのを見ると、父親の大きさみたいな物を感じる様になった。本当はただ暇を持て余してぼーっとしてるだけなのかもしれないけど。
「ただいま、お久しぶりです」
とつい他人行儀な挨拶をして家に上がると、姉の真由美とご主人の吉村さん、それに姪の由香里ちゃんも来ている。
姉と会うのも久しぶりだった。3つ違いだから41歳になっている姉さんは、サラリーマンの夫と高校生の娘のいる家庭の、典型的な奥さんと言う雰囲気になっている。
あの頃会社勤めを始めて4年目だった姉さんが、会社の上司から紹介された吉村さんとの結婚を決めて、アッサリ仕事を辞めてしまった時には、吉村さんには失礼だけれど、こんな平凡な人との人生を手堅く決めてしまっていいのかなぁ、と思ったりした。
けれど、すっかり大きくなった由香里ちゃんと旦那さんと三人で並んでいる姿を見ると、ああ本当は女の人生はこれが正解だったのかもしれないなぁ、とも思う。私もこうなりたかったとは思わないけれど、私は姉の様に手堅く生きて来ることは出来なかった。
「亜希子も早く良い人を連れて来てちょうだいよ~」と言う母さんに「仕事に生きる女ってのも近頃は流行ってるんだから」と適当に交わすと父さんが「結婚しないのなら家に戻って来なさい」とぶっきら棒に言う。
ちょっと場が白けそうになったところを「あら、結婚だけが人生じゃないわよねぇ~」と姉が助け舟を出してくれたので、どうにか誤魔化して楽し気に過ごす。
そんな会話のどさくさに紛れて皆に検見川浜に引越したことを告げたのだけれど、両親や姉さん、それに由香里ちゃんにまで、誰か良い相手でも出来たんじゃないかと追求されてしまった。
最初は笑って誤魔化していたけれど、あんまりしつこいので顔も引きつって来てしまい、いい加減にしてよという感じだった。
今夜は泊まっていけと言う両親を、明日は用事があるからと言って振り切って、夜遅くなって帰って来る。
電車の中で携帯を開いてみるが、越川医師からのメールは来ていない。俊には今日は遅くなるからと言っておいたので、怒ってはいないと思う。
翌日になって、遂に越川医師からのメールが来た。
『貴方はどなたでしょうか? 悪質な悪戯だとしたら直ちに警察へ通報します』
と書かれている。こちらの言うことを全く信じていない様子だ。
考えて、俊の寝顔をこっそり携帯の写真機能を使って撮影し、その画像をメールに添えて、次の様な文章を打ち込む。
『私はひょんなことから俊一君を匿ってしまった者です。俊一君は勉強して将来はお父さんの様な医者になりたいと言っています。でも俊一君には警察に出頭する勇気がありません。今からでも遅くはないと思います。私は俊一君が立ち直ってその夢を実現させる為に、力を尽くしてあげたいと思っています。真剣にそう考えています。貴方に連絡を取ったことを俊一君には秘密にしています。俊一君を立ち直らせてあげることが出来るのはお父さんだけだと思い、居場所を探していました。是非とも貴方の力が必要なのです』
そのメールを送信すると5分も経たないうちに返信が来た。
『私は打ち震えています。どなたか存じませんが、何とお礼を言ってよいのか分かりません。無事でいるのかどうか心配で夜も眠れない日々を過ごしておりました。息子が生きていると分かってこんな喜びは御座いません。貴方様には大変な御迷惑をお掛けいたしました。すぐにも引き取って然るべく罪の償いをさせてやりたいと思います。俊一が事件を起こしてしまったのは全て私の至らなさによるものと思い、悔やんでも悔やみきれない気持ちでおります。またこの件につきましては貴方様にはきっとご迷惑の掛からない様にしたいと思っておりますので、何卒宜しくお願い申し上げます』
こちらが素性を隠しているにも関わらず、実に誠実な言い回しだった。
亜希子は俊を匿うことになった経緯については何も書かなかった。というより書くことが出来なかった。
それを察してなのか、越川の方もこちらに必要以上の質問はせず、亜希子が何処の何者なのかということも、職業も何も聞いては来ない。ただ感謝の言葉だけで返事を書いている。そんな態度に気の毒な印象さえ持った。
それから何回か、俊には内緒にしたまま越川医師とメールのやり取りをした。
越川医師からのメールには、事件を起こしてからの俊一の様子について、出来るだけ教えて欲しいということが書いてあった。
亜希子は俊が亜希子の借りて来る映画やアニメのDVDを夢中になって観ていたことや、頭が良くてクイズ番組等は出演者たちが敵わないくらいの回答率だったこと、旺盛な食欲に驚かされたことや、寝ている時に母親の夢を見ているらしく魘されることがあったこと等を書いた。
それから絵が上手くて、亜希子が昔描きかけだった水彩画を見事に仕上げてしまったことも。
俊の寝顔の写真を見せられたとはいえ、越川はまだ亜希子が俊を匿っているということに半信半疑なところがあるのではないかと思う。だからこうして誠実に感謝している態度を見せながらも、いろいろと俊のことを訊ねて、様子を窺っているのではないかと思った。
そんなやり取りが何日か続いた頃、越川はメールではなく電話で話すことは出来ないかと書いて来た。自分の携帯の番号を教えるので、非通知でも良いのでかけて来て欲しいと言う。
俊のいるところで電話をする訳にはいかないので、仕事の帰り道、駅からの道を少し逸れたところにある公園で電話を掛けようと思った。
電話するのはその時間でどうかと打診してみると、大丈夫だと言うので、明日電話を掛けることを約束する。
次の日、陽の暮れかかった公園のベンチに座って携帯を出し、非通知の設定にして越川からのメールに書かれた番号にかける。
『はい、越川ですが……』
それは別段何の変哲もない何処にでもいる中年男性の声だった。
「もしもし、あの、私です」
『はい、分かっております』
「はい……」
『始めまして、越川康弘と申します。この度は息子がとんだご迷惑をお掛けいたしまして、全く何とお礼を言って良いやら分からない次第で御座います……』
恐縮しきった様子で、いつもメールに書いてあったのと同じ様な文句を述べる。
「はい、もうそんなことはいいんです。それより今からの俊一君のことを相談させて頂きたいんです」
『はい、勿論で御座います。それから貴方様への御礼のことも重々考慮しておりますので……』
「いえお礼なんかいいですから、お父さんみたいな医者になりたいっていう俊君の夢を、どうしたら叶えさせてあげることが出来るかということをお話ししたいんです」
『はいっ、私に出来ることは何でもする所存でおります。俊一にあんなことをさせてしまったのは全て私の責任だと痛感しておりますので、もし私の命と引き換えに俊一が立ち直ることが出来るというのなら、喜んで命を捨てる覚悟も出来ております』
少し戸惑う……俊一に済まないことをした、親としての責任を果たせなかったという悔恨の念に囚われてのことなのだろうけど、それにしても言動に違和感の様な物を感じてしまう。
「俊一君はもう自分はダメだと思って、自暴自棄になって自堕落な生活に浸りきっているんです。救って上げることが出来るのはお父さんだけなんです」
『しかし、私にまだ俊一の父親としての資格があるのでしょうか』
「俊一君は何よりもお父さんに悪いことをしてしまったと、深く反省しているんです」
『はい……』
その後沈黙した。微かに聞こえる息遣いに、越川が嗚咽を堪えているのではないかと思う。
『……すいません。俊一には、妻のことはもういいから、早く出て来て私と一緒にやり直して欲しいと、伝えて下さい……人生を』
「はい」
『それで、俊一は今どちらにいるのでしょうか』
躊躇した。まだ居場所を教えることまではやめておこうと思う。俊一がここにいることを告げた途端に越川が警察に通報してしまうのではないかという恐れがある。
もう越川に対する信頼感は大分出来ているけれど、何故かまだ信ずるに足る確信が持てないというか、躊躇いがある。
まだ俊に隠しているということもあるけれど、俊に引き合わせる前に一度直接会って話をしてみたいと思う。
越川にその旨を伝えたところ、まだ診療所に勤務させて頂く様になったばかりだし、自分の都合で休みを取らせて頂く訳にはいかないのだという。
なので越川は恐縮したが、亜希子の方から診療所を訪ねて行くことにする。
だが訪ねて来た亜希子と越川との関係を他の人たちに訝しく思われてもいけないので、亜希子はたまたま近くに来ていたところ、急に具合が悪くなり、診療所を訪ねたという体裁にしようと相談する。
越川に都内から診療所までの交通の便を教えて貰い、期日については追ってメールで連絡することにした。
通話を切ってベンチを立つと、すっかり夜も更けてきており、広い公園にいるのは亜希子一人だった。




