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俊の父親


第三章 5




 次の土曜日。俊はまた明け方まで板張りの部屋に篭もっていたらしく、亜希子が起きて出掛ける用意をしていてもまったく目を覚ます様子は無い。

 亜希子はいつもの様に会社へ行く時間に家を出る。昨夜俊には明日は仕事があるからと言っておいた。

近頃は休日に亜希子が何処へ出掛けて行こうと全く気にもしない。食べ物がありさえすれば良いと言う感じだった。

クリーニング屋のおばさんによれば、俊の両親は世田谷通りにある大学病院で共に医師をしていたのだと言う。

 世田谷通り沿いにある大きな病院と言えば、豊橋大学病院しかない。今日はそこを訪ねてみようと思った。

 経堂駅で降りて、農大通り商店街を住宅街に向かって歩く。8月に入ったばかりの陽射しは圧迫感があって、少し歩くとすぐに身体が汗ばんでくる。

 蝉の声に包まれながらアパートに繋がる狭い路地を通り過ぎて、そのまま世田谷通りに出る。東京農業大学のバス停から成城学園駅行きのバスに乗り、世田谷通りを走って幾つ目かの豊橋大学病院前のバス停で降りる。

 門を通って広い敷地を横切り、建物へ入ると長椅子が並んだ待合所になっている。

 まだ10時前なのに、大勢のお年寄りが座っており、据付けられたテレビを観ている。

 外来の受付へ行って保険証を出し、風邪で具合が悪いのですが、と告げる。

「お名前をお呼びするまでお待ちください」と言われ、空いている長椅子の端に腰を降ろす。

 私の前にこれだけの先客がいるということは、どれくらい待たされるのだろう。でもここまで来たのだからしょうがないと思い、バックから文庫本を出して読みながら気長に待つことにする。

 待ち始めて1時間くらいが経過しただろうか、「倉田さ~ん」と呼ぶ声に気付き「はい」と返事をすると椅子を立って診察室へ向かう。

 内科の外来を担当する医師は初老で感じの良い男性だった。少し咳が出て頭がだるいという私の訴えに聴診器を当てながら「その他に目立った症状はありませんか」と聞かれたので「はい」と答える。

 何処で切り出そうかとそわそわしていると、先生は早くもカルテにサラサラとボールペンを走らせて、これで診察を終わらせてしまいそうな気配だった。

「あ、あの、越川先生って……」黙っていては機会を逃してしまうと思い、思い切って口に出す。

「はい?」

「あの、以前に、お世話になったものですから、越川先生は、どうされてるかと思いまして」

 初老の先生はジロッと亜希子の顔を見ると「ああ、退職されましたよ」と抑揚をつけずに言う。

「そうですか……、今はどちらにいらっしゃるかご存知ないでしょうか?」

 今度は明らかに不審気な顔をして亜希子を見る「私はちょっと分かりませんね、次の患者の方がお待ちですので、どうぞ」と出口へ促されてしまう。

 きっと知ってはいても事情が事情だけに教えては貰えないのかもしれない。

 仕方なく診察室を出て「大した症状ではないですが一応出しておきましょう」と言って書いてくれた薬の処方箋を受け取る為に、また待合所の椅子に座る。

 そこへ見知らぬお婆さんが近づいて来て、亜希子の隣に座ると声を掛けて来た。

「越川先生のお知り合いですか?」

 さっきの話を聞いていたのだろうと思い、咄嗟に「は、はい、以前お世話になったものですから……」と内科の医師に言ったのと同じ言葉を繰り返し「どうしておられるのかと思いまして……」と言ってみる。

 するとそのお婆さんは私が事件のことを知っていると合点したのか、顔を寄せて来て、声を潜める様にして言う。

「あの事件があったでしょう? 息子さんはまだ行方が分からなくて」

「……はぁ」

「この病院にいられなくなってね、どこか地方へ行かれたみたいですよ。奥さんの御遺体は御実家の方が来て引き取ったらしいですけどね」

「そうだったんですか」

「ヨイ先生もあんなことになってしまってねぇ」

「はい?」

「ああ、ヨイ先生って言うのは亡くなられた奥さんのことなんですよ。昔ここに勤めていらした頃はまだ旧姓の予伊野と言うお名前でしたからね、もう20年くらい前ですかね、私たちはヨイ先生ヨイ先生って言ってね、綺麗な方だったんですよ」

 すると不意に前の椅子に座っていたお爺さんが振り返り「ええ、そうでしたねぇ」と言って相槌を打つ。

 予伊野と言う名前だったからヨイ先生……。

きっとこのお爺さんやお婆さんは、身体の調子を診て貰いにこの病院へ通いながら、ここで話し相手を見つけては世間話をして暇を潰しているのだろう。

 それから暫くその二人がかつてここに勤めていたヨイ先生と越川先生のことをいろいろ話してくれた。それは二人が患者に対してどんなに思い遣りのある先生だったか、ということだった。

 亜希子の目的は俊の父親である越川医師の居所を知ることだったのだけれど、それを知ることは出来なかった。そのかわりに俊の母親、詩織さんの旧姓を知ることが出来た。

 遺体は実家の両親が引き取って行ったのだという。クリーニング屋のおばさんは詩織さんの地元は名古屋だと言っていた。

 週刊誌には詩織さんの実家は大病院を経営していると書いてあった。

 名古屋にある大きな病院で経営者の名前は予伊野。それだけの手掛かりがあれば詩織さんの実家の場所を調べることが出来るかもしれない。




 病院を出て、来た時とは反対方向のバスに乗って成城学園駅まで行き、小田急線の急行に乗って新宿まで行く。

 新宿に着くと繁華街へと向かい、今まで一度も入ったことのなかった「ネットカフェ」という物を探してみようと思う。

 インターネットで詩織さんの実家の病院のことを検索してみようと思った。

 家にあるノートパソコンは近頃すっかり俊に占有されてしまっているし、それにもし詩織さんのことを調べていることが俊に分かれば、また逆上されてしまうかもしれないから。そう思ってネットカフェで調べてみようと思ったのだ。

どうやらそれらしき大きな看板を見つける。入り口は狭い階段で、店は2階に上がったところにあるようだ。

 こういうところは若い人が利用するところで、私の様な年配の女が一人で入るのは気が引けるけれど、しょうがないと思って中へ入る。

 受付で料金を払うと、板で仕切った小部屋が並んでいる廊下を案内され、その中のひとつに入る。中はパソコンが設置されたテーブルと椅子しかない狭い空間だった。

 パソコンのスイッチを入れてインターネットに接続する。

 名古屋市にある総合病院で経営者の名前は予伊野……検索キーワードの枠に「名古屋市内」と「病院」と「予伊野」という言葉を書き入れて検索ボタンをクリックする……11件の情報がヒットした。

 だがどれも名古屋市内にある病院に関するウェブページではあっても、名前に・予・伊・野・の三文字の漢字どれかが含まれているというだけで、それらしき病院の情報は出ていなかった。

 そう簡単にはいかないかと思い、今度は名古屋市内という項目を抜いて「病院」と「予伊野」という言葉だけを書き入れてクリックする。

 今度は600件以上のウェブページが表示された。 

 根気良く上から順に見ていくが、なかなか詩織さんの実家と思われる病院は見つからない。そのうちに目が痛くなり、肩も凝って来るし、時間も掛かるしで諦めかけた時に、愛知県日進市の予伊野総合病院。と言う項目のあるページを見つけた。

 クリーニング屋のおばさんは名古屋にある病院だと言っていたけれど、正確には同じ愛知県内でも名古屋市の近隣にある日進市にある病院だったのだ。

 予伊野なんて名前は珍しいし。愛知県内で予伊野と名のつく病院はこの一軒しかないみたいだから、間違いないのではないかと思う。

手帳にその病院の住所と電話番号を書き写す。母親の詩織さんの実家を訪ねて、もし御両親や親族と話をすることが出来れば、父親の越川さんの行方も分かるかもしれない。

 それにまだそこまでは考えていなかったけれど、いざとなれば俊のことを詩織さんの御両親に相談するということも出来る……。

 名古屋へは東京から新幹線で2時間くらいだし、その近くならそう時間も掛からずに行けるだろうと思う。

 来週の土曜日は詩織さんの実家を訪ねてみようと思う。でも最初はまだ、自分の素性は隠しておいた方が良いだろう。出来ればこちらの素性は知られずに越川さんの居場所だけを知ることが出来ればと思う……。




 俊は詩織さんの実家に行ったことがあるんだろうか、詩織さんの両親が健在だとすれば、それは俊にはお祖父ちゃんとお祖母ちゃんなのだ。

 家に帰って夕食を食べている時に、それとなく訪ねてみる。

「ねぇ俊」

 話し掛けても俊はテレビの方を向いたまま返事もしてくれない。構わずに続ける。

「俊のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんたちってさ、まだ元気でいるの?」

「え、何で?」

「うん。ちょっと気になったから」

「どうでもいいじゃんそんなこと」

「そうだけど、これからずっと一緒に暮らして行くのなら、俊のことは何でも知っておきたいからさ」

 そう言うと俊は少し態度を変えてこう答える。

「父さんの実家は青森らしいけど一度も行ったことないよ。母親の方は小さい頃何度かお祖母ちゃんが来たことあったけど、家には行ったことないし、顔もあんまり覚えてない」

「ふーん。そうなんだ」

それっきり俊は何も喋りたくないという様に黙ってしまう。

 俊の言葉の通りだとすれば、俊は父方とも母方とも祖父母たちとは疎遠だったんだろうか。




 次の土曜日。亜希子は俊に「毎週土曜が仕事で潰れてやんなっちゃうよ」等と言っておいて、いつもの出勤時間に家を出て東京駅から新幹線で名古屋へと向かった。

 新幹線の窓を高速で景色が流れて行く。ぼんやり見ていると自分の中からまた「私は一体何をやってるんだろう……」という問いが沸き上がって来る。

 こんなにまでして貴方のことを考えているのに、俊はもう私の存在すら見えない様に無頓着になってしまった。私は一体、誰の為に何をしようとしているのか……。

 その一方で、コレはきっと自分の為にしているんだ。という思いもある。亜希子の中には、とにかく俊一をなんとかしてあげなければならない、という使命感の様な物がある。




 新幹線で名古屋まで行き、そこから支線に乗り換えて予伊野総合病院に最寄の駅まで行く。名古屋から40分くらいかかった。

 電車を降りると駅前のロータリーに並んでいたタクシーに乗り、運転手さんに「予伊野総合病院へ行って下さい」と言うと「はい分かりました」と言って車を走らせた。駅前の繁華街から郊外に出て、閑静な住宅地を10分くらい走ったところにその病院はあった。

 表門の脇に「予伊野総合病院」と書かれたプレートが掛かっている。敷地に入ると4階建ての病棟があり、入り口の前は車寄せのロータリーになっている。

 タクシーを降りて玄関を入ると世田谷の豊橋大学病院に比べて半分くらいの広さの待合所があって、外来の患者さんたちが座っている。

受付のカウンターに行って、そこにいた女性に声を掛ける。

「あのうすみません。こちらの院長先生にご挨拶することは出来ないでしょうか」

 と言うと「どういった御用件でしょうか」と聞き返して来た。

「実は、世田谷の病院で生前詩織先生にお世話になったものですから、出来たらお線香を上げさせて頂けないかと思いまして」と用意しておいた言葉を繋げる。

 受付の女性はふと考える様な顔をしてから「何処か出版社の方とか、マスコミの取材の方ではありませんか?」と聞いて来た。

「いえ、違います」と答えると「少々お待ち下さい」と言って奥へ行き、受話器を取り上げてオートダイヤルのボタンを押す。きっと院長先生に取り次いでくれているのだろう。

 電話の相手に事情を説明した後、電話を切ってこちらへ戻って来ると「院長先生はお会いにはなれないそうなので、奥様が応対して下さるそうです」と言って亜希子を促すと表へ出て、病院の裏手にある院長宅への行き方を教えてくれた。

 女性にお礼を言って、病棟の周りに整備されている芝生を横切って裏側へ回る。

 院長の自宅は病院の敷地に隣接しており、それは病院と同じくらいの広さの土地に建つ日本風のお屋敷だった。

 立派な鉄門を開いて中へ進む。庭園の中の石畳を歩いて玄関へ着くと、扉の脇にあるインターホンを押す。

「どちら様ですか」老婦人という感じの声だった。マイクに口を寄せてなるべく丁寧に答える。

「突然すみません。私以前世田谷の豊橋大学病院で詩織先生にお世話になっていた者なのですが、今日たまたま仕事の都合でこちらに来たものですから、ご迷惑でなかったら御参りさせて頂けないかと思いまして」

 中で足音がして、扉が開かれる。現れたのは和服を着た上品そうなお婆さんだった。きっとこの人が詩織さんのお母さん。つまり俊のお祖母さんなのだろう。

「こんにちは、小石と申します……」

 咄嗟に小石さんの名前を口にしていた。本当の名前は言わないでおこうと決めていたのだけれど、ここに来るまで適当な偽名が思いつかなくて、どうしようかと思っていた。

「突然お邪魔してしまってすみません」

「わざわざありがとうございます。それで詩織とはどういったご関係で……」

「はい、個人的なお付き合いではなかったのですけれど、私小さい頃から身体が弱かったものですから、よく病院で、ヨイ先生に、あ、予伊野先生に、診て貰っていたものですから……」

 詩織さんが病院で患者の人たちからヨイ先生と呼ばれていたことを知っていらしたかは分からないけれど、詩織さんを慕っていた患者の一人だということを自分なりに設定して言ってみた。

「そうでしたか、それはどうも、遠いところをありがとうございます。詩織の母でございます」と頭を下げる。細く小さな身体が一層小さく見える。

「テレビでニュースを見て、もしかしたらと思いまして、病院に問い合わせてみたところ、やはり詩織先生だったと知りまして。今回仕事の出張で名古屋へ来る機会があったものですから」

 スラスラと嘘を並べている自分に呆れている。名古屋へ出張だなんて、一体何の出張だというのか、そもそも亜希子は仕事で出張なんてしたことはない。

その時、奥へ延びている廊下の脇のドアが開いて、厳しい感じの老人がゴホンと咳をしながら出て来た。玄関に立っている亜希子をジロリと一瞥すると、無言のまま奥へ歩いて行く。

 あの人がお父さんなんだろうか、つまり俊のお祖父ちゃん……。

お婆さんはそのことに気を止める風もなく、亜希子に少し待つ様に言って、中へ戻ると外出用の服を着て出て来た。

「詩織のお墓はここからすぐ近くのところにあるんですよ、私がご一緒いたしますので……」

「そんな、教えて頂ければ一人で行きますので」

「いえいえ、いいんですよ。わざわざ遠くから来て頂いたんですから、詩織もきっと喜ぶと思いますので」

ガレージに停めてある高級車をお婆さんが運転して行くのかと思ったが、お婆さんは屋敷の脇へ続いている小道を伝い、そのまま裏口を出ると亜希子を連れて車道の脇を歩き始める。

「もうすぐそこですから、いつでも御参りに行けますので」

 と後から付いて来る亜希子を気遣ってくれながら歩いて行く。

暫く行くと車道の先に少し高台になった場所があり、そこに墓石や卒塔婆らしき物が立ち並んでいるのが見える。

 霊園の門を入ると広い車寄せがあって、その脇に売店がある。

 お婆さんと中へ入る。亜希子が店員に声を掛けてお線香とお花を買おうとしていると、お婆さんは慣れた様子で色とりどりの花の中から数本のイエローの薔薇を選んで買おうとしている。

「あ、私が買いますので」と言うのを「いえいえ、いいんですいいんです」と言ってお金を払ってしまう。

 仕方なく亜希子はお線香だけを買い、お婆さんは店を出ると高台に広がる墓石の中を迷わずに道順を追って歩いて行く。

 辿り着いたお墓は辺りでも一際大きな区画に建っており、立派な墓石には「予伊野家先祖代々之墓」と刻まれている。

 綺麗な花束が活けられており、僅かに残ったお線香がゆらゆらと煙をたなびかせている。

 お婆さんが墓石の前へ屈み込んで手を合わせる。

「詩織ちゃん。今日はね、東京からわざわざ患者さんだったって人が訪ねて来て下さったのでね、もう一度来ましたよ」と言う。

 そして亜希子を振り返り「よくいらして下さいました。どうぞ御参りしてやって下さい」とイエローの薔薇の花束を差し出す。

「すみません。自分で買わなければならないところを」と言いながら花を受け取り、束を解くとふたつに分けて、墓石の両側にある花にそれぞれ足して活ける。

「ああ、黄色が入って鮮やかになった」と言うお婆さんの声を聞きながら、腰を降ろして合掌する。

 見ず知らずの、生前一度も会ったことのない人のお墓に御参りするのは初めてだった。 ここで眠っているのは俊のお母さんなんだ……ということに感慨を持って冥福を祈る。

「まだ詩織が病院の方へ勤めていた頃といいますと、もう随分前のことになりますかね」

 この前の週刊誌の記事によれば、詩織さんは職場結婚して、息子が産まれると同時に病院を辞めているということだった。

 詩織さんが勤めていた頃に診察に掛かっていたとすれば、俊が17歳なのだから、少なくとも今から17年以上も前ということになる。

 亜希子は今38歳なので17年前と言うと21歳である。詩織さんは44歳で亡くなったので、単純に計算すれば当時は27歳くらいだったはずだ。

 言葉を返さなければと思い、こんな会話になった時の為に用意しておいたことを話す。

「うちは豊橋大学病院が一番近かったものですから。小さい頃から怪我をしたり、風邪を引いて熱を出したりした時はよく行っていたんです」

「そうですか、それじゃ詩織は貴方の担当医みたいになっていたんですね。もう一度お名前を教えて頂けますか?」

「あ、はい……私、小石と言います。東京で、建築関係の会社でOLをしています」

 本当は職業も嘘を言おうかと思っていたのだけれど、後ろめたい気がして、思わず本当のことを言ってしまう。

これ以上生前の詩織さんのことについて質問されたらボロが出てしまうかもしれない。でもお婆さんはそれ以上のことは訊ねて来なかった。

 さっきお屋敷にいた、おそらく詩織さんのお父さんの、一瞬亜希子をジロッと睨んだ顔が浮かぶ。

 病院の受付の人は私がマスコミ関係の人間ではないかと問い質して来た。きっとお父さんは以前に事件のことを取材に来たマスコミの人間に不快な思いをさせられたのではないかと思う。それはあの週刊誌のルポを書いた記者だったのかもしれない。

「私はヨイ先生が結婚されて病院をお辞めになった後も、ご主人の越川先生には、お世話になっていたんです……」

 その時フッとお婆さんの様子が変わった様に見えた。

「……」

お婆さんは何も言わずに黙っているので言葉を繋げてみる。

「越川先生も立派な先生でしたのに、あのご夫婦がこんなことになってしまうなんて、本当に……」

「何が立派なもんですかね。こんなことになっても未だに私たちに何の連絡もして来ないんですよ。詩織を引き取りに行った時だって挨拶にも出て来やしなかったんですから……」

それまでの物悲しそうな雰囲気からはガラリと変わった、厳しい口調だった。

「あの、でも越川先生と詩織さんとは……」

「そりゃこちらからも連絡を絶ってたということもありますけどね、幾らなんでも酷いじゃありませんか」

「……」

 どういうことなんだろう……と思ったけれど、聞いてみることは出来ない雰囲気だった。

お参りを済ませ、霊園を出ると元来た道の方へ歩きかける。このまま何も聞き出すことが出来ずに帰ることになってしまうのかと思っていると、屋敷の側まで来てお婆さんが振り向いた。

「もしお時間が御座いましたら、家でお茶でも召し上がりませんこと?」

「はい、ありがとうございます。時間は大丈夫ですので、それじゃお言葉に甘えて少しお邪魔させて頂きます」

 と返事をして、木戸を開けて入って行くお婆さんに付いて行く。

 屋敷の中へ入ると、中はしんとしていて、さっき顔を見せたお爺さんのいる気配はない。

 玄関から廊下を歩いて大きな居間へと通される。

 10畳くらいはありそうな座敷に高級そうな絨毯が敷かれ、その上にソファとテーブルが置かれている。

 見ると隣に襖の開いた和室があり、そこに設えられた仏壇に遺影と供物が添えられている様だった。

座っているとお婆さんが紅茶とクッキーを載せたお盆を持って来る。

「すみません。ありがとう御座います」

 と言って紅茶に砂糖を入れ、そっとスプーンで混ぜる。

「あの、院長先生は、今日は……」

「さぁ、ごめんなさいね、さっきは失礼な態度を取ってしまいまして」

「いえ、そんな。あの……こちらの仏壇にも、御参りさせて頂いて宜しいでしょうか」

 と隣の和室を見て言う。

「ああ、どうぞどうぞ、ありがとう御座います」

 ソファから立って和室に入り、仏壇の前に正座する。線香を一本取り、火を灯して立て、リンを鳴らして合掌する。

 目を開けて、正面にある遺影を見る。それは初めて目にする詩織さんの姿だった。

 優しそうな、可憐な感じのするお嬢様の様な印象だった。目元が俊に似ていると思う。

 ……貴方が詩織さんですか? 始めまして、私は亜希子といいます。貴方の息子さんを、どうにかして助けてあげたいと思って、今日ここへ来ました。貴方のお母さんに本当のことを言わないで申し訳ないと思うけど、きっと悪い様にはしませんから。だから見てて下さい……お願いします。と心の中で語り掛ける。

居間へ戻ると、詩織さんの遺影に御参りしたことで少し勇気も出てきたのか、思い切ってまた越川医師のことを口にしてみる。

「病院でヨイ先生が越川先生とご結婚なさると聞いた時には、きっとヨイ先生は幸せになられるのだと思っていましたのに」

「うちの主人は、あの男が詩織と結婚したのは、うちの病院が目的だったと思っているんですよ」

「はい?」

 意外な返事が返って来たので驚いてお婆さんの顔を見る。

「私も今思えば、本当にそのとおりだったんだと思いますよ。あの男の何とも慇懃にへりくだった態度には不快な物を感じていましたから。それを詩織は、自分への愛情だと勘違いして、主人はきっとそのことを見抜いていたんだと思います。詩織はそれまで満足に男性とお付き合いした経験も無かったので、信じてしまったのだと思います。今となっては私どもが詩織のことを厳しく育て過ぎていたことが、いけなかったのかもしれないと後悔しておりますが」

「そんな、あの越川先生が? 本当にそうなんでしょうか」

 亜希子はまた一度も会ったことのない越川医師のことを知っている様な嘘をついた。でももしこの方向で話が進んでくれれば、現在の越川について何か情報が得られるかもしれない。

「詩織はあの男に殺された様なものなんですよ」

「はい?」

「そりゃ私たちがあの男のことを認めなかったばっかりに、詩織は俊一を国立大学に入れようと無理をしたのかもしれませんけれど。でももしあの男とさえ一緒になっていなかったら、こんなことにもならなかったと思うんですよ」

 ……週刊誌のルポによれば、詩織さんは俊一を学歴が低かった為に出世の出来ない越川医師の様にはしない為に、俊に対して厳しい態度で勉強させていたのだと書いてあった。

 でも本当の目的は、俊を一流の大学に入れることで両親に越川との結婚を認めて貰うことだったというのか。

 だとすれば、もし詩織さんの御両親が越川医師の学歴とか出身についてとやかく気にしていなかったとしたら、詩織さんもそんなに一生懸命に俊の教育に当たる必要も無かったということではないのだろうか。

「そうだったんですか……そんなことは全然知りませんでしたけど。でもヨイ先生は越川先生と暮らして、幸せじゃなかったんでしょうか。ヨイ先生にとっては越川先生はいいご主人だったのではないんでしょうか」

「あの男は、身の程を知らない人ですよ」とお婆さんは吐き捨てる様に言う。

「詩織はねぇ、そんな子供を叩いたり出来る様な子じゃなかったんですよ。小さな頃から大人しくてね、物静かで優しい子だったんですよ。詩織がテレビや新聞で言っている様な酷いことを我が子にしていたなんて私にはとても信じられないんですよ。私はね、もっと早くに詩織のそんな状況を分かってあげることが出来ていたらと思うと、悔やまれてね。主人があの男との結婚を認めなかったものですから、私もおいそれとは詩織に会いに行くことも出来なくてね。それで詩織の方も意固地になってしまいましてね、ずっと断絶した様な形になっていたんですよ。ああ~せめて私にだけは何か相談してくれてたらねぇ。こんなことにはならなかったかもしれませんのにねぇ。そんな風に思うと悔やんでも悔やみきれないんですよ……」

 と着物の袖口からハンカチを出して目元を拭う。

「はぁ……本当にあの男を信じてしまったばっかりにねぇ……」

 そうだろうか……という言葉が浮かんで来る。お婆さんのことが不憫でならないという気持ちに変わりはないけれど。

「それに、何処にいるのかも分からなくなってるお孫さんのことも心配ですよね」

「……私どもにはもう、孫も亡くなっていないものだと思っております」

「!」

「まだ俊一が小さい頃は、私は主人に隠れてこっそり会いに行ったりもしていたんですよ。その頃はねぇ、主人と娘夫婦が上手くいっていないとはいえ、孫でしたから、それはもう可愛いと思う気持ちが強かったですけど、こんなことになってしまってはねぇ……もう孫というよりは、一人娘を殺されて、その犯人ですから……」

「!……」

 亜希子は絶句して何も答えられなくなってしまう。  

越川医師を見つけることが出来なかった場合には、詩織さんの御両親である俊のお祖父さんとお祖母さんに相談するという選択肢も持っていたのに、それは叶わなくなってしまった。

 このお屋敷を見て、俊がもしこんなお金持ちの家に引き取られれば、勉強して医者になる夢に向かって頑張れるかもしれない……と思ってたのに。

 でもそのことを抜きにしても亜希子には、この老夫婦には俊のことを任せる気にはなれないと感じている。

紅茶も無くなり、もうこれ以上話を聞きだすことは出来ないかなと思いつつ、最後にもう一度聞いてみる。

「そう言えば越川先生も豊橋病院はお辞めになられたみたいですけど、どうされているんでしょうね……」

「さぁねぇ、千葉の方の診療所にいるって先日来た週刊誌の方が言っていましたけど、私たちにはもう関係のないことですから」

 千葉!……越川医師は私と俊が暮らしているのと同じ千葉県内の診療所にいる!?。

 でも千葉県といっても広いから、それだけで居所を突き止めるのは難しいと思うけど、何か運命的なことを感じてしまう。 

「そ、そうなんですか……」

 と言葉を濁し「今日はありがとう御座いました」と言って立ち上がる。それからもう一度御参りさせて下さいと言って詩織さんの仏前に向かい、リンを鳴らして手を合わせる。

最後まで挨拶に出て来なかった院長のことを詫びるお婆さんに丁寧にお礼を言って、屋敷を出ると病院の方へ戻り、タクシーで元来た支線の駅へと向かう。




 猛スピードで車窓を風景が飛び過ぎて行く。名古屋から新幹線のぞみに乗った。夕方5時前には東京に着く。

車窓の風景と重なって、あの可憐で儚げな微笑みを浮かべていた詩織さんの遺影が浮かんでいる。

 あんなに優しそうな顔をした人が、俊の成績を上げる為だからって、本当に殴ったり蹴ったりしたんだろうか……。

 お母さんによれば、詩織さんは物静かで大人しい性格で、人を怒ったり叩いたり出来る子ではなかったという。

 両親の反対を押し切って越川医師と結婚した詩織さんは、その後両親の思っていた性格とは違う本性を現したのだろうか。 



 そしてもうひとつ驚いたのは、詩織さんの御両親が越川医師を憎んでいるということだった。

 いや、憎んでいるというよりは蔑んでいるという方が正しいだろうか。お母さんの越川医師に対する言動は、酷い偏見の様にも感じられた。上流階級の優越意識とでもいうものだろうか。




あれこれと考えているうちに東京駅に着いた。外はまだ夕暮れが始まる一歩手前という感じだった。

 すぐには京葉線には乗り換えず、八重洲口を出て飲食店がある通りへ入り、またネットカフェを探して入る。

 今回の検索キーワードは「千葉県」「診療所」そして「越川康弘」しかし検索すると千葉県内にある診療所は何百とあって、その中から越川医師が勤務している診療所を見つけ出すことは出来そうにもない。せめて診療所のある市の名前だけでも分かれば……。

インターネットで見つけることが出来ないとしたら。他にどんな手があるだろう……よく雑誌等に広告が載っている興信所という物に依頼すれば、と思うけど、それにはきっとこちらの身元を知られることになってしまうから、やめた方が良いと思う。

 そうだ、雑誌といえばあの週刊誌の越川医師のインタビューを書いた記者ならば、越川医師に直接会って話を聞いたのだろうから、今の居場所も知っているかもしれない。

 あの週刊誌を出版している雑誌社に問い合わせてみれば……いやそれだってこちらの名前とか仕事を教えなければならないだろうし、どうしても越川医師の居場所を探さなければならない納得のいく事情がなければ教えて貰えないだろう。そもそも雑誌の記者に接触するなんてとても危険なことだ。

どうしたら良いのだろう。もしかしたら事件のことをテーマに取り上げている匿名の掲示板等を検索すれば、何か情報が得られるかもしれない。

 と思い今度はキーワードの枠に「世田谷区」「母親を殺害」「高校生」「掲示板」と入れてみる。

 すると過去に起きた今回の様な事件の記録やルポの他に、少年犯罪や凶悪事件に関する掲示板の案内も多数表示された。

 その中から今世間で話題になっている「スクープ広場」という掲示板の名前をクリックしてみる。

 その掲示板はジャンル別にいろいろなカテゴリーに分かれており、そこから更にそれぞれの専門分野や特定の社会問題についてテーマが分かれている。それぞれについて感心のあるユーザーたちが匿名で書き込める様になっている。

数あるカテゴリーの中から「少年犯罪」という項目を選び、表示してみると様々な事件の名前が並んでいる。

 数ある表題を目を凝らして見ていくと、「世田谷区で起きた高校生の母親殺し」という表題があった。

 クリックしてみると、それはやはり5月に俊の犯した事件についての掲示板だった。投稿者たちは様々に自分の意見や考え等を書き込んでいる。

 その何百と言う書き込みの数に驚いた。今ではそれ程世間の話題にはなっていないと思ってたのに、ここではこんなにも反応が多く、それぞれにこの事件に対して何らかの思いを抱いている人がいる。

 中には『母親を殺すなんて言語道断だ、死刑にしろ』なんて恐ろしい書き込みもあるけれど、見たところ大方の意見は俊に同情的で『子供は親の欲を満たす道具ではない』とか『自分のやりたいことも出来なかった彼が可哀想だ』等の同情的な意見が多い。

見ていくと、俊の名前や父親の勤めていた病院の名前等は少年事件なので伏せられているはずなのに、中には『この少年の実名を知ってる』とか『少年の写真を入手しました。アップします』等のドキリとする書き込みがある。そのリンクを開いてみると、既に掲示板の管理者によって削除されているのか、写真が出て来ることは無かった。

 けれど、投稿者がアップしたばかりの頃はここに俊の写真が掲載されていたのかと思うと怖くなった。

 マスコミの報道では事件の詳細や個人名は伏せられているけれど、当事者たちの近親者や知り合いだった人は知っている訳だから、中には『俺は知ってるぞ』とか『私は同級生でした』等と情報を暴露している書き込みもある。

 俊のことをそのまま苗字と名前を書かずに『越〇俊〇』という様な形で書いているいやらしい書き込みもある。

 報道からは当事者たちを知ることが出来ない一般の閲覧者たちは、関係者だけが知っている情報にひどく興味を惹かれるのか『誰か知ってる人教えて』とか『写真持ってる人いたらアップしてくれ』等と煽っている書き込みもある。

 それに呼応して当人たちのことを知っている人が競い合って情報を暴露している様なところがあった。

恐いと思いつつ、何か越川医師に関する情報はないかと、延々と続く書き込みをスクロールしながら目を凝らして見て行く。

そして、その中にこんな書き込みを見つけた。

『この少年の父親は地元でも昔からダメ医者で有名、学歴も低く大学病院のお荷物的存在だった越〇さん。今は追放されて某県の僻地にある〇辺〇村の診療所で隠密生活を送ってるんだとさ……』

某県の僻地にある〇辺〇村……これが本当なのかは分からない。でももし千葉県内に「〇辺〇」に当てはまる名前の村があるとしたら……。

再び検索キーワードに戻り、今度は「千葉県内の村」と書き込んで検索してみる。

 ズラリと並んだ村の名前の中に「〇辺〇村」という文字列に適応する村の名前がひとつだけあった「芳辺谷村」更に検索を進めてみるとその村にある診療所はひとつだけ「芳辺谷村会沢診療所」。

住所も掲載されている。それは会沢さんという医師が個人で経営している診療所らしかった。

 だが、そこに勤務している医師の名前までは記載されていない。越川医師はここに勤務しているんだろうか。手帳を出してその診療所の住所と電話番号をメモする。

 時計を見ると7時になってしまった。そろそろ帰らなければ、また俊がお腹を空かせて怒っていることだろう。


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