俊の母
第三章 4
7月も終わりに近付いて来た。今朝も亜希子は暑い陽射しの中を駅まで歩いて行く。
ホームに溢れんばかりの通勤客たちに揉まれながら、バックのお弁当箱が横にならない様に気を付けて電車へ乗り込む。
俊は相変わらずの引き篭もり生活を送っている。そして何日かに一度、亜希子が帰って来た時や明け方に、眠っている俊が魘されて「お母さん……」と寝言を言っていることがある。
この生活が永遠に続いて行けば良い、なんて思ったこともあったけど、その頃の楽しさは無くなってしまった。
電車に揺られてぼ~っとしながら見るともなく天井から吊るされた広告を眺めていると、その見出しが飛び込んで来る。
『母親を刺殺して逃亡中の高校生は今何処に? 明らかにされる少年の苛烈な家庭環境。鬼母の実態。母親は地元で大病院を経営する名門一族の娘だった……』
それは今日発売の週刊誌の広告だった。俊の事件を取材したルポライターの記事が掲載されているらしい。
八丁堀の駅を出てから急ぎ足に歩いて、最初のコンビニに飛び込み、雑誌売り場のラックの中に、その雑誌を見つけ、買って出る。
すぐにでも読みたいけれど、時間が無いのでバックの中へ詰め込んで歩く。
昼休み、いつもの様に会議室でみんなと一緒にお弁当を食べた後、逸る気持ちを抑えつつ、さり気なくその週刊誌を開いて読む。
電車の中刷り広告に宣伝されていたその記事は、最初のグラビアページの次の読み物ルポとして大きく扱われていた。
『母親を刺殺して逃亡中の高校生は今何処に?』
それは少年の父親に取材したというライターのルポで、これまでいかに少年がエリート意識の強い母親からガリ勉生活を強いられて、小学校から中学、高校と厳しい受験を経て来たかということが書かれており、妻を亡くして息子の行方を案ずる父親に同情する内容になっている。
『殺された母親は少年にとって鬼婆の様な存在であったようだ』という小見出しに始まる父親のインタビューは、次の様に語られている。
『……私は医者と言っても二流の私立大学の出身なものですから、これ以上の出世は望むべくもありません。このまま大学病院の一勤務医として生涯を終える他はないのです。妻の実家は地方で総合病院を経営しているものですから、私の不甲斐なさをいつも詰っていました。ですから息子のことは、私の様にはしたくないとの思いから、しっかり勉強させて国立大学に入れてやろうと躍起になっていた様です。全ては情けない私の責任なんです……』
そして少年の行方については、親戚や思いつく限りの友人に聞いてみても、目撃証言は愚か全く何の手掛かりもつかめていない状況であり、目下警察で捜索を続行していると書かれている。
その記事を読んでいて、亜希子には今も心に引っ掛かるものがある。あの時、経堂のアパートで俊が逆上した時に口走った『……グズでノロマな女だったんだよー……ぶっ殺してやってスッキリしたよ!』と言った言葉と、この週刊誌の父親の言葉『……妻は私の学歴が無いことに酷くコンプレックスを抱いていて、その気持ちを息子に対する厳しい教育で晴らしていたのです。鬼の様に厳しく息子に当たっていました……』と言う証言とが食い違っている気がする。
それにあの時俊は、自分が母親を刺したのは、母親が自分の成績が下がったことを笑ったからだ、とも言っていた。
教育熱心で息子の成績を上げようとしていた親が、成績が下がったからといって笑うだろうか。
俊と母親との関係には、何か他に隠されていることがあるのではないか……でもそれは俊に聞いても答えてはくれないだろう。
俊のお父さんに会うことが出来れば……と思うけど、もし父親と連絡を取るとしたら、私が俊を匿っていることを隠しておくことは出来ない。
お父さんはさぞ俊のことを心配しているに違いない。俊はお父さんのことは尊敬していると言っていた。俊はそんなお父さんのことをどう考えているんだろう……。
帰りの電車の中で吊革につかまり、暗い窓に映っている疲れた自分の顔を見つめながら、私に出来ることは何だろう……と考える。
俊を立ち直らせてあげなければならない『お父さんみたいな医者になりたい』という夢に向かってもう一度頑張って行ける様にしてあげなくてはならない。
俊が自分から警察に出頭して行くことが出来ないのだとしたら、お父さんに連絡を取って、事情を話して……そこで亜希子の考えは停止してしまう。
事情を話して……これまでの、あの経堂のアパートで俊に縛られてからの、全ての出来事を私は話せるのか……。
私は何故警察に通報しなかったのか、あの日、俊が仕事に行かせてくれた日に、何故約束通り誰にも言わずに買い物をして帰って来てしまったのか……。
そんなことまで話さなければならないとしたら……でも、そんなこと言っている場合じゃないじゃないか、私のことよりも俊のことを考えてあげなくちゃならないのだから。
普段の俊を見ていると、もう自分がやった事件のこと等は他所の世界の出来事で、まるで関係無いことにして忘れようとしている様に見える。
そこから俊を連れ戻さなくては。俊、貴方が殺したのは自分のお母さんなんだよ。
亜希子の脳裏にあの時、何度もノックするのを無視して、居留守を使ってそのまま帰らせてしまった母の丸い背中が思い出される。
顔を合わす度にお嫁に行かないのかって煩いけど、もしお母さんに何かあったりしたら、私は耐えられないと思う。
俊の悲劇は、そんなお母さんの愛情を感じることが出来ずに、殺意までも抱いてしまったことだ。
きっとお母さんだって、俊のことを思う気持ちがあってのことだったのではないのか、決して憎くてしていたのではなく、立派な人生を送らせてあげたいと思う気持ちから、していたことではないかと思う。
どうしたら俊にそのことを分からせてあげることが出来るのだろう。
俊の家の郵便受けに書いてあったお母さんの名前は、確か越川詩織さんだった。綺麗な名前だと思う。如何にもお上品な家柄で、清楚で麗しい印象を受ける。
詩織さん……あんなに可愛い俊君のことを、貴方はどうしてそこまで追いつめてしまったの? そんなに学歴が大事だったのですか? その為に自分が殺されてしまっては元も子も無いじゃないですか。本当にそんなに恐い鬼の様な人だったんですか?。
そんなことを考えているうちに電車は検見川浜駅へ到着する。まだ暑い夕暮れの街を物思いに耽りながら、通勤帰りの人波と共にマンションへ歩いて行く。
8月になって最初の昼休みだった。いつもの様に会議室で食事を終えた後、なんとなく携帯電話を開いて見ると、着信アリの表示が出ている。相手先を表示してみると「クリーニング」の文字。それは経堂にいた時に使っていたクリーニング屋さんの電話番号だった。
電話してみると、2ヶ月以上も前に出していた礼服が預けっ放しになっていると言う。
『訪ねてみたけどお引越しなさっている様でしたので……』
親切なクリーニング屋のおばさんの顔が浮かぶ。すっかり忘れていた。
仕事が終わると日本橋駅から銀座線に乗った。表参道から千代田線、代々木上原から小田急線と乗り継いで、以前通っていたルートを辿って経堂へ向かう。
帰りが遅くなると俊に連絡しようとしたけれど、俊はまだ寝ているのか、留守電に呼び掛けても出ないので、仕方なくその旨のメッセージを残しておく。
夕暮れの経堂駅へ降りる。引っ越してからまだ1ヶ月半くらいしか経っていないけど、検見川浜とは街並みがあまりにも違うせいか、懐かしい感じがする。
商店街に入って、よく買い物をしていたお店の前を歩く。時々オマケしてくれたお惣菜屋のおばさんにご挨拶したいけど、引越しのこと等を話さなければならなくなるといけないので、反対側をそそくさと歩いてやり過ごす。
そして商店街の外れ近くにあるクリーニング屋さんへ入る。
「ごめんください」と入って行くと「あら、どうも」とおばさんが出て来る。
「すいません、すっかり忘れてしまっていて、近頃引っ越したものですから」
わざわざ亜希子の住んでいたアパートまで訪ねてくれたお礼を言って、預けっ放しになっていた礼服の代金を払う。
「やっぱりあそこで事件があったので引越しなさったのかとは思ってたんですけどねぇ」
ちょっと戸惑ったけど「はい?」と少しとぼける。
「凄い騒ぎでしたわよねぇ、ビックリしましたよ、うちにも警察の方が聞きにいらして」
「そうでしたか……」
「亡くなられた奥さんはよくいらしてたもんですからね」
「えっ?」とその言葉に思わず食い付いてしまう。
「あの、よくここにいらしてたんですか?」
「ええ、もうずい分古いお客さんでしたよ、息子さんが小さい頃は一緒に来てたこともあったんですけどね」
「そうですか、本当に、お気の毒な事件でしたよね。それにしても、その奥様って、本当にそんな恐い感じの方だったんですかね?」
なるべく世間話の範疇を出ない様に気を付けながら聞いてみる。
おばさんはちょっと亜希子の顔を見ると、事件について報道されている事と照らしてのことだろうと察したのか、言葉を繋げる。
「いや、私が見た感じでは、物静かで育ちの良さそうな奥さんでしたけどねぇ……」
「そうですか、意外ですよね、そんな人が自分の子供さんにそんなに厳しくしていたなんて」
まだ何か喋ってくれないだろうかと思い、暫しおばさんを見つめながら次の言葉を待ってみる。
「もともとは名古屋の方にいらしてね、大阪の大学を出てからこちらへ来て、お子さんが出来るまではホラ、あそこの世田谷通りにある大学病院でお仕事なさっていたそうですよ、ご主人も同じ病院の先生だったらしいですけどねぇ」
「そうだったんですか、本当にとんだことでしたね。でも私が引っ越したのは、その事件のせいじゃなかったんですけどね」
と一応言い訳しておく。話好きなおばさんに、それじゃあどうして? と聞かれたらまた話が長くなってしまうので、礼服を入れた袋を受け取り、丁寧にお礼を言って店を出る。
そのまま駅へ戻ろうとしたけれど、ふと気になってもう一度店の方へ戻り、そのまま通り過ぎて商店街を抜けて行く。
信号を渡り、住宅地に入って、この前まで住んでいたアパートの方へ向かう。
俊の住んでいた家のある角まで来る。もうパトカーは止まっていない。
辺りに人影の無いことを確認してそっと側まで来た。
ハッと驚いた。そこにはもう家は無かった。取り壊されて瓦礫の山になっている。メチャメチャに壊された残骸の中に、大きな鎌首をもたげたクレーン車が少し斜めになったまま停められている。
表札が着いていた跡のある、敷地と外とを隔てる壁だけが残り、中は真っ暗で瓦礫の山になっている。その光景はとても恐ろしかった。
会社を出てから経堂まで来て、そこからまた引き返したので、マンションに帰り着くのはいつもより3時間も遅くなってしまった。
いつもなら私が帰って来てもまだ寝ていたり、起きていても自分の部屋に入ったままの俊が、今日はさすがにお腹が空いたのか「遅かったなぁ、もう腹ペコで死にそうだよ、何やってたんだよー」と部屋の中からドアをバンバン叩いてくる。
「ごめんね、急に残業になったから抜けられなくて、でも電話したんだよ、留守電にメッセージしたんだけど」
「知らねえよそんなもん」
バックを置いて急いで晩御飯の用意に取り掛かる。