二人の海
第三章 2
新居へ来て一週間が過ぎて、荷物もあらかた片付いてきた。
俊には四畳半の部屋でも見られる様に小さなテレビを買って上げて、ノートパソコンも繋いであげた。亜希子が会社に行っている間ずっとそこにいてインターネットを見たり、テレビやDVDを見たりしている。
その部屋には窓が無いので、外から覗かれる心配は無い。
引越先を何処にしようかと相談した時、俊は「窓から海とか見えたら最高じゃん」と言ったけど、ここからは遠く建物の合間から海の欠片が覗けるだけだった。
まぁそれは仕方ないだろう。それでも引越し費用に40万円以上のお金が掛かってしまったのだから。そう贅沢を言っている訳にも行かない。
ダイニングキッチンと六畳に面したガラス窓を開けるとベランダに出ることが出来る。
六畳間の窓には経堂で使っていたカーテンを掛けたけど、サイズが少し小さいし、生地が薄いので夜は外から人影が動いているのが分かってしまうだろう。
なのでダイニングの分も一緒にサイズを測り、デパートで厚手のカーテンを探して買って来ることにする。
会社には明日にでも転居の旨を報告しておかなければならない。
翌日のお昼休み、皆で会議室で昼食を済ませた頃、総務の小石さんが一人でいるところにそれとなく近づいて、そっとその旨を伝え、新しい住所を書いたメモを渡す。
「あらそう? どうしたの急に? もしかして誰か同居人が増えてたりして」
と笑顔で言われてドキリとする。
「同居人なんている訳ないじゃないですか~ちょっとした気分転換ですよ~」
と誤魔化したが、少し慌てた感じになってしまった。
引っ越したことは実家にも知らせなければならない。それは今度母が電話を掛けて来た時にでもしよう。
ただ気分転換がしたかった。とさり気なく伝えようと思う。家の電話番号は変わってしまったけど、繋がらなければ携帯の方に掛けて来るだろう。
通勤はまだ乗り換えに慣れず、遅刻しない様に時間に余裕を持って出ることにしたので、最初の2日間はかえって早く着き過ぎてしまった。
検見川浜駅から日本橋まで行くのに八丁堀と茅場町で2回乗り換えなければならない。けど時間的には経堂から通ってた時と10分くらいしか変わらなかった。
ただ、ここには経堂の様な商店街が無いので、買い物は全て駅にあるスーパーで済ませなければならない。商店街のいろいろな店を回って、安い物を探して歩くという楽しみが無くなったのは寂しかった。
整然とマンションが建ち並ぶ街は広々として、車道も広く、吹き抜ける風は海が近いことを感じさせる。
世田谷の街とのギャップを感じれば感じる程、新しい生活が始まったのだと言う実感が沸く。ただこの街も、俊と一緒に歩くことは出来ないのだと思うと寂しいけれど。
でも、ここならば俊の顔を知っている人と出会う可能性はかなり低いんじゃないだろうか。俊は知人でこの辺りに住んでいる人は親戚にも友達にも聞いたことがないと言っているし。
俊のことを知っている人にさえ会わなければ、誰にも俊が母親を殺した少年だとは分からないだろう。顔写真が公開されている訳でも無いのだから。
でもやはり用心に越したことは無いと思う。何か不審を抱かれることや、俊を見た人が顔を覚えてしまう様な印象を残してしまったら、もしかしたら1ヶ月前に報道された世田谷の事件と俊とを結び付けて考える人がいないとも限らない。
デパートから届いた厚いカーテンを六畳間とダイニングの窓に吊り下げる。
これなら夜でも光が漏れないので、中で人が動いても外から見えることはないだろう。
「ねぇ、少しだけ海が見えるって言ってたじゃない、それって何処?」
と俊に聞かれて、朝お弁当を作って会社に行く前に、ダイニングキッチンのカーテンの脇からそっと外を見て、俊にその場所を教えてあげる。
折り重なる様に建ち並ぶマンション群の間の先の方、ほんの少しだけマンションとマンションの間に青い欠片が覗いている。
「ほら、あそこ、見える? レンガ色っぽいマンションとマンションの間」
「え? 何処、あ、あれか? ホントだ、あれが海なんだ、ふ~ん、近いじゃん……」
そう、海は近い。折角こんなところへ引っ越して来られたというのに、俊にはあんな小さな切れ端でしか海を見ることが出来ない。
この部屋を探しに来た時に一人で歩いた。あのひっそりと広がる東京湾の砂浜を、俊と一緒に歩いてみたい。
検見川浜駅7時39分発の快速東京行きに乗って、ギュウギュウのラッシュに揺られながら、亜希子は思っている。
昼間は人目に付くからダメだけれど、例えば引越しの時みたいに、まだ夜が明けきらないうちに家を出て、海岸に着いてから夜が明けるのを待てば、誰にも見られずに海岸を歩くことが出来るのではないか。
この前来た時は午後の時間だったけど、全く人がいなかった。夜明けの時間なら尚更誰もいないんじゃないだろうか。
それに万が一誰かに見られたとしても、私が倉田亜希子であることも、一緒にいる少年が越川俊一であることも、誰にも分かりはしないのだから。
駅近くのショッピングセンターで自転車を買おうと思った。歩いて行くよりも俊を乗せて自転車で行った方が早いし、通行人に顔を見られる心配も少ない。
なるべく二人乗りがし易そうな、所謂ママチャリを選んで買おうと思う。
その朝、俊と亜希子は朝の4時半に起きた。
亜希子が先にドアを出て、ドアの脇に置いてあるピカピカの自転車を押してエレベーターで一階に下ろす。
エントランスを出ると、マンション全体の外廊下と階段が見える位置に来て、誰も人がいないのを確認して俊に手を振る。
目深にキャップを被った俊がサッとドアを出て、例の忍者走りでスタスタと廊下を走って行く。
やがてエレベーターが一階に着いて、走り出て来た俊は自転車の後ろにサッと跨り、亜希子はうんしょとペダルを踏み込む。
「大丈夫? 変わろうか?」
「いいから、ちゃんと顔伏せて私の背中にもたれてるのよ」
「誰も人なんかいないよ」
「いいから」
うんしょうんしょと重いペダルを漕ぐ足がもどかしく、時々フラフラとよろめきながら広い車道の脇を走る。
車も殆ど走っていないので、信号を守る必要も無いくらいだ。海岸線に広がる森の様な公園を目指して漕いで行く。
やっと公園の入り口に入る。ここまで誰にも擦れ違うこともなく、途中2~3台の車が行き交ったけど、亜希子たちに関心を向ける様子はなかった。
広場を横切り、海岸線と平行している森に囲まれた道を走って、海岸へ出る横道があるところを探す。
どうやら海への入り口らしい道の脇に自転車を止め、コンクリで作られた階段を俊と二人登って行く。
「もうこの先が海だよ」
「うん」
ザザーとさざ波の音が聞こえて来る。辺りは真っ暗だ。堤防の様に盛り上がった草地を乗り越えて行くと、そこはもう砂浜で、すぐそこに打ち寄せる波が迫っている。まだ夜が明けないので、海と夜空との境目が無く、ただ真っ暗が視界いっぱいに広がっている。
「何も見えないね」
「うん、気を付けて、大丈夫?」
声を掛け合って歩き、草地と砂浜の境辺りに二人で腰を下ろす。
今日はそんなに天気が悪い訳ではないと思うけど、やはり東京の空は汚れているのか、星は微かに数える程しか見えない。
「あとどれくらいで夜が明けるのかなぁ」
「分かんない、でもほらあの遠くの方が少し白くなり始めてるから、きっともうすぐだよ」
「そうかな」
言っているうちに空はどんどん明るさを増して行く様だった。空全体が白っぽく透けて来て、バックの空と雲の区別が付き始めると、砂浜も隣にいる俊の顔も見えてくる。
海もどんどん青くなって、遠く水平線が現れて来る。見渡す限りに人影は無く、広がる海岸線の真ん中で、二人きりだった。
俊が立ち上がって波打ち際の方へ歩いて行く。亜希子も立って俊に続く。砂浜に出ると途端にボコボコして歩き難くなった。
遠く右手を迂回して遥かに見える陸地には品川港と、もっと先に建ち並ぶビル群の影が見える。反対側の左手に伸びる海岸線は、遠く湾曲した先に赤い光が幾つも点滅して、建ち並ぶ工業地帯のコンビナートや煙突等が見えている。
風を受けながら海の先を見つめる俊の横に亜希子も佇む。
左右の海岸線に囲まれた先に水平線がある。あの赤くなって行く雲の向こうから太陽が登って来るのだろう。
「綺麗だね……」
月並みだけれど、他に言う言葉も思いつかない。黙ってこちらを向いた俊と、抱き合ってキスする。朝靄の中、果てしなく広がる海の前で、ギューっと抱き締めた俊と自分の温もりがある。
亜希子は、今この時が二人の永遠であると思う。
経堂の時とは反対の方角から通うことになった会社へは、八丁堀と茅場町で乗り換えなければならないのだが、八丁堀で降りて歩いてもそう変わらないことが分かった。
駅から歩く距離は長くなってしまうけど、その分電車に乗っている時間は短い。
すっかり梅雨に入って傘を差して歩く日が多いけど、それでも地下鉄の乗換を2回繰り返すよりは良いと思った。
おそらくお喋り好きな小石さんから聞いたのだろう。隣の淵松絵美子さんが「倉田さん引っ越したんだってぇ?」とニヤニヤしながら話しかけて来た。
「はい、ちょっと気分を変えようと思って」
変にうろたえてはならないと思い、落ち着いた風を装って言葉を返す。
「それってひょっとして誰かと一緒に住んでたりして?」
と絵美子さんは食い下がって来る。
「アハハハ、何言ってんですか」と笑ってごまかす。
「本当~? そんなこと言っちゃって、そういえばなんだか最近やけに活き活きしてるなぁとは思ってたんだよねぇ~う~ん怪しい怪しい……」
とニヤニヤしながら疑惑の視線を投げ付けて来る。……一人暮らしの女が引越すとどうして皆そんな想像ばかりしたがるんだろう……実際そうなんだけど……と心の中で舌を出す。
近頃の私はそんなに活き活きして見えたんだろうか、自分では以前と変わらず淡々と仕事をしているつもりだったのに。
無意識のうちに態度が変わってしまってたのかもしれない。傍から見れば変に浮かれてるというか、ハイテンションになっているという様な、どんな風に見られていたのかと思うと、ちょっと恥ずかしくなってしまう。
というよりも、それ以前が余りに暗く沈み過ぎていたせいじゃないかとも思う。これからは気を付けなくちゃ……。
肉体関係を持ち始めた頃の俊は全く受身の態勢で、自分から働きかけて来たりはしなかったのだけれど、近頃は慣れて来たのか、自分の方から積極的に責めて来る様になった。
もう私に主導権は無く、飢えた野獣みたいにガンガン掛かって来る俊の情熱に、自分では分からないのだけれど、私はあらぬ声を上げる様になっているらしい。
後で俊に「ねぇねぇ、アキコってさぁ、時々壊れちゃう~とか死んじゃう~とか言ってるけど、あの時ってホントに凄く苦しくなったりするの?」
と真顔で聞かれた時には、顔が真っ赤になってしまうのが分かった。
俊にそんなことを言われても腹は立たないけど、ホントに私はそんな言葉を口走っているんだろうか、隆夫が経堂のアパートに置いて行ったアダルトDVDの女たちの様に、自分もなっているのだろうか。
でも確かにその瞬間、ただ夢中で俊の首にすがり付いて頭の中が真っ白になり、全てが光に包まれて分からなくなる。
今の私はただその瞬間の為だけに生きていると言ってもいいかもしれない。その瞬間さえあればどんなことがあっても生きて行けるという様な。
私はもう、俊無しには生きられない、そして俊もきっと。嫌、そのことを抜きにしても、俊は殺人を犯した逃亡者なのだから、私無しには生きられない。
「なぁ、お腹空いたよ、御飯作れよ」
「うん」
俊はだんだん横柄に振舞う様になってきた。大人の女を征服したことで、いっぱしの男にでもなったつもりなんだろうか。
俊が乱暴な口をきいてアレをしろコレをしろと命令しても、私は従順に聞いてあげる。
偉そうに命令しても、その顔はやっぱり17歳の少年で可愛らしい。横柄な物言いも子供の我侭みたいに思えて、愛しいと思える。
亜希子が仕事に行っている間、俊は四畳半で亜希子が借りて来た映画のDVDを見たり、買って来たゲームをしたりしている。
DVDは俊と同じ年頃の高校生が観る様なハリウッドの大作映画やディズニーのアニメ映画、テレビドラマ等を借りて来て欲しいとせがんだ。
俊は子供の頃から母親に勉強ばかりさせられて、テレビ番組等は見せて貰えなかったのだという。
また亜希子のノートパソコンを使ってインターネットも見ている。何を見ているのかは聞いたりしないけど、新しい映画のことや、同年代の高校生が集まる掲示板等を見ているらしかった。
自分の起こした事件のことも調べているのだろうか……と思うけど、敢えて聞いてみることはしない。
けれど、帰って来て俊が使った後電源の落ちていたパソコンを立ち上げて、インターネットの検索履歴を表示してみると、そこには「世田谷区の殺人事件」とか「少年事件」等のキーワードが残されている。
また俊はインターネットで見つけた「ガンダム」や「スターウォーズ」のフィギアやグッズを買って来て欲しいとせがんだ。私が間違えて買って来ない様に、商品名や型番を詳しくメモに書いてくれる。
俊の書いてくれたメモを頼りにデパートへ買いに行くのだが、ガンダムのプラモデルの売り場へ辿り着いてみると、店の一角に山と積まれた種類の多さに驚いてしまった。
亜希子の目にはどれも同じ様に見えるのだが、俊のメモに書いてある型番と同じロボットはなかなか見つからない。遂には眩暈がして来てしまい、親戚の子供に頼まれたのだと言って店員に助けて貰うしかなかった。
俊が子供の頃お小遣いを貯めてやっと買って来た変身ヒーローの人形等を、母親は勉強の邪魔になると言って取り上げてしまったり、知らぬ間に捨ててしまったりしたのだという。
だから俊は小さい頃に観れなかったアニメやヒーロー物のDVDを夢中になって見て、それらのフィギアやプラモデルを欲しがる。
そしてまた一方で、俊の教養や知識の豊富さには驚かされた。
一緒にテレビのクイズ番組を見ていると、一般の教養を試す様な番組では殆ど全ての問題を正解してしまう。
歴史や地理、化学や物理に至るまで、大学の試験科目になっている教科の知識は特に凄く、クイズ番組に出場している知識人も敵わないのではないかと思えるくらいだった。
経堂のアパートであの夜激昂して亜希子を泣かせてしまって以来、俊は事件については何も語ろうとしない。亜希子も聞かない。お互いがもう無かったことにでもしているかの様に、全く触れもしない。
俊は毎日亜希子の帰りを待ちかねて、帰って来ると抱きついて来て、甘える様に食事や欲しい物をねだる。
亜希子は何でも俊の言うことを聞いてあげる。今はただ俊の我侭を聞いてあげるのが幸せだった。