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ことのはじまり

「劇団東京たっちゃぶるS」を主催していた竹村直久です。長年の夢だった長編小説の第一作がやっと完成しました!

第一章 1


 五月も終わりに近いある日の夕暮れ。帰宅ラッシュの電車に揺られ、いつもの様に亜希子は帰って来た。吊り革につかまって、片手で文庫本を読みながら。

 いつも読む本は近所の図書館で借りているのだが、行き帰りの電車と昼休みにしか読まないので、いつも返却期限を過ぎてしまう。

 面白そうな本なら何でも読むけれど、やっぱりミステリー系が一番好きだ。事件の真相や犯人は誰か等、面白い展開だと読むのも早いけど、今回の本はいまいちなので、なかなか読み終わらない。

 小田急線の経堂駅で降りて、南口の改札を出ると農大通り商店街を買い物をしながら歩く。

 スーパーや八百屋等、行き付けの店を何箇所か回って予定の買い物を済ませて行く。

スパゲティにかけるレトルトのソース、お弁当の付け合せにするトマト。朝食代わりに食べるバナナ、飲料水のペットボトル。夜のお笑い番組を見ながら食べるスナック菓子……。

 今日はディスカウントショップに6本で600円の発泡酒があったけど、もう両手が一杯で持てないや。

 隆夫が一緒にいれば持ってくれるから買えたのに……でもまだ冷蔵庫に3本くらいあったから、今夜飲む分は足りるだろう。

 買い物を済ませると、商店街を抜けて車道を渡り、住宅街に入って行く。両手に下げたビニール袋が重く指に食い込んで痛い。

 いつもの通りを近くまで来て、アパートへ続く道への角を曲がった時、異変に気付いた。

 暗い道を赤い光が照らしては消え照らしては消え……どうやらパトカーが止まっているらしい。

 それも一台や二台ではない、ピカピカと点滅を繰り返す赤色灯が、少なくとも三つ以上は見える。

後から考えれば、その時の異変をもっと敏感に感じていれば、側に立っている警察官に、近所の者ですが何かあったんですか? と質問でもしていれば、警戒心を持つことが出来て、あのことも無かったかもしれない……。

 その時はとにかく両手に提げた買い物袋が重かったので、何事が起きたのかを見物することもせずに、目と鼻の先にあるアパートへ急ぎ足に向ったのだった。


 亜希子の住んでいるアパートは木造モルタルの二階建てで、一階と二階にそれぞれ三世帯ずつ、合わせて6世帯が住んでいる。

 薄い壁を隔てて何年も同じ屋根の下に住んでいながら、他の住人とは殆ど顔を合わせることは無い。それこそ何ヶ月かに一度、出かける時や帰って来た時すれ違いに「こんにちは」と会釈を交わすくらいで、それ以上の付き合いは無い。

 隣りに住んでいる20代後半くらいの無精ひげの男も、学生なのか、フリーターなのか、一体何をしている人なのか分からなかった。

 毎日遅い時間に出かけて行く音が聞こえるので、何か夜中の仕事でもしているのかな……くらいの認識しか無かった。

 亜希子のアパートは高級な一軒家の建ち並ぶ住宅街の中の、車道から路地を入って、ちょっと奥まったところにある。場所が分かり難いので、ピザを配達に来た人が辿り着けなかったこともあった。

 むき出しのブロック塀に囲まれた敷地へ入ると、二階へ上がる錆びた階段があり、その下に集合ポストがある。

 その中から「倉田」と名札の付いた蓋を開く。何も入っていないのでパタンと閉めて、一階の一番奥にある自分の部屋の前へ来る。

 買い物袋を二つとも右手に持ち替えて、左手でバックからキーを取り出す。ガチャガチャと鍵を開け、真暗な部屋へ入る。

 とにかく重い買い物袋を置いてしまいたい。入ってすぐ床に置き、パンプスを脱いで台所に上がる。

 最初に違和感を感じたのはその時だった。室内の空気が動いている……。

 ドアの外からではない、ドアを閉めて、一度空気の動きが無くなった後に、まだそよそよと微かに空気が動いている感じがするのだ。

壁のスイッチを入れて台所の電気を付ける。

この部屋には三畳程の台所と六畳の和室しか無い。六畳の方は真暗なままだ。

着替えようと六畳間へ入って、垂れ下がっている蛍光灯のスイッチを引こうとした時、その声がした。

「声出したら殺すからな」

 それは霊魂の様にいきなり暗闇から沸いて出た。そんなに大きな声ではなかったけれど、何処か違う世界から響いて来た様な声だった。

 ビクッとして振り返ると、目の前に今にも突き刺さりそうな包丁の先端がある。

 暗くて顔はハッキリ見えないけど、亜希子が仕事に行っている間に侵入していた何者かが包丁を突き付けているのだ。

「こっち見るなよ、向こう向いてろ!」

 弾かれる様に顔を背ける。何が起こっているのかさっぱり理解出来ないまま、身体が縮み上がってしまう。

 全くリアリティーが無い。でも今見た包丁の刃には、全体にヌラヌラと魚をさばいた様な血の模様が付いていた。

「言う通りにしないと今すぐ殺すからな」

 全身の毛が逆立つのが分かる。

「分かったのかよ! 返事しろよ」

その声は男の様だったが、女性が金切り声を出している様にも聞こえる。アニメに出て来る中性的な悪魔みたいな感じもする。

「おい、分かったのかよ!」

 ドカッ、と亜希子の腰の辺りを蹴ったのか殴ったのか分からなかったが、強い衝撃が当たる。

「はっ……はいっ」

 亜希子は震えながらぎこちなくガクッと頷く。今殴られた(蹴られた?)腰の後が痛い。その人は項に息がかかる程側にいる。

「電気点けるからな、絶対こっち見るなよ」

 亜希子の肩越しにその人の手が蛍光灯のスイッチを引っ張る。

 ピカピカッと短い明滅があって、部屋の中が明るくなる。閉めてあったはずの窓を覆うカーテンが風で波打っている。

 顔は全く動かせなかったが、亜希子の目に入る範囲で部屋の中が物色されているのが分かる。

「そのまま下に両手をついてうつ伏せになれ」

 言う通りにしなければ……硬直して身体の感覚が無かったが、ガクガクとぎこちない動きで膝を折ると、その場に両手をつく。四つん這いになり、スカートが捲くれない様に手で押さえながら両脚を延ばし、腹這いになる。

「両手を後ろで組み合わせろ」

 言う通りにする。

「絶対こっち見るなよ、ちょっとでも動いたら殺すからな」

 このまま私をあの大きな包丁で串刺しにするつもりなんじゃないだろうか……殺される! 殺される! 殺される! 殺される!

 その人は亜希子の腰の上に座り、後に回した両腕を紐でグルグル縛り始める。縛り難いのか無理に引っ張ってギュウギュウと締め上げる。

「ああっ……痛い……あの」

「喋るなって言ってるだろうが!」

 恐怖で訳が分からなくなっていたが、口が勝手に言葉を吐いてしまう。

「あの、お願いします、私何も……」

 ボカッ! ボカッ! と後頭部に硬い物がぶつけられる。手で殴ったのか足で踏み付けたのか分からないが、脳に響く程凄い衝撃だった。

「黙ってろって言ってんだろこの野郎!」

「……」

 何も言えなくなる。感じている恐怖も戸惑いも全くお構いなしに、亜希子は転がされたまま両手の自由を奪われ、うつ伏せにされて馬乗りになられている。

 ……私の腕を縛ったビニール紐は、雑誌等を縛って捨てるのに使っていた紐かも知れない。押入れに入れてあったはずの。

 無理な体勢で後に両手を引き絞られるので、肩の関節が外れそうに痛い。

 次に揃えた足首を縛り始める。見えないけど今度は紐ではなく何か細長い衣類で縛っているみたいだ。縛られる感触がさっきの細い紐とは違う、何か繊維質の様な感じがする。タンスにしまってあったストッキングだろうか、マフラーかもしれない。

 そうして足首と膝の辺りもガチガチに縛られてしまうと、今度はタオルが横から口を塞ぐ様に渡される。

「口開けてアーンてしろよ」

 とにかく言う通りにしなければ……と大きく開けた口の間にタオルを噛まされる。

 背中に馬乗りになったその人は、そのままタオルの両端を後に引っ張る。首が持ち上げられて身体が海老反りになる。

顔が宙に浮いた状態でタオルの両端が後で縛られ、大きく開けた口がそのまま閉じられなくなる。

 不意に顔に何か被せられる。息を出来なくして窒息させられるのか、それとも首を締められるのかと思ったが、目隠しをする為らしい。

 暗闇に包まれて目が見えなくなってしまうと、途端に恐怖が倍増し、耐えられない慄きに自分でもどうにもならず身体が震えてしまう。

「動くなって言ってんだろ、お前そうやって動くんなら死んでもらうからな」

 ビクリとして力を振り絞り、震えを止める為に身体を硬直させる。

 恐い! 恐い……だっ、誰か助けて!

 今にもあの包丁の先端が身体のどこかに突き刺さってくるのではないかという恐怖が全身の神経をささくれ立たせている。

 亜希子は声を発することも出来ず、目も見えず、その姿勢のまま固まって動くことも出来ない物体になった。

 太ももの辺りに違和感があって、暖かい感触が広がって来る。

 ジョジョ~~ジョジョジョジョ……感覚は無いけれど、勝手に失禁しているらしい。

「ああ~っ、お漏らししたんだ」

 その言葉のトーンはそれまでの狂暴めいた感じと違い、ちょっと幼いと言うか、やはり男か女か分からない甲高い感じだけれど、何か他人をせせら笑う残酷な子供の様な感じがする。

「しょうがないなぁもう、待ってね、今拭いてあげるから」

 呻くことも身をよじることも出来ない、もはや恥かしいと感じることも無い、瞬く間に信じられない事態に陥っている驚きと、受け止め切れない恐怖を超越した亜希子は、完全に物と化している。

 フワフワとした感触があって、太腿の辺りをタオルか何かで拭いてくれている様だ。このタオルの感触は……きっといつも風呂上りに使ってるバスタオルだろう。

「僕も小さい頃ね、夜中にオネショした時、よくお父さんがこうやって拭いてくれたんだよ」

 僕……今自分のことを僕と言った。ということはやっぱり男なんだろうか、だとするとやっぱり私はレイプされるんだろうか、こんなおばさんでも? 私は38歳だ。こんなことで今更自分が女なんだということを自覚させられていることに、思わず可笑しさを感じてしまう。この非常事態が私の感情を狂わせ始めているんだ……。

 だけど自分のことを僕と言ったからって、男の人とは限らないんじゃないか。だって男性にもオカマという者がいる様に、女性だってまるで男性の様な背広を着て、自分のことを「俺」と呼んだりする人だっているのだから。

 その人は横から身体をつかんで乱暴に転がして仰向けにする。転がされて腕が下になった時激痛が走る。痛い……そして今度はそのタオルを持った手が前を拭き始める。

 スカートを脱がされるんだろうか。でもその人はタオルを持った手をスカートの下から突っ込んで、パンツの周辺を押す様に拭き取るだけで、その手つきもなんだかぎこちない。

 小便はすぐに冷たくなって、その人はスカートを捲り上げることもせず、周りを拭いてくれただけで離れてしまう。

 亜希子の近くからその人の気配が消え、物音もしなくなる。

 物音がしなくなってしまうと、目隠しをされた暗闇の中では、その人が何をしているのかさっぱり分からなくなってしまう。恐い……さっきの包丁の鋭利に尖った先端が目の中に大きく浮かんでいる。

亜希子に分からない様に気配を消して、でも実はすぐ横にいて、今まさに両手で包丁を逆手に持って振り上げ、突き降ろそうとしているのではないのか。

 今にもブスッと来るのではないか! 今にもブスリと突き刺さって来るんじゃないか!

「ううっ、ううっ、う~っ! ううう!」

 亜希子は言葉にならない呻き声を漏らして吠えたてる。黙っていろと言われたけれど、黙ってなどいられないのだ。身体を襲う絶望的な恐怖が、勝手に身体を震動させて呻き声が上がってしまう。

「黙れっ、黙れ! 黙れって言ってんだろうこの野郎っ!」

 ドスッ、ドスッ、ボカッ、ボカッ……メチャメチャに身体を蹴られて亜希子の身体が転がり悶える。

「ううっ、うっ……」

 必死に黙ろうとするがどうしても身体が震え、呻き声が漏れてしまう。

「静かにしてろよ! 言うこと聞いてれば簡単に殺したりしないんだから! な、静かにしてろってば」

 断末魔の虫の様な亜希子の反応に戸惑ったのか、その人は宥める様に少し穏やかな調子で言う。

亜希子は芋虫の様に蠢きながら必死に嗚咽を堪えている。

 あの包丁を刺されたら、私はこのまま死体になって、放置されて、このまま何日も発見されないんだ……きっと腐って、酷い臭いが漂い始めて、身体が半分腐った辺りでやっと訪ねて来た誰かに発見されるんだ……。

 もしそうなったら、私の死体を発見するのは誰だろう……隆夫……いや、もう隆夫がこの部屋を訪ねて来る事は無いだろう。

 だとすれば会社の人か、今まで一度も無断欠勤なんかしたことなかったから、このまま連絡が取れなくなれば、おかしいと思って誰かが見に来るかもしれない。それともお母さん……。

 いや普段から部屋にいても家からの電話には出ずに留守電に応対させたりしてるから、私が何日も電話に出ないからと言って、すぐに不審がってお母さんが様子を見に来ることは無いだろうと思う。

 お母さんが訪ねて来るとしたら、それこそ連絡が取れなくなって何週間も経ってからだ。でもきっとそれまで私の死体はもたないに違いない……。

 あの人は一体何をしているんだろう……。

 亜希子の拒絶反応が収まり、静かな嗚咽を漏らすだけの状態に落ち着くと、また物音がしなくなり、その人が何をしているのか分からなくなってしまった。

 お願いだから音を立てて、今あの人が何をしているのか分からせて欲しい。

 亜希子は何も見えず、真暗な中で身動きも出来ないまま、荷物の様に転がされている。

 唯一辺りの様子を伺うことの出来る耳だけが敏感になって、何か手掛かりをつかもうと必死に作用している。

 パタ、パタ、パタ……足音がする……床の上だ、台所を歩いてるんだ。冷蔵庫や戸棚を開けたり閉めたりする音が響く。

 何か食べる物を漁ってるんだろうか……。

 ガサゴソとビニール袋の中をかき回す音がする。さっき買い物して来て、台所の床に置いた手提げ袋だ。ああ……出来たら冷凍食品とアイスクリームは冷凍庫に入れておいてくれないだろうか……。

 袋を破る音がして、ボリボリと食べる音がする。きっとカッパえびせんかポテトチップを食べてるんだ。この音はきっとえびせんの方だろう……後でお笑い番組を見ながら食べようと思ってたのに……。

 さっきは失禁して濡れたところをタオルで拭いてくれた。最初は私を嘲笑ったのかと思ったけど、本当に他意はなくただ拭いてくれただけなんだろうか、だとすると狂暴なだけでなく、少しは人間的なところもあるんだろうか、そう思うと少しはホッとする気持ちもあるけれど、やっぱり恐い……。

 一体何が目的なんだろう。泥棒なんだろうか? お金? それなら何故こんな古いアパートに入ったの? 私にはお金なんて無い、そりゃ少しは銀行に貯金はあるけれど、とても人に言える様な金額じゃない。

 前から私に目を付けてたんだろうか、ストーカー? まさか38歳にもなるオバサンの私にそれは無いと思う……どうやら犯される気配もなさそうだし、言動にそれらしき感じもしなかった……。

 空き巣に入っていたところへ私が帰って来てしまったの? それなら何故サッサと逃げてしまわないんだろう。私は顔も見てないんだし、こうして身動きも出来ないくらいギュウギュウに縛られて、口も塞がれてるんだから、叫んで助けを求めることも電話をかけることも出来ないんだから。

 でももし空き巣なら、私が帰って来るまでここでノコノコ待っているはずは無いんじゃないか……。

 身動きの出来ない暗闇の中で、亜希子はあれこれ考える。考えなくても頭が勝手に錯乱した様に考えあぐねる。そしてある結論を思いついた。

 あの包丁に付いていた血の跡は、人間の物なんじゃないだろうか、だとするとあの人はきっと……何処かで誰かをあの包丁で刺して、逃げて、そしてたまたまこの部屋に入って隠れていたのではないだろうか。

 そう思った時、全く動かすことの出来ない身体中に悪寒が走る。

 もしかしてこのままここに隠れて、立て篭もるつもりなんじゃないだろうか、冗談じゃない……ああ……でも何でそれが私の部屋じゃなきゃならないの。

 助けて、誰か……隆夫、隆夫と一緒なら、こんなことにはならなかったのに。いや、もし部屋に入って来た時隆夫が一緒だったら、この人と争いになって隆夫が刺されていたかもしれない、そんなことになったら大変だ。

 助けて、誰か……警察の人……あっ! さっきアパートに帰って来る時、近所に集まっていたパトカーの灯り……。アレとこの人は関係あるんじゃないか。近所で何かをやって逃げて、奥まったところにあって人目に付かないこのアパートの、そのまた一番奥のこの部屋を選んで、隠れた……。


 暫らく台所でガサゴソと食べ物や飲み物を物色する音がしていたかと思うと、パタパタと台所の床を歩く足音が六畳間のカーペットを歩く小さな音に変わる。

 こっちに入って来たんだ……。

 何かされるのではないかと身を硬直させていたけれど、何もされる様子は無い。

 ピッ、ピッ……聞き慣れた電子音が響く。買い物袋と一緒に台所に置いたハンドバックから、私の携帯電話を出して操作しているんだ。

 ピッ……と言う電子音を残して、音が途切れる。電源を切ってしまったのかもしれない。

 暫らくまたガサゴソと戸棚や引き出しの中にある雑誌やCDを見ている様な音がして、やがて何処かに腰を下ろしたのか、音が途絶える。

 ドアも窓も開ける音はしなかったから。外に出て行ったのではない。

 こうなってからどのくらい時間が経ったろうか、澄ましている耳に、時おり雑誌を捲る様な音や、ペットボトルから何か飲んでいる様な音が断続的に聞こえて来る。だがやがてそれも聞こえなくなる。

 何の物音もしなくなってからずい分時間が経った様な気がする……。

 何も見えない、身動きも出来ないこんな状態では、時間の感覚も麻痺しているだろう。大分長い間の様な気がするけど、感じているより全然時間は経っていないのかもしれない。その人は何も言わない。まるで亜希子のことなどここにはいない様に無視されている。

 その時、澄ましていた耳にスー……スー……と微かな呼吸音が聞こえて来る。寝息だろうか……微かだけど確かに規則的に繰り返されている。

 ……寝ているんだろうか。でも何処で? その音はほんの身近なところから聴こえている気もするし、離れている様な感じもする。音だけでは正確な距離をつかむことが出来ない。

 何も見ることは出来ないけど、目隠し越しに微かに光を感じることで、部屋の電気が点けっ放しであることは分かる。

 相手が眠っているのなら、このままでも芋虫みたいに身体をくねらせて、玄関のドアの方まで這って行くことは出来ないだろうか。

 そう思って身体を少しよじらせてみると、足に何かが当たった。

 あっ……と思って身を硬くする。聞こえていた寝息が途切れる。ドキッとしたが、暫らくするとまた聞こえて来る。

 すぐ横にいるんだ……私が横たえられている位置関係からみて、私と玄関ドアの間に寝てるんだ。

 そうと分かると、這って玄関まで行くことは絶望的に思われる。

縛られた手首と、無理に後へ曲げられた肩と、足首と、膝と、身体中が物凄く痛い。特に痛かった両肩の辺りはもう痛みさえも麻痺して、硬い塊の様になってしまっている。

 どうしてこんなことになってしまったんだろう……思っても意味が無いことは分かっていても、どうしてもその思いが亜希子の頭を駆け巡ってしまう。

 いつもの様に会社に行って、いつもの様に買い物をして、いつもの様に帰って来ただけなのに……ああ、でもあの何台も止まっていたパトカーを見た時、もっと気をつけていれば……今更そんなこと思ったって意味が無いけど……。

隆夫……助けて、今何処にいるの? もう私のことなんて微塵も頭に無いのだろうか。

別れてから半年くらいが経つけれど、私はまだ全くその事実を受け入れられていない。

「隆夫……」亜紀子は部屋にひとりでいる時、一日に一度はその名を呟いている。ここでよく二人で過ごしていた頃みたいに。まるですぐ横に隆夫が座っているみたいに。時にはまだ隆夫が布団の中でむずがっているのを横目に歯を磨きながら「早く起きないと遅刻するぞ~」と言った朝みたいに、そして幾度と無く過ごしたあの夜の様に。

 名前を呟くことで、テレパシーの様な物が働いて、自分の思いが隆夫の心に通じるのではないか……なんて、寂しさに感けてそんなことを考えたこともあった。


「あ、どうも、お久し振り……」

 この前久し振りに隆夫の声を聞いた。大規模建築資材部から隆夫が業務連絡をして来た時に、電話を取ったのが偶然亜希子だった。

 私も驚いたけど何気ない風を装って「どうも、お久し振り……」と言った。隆夫の方も電話に出たのが私だったことに戸惑ったのか、何処か口調がたどたどしかった。ほんの一言二言交わしただけで他の担当者に換わってしまったけれど、隆夫はもっと喋りたかったんじゃないだろうか。

 もしかしたら若い彼女と上手く行ってないんじゃないだろうか、それとも何か問題が起きて、また私を頼りにして来てくれたんじゃないだろうか、それとも私が寂しがっていることを分かってくれてるんじゃないだろうか……そんなことを期待してしまう自分が嫌だった。

 本当はさり気無くでも私が今も隆夫のことを応援している気持ちを伝えたかったのに、少しでも鬱陶しく思われるのが嫌だったから、努めて普通に、でも素っ気無くはならないように気を付けて受け答えするのが精一杯だった。


 身体中の痛みと疲労に苛まれながら、取り留めもなくそんなことを思い出している。そのうちに意識が朦朧としてくる。

 何も見えない視界の中で、ぼんやりと何かを眺めている。それは目の前に置かれたパソコンのモニター画面だった。受注製品の名称と数量のリストがズラリと表示されている。

 工務店等から建築現場で使う様々な資材を受注して、その部品ごとに製造している会社へリストアップして発注する。

 そして納品書を打ち込み、月末になると請求書を起こして、また受注して発注して……来る日も来る日も画面の表を見てカチャカチャとキーボードを打つ私の手……。


「倉田さん、コレ良かったらどうぞ」

 総務の大先輩の小石さんが、先週御主人と行ったヨーロッパ旅行のお土産だと言うパスタで作ったお菓子を、亜希子に向って差し出している。

 そんな風に差し出されたのでは断ることも出来ず「すいません」と端からひとつ手に取る。

「良かったよ~ローマは寒かったけどね、行きたかった所全部回ったのよ、やっぱり実際に見ると凄い感動したの……」

小石さんは大企業の重役をしていたという御主人と、度々休暇を取っては豪勢な海外旅行に出掛けている。そして帰って来ると皆にお土産を配り、写真を見せては旅先の事を話したがる。

 高い化粧品を使っていつも上品な身だしなみをしているけど、近くで見るとお婆さんの様なシワが目尻や口元に浮かんでいる。

 いつも朗らかな人で、亜希子が隆夫と課内恋愛していた時も、隆夫が異動になった後別れてしまってからも、何も無かった様に接してくれたのは小石さんだけだった。

「そうですか、良かったですね」

 仕方なく変わったお菓子を食べながら相槌を打って、やりかけの仕事が気になるという素振りを見せる。

「あ、美味しそう、私もひとつ頂いていいですか~」

 と横から手を出したのは亜希子と同世代で、やはり独身OLの絵美子さんだ。

「どうぞどうぞ、写真いっぱい撮って来たから、見て見て」

「へぇ~ありがとうございます」

 と絵美子さんは小石さんが差し出す写真の束を受け取る。

「いいなぁ~私も是非行ってみたいですね」

「いいわよ~死ぬまでに絶対行くべきよ」

 仕事そっちのけで小石さんの話に調子を合わせる絵美子さんのパソコンには、キンキキッズの堂本光一君の写真がペタペタと貼り付けてある。

絵美子さんは確か私よりひとつ若いと言って喜んでいたから、37歳のはずだ。キンキキッズというのは20代のアイドルだけど、最近の男の子のアイドルはずっと年上の主婦層からも人気があるっていうから、まぁいいのかなぁとも思う。

でもついこの間までは、こんなに近くに座っていながら絵美子さんとは殆ど言葉を交わしたことが無かった。

 どちらかというと絵美子さんの方で私を避けている様な感じだったのに、私が隆夫と別れたということが社内に広まった頃から、急に親しげに話し掛けて来る様になって、自分が堂本光一君にどれくらい入れ込んでいるのかを説明してくれた。

 親しくしようとしてくれるのは良いのだけれど、キンキキッズのDVDを貸してくれようとしたり、一緒にコンサートに行こうと誘ってくるのだけは勘弁して欲しいと思う。

 絵美子さんはお菓子を美味しそうに食べながら、小石さんの旅先の写真を熱心に見ている。

楽しそうにお喋りする小石さんと絵美子さんを横目に見ながら、亜希子は忙しいフリをしてキーボードを打つ。


 寂しい……この課に隆夫がいた頃は、毎日が楽しくて、こんな寂しさを感じることなんて想像もつかなかったのに……。

 住宅建築資材部の中では、二人の付き合いは周知の事実になっていた。

 5年前に他の部署から配属されて来た隆夫のことを、亜希子が何かにつけて面倒を診ている姿から、親密になって行く二人の関係は傍から見ても明らかだったに違いない。

 私と5歳も年下の隆夫とは、歳の差カップルとして他の女子社員たちが羨む空気になっていた。

 行く行くはゴールインするものと見られていたらしいけど、去年の秋に隆夫は大規模建築資材部に異動になった後、そこの受付け嬢と付き合い始めた。

 そして社内には隆夫が亜希子を捨てて若い女に乗り換えたと言う噂が流れた。

 その頃は周囲の噂話や同情の眼線に居た堪れなさを感じたけれど、生活の為には仕事を辞める訳にも行かず、我慢して勤務を続けて来た。

 時に同僚や後輩の女の子たちが、亜希子のいる前では隆夫のことを話題にしない様に気を遣っていることが分かったりすると、凄く惨めになった。

 以前と何も変わっていない振りをして、隆夫と別れたことなんて私にとっては大したことではないのよ、という態度を周りに見せたかった。

 本当は奈落の底に落ちて真暗になって、何も見えなくなってしまった様な心境だったけど、務めて普通に装っていた。

 それが行き過ぎて突然仕事に張り切り出したみたいな感じになったり、ハイテンションで明る過ぎる態度になってしまったりして、自分で自重しなくちゃなんて思うこともあった。

 きっとそんな私の心情を想像してる人も多かったと思うけど、本当の辛さを他人に知られるのは嫌だ。

 でもオフィスの電話が鳴る度に、もしかしたら隆夫からではないか、と反応してしまう自分がいる。

 大規模建築資材部から時おり掛かってくる連絡は、半年前までこちらにいて事情を良く知っている隆夫が掛けて来ることが多い。

 電話が鳴って、他の人が取る度に、無意識に耳を向けてしまっている。


「ダメじゃないか! 明和興業さんからまたクレーム頂いたぞ」

「申し訳ありません、何か私のパソコン前から調子が悪いものですから……」

 派遣社員の木村由さんが課長のデスクの前でペコペコと頭を下げている。

「そんな言い訳なんか関係ないだろっ!」

 課長の牧は相手が弱い立場だと極端に横柄な態度を取る。

 派遣社員には何ヶ月かに一度契約の更新があって、その時派遣先の上司の評価が悪いと契約を切られてしまう。その後はまた他の派遣先に行くか、それともそれっきり仕事に溢れてしまうかだ。

 派遣社員と言う制度は最初の頃は普通のフリーターよりずっと条件が良いとかで人気があったけど、今は社会的弱者の代名詞みたいになっている。

 私の様な正社員なら、労働組合だってあるし、ちょっとやそっとのことで頸になる心配は無いけれど、派遣の人は気の毒だと思う。

 いつも課長から嫌味を言われたり、お説教されてもひたすらへりくだって聞いている姿を見ると、本当に可哀相になってしまう。


「倉田さん、雨降って来たけど傘持ってるの?」

「はい、いえ今日は……」

 その牧課長が、私が隆夫と別れてから露骨に優しくして来る様になったのには困ってしまう。牧課長は結婚していて子供もいるくせに。

「俺これからタクシーで本社に寄るからさ、駅まで送って行こうか」

「いえ、大丈夫ですので、コンビニで傘買って行きますから」

 亜希子としては牧課長を嫌っている同僚たちから疎まれるのも嫌だし、かといって余り邪険に拒絶しても、逆ギレされて意地悪されたり、果ては何か理由を付けてリストラされたりしたのでは堪った物ではない。だから波風の立たない様にやんわりとかわさなければならない。

 そんな苦労も、隆夫との交際が続いていれば、あり得ないことだったのに。


昼食は男性社員の殆どは外へ食べに行くが、女子は大体近くのコンビニやお弁当屋で買って来て、空いている会議室で食べる。

 亜希子は毎朝自分で作ったお弁当を持って来ている。粗末だけれど、コレが一番安上がりなのだ。

「倉田さんハイ、お味噌汁お湯入れて来ましたよ」

 外の弁当屋に買いに行くと言う派遣社員の安高君が、頼んでおいたお味噌汁を買って来てくれた。

 小さなワカメが少し入っているだけで、殆どはお汁だけだけど、お弁当のご飯は冷たいので、温かいのが嬉しい。

この会社に来てまだ半年くらいの安高君は、さっき牧課長に怒られていた同じ派遣の木村由さんのことが好きで、一度帰りに居酒屋で相談されたことがある。

「すみません、出来たらちょっと相談に乗って欲しいことがあるんですけど」

 安高君みたいな若い男の子に誘われて嫌な気はしなかった。私は隆夫と別れたばっかりだったし、安高君は私と付き合い始めた頃の隆夫と同じ27歳だった。

 嬉しい気持ちを隠しながら、一体何の相談だろうと思って付いて行ったけど、それは一緒に仕事している木村由さんに対する恋愛の相談だった。

まぁそうだよな……隆夫と付き合っていた時も、私には5歳年下の彼氏がいる、ってことがちょっと自慢だったけど、安高君は隆夫よりさらに5つも若い10歳も年下なのだ。 そりゃタレントみたいによっぽど良い女でもない限り、私なんかじゃ無理だよな……と思いつつ、彼の話を聞いてあげる。

 安高君としては木村さんに何度も自分の好意を意思表示して来たつもりなのだが、木村さんの方からそれとなく言われた話では、どうも安高君が派遣社員であることが問題の様で、木村さんももう20代の後半だから、これから恋愛をするとしたら結婚の対象として考えられるかが大きな基準であり、少なくとも何処かの正社員であることが絶対条件だから、と言われたのだと言う。

安高君も正社員として就職出来る会社を探して来なかった訳ではないのだが、探しても中々見つからないのだ。

 可哀相に……と思いながら亜希子には「希望は捨てちゃダメだよ」等と無責任に励ますことしか出来なかった。


 午後5時半の終業時間になると、残業でもない限りサッサと制服を着替えて会社を出る。

 隆夫がいた頃は、どちらかが残業に引っ掛かっていたりすると待っていたり、お互いに出来ることがあれば手伝ったりして、出来るだけいつも一緒に帰っていた。

 隆夫はこれから社内で有力な地位になって行く大事な時期なので、仕事に一生懸命だった。私もそんな隆夫の力になれる様に、二人の付き合いよりも隆夫の仕事を優先する様に心掛けていた。

 それでも時間がある時は新しく出来たレストランへ行ったり、話題になっている映画があると観に行ったりしていた。

 でもひとりになってしまった今では「無駄なお金は一切使わない」がモットーになってしまい、会社を出ると一目散に最寄の日本橋駅へと向う。

 そして地元の経堂駅へ着くと、いつもの安い店を回って買い物をして帰るのが常になっている。

 無駄なお金は一切使わない……そう、もうこれからはずっと一人で生きて行かなきゃならないかもしれないんだから、お金が無いと大変なことになる。

"大根踊り" で有名な、小田急線の経堂駅の南口から続く農大通り商店街で買い物をする。

 経堂に住む様になってもう7年くらいが過ぎたろうか。野菜が安いのはここ、お肉が安いのはこのお店……。

 商店街には同じ様な物を売っている中規模のスーパーが多いけど、あちこちに通った経験で大体何系の物はどの店で買えば安い、というのを把握している。

本当はもう隆夫との思い出が沁み込んだこの街からは引越したいという気持ちもあるけれど、引っ越せばまたお金が掛かってしまうから。それに、まだ隆夫は私の部屋の合鍵を持っている。もしかしたらある日突然フラリと訪ねて来たりしないだろうか、と言う淡い期待を持っている自分もいる。

 駒込の実家から通っていた隆夫は、週に二~三度は仕事が遅くなったのでビジネスホテルに泊まると実家に連絡して、亜希子のアパートに泊まっていた。


 昨夜もほぼ同じルートを辿ってメモしてあった食料品や飲料水を買い、初老のご夫婦がやっているお総菜屋さんへ寄った。その時間には売れ残った揚げ物や餃子が安くなっているのだ。

「いつも買ってくれるから、ひとつオマケしてあげるわよ」

 早い時間なら倍の値段で売っているイカフライとメンチカツのどちらを買おうかと迷っていたら、店のおばさんがオマケしてくれて、ふたつでひとつの値段にしてくれた。

「本当? ありがとう~凄い嬉しい!」

 と言って微笑んだ時涙が出てしまった。こんなことくらいでホロリとしてしまうなんて、私ってどれだけ人の温もりに飢えているんだろう。と可笑しくなってしまう。

 

 次に見えて来たのは朝の駅で電車を待っている風景だった。いつもの様に通勤客たちの中でホームに立っている。

 あ、コレは経堂駅じゃないな……と思ったら、そこは府中駅だった。まだ府中市に住んでいて、京王線で通っていた頃のことだ。

 それは10年以上も前の出来事だった。ホームに新宿行きの通勤快速が滑り込んで来た時、亜希子は突然顔を歪めると下腹部を押さえてしゃがみ込んだ。

 異変に気付いた周りの通勤客たちが亜希子に声を掛けて様子を伺ったり、駅員に知らせようとキョロキョロしたりしている。辺りが大騒ぎになってしまい、とても恥かしかった。

亜希子は駅員に抱き抱えられて事務室へ行き、自分の身体に起きていることが理解出来ないまま救急車に乗せられ、救急病院へと運ばれた。

 それまで自覚症状が無かった為に気付かなかったけれど、卵巣に出来た腫瘍が破裂していたのだ。

 後から考えれば、それらしき兆候はあったのかもしれないけど、私は中学校ではテニス部、高校ではソフトボールをやっていたし、健康と体力には自信がある方だなんて自負していたから、そんな油断もあったのかもしれない。

 最初に運ばれた救急病院からさらに搬送された八王子の大学病院で手術を受け、腫瘍の出来ていた片方の卵巣と、転移していた子宮を摘出した。

 退院した後も何ヶ月か置きに病院へ通い、血液検査やエコー診断等の検査を受けていた。そうして5年の月日が過ぎた時、担当していた先生から「もう大丈夫ですよ」と病気が完治したと言う診断を受けた。

 あの頃は病院へ行く度に、癌が何処かに転移していたらどうしよう、と不安に苛まれる日々を過ごしていたけれど。そんなことも今では懐かしく思い出す様になっている。


 あの時子宮を失って、子供の産めない身体になってしまった。でも結婚を前提に付き合っている彼氏がいる訳でもないし、将来自分が結婚して子供を産むなんてことも現実的に考えたことは無かったから、それ程のショックは感じていなかった。

 何より癌という病名に命の危険を感じてたから、それどころではなかったのかもしれない。

厳密に言えば残された片方の卵巣から卵子を取り出して、相手の精子と体外受精させて代理母の子宮に埋め込めば、自分の子供を産んで貰うことは出来る。けどそんなことは大金持ちのタレントでもない限り出来そうもない。少なくとも自分には全く現実性のないことだと思う。

 私がそんな身体になってしまったことをお母さんは泣いたけど、私はお母さんに心配をかけまいとする意思も働いてか、努めてケロッとしていた。本当にそれ程実感は無かったのだ。

 でも手術の後5年間検査を受けて、先生から病気が完治したと言われてから何週間か、何ヶ月か経った頃、何がきっかけだったか忘れたけど、急に込み上げて来る物があって、部屋で一人で号泣したことがあった。

 悲しくて泣いたのはその時だけだった。それ程重要なことじゃなかったのだ。それ程には……だって今まで忘れていたくらいなんだから。

 

 脳裏に浮かんで来るいろいろな光景を見るともなく眺めながら、亜希子は硬直して横たわったまま、いつしか眠りに落ちている。というより、疲労の為に気を失ったと言う方が正しいのか。

 そしてまた、時おり身体を撫でる微かな空気の動きに呼び起こされて、浅い眠りから呼び醒まされる。

 恐い夢でも見てたんだろうか……と思う間も無く、目を開けても何も見えない。手足がガッチリ固定されて動かすことが出来ない。口を大きく開けたままタオルを噛まされている苦しい感覚が蘇って、全てが現実であることを思い知らされる。

 やっぱり本当なんだ……ああ、今何時なんだろう。あの人はまだいるの? もしかしたらいなくなってはいないだろうか、もう私を置いて逃げてくれてたらいいのに……。

 いるのか、いないのか、耳を澄ましてみても寝息を聞き取ることは出来ない。

 さっき足で微かに触れた部分に注意しながら、そうっと身体を転がしてみる……長さにして10センチくらい……太ももの横にその人の身体が触れる。

 まだいる……横で寝てるんだ……隆夫……お願い、助けて!

 再び絶望に襲われて、何もどうしようもないという気持ちが押し寄せて来る。

 ああ……こんなことになるなんて、昨夜はお風呂にも入れなかった。冷水シャワーと熱い湯船を交互に繰り返して入って、血行を良くする健康法をやろうと思ってたのに。

 風呂上りにはテレビの健康番組でやっていたストレッチをやって、それから雑誌を見ながら苦労して作った、肌を若返らせる為の "豆乳ローション" を付けて、顔面マッサージをして、寝る前にはシミを消す効果があるビタミン剤を飲んで寝るはずだったのに。

 でも考えてみると、今更そんなことをしたって、何になるっていうんだろう……。

 隆夫と別れて始めて、自分がもう40歳を目前にしていることに気が付いた。隆夫との5年間が楽し過ぎて、自分が年齢を重ねていることにも気付かずにいた。

 今更私のしている努力なんて、無駄なことなんじゃないだろうか。そりゃ私くらいの歳の女なら肌のケアをしたり、身体の老化を防ぐ為の努力は少なからずしているだろう。でももう二度と私が隆夫みたいな若くてカッコイイ男性と付き合えるとは思えない。

 それでなくてももうこんな歳じゃ新しい彼氏なんて出来ないんじゃないだろうか、そもそも隆夫と別れてからは、また誰かと恋愛したいという欲求すら無くなってしまっている。

 38歳の今になって気が付くと、亜希子に残された生き甲斐は隆夫の存在だけだった。隆夫は何も無かった亜希子の人生にとって、大切な意味になっていたのだ。

 こんな今の私にとって、若さを保って出来るだけ綺麗でいる必要なんてあるんだろうか。

 あれこれ考えているうちに可笑しくなった。そうだ、もうそんなこといろいろ考えることも意味が無いんだ。だって今こんな状況になって、それこそ全てが終わろうとしているんじゃないか。綺麗でいる必要も隆夫のことも何も、人生が終わってしまえばもう何も関係ないんだから……。


 昨夜買い物して来た荷物はあのまま台所に放り出されたままなんだろうか、惣菜屋のおばさんがオマケしてくれたイカフライとメンチカツはこの人が食べてしまったんだろうか。

 ここ数ヶ月の間すっかり決まっていた亜希子の生活パターンが、こんな形で途切れてしまうなんて。

 結局私はこのまま殺されてしまうんだろうか。明日も6時半に起きてお弁当を作らなくちゃならないのに……。

 いつも7時半頃に家を出る。明日は燃えるゴミの日だから、家を出ながら一緒にゴミをまとめて出さなくちゃ。

 朝アパートを出て、広い道に出た時いつもすれ違う可愛らしい高校生の少年。自転車に乗って、制服を着ていつも整った身なりの、髪を染めたりピアスをしたりしていない、とても育ちの良さそうな、でもちょっと俯き加減で繊細な表情をした男の子。何の気なしにすれ違いながら、いつもその顔をチラリと見てた。あの子の顔ももう見られないんだろうか。

 商店街に入る手前ですれ違う、いつもタバコを吸いながら歩いて来る背広を着たおじさん。近所にある農業大学の職員か何かなのかな。きっと教授とかでは無いと思う。どちらかと言うと冴えないサラリーマン風だもの。

 商店街に入ったところで反対側から小さな子供を自転車の前に乗せて走って来る、私と同世代位のお母さんは、きっと子供を保育園に預けに行くのだろう。

 商店街を抜けると駅の階段を降りて改札口を抜け、ホームへと向う。そしていつもの乗車位置に行くと、長身でメガネをかけたカッコ良いキャリアウーマンっぽい女の人が電車を待っている。

 電車に乗ると凄い混雑で、気を付けないとバックの中でお弁当が引っくり返っちゃう……。それでも苦労してバックから図書館で借りた文庫本を出して読む……。

 そのうちに外でチヨチヨと鳥の鳴く声が聞こえて来た。きっともう朝なんだ……。





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