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8 魔女のいる森



 アイが訪れた森は、真白い雪の冠を頂上に戴く高い山の麓に拡がっている。

 暖かな季節でも消えることがない万年雪が、地下の冷たい水を豊富に生み出しているのだ。湧き出す清い流れは木々を繁らせ森をつくり、森は様々な生き物を育む。常であれば美しい鳥の鳴き声がこだまする命に溢れた森だが、今は木々を灼いた天魔の戦いに怯えてか、気配がない。

 高い木の枝の間から落ちる木漏れ日を風が時折揺らしていくだけの、ぴんと張ったような静けさが満ちていた。


 獣道を見つけて先導するシャルロは小さな身体を活かして障害物を避け、すいすいと進んでいく。シャルロなりに考えて通りやすい場所を選んでいるようだが、伸びるままの自然の中に人間にとって快適な環境などはない。後ろに続くアイはガルメディウスの面頬を片手でしっかりと抱え、苦労しながら枝をよけ、下草をかきわけて進んだ。

 魔界に繋がる洞窟からしばらくは高低差のある地形が続く。崖を迂回し、枝葉を縄の代わりに坂を下りて、ようやくなだらかな平地に辿り着いた。落ち葉が積もる足元はふかふかと柔らかく心もとないが、草葉に隠れて出っ張る木の根にさえ注意していけば大分歩きやすい。


「待って、シャルロ」

 落ち葉の海に半ば埋もれて跳ねるように進む小さな竜を、アイは後ろからそっと抱え上げた。

 シャルロは背中の羽で飛ぶこともできる。だがその速度に人間の足はついていけない。それをきちんと理解したうえで四つ足を使ってくれる賢い小竜に、余計な苦労をさせるのは忍びなかった。

「ここからはまっすぐ進めばいいのでしょう? もし方角を間違ったら教えてちょうだい」

 アイの肩の上に導かれ、小さな竜は器用にそこへ飛び移る。羽を振るわせ、星空模様の鱗に貼りついていた葉くずを振り落とすと、具合のいい場所を探るように足踏みをしてから腰を落ち着けた。


 シャルロが視線を据える方向へ爪先を向けて、アイは再び森を進み始める。

 その後ろに続く天人の男は、実に不慣れな様子で不器用に歩いていた。空を駆け天に住まう者に山歩きの経験などないのだろう。足を根に引っかけ、頭を枝に引っかけ、背中に負う傷の影響も相まって、歩調は危なっかしい。ふらふらしながらやっとのことで女の後ろに付いていく姿は、孵化して最初に見たものを親と思い込んで盲目にあとを追う頼りない雛のようだった。


 メイドと夜色の竜と翼のない天人の男が、草を踏むせわしない音を引き連れ、黙々と歩き続けてしばらく。

 シャルロが首を伸ばして周囲を窺う様子を見せ、そろそろ目的の場所が見えるかと、アイは前方に視線を投げた。森の木々がつくる天蓋の切れ目から差し込む陽光が見える。

 やっとの到着に表情を和らげたが、その耳に鋭い誰何が届いた。


「そこで止まれ! それ以上近づくんじゃないよ! 何しにここへ来た!」

 早口にそう捲し立てた声は、幾らか歳を経た女のものだった。シャルロは警戒を見せずに首を引っ込め、訝しげに頭を傾ける。聞き覚えがあったアイは立ち止まり、遠い相手に聞こえるように声を張って答えた。

「マーゴさん、わたしです。アイです」


 木の葉に遮られることなく太陽の光がまっすぐ落ちるそこは、森を丸く切り抜いたような開けた空間になっていた。

 真ん中に茅葺屋根の小さな平屋があり、周囲には菜園が作られていて、それをさらに木の柵が囲っている。その柵の前に、灰色がかった深緑の外套に身を包む人影があった。頭巾を深く被っていて顔は見えない。木製の杖を差し向けていたようだが、アイの返答を耳にしてゆっくりとそれを下ろした。


「……あんたか。森を騒がせていた奴らについて説明する気はあるのかい」

「はい。そちらへ行ってもよいでしょうか」

「勝手にしな。まったくあんたが来るといつも煩いが、今日は本当に酷いよ」

 杖を持った女はぶつぶつと愚痴をこぼしながら背を向けて、小さな家へ続く菜園の小道を歩いていった。アイは再び足を動かし、歩調を速めて柵の内側へ足を踏み入れる。

 この森にひとりで暮らすマーゴは偏屈でせっかちなところがある。ぐずぐずしていると「遅い」と怒りだしかねない。機嫌を損ねる前にと駆けよって、彼女が家の扉に手をかける時にはそのすぐ後ろへつくことに成功した。


「入りな」

 招かれた平屋の内側へ、古びて軋む扉を潜ると、あふれるような香草の匂いが鼻腔に満ちた。

 不快なものではないが、癖が強くて鼻が利かなくなりそうだ。メイドの肩に乗った小竜が小さくくしゃみをして頭を振る。

 日中だというのに全ての戸が閉め切られ、家の中は薄暗い。壁は積み上げられた石で出来ており、隙間を埋めるように漆喰が塗られている。天井には煤けた梁が渡されて、茅葺の屋根を支えるそれに紐で括られた香草の束がぶら下がっていた。匂いを放っているのはあれだろう。


「小鳥から大鷹まで森中の鳥が一緒くたに飛び立ったと思ったら、次は獣が群れになって逃げてった。まったく、こんな酷い騒ぎはどこぞの小娘が魔界の馬を引き連れて来た時以来だよ」

 マーゴはぼやき続けながら部屋の隅に杖を置くと、八つ当たりをするようにひどく物音を立てて窓の鎧戸を開いていく。光が差し込み、室内には壁を覆いつくす数の棚が照らし出された。古ぼけた本、木の実や得体の知れない粉が詰まった硝子の瓶詰めなど、雑多なものが所狭しと並べられ、溢れた分は棚と棚の間に板がかけ渡されて、その上に置かれている。板は窓や寝室へ続くらしい扉の上にも続き、置かれていないのは壁際のかまど周辺くらいだ。


 部屋の中央には年季の入った食卓があり、そこに据え置かれた椅子の背もたれにマーゴは外套を脱いで投げかける。

 頭巾の下にあったのは、綿のように絡む強いくせ毛をひっつめた白髪頭だった。背の丈はアイと同じくらいのようだが、少しばかり背骨が曲がっているせいでやや小さく見える。口を曲げた不機嫌そうな顔には皺が刻まれ、高い鼻は気位も高いのだろうと想像させる。独りきりで森に暮らす偏屈な老女は、いかにも魔女らしい風貌をしていた。


 マーゴは枯れ木のように骨ばった指を伸ばし、壁際に備え付けられたかまどから鉄瓶をとる。火はさきに落とされていたらしく、湯気も立たない鉄瓶の中身を木杯に注ぐと一気に飲み干した。その後に吐かれた盛大な溜息には、疲れとともに緊張から解かれた安堵が滲む。

 おそらく天魔が争う剣戟の音は森中に響き、戦いによってうまれた火柱はここからでも見えていたのだろう。人間の力では太刀打ちできない災厄がすぐ傍に迫っていたのだから、マーゴが神経を尖らせるのも当然だった。


 アイは申し訳なさに身を縮める。森で静かに暮らす彼女の生活を図らずも脅かしてしまったのはこれで二度目になった。

「その節は……本当にごめんなさい。まさかあんなに怯えられるものだなんて思いもしなくて」

「本当にね。ありゃしばらくは戻ってこないよ。魔に鈍感な虫けらだけが残って、いなくなった天敵の代わりにうちの庭でひと働きしてくれるだろうさ。本当に、迷惑だよ」


 マーゴが口にする文句は、アイと初めて顔を合わせた時のことを指している。

 館の中庭に花壇をつくるため、豊かな土を拝借しようと、アイはあるじからランザーを借りて荷運びの供に森まで連れてきたことがあった。だが巨大な魔獣の気配に怯えた森の獣たちがこぞって逃げ出し、その異常な事態に様子を見に来たマーゴはランザーとかち合うはめになる。

 獄炎の魔人ガルメディウスが駆る馬は、人界では異形とされる八本の脚を持ち、人の背丈を肩で超える巨大な魔獣だ。そのランザーと真正面から遭遇して腰を抜かさんばかりに驚かされ、その後は逃げた小鳥がついばんでくれるはずだった菜園の害虫駆除におわれて腰を痛めた。そうしてさんざんな目に遭ったことをいまだに根に持っている。


 森の魔女の態度はそれから常に刺々しいものになったが、何だかんだと文句を言うわりにいろいろと面倒事をきいてくれるあたりを鑑みると、根は人が良いのだろう。本当に怒り続けているのではないと理解したアイは、あまり気にしないことにしている。頑固で意地っ張りの年長者の苦言には、素直にはいと返事をかえせばいい。

「ごめんなさい」

 掃除でも草取りでも、それが詫びとなるなら言い付けはすべてこなすつもりで、やんわりとした笑みを淡く浮かべる。

 アイの穏やかな空気に毒気を抜かれ、魔女はいくらか落ち着きを取り戻したようだった。だがまだ気に入らない様子で鼻を鳴らし、開かれた鎧戸を顎で示してみせる。

「それとあの鬱陶しいのはなんだい」


 言われるままにアイがそちらを見遣ると、窓の向こう、家を囲む菜園を越えた先に、背の高い男の姿があった。

 視線をマーゴの家に据え、じっと立っている。アイを守るという言葉を真面目に遂行するつもりなのだろう。邪魔するなと言いおかれた手前もあって、招かれていない家には入らず、あそこでアイを待っているわけだ。すでに満身創痍のはずだが、なかなかに意志が固い。


 アイは深々と溜息をついた。わざと存在を忘れようとしていたが、聞かれたからには意識しないわけにもいかない。他人に迷惑をかけられたくないのと同等に、迷惑をかけたくないのがアイの性分だ。人を待たせているという事実も落ち着かなかった。

「……あの人もここへ入れていいですか」

 うんざりした表情を浮かべるアイに、ろくなものではないとおおよそ感じた家主は、嫌そうな顔を作ってからぞんざいに頷いた。

 アイは外へ出て男のもとへ向かい、家主は招かざる客のために余分な杯を探して棚をさぐりはじめる。


 一度閉じた扉が開かれ、さくさくと土を踏みながら近付いてくる足音に、天人の男はそっと眼差しを伏せた。己のしていることが随分と体裁の悪いことだというのは自覚している。追い払いにきたのだろうと予測したが、メイドの安全が確認できるまでは側を離れるつもりはなかった。詰られようが叩かれようが、甘んじて受け止めるつもりでその場に留まる。


「そんなところに居られると迷惑です」

 柔らかな女の声で辛辣な言葉が投げかけられた。続いて短い竜の威嚇音が響く。

 夜色の竜を肩に乗せたメイドは、じっと男を注視しているようだった。男は後ろめたさから視線を合わせることができずに、あさっての方向を見つめて苦く弁解を吐く。

「……これ以上近付くつもりは無い」

「一方的に覗き見られるのが嫌だと言っているんです。それに、ここをうろつくなら家主のマーゴさんに挨拶したらどうですか。今の貴方はただの不審者ですよ」

 突き刺さるような言葉を並べられ、天人の男は表情を歪める。

 感情を抑えたメイドの視線は、何もかも見通す澄んだ水晶のようだ。

 あるじの仇敵として詰られるのではなく、怨みももたず、静かに礼節を説かれることは、メイドに負い目を感じてそれをすすぐつもりの男にとって堪えるものだった。

 何も言えずに黙り込む男を、黒い瞳でじっと観察するように見つめ、ちゃんとしてくださいね、と言い置いて、メイドは踵をかえす。

 男はそれを視線だけで追いかけ、しばし逡巡してから、メイドの言葉に従うことにした。




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