6 戦天使
アイは心底驚いて、黒い炎の柱から姿を現したあるじを見上げる。
「ガルメディウスさま、なぜここに──!」
有り得ないはずだった。
ガルメディウスは人界に入れない。
人界には人間が施した結界がある。
莫大な犠牲を必要とした未熟な術式はその存在を秘匿され、寿命の短い人の間では忘れ去られて、もはや知る者もないが、それでも未だ効力を発揮している。
人界に争いを生む天魔を通さないための結界だ。
人間の命を編んでつくりあげた巨大な結界は呪の編み目が粗く、力の弱い小さな精霊や小鬼程度は通してしまうが、人の街ひとつふたつを一晩で滅ぼせるような強大な力を持つ天魔は入れない。
例外として、結界の内側を歪めて場をつくることで天魔を喚び込むことはできる。だがそれを成し遂げるにも術式が必要なのだ。この場にその気配は見当たらない。
茫然としたまま座り込むメイドの横に、そびえ立つ大樹のごとき太く揺るぎない脚が置かれた。ガルメディウスの歩みにたなびいていた黒炎の外套が、遅れてゆるりと降りてきて、メイドの細い腕を撫でるようにかすめていった。
篭手に覆われた魔人の左手が緩く掲げられ、拳をつくる。獄炎がその腕に螺旋を描いて纏わりつき、肘までを覆うと、縦に広がって黒く巨大な大楯を成した。
重装の騎士はそれを大地に向けて払い落とす。アイの目の前へ。
恐ろしい音を伴って大地に突き立った大楯は、アイの姿を完全に覆い隠すほどの大きさがあった。眼前に築かれた強固な壁に、アイはあるじの意図を知る。
一介のメイドを守ろうというのだ。
アイの膝にシャルロが擦りより、小さく鳴いた。
大楯の向こう側では、剣を構えた天人が間合いを探ってじりじりと移動していた。背中の翼はいつでも飛べるよう緊張を帯びて広げられている。
「獄炎のガルメディウスだな」
黒い炎を纏う魔人を真っ直ぐに見据え、問い質す。
「然り」
獄炎の騎士、その兜の奥から、腹の底まで響くような低い応えがあった。
「我が名はディレクトス=ベクトレン」
天人の男は名乗りをあげ、剣先をガルメディウスに差し向ける。
「煌の君に献上するため、貴様の首をいただく」
声高らかに、そう宣言した。対する魔人の応答が地鳴りのごとく大地を揺さぶる。
「果たして見せよ」
魔界の館で平穏な暮らしをしていたアイは、今まで触れたことがなかった戦いの気配に不安を感じ、小竜を胸に抱いて身を寄せた。
獄炎の魔人に臨むは天の騎士。
桁外れの体格に加え獄炎の重装を相手に儀礼服の騎士が劣るのは一目瞭然だったが、天人には翼がある。地底を這うしかない者よりも、空を制する天人の方が遥かに有利なはずだ。
そのはずだというのに、いざ相対してみると、天人の男の背中には冷たい汗が噴き出していた。
ガルメディウスは黙したまま、鎧が鳴る音と共に一歩を踏み出す。今は何の武器も手にしていない。だが、その一歩が恐ろしく重かった。大気ごと握り潰されるような重圧が、魔人の歩みが進む度に増してくる。
中空を掴むように伸ばされた黒い右手に炎が宿り、高く伸びていく。大楯と同じく見る間に硬化して巨大な剣を形造った。
炎の揺らめきをそのまま刃に変えた大剣は、禍々しく波打って凶暴な光を跳ね返す。刀身だけでアイの身長ほどもあるだろう。重さならばその倍は確実だった。
ガルメディウスは分厚い大剣を肩慣らしといわんばかりに造作なく振り払う。剣先から放たれた獄炎の熱風をまともに浴びて、森の木々が瞬時に燃え上がり、葉を灰と散らせて黒く炭化していった。
炎の大剣が揺らいで見えるのはその形状のためだけではない。何もかもを焼き尽くす灼熱を帯びているせいで、大気が歪みを見せているのだ。
あれでは剣を合わせただけで炙られる。真っ向から攻めたところで勝ち目は薄い。地に留まっても利はないと、天人の男は白き翼を羽ばたいて空へ飛び上がった。
反撃の隙を与えず、速度で撹乱を狙うのが定石だろう。
高く昇り眼下に魔人を見据え、翼を斜めに傾けて旋回した。人の首は角度に限界がある。夜鳥のようにぐるりと回りでもしない限り、必ず死角があるのだ。兜の面頬を下ろした視界の狭い重装騎士ならばなおのこと。
旋回し、魔人がそれを追いきれなくなった一瞬を狙った。剣の刃を向け、背中の翼を折りたたんで急降下する。
だが、間をすり抜けようとした森の木々が目の前で黒炎に覆い尽くされ、天人の男はとっさに身を捻った。急過ぎて風を御し切れず、風切り羽が張り出した枝に引っ掛かる。
炎によって生まれる風はひどく乱れて読みにくい。翼を持つものにとっては醜悪で忌々しいかたちだった。
平衡を失った天人の騎士は追撃を危ぶんで天を目指したが、熱されて渦巻く大気の奔流に阻まれる。失速し、落ちていく身体をどうにか立て直して地面へ着地した。無様にも、天人が土に手を汚して。
すぐにその場から飛び退いて剣を構え直す。だが森の木々を灼いたガルメディウスは、天人の男が見せた大きな隙に仕掛けては来なかった。黒き炎を周囲に従えて、不動のままにいる。
天人は二本角のその姿を睨み据えた。炎の熱気にさらされる背中の翼が熱い。気が付けば、ぐるりと繁る森の木々に炎が移り、黒い煙を立ち昇らせて周囲に灰と熱をばら撒いていた。
激しく燃え上がる炎壁が退路を塞ぎ、吹き荒れる熱風が天人の翼を奪う。
獄炎の魔人ガルメディウス。そう渾名される理由がここにあった。戦いに身を置く者を囲い、捕らえ、閉じ込める。他の何からも邪魔されることがない一対一での対峙のもと、勝てぬ者は炎の檻にて永遠に獄されるのだ。敗北こそが罪。断罪の黒き炎を纏う騎士。
傲慢なまでに武人たらんとする者、それがガルメディウスだった。
天の騎士はぎりりと歯を軋らせて強く噛み締める。
異名を馳せるだけはあるということだ。空を駆ける天人のあしらい方は随分とこなれている。無理矢理地面に引き摺り落とし、あくまでも同じ『場』で戦わせるつもりなのだろう。もともとの体格の違いに理不尽さも感じるが、こればかりは仕方がない。
魔人の炎剣。あれを受けるのは自殺行為だ。待つか、攻めるか。天人の男は選択を迷わなかった。
土を蹴り、翼で大気を押しやって速度にのせる。地上をそれこそ飛ぶように駆け、一気に距離を詰めた。
獄炎を迸らせる大剣が横薙ぎに払われ、これを想定していた男は地面に伏せるぎりぎりに身を低くして避けた。上へ昇る性質を持つ炎に対して有効ではあるが、土を嫌う天人が好んで選ぶ手段ではない。背中の翼を掠めた熱気に灼かれながらも、魔人の鎧の継ぎ目を狙って剣を突き上げた。
天人が己が身を地べたに寄せたのは、ガルメディウスの不意をついたらしい。反応が遅れ、懐への侵入を許した。大剣を払い切って伸びた右腕の付け根を狙った一撃が入る。
鎧の隙間に刃が突き込まれると、その魔人の肩から指先にかけて、板金の間という間から黒炎が噴き出した。噴き出す勢いに腕が跳ね、炎を撒き散らす。
至近距離でそれを浴びた天人は、咄嗟に己を翼で庇いつつ飛び退った。整った美貌が苦痛に歪み、堪えきれぬ呻きが洩れる。炎が白い翼を黒く染めていく。
「ガルメディウスさま!」
緊迫したアイの声があるじの名を呼んだ。大楯の端から蒼褪めた顔を覗かせている。
魔人ガルメディウスの右腕は糸が切れた人形のように力無く垂れ下がっていた。手にあったはずの大剣は塵となって消え、跡形もない。
不安そうにメイドが見守る先で、獄炎の騎士はゆっくりと左腕を掲げた。禍々しく指先が尖る黒い籠手に再び炎が集う。
それは長く伸びてガルメディウスの巨躯を超え、先端に片刃の斧を備えた槍の形に変化した。長大なその武器を、魔人は片腕でぐるりと振り回す。穂先の刃が帯びる黒炎から焦げ付く音をたてて火の粉が舞い散った。
背中の翼を蝕む激痛に眩みそうな意識を、さらに黒く染めていくその光景。天人の男は、絶望的な思いでそれを見つめた。
腕一本奪っただけではたいした痛手にもならないらしい。あれだけの得物を片手で振るうとは。
反して男の方は翼を灼かれて無惨な有り様だった。これでは翔べぬ。
引きつる痛みに歯を喰い縛りながら、それでも男は剣を構えた。
獄炎の魔人が斧槍を手に、甲冑の鳴る音を響かせて一歩、また一歩と重々しく歩みを進めてくる。
受けるより他はない。
斧槍の刃が風を切り裂いて振り下ろされた。
剣を斜めに、刀身の腹に左腕を添え、受け流す。
金属が削れる激しい音とともに、白と黒の火花が散って瞬いた。
重い。肩が外れそうな衝撃を耐える。ぐるり、円を描く斧槍の軌道が見える。二撃目がくる。
これも流す。
はたして本当に受け流せているのか、天人の男は疑問に思った。
盛大に散る火花を見れば、文字通りに削られているのがよくわかる。三度目の攻撃は耐えられそうにない。関節が悲鳴をあげている。腕は痺れて感覚が朧気だ。
なにより、こんな単調な攻撃が獄炎の魔人の本気だなどとは思えなかった。力任せのそれさえいなせない状況だというのに、びりびりと肌に感じる威圧。
霞む視界に圧倒的な力の差だけが歴然と見えている。
天人の胴体、その正中へ寸分の狂い無く斧槍の突きが放たれた。早い。
横に避けつつ間に合わぬ距離は受けて反らそうとした。剣を持つ腕に鋼が軋む感触が伝う。
折れる。
金属が歪んで裂ける硬質な音が響く。直後に天人の脇腹を灼熱が掠めた。斧槍はさらにその後ろの翼を貫き、捻りあげる。
そのまま巨躯の魔人が持つ太い腕の膂力でもって空中に吊り上げられて、天人の男は為す術なく苦痛に喘いだ。
音を立てて翼が引き千切れ、黒き炎に染められた羽根が周囲に散っていく。
勝敗が決まる。
身を裂く激痛に倒れ伏した男は朦朧と空を見上げた。そこに有るはずの青は黒い炎に霞み、太陽の光は巨躯の魔人がつくりだす陰に大きく切り取られている。
天人が敗北を自覚した、その瞬間だった。
灰が舞う空にひびが走り、裂け目から白い光の筋が溢れる。放射状に拡がるそれが裂け目をさらに開き、天上から雨のように光が降り注いだ。
魔人ガルメディウスは高く頭上に起こる変容を仰ぎ見る。
裂けた空から発光する羽根が泡のように噴き出した。見る間に散って辺りを覆い尽くし、左右に揺れながらゆっくりと降りてくる。その裂け目の中心に、より強く光を放つものがあった。
花の蕾のごとく幾重にも折り重なった真白い翼。輝くそれが、華開く。
内から現れたのは聖槍を携えた甲冑の騎士。
精緻な文様が彫りこまれた美しい銀の鎧を纏い、光り輝く無数の翼を背に、空から緩く舞い降りてくる様は美しく荘厳だった。
兜や鎧の隙間から光が溢れ、白き翼からは輝く羽根が散る。すらりと長い腕にある聖槍は刃から柄までを美麗な蔦模様に飾られて、細やかに銀の光を跳ね返す。
あまりにも煌々しい光景に、固唾を呑んで成り行きを見守っていたアイは瞼を眇めた。魔界の暗闇に慣れた目には辛い。
地に伏したままの天人の男が光を見上げ、かすれた声で囁きを洩らす。
「……戦侯ミトラス……」
戦侯ミトラス。天界にて煌の君の側に侍る列侯の一人。
当然のごとくその強大な力は結界に阻まれるはずのものだが、ガルメディウスの放つ闘気がここに戦いの『場』を作り出した。その歪みを利用し、銀凱の騎士とも称されるミトラスは干渉を果たしたのだろう。
羽ばたくでもなく不可思議な力で宙空に留まるミトラスは、手にした聖槍を優雅に一振りしてみせた。銀の穂先から光の粒子が飛沫のように飛び散り、大地に落ちて炸裂する。土が抉られ、燃え盛る黒炎は爆風にかき消された。
ガルメディウスは斧槍でもってそれを弾いたが、離れた背後から悲鳴が上がる。
シャルロを抱きしめて身を縮めるアイのものだった。大楯が直撃を防いでも、間近に迫る破壊的な力はその存在が恐ろしい。怯えるメイドは目尻に涙を溜めてふるえている。
天人の男は苦い思いで為す術なくそれを見つめた。戦侯ミトラスは名に戴く通り、戦いに秀で戦いを司る。それ以外のことには関心を示さない。
戦場において敗者がうまれるのは必然。力が無いものは負ける運命にある。己を証明したければ勝つほかないのだ。
弱き人間のことなど眼中にない様子で銀の騎士はさらに聖槍を振るう。無数の光がこぼれ落ちて、森に拡がる獄炎の黒を輝く白に塗り替えていく。
だが魔人へは斧槍に防がれて届かず、攻撃は木々を灼くばかりだった。それを無意味とミトラスは判断したのだろう。すぐに刃を返し、軽やかに地へ降りてきて、それまでのふわふわとして幻想めいた印象を砕く勢いで聖槍を叩きおろした。
ガルメディウスの斧槍が真っ向から迎え撃ち、正対する天魔の槍から銀光と黒炎が弾けとぶ。
森の木々を薙ぎ倒す勢いの爆発がそこを中心に生まれ、戦いの場の隅で大楯に隠れるアイは声も上げられずにただシャルロを抱きしめる。ガルメディウスに敗れた天人の男は、風を受ける翼をもぎ取られて地に伏していたことが皮肉にも影響を及ぼし、大きな被害を受けずにいた。
ミトラスが聖槍を振るい、ガルメディウスはそれを弾いて刃を返す。甲冑を纏う騎士ふたりの互いを読みあう攻撃は、示し合わせたかのように紙一重で避けてみせ、受け流し、絡め取って突き放す。まるで元から型の決まった演武のように途切れることがなく、一撃ごとに天魔の光と炎が散るさまは流麗ですらある。
銀に輝いて炸裂する光と、闇より暗く灼熱を帯びた獄炎。
白と黒の炎が森を侵食しつつあった。対極する力であっても、炎は反発しない。互いを喰いあうように混じり、すべてを飲み込む強大な火柱となって勢いを増し、あたりを焼き尽くすだろう。
アイが小さく咳き込んだ。もう周囲にあるのはあるじの獄炎だけではない。熱せられた空気はそれだけで弱い人間の命を奪う。
シャルロが気遣わしげに長い首を擦り寄せた。
天魔の戦いは人界を破壊し、多くの人間を犠牲にする。気まぐれに刃を一振りするだけで、天魔にその気が無くとも弱き人は死んでいく。結界がつくられたのはそれゆえだ。
人界においての天魔とは、存在するだけで災厄を呼ぶものだった。
この戦いが長引けば自分は死ぬだろうと、アイは感じていた。すでに炎に囲まれて退路はない。灼かれて死ぬか、こぼれ落ちた天魔の力を受けて死ぬか、それくらいの違いはあるだろうが、どちらが早く訪れようと結果は同じだ。
銀の騎士と獄炎の騎士の力は拮抗し、決着のつかない攻防の後に破壊だけが爪痕を残す。
やがて業を煮やしたようにミトラスは攻撃を強く弾き、背中の翼を羽ばたかせて遠く間合いを取ると、構えを改めた。
穂先を下段に、刃を縦に。突撃の構えをとった天人は、光の速度で突進した。
大地への一蹴りで魔人のもとまで到達し、銀の聖槍を突きあげる。片腕のみで斧槍を操るガルメディウスはこれに押し負け、ミトラスの聖槍が獄炎の鎧を貫いた。
篭手を嵌めた黒い右腕がぎこちなく蔦模様の柄を掴み、抗うように強く握り締める。穂先からこぼれる銀光が黒き鎧の内を侵し、板金の隙間からまだらに白と黒の炎が噴き出した。面頬の奥からも同様に溢れ、僅かに上向いて首を捩る魔人の姿は苦痛に悶えているように見える。
「ガルメディウスさま!」
あるじが苦しげな様子を見せたことなど、これまで一度もなかった。
アイは青褪めて大楯の陰から身をのり出した。諌めるように鳴くシャルロの声に、一瞬だけ瞳を揺らし躊躇をみせたが、すぐにガルメディウスへと視線を戻して駆け出した。
天人が翼を大きく羽ばたかせ、魔人を空へ磔にして聖槍を強く押し込んでいく。天魔の騎士は無力な人の手では届きようがない高みに昇っていった。それでもアイは両手を伸ばす。かけがえのない、唯一無二の、アイのあるじへ。
魔人の甲冑を侵す銀光が暴れてのたうち、膨れあがって強く光を放った。みしみしと軋む音がする。痙攣するように魔人の手足が震えた一瞬後、それは内側からの力を受けて耐えきれずに爆発した。
兜、鎧、手足を覆う甲冑のすべてが、流星のようにばらばらに散っていく。
「ガルメディウスさまぁあ──!」
あるじを呼ぶアイの悲痛な声が煤けた空を駆け抜けた。