5 風に舞う白
魔界と比べると、人界はひどく匂いが雑多だ。
地上へ近付くにしたがって空気の流れが変わってゆくのを感じる。
土の匂い、草の匂い。どれも天候や咲く花の種類によっていくつも顔を変え、昼と夜でもまた違う。
どうやら今は昼間らしく、一気に気温が上がってきて、暑くなったアイは外套を脱いだ。
地上の暖かさは生き物に活力を与える。溢れた命で賑やかだから、雑多に混じりあって目まぐるしく変わるのだろう。
アイは魔界での穏やかな暮らしに満足しているが、たくさんの色彩が好奇心を刺激する人界も嫌いではない。シャルロもこの一時も止まることがない世界へ来ると、楽しげにはしゃいで遊びまわるのが常だ。
いつもならばふんふんと興奮気味に鼻を鳴らして匂いを嗅ぎ、我慢できずに飛び出していくのだが、今日は様子が違った。
アイの肩に止まったまま、銀鱗が散る背中を丸め、ゆっくりと羽を広げて、大きく開いた口から鋭く呼気を吐く。
何者かに対する威嚇だった。
「シャルロ? もうすぐ地上だけど……何かいるの?」
この洞窟の外には、深い森が広がっている。穴から出た途端に大きな獣と鉢合わせる可能性も無いわけではない。とはいえ草を食む獣ならば、小さくても立派な竜であるシャルロに近付こうとはしない。
まさか、数が少ないはずの肉を狩る獣が、たまの外出に不幸にも偶然魔界と人界を繋ぐ出入口にやって来たとでもいうのだろうか。
「いやだわ……わたしたちには構わないでくれるとありがたいのだけど」
熊か、それとも狼か。
あるじを二度手間で煩わせたくないアイは、引き返したくなかった。
道の終わりはもう目の前だ。明るい太陽の光が射し込んでいるのが見える。
アイはできるだけ足音を忍ばせ、壁に張り付くようにしてゆっくりと進んだ。そっと行って気付かれぬまま通れはしないかと考えて。シャルロが威嚇をするということは、すでにその対象に見つかっているのだと、露ほども知らずに。
洞窟の出入口までやってきて外の様子を窺おうとしたアイは、強く羽ばたく翼の音と空から落ちてきた影に驚いて、さっと洞窟の暗がりに身を隠す。
「見つけたぞ、魔人め!」
若い男の声が朗々と響き渡った。獣ではない。
あまりにも予想外のことに固まるアイの肩で、再びシャルロが威嚇した。
外では随分と大きい鳥の翼が鳴る音がしている。シャルロをひとまわりもふたまわりも超えているのは確実だ。続いて鋼を滑らせる金属音。剣が鞘走る音だった。
「それで隠れているつもりか、出てこい。それとも正面から戦わぬ卑怯者の名が欲しいのか!」
訳知り顔な訳のわからない男の呼びかけに、いよいよもって混乱してきたアイは、洞窟の壁にびたりと張り付いたまま、できることなら石になりたいと考えた。
そのまま息を殺してしばし。沈黙しか返さないアイに苛立ったのか、男の声音が挑発するような色を帯びる。
「こそこそと隠れるのが魔界の騎士なのか。噂に聞いた獄炎の魔人が臆病者とは笑わせる。騎士などと名乗る資格は無いな」
一方的に吐かれた台詞に、アイの眉がみるみるつり上がった。
どうやってここを嗅ぎ付けたのか知らないが、外で喚いている男は勘違いをしている。
アイは魔人ではない。獄炎の異名を持つ騎士でもない。そして、獄炎の騎士ガルメディウスは、絶対に臆病者などではない。
アイの身体が怒りでふるえた。あるじを侮辱する言葉に、かっと血がのぼる。
許せなかった。
考えるまでもなく、勝手に身体が動いていた。
「その言葉、撤回なさい! ガルメディウスさまは立派な騎士です!」
洞窟の外へ飛び出し、太陽の光が降り注ぐ下で啖呵を切った。
これに驚かされたらしい無礼な暴言を吐いた男が両眼を見開く。
そして、驚いたのはアイも同じだった。
羽音の正体が一目瞭然だったからである。男の背に一対の白い翼。
「天人……!」
アイの肩でシャルロが飛膜の張った羽を広げ、激しく威嚇した。
天人の男は若く、青年と言っていい。陽光を受けて金に輝く髪はさっぱりと刈られ、碧眼は凛々しく、秀でた額にすっきり通る鼻筋と、いかにも美形らしい美形だ。
それが白い羽根に覆われた翼を背負っているのだから、アイはいっそわざとらしいとすら感じる。
大きな翼に似合うだけの高い身長を持ち、彫像のように均整の取れた体格を包むのは白の騎士服だ。ズボンの上に、腰から下の前後左右に切れ目が入る長衣と剣帯を腰に巻いた儀礼服。襟と裾に青く染めた縁取りがあるだけの一見簡素にも見える衣装だが、よくよく見ると布と同色の絹糸で豪奢な刺繍が施されている。
抜き身の剣は両刃の刀身の腹に精緻な蔦模様が彫りこまれ、それを片手で下段に構える型は無駄がない。正しく鍛練を積んだ者の所作だった。
美しく、品がよく、格式高い。嫌みの無さが逆に嫌味たらしくみえるほどだ。
いかにも天使然とした男に怒りがおさまらないアイは、きっと睨みあげて男を指差した。
「第一に、貴方は間違っているんですよ。わたしはガルメディウスさまにお仕えするメイドです。魔人ではありません」
その勢いを援護するかのように、再びシャルロが威嚇する。
天人の男は飛び出してきた相手が予想と違ったことに戸惑っている様子だった。
獄炎の名を知っているのならば、その騎士が見上げるほどの巨躯であり、黒き鎧に身を包む重装の騎士だということも知っているのだろう。だがあらわれたのは己よりも小さく細い、メイドと自称する女だ。
「メイド……? だが獄炎の気配が……」
狼狽えたように口の中で呟く。
「わたしは力が無いので気配などわかりませんが、わたしのあるじ、ガルメディウスさまは獄炎の騎士と呼ばれるおかたです。きっとそれで勘違いをなさったのでしょう。それよりも、先程の言葉を撤回してください。ガルメディウスさまは卑怯者でも臆病者でもありません!」
怒りをあらわに捲し立てるメイドに、威嚇する姿勢を止めない小竜。きゃんきゃんと吠え立てるふたりに気圧されて、天人の男は後退った。何度目かのシャルロの威嚇音でやっと我に返り、剣の切先をそちらに向ける。
「たとえ魔人で無かろうと、魔人に仕える眷属ならば同じことだ。地を這うものどもに私が従わねばならぬ理由はない。大体、貴様は、なんだ! その服は! 魔人の趣味か? 品格を疑う!」
美貌の中心に皺を寄せ、逆にアイを非難した。
「はあ? これはわたしが自分で縫ったんです、自信作なのに失礼な!」
眦をつり上げつつもアイは胸をはり、手のひらをそこへ叩きつける。衝撃でふるりと揺れたまろい膨らみに図らずも視線をやってしまった天人の男は、内罰的な思いに駆られてすぐさま目を逸らした。
「自分でだと……なぜ己を投げ捨てるような真似を……!」
そのまま噛み潰すような台詞を吐く。そこに他者の尊厳に重きを置く人柄が垣間見えて、アイは不思議に思った。
「だってメイドの制服ってこういうものでしょう?」
何がおかしいのか、と首を傾げる。
その頭には黒髪を覆う白い布が乗っていた。しっかりと結った三つ編みを頭部に巻きつけてピンで留め、抜け毛やほつれがないように布で覆っておくのは、炊事場に出入りする使用人として当たり前の作法である。
着ているものは落ち着いた黒色のドレスと、清潔な白い生地のエプロン。その色合いも使用人にふさわしく、間違っているわけではない。
だがどれも少々、いやかなりふんだんにフリルがあしらわれていて、仕事をする上での制服としてはいかんせん可愛らしすぎるように見えた。
ドレスの下に着ているらしい白のシャツは襟と袖から繊細なレースを覗かせ、細い首と上腕にすかし模様の陰を落としている。
メイドの年頃を考えれば着飾るなというのも酷かもしれない。仕えるあるじが男性のみならば、女主人に配慮して必要以上に地味に控える必要もないだろう。
ただ、天人の男がどうしても認め難いのは、ドレスの裾の丈だった。
膝が見えている。
黒の長靴下を着用しているため、素脚をさらしているわけではない。だがその脚線がくっきりと、足首から膝までもが見えているのだ。
「はしたないと思わないのか!」
「どこがですか!」
アイにとっては心外そのもの、思ってもみないことに目を丸くした。真面目に堅実であろうとしているのに、はしたないとは何事か。真逆ではないか。
衝撃を受けて打ち震えるメイドの様子に、小さな竜が本格的な怒りを示す。がちんと顎を噛み鳴らし、喉を膨らませたかと思うと、大きく開いた口から黒炎を吐き出した。
その真っ正面にいた天人の男は、流石に騎士の出で立ちをしているだけあって素早い反応を返す。構えた剣を払い、大気を叩き切るような剣筋に己の翼の羽ばたきをのせた。
シャルロの炎を押し返す風が生まれ、それは当たり前にアイにも向かう。煽られて千々に散った黒炎はアイを傷付けはしないが、天人が放った風は別だ。棒立ちのまま強い風に襲われて、後ろにすてんと尻餅をついた。
小さな悲鳴がこぼれ、痛みを洩らす。ともに肩から転がり落ちたシャルロも草の上でもがいて弱々しい鳴き声をあげた。
あまりにも簡単に転んだメイドの姿に、天人の男は呆気にとられてゆるゆると剣先を下げる。どう見ても、戦いには向かない弱き存在だった。もとより当てるつもりはなかったが、ただの風圧すらも防げないとは。剣を振るったことを後悔してしまうくらいに、弱々しい。
アイは己の腕を電流のように駆け昇る感覚に、恐る恐る手のひらをひっくり返して視線を落とした。受身を取ろうとして地面についたそこがじんじんと痛む。草の葉か小枝で切ったのだろう。みるみる赤いものが滲み出してきて、情けなく眉を下げた。
怪我をしてしまった。
これでは満足に働けない。水仕事ができない。洗濯もできない、雑巾も絞れないだろう。不十分な仕事であるじの役に立てるわけがない。
己の義務の遂行を危惧して悲壮感を漂わせるアイの周りに、散ったはずの黒炎の残り火が揺らめく。夜色の竜が首を伸ばして高く鳴いた。
炎は寄り集まっていくつかの塊となり、メイドの背から延びる影に落ちた。水面に降る雨のように波紋を広げ、ひとつに熔けていく。炎の波紋は黒炎が落ちるたびに高く跳ね、それはすぐに火柱となった。
轟と唸りをあげる獄炎にようやく気付いたアイが振り返る。それはもう身の丈を超える巨大なものになっていた。
明らかに魔人の気配を伴う異変を目の前に、天人の男は顔色を変えて剣を構え直す。
「貴様っ、まさか……!」
周囲の草木が黒い炎に焦がされ燃えていく。拡がる獄炎の中心に人影が浮かびあがった。見上げるほどの巨躯。天を突く二本角。獄炎がそのまま凝ったような黒き鎧は分厚く、重い足音を響かせる。
ずしゃり、と金属が土を踏む音が、炎に侵食されつつある森に魔人の来訪を告げた。