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4 水の路 炎の橋



 たっぷりの湯を堪能できる温泉は、実にいいものだ。

 湯上がりでほこほことした空気を纏うアイはそう考えた。

 さらに井戸から汲み上げたばかりの冷たい地下水を、のぼせる手前まで熱くなった身体に流し込む。無作法すぎてあるじの前では間違ってもできないことだが、喉を鳴らして飲む水はなによりも美味しく感じる。

 深く満たされた吐息を落として、アイは余韻を惜しむように手に残る杯を胸に抱いた。

 小さな竜が足下で跳ね、なにごとかを主張しているのにもしばし気付かぬほどうっとりと陶酔していたが、痺れをきらした竜が羽ばたいて宙へ飛び上がると、ようやく我にかえった。

「ごめんなさい、シャルロもお水飲む?」

 石で丸く形作られた井戸の縁に夜色の竜が乗り上げて一声鳴いた。アイは地下水を汲んだ木桶に杯を沈め、水を満たすと、シャルロの前に置く。


 この夜色の竜はアイが美味しそうに何かを食べていると同じものを食べたがる。果物、穀物、野菜に肉。雑食なのかと思えばそうでもない。ほんの一口、ひとかけらを口にしただけでふいと興味を失う様子を見ると、食欲から食べたがるのではないようだった。

 今汲んだ水も、杯を覗き込み匂いを嗅いで、ぺろりとひと舐めしたところで満足そうにお座りをした。もう必要ないらしい。


 アイは苦笑をひとつ零して、杯と桶の水を排水溝に流す。

「それじゃそろそろ出かける支度をして、ガルメディウスさまの元へご挨拶に行きましょうか」

 あるじの名にシャルロがぴんと尻尾を立てて井戸の縁から飛び降りた。

「わたしの部屋に行くのが先よ」

 逸る気持ちのまま今すぐにでもあるじの居室に向かいそうなシャルロをたしなめて、アイは館の三階にある自室へ足を向ける。


 館の一階はほとんどが倉庫か、水を使う炊事場や洗濯部屋になっている。二階は主に使用人が生活し作業するための空間だが、今は空き部屋ばかりだ。アイの部屋がある三階は、本来ならあるじとその家族や客人が住む場所として作られたのだろう。広間、大食堂、図書室など、どれも身分が高い人間のために整えられた部屋がある。だがここも暮らすべき住人がいない。

 アイが来たばかりの頃は、きちんとしたベッドがあるのはこの三階の部屋だけだったため、流れるままに居ついてしまったが、メイドの身分で三階に暮らすのは破格の待遇だ。二階に移ったほうがいいのではないかと迷ったこともあったが、ガルメディウスは三階からさらに高く伸びる主塔を居室として使っており、あるじと使用人の区切りはそこで分けられているものと考えることにしている。そもそも三階にアイを置いたのはあるじ自身だったのだから、そこにいることは許されているのだ。


 自室に戻ったアイは動きやすい服に着替え、今日のために用意していた物をまとめて籐籠に入れていく。メイドの仕事の合間に編んだレース、刺繍を施した布、花壇で育てている香草からとった精油。寒さ対策に外套を羽織れば準備は万端だ。

 あとはあるじに外出の許可をいただけばいい。


 主塔の螺旋階段を上り、あるじの居室の手前まで来ると、拳をつくってその扉を叩いた。足元ではシャルロが爪で扉を引っ掻いている。

「入れ」

 扉をびりびりと震わせる重低音の応えに、仰け反りつつも恐怖心までは抱かないメイドは、臆することなく魔人の居る空間へ足を踏み入れた。


 ガルメディウスの居室は明かりが少ない。執務机の上に置かれた鳴光石だけが唯一の光源だった。その仄かな青に照らされて、机の傍らに立つ鎧姿の魔人が見える。

 メイドはあるじに一礼し、姿勢を正す。シャルロもその横に並ぶと行儀良く前足を揃えてお座りをした。

「ガルメディウスさま、外出許可を願います」


 メイドが外出するにはあるじの許可が必要だ。

 大抵のことには寛容なガルメディウスが、外出に関してことさら厳しいのはもちろん理由があった。

 界を渡ることだからだ。

 力の無い者は一歩道を踏み外すだけで狭間に落ちて迷う。人の身であるアイがそうなれば、自力で戻ることは叶わない。それが界を渡ることであり、外出するということだった。


「良かろう」

 重々しい一言を返され、アイはまた頭を下げる。

「ありがとうございます」

 あるじの力を借りてようやく外出できるのだから、感謝はいくらしてもし足りない。

「では、行ってまいります」

 静かな頷きで送られて、アイは退出した。名残惜しそうにあるじを振り返りながら、シャルロがそれを追う。あるじが大好きな小竜の姿に苦笑しつつ、螺旋階段を下っていった。


 界を渡るための道は、中庭の井戸から繋がっている。

 アイはランプ代わりの鳴光石を銀の鍵で叩いて籐籠に放り込み、シャルロと共に地下への階段を使って井戸の底へ降りた。

 火山が側にあるガルメディウスの館はほどよく暖かで過ごしやすいのだが、ここは少し空気が違う。ひんやりとして寒々しい。おそらくは、あるじの力によって人界から引かれている冷たい地下水のせいなのだろう。

 水を汲み上げるために釣瓶を落とす場所だけ丸く広げられていて、その周りを石の足場が囲っている。水は井戸の底に湧いているのではなく、横穴から続く水路を流れてきていた。


「やっぱり冷えるね。シャルロは寒くない?」

 剥き出しの腕を外套の下でさすりながらアイが問うと、夜色の竜は何のことか判らぬ様子で首を傾げた。

「竜は変温動物じゃないのかしら」

 蜥蜴っぽいのに、と一人ごちてから、アイは地下水を導く水路を辿って歩きはじめる。

 暗い横穴には水の気配が満ちていた。ゆっくりと穏やかな流れはせせらぎもなく、ひどく静かだ。鳴光石がつくる青い薄闇に、メイドと小竜の足音だけが響く。

 暗く冷たい静寂が支配する空間は、気の弱い者であれば怯えて泣き出しそうな場所だったが、アイが震える理由は寒さのためだけだ。

 ここはあるじがつくりあげた路。いわばあるじの手の中だ。許可を得てここに来たのだから、何も心配することはなかった。


 そのままひたすら水路に沿って行けば、やがて水の流れる音が聞こえてくるようになる。そこには見上げるほどの空洞が広がっていて、天井は遠く明かりが届かない高さにあった。たくさんの大きな岩が積み上がり、その上を清水が流れ、滝をつくって大量の水を水路へ注ぎ落としている。

 水源は空洞の高い位置で壁面から溢れ出て、二股に分かれていた。一方はアイが辿ってきたガルメディウスの館に至る道、もう一方は人界へと至る道である。

 ここが界の境目だった。


 ずっとアイの後ろをついてきていたシャルロが背中の飛膜を広げ、岩の上へと飛び上がる。歌うように喉を鳴らしてくるくると回り、時折ぴたりと静止しては首を伸ばして周囲の様子を窺うように匂いを嗅いだ。

 翼のないアイは地道に岩をよじ登る。蜘蛛のように張り付かねばならない高低差ではないが、それでもアイの膝を超える高さの段差ばかりだ。巨人であればちょうどいい階段なのかもしれない、そう考えてから、あるじの他者を圧倒する巨躯を思い出す。

「ガルメディウスさまならこれくらい、何でもなさそうね。そう思わない? シャルロ」

 よいしょ、とアイは己の身体を引き上げる。名を呼ばれた小さな竜は不思議そうに、もたもたしている人間を見下ろしていた。

「……お前は羽があるからこの苦労がわからないのね。うらやましいわ……」

 きょとんとするシャルロをじっとりした目で見上げながら、息を切らせてそこまでたどり着く。


 岩の天辺に登りつめれば、その向こう側がよく見えた。

 奈落が口を開けている。大空洞をまっぷたつに割って斜めに捻れた亀裂が、黒く深い闇を湛えていた。


 念入りに周囲の空気を嗅いでいたシャルロが一声甲高く鳴き、ぱっと飛膜を広げて奈落の対岸へ羽ばたく。それを見つめるアイの目の前で、唸るような轟音と共に黒い炎が奈落から噴き上がった。

 鳴光石の光で青く照らされたアイの前髪が、炎の柱に煽られてめくれあがる。真白い額をあらわにしたまま、アイはぽんと跳んで奈落を埋め尽くす獄炎に飛び込んだ。

 途端に飢えた獣が餌に群がるがごとく、炎の舌先がアイに集ってその姿を覆う。いくつかの塊に分かれて細い身体を捕らえるその炎は、巨大な人の指先のようにも見える。

 アイは籐籠を落とさないよう両手でしっかり抱え、絡みつく炎にはされるがまま、身を任せた。

 地の底から燃えあがる黒き炎。ガルメディウスの背を覆う外套と同じ色の炎だ。これが己を傷つけるものではないと、アイは知っている。


 メイドを受け止めた闇より暗い獄炎は、空中を滑らせるようにその身を運ぶ。魔界から人界へ。

 対岸に触れるぎりぎりまで寄せられたところで、アイは先程と同じようにぽんと跳ね、降り立った。すぐに振り返って黒炎に視線を投げる。

「ありがとうございます。ガルメディウスさま」

 アイの言葉が終わらぬうちに、目的を果たした炎の柱はみるみる勢いを失いはじめ、奈落の底へ消えていく。

 先に到着していたシャルロがアイに走り寄り、飛び上がってその肩に止まった。しもべふたりは奈落に炎の気配が感じられなくなるまでじっと見送ってから、互いに顔を見合わせる。

「……それじゃ、行きましょうか」

 人界へ。


 人間が住まう世界へ向かって、アイは歩きだした。




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