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3 主従



 あるじがその巨躯を屈め、扉を潜って館の中へと入る姿に、アイは付き従った。

 館の石壁は結構な厚みを備えているが、隧道めいたそこをガルメディウスは意外と器用に通る。甲冑のあちこちで出っ張る棘や角を引っかけたことがない。加えて足下に纏わりつくシャルロを蹴飛ばすこともないのだから、大きな身体に似合わず繊細さも持ち合わせているのだろう。


 出入り口を入ってすぐはそこそこの広間になっている。真っ直ぐ進めば中庭へ、階段を上ればあるじの居室へ繋がる通路が続く。

 ガルメディウスは重い足音を響かせ館内を進み、その後を追うアイはそわそわと身体を左右に傾けながら前を行くあるじを窺っていた。


 しもべであるアイは、本来なら帰還したあるじの甲冑を外す手伝いをする役目を持つはずだが、ガルメディウスは人前で鎧はおろか兜も外したことがない。面頬を上げたことすらなかった。

 跳ね橋代わりの石段を呼び出し、あるじを迎える。それだけでアイの仕事は終了だった。


 ガルメディウスの本性が魔であることを考えると、甲冑の中のものが人のかたちではない可能性もある。暴かれるのを厭っているのであれば、分を弁えるべきなのだろう。

 だが、それではあるじのために尽くすことができない。

 甲冑を脱がないのだから、洗濯も給仕も、アイは命じられたことがなかった。それどころか掃除すらも指示されずにいる。

 仕方なく自主的に、といえば聞こえはいいかもしれないが、つまるところ勝手に掃除をして回り、館内を飾り付けたりすることがアイの日常となっていた。

 だが魔人のしもべとして生きるアイは、己に価値を与えてくれるあるじの命令を欲している。


「あの、ガルメディウスさま」

  先を進む魔人の背中を落ち着き無く窺っていたメイドは、ついに声をかけた。

「お留守の間に地下を掃除していて、湧水を使う給湯設備を見つけたのです」


 魔界は地底にある。周囲の岩盤には網の目のように走る水脈が存在し、場所によっては天井から溢れ落ちる瀑布が湖を形成している所もある。水源は豊富だった。

 そしてガルメディウスの館周辺は火山の活動が活発だ。溶岩から伝わる地熱で温められた水脈の水は、温泉となって湧き出してくる。


「勝手ながらそちらも掃除して、使えるようにしたのですが」

 館の地下で埃をかぶっていたのは、一度に何人も入れそうな、広い浴室だったのだ。


 帰還してからたった一言発したきりの寡黙なあるじは、常になく懸命に話しかけてくるメイドの様子に、重々しい足音を響かせる歩みを止めた。背中で燃える黒い炎だけがゆらめいて、石の床に濃い影を落とす。

 あるじの足の間を意気揚々と行進していたシャルロがひとりきりで進む寂しい隊列に気が付いて、慌ててとってかえしてきた。


「よろしければ、お召しになりませんか」

 遠慮がちに風呂を勧められ、ガルメディウスはその巨躯をねじり、向き直る。懇願をにじませたメイドを見下ろし、しばしの沈黙を落とした。

 空気を読まないシャルロが獄炎の騎士の鎧をせっせとよじ登り始め、肩当ての上まで到達すると、得意げに納まって姿勢を正す。雨どいに居座って建物を守る彫像の真似事をしているようだ。

 騎士の兜、頭部の前面を守る面頬の奥は闇が満ちていて何も見えない。


 ただの人間であるアイは、恐る恐る魔人を見上げた。ゆっくり湯に浸かって寛いでもらえたらと考えたものの、もしや魔人に風呂は必要ないのだろうか。そういう可能性に思い至って青ざめる。

 人間ならば湯に浸かるひとときは気分がほぐれるものだが、魔人も同じとは限らない。

 アイはしもべとして、あるじの様子を常に窺い、言われずとも求めに応じた行動をとるべきだと考えている。そして、出来得る限り快適に過ごしていただくよう奉仕するべきだとも。だが魔人ガルメディウスの容易に読めない表情は難敵だった。種族が違うあるじの喜ぶものは想像しがたく、探すのはなかなかに難しい。


 素晴らしい設備の浴場を見つけて舞い上がり、せっせと磨いて準備を整えてきたアイは、次第に自信を失って項垂れた。よかれと思ってしたことだったが、不興を買う結果になったのかもしれない。

「差し出たことを申しました」

 頭を下げるアイの視界の外側で小竜が鳴く。夜色の竜のお喋りは、やや緊迫した固い空気を持つあるじとメイド、主従ふたりのあいだに割って入る形になった。熱心になにごとかを語っている彼に、向き合う主従は反応をかえさない。

 シャルロは非常によく喋るが、小さな牙が並ぶ口から出る音は残念なことに竜の言葉だけだ。彼が何を話し何を求めているのか、予想できない時はただ聞き流すしかない。今もそうだ。

 アイはこの館に来てからずっとシャルロと共にいて、いまだ意思の疎通は漠然としたものでしかなかった。ましてあるじへの謝罪の真っ最中となれば、かわいそうだが応えるわけにはいかない。


 腰を折ったままの姿勢を保つメイドに、ガルメディウスから地鳴りのような響きを持った言葉が投げかけられる。

「お前は湯浴みを好むようだな」

「──、は。はい」

 唐突なあるじの問いに、アイは面食らいつつ返答をかえす。


 確かにその通りだ。

 不在であることのほうが多いあるじが、なぜそれを知っているのか。やはり魔人は、人間の範疇では及ばぬものも見え、知り得ているのだろうと、アイは畏まって身を小さくした。己の住処で起きるものごとなどすべて見通しているのかもしれない。


 この館で風呂へ入るためには、中庭にある井戸から大量の水を桶に汲み上げ、炊事場まで運び、湯を沸かして大盥にあけるという手間をかけて、やっと準備ができる。大変な労力が必要だ。アイはその作業をこなしてでも入りたがるくらいに、風呂が好きだった。

 だからこそ地下の設備を見つけた時は踊りだしたいほどに喜び、その素晴らしいものをあるじに使っていただこうと考えた。

 その結果がこのようなことになっているのだから、浮かれ過ぎた自分を強く戒めなければと、アイはくちびるを噛む。


 甲冑で全身を鎧ったあるじの姿は、感情をあらわす顔を覆い、呼吸に揺れる肩の動きをも隠して、内にあるもののすべてを封じている。外からはその思考の片鱗すらうかがい知ることができない。

 怒りを買ったのか失望されたのか判断がつきかねて、アイはただただ身を縮こまらせた。


 消沈した様子で頭を垂れるメイドを、ガルメディウスはしばしのあいだ見下ろした後、低く告げる。

「湯を使う」

 鉄靴を鳴らし、黒炎の外套をひるがえして、向かう先は中庭へ続く通路だった。浴場の入り口はそこにある。


 アイはみるみる瞳を輝かせ、勢いこんでこたえた。

「はい、御用意は出来ております!」

 ガルメディウスさまに使っていただいてこそ、風呂を磨いた甲斐があるというものだ。跳ねるような足どりでメイドはあるじのあとを追う。

 喜び溢れて楽しげなその様子に興味をそそられたのか、ガルメディウスの肩から夜色の竜が飛び降りて列の最後尾につくと、アイの踵を追いかけはじめた。


 中庭は石壁に囲まれた広い空間になっている。隅の一角には土を運び込んで作ったアイの花壇があり、薄緑色に繁る葉を鳴光石の青い光が照らしていた。

 壁沿いには地下深くの井戸へ降りる石段のほか、貯蔵庫や武器庫などもろもろの倉庫の扉が並ぶ。そこからぽつんと離れて主塔寄りの位置にある扉が、浴場への入り口だ。

 この館の唯一の使用人であるアイは、ガルメディウスから館の鍵を預けられている。ほぼすべての場所が出入り自由で中に入ることはできたものの、はじめはその部屋がなんのためのものなのかわからずに、手をつけなかった場所だった。


 あるじに続いて広い中庭へ出たところで、アイは足早にあるじを追い越し、浴場の扉へ手をかけた。重いそれを引いて開けば、湿った空気が流れ出てきて肌をかすめる。部屋の中では滔々と溢れ続ける温水が浴槽に満ち、湯気を昇らせていた。


 入ってすぐは分厚い壁部分を利用してつくられた小部屋がある。恐らく服を脱ぎ着する場所として使われるのだろう。壁から削り出された石の腰掛けは濡れても腐食する心配がなく、石壁をくりぬいた穴は小物の類を収めるのにちょうどよい。

 そこから奥に進めば浴場だが、まず衝立の役割を果たす低い壁が設けられており、それを避けて回り込むと、ぐるりと周囲を石の柱に囲まれた空間に出る。立ち並ぶ柱の内側から中央へは段差がつくられていて、床が低い。

 その広さがあだとなって湯のない状態では風呂だと思いつかず、儀式や祭事を行う場であるかもしれないと、アイはあまりいじらずにいたのだった。

 湯を供給するための設備が別の場所にあったことも、気付くのを遅れさせた理由のひとつだ。使用人専用の通路から繋がる地下室にあり、浴場とは厚い石壁で隔てられていて、直接行き来はできない。

 掃除のために埃をかぶった暗い小部屋へ入って、かすかな熱気に違和感を覚え、水路の堰を見つけ、乾いた溝をたどり、ようやくそれらが温泉のためのものだと理解できたのだ。

 地下から溢れる温水は、より深い地下の溶岩で熱せられたものが豊富に流れ出してくる。必要がないときはせき止め、掃除だけすればいい。実にメイドに優しいつくりだった。


 アイは急いで浴槽の傍に駆け寄ると、湯に手を差し入れて温度を確かめる。熱すぎるということはない。風呂の温度は好みがあるが、それは追々あるじの反応を窺って適温を探っていこうと考えた。ぬるいものを好むならば、そのように調節すればよいだろう。

 戸口で響くあるじの重い足音がアイの耳に届き、慌てて立ち上がった。鎧を脱がねば風呂には入れないのだから、ここから離れる必要がある。

 出入り口を塞ぐような巨躯の魔人がその身を屈め、扉をくぐる姿が見えた。アイはさっと端により、あるじの邪魔にならぬよう壁に背を当てる。

「御用がございましたらお申し付けください」

 声をかけられたガルメディウスは黙したまま頷いた。動作ひとつひとつに鎧の触れ合う金属音が伴うため、示される意思はかえって伝わりやすい。頷いただけならば、特に問題もなく、命令もなく。過不足ないということだ。

 前を通りすぎるあるじに一礼し、アイは楚々と浴場から下がってみせた。


 今はこれでいい。石鹸や香油はすでに運び込んである。が、身体を拭く布は湿気てしまうのを避けて置いていない。アイは風呂あがりのあるじを迎える準備をするべく駆け出した。

 何か飲み物も用意したほうがいいだろうかと考えながら走るメイドの後を、中庭でうろうろしていた夜色の竜が追いかける。

「お前が人の言葉を話せればいいのに。そうしたらガルメディウスさまのことをたくさん教えてもらうわ」

 振りかえってアイが語りかけると、シャルロは返答をするように鳴き声をあげた。

「それともわたしが竜の言葉を学べばいいのかしら。シャルロのほうが先輩なんだし」

 館内へ戻るためにまた扉に取り付いて、引き開ける。細い隙間が開くと、小さな竜は先に立って細い身体を滑り込ませた。ちょろちょろと揺れる尻尾が覗いて見え、扉を爪で引っ掻く音がする。内側で跳ねて扉を押そうとしているようだった。

 ささやかな協力に小さな笑みをこぼしつつ、どうにか自分が通れるだけの隙間をつくって、メイドも扉の内側へ身体を滑り込ませた。


 洗濯を済ませたリネンの類は、二階の衣裳部屋の隣室にまとめてある。あるじが衣服を必要としないため、衣装部屋はほとんど空で、それ以外のテーブルクロスや手巾もアイが来てから細々と増やしていったものが少しあるだけだ。

 その中から大判の上等な綿布を取り出し、手触りを確かめる。ふかふかと柔らかい感触にひとつ頷いて、アイはそれを五枚ほど両腕に抱えた。ついでに小さめの手巾も何枚か乗せる。

「これで足りると思うけれど……急いで戻らなくちゃ」

 アイの呟きに、周囲の匂いを嗅ぎまわっていたシャルロは慌てて部屋の外へ走り出た。通路を少し行ったところで振り返り、メイドが同じように通路へ出てくるのを確認すると、また走り出す。

 先導するように前を行く竜の影を追いかけて、アイは早足で来た道を引き返した。


 荷物があるぶんまた苦心して扉を通り、浴場まで戻る。そうして、あるじがいるだろう空間を前に、メイドは躊躇いを見せた。

 獄炎の騎士、黒き鎧を身に纏う魔人ガルメディウス。その素顔を見た者はない。このまま進めば、許されざる一線を越えることになるのかもしれない。

 迷うアイの足元にシャルロが寄って、不思議そうに見上げながら尻尾の先を脚に絡める。憂いとは無縁の小さな竜に励まされ、一歩を踏み出そうとしたその瞬間に、たくさんの金属を投げ落とすような大音響が鼓膜に叩きつけられた。

 浴場からだった。アイは顔色を蒼くして駆け込む。

「ガルメディウスさま?!」

 ひどい音がしていた。あるじが倒れでもしないかぎり鳴りようがない。衝立を越え、周囲を見回してあるじの姿を探す。


 薄闇に湯霧でけぶる青白い視界の中、濡れた石の床の上に、甲冑の一部が落ちていた。

 篭手、肩当て、捻れた二本の角を生やす兜。アイにとってあるじをあらわす象徴ともいうべきものが無造作に転がっている。思わず膝をついて手を伸ばしたが、それはアイの手が触れる前に黒い煙となって形を崩した。湯気に混ざることなく渦を巻き、指の間をすり抜けて、何かに引き寄せられるように一点へ向かって流れていく。空を切った己の指先に、呆気にとられたアイは兜があった場所を茫然と見つめた。


 がしゃりと重く鋼が鳴る音にはっとして振り向くと、湯霧の向こう、柱の暗がりから、二本の角を生やす巨大な影が歩み寄ってくるところだった。

「ガルメディウスさま……」

 あるじに目に見えるような異変はない。敬愛するあるじの元へシャルロが走り出る。一直線に床を駆けていく姿に視線をやって、いつの間にかそこに投げ置かれていたはずの篭手や肩当ても消えていることに気が付いた。ぱちくりとまばたくアイの横を、欠けているものなどひとつもない全身鎧姿の魔人が通りすぎていく。

 そしてふと足を止め、ほんの少し振り返るように身体を傾けた。呆けたままのアイに向けて重低音の響きが放たれる。

「後は好きに使うがいい」

「……は、」

 突然のことに満足な返答もできなかったメイドだが、あるじは特に気にする様子もみせず、そのまま浴場から歩み去っていってしまった。

 甲冑がたてる金属の足音が小さく遠くなっていく。


 あの寡黙な魔人の騎士は、アイが風呂好きだと知って最初から下げ渡すつもりだったのだろう。あるじを差し置いて自分が悠々と湯に浸かることを楽しめる性質ではないと、ガルメディウスは解っていたのだ。


 シャルロは戸口近くまであるじを追いかけ、だが動かないメイドを気にして引き返し、うろうろと間を往復している。その忙しなくも軽快な動きがまるで踊っているように見えて、固まっていたアイは噴出した。

「温泉を使ってもいいんですって。シャルロ、一緒に入る?」

 底が浅く湯も少ない大盥では到底無理なことだったが、この浴場ならば泳ぐことすらできる。メイドと小さな竜が共に浸かるくらい、わけもない。

 アイの言葉を理解しているのかいないのか、話しかけられたシャルロは駆け戻ってきて、アイの膝の上にちょこんと前足を乗せた。メイドの指先で額の星をくすぐられると、気持ちよさそうに眼を細める。

「とりあえずは、自分の着替えなんかを持って来ないとね。それから……」

 ちらりと戸口のほうへ視線を投げたメイドは、ふうと溜め息を吐いた。

「お洗濯しなくちゃ」

 床には先程落としてしまったのだろう布が散らばっている。あるじのためのとっておきを汚した落胆と、浴場を使う許可を頂いた喜びに、アイは複雑な表情で微笑んだ。




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