2 あるじの帰還
アイのあるじ、ガルメディウスの住まう館は、魔のものが跋扈する地底山脈の中腹にある。
あるじと同じく質実剛健をそのまま形にしたような、無駄な装飾の一切が無く、実に無骨な佇まいをした石造りの館だ。
中庭をぐるりと囲んだ三階建て、部屋数は五十ほど、塔は主塔以外に四隅に一基ずつ。一階部分に窓が無く、出入口は二階からのみになっている。
灰一色の館は壁のどこにも継ぎ目が見当たらず、元はひとつの巨大な岩の塊だったと推測できた。岩肌から建物の形に切り出し、館内は洞窟を掘り進むように削って作り上げられたのだろう。
外壁には等間隔で縦の溝が彫られている。館の内側から弓を射るための狭間をそこに隠し、外からは位置をわかりにくくする細工だった。
一階から二階の層を区切るように横に張り出した部分は壁を這い登ってくる輩を防ぐための鼠返しだが、許可なき侵入者は館の外壁に触れるだけでガルメディウスの魔力に灼かれることになるため、役立つ日はそうこないだろう。
機能の面からみると、館ではなく城と呼んでもさしつかえない。こじんまりとした様子が可愛らしくも見えるが、その実しっかりした防備を固めている。
アイにとっては寡黙で力を誇示しないあるじと共に平穏な暮らしを守ってくれる、頼もしい我が家だった。
身支度を済ませ、シャルロを肩に乗せたアイは、館の正面扉を押し開いた。
元より来客を想定していない扉は館の規模と比べると小さく見える代物だが、堅く分厚い木材を板金で留めたそれは、アイにはじゅうぶん大きく重い。体重をかけて押さねばならないこの扉を、あるじは易々と片手で開く。そうして頭をぶつけないように少し屈んで扉をくぐる。扉はアイが力一杯跳ねても上に届かない高さだが、甲冑を纏ったあるじの巨躯はそれを超えるのだろう。
開いた隙間から館の外へ滑り出ると、アイはエプロンのポケットから銀の鍵を取り出した。
「お願いね、シャルロ」
声をかけられた夜色の竜は首を伸ばして鍵を咥え、飛膜を広げて飛び上がる。
向かったのは扉の真上。石壁の小さな窪みに置かれた鳴光石を鳴らすのがシャルロの役目だ。
りぃん、と透き通る音が広がった。同時に石臼をひくような地響きがアイの足元を揺らす。
暗闇では確認のしようがないが、明かりが灯る前の前庭は道が存在しない奈落であるらしい。鳴光石の共鳴によって石段が浮かび上がる仕掛けのようだ。どういう力が働いているのか、ただの人間のアイには知り得ないことだが、あるじが施したものなれば何も訝しむ必要はなかった。
二階の高さにある扉から前庭まで続く階段に、設置されていた鳴光石が順を追って発光していく。灯った青い輝きに照らされて、流れ落ちる水さながらに道が映しだされていった。
一仕事を終えたシャルロはアイの肩へと舞い戻る。
「ご苦労さま」
鱗の柔らかい喉元をくすぐり、労ってやると、夜色の竜はくるくると甘えた鳴き声をあげた。アイは銀の鍵を受け取ってポケットに仕舞い、周囲を見回す。
館をぐるりと囲う鉄柵の外は岩ばかりが転がる不毛の地である。
光源は煮え立つ溶岩以外に無く、それも館からはずいぶん離れた所にあった。興味を引くような物珍しいものは見付からず、アイの視線は門の向こうに据えられる。
あそこへ不用意に近付くな、門の外へ絶対にひとりで出るなと言いつけられていた。敬愛するあるじの指示、ましてやしもべの身の安全を慮ってのこと、逆らうなどありえない。出迎えに走りだしたいのを我慢して、もどかしくあるじの帰還を待つ。
やがて暗闇の高みに蒼い炎が燃え上がった。それは蹄の音と共に宙を滑り、みるみる地上に迫り来る。はっきりと形は見えないが、その正体がなんであるかをアイは知っていた。
あるじが駆る八本脚の獣、疾きランザー。空を踏み鳴らす蹄と蒼く燃えるたてがみを持つ、美しい生き物だ。
ランザーの駆ける姿は、そのままあるじの帰還を示す。
アイは喜びを抑え切れずにそわそわと身体を揺らした。
「お戻りになったね、シャルロ」
そう声をかけつつ首を伸ばせば、肩に乗った夜色の竜も同じように長い首を伸ばし、門の外を窺う。しもべふたり、そろって待ち切れずにいた。
ランザーの蒼い炎は地表近くに至ると強い光を放ち、爆ぜるように闇に広がって、消え失せる。
あるじを館の前まで送り届け、役目を終えて闇に還ったのだろう。また召喚される時が来るまで眠りについたはずだ。
アイはぴしりと姿勢を正し、だが己の身嗜みの点検をしていないことに気が付いて、はっとした。慌てて肩を払い、服の皺をのばし、髪を撫でつける。巻き添えを喰って一緒に払い落とされそうになったシャルロがちいさく抗議の声をあげた。
忙しないしもべたちが再び姿勢を正してすぐ、遠い闇の向こうから、がしゃり、がしゃりと金属が鳴る音が近付いてきた。兵士が身に着ける甲冑の擦れ合う音だ。一歩を踏む度に響くそれは、土にめり込む重さを伴っている。
程なくして、館へと歩み寄る人影が鳴光石の青い光に照らされて浮かびあがった。
アイはその姿をみとめ、瞳を輝かせる。
「おかえりなさいませ、ガルメディウスさま!」
獄炎の二つ名を持つ魔人ガルメディウス。巨躯に見合う分厚い板金で全身を鎧った重装の騎士。
その姿は大地に深く根をおろす大樹のごとく、遥かなる時を経ても不動を守る巨岩のごとく、ずしりと重厚な気配を纏っていた。
漆黒の鎧は揺らめく曲線を描く金属板を幾つも連ね、燃え盛る炎がそのまま硬化したかのような意匠が凝らされている。緻密な造形は照らす光を複雑に跳ね返し、黒曜石に似た輝きを放つ。
一揃えの兜は面頬が下ろされたまま、その奥を窺うことはできない。頭部の両側面からは二本の角が禍々しくうねって天を突き、ガルメディウスを魔人らしく魔人たらしめている。
背中に纏った闇より暗い黒炎は大地に向かって吹きおろし、外套のようにはためいて騎士を飾っていた。
「今、帰った」
なにもかもをまるごと揺さぶる重い低音が甲冑の奥から発せられた。轟く雷雲を思わせるその声は、幼子が耳にすれば泣き出しそうなほどに恐怖を煽るものだったが、忠実なるしもべたちは感極まった様子でただその言葉を受け、頭を垂れた。
控えるアイの前を悠然と進み、ガルメディウスは館へ帰還したのだった。