二話 はじめの花
ラタに乳母として課された最初の『儀式』は、赤ん坊の名付けだった。それは神の島ティンガタンガに流れ着き、もとい、半ば強引に連れて来られた翌朝、朝食の席で補佐役サアラに教えてもらった予定である。
「え……僕がこの子に名前を?」
いきなりの洗礼――二、三時間に一度の割合で赤ん坊の泣き声に起こされ、その度にファルを与える。つまりは口づけしっぱなし、という一晩を終える明け方には眠気に負け、赤ん坊を腕枕で抱き、その頬に唇を付けたまま寝台に沈んでいた。(ちなみに、その頃には口づけに対する気恥ずかしさも何も吹っ飛んでしまっていて、眠れるものなら延々その体勢でも構わないとさえ思っていた)
そんなわけだから、寝不足のラタには余計、寝耳に水であった。
「ええ。神の子ティンガに愛を込め、代々の乳母が名づけを行うことに決まっているのですわ」
「それはやっぱり、母である太陽神ゼーダ様が行うというわけには……」
――面倒だからに決まっておろう?
昨日、衆目の場でゼーダが言い放った言葉が脳裏に蘇る。きっと、今ここに彼女がいたとしても同じことを言われるのだろう、と悟ったラタはひそかに嘆息した。ちょうどその時、籐の揺りかごに寝かせておいた赤ん坊がぐずりだす。
「あーはいはい。ファルね。あ、違うか。おむつが濡れてる」
白い下着を解き、お尻にあてた布を取り替える。奴隷商アイマスの船で、下働きも兼ねて様々な雑用をこなしてきた。そんな日々で、子守めいた仕事をしたこともある。が、さすがにおむつを必要とする赤子までは世話したことがなく、これも昨日から何度も繰り返した挙句に習得した技術だった。
用意された清潔なおむつをあててやると、気持ちがいいからか赤ん坊はニコニコしている。ちなみに、汚れたほうはまとめて籠に入れてあった。といっても神の子ティンガの排泄物は汚いわけではなく、無色無臭の尿と、ちょうど蜂蜜みたいな形状の、甘い香りまでする便(一応、こう呼ばざるを得ない)である。最初は戸惑ったが、湯水でお尻を洗い、布で拭いてやることにもすぐ慣れた。ぷりんと丸いお尻が可愛らしくて、揺りかごを覗き込みながらつん、と人差し指で突付く。きゃっきゃと笑う赤ん坊。その姿はたったの一日でかなり成長している。生まれたて、という雰囲気ではなくなり、黄金色の髪も頭全体に生え揃い、瞳はますますぱっちりと開かれて、愛らしい赤ん坊そのものだ。呼ぶように両手を伸ばされては、抱き上げないわけにいかず。更に「んーん」と喃語ながらに求められてはファルを与えたくなるというもので――気づけば、両頬に口づけていた。
寝不足の恨みもあっという間に晴れてしまうほどの至福。不思議だけれど、これもファルマとして――神々のお気に入り『ラタ』の子孫である所以。乳母として選ばれた以上仕方のない運命なのだとわりきってしまうことにした。
よくよく考えると自分は、奴隷としての日々でもそう考えていた気がする。第一、そんな境遇に置かれた人間はラタだけではなく、大陸全土に無数にいるのだ。物心付いた時からそうだったのだから、疑問を抱く暇もなかった。
目の前の仕事を無心でこなすこと。いちいち自身の不遇を嘆くより、淡々と生きていくこと。そんなやり方が性に合っていた。だから脱走も企てず、アイマスに気にいられもしたのだろう。
(奴隷よりは乳母のほうが、まだましなのは確かだし)
サアラに言われた通り、自分は幸運だったのかもしれない。ちゃっかりと同意して、ラタは一人口元を緩めた。そのまま、輝く太陽を思わせる双眸と視線をからませる。浅黒い色をした小さな手が、差し出したラタの指をぎゅうっと握った。
「うふふ……もうティンガにぞっこんのようですわね、ラタ様は」
すぐそばにいるサアラのことを忘れていた。頬を染め、顔を上げるラタ。
(確かに――このまま、『赤ん坊』とか『この子』とか呼ぶわけにもいかないし)
可愛らしい外見に似合う名前は必須だろう。ただ、そんな大役を自分が担わなくてはならないことに気後れしてしまうだけで――。
「ティンガ、というのは、ただ『人間』とだけ呼んでいるのと同じようなもの。あなたにも『ラタ』という素晴らしい名前があるように、ぜひ素敵な名前を付けて差し上げて下さいませ」
「は、はあ……」
(でも……名前ってどんな?)
いきなり言われても、全く思い浮かぶ候補も何もない。頭を捻りながら困っていると、開け放たれた窓から勢いよく飛び込んできたものがあった。
「朝」「朝」「阿呆はどうだ」「阿呆は持ちこたえたか」
けたたましい鳴き声――いや、話し声と呼ぶべきか。ともかく、両側から甲高い声でがなりたてたのは、神の使い極楽鳥たち。十羽ほどいる中で、一応ラタの世話係を言いつけられたらしい(のに全く役目を全うしていない)二羽、リネとルネだった。
「あ、阿呆って呼ぶのやめてくれないかな。僕にはラタってちゃんと名前が――」
「神話も知らぬ間抜けな子孫は、阿呆で十分」
「そうそう、阿呆で十分」
薄紅色の髪と瞳をしたリネが言うと、薄緑色の髪と瞳のルネが笑う。そう、あっという間に鳥から少女の姿へ変貌した彼らは更に無敵。ケタケタと笑い合いながら、ラタの周りを踊りまわる始末だ。
「これ、リネにルネ。おやめなさ……」
「知らないなら、教えてやればいい」
突如部屋の入り口から聞こえた声は、楽しげな笑みを含んだ低音だった。騒々しいリネたちに辟易としていたラタに近づいてきたのは、背の高い青年――これもおそらくは神なのだろう。濃い紫色の髪はゆるゆると波打ち、肩の辺りで丸まっている。言うまでもなく、肌は浅黒い。それがティンガタンガに住む神たちの特徴であるらしい。
ラタの予想通り青年は口を開くと、
「私は葡萄の神、セイズ。僭越ながら、年若きファルマの手助けになるのならと思い、こうして参上した次第」
「自慢屋セイズ」「自惚れセイズ」「出た出た」「来た来た」
ちょっと嫌そうな顔を見合わせて、リネとルネが互いに囁く。といっても元々声が通る彼女たちだから、ラタにまで筒抜けだった。サアラがセイズに会釈する。
「まあセイズ。あなたのような博識な方がお手伝い下されば、ラタ様にもとても有益なことでしょう。それで、知らぬなら教えて差し上げれば、というのは――?」
「美しいサアラ。ご機嫌麗しゅう……私がラタ殿をお助けすることで、あなたの重荷を少しでも背負えるのならばこのセイズ、喜んで火の中水の中……」
大げさな身振り手振りで演説でもするように話すセイズ。しかし、慣れた様子のサアラは微笑みで一蹴し、本題に戻した。
「神話を知らないのは今の時代、ラタ様だけではございませんわ。神であるわたくしたちと人々が近かったのは遥か昔のことですもの。それでセイズ、何か妙案でも?」
「ああ……ラタ殿はまだ島に来たばかり。まずは案内も兼ねて散策しながら、島と人との物語を話してさしあげようかと思ってね」
「まあ島の案内を! それは確かに素敵なお考えかもしれませんわね。補佐役でありながら、わたくしそんなことまで考えませんで――」
別にそこまで立派な案とも思えなかったけれど、サアラはとってつけたように褒め称えた。もしかしたらそれが、この葡萄の神への最適な対処法なのかもしれない。
「ではリネとルネ、あなたたちも同行してちょうだい。わたくしはティンガを見ていますから」
「えっ? で、でも離れて大丈夫なんですか?」
「ファルは先ほど与えられたみたいですし、またしばらくは眠られるでしょう。そのぐらいの間ならば、ティンガのご機嫌も損なわないはず。お気遣いなく行っておいでなさいませ」
「は、はい……」
言われてみれば、確かに一年もの間ここで過ごそうと言うのだ。島について知っておく必要はあるし、何より純粋な興味もあった。それにしても――。
(もうティンガを置いていくのが不安な気がするなんて、不思議だ)
一晩を共に過ごしただけなのに、情が芽生えたのか。それとも、これもファルマとしての血のなせる技なのか。
「今の内」「今の内」「いつ音を上げるのか楽しみだ」「楽しみ楽しみ」
リネとルネが、声を揃える。まるでラタの心を読んだかのような言葉にどきっとした。照れ隠しに言い返したくなるが、彼女たちが使用済みおむつの入った籠を持ち上げるのを見て、ラタは黙った。
(そうか。世話係はやる気がなくても、洗濯なんかはしてくれるんだ)
と思ったのも束の間――、
「行く前に洗ってけ」「洗え洗え」「ティンガのお世話はファルマの仕事」「阿呆でもファルマ、お前はファルマ」
籠を押し付け、さっさと鳥に戻って飛んでいく二人――もとい、二羽。唖然としたラタに気の毒そうな顔は見せつつも、サアラは特に口出ししなかった。
「そうだね。汚れ物の洗濯も立派なファルマのお役目。他者が手を出すべきではない仕事だ。私なら終わるまでのんびり歌でもうたって待っているから、気にしないでくれたまえ」
セイズにまで頷かれ、ラタは引きつりながら笑った。笑うしかなかった、というべきか。船員たちの洗濯などで慣れているし、今更これほどの量で困ることはない。可愛いティンガのためなら、やってやろうじゃないか。
既に親鳥のような気分で、揺りかごに眠る赤ん坊を見やる。先ほどリネたちにからかわれた言葉が頭に留まってはいたが、それほど辛いことには思えなかった。
(奴隷としてずっとこき使われて生きていくことを思えば、これぐらいのこと)
平気だ。むしろ、ティンガの成長が楽しみにもなってきている。やはり自分は、案外順応しやすい性格なのかもしれない。案内された洗濯場でおむつを洗いながら、それでもラタはまだ楽天的な気持ちでいたのだ。これから待ち受けている困難の数々など、予想だにできずに――。
――ティンガタンガ、さいはての神の島。それはどこに。いつもここに。それは青い青い海の果て。青い青い空の果て。澄んだ心の奥にある。澄んだ瞳の中にある。
葡萄の神セイズは、本当に歌いながら待っていた。十枚以上のおむつを丁寧に洗い、気持ちのいい青空と海風に託してきたラタは、その朗らかで楽しげな歌声に足を止めた。
「おや、ラタ殿。早かったねえ。私の美声を披露する練習をしていたのに」
「救い」「救い」「天の救い」
鳥の姿に戻ったリネとルネが、黄色い嘴を開いて言う。二羽の言葉が聞こえぬはずはないのに、セイズには全く気にした様子はなかった。飄々としているのか、能天気なだけなのか、区別が難しい。
「その歌……」
「ああ、これかい? これはかの昔、人と神とが離れてしまった悲しみの時に、神を想う人々へのみ残したものだよ。いつでも、必要とする者には道が開かれるように」
「必要とする、者――」
「神々のお気に入り、ラタ。つまりは君とそのご先祖たち、ということになるね」
濃紫の髪を風にそよがせながら、セイズは微笑を浮かべる。それで話を終わりにしたのか、それとも始める合図だったのか――彼は両腕を開き、鳥たちに向かって何やら目配せをした。
渋々、といった態度で羽を数度上下させた極楽鳥――リネとルネは、なんと瞬き一つする間に巨大な姿へと変貌していたのだ。ラタの肩にとまれる大きさだったものが、こちらが逆にその体に乗れるぐらいにまで。
驚き、声も上げられないでいるラタに、セイズが言った。
「さあ、早く乗りたまえ。ティンガが眠りから覚める前に、島をご案内しよう」
「偉そうに言うな」「命令するな」「我らは神の使い鳥」「主はゼーダ、主はゼーダ」
嫌そうに言い返しながらも、二羽とも背を向け、乗ることができるように地に身をふせてくれる。さっさとリネの背にまたがったセイズに促され、ラタもおそるおそるルネの薄緑色の羽根を掴み、乗ることに成功した。
見る見るうちに飛翔し、上空へ舞い上がるリネとルネ。余裕のセイズとは異なり、ラタのほうは悲鳴を必死で堪え、羽根といわずその首に力いっぱいしがみついてしまう。案の定、ルネが咳き込んで怒った。気づけば、かなりの高さでふわふわとその位置を保っている。
「苦しい、阿呆。手を離せ」
「はっ、離したら落ちちゃう……!」
「力を緩めるんだよ、ラタ殿。大丈夫、軽く持っているだけでも落ちはしない。忘れたのかい? ここは神の島、よもや大事な乳母を傷つけようことがあるものか」
それは、神の力が守ってくれる、ということなんだろうか。でも――とラタは口ごもる。しがみつく力は緩めても、最低限、安心できるほどにつかまっていることにした。思いついた疑問に、薄茶色の瞳が翳る。
「なら、どうしてこの島だけ……? 世界全部を守るのが神様たちの役目じゃないんですか?」
ラタの、幼いなりにも真剣な問いかけに、セイズは真顔になった。なみなみと注がれた葡萄酒のような両の瞳が、ラタをまっすぐに見つめる。
「昨日、ゼーダ様も仰られただろう? 人は神を全知全能と崇める。自分を守り、慈しみ、いついかなる時にもその慈愛は裏切られることなどないのだと。神は人のためにあるのだと信じて疑わぬ言葉だ。まず、そこからして人は思い違いをしているのだよ」
「思い違い――?」
予想外の返答に、ラタは戸惑う。そんな二人のやりとりなどまるで無視して、二羽の極楽鳥は大きく羽を動かし、前方へ進んでいく。何度も抱きつく力を強めてはルネに怒られながら、なんとかラタが眺めた下方には――、
「わあ……綺麗」
透き通る透明な海の上に浮かぶ、大きな環礁。島は、ちょうどその上に平たく、楕円形に広がっている。まるで海に映る太陽の分身のように、日差しを受けてきらきらと輝いていた。鮮やかな木々の緑、白砂の輪郭、そして合間にあふれる花々の色とりどりの模様。まさに楽園という二文字がふさわしい光景を見下ろしながら、セイズがぽつりと呟いた。
「そもそも神とは何なのか。それは我々にもわからない」
「――え?」
延々と続く水平線。その彼方を目で追っていたラタは、抱きついていたルネの首から体を起こした。
(神様自身がわからないなんて、そんなのって……)
何を言っているんだろう、と内心首を傾げる。ラタの心が読めるのか、それとも察したのか――セイズはまた底の見えない微笑を湛えた。
「人間とは異なる力を持ち、異なる時の中に生き、異なる流れに抱かれて生まれ出る存在。それを神と呼ぶのならそうなのだろう。この天地にそう呼ばれるべき存在は、既に我々しかいないのだからね。だが、我々がどうやって生まれたのか。そもそもの始まりとされる太陽神ゼーダ様がどのように生まれたのか。その答えはゼーダ様ご自身もお持ちではない。つまりは、我々とて万能ではないということさ」
歌うように、演説を述べるように――セイズはゆっくりと、そして淡々と語る。
「だから神と人は、広義の上では兄弟のようなもの。ゆえに愛でもするし、また嫌いもする。それが自然であり、気ままな我らの姿そのものなのだよ」
「神は飽いた」「神は飽いた」「人の世界に関わることに」「人の期待に応えることに」
巨大になった分、より煩くなったリネとルネが合いの手を入れた。羽ばたきが起こす風から、濃密な潮の香りがする。
「じゃ、じゃあお供えを忘れた船が沈んだとか、そういう話はやっぱり……」
本当だったんだ、と納得しかけたのも束の間、セイズが心外だといわんばかりに眉根を寄せた。
「勘違いは困るね、ラタ殿。我々は飽いただけであって、憎んでいるわけではない。人を嫌うことはあっても、わざわざ力を振るってその命を奪うような真似はしない」
「お供えなんて勝手な習慣」「勝手な決め事」「全ては人間が始めた事」
リネとルネがまた口を揃える。一面の空と海に挟まれていたら、ラタには何が本当で何が嘘なのかわからなくなる。今まで自分が信じていた――少なくともそう聞かされ、強いられてきた――習慣そのものが、無意味だなんて。
「神は自然を操りもするが、彼らの営みを抑え付けはしない。海は嵐と共に船を沈ませもすれば、同時にその豊富な恵みで人々を潤わせることもする。利と不利、親愛と畏怖、両方併せ持ってこその自然だ。人々だけを愛し、自然のありのままを愛さぬというのもまたおかしな話。そうは思わないかい? ラタ殿」
何か、大きな大きなものにくるりと包み込まれていくような感覚に襲われる。それは眼前に広がる空と海であるのか、それとも豊かに輝く島であるのか。ただ、この葡萄の神によって語られる、単純にして広大な真実であるのか。ラタにはまだわからなかった。
「同じ地に生を受けた同胞として、兄弟として――時に手を取り合い、時に転ぶ姿を見守りもしながら過ごす。そんな優しい日々を、私も思いだすことがあるよ。遥か昔、まだ神と人が共にあった頃をね」
それだけを言って、話は締めくくられた。あとはまた冗談めかしたり、飄々とした態度で案内をされただけだった。
わかったのは、この島は小さいようでいて、とても広いのだということ。最初に流れ着いたあの浜から林、そして花園を通り抜けると例の神殿があり、あれはゼーダのための建物。他の神々はまたそれぞれの屋敷に住んでいたり、姿を隠して自身の象徴――例えばセイズであれば葡萄、など――のそばに存在していたり、各々好き勝手にしていること。常夏の島ではいつも果実は食べごろで、花々は年中咲き誇る。飲み水にできる泉や小川、それに清涼な滝まであり、大陸で育つ野菜や南洋米をはじめとする穀物まで豊富に収穫できる。それから魚だって採れ放題。要するに――本物の楽園、である。
「あら、遅いお帰りでしたのね」
ラタに与えられた部屋――どうやら、宮殿の離れであるらしい――に戻ると、サアラがぐずる赤ん坊を抱き、出迎えてくれた。変わらぬ涼やかな微笑みにほっとする前に、そのそばにわらわらと集まる人影に驚いてしまう。
「こ、この人たちもやっぱり……」
「ええ、神ですわ。どうにも退屈で仕方ないらしくって、新しいものには目がない方たちばかりですの」
確かにのどかで平和、揃いも揃って長寿も長寿。そんな神々の島では、娯楽と呼べるものは少ないのかもしれなかった。必然的に宴を好み、何か楽しみを求める。だから誰かが何かを始めるとそばで観察したり、何のかんのと講評したりもする。そういうことの大好きな人々、ならぬ、神々であるようだった。
あちらはマンゴー、こちらは椰子、そしてまた隣は……と順不同な自己紹介が始まるが、頭が痛くなったラタには覚えられなかった。
「さあさ、ティンガのお世話の邪魔になります。皆さん、お引取りになって」
パンパン、と軽く両手を叩いて言い渡すサアラ。それも日常茶飯事なのか、手馴れた仕草である。ぶうぶう文句を垂れながら神々が帰ると、やっと一息つけた。落ち着くより前に、赤ん坊のむずがる声で急かされる。
「はいはい、ファルだよね。ごめんごめん」
既に気分は、服をずらしてお乳を出す母親のよう。もちろん生んだことなどないのだから想像に過ぎないのだが――。
ともかく、もはや恥ずかしさもなく、サアラの前で小さな額に口づけをした。サアラのほうも、あまり気にすることなく取り込んだおむつを渡してくれた。さすがの太陽光で、すぐに乾いてしまうらしい。温かい、気持ちのいい手触りがする。
「それで、ティンガにふさわしいお名前は思い付かれました?」
「うーん……それがまだ。とても興味深いお話は聞かせてもらいましたけど」
困ったように頭を掻く。鳶色の巻き毛を優しい眼差しで見ていたサアラは、昼食を用意すると言って出て行った。壮大に過ぎる話を聞いたからなのか何なのか、あっという間に眠りに吸い込まれてしまう。瞳を閉じたラタの腕枕には、当然のように赤ん坊がいるのだった。
夢の中、同じ鳶色の髪と瞳を持った母親が、ラタをあやしている。幼い、まだよちよちと歩いては転ぶ年頃の自分だ。もちろん、記憶になかったはずの光景――。
輪郭も顔かたちもはっきりしないのに、夢の中のラタは母親だと認識している。あふれる愛情のままに抱きつき、その胸に身を預けている。母の口から聞こえてくるのは、優しい優しい子守唄。耳朶に染み込むような声と言葉をたどろうとしたら、大きな泣き声が夢をかき消してしまった。ティンガが目を覚まし、泣いているのだった。
この島にやってきて、既に何日が経過したのか定かではない。サアラに聞けば教えてもらえるのだが、すぐに忘れてしまう。それぐらいに日々は同じことの繰り返しで、また昼夜も曖昧になっていた。ただ、泣かれればファルを与え、おむつを換え、洗濯をし、また部屋の掃除もする。ともすれば自分の食事すら忘れそうになりながらも、サアラに勧められるから食べる。けれど、それより何より空いた時間は眠っていたいくらいに疲れている。それが、ラタの正直な気持ちだった。
(赤ん坊の世話が、こんなに疲れることだなんて……)
知らなかったとはいえ、甘く見ていた。可愛いと愛玩できるのは、自分に余裕がある間だけなのだった。雑多な仕事を終え、やっと眠りかけた頃に泣き声で起こされ、また、ファルを与えたのにも関わらずぐずられ、理由のわからない泣き方に振り回される。
ただ抱いていてほしいだけなのだと気づけるまで、かなり消耗した。サアラに言わせれば、抱き癖が付いたのだとか何とか。けれども可愛さのあまりに当初やっていたことが裏目に出たのだから、これも自業自得かもしれない。
あまりの眠さと疲労に、赤ん坊を抱っこしたまま長椅子に腰掛け、うつらうつらしたこともあった。こうなると、ファルマも何も放り出して、いっそ逃げてしまおうかとまで思ってしまう。なんで自分と何の関係もない赤ん坊を必死で世話し、育てなければいけないのかと。夜中に、明け方に、泣き喚く赤ん坊の口を塞ぎたくなることもしょっちゅうだった。それでもなんとかファルを与え続けたのは、その瞬間にだけ感じる優しさや温かさを味わいたいだけだったのかもしれない。
世の中の母親という母親を全員尊敬し、自分ではこれ以上無理だと思った。そんな朝、サアラが知らせにやってきたのだった。今日、ラタが島にやってきて一週間目のこの日が、赤ん坊の名付けの儀を行う日なのだということを。
「あら、ティンガ……首が据わってるんじゃありません?」
例によって何枚もたまった使用済みおむつにうんざりしていた時、サアラが言った。
「え、あ――本当だ」
いつものように首の後ろを支えようと入れた手から、赤ん坊の頭が少し浮いている。自分で力を入れている――つまりは、首が据わったのだ。いつのまに、と驚くラタに、サアラが微笑む。
「これで縦抱きもおんぶもできるようになりましたわね。赤ん坊の成長は早いと言いますけれど、ことにティンガの場合は人の何倍もですから、あっという間ですわ」
常と同じ明るい太陽光が差し込む部屋。白い大理石がきらきらと輝き、そこに埃一つないことに気づいた。誰も手伝ってくれないことにひそかに腹を立ててもいたのだが、余裕のないラタに代わっておそらくはサアラがやっておいてくれたのだろう。
(本物の母親なら、誰も代わりはいないんだ)
育児一つをとってもこれほどに大変なのだ。その前に出産の苦しみを味わい、更には料理に洗濯、掃除に赤ん坊と家族の世話――その全てを一人でやる母親たちは、どれほどに辛い思いをしているのだろうか。記憶にないとはいえ、ラタにもいた『母』という存在を唐突に想った。
(僕なんて、たった一年世話をするだけなんだ。しかも、普通の人間に比べてあっという間に成長してしまう)
裏返せば、こうしてファルを与え、胸に抱き、あやしてやれるのは長い人生の内、ほんのわずかな期間でしかないということなのだ。寝不足や疲労に負け、惰性でファルをあげてきたこと、それでもなんとか栄養になってくれていたことに感謝し、申し訳なくさえ思った。ラタの心を知らない赤ん坊は、無邪気に笑いかけてくる。きらきら、きらきら――やわらかい金色の髪が光に映え、眼差しにも同じ色がゆらめいて。
(可愛い……)
改めて、気づいた。純粋に、この子にふさわしい名を――一生を託せる名前をつけてあげたい、と思えた。そして、思い出したのだ。夢の中で聞いた、母の子守唄を――。
「夕刻に宴が開かれます。島に住む全ての神々を集めたその場で、名付けの儀式を執り行うためです。どうかラタ様の思いのままに、素晴らしい名を付けて差し上げてくださいませ」
お辞儀し、去っていくサアラを見送るラタの瞳は、ようやく確かな光を取り戻していた。
そして訪れた夜、ゼーダの神殿で宴は始まった。
山と盛られた美味なる料理の皿に、たわわな果実と豊富な酒。神たちは食物なしにも生きてはいけるが、楽しみのために摂取するのだという。
(確かに――おいしいものは人を笑顔にするからなあ)
人間も神も、その点ではまるで同じということか。神々と人のために、美味という楽しみを別の誰かが与えたみたいにも思えてしまう。
とりとめもないことを考えていたラタは、自分の衣装を見下ろし、表情を引き締める。それはいつも身につけていた腰布ではなく、神々のまとう純白の衣服で、自然と緊張感を与えるものだ。それだけでなく、宴もたけなわという頃にはいよいよ儀式が待っている。そして――そばで眠る赤ん坊に付ける名は、もう決めてあった。
「さて、ファルマのラタよ。そろそろそなたが決めた名を聞こうか」
声をかけたのは、豪華な台座にゆったりと腰かける太陽神、ゼーダ。彼女のまばゆいばかりの黄金の髪は輝きを失わない。あたかも昼間のうちに、光を一手に集めておいたかのように。光と対比する浅黒い肌は逆に夜の色になじみ、余計に嫣然として見えた。
「はい、ゼーダ様……ですが、一つだけお願いがございます」
わずかに震えていた手は、小さな小さな赤ん坊をちらりと見たことで落ち着いた。あの頼りなく、それでいて強い生き物――大切で愛しい神の子を今託されているのは、ほかでもない自分なのだから。
ファルを与える時のように、まだ手馴れぬ仕草で抱く時のように。そうっと、精一杯優しくティンガを見守りながら、ラタは言った。
「名付けを行うにふさわしい場所へ、移動させていただきたいのです」
片方の眉を上げ、わずかな驚きを垣間見せたゼーダはそして、面白そうに頷いたのだった。
全てを照らす金色の太陽。その強い明かりに代わって夜を包むのは、穏やかな月光だった。打ち寄せる波の規則正しい音が、かろうじて耳に届く。この花園はラタが初めて島にやってきた日に通った場所であり、それ以来訪れていない。にも関わらず、夜風にさやさやと揺れ、互いに囁きあうような花々はどれも、ラタを優しく迎えてくれている気がした。
(この花一つ一つにも、神様がいるのかな)
噴水の見えるあずまや。それを取り囲むようにぐるりと存在する多くの神々は、まだ名前も正体も覚えきれていない。だからわからないのだが、どちらであっても見守ってくれていればいい、とラタは思った。
「では、ティンガをこれへ」
厳かにさえ響く、落ち着いたゼーダの声。宴の時とは似ても似つかぬ、まさに最高神らしい威厳ある姿だ。声に応え、揺りかごから赤ん坊を抱き上げたサアラが、まずゼーダに。そしてゼーダの手からラタへと渡された。
無垢な心そのものを表すような純白のおくるみに包まって、まだ眠そうな目をこするティンガ。小さなその手も体全体も、やわらかい月光が照らしている。ラタは決意を固め、深く息を吸い込んだ。
「神の島ティンガタンガに生まれた聖なる赤子、この新たな命に名を」
金の瞳で見つめ、ゼーダが促す。自然と沸き起こった衝動から、頬に優しくファルを与え、ラタは口を開いた。
「神の子ティンガに、ファルマより名を呈します。彼女のこれからの人生が、鮮やかな色で幸せに彩られますように。その名を――ニーナと」
「ニーナ」「ニーナ」「花だ」「はじめの花」「阿呆にしては考えた」「上出来、上出来」
どこに隠れていたのか。花畑から一斉に飛び上がり、騒がしく鳴きだしたのは極楽鳥たちだった。今までぴんと張りつめていた夜の空気が、急激に緩んでいく。
そのけたたましさに悪意がひそんでいなかったことと、神々から拍手と歓声が起こったことにラタはほっとして――そのままへなへなと座り込んでしまった。まだ細い両腕に神の子、ニーナをしっかりと抱きしめながら。
古き時代、まだ人と神が親密であった頃の名残。それがラタの子孫に受け継がれた子守唄であり、語り部によって伝えられた物語であり、神話であった。ほとんどが廃れ、忘れ去られていった中、ひっそりと受け継がれた言葉。ラタが夢の中で聞いたのは、こんな歌だった。
――緑の大地に一滴、光の粒が落ちてきた。太陽の色したその粒は、種になり、芽を出し、はじめの花になった。はじめの花が一つになり、二つになり、ついには一面の花畑が生まれた。花は色、花は光。花は笑顔を運んでくる。だから愛しい子には花の種を、恋しいあの娘に花束を。贈れば幸せふくらむ花になる。はじめの花の、次になる……。
どうしてだかあの時――赤ん坊を、ニーナを心から可愛いと、愛しいと思えた瞬間に思いだしたのだ。この歌に母の想いが込められていたこと、はじめの花が古き言葉で『ニーナ』と呼ばれていたことまでを。
(不思議だ……でも、喜んでもらえて本当によかった)
一番嬉しいのは、自分なのかもしれない。単なるティンガ、赤ん坊。それだけでない、たった一つの名前をあげることができた。その名を呼び、これからも世話をすることができるのも――。
「あーっ、また! 今おむつ換えたばっかりなのに!」
洗濯したての清潔な布をあてたそばから、透明な雫がしたたってくる。可愛い桃のようなお尻からは、あの『蜂蜜』のおまけ付きだ。いくら匂いもなく汚くもないといっても、こう何度も連続してされてはため息も出るというもので。
「ふふ……でもラタ様、顔が笑っておりますよ?」
もう夜も更けて、月明かりの満ちた部屋にはラタとサアラと――ニーナだけ。くすくす笑いながらサアラが部屋を出て行くと、ラタは今度こそ自覚済みで破顔した。
(だって……可愛いんだもん)
水で塗らした布で、お尻を拭いてやる。そうするとくすぐったいのか足を持ち上げ、気持ち良さそうに伸びをする。小さくても五本ずつ揃った手足の指がきゅっと縮んで、ニーナが正真正銘『人間』なのだと感じるのだ。
もちろん神の子であることはわかっているけれど、今はほぼ人に近い。卵から生まれた赤ん坊。それが一歩一歩、一人前の生き物になるために成長している。その息吹を肌で感じながら、ラタは裸のニーナを抱き上げた。
(大きくなるんだぞ、ニーナ)
そう、少しずつ着実に――すくすくと育って、立派な成体に……大人の神に。
「え、大人……?」
待てよ、と今の今まで考えもしなかった一年後を思い描く。いや、一年と言わずあと数ヶ月もすれば、ニーナは自分と似た年頃の少女に育つということで。
「え、えーっと――」
ぽちゃぽちゃと、やわらかい素肌。こういう赤ん坊の姿であるうちはいいとして、その先も自分がこうして服を着替えさせたり、ましてや沐浴させたりなんてことに――?
「いやいやいや……さすがにそれは」
ぶんぶん、と頭を振って、思考を停止させることにした。まだまだ先の話だ。そこまで考えて、何も今から戸惑う必要もないではないか。
そう思う心と裏腹に、なぜか妙な汗をかいてしまう。ラタの複雑な心理状態を知らないニーナは、ファルを求めてぐずりだし――また終わりのない、赤ん坊との戦争が始まったのだった。
二週間後。少しずつではあるが、夜まとめて寝てくれるようになったニーナを相手に、ラタも人間らしい起床時間と生活を取り戻した頃のこと――。
「え、離乳食……?」
最近では縦抱っこでないとぎゃあぎゃあ言うようになってしまったニーナをあやしながら、ラタは頬を引きつらせた。
(ファルとおむつ換えの間隔も開いて、やっと一息付けたっていうのに)
また別の仕事が増えるとは――そんな内心を見透かしたかのように、サアラが苦笑する。彼女が何かなだめようとする前に、開いた窓からバタバタと羽音の来訪が。
「文句あるか」「文句文句」「ゼーダ様に言いつけるぞ」「言いつけるぞ」
声の正体は聞かずともわかる。神の子ティンガ、ニーナの乳母を務めるラタの世話役――のはずの――極楽鳥たち。最初からやる気はなかったが、近頃ではラタを餌にからかうことに飽き足らず、中途半端な監視役のつもりでさえいるらしい。辟易としつつも、この晴天と明るい島の生活では、怒る気もすぐに失せてしまうのだ。
「文句なんて言ってないよ。ただ……神の子にもそんなのが必要なのかって驚いただけで」
ラタの言い分に、サアラが頷いてくれる。補佐役の彼女だけが、目下のところラタの明確なる味方な気がした。もちろん、自由奔放な神の気質がサアラにも息づいているのは確かなのだけれど。
「初めに申し上げた通り、ティンガは人とほぼ変わらぬ成長を追ってゆきます。だから歯も少しずつ生えてきますし、それゆえにものを咀嚼するための練習が必要なわけですわ。といいましても人の子のようにお乳を飲むわけではないので、『離乳』とは呼べませんね」
それに代わる呼び名などを律儀に探してくれようとするサアラに笑って、ラタは手を振った。
「いや、いいです。わかりやすいし、離乳食で。って言っても何がいいのかはさっぱり……薄めのスープとか、お粥とかなのかな?」
「それに関しては、ちょうど適任の者がおりますからお手伝いできると思いますわ。ただ、作るのはラタ様ご自身でないといけない、というのがティンガとファルマとの契約上の――」
「うん、もうわかってます。できる限り、ニーナの面倒は僕が見るんですよね」
皆まで言うな、と微笑んだラタに、サアラが満足げに頷いた。
それから、ラタの離乳食作り――と同時に格闘が始まった。
明るくなるとニーナは目覚める。だから、調理はそれまでに済ましておかないといけない。もちろん食卓も万全に整えて、すぐにあげられるように準備をする。
そしてニーナが起床。おむつ換えに着替え。洗顔や沐浴などを済ませたところでまず、薄めにこしらえたスープを一口。海に囲まれた島であるだけに、新鮮な魚介類で出汁を取ったものならなお良し。もしくは、島の畑で育った野菜をくたくたに煮込んだスープでも可。ただ、南洋米で炊いたお粥は常備しておくこと。甘味にはエル椰子の汁を。しかしお腹を壊さないよう、量は控えめに。
日数が進むごとに口にする食材を増やし、また、素材の切り方や味付けなども徐々に大きく、濃く――本格的な食事に進む前の訓練になるように試みること。大体のものが咀嚼できるようになったら、ひと月(人の年で一歳)を目安に普通の食事を与えていく――。
やることはきっちりと頭に入っている。また、初めは大変だった煮込み加減や下ごしらえ、それに他のお世話との兼ね合いなども都合を付けられるようになった。それなのに……。
「食べてくれないんです……!」
さじを手に奮闘を続けていたラタは、頑固に口を閉じ、全力で食事を拒否するニーナに疲れ果て――ついには食卓に突っ伏してしまった。そばで見ていたサアラはいつもの優しい微笑を浮かべ、同情を含んだ目つきをする。それだけならまだ気も休まるものを、例によって姦しい極楽鳥の二人、もとい二羽組が嬉しそうにはやしたてるのが問題だった。
「負け」「負け」「ラタの負け」「お前の料理が不味いから」
さも楽しげにそばで歌われるのだから敵わない。しかも、すっかりお座りが上手になったニーナが喜んで手を叩くのだ。ラタもこれには参ってしまった。
「ま、ずい――んでしょうか、やっぱり」
半分涙目になりながらむくりと体を起こす。「そんなことありませんわ、おいしいです」とこれまたいつも通りにサアラが励ましてくれるが、今日に限ってはこれも効かなかった。切り方を変えたり、見た目を工夫したり、また食器を色鮮やかなものにしてみたり――はたまた、ラタも一緒になっておいしそうに食べてみる、なんてことまで。できることは全部試し、努力を続けた。なのに、なんとかちょこちょこ食べてくれてはいたニーナが、ここ数日口を開けようともしなくなってしまった。
(一体どうして……何が悪いって言うんだよー!)
鳶色の巻き毛を、更にぐしゃぐしゃと掻き乱して叫びたい気分である。が、どんどん金の髪も伸び、今ではちょこんと小鳥の尻尾のように結べる長さになったニーナは、態度とは逆にますます愛らしくなるばかり。
(怒りたいのに怒れない――)
これこそが現在のラタの、最大の悩みだった。
「あんれまあ。また食べてくれなかったんですかい」
大型の打楽器みたいな低くて太い声が、部屋に流れてきた。振り向いた先に見つけた救世主――であったはずの存在を見とめて、ラタはわっと泣きつく。
「そうなんですよ~ドンポポさん。なんとかしてくださいよ~!」
一種珍妙にも響く名を持つ大柄の男は、台所と食卓の神。ラタの離乳食作りを助けてくれる存在だ。首元や頭に、月桂樹の葉で作られた飾りを付けている。アイマスがかまどの上に月桂樹の葉を飾り、何やらお祈りらしき言葉を呟いていたことがあったことを思い出す。あれは、このドンポポへ捧げられた祈りだったのかもしれない。
「うまいもんは、幸せを呼ぶんです。本当にうまいもんには、作る人の愛がたっぷり入ってますからなあ」
のほほんとした言葉で返すこの神には、どこか人を温かい気持ちにさせる雰囲気があった。図体や野太い声に似合わぬ、糸のように細い瞳が妙に可愛らしい。
(愛情……込めてるつもりなのにな)
しょぼん、とうなだれるラタ。はやしたてるリネとルネ。困った顔で見守るサアラにドンポポ。そして――。
「あっうー。ぱー」
鈴が転がるような笑い声を立てて、お喋り絶好調のニーナ。顔を上げて見ると、散々格闘した後の食卓が更に、ぐちゃぐちゃにひっくりかえっているではないか。
手足の動きも発達してきたニーナが粥の入った椀を裏返し、スープ皿に手をつっこみ、挙句の果てに全部ごちゃ混ぜにしてバンバン叩いている始末。かなり温厚な性格のラタも、これにはカッとなってしまった。
「こらっ! ニーナ!」
ぺちんと手を叩いて怒鳴る。瞬間、黄金色の両目が大きく見開かれ、そこからぶわっと大粒の涙が――。
「あー……ごめん、怒鳴って悪かったよ。ニーナ、ほら、おいで。きれいきれいしよう?」
すっかり身に付いた赤ちゃん言葉で声をかけるも、ぷうっと頬を膨らませたニーナの驚愕と怒りはおさまらなかったようで――思いっきりそっぽを向かれてしまった。
「たった、ばあー、ぶーっ!」
何かわからないが、文句を言っているらしいことだけはわかる。ため息を付いたラタに代わり、サアラが汚れたニーナの体や衣服を綺麗にしてくれた。
「阿呆」「阿呆」「やっぱり阿呆」「ファルマ失格」
「……うるさーいっ!」
こんな風にからかわれることも、ニーナに手こずらされることも、既にラタの日常と化してきているというのに。なぜだか今日はとても空しくて、やりきれなかった。ついに叫んだラタは、さえずるのをやめた極楽鳥と二人の神の目線に耐え切れず、部屋を飛び出してしまったのだった。そう……ニーナを置き去りにして。
空は真っ青で、果てなく高い。海はそれを映す鏡であるかのようだ。
肌を撫でる潮風も波の音も、何もかも平和で、変わることのないティンガタンガの一部。全ては美しく調和の取れた完璧さで、いつもならば癒されるはずの風景だ。なのにささくれ立った今の心には、余計郷愁をかきたてるだけの疎ましいものに思えた。
「帰りたいな……」
そう呟いてから、自問自答する。どこへ? 奴隷の子ラタに戻れば、すぐに売られるだけ。自身の希望とは裏腹に働き続けるだけじゃないか。ただ主が、人か神かであるだけの違いだ。
ふっと苦笑したラタは、立てた膝に顔を埋めた。腕からも体からも、ほの甘いニーナの香りがする。蜂蜜に似た排泄物の、ではなく、乳児独特の優しく懐かしい芳香だ。
くん、と習慣で嗅いでしまった。当のニーナに腹を立てて出てきたはずなのに、この匂いにまた癒されている自分がいる。海が一望できる花畑――ニーナの名付けを行った場所で、花々を見るともなく見回していたラタを呼ぶ声。
「サアラさん――?」
振り返ると同時に、ラタの瞳が大きくなる。予想もしなかった光景を目にしたからだった。
「ラタ様、ご覧下さいませ」
穏やかにそう告げるのはサアラで間違いない。隣にドンポポが、ついでに言えばセイズや極楽鳥がぞろぞろと付いてくることは置いておくとして。
「ニーナ……!?」
たった今まで思い悩んでいた事柄の、張本人。それが、花畑の間に伸びた白い小道にちょこんと座り込んでいる。腕に抱くか、紐で背におぶって散歩したことはあるが、一人で――そばで支える相手なしにニーナがいることは、全く初めての事態だった。
「あ、危ないよ――なんで? ちゃんと見ててあげなきゃ」
あわてて駆け寄ろうとした瞬間、ラタの足が止まった。座っていた体勢から、ニーナが動いたからだ。ぺたり、ぺたり。最初はおっかなびっくり、そしてすぐに調子を得て。ゆっくりゆっくりと、こちらに向かってハイハイしてくるのだ。
「ニーナ……!」
驚愕と歓喜が、じわじわと込み上げる。胸がドキドキして、うまく声が出なかった。
ただ同じ眼差しを求めて周囲を見渡すと、サアラも、他の面々も笑っている。
「おいで……ニーナ!」
永遠のように思えた初めての『歩み』を迎えるラタの両腕は、かすかに震えていた。自分の元へたどり着いた時の、自慢げに輝く瞳。綻ぶ顔。浅黒く、まだ頼りない両手がまっすぐ伸ばされ――、
「たーた」と朗らかにラタを呼んだ。
泣き笑いを浮かべ、くしゃくしゃの顔で愛しさをあらわにしながら、ラタはニーナを抱き上げる。抱きしめ、触れ合わせた頬からは、甘い匂い。はじめの花の、優しい香りが漂っていた。
結局、何が原因だったのかわからないまま、離乳食との格闘は幕を下ろした。時は瞬く間に過ぎ行き、ひと月が――ニーナが人間で言うところの、一歳を迎えたのである。
急がない。期待しすぎない。ニーナなりの歩みを見守ってやる。
いらいらするたびにその三つを胸に刻みつけ、日々を過ごした。そのうちに少しずつできることが増え、気づけばぐんと成長している。そしてついに――ある日突然、離乳食もガツガツ食べ始めるようになったのだ。
「食べたらファルをもらえない、って思ってたのかもしれませんよ?」
今夜予定されている祝賀の宴用にニーナの髪を結いながら、サアラが言った。
「まさか――そんなことまで考えるかな? こんな赤ん坊が」
「まあ、ニーナ様はもう赤ん坊ではありませんわ。人間の数え方でも、一歳からは幼児になるのでは?」
「そりゃ、そうかもしれないけど……」
首を捻るラタの目には、まだまだ赤ん坊の続きにしか見えない。現に、手足だけ少し長く、体つきもほんのちょっとだけ『人間』らしく成長したニーナは、満面の笑みで両手を伸ばしてくる。
「たーた、ふぁー」
これがラタに、ファルをねだる時の言葉だ。乳母の自分をしっかり認識し、欲しいものが片言でも言えるようになったことはめざましい進歩だけれど。
「はいはい、ファルね」
えくぼの浮いた小さな頬に口づける。満足げにニコニコする、白いドレス姿のニーナは、乳母の欲目を差し引いてもさすがに神の子。
(可愛い……!)
日に何度も実感する想いが、またラタを包み込んだ。これが幸せ、というものなのだろうか。まだおむつも取れていないくせに、髪を結われたニーナはちょっと大人になった気でいるらしい。ご満悦で手鏡を覗き込んで、にんまり笑っている。
「おや、少し見ぬ間に赤子が幼児になっておる」
可笑しそうに、完全に客観的感想を述べてくれたのは――。
「ゼーダ様」「太陽神ゼーダ様」「お目見え」「お目見え」
パタパタ天上付近を飛び回る極楽鳥が言う通り、最高神と謳われる美貌の女神、ゼーダだった。麗しい黄金の髪が、艶やかな肢体と美貌を際立てる。
「今日は何かの日だったかえ? 皆勢ぞろいしておるのう」
「ゼーダ様……ニーナの、ティンガの祝賀の宴です」
半分以上呆れながらも、ラタはあくまで恭しく説明した。ここまで奔放にして自由な神ではあっても、あふれる威厳とさすがの神々しさには自然と頭が下がるのだ。
「おお、そうかそうか。それはご苦労。ファルマのラタよ、これからもティンガを――ニーナをよろしく頼むぞ?」
「は、はい――!」
人間で言うならば、母である存在。そちらを慕うのが自然であるはずだが、やはり日々一緒にいるラタのほうにニーナは懐いている。突然のゼーダの来訪にも、きょとんとしているばかりだ。それでもゼーダは微笑み、優しくニーナの頭を撫でた。
「瞳を見ればわかる。良い子に育っておるな」
いつだったか、あまりに我が子へ関心を示さないゼーダに疑問を抱いて、ラタが訊ねたことがあった。自分の産んだ子が本当に気にならないのかどうか――。
が、サアラの返答は、想像できるどんなものとも違っていた。
――神の卵は、直接ゼーダが産むのではない。
さいはての神の島、ティンガタンガ。豊かな海と自然そのものに抱かれて、卵は百年に一度海面から浮上する。それがどこから来て、どこから生まれたものなのかは誰も――ゼーダとて知らぬ謎なのだと。
更に最近知った話では、そのようにして生まれるのは太陽神の子だけで、その他の神々にはあてはまらない。セイズやサアラのような果実の神ならばその木から、台所と食卓の神ドンポポの場合はその場所から――というように、自然に宿るべきところから生まれ出る存在なのだそうだ。つまり、卵として生まれ、人に育てられるのもゼーダの血を引く神の子ティンガのみ、というわけで――既にラタの理解を大きく超えている。
小さなため息は、誰の耳にも入ることはなかった。大広間の、滑りやすい大理石の床をすごい光速で這い進んでいたニーナを除いて、だが。
「たーたっ!」
笑顔の花が咲き、毎度の突進が始まる。這うことに疲れたのか、突如として体を起こしたニーナはそばの椅子につかまり、立ち上がり――そして、一歩を踏み出した。
「あ……歩いた! ニーナが歩いた、歩きましたっ!」
「本当でございますか? まあ、それは更にめでたいこと……」
「歩いた」「歩いた」「祝賀」「祝賀」
「ふむ、見た目だけでなく中味も、それなりに成長はしておるのだな」
「やはり、私の惜しみなき情熱と指導が身を結んだのですねえ、ラタ殿」
「うまいもん、幸せ運んでくる」
口々に色々なことを好き勝手に言う神々と、たった一人の人間ラタ。部外者であったはずの彼こそが、一番喜んでいることは間違いなかった。
「ニーナが歩いた……」
「泣いとる」「泣いとる」「阿呆が泣いとる」「やっぱり阿呆、ファルマは阿呆」
熱いものがみるみるあふれる瞳を一番見られたくない連中に見られ、ラタは頬を染め、顔をしかめた。しかし――再び飛びついてきた彼の大切な宝物に、また泣き笑いになるのだった。
「たーた、ふぁーっ!」
ちょうだい、と全身で求めるニーナに急かされ、ラタは唇を近づけて。幾度となく繰り返されてきた愛の印が、また交わされる。
(神々もこの島も、わからないことばっかりだけど……ま、いっか)
常と同じく思考をそれでまとめて、ラタは微笑んだ。
宴も何もそっちのけの、乳母と主の蜜月はまだ、始まったばかり――。