一話 神の子
昔むかし、そのまた昔……あるところにラタというスジャブ人がおったとさ。
鳶色の短い巻き毛に陶器のような白い肌をした、美しく心優しい少年。そんなラタは、神々のお気に入り。ラタも信心深く、いつも太陽の神殿へ祈りを欠かさなかったという。
ラタが生まれた頃にはまだこの世に海というものがなく、人間はどこへでも歩いて行けたのだそうだ。しかしある時、幾多の神々と人々が些細なことから諍いごとを起こし、太陽の神からきついお叱りを受けた。それはそれは大きな日照りが起こったのだ。作物はとれず、花々も水も枯れた。ラタも人々も必死に祈った。
すると祈りが通じ、天から恵みの雨が降り注いだ。長らく続いた雨により、地上には大きな大きな水溜りができた。大層塩辛く、深い水溜りは更に広がり、神の住む地と人の地とを分けた。それがいつしか海と呼ばれるようになり、人々が神も祈りも忘れゆくと、神々は海の向こうの島へとお隠れになってしまったのだそうだ。それでも神々のお気に入りラタと彼の血を引く者たちだけは、神々の声を聞くことができる力を受け継いだ。さいはての神の島、ティンガタンガへ誘う声を――。
*
世界の果てには、神様の島があるという。そこには飢えも日照りも貧乏もなく、代わりに瑞々しい果物と色鮮やかな花々があふれ、陽気で楽しい神様たちの暮らしが営まれているのだと。
南洋の遥か彼方まで、伝承を信じて漕ぎ出して行った人々は数知れず。しかしその誰一人として、戻ってきた者はいなかった。だからラタも物語かおとぎ話としてしか、神の島を考えたことはなかった。もう十二になったのだし、一人前の男として自分の人生に責任を持つ立場にある。それゆえにいるかいないかもわからない神様に何かを願ったり、祈ったりする必要も感じなかった。
(まったく、無駄なことやってるよなあ)
それは正直な感想だった。ラタの仲間たちが、右往左往する姿を見ての――。いや、そもそも仲間などという単語も使うべきではないのだろう。だって元々自分たちは、奴隷商人たちによって買われ、売られ、あちこちに点々と消えていく運命の集合体。たった一時の儚い関係にしか過ぎない。たとえ自分が、生まれた時からこの船しか知らず、奴隷商人であるアイマスを親方と慕う暮らしをしてきたとしても。
「おい、ラタ。何をぼさっとしてる! 早くエル椰子の実を盛らんか!」
当のアイマスに小突かれ、ラタはあわてて木箱の積んである方角へ走り、合計五つものそれを器用に抱えて戻った。一、三、五。お供えは奇数でと決まっている。一個では申し訳ないし、三個ではケチだと港の漁師たちに笑われる。だからアイマスの船ではいつも五個と決まっていた。数ある椰子の中でも特に大きく甘い汁を持つエルの実や、籠一杯のオリーブ、柑橘系の果実。獲れたての魚や海草、それに月桂樹の枝――等々を港の船着場、決められた場所にしつらえた供え棚に飾りつける。そして地面にひれ伏すように三度、深々と礼をするのだ。
「海と人をお守りくださる神々よ。さいはての神の島、ティンガタンガよ。どうぞ我らにご加護を。航海と商売に、幸運と吉風をお与えくださいませ――」
何度も何度も呟くように言って、祈る。普段は強面でやり手の奴隷商人であるアイマスの、意外な一面である。物心ついた時にはもう彼に引き取られ、手伝いをしながら今日までを共に過ごしたラタにとっては慣れたものだが、他の者は皆そう言って驚いた。
しかし、概して漁師や商人といった、海と密に暮らす者たちは皆、信心深いことが多かった。彼らの祖父母や語り部から繰り返し聞かされてきたという、神話の影響によるものかもしれない。お祈りを忘れた船がたちまち転覆したとか、わざと偶数の供え物をした船が海賊に襲われたとか。小さな話ならまだしも、神の島ティンガタンガを探し、支配下においてやろうなどと考えた歴代の王や彼らの軍勢が、あっという間に大嵐で一網打尽にされてしまったなど――恐ろしい語り伝えも多々あったからだ。
(本当にティンガタンガなんて、あるのかな)
ふう、とため息をつきながらも、ラタも同じようにひれ伏す。心では疑っても決して声には出せない。神様が怖いからではない。アイマスにぶん殴られるからだった。
(でも、親方とも明日でお別れか)
十二になった者は売られていく。それが奴隷のさだめである。五つ、六つの頃から売り飛ばすような闇買人も少なくはないが、一応アイマスは正規の許可証を持った奴隷商だ。せめて彼に拾われただけでも幸運だったのかもしれない。そう思うことにしよう、といつものように思考を締めくくる。決められた手順で供え物を海に流しながら、ラタは小さくため息をもらした。
じりじりと焦げ付くような太陽光が、木造船の甲板に降り注いでいる。中央大陸の中でも一、二を誇る大きな都、ネーブを目指しての船旅だ。ラタを含む数人を、そこで開かれる奴隷市に出すために先を急いでいるのだ。これまで旅してきた大陸東部に比べ、南に位置するネーブは格段と暑い。それは海上の天気だけでも十分予測できることだった。ただ、風があるために、それほどの不快感はないのが救いではあるが。
「ラタよ、ちょっと来いや」
アイマスに呼ばれ、ラタは顔を上げた。勇壮にはためく帆を見やりながら、掃除用具を出したところだった。いいから、というように手招きされて付いていく。船室で出されたのは、新しい腰布と上等の葡萄酒だった。
「でも親方……僕まだ」
「ああ? 飲酒年齢じゃねえってか? なーに無粋なこと抜かしてやがる。十五も十二も同じだ。男が単身生きてくって日にゃあな、年なんて関係ねえんだよ。ほれ、ぐいっと飲みねえ」
「ど、どうも……」
最後まで言う前にドボドボと注がれた杯に、ためらいつつ口をつける。アイマスがゲンコツを振り上げる真似をしたので、あわててぐいっと飲み干した。喉から体全体がかあっと熱くなり、ふらふらと眩暈がした。
「お前は脱走しようともせず、いつも黙々とよく働いてくれた。こんなあこぎな商売はしちゃあいても、このアイマス、人を見る目だけはあると自負している。お前は大物になる。間違いねえ。だからみなしごのお前を一目見た時、『ラタ』って名付けたんだからな。おお! よく似合ってるじゃねえか」
促され、履き替えた腰布は洗い立てで、お日様の匂いがする清潔なものだった。
「奴隷を使おうってんだから、まあどこかの金持ちがお前を買うことになるだろう。でもなあ、ラタ。近頃じゃあ昔ほどひどい扱いはされなくなった。貴人にあるまじき振る舞いは、流行りじゃないんだとよ」
最後の言葉は小馬鹿にするような口調で言い、アイマスはつとラタを見上げた。
座ったままの彼の隣に、腰掛けるように手招きをされる。近寄ると、真剣な顔で囁かれた。
「けどよラタ、お前結構可愛らしい顔してっから、気いつけんだぞ? 神々のお気に入りじゃなく、他の誰かのそれになんねえようにな」
「神々の……って、いつも親方が言ってるあの昔話?」
「おうよ。俺のばあさまが村の語り部から聞いた話だ。お前は顔も女みてえに整ってるし、鳶色の短い巻き毛もスジャブの生まれなこともそれにそっくりだったからな」
「ふうん。でも、気をつけるって何を?」
「そりゃあほら、あっちの趣味の奴らに決まってらーな」
目配せに意味深な微笑。それでもまだよくわかっていないラタに、アイマスは答えを耳打ちした。たちまち、ラタが目を剥いて渋面を作る。そういえば、と船乗りたちにそれらしい誘いをかけられたことを思い出した。あの時はアイマスが睨みを利かせて追っ払ってくれたのだが。
(そうか……この船には親方が選んだ人間しか乗せられないから、気づかなかった)
あまり考えなかった――というよりも、日の出から日の入りまで働きづめの生活で、考える余裕がなかった――事柄までも、これからは自分で気をつけていかなくてはいけないのだ。つくづく、アイマスに育てられた恩を感じた。小柄でまだ未成熟な自分の体をかばうような仕草をするラタを、太い声がガハハと笑う。
「まあ、それは冗談としてもだ。とにかく真面目に頑張ってりゃあ、解放奴隷になれる可能性だってある。しっかりな、ラタ。明日じゃ忙しくて言えねえだろうから、今言っておく」
頑張れよ――優しい眼差しで、アイマスは言った。大きくて分厚い掌が、ラタの鳶色の巻き毛を撫でる。記憶にもない父親というのは、こんな感じだっただろうか、などと思ったら涙が出そうになった。そしてこれが、アイマスと交わした最後の会話になった。
翌朝、まだ日が昇るか昇らないかという時刻のことだった。売られる日の奴隷は、遅くまで寝ていてもいい。そんな慣わしを忘れ、つい今まで通り一番先に飛び起きたラタは、不吉な雷鳴を聞いた。もうすぐネーブの港が見えてくるはずが、見渡すとあたり一面はまだ海に囲まれている。暗い海面はどこまでも続き、どんよりとした曇り空が広がる。
稲妻が何度か閃き、甲板に出たラタの頭には、もう雨の一滴が落ちてきた。始まってしまうと後は早い。まさにあっという間に激しい雨が叩きつけ、船は揺れ始めた。
皆を起こしに行こうと船室へ向かう。が、そのラタを横殴りの雨と風が襲った。すぐに先も見えないぐらいの嵐になる。
(おかしい。いくら何でもこんな急に……)
いつもと違う天気に、妙な恐れを抱いた。それでもなんとか起き上がり、アイマスの元へ急ごうとした――その瞬間だった。
遠い海上、遥か沖合いの方角。水平線の彼方が、ぽっかりと丸く光っているのだ。
「何だ、あれ……」
混ざり合う波と波の合間、水平線に沿ってプカプカと浮遊するような青白い光の半円。そこだけが、周囲の不吉な嵐の色から切り離されたかのように明るい。
(あそこに、行かなければ)
唐突にそう思った。なぜだろう。どうしてなのかはわからないのに、何か大きな手に引き寄せられるように強く、呼ばれている気がした。
「な、何考えてるんだ。それより船だ、船!」
薄茶色の両目をぱちぱち瞬くと、ラタは視線をそこから引き剥がした。いや、引き剥がそうとしたのだ。
が、抵抗空しく、杭でつながれたかのように足が動かない。顔が、体全体が――全力でその光に吸い寄せられてしまっている。生きた柱となったラタの呪縛は、強い突風で一瞬解けた。代わりに足元をすくわれ、倒れる。ちょうどそこに襲ってきた大波が手摺を越えて潜入し、抗う間もなく流された。凄まじい海水の勢いに飲み込まれ、叫ぶこともできず、ラタは暗い海へと沈んでいった。
くすくす、くすくす――。
誰かが笑っている。何事かを楽しげに囁きあいながら、遠目に見守っている。そんな気配があった。さざめき、押し寄せては遠のいていく波のような、はたまた風のような音たちは、ラタが瞼を開いた瞬間に消えうせた。
そこは砂浜だった。細かい白砂のさらさらした感触が、ラタの肌に触れている。アイマスにもらったばかりの腰布が無残に濡れ、半分乾いた状態となって張り付いていた。
(ここは……?)
重い意識の中、自分が海に投げ出されたことを思い出した。いきなりの大嵐。海水に落ちた瞬間、もう死んだと思った。はずだったのに――?
瞬きを何度か繰り返し、わかったのは、うつ伏せに倒れていたらしいこと。そして今がもう昼間であるらしいことと、どうやら周囲には他の人間はいないらしいこと、の三つだった。
(おかしいな。誰かの声を聞いた気がしたんだけど)
ゆっくりと体を起こし、砂浜に座り込んだ状態で周囲を見渡してみる。既に日は高く、ラタの後方には濃い緑の木々や白い砂浜が、向かい側には凪いだ海が一面に広がっていた。まるで嵐などなかったかのような澄んだ空には、雲一つない。
「島、かな……?」
おそらく、ネーブ近くの島々のどこかにでも流れ着いたのだろう。にしては――どうにも海の色が透き通りすぎている気がするけれど。
(こんな綺麗な海……初めてだ)
今までアイマスに付いて行き来してきた東西部や北部の海は、どちらかといえば濃紺。海底までの距離を示す、深い色をしているのが特徴だ。けれど今ラタが見ている色は、それとは似ても似つかぬ薄い青。透明度の高い、限りなく澄んだ遠浅の海――。
どれほど見ていても、船も人も形すらないことに不可解な思いと恐れを抱きながらも、いつまでも呆けているわけにはいかなかった。それに長時間倒れていたからなのか、ひどく喉が渇いたし空腹も感じた。とりあえず島なら島で、誰か人がいないか、食料や水がないか探すことが先決だろうと立ち上がった、その瞬間だった。
ころん、と何かが足元に転がり落ちた感覚があった。ふと見下ろすと、大きなしずく型をした物体が半分砂に埋もれた格好で止まっている。
「何だこれ……石?」
黒っぽい色をしたそれを拾い上げようと、片手で触れた。途端――ぱあっとそこから閃光が生まれた。思わず手を引き、目を瞑る。もう一度目を開けた時にはまばゆいばかりだった光はおさまっていて、同じ場所には――極彩色の、大きな卵があった。
まるで両手の数だけ絵の具をいっぺんにぶちまけたような、目のちかちかする色合い。縞模様のある、大きな卵だ。彩色してあるのかと拾い上げてみたら、ふわっと――今度は優しい光で――内側から輝いたではないか。
ラタの口は開きっぱなしである。半ば呆然としながら、ああ、そうか、夢を見ているのだ、自分は――と無意識に頷いた。けれど、そうっと両手で抱いた卵には重みもあり、人肌に心地のよい温もりまで伝わってくる。
(夢――じゃない……?)
考え直しかけた、その時。
「うわあっ!」
今度こそ叫んだ。挙句、取り落としそうになった。が、なんとか両手の上でソレを支えた。ぽっかりと真ん中から二つに割れた、奇妙な卵と――、
「あ、赤ん坊……!?」
見たことのない卵から生まれたのは、小さな小さな赤ん坊だった。いや、生まれたと表現していいのかわからないにしろ、出現したことは確かだった。小さいけれど、動物ではなく、人の赤ん坊にそっくりの生き物。それだけでも十分混乱状態のラタを、更なる驚愕が襲う。
「わっ、わっ、わわっ!」
おたおたしながら必死で受け止めたのは、突然両手に余る程度だった卵よりも大きくなってしまった赤ん坊。似ている、というあやふやな印象は今度こそ確信に変わる。それはまさに、人間の赤ん坊でしかなかった。大きさも見た目も全て――。
おぎゃあ、おぎゃあ、と泣く裸の赤ん坊はどうやら女の子で、ラタとは異なり、浅黒い肌に、太陽のような黄金色の髪を持っていた。ふわふわの毛は赤ん坊らしく量も少なく、ただ日差しを受けてきらめく。目を閉じ、ひたすらに泣いている赤ん坊を目の前に、ラタは叫んだ。
「何だ、何なんだっ!? こ、これ……どうすれば」
当然ながら、赤ん坊を抱くのは初めて。しかも、一体どういうわけでこんな状態に陥ってしまったのかもわからない。そんな状況下でも、ほにゃほにゃやわらかい赤ん坊を砂浜に落とすわけにもいかない。だから、なんとか両腕で抱いた。
くすくす、くすくす――。
(まただ!)
笑い声は確かに聞こえてきた。夢かと思って忘れかけていた例の楽しげな囁きも、風に混じって届いてくる。すぐ後ろで誰かが笑っているようにも聞こえるところがおかしなものだが、混乱したラタにはその辺りの判断はできなかった。
「生まれたぞ」「生まれた」「やれめでたい」「それめでたい」
そんな複数の声まで聞こえたから、ラタはぱっと振り向いた。もちろん赤ん坊を抱いたままだからさして大きな動きはできないのだが、精一杯の速さで。しかし、誰もいない。あいかわらず、しいんと静かな砂浜にはラタ一人きり。
「な……何なんだよっ! 誰かいるんだろ? この子……どうしたらいいんだよ!」
そうだ、誰かを探すのだ。思いついた事柄を実行に移すべく、砂を勢いよく踏んで歩く。皮のサンダルは荒波で脱げてしまったのかなくなっていたが、裸足でも平気なくらいやわらかく、不思議と冷たい砂だった。
そうして遠浅の浜から緑の木々が揺れる林まで歩いた時、いきなり視界は開けた。
「わあ……!」
満開の花畑。よく見る赤や白の華やかな海洋花だけではなく、まさに色とりどりの。黄色に紫、青に水色などという変わった色彩の、見たこともない形をした花々が太陽の下、一斉に咲き誇っている。ラタが少女であったなら歓声を上げて摘んでいただろう花の大群は、なぜだか一本の小道の部分だけには侵入していなかった。
白砂の、整備されたような細い道を進むうちに、いつしか赤ん坊が泣き止んだことに気づく。見下ろすと、すうすうと穏やかな寝息を立てていた。ほっとしつつ先を行くと、突き当たりにあずまやと噴水。くすくす、くすくす――笑い声は、その辺りから聞こえているようだった。
「だっ、誰か……いるんです、か?」
声が小さくなったのは、あまりに美しい光景が空恐ろしくなったからだった。それに、この手の中にいる赤ん坊は、確かに卵から生まれたのだ。自分の頭がおかしくなったのか、そうでなければ海に落ちて死んでしまった自分が死後の国へ来てしまった、なんていう可能性も――。
「来たよ来たよ」「ラタの子孫が来たよ」「我らの愛し子が」「守り育てる者が」
重なり合う声は、童女のものに思えた。誰だか知らないが、今度こそ姿を見てやる――そう意気込んで振り返ったラタが見たのは、何羽もの鳥だった。
大きな黄色の嘴に、先ほどの卵と似た極彩色の全身。同じ色の羽で全身を覆われたものもあれば、一枚一枚に違う色を持つものまで。十羽ほどの鳥たちが、一斉に翼を動かし、空中に浮遊していたのだった。幻聴かと思うも、開かれた嘴の奥からまた声が聞こえた。
「ティンガは神殿に」「ティンガは神殿に」「太陽神様がお待ちかね」
「ティンガ……? 太陽神……? あっ、ちょっと待って!」
姦しく言い残した鳥たちは、再び羽ばたき、前方に飛んでいく。もしかして案内してくれているのだろうか、と追いかける。
花畑とあずまや、噴水を通り越し、いつしか道は広々とした石畳に変わった。大きな都で見るような作りだ。もしかしたらここは島ではなく、ネーブのどこかかもしれないとも思ったが、やはり何かおかしかった。
海風が吹き込む石畳の通りは、両脇にオリーブやマンゴーの木々が揺れている。エル椰子の実が鈴なりになった木まであって、ラタの頭に一つの文章が浮かんだ。
(さいはての島……色鮮やかな花々に、瑞々しい果物……まさか)
そんなはずは、と否定しながらも、鳥を追う。
たどり着いた先で、荘厳な門が開く。門番も誰もいないのにゆっくりと、ラタを迎えるように。青い空と海に映える白亜の御殿が、なだらかな丘の上にそびえ立っていた。腕の中で眠る赤ん坊と御殿とを見比べ、ごくりと喉を鳴らしながら、ラタはゆっくりと丘を登っていった。
「おお、来たか来たか……待っていたぞ、我らがファルマよ。よう来た」
御殿、というより宮殿を思わせる広い建物。全てが荘厳で美しく、立派な円柱が多用された造りである。誰もいない入り口から大広間らしき場所へ入ったラタは、足を止めた。中央にあつらえられた天蓋付きの豪華な寝台から、声が聞こえたからだった。
確かに人間の声だ。何かよくわからない単語が聞こえたけれど、そんなことに構っている場合ではない。
「ああよかった……人がいた! あの、すみませんがこの赤ん坊を……」
言いかけたラタは、垂れ下がる薄布を片手で開き、寝台から滑り出る人影を見た。それはラタが今までに見たこともないほどの、美しい女性だった。
「太陽神様」「太陽神ゼーダ様」「お目覚め」「お目覚め」
いつの間にやってきたのか先ほどの鳥たちが、立ち上がった彼女にまとわりつくように飛び交う。足先まで流れる金の滝のような髪。しっとりと潤いを感じさせる浅黒い肌。完璧な彫刻を思わせる美貌。純白の布を巻きつけたような長衣も、その出で立ちも、何もかもラタの知る人々とは違っている。
「おおこれこれ、よしよし」などと親しげに鳥たちの頭を撫で、細めた瞳の色――太陽の光を集めたような黄金色の、不思議な色彩である――が、優しくラタを映した。
「そなたが今度のファルマか。うむ……その名にふさわしい、愛らしい少年であることよ。今までの中で、一番『ラタ』に似ておるの」
懐かしや――そう、噛み締めるように呟く女性は、ラタの腕にいる赤ん坊に目をやった。一、二度、満足げに頷く。
「孵ったのだね。このゼーダの血を受け継ぐ、愛らしい赤ん坊じゃ。しっかり守り、育てておくれ、ファルマのラタよ」
流れるような仕草で頭に手を置かれて初めて、ラタは自分が呆然と見惚れてしまっていたことに気づいた。見惚れる、というよりも、魂を抜かれるかのような圧倒的美貌と存在感だ。こんな存在の前で平気でおれる人間がいるわけが――人間?
「あ、あのちょっと待って……太陽神、とかって今……それに、ファルマって? この赤ん坊は何なんです?」
困惑のまま、置いていかれでもしたら余計に困ると、勇気を振り絞って呼び止めた。頭に触れられた瞬間、とても優しい気持ちがしたことも、妙な懐かしさが全身を包んだことも、とりあえずは後回しだ。
「阿呆」「阿呆」「歴代で一番飲み込みが悪い」「こいつは阿呆」
鳥たちが一斉に鳴き、わめく。喋るだけでも不思議なのに、言葉は明瞭で、しかも毒舌ときている。驚愕と困惑に眉を寄せるラタを見て、女性が笑ってたしなめた。
「これこれ、仮にもファルマに向かって何という口の利きよう。神の使いが聞いて呆れるぞ?」
「神の……使い?」
ぼんやりと繰り返したラタに、彼女は頷く。揺らめく金の水面のような双眸が、微笑みの形に和らいだ。
「ここは神々の住まう島、ティンガタンガ。我は太陽神、ゼーダと呼ばれる者。そしてこやつらは神の使い、極楽鳥どもよ。お喋りが好きで煩すぎるのがたまに傷ではあるが、根はよい奴らじゃ」
「ティンガ、タンガ――」
そんな馬鹿な。そう思う自分と相対しながらも、どこかで渦巻いていた問いと答えがかちあう。美しい島、美しい自然、そして美しい神……ならばこの赤ん坊は。
「そなたは、百年に一度生まれる神の子に選ばれし者、ファルマの役割を負っている。それはラタの血を引き、力を受け継ぐ存在である限り、いにしえからの約束事じゃ。どうか、そこに生まれし神の子ティンガを可愛がり、立派な神に育てておくれ。ファルマ――慈しみ深き乳母よ」
「う……乳母……乳母っ!?」
絶句したラタの腕の中でむずがりだした赤ん坊が、うんぎゃ、と大きく泣いた。
「起きろ」「起きろ」「阿呆」「阿呆」
両耳に、けたたましい声がなだれ込んだ。目を開けたラタは、自分が大きな御殿――本当は神殿であったのだが――の一室、大きく海側に向かって開いた窓辺の長椅子でうたた寝していたことを知った。そしてすぐに、ぱっと起き上がった。見慣れない人影が二つ、自分を見つめている。
「きっ、君たちは誰っ? あ、あの赤ん坊は――」
はっと辺りを見回して、自分のすぐそば、籐で編んだ揺りかごに気づく。中にはやわらかそうな布が敷かれ、純白のおくるみに包まった赤ん坊が眠っている。無意識に、ほうと息を吐いた。
(よかった……無事だ。って、なんで僕がそんなこと気にしなきゃいけないんだ)
ラタの思考を読んだかのように声を立てて笑ったのは、目の前にいた双子の少女の片割れだった。
「目覚めてすぐにティンガの安否を気遣うとは、一応ファルマらしい行動。合格、合格」
「ぎりぎり合格、ぎりぎり合格」
高い鈴の音にも似た、少女たちの声。先に喋ったのは薄紅色の髪を二つに結わえたほうで、次に頷いたのは薄緑色の髪を後ろで一つに縛ったほうだ。どちらもが浅黒い肌に、髪と同じ瞳の色をしている。派手な極彩色の、太い糸で織り上げた上下別の衣服。短い上衣、短い下衣。ちょうど真ん中におへそが覗いている。
自分と似た年頃に見える少女たちの無防備な格好につい目を逸らしかけ、布のあちらこちらで揺れる鳥の羽根に気づいた。色鮮やかなそれは、確かに先ほど目にした――。
「きっ、君たち……まさか」
「今頃気づいたか。鈍感、鈍感」
「阿呆、阿呆」
二人揃ってあきれたように言い放つ。どこか一本調子な声音は、やはりあの鳥たちのものと同じだった。
(そ、そんな――鳥が人間になるなんて)
驚くラタだが、鳥が喋る時点でおかしいのだし、そもそもこの島では奇妙なことばかり起こっている。
「まあ……リネにルネ。まがりなりにもお世話役を仰せつかった者たちがそれでは、ファルマがお困りですよ?」
静かな声が割って入る。入り口の薄布を片手で分け、歩いてくるのも、浅黒い肌の美女。こちらは二十代半ばほどに見えるが、しっとりと長い黒髪と落ち着いた仕草で、穏やかな印象だ。優美な肢体に、そのまま純白の布地を巻きつけたような服を着ている。
「だってサアラ、阿呆は阿呆だもの」
「そうそう。仕方ない、仕方ない」
何でも二回ずつ言うのが彼女――鳥、が変化した姿とは未だに信じ難いが――たちの癖らしかった。きゃあきゃあと楽しげな笑い声を上げ、二人で頷きあっている。
「ごめんなさいね、ファルマ。本当は優しくていい子たちなのですけれど、久しぶりのお客様に興奮してしまっているんですの」
「は、はあ……」
頬に片手を当て、困ったように微笑む女性――サアラに、ラタも曖昧に笑い返した。内心、やっと話の通じそうな人が来た、とほっとした思いだったのだ。
「わたくしはオリーブの女神、サアラと呼ばれております。歴代のファルマの補佐役を務めておりますので、どうぞよろしくお願いを……」
「め、女神? 人間じゃ……」
「まあ。この島には人間はおりませんわ。たった一人、ファルマであるあなた様を除いては誰も。だって神々の島、ティンガタンガですもの」
にっこり。無邪気な微笑で言い切られてしまうと、沈黙するしかなくなった。自らを太陽神だと名乗る美しい女性。喋る鳥。不可思議な嵐。全ては一つの答えにつながっていく。先ほどゼーダ本人に肯定され、説明された結論に。
何が何やらわからぬまに奥の部屋へ通され、待たされる間に眠ってしまった。極度の疲労のせいだったのだろう。それで余計頭はぼんやりして、夢の中にまだいる気分だった。が――、
(ティンガ、タンガ――そんな……本当に?)
実在するはずなどないと信じていたさいはての島。まさか自分がそんなところに流れ着いただなんて、一体誰が信じよう。
「流れ着いたのではありませんわ。卵が――ティンガが呼び寄せられたのです」
「えっ……ええっ!? で、でも、僕はネーブに向かっていたはずで……そんな南洋の果てとは距離が違いすぎて……」
「あら、距離など問題にはなりません。同じ海ならば、ティンガにとって引き寄せることなど造作もありませんわ。だって――」
「だ、だって?」
「だって神の子ですもの」
にっこり。あくまでも穏やかに、淑やかに。当然のように言われてしまっては、ぐうの音も出ない。
大口を開けて固まっているラタは、どうぞ、と長椅子に腰かけることを勧められる。おずおず座ったラタとサアラの周りを、リネとルネが騒がしく駆け回った。
「リネ、ルネ、静かになさいな。どうやら今度のファルマは本当に何もご存知ではないようです。しっかりご説明してさしあげなければ」
「阿呆、阿呆」「やっぱり阿呆」
「これ! いいかげんになさい!」
叱られてもしゅんとするどころか、リネとルネは一瞬で鳥に変化してしまった。バタバタと開け放たれた窓から外へ。逃げたのだろうか。とかく、自由奔放な鳥たちらしい。
(やっぱり……鳥だったんだ。そして、神の使い)
目の前で見せられて、信じないわけにはいかなくなる。何やらとてつもなく大きな、偉大な事象に、自分が巻き込まれ始めていることをようやく感じていた。小さく咳払いをしたサアラが、そんなラタに向き直る。
「ティンガタンガ――それは神々に残された、最後の楽園。ティンガは神の子を、タンガは翼を……古き言葉で、そうやって名付けられた島です」
ティンガという言葉は、百年に一度生まれる神の子だけでなく、その子の宿った卵自体をも指すのだという。生まれた卵、ティンガは既に自分のファルマ――乳母がどこにいるかを知っている。だから、自然とその人間が近くにやってくるように仕向け、呼び寄せるのだ。そしてファルマと出会えた卵は、母なる島で孵化する――。
サアラの話す言葉は全て、どこか絵空事のようだった。それなのに、すうっと心に染み入ってくるのは、サアラの声のせいだろうか。優しく、じんわりとした温かさを相手に与える語り方。それはまるで、親が子に語り聞かせる物語にも似ている。
記憶の奥底に深く沈んだ光景を垣間見たような――説明の付かない懐かしさが、なぜだかあふれてくる。
(ど、どうして……両親のことなんて、覚えてもないのに)
一瞬頷いてしまいそうになるのを意思の力で否定し、ラタは首を振った。
「そんな話……すぐには信じられません」
「まあ。でも現にあなたはこうしてティンガタンガにいる。そしてもう、神の子ティンガをその腕に抱いたではありませんか」
「で、でも――」
唇を噛んだ瞬間、小さな――それでいて、しっかりと存在感を主張する泣き声が響き渡った。ほぎゃあ、ほぎゃあと、自分を呼ぶ声が。
「ほら、ティンガが泣いています。抱いてさしあげてくださいな」
優しく促すサアラ。泣き続ける赤ん坊。静かな部屋にそよぐ潮風の香りと、遠い波の音。そのどれもが自分の日常とは違いすぎて、現実感がなくなる。親方にどやされ、荷を運び、市を駆けずり回り、船の掃除をする――そんな奴隷の子、ラタとしての日々が遠ざかる。
(親方……そうだ、船は? きっとみんな、心配している)
思うのに、なぜか胸の奥底から強烈な欲求があふれ、自分自身を圧倒した。
――呼んでる。
(なんで僕が乳母なんか)
――あの子には、僕が必要なんだ。
(嫌だ、そんな訳のわからない役目)
――それでも、僕にしかできないことだ。
(でも……!)
内面で二つに分かれ、葛藤を繰り返すラタ。なのに、気づけば揺りかごのすぐそばまで歩み寄っていた。そうっと、おそるおそる覗き込んだ先には、小さな手足をじたばたさせながら、真っ赤な顔で泣いている赤ん坊がいた。
(僕は……)
――ファルマ。
それは例えて言えば、体中を流れる血潮に刻み込まれたような概念だった。命令にも似た強い記憶。脈々と、いにしえの時より受け継がれし役割。心が拒否するよりも前に、体が――腕が、素直に動いていた。泣きわめく赤ん坊を抱き上げ、愛しむように胸元に引き寄せる。刹那、ぴたりと泣き声が止まった。見下ろすと、天使のような満面の笑みが――。
(可愛い……!)
堰を切るようにあふれた思いは、ラタ本人にも止められないものだった。さっき最初に抱いた時には何も感じなかったのに、どうしてなのか。とてつもなく愛しい宝物に、ようやくめぐり合えた気さえした。
「ティンガとの契約が成立したようですわ。よかった……!」
「契約……?」
ええ、とサアラが嬉しそうに続ける。
「一に、ファルマの心が開かれていること。二に、ティンガが聖なる太陽神殿の内にあり、心からファルマを求めていること。それが、ティンガとファルマとの契約成立条件です。そして契約が整えば、両者は片時も離れることなく、共にあることを定められる。いいえ――定められずともそうせずにはおれぬほどの、愛情があふれてくるはずですわ。ともかく、これでこの一年、この子が立派な神として成体になるまでの日々を、乳母として誠心誠意お世話いただくことが決まったわけです」
「お世話って……一年って、そんなこと、勝手に――」
あまりの展開に、抗議しかけたラタの声が中途半端に止まる。腕の中でご機嫌にしていた赤ん坊がぐずりだしたのだ。えぐえぐ、と今にも泣き出しそうに唇と額をゆがめている。
「あああ、大丈夫だよ~よしよし」
「ほら、やっぱり」
あわてて抱き直し、機嫌を取るように笑った。ラタのそんな態度に、サアラは満足げである。愕然としながら、ラタは赤面した。
(な、なんで……?)
自分でも無意識のうちに、赤ん坊が泣くのは嫌だと感じる。何としてでも笑わせてあげたい。健やかで、幸せであってほしい――そんな願いが胸に満ちていく。
(これが、ファルマの血だっていうのか……!?)
嘘だ。嫌だ。なんで――思うのと裏腹に、ほっとしたように静かになった赤ん坊を抱きながら、嬉しくなるのだ。
「百年の間にまた一段と人々に忘れ去られてしまったようで心配しましたけれど、どうやら大丈夫そうですわね」
背後で呟くサアラの言葉も、言われていることも、全て耳を素通りしていく。ラタの瞳は、赤ん坊のぱっちりとした二重眼に釘付けだった。
太陽を溶かしたような黄金色。まだ短い髪とは対照的なほど、はっきり色合いのわかる瞳。それは人が持ちえぬ色彩。まさに、あのゼーダと同じものだった。
(太陽神の子……本当だったんだ!)
「神と人はいつも共にあり、互いの心に寄り添っている。それゆえに、生まれ出でた時より一年は、神も人と同じ歩みをたどるものなり――」
「え?」
「今はこんな話を後世に伝える語り部たちも少なくなったのでしょうか? あなたの場合は両親を早くに亡くしたようだから、余計に伝わらなかったのですね。つまりは神の子、ティンガの育つ様子を指して言っている言葉なのです」
「人と同じ……えっと、人間みたいに育つってこと?」
ラタの遠慮がちな問いかけを、サアラが笑みで肯定する。熟したオリーブを思わせる濡れた黒い髪が、潮風に優しくなびいた。
「ですから、生まれ出でるのは卵からであっても、人の子と同じように泣き、食し、排泄し、眠る、ということですわね」
「は、排泄――」
「といっても神の子ですから、汚いものではないのですよ? ただ形として、という意味です。それからティンガの食するものはファル。それを与えられる『母』という意味がそのままファルマの語源です。もう少し大きくなれば人と同じ食物を摂取し、段階は多少飛び越してはいても、同じように成長してゆきます」
「段階を、って……成長が早いってことなのかな」
「ええ。一年で成体――そのティンガにとって、最も良いと思われる状態まで年を重ねるとそこで止まりますが。それまで、人で言うところの一歳程度をひと月で、一年で十二歳分の成長をすることになりますね。そこから成体になる時、どれほどの年齢に見える姿になるかはそのティンガによって違います」
色々一気に説明されて、ラタは両目をぱちくりさせる。腕には赤ん坊を抱いたままで、その反応に目を奪われながらの話だから、余計に飲み込みにくかった。
「えーっと……でも神様って不死の命を持っているって。成体、とかいうのになったら、あとは永遠に生きているってことなのかな」
「厳密に申し上げれば不死、ではありませんけれど、まあ人と比べるとかなり長生きすることだけは確かですわね」
「それって、その……サアラさんもってこと?」
「あら、神と言えども女性。年を訊ねるのはご法度ですわよ、ファルマ」
うふふ、とごまかすように笑われて、困惑する。
「あ、あの、その『ファルマ』って呼び名は――」
「お嫌いですか? ならば、ラタ様で」
いつのまにか名前まで知られているし、よく考えればさらっとラタの身の上まで言ってのけた。この状況で信じないほうが無理なのかもしれない。それでも心の中であがいていたラタに、サアラはあっさりと付け加えた。
「親方のアイマス様や船のことをご心配しておいでなら、無事ですわ。あなたのことをお教えするわけにはいきませんけれど……夢枕で無事を知らせる程度のことならば、ゼーダ様も許可されますでしょう。僭越ではありますが、奴隷として売られることを思えば、神の島でこの子のお世話をするほうがよっぽど有意義な過ごし方ではございませんか?」
放心状態。というか、いきなり人生の荒波から夢の花園へ放り込まれたような混乱。それなりの覚悟を決め、これから男として立派に生きていくのだと信じて疑わなかった自分に、神様の『乳母』をしろというのだ。喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、それとも怒るべきなのかもわからない。何もわからない中、また赤ん坊がぐずり出した。
「今度こそお腹がすいたのかもしれませんわ。ラタ様、さ、ファルを差し上げてくださいませ」
「え、ファルって」
何、と訊ねるまでもなく、ふわ、とやわらかいものがラタの頬に触れた。呆然とするラタから離れたサアラは、悪びれることもなく微笑む。
「今のがファルです。あくまでわたくしがやってみせたのは形にしか過ぎませんが、ファルマがティンガに対して行えば、そこにファルマしか込められない無限の愛情が加わります。それが神の子を育てる唯一の栄養、ファルとなるのです。人間の赤子が飲む、お乳のようなものですわね」
淡々と言ってのけたサアラの、瑞々しい果実のような唇。それが頬に触れたやわらかさの正体なのだとようやく気づいたラタは、顔を真っ赤にした。
「すけべ」「すけべ」「ファルマはすけべ」「役目失格」「お役目御免」
いつのまに舞い戻ってきたのか、極彩色の鳥たちが部屋の上で飛び交っている。
「まあ、リネにルネ。それにターサにベーサまで。純情な人の子をからかってはいけませんよ? えっと、何でしたかしら。そうそう、ファル。本当は唇と唇で行うのが一番なのですが、ラタ様がやりやすい場所で大丈夫です。頬や額、鼻の頭……どこでもいいので、深い愛情を込めて口づけをしてさしあげて下さいませ。さ、お早く」
「くっ、口づけ……」
「すけべ」「すけべ」「やっぱりすけべ」「ファルマはすけべ」
鳥から人間の、少女の姿になった神の使いたちが、ラタの周りをぐるぐる回っている。踊りながら、はやしたてては笑い合う。けたたましいことこの上ない状況である。
赤ん坊はどんどん不機嫌になり、泣き喚く。もはや、やけくそだった。
「や、やればいいんだろう! やれば! 口づけぐらいなんだよっ」
しかも赤ん坊にだ。そんなこと、言われなくたってやってやる。
真っ赤になって、よもや初めての口づけというものを神の子相手にしようとは思いもよらなかったにしろ――ラタは勢いのまま、赤ん坊の頬に唇を押し付けた。腹立ちまぎれにやったつもりが、触れた瞬間押し寄せるような愛しさが込み上げてくる。
(可愛い……!)
間近で見るぱちくりした両の眼。ちょこんとした鼻。小さい口。やわらかい頬。すべすべした浅黒い肌に唇を付けながら、ラタは自分自身からあふれる感情をそのまま注ぎ込むように、優しく抱きしめた。
それが大昔から義務付けられた役目のせいだとか、もうそんなことはどうでもよかった。ただただ腕の中にいる赤ん坊が愛しくて、この小さな存在を守ってやりたくて、そのためなら何だってしていいとまで思えてくる。
そして長く思えた一瞬が過ぎた時、唇を離したラタの耳に、盛大な拍手の音が聞こえてきた。
「おめでとう!」「いやーめでたい!」「俺にも」「あたしにも」
「祝福させて!」と重なり合った幾つもの声の持ち主は、なんと姦しい鳥たちではなかった。様々な色の髪に瞳を持つ背格好もばらばらな人物たちが、口々に祝いの言葉を言いながら拍手しているのだった。
「なっ、何なんですかこの人たちはっ」
「あら、ラタ様ったら。先ほども申し上げた通り、ここには『人』っ子一人いませんわ」
「ってことはみんな……」
「神だ」「神」「神様全員集合だ」「祝宴だ」「祝宴」「酒、酒!」
極楽鳥たちが甲高く囀りあう。その周りで、人――もとい、神様たちが踊りだす。あるいは歌い出す。それはそれは賑やかな光景。にも関わらず、念願の『ファル』をもらったからか、小さい口でふにゃふにゃ何事かを満足げに唸っていた赤ん坊は、また眠たげに目をこすっている。瞳の色も若干濃く、何よりも黄金の髪が、先ほどよりわずかに伸びている気がした。
(成長……本当に?)
自分の、たった一回の口づけがそんな力を持つんだろうか。奴隷の子の自分が――本来ならば、どこの誰とも知らぬ金持ち相手に売られ、働かされていたはずの自分がこうして誰かの役に立てるのならば。
(やってみても――いいのかな)
ラタの心に、ほわんと暖かな火が灯った。それはアイマスに頭を撫でられる時にも、記憶のない母や父を想う時にも似た、安らかな火だった。
「やってもいいと……思っておくれかい? ファルマのラタよ」
声は、太陽神ゼーダのものだった。顔を上げたラタと腕の中の赤ん坊を、慈悲深い眼差しで見つめている。幾多の神々が、鳥が、サアラが――皆、自分に注目している。
注目は鍵となり、ラタの心の扉を開く。血潮に刻まれた欲求を呼び起こす。水瓶にたまった水があふれ、流れ落ちるかのように。心に芽生えた想いに引っ張られ、いつしかラタはするりと頷いていた。高まっていた緊張が、急激に凪いでいく。自覚してしまえば、何ということはない。確かにラタの天秤は、大きく一方向に傾いていたのだ。気持ちを固め、声にする。
「はい……こんな僕で、いいのなら」
にっこりと、満足そうにゼーダは笑みを浮かべる。鳥も神も誰も彼もが、一気に歓声を上げた。
「祝杯だ」「祝杯」「ティンガとファルマの約束事が果たされた」「祝い酒」「酒だ」
もう誰が喋っているのかもわからないくらいに騒がしい。自分の決断がこれほどに喜ばれたことなど、今までにないことで――。ラタは赤ん坊を抱き、もじもじしながらゼーダを見上げた。
「ん? 何か聞きたいことでもおありかい? このゼーダが何でも答えてやろう」
上機嫌に訊ねられ、それならばと口を開く。思い浮かんだ単純な疑問の答えが知りたかったのだ。
「あの……恐れながら、太陽神様」
「ゼーダで結構」
「で、では――ゼーダ様」
「うん?」
「神の子ティンガをファルマが育てる。それは……ええと、一応理解はしました。まだ信じ難い気分は抜けないけど、でも……」
「でも?」とサアラも小首を傾げる。神々までも何やら楽しげに見守っている。
勇気を振り絞って、ラタは続けた。
「どうしてゼーダ様がご自身でお育てにならないのですか? ご自分でお産みになった卵が――ティンガが、愛しくはないのでしょうか?」
問いを終えた瞬間、部屋の中が水を打ったように静まり返った。ゼーダの、なだらかな弧を描く眉がぴくりと上がる。
(ぼ、僕……何か変なこと言ったかな)
失態、という単語が思い浮かぶ頃。何事もなかったかのような微笑を見せ、ゼーダは堂々と答えた。
「そんなもの……面倒だからに決まっておろう?」
「――は?」
つい、率直な反応をしてしまった。それでもゼーダは余裕の表情を崩すことはない。磨き上げられた大理石の床にまで流れ落ちる金の髪を、鬱陶しそうにはらう。
「神といえば、やれ慈愛だ慈悲だ全ての者の聖母だ何だ……人間というものは、大きな思い違いをしておる。神とは本来、自由にして奔放なる者。愛を与えもすれば、容赦なく奪いもするものなのだ。要するに――子を育てる、などという七面倒くさい所業は、この太陽神ゼーダの好むものではない」
「そうそう。神ってのは、楽しく遊んで暮らすものなんだよ」
「うんうん。長い命、楽しまなきゃ損だよねー」
「自由」「自由」「奔放」「奔放」
あちらこちらで神の誰かが同意し、鳥たちは声を揃える。サアラでさえも、その独特の泰然とした微笑みを湛え、頷いている始末――。
(僕……とんでもないところに来てしまったのかもしれない)
さいはての神の島、ティンガタンガ。人に許されぬ奇跡の地に呼び寄せられ、神の子を育てる乳母になった。それが自身の運命をも大きく変えることになるなんて――まだこの時のラタには、予期すらできぬことだった。
青い青い空と海は、今日もティンガタンガの平和を見守っている。