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距離の正体

作者: 矢野井るか
掲載日:2026/07/23

お読みいただければ幸いです。

第一章 崩壊


仕事を終えてアパートへ帰る。玄関を開けた瞬間、妙な違和感があった。


誰かがいるわけでも、物音がするわけでもない。それなのに、自分の部屋じゃないような感じがした。


嫌な予感を抱えたまま廊下を進み、リビングの扉を開いた瞬間、足が止まった。


引き出しが全部開いていた。

棚の上の物は床へ散らばり、クローゼットの扉も半開きになっている。

誰かが部屋中をひっくり返したような有様だった。


空き巣。

真っ先にそう思った。


慌てて通帳を探した。

カードも探した。

保険証も探した。

どれも無かった。


玄関の鍵は壊されていない。

窓も無傷だった。


警察を呼び、現場を見てもらったが状況は妙だった。侵入経路が分からない。争った形跡もない。結局、被害届だけ受理されて終わった。


その日の夜、美保が帰宅した。


「え、なにこれ……」


部屋を見るなり驚いた顔をした。それは自然な反応に見えた。少なくとも、その時の俺には。


警察が来たこと。通帳やカードが無くなったこと。状況を説明すると、美保は何度も頷きながら話を聞いていた。


「気味悪いね」


そう言ったあと、黙り込んだ。何か考えているようだった。だが結局、何も言わなかった。


その頃の美保はまだ普通だった。感情の波は激しかったが、それは昔からだった。急に落ち込んだり、突然泣き出したりすることもあったが、数時間後には何事もなかったように笑う。


少し不器用で、少し繊細な人。俺はそう思っていた。


ある朝、美保が会社へ欠勤の電話をかけていた。布団に座ったまま受話器を持ち、妙に甘えた声を出している。


「はいぃ……朝から体調悪くてぇ……すみませんですぅ〜……」


独特な話し方だった。電話を切ったあと、俺が思わず笑うと、美保も照れくさそうに笑った。


「癖なんだよねぇ」


美保には、妙な癖があった。嬉しいことがあると、必ず同じことを言う。


「ねえ、聞いて聞いて」


そう言って、俺の腕を引っ張る。話の内容はいつも大したことじゃない。近所の猫が窓辺で寝ていたとか、コンビニの新作パンが美味しかったとか。それでも美保は、まるで世界の秘密を教えるみたいな顔で話した。


聞き終わると、俺はいつも同じことを言う。


「それだけかよ」


「それだけだよ」


美保は笑う。心底楽しそうに。


その笑い方が、俺は好きだった。


逆に、落ち込むときの美保は静かだった。ある夜、何がきっかけだったのかも覚えていない。夕飯の途中、急に箸を止めて、俯いてしまった。


「どうした」


聞いても、しばらく返事がなかった。


「……なんでもない」


その「なんでもない」には、いろんな種類があるのだと、そのうち分かるようになった。


本当に何でもないときと、言葉にできないほど何かがあるとき。


見分け方は、目の動きだった。本当に何でもないときは、目がこっちを見る。何かあるときは、テーブルの木目をじっと見ている。


その夜の美保は、木目を見ていた。


俺は何も聞かずに、湯呑みにお茶を注ぎ足した。


しばらくして、美保がぽつりと言った。


「明日になったら、たぶん平気」


本当に、翌朝には平気だった。普通に起きて、普通に「おはよ」と言って、普通に焦げたトーストを食卓に出した。


そういう人だった。波はあっても、朝が来れば戻ってくる。俺はそれを、当たり前だと思っていた。


「これくらいが美味しいんだよ」


そう言いながら、焦げかけた食パンを皿へ乗せる。


その時は平和だった。少なくとも俺はそう思っていた。


春が終わる頃には、カードなどの再発行や各種手続きで疲れ果てていた。それでも被害は一度きり。もう終わったと思いたかった。


だが、終わらなかった。


朝、玄関を開けると真正面の電線にカラスが二羽止まっていた。

こっちを見ている気がする、じゃなくて、はっきり見ている。

目が合っている感じがある。


「昨日も同じ場所にいた気がする」


最初はそれくらいだった。

気のせいで片づく範囲だと思っていた。


次の日も同じ場所。

カラスは三羽になっていた。


増え方が妙だった。

ランダムじゃなくて、毎朝きっちり一羽ずつ増えていく。


毎朝、玄関を出るたびにいる。

しかも、必ず俺の方を向いている。


通りに出て、角を曲がるまで全羽、視線がずっと背中に残る。

振り返ると、ほんの一瞬も動かないで見ている。


「……気持ち悪りぃなぁ……」


声に出すと、カラスが強く鳴いた。

返事みたいなタイミングだった。


それでも日常は続く。続けるしかない。



第二章 冤罪


いつもと同じ朝、満員電車に押し込まれて、いつもの時間に乗る。


座席の前に立っていたとき、体が少し揺れた。その瞬間、横の女性が急に声を上げる。


「触られました」


一瞬、何の話か分からなかった。


「え?」


「今、この人に」


指が向いているのは俺だった。


「いや、今のはぶつかっただけで——」


言いかけたところで、後ろにいた中年男が言った。


「見てましたよ、この人が手を伸ばすの」


車両の端に、同じ会社の名札をつけた男が二人、こちらを見ていた。同じ路線を使う、顔を知っている程度の同僚だった。


「ち、違うだろ……」


自分の声が弱く出た。周りの視線が固まっていく。次の駅で、女性と一緒に降ろされた。


角を曲がるまで、同僚たちの視線がずっと背中に残っていた気がした。振り返ると、ホームに立ったまま、こちらを見ている二人と目が合った。


駅員室に連れて行かれ、事情を説明した。女性は泣きながら同じ主張を繰り返し、駅員は淡々と書類に記入していく。最終的に、駆けつけた警察官に任意同行を求められ、その日は交番で数時間、調書を取られた。示談の話も出たが、俺は応じなかった。認めていないものに金を払う気にはなれなかった。


数日後、上司に呼ばれた。


会議室はやけに静かだった。


「例の件、聞いたよ」上司は書類から目を上げずに言った。「あの車両にうちの社員が乗り合わせてたみたいでな。もう噂になってる」


「まだ何も証明されていません。あれは冤罪なんです!」


「わかってる。わかってるが」上司は言葉を濁した。「人事とも相談したんだが、事実関係がはっきりするまで、しばらく自宅待機扱いにさせてもらえるか。給与は出す。処分じゃない、あくまで一時的な措置だ」


それ以上、何を言っても無駄だということが、上司の目を見ればわかった。


会議室を出ると、廊下ですれ違う同僚たちの視線が微妙に逸れる。誰も何も言わない。それが逆に、すべてを物語っていた。


頭の中で、何かが静かに切れる音がした。


一週間後、検察からの呼び出しで、もう一度警察署に出向くことになった。同じ質問を、同じ順番で、何度も繰り返される。


「あの時、電車が揺れましたか」

「その前後の記憶は」

「なぜ、その場で強く否定しなかったんですか」


「否定しました。何度も。それでも、誰も信じなかった」


結局、証拠不十分のまま、しばらく在宅のまま様子を見ることになった、とだけ告げられた。何かが決着したわけではなかった。ただ、宙ぶらりんのまま放り出された感覚だけが残った。


待機はそのまま長引き、ひと月が過ぎた頃、辞表を渡した。会社を出ると、もう空はとっくに暗くなっていた。


駅までの道を歩く足が、いやに重い。靴の裏が、アスファルトに貼りつくような感覚がある。


改札を抜けて、ホームに立つ。行き交う人々の顔を、なぜか正面から見られない。誰もが自分を見ているような、誰も自分を見ていないような、その両方の感覚が同時にあって、気持ち悪かった。


電車は空いていた。座席の隅に腰を下ろすと、体の力がどっと抜けていく。窓に映る自分の顔は、思っていたより老けて見えた。


窓の外を流れる灯りを、ただぼんやり眺める。何かを考えようとしても、頭の芯がしびれたようになっていて、まとまらない。ただ「なぜ」という言葉だけが、意味もなく何度も浮かんでは消えた。


最寄り駅に着き、改札を出る。商店街はもうシャッターが下りていて、人通りもない。自分の足音だけが、やけにはっきりと聞こえた。


夕方、アパートに着くと向かいの屋根にカラスがいた。俺を待っていたかのように。



そして翌週、雨の夜。事故はその延長みたいに起きた。


横断歩道の前、車のライトが滲んで見える。雨で視界が悪い。


車は止まらなかった。


慌てて避ける。足が滑る。

車には接触しなかったが、避けたとき足元が滑って体ごと電柱に激突してしまった。


とっさに運転席を見る。

顔はよく見えない。

ワイパーの動きと光だけが残る。

そのまま車は行ってしまう。


「今の……」


声は雨に混ざって消える。俺は膝をついたまま動けなかった。雨が体温を奪っていく。脇から背中にかけて強く押されるような圧迫を感じたまま、意識が消えた。


意識を取り戻した俺は、病室の天井のシミを見ながら考えていた。部屋のこと、カラスのこと、地下鉄のこと、会社のこと、事故のことが一つにまとまらない。


どう考えてもおかしい。狙われている……。


誰かに、ではない。もっと曖昧な、大きな何かに。



第三章 老婆


退院後、兄の部屋に来ていた。俺は何が起きているのか、自分でも分からなくなっていた。


部屋が荒らされた。

痴漢の冤罪をかけられた。

仕事を辞めることになった。

事故にも遭った。


それぞれ別なら、不運で済む。

だが短期間に重なりすぎていた。


そして、美保。


夜中にいなくなる。

突然怒る。

何時間も部屋の隅を見ている。

理由を聞いても答えない。答えても要領を得ない。


兄は台所でお湯を沸かし、湯呑みに茶を入れてテーブルへ置いた。


「飲め」と一言。


俺は黙って湯呑みを握った。熱かった。


しばらく二人とも何も話さなかった。テレビもついていない。暖房の音だけが聞こえていた。


やがて兄が口を開いた。


「彼女、まだあんな感じか」

「ああ」

「病院は?」

「行こうって言った」

「で?」

「怒った」


兄は小さくため息をつき、それから俺の顔を見た。


「お前、痩せたな」


そう言われて初めて、自分がここ一か月まともに食べていないことに気付いた。


「そんなことないべ」


そう返したが、兄は笑わなかった。


窓から流れる雲を見ていた。


兄は煙草を一本取り出し、ベランダへ出て行った。戻ってきても、しばらく何も言わない。


何か言いたそうなのに、言わない。何度かそんな空気が続いたあと、ようやく兄が言った。


「なあ」


「ん?」


「さすがに多くないか」


兄は指を折りながら数え始める。


「空き巣みたいなのがあって」

「ああ」

「痴漢騒ぎがあって」

「……」

「仕事辞めるハメになって」

「……」

「事故もあったんだろ」

「で、毎日カラスに監視されてるって?」


俺は黙った。

兄も黙った。



「たまたま不運が続いたんだろ」


そう言うと、兄は少し困ったような顔をした。


「俺もそう思いたいんだけどな。変だろ。何かが、おかしいよ」


窓の外では雪が降っていた。細かい雪が、街灯の光に照らされて斜めに流れている。


兄はしばらく窓の方を見ていた。


「変な話していいか」


「嫌な予感しかしないな」


少しだけ笑ったが、その笑いも長くは続かなかった。


兄は真顔のまま続けた。


「この近くに寺あるだろ」


「ああ」


「そこの住職が、そういうの見れるらしい」


思わず吹き出した。


「なんだそれ」


「俺も知らん」


「兄貴、そういうの信じるタイプだったか」


「いや」

兄は即答した。


そこが逆に気になった。信じている人間の話ではなかったからだ。


兄は湯呑みを手に取った。


「ただな」


一度言葉を切る。


「俺がお前の立場なら、一回くらい行くかもしれん」


その言い方は妙に現実的だった。

霊がどうとか、呪いがどうとか、そんな話ではない。

病院へ行って異常がないと言われた人間が、最後に別の可能性を探すような言い方だった。


俺は湯呑みの中を見た。

茶柱の欠片みたいなものが浮いている。


「馬鹿らしいな」


「だな」


兄は頷いた。

「でもお前、今もっと馬鹿らしい状況だろ」


返す言葉がなかった。暖房の風が静かに流れ、窓の外では雪が降り続いていた。


俺は湯呑みを置いた。

「場所、教えてくれ」


兄は何も言わなかった。

ただ、小さく頷いた。



寺は兄のマンションから少し離れた、古い場所にあった。


坂を上って門をくぐると、境内には誰もいなかった。静かだった。風は吹いていたはずだが、なぜか音があまりしなかった。


玄関の前で少し待っていると、中から小柄な老婆が出てきた。丸い顔をした人だった。年齢は分からない。七十代か八十代くらいに見えた。


「昨日電話した者です」


老婆は返事をしなかった。

まず俺の顔を見た。

それから肩の辺りを見た。

また顔を見た。


しばらく黙ったあと、


「まあ……」


とだけ言った。

正直、その時点で少し帰りたくなった。


本堂へ通された。

線香の匂いがした。古い建物の匂いも混ざっていた。


向かいに座る。

俺は最近起きていたことを説明しようとした。部屋が荒らされたこと、痴漢の冤罪のこと、事故のこと。


話し始めようとすると、


「いいです」


と言われた。


「え?」

「言わなくていいです」

「でも……」

「分かっていますから」


そう言って黙った。何が分かっているのかは聞かなかった。聞きづらかった。


老婆は引き出しから和紙を出し、机の上へ置いた。


「この和紙にあなたの名前を書いてください」


俺は言われた通り、和紙に自分の名前を書いた。


老婆は立ててあった一本のロウソクに火をつけた。

そして、読経が始まった瞬間から、俺の中でこの人は「老婆」ではなく「住職」になった。


和紙を炎へ近づける。

端が少しずつ茶色くなっていく。

焦げる匂いがした。

そして和紙全体を下からゆっくりと炙りながら、唱え続けた。


俺は何をしているんだろうと思いながら見ていた。


しばらくすると住職が唱えるのをやめた。

和紙を裏返す。

そして俺の前へ置いた。


「見てください」


顔……。


そう見えた。

偶然できた模様には見えなかった。

鼻が異様に尖っている。

人間の顔なのに、人間じゃない感じがした。

髪の部分は細い線が何本も重なっていた。

蛇みたいだと思った。


しばらく見ていた。

住職は何も言わなかった。

俺も何も言わなかった。


どのくらい見ていただろう。


そのうち、


「あれ」


と思った。


どこかで見た顔だった。

誰だろう。そう考えていて、急に思い当たった。


「……似てる」

「誰にですか」

「今、一緒に住んでる彼女に」


言った瞬間、自分でも嫌な気分になった。

似ていると言っても、そのままじゃない。

でも、何となく似ていた。

説明はできない。ただ似ていた。


住職は黙っていた。

否定もしなかった。


しばらくして、


「その人を連れてきなさい」


と言った。


「どういう意味ですか」

「連れてきなさい」


それだけだった。

何度聞いても、それ以上は話さなかった。


寺を出た頃には暗くなっていた。坂を下りながら、何度もあの紙の顔を思い出した。


鼻の尖った顔。蛇みたいな髪。考えれば考えるほど、美保に似ている気がした。


もちろん気のせいかもしれない。そう思おうとした。



第四章 離脱


寺を出たあとも、俺はしばらく運転できなかった。

エンジンをかけたまま、駐車場でハンドルを握っていた。


あの顔が、頭から離れなかった。

住職の言葉が頭から離れなかった。


「一度、その女性を連れて来てください」


理由を聞いてみたが、はっきりとは教えてもらえなかった。


「本人を見ないと分かりません」


そう言われただけだった。


帰り道も、何度も考えた。美保に何と言えばいいのか。正直に話したところで信じるとは思えなかった。むしろ怒るかもしれない。宗教じみた話を嫌う人だったからだ。


結局、その日は何も言わなかった。


数日後の夜だった。

テレビを見ながら夕飯を食べている時、美保が急に言った。


「最近、元気ないよね」


驚いた。そう見えていたのかと思った。


「まあな」

「事故のこと?」

「それもある」

「仕事も?」

「まあ」


美保はしばらく黙った。

それから、


「まだ痴漢のこと気にしてる?」


と言った。


胸の奥が少しだけ重くなった。気にしていないわけがない。会社を辞める原因になった出来事だから。だが、説明するのも面倒だった。


「忘れようとしてる」


そう答えると、美保は小さく頷いた。


その夜、寺の話をした。全部ではない。住職が妙なことを言った部分は省いた。


「最近嫌なことが続いてるから、お祓いをしてもらおうかと思って。一人だと不安だから一緒に行ってほしいんだ」


その程度にした。


すると美保は意外にも反対しなかった。

「へえ」と言っただけだった。むしろ拍子抜けするほど興味がなさそうだった。


ところが、寺へ行く日が近づくにつれて様子が変わり始めた。


最初は些細なことだった。

前日に日時を確認すると、


「本当に行くの?」


と聞いてきた。

当日になると、


「やっぱり行かなきゃだめ?」


と言った。

理由を聞いても、「なんとなく」としか答えない。

体調が悪いわけでもない。機嫌が悪いわけでもない。

ただ嫌がっている。そんな感じだった。


寺へ向かう車の中でも、美保はほとんど喋らなかった。ラジオだけが流れ、窓の外では雪が降っていた。


信号待ちのたびに、美保は落ち着かない様子で指をいじっていた。

貧乏ゆすりまではいかない。だが明らかに緊張していた。


「大丈夫か?」


そう聞くと、


「帰りたい」


と呟いた。

冗談だと思った。笑って流そうとした。だが、美保は笑わなかった。


「なんか嫌な感じする」


そう言って窓の外を見たまま黙り込んだ。


寺に着くと、その様子はさらにおかしくなった。


車から降りようとしない。シートベルトを外したまま固まっている。


「行こう」

「やっぱり待ってる」

「すぐ終わるから」

「……」


美保は視線を膝に落としたまま、シートベルトの布を指先で強く握りしめていた。


「一緒に来て」

「嫌」


本気で嫌がっていた。


今思えば、あの時点で帰ればよかったのかもしれない。ただ、その時の俺は住職の言葉の方が気になっていたし、ここまで来て帰る理由もなかった。


半ば無理やり、美保を連れて本堂へ向かった。


住職が出てきた。口元は笑っている。でも、目だけは笑っていない。そのガラス玉のような目が、俺を通り越して、まっすぐに美保を捉えていた。


「……どうぞ、中へ」


美保の体が、石みたいに硬くなった。


本堂へ入ると、住職は俺たちを見て少し黙った。そのあと、「こちらへ」と言って席へ案内した。


美保は終始落ち着かなかった。

何度も足を組み替える。手を握ったり開いたりする。

額にはうっすら汗が浮いていた。


住職が読経を始めた。


すると美保の様子が変わった。

小刻みに震え始めた。

寒い時の震え方に似ていた。


最初は緊張しているだけだと思った。

だが震えは少しずつ大きくなった。

椅子が微かに揺れるくらいだった。


「大丈夫か?」


返事はなかった。

ただ俯いたまま呼吸だけが荒くなっていた。

住職は経を続けている。


俺は美保の手を握った。

驚くほど冷たかった。


どれくらい経ったのか分からない。

三十分だったかもしれないし、一時間だったかもしれない。


終わった頃には、美保はぐったりしていた。

疲れ切った人みたいに背もたれへ体を預けている。


住職は何も言わなかった。

俺も聞かなかった。


帰り道、美保は一言も話さず、車の窓の外を見ていた。何を考えていたのかは分からない。


その後の数日は静かだった。

夜中に出かけることもなくなった。

突然怒り出すこともなかった。

久しぶりに落ち着いた時間が流れていた。


正直、少し安心していた。


だから、その夜のことは今でもよく覚えている。


夕食を食べていた。話の内容は覚えていない。本当にどうでもいいことだったと思う。


ただ、美保の表情だけは覚えている。

急に無表情になった。

スイッチが切れたみたいだった。


バチンッ、と箸をテーブルに叩きつける音。


美保が立ち上がり、無言でキッチンへ向かう。

引き出しを力まかせに開ける、金属の音。


振り返った美保の手に、包丁が握られていた。


「ど、どうした。美保」


美保の目は、どこも見ていなかった。

俺を見ていない。部屋の景色も見ていない。完全にピントの合わない目のまま、包丁を握りしめ、玄関へと向かっていく。


「ちょっと待てって。どこに行くんだよ!」


俺は必死に彼女の体に組み付いた。

狭い玄関先で、激しい揉み合いになる。


次の瞬間、俺は信じられない力で吹き飛ばされた。


背中が壁に叩きつけられると同時に、左腕が、カッと熱くなった。


床に、赤い染みが広がっていた。


美保はそのまま、ドアを開けて夜の中へ出ていった。


俺は左腕を押さえたまま、玄関の前に立ち尽くした。

指のあいだから血が溢れて、床を染めていく。


腕に熱さが伝わってくる。美保という存在がいなくなった部屋が、恐ろしいほど広くなったみたいだった。


美保は気づいていなかった。

いや、見えていなかったのだと思う。

俺の姿も、俺の腕から流れる血も。


その夜、美保がアパートに戻ることはなかった。


夜間救急に行き、傷を縫われ、止血の処置だけ受けて帰された。

左腕には白い包帯が巻かれ、少し動かすだけで鈍い痛みが走った。


翌日、すがるような思いで寺へ向かった。


住職は俺の包帯姿を見るなり、険しく目を細めた。


「あの女から、今すぐ離れなさい」


「美保は……あいつは、どうなっちゃったんですか。教えてください」


住職は首を振った。


「知らない方がいい。あなたのためです」


「そんな……教えてもらわないと、俺には何も——」


住職は静かに、しかしはっきりと言った。


「魔物です」


「……魔物?」


思わず聞き返していた。


「魔物、というのは……つまり」


「言葉の通りです」


「美保が……魔物に、憑かれているということですか」


住職はまた黙った。否定はしなかった。


俺はしばらく何も言えなかった。信じていいのか、分からなかった。ただ、否定する言葉も出てこなかった。


あの一年間のことが、頭の中を流れた。

部屋が荒らされた。冤罪をかけられた。仕事を失った。事故に遭った。カラスに監視された。そして美保は、包丁を持って夜の中へ消えた。


どれ一つ、まともな説明がつかなかった。


住職が、静かに続けた。


「魔物は寒さを好みます。この土地にいる限り、あいつはまたあなたに近づいてくる。冷気を避けなさい。暖かい土地へ、なるべく遠くへ行きなさい」


「あいつは……美保、なんですか。それとも、美保に憑いている何かなんですか」


住職は少し黙った。


「あの人はもう、器でしかありません」


「器……」


「魔物は、誰か一人に棲み着くものではないのです。」


「あなたが誰かを、深く想うたびに」



住職はそこで言葉を切った。


「それだけは、覚えておきなさい」


俺は頭の中で、その言葉を繰り返していた。

(遠くへ、離れる……)


住職は少し視線を落とし、目を閉じるようにして答えた。


「あいつが、追えないくらい遠くへ」


その言葉が、胸の奥に沈んだ。


寺を出ると、外はもう暗くなっていた。

車を出す気になれず、しばらくシートに沈み込んでいた。

「魔物」という言葉だけが、頭の中で繰り返されていた。


魔物。


声に出してみると、余計に現実感がなかった。

だが笑い飛ばせる気分でもなかった。


住職の言葉が気がかりでアパートに戻る気にはなれず、近くのカプセルホテルへ泊まったが、その夜はほとんど眠れなかった。天井を見ながら、ただ考え続けた。


魔物なんているわけがない。

でも、じゃあ、あの一年間は何だったんだ。

美保は何だったんだ。


答えは出なかった。


翌日も、結論は出なかった。ぼんやりと過ごしながら、ただあの住職の言葉が頭の中で繰り返された。


暖かい土地へ。なるべく遠くへ。


二日目の夜、ようやく一つだけ分かったことがあった。


ここにいるべきではない。


なら、どこへ行くか。

暖かい土地。札幌から遠い場所。

頭の中に、一つの街が浮かんだ。


名古屋……。

前にフェスで行ったことがある街。

札幌から遠く離れた、大きな街だ。

仕事もあるだろう。何より、札幌よりずっと暖かい。


信じているのか、と聞かれたら、分からなかった。

ただ、他に行く理由も、残る理由も、もうなかった。


寺を出てから二日後、アパートに戻った。

美保は留守だった。


俺は引き出しを開け、着替えだけをボストンバッグに詰め込んだ。余計なものは何もいらなかった。すぐに部屋を飛び出し、二度と、振り返らなかった。


その夜、兄のマンションに転がり込んだ。


カーテンは、昼も夜も閉めたままにした。

電気もつけなかった。


兄は何も聞かなかった。

メシだけ黙って用意してくれた。

食ったかどうかも聞かず、空になった皿だけを静かに片づけていった。


名古屋行きの飛行機の便を決めた。

数日後だった。


その数日間が、やたらと長かった。


外の音が、やけに耳に入ってくる。

車の音。風の音。廊下を行き交う住人の声。

そのたびに、体が固まった。


あいつは、追ってくるのか。

いや、兄の場所なんて分かるわけがない。

でも——。


頭の中で、同じ問いが繰り返された。


搭乗前夜のことだった。


部屋の外から、声が聞こえた。

カーテン越しに耳を澄ます。

駐車場の方からだった。

アイドリングしたまま停まっている車を、誰かが注意しているようだった。


停めていた側が、謝っている。


その声に、耳が止まった。


「あ、はい、すぐ移動しますぅ、すみませんですぅ……」


語尾を引きずるような、あの言い回し。


冷えた。頭より先に、理解した。


あいつだ。


カーテンの隙間から、息を殺して外を見た。

暗くて、よく見えない。

駐車場に一台、エンジンをかけたまま停まっている車があった。


その車の真上の電線に、カラスが一羽止まっていた。


暗くて、黒くて、ほとんど見えなかった。

でも分かった。

こっちを見ていた。


やがて車がゆっくりと動き出した。

駐車場を出て、夜の道へ消えていく。


カラスも動いた。

電線から音もなく飛び立って、その車の後を追うように暗闇へと飛び立った。


俺はそのまま、壁に背中をつけて床に座り込んだ。

静まり返った暗い部屋の中で、自分の心臓の音だけが、やけにうるさく鳴り響いていた。


翌朝、まだ夜が明ける前。


兄に頼んで、外を確認してもらった。


「誰もいない」


その言葉を合図に、帽子を深く被り、マスクをし、マンションを出た。何度も、何度も、周囲を振り返った。


大丈夫だ。誰もいない。大丈夫だ。


自分に言い聞かせ続けた。


空はまだ暗く、札幌の冷たい朝の空気が、鋭く頬を刺した。


空港近くの漫画喫茶に入り、搭乗時間まで時間を潰した。

薄暗い個室の中で、ただ膝を抱えてじっとしていた。開いた本の内容は、一文字も頭に入ってこなかった。


外の空がようやく白み始めた頃、空港へ向かった。


飛行機が滑走路を離れる。

眼下に広がる街が、おもちゃのように小さくなっていく。


窓の外を見ていた。


ふと、目が止まった。


滑走路の端の電線に、カラスが一羽止まっていた。

飛び立つこの飛行機を、ただじっと見ている。


( お前、どこへ行くつもりだ。)


そう言っているような気がした。


あの寺も、あの部屋も、この街のどこかに残してきた美保の姿も、すべてが雲の向こうへと遠ざかっていった。


機内の冷たい空気を吸い込んだとき。

胸の奥にこびりついていた何かが、ほんの少しだけ薄れた気がした。


ほんの少しだけ、だった。



第五章 重い空気


タラップを降りた瞬間、空気が緩んだ。


札幌ほどの冷たさは、なかった。


息を吸っても、肺が凍るような感覚はない。それだけで、少しだけ体の力が抜けた。


札幌の空気は、透明だった。冷たくて、乾いていて、吸い込むたびに肺が洗われるような感覚があった。


ここは違う。どこか湿り気を帯びた、ぬるい寒さだった。


何もかもが、違った。


魔物から逃げてきた。

ただ、それだけだった。


名古屋での最初の一年は、季節の記憶から始まった。


冬は、思っていたより長く続かなかった。気づけば桜が咲き、気づけばそれも散っていた。そして、梅雨が明けた頃から、名古屋の本当の顔が姿を現した。


暑い。


息を吸うたびに、湿った熱が肺の奥まで入り込んでくる。日中の日差しはコンクリートを炙り、夜になっても気温はろくに下がらなかった。


派遣の仕事は日によって違った。

工事現場の日もあれば、引っ越しの日もあった。夏には草刈りもした。汗が止まらなかった。首に巻いたタオルは、いつも絞れるほど濡れていた。


魔物のことは、考えないようにしていた。考える余裕もなかった。ただ、汗をかいて、働いて、眠るだけだった。


それでも、生きていた。


あの一年のような理不尽は、起きなかった。

離れ続けた距離が効いたのか、美保との縁が薄れたのか、理由は分からない。

少なくとも、この燃えるような街では、あいつの居場所がなかった。


そうして、一年が過ぎた。


実害は何もない。

だが、俺の身体はあの冬の冷気を忘れていなかった。


朝の満員電車のなか、背後に立つ男がほんの少し熱い息を吐きかけただけで、心臓がバクバクと跳ね上がる。


夜、狭いアパートのユニットバスで頭を洗っているとき、泡で目を閉じている数秒間が異様に恐ろしかった。流し終えて目を開けたとき、鏡の向こう、開けっ放しのドアの暗がりに、あの狐のような顔が立っているのではないか。


誰の視線も感じない。誰の気配もない。

ただの被害妄想だ。そう自分に言い聞かせても、この燃えるような街の熱気のなかで、俺の背中だけはいつも、じっとりと冷え切っていた。



第六章 桜の下で


春になった。


社会人サークルの花見に、なんとなく参加した。


名古屋市内の公園。桜が満開だった。


サークルのみんなが満開の桜を見上げて笑っているとき、俺だけが、ブルーシートのすぐ外側を通行していく見知らぬ人々の顔を、一人ずつ目で追っていた。


帽子を深く被った女、小柄な老婆、すれ違うサラリーマンの群れ。


誰も俺を見てはいない。あいつが、ここにいるわけがない。分かっているのに、視線が勝手に動いてしまう。


そこで、彼女と出会った。


明るくて、よく笑う人だった。


俺より年上なのに、気さくに話しかけてくる。札幌から来たと言うと、「寒いところから来たんだね」と笑った。


「どうしたの? 桜、すっごいきれいだよ」


彼女がコップを持ったまま、俺の顔を覗き込んできた。


その屈託のない、真っ直ぐな瞳を見たとき、胸の奥で固まっていたものが、一瞬だけ溶けた気がした。


ああ、この街も悪くないかもしれない。


逃げてきた街で、初めてそう思った。


名古屋で出会った女性は優子という名だった。美保とはまるで違った。


人の顔色を読むより先に、自分の感情をそのまま出す人だった。よく笑って、よく喋って、よく食べた。不機嫌になっても、翌朝にはけろりとしている。怒るときは正面から怒って、謝るときは真っ直ぐ謝った。


その明るさに、俺は少しずつ救われていった。


美保と過ごした冬の記憶が、遠くなっていくような気がした。


付き合い始めてすぐの頃、二人で喫茶店に入った。


窓際の席で、優子がメニューを広げている。どれにしようかな、と言いながら指でなぞっている。


俺はその横顔を見ていた。


ふと、優子の視線が止まった。


メニューから顔を上げ、店の奥の方を見ている。


「どうした?」


「……うん、なんか」


優子はすぐに笑顔に戻った。


「気のせいかな。お手洗いのとこ、誰かいた気がして」


俺は何気なく振り返った。


廊下の先、薄暗いトイレの入り口。


誰もいなかった。


「いないじゃん」


「だよね。なんか、ぼーっとしてたのかも」


優子はまたメニューを見た。


「ねえ、ケーキセットにする?」


俺は返事をしながら、もう一度だけ廊下の奥を見た。


誰もいない。ただ、トイレの扉が数センチだけ開いていた。


入店したとき、あの扉は開いていただろうか。


思い出せなかった。


それ以来、優子がふとした瞬間に視線を止めることが、時々あった。そのたびに俺は何気なく振り返り、そのたびに、そこには誰もいなかった。


優子はいつも「気のせいかな」で済ませ、俺もそれ以上は聞かなかった。ただ、その回数だけが、少しずつ、俺の中に積もっていった。



第七章 七年間


優子と付き合い始めてから、俺の地図が広がっていった。


毎月どこかへ行った。関西の古い街並み、九州の海沿いの道、北関東の山あいの温泉、東北の静かな湖。


遠出をしない月でも、近場で飯を食ったり、海を見に行ったり、花火大会を見に行ったりした。


優子はいつも助手席で紙の地図を広げ、「こっちの方が景色いいよ」と言いながら遠回りの道を選んだ。


遠回りでも、構わなかった。


優子といる時間だけが、あの魔物の影から逃げ込める、世界で唯一の避難所だったからだ。


だが、完全に逃げ切れたわけではなかった。


すれ違う見知らぬ観光客の誰かが、ボソッと「〜ですぅ〜」と呟きはしないか。


夜、ホテルの部屋のクローゼットの扉が、最初から「数センチだけ開いていた」のか、それとも「俺たちがいない間に誰かが開けた」のか。


優子が隣で健やかな寝息を立てているベッドのなか、俺は暗闇に浮かぶ家具の輪郭をじっと凝視したまま、朝まで眠れない夜が何度もあった。


京都へ行った時のことだった。


夕暮れの石畳を、二人で歩いていた。


優子が路地の写真を撮りたいと言って、少し先へ駆けていった。俺はその場で待っていた。


石畳の両側に、古い町家が続いている。観光客がまばらに行き交う。


ふと、一本隣の路地に目が止まった。


細い路地の奥に、女が立っていた。


こちらを向いている。帽子を深く被っていて、顔が見えない。


視線が、合った気がした。


「ねえ、こっち来て」


優子の声で、振り返った。


そちらへ歩き出す前に、もう一度だけ路地の奥を見た。


誰もいなかった。


「どうしたの、ぼーっとして」


「なんでもない」


優子はスマホを向けてきた。「撮るよ」と言って、シャッターを押した。


後でその写真を見返したとき、俺の後ろの路地の奥に、小さな人影が写っていた。


ピントが合っていなくて、輪郭だけだった。帽子を被っているように見えた。


優子には何も言わなかった。


自分の記憶違いや、光の加減だと片付けられる限りは、そうしてきた。だが写真という形で残ってしまうと、それはもう「気のせい」では済まなくなった。


それでも、日々は続いた。


熱海の宿に泊まった夜、優子がビデオカメラを出してきた。


「明日の朝日、撮ろうよ」


そう言って、窓際に三脚を立て始める。折りたたまれた脚を一本ずつ伸ばし、高さを合わせ、窓の向こうの海がきれいに入る角度を何度も確かめていた。


「そんなちゃんとやるのか」


「せっかくだもん」


「明日、起きられる?」


「起きる。絶対起きる」


優子はファインダーを覗き込みながら、カメラの向きを少しだけ右へずらした。


水平線がちょうど真ん中に来るように、真剣な顔をしていた。


「これで大丈夫かな」


「たぶん」


「たぶんじゃ困る」


「じゃあ、完璧」


優子は満足そうに頷いた。


それからアラームをセットして、「絶対消して二度寝しないでよ」と言った。


その夜、布団に入ってからだった。


優子が電気を消すと、部屋は真っ暗になった。外の海の音だけが、低く続いている。


「ねえ」


暗闇の中で、優子が言った。


「なに」


「昨日、旅館に着いた時さ」


「うん」


「仲居さん、私たちのこと、三人って言わなかった?」


俺は答えなかった。


「チェックインする時、『お二人様でございますか』って聞いてきたじゃない。でも最初、一瞬だけ『お三人様で』って言いかけた気がして」


「聞き間違いじゃないか」


「そうだよね」


優子はそれ以上言わなかった。


しばらく経って、寝息が聞こえ始めた。


俺は天井を見ていた。


チェックインの場面を、頭の中で巻き戻した。仲居の顔、カウンターの上の書類、そして——仲居の視線が、一瞬だけ自分たちの後ろへ向いたこと。


あれは、何を見ていたのか。


京都の写真とは違う。あれは俺の目にしか見えない何かだった。だが今度は、俺たちのことを何も知らない赤の他人が、同じものを見ていた。


海の音が、続いている。


俺はそのまま、朝まで眠れなかった。


夜明け前、アラームの音で目が覚めた。


部屋はまだ暗く、窓の外の海も暗かった。


優子は眠そうに目をこすりながら起き上がり、真っ先にビデオカメラを確かめた。


「撮れてる?」


「まだ真っ暗だろ」


「いいの。最初から撮りたいの」


毛布を肩にかけたまま、優子は窓の前に立った。三脚の高さをもう一度だけ直し、海の方を見た。


やがて、水平線がうっすらと白み始める。


ゆっくりと、ゆっくりと。


ぽつんと、光の粒が現れた。


それが昇り始めた瞬間、光の線が水平線をスーッと走った。太陽が一気に顔を出す。どんどん昇っていく。大きくなっていく。


海が、光に染まっていく。


水平線から俺たちの足元まで、金色の道が伸びてくる。


優子が、小さく息を呑んだ。


俺も動けなかった。


しばらく、二人とも何も言わなかった。


ただ、その光の中に立っていた。


「来年も来ようね」


「また言ってる」


「また言うよ」


「毎年それ言うじゃん」


「毎年来たいから」


「そんなに朝日が好きなの」


「朝日っていうか、こういうのが好きなんだわ」


「こういうの?」


「前の日にちょっと準備して、朝は眠いのに無理やり起きて、でも見た瞬間に”起きてよかった”ってなる感じ」


「なんだそれ」


「分かるでしょ」


「……まあ、ちょっとは」


優子は笑って、毛布を肩に引き寄せた。


窓の外の光が、少しずつ部屋の壁まで明るくしていく。


三脚の上のビデオカメラだけが、何も言わずにそれを撮り続けていた。


「来年も、再来年も、ちゃんとこういうのしたいんだよね」


「ちゃんとって?」


「ちゃんと予定立てて、ちゃんと休み取って、ちゃんと来るの」


「いつも来てるじゃん」


「来るだけじゃなくて」


「え?」


「……そういうのも含めて」


そこで優子は少し黙った。


「なに」


「ううん。今はいいや」


「何それ」


「今は朝日見てるから」


そう言って、優子は笑った。


俺も笑った。


その時は、本当にそれでいいと思っていた。


その「来年」は、何度も続いた。


俺たちはそのあとも、出かけて、泊まって、同じ道を走った。


助手席で地図を広げる優子の姿も、旅先の朝に眠そうな顔でコーヒーを飲む姿も、いつのまにか当たり前になっていた。



ある日、優子と並んで歩いていた。


何の話をしていたときだったか、会話がふっと切れたあとで、優子が空を見上げた。


「私たちもう、六年になるんだぁ」


独り言みたいな言い方だった。


「そうだな」


優子はそのまま、しばらく何も言わなかった。


その横顔を見た時、何か言わなければいけなかったのかもしれないと、今では思う。


たぶんあの時、優子が何を待っていたのか、まるで分かっていなかったわけじゃない。口にしたら、何かを決めなければならなくなる気がした。


けれど、違う。嘘だ。


決めなければならないのが怖かったんじゃない。俺は、優子を自分の「呪い」に巻き込むのが怖かったんだ。


もし優子と籍を入れ、本当の家族になってしまったら、あの魔物が優子のことを見つけてしまうのではないか。そう思うと、どうしても「その先」の言葉を口にすることができなかった。


それでも、すぐに何かが終わったわけじゃない。


俺たちはそのあとも会って、出かけて、同じように笑った。


俺はそれだけで、十分だと思っていた。


優子は、たぶん、もっと先の時間を見ていた。



第八章 別れ


名古屋での優子との別れは、七年後にLINEで来た。


仕事中だった。


ポケットの中で着信音が鳴り、午後の休憩に携帯を開いた。


立ったまま、読んだ。


アキラへ


急にごめん。でも、面と向かって言うと、たぶん私、ちゃんと話せない気がしたから。


七年、楽しかった。本当に。


熱海の朝日、覚えてる?

毎年「来年も」って言ってたよね。

私、あれ、本気で言ってた。


でも、来年も、その先も、アキラは同じこと言うだけで、

何も変わらないんだなって、最近やっと分かった。


責めたいわけじゃないの。

アキラが悪いとか、そういうことじゃなくて。


ただ、私はもう、その先が欲しくなっちゃったんだと思う。

家族になるとか、そういう、ちゃんとしたやつ。


アキラは、いつも何か一歩手前で止まる人だった。

理由は聞かなかったけど、

たぶん、私に言えないことがあるんだろうなって、

なんとなく分かってた。


それでも七年、一緒にいたのは、

本当に楽しかったから。

それは嘘じゃないよ。


ごめんね。

先に行くね。


さよなら、アキラ。



何度も、読み返した。


怒ってはいなかった。


ただ、静かだった。


「言えないこと」。


その一言だけが、何度読み返しても、そこだけ引っかかった。


俺が黙っていたことに、優子はちゃんと気づいていた。

気づいた上で、七年、隣にいてくれた。


読み終わった瞬間、膝の力が抜けた。


熱海の朝日が、一瞬だけ頭をよぎった。


「来年も来ようね」


あの「来年」は、もう来ない。


優子が空を見上げて「もう、六年になるんだぁ」と言った時の横顔も浮かんだ。


もう、あの時には始まっていたのかもしれない。



仕事が終わり、部屋に戻った。いつもと同じ部屋だった。


靴を脱ぎ、電気をつけ、鞄を置く。


それだけの動作が、妙によそよそしかった。


携帯をもう一度開いた。


文面は変わっていなかった。


返信しようと思った。何か言わなければ、と思った。


でも、どの言葉も遅すぎる気がした。


いまさら遅いんじゃない。


遅くなるまで置いておいたのは、俺だった。


結局、その夜は何も返せなかった。


翌日も仕事へ行った。その次の日も行った。


働いて、帰って、メシを食って、寝る。


それだけだった。


だが、何かがもう切れていた。


優子との七年間は、本物だった。


それだけは、疑いようがなかった。


別れて一週間後、部屋でひとり、天井を見ていた。


ふと思った。


俺は何のために、ここにいるんだろう。


もうこの街に居たくない。


そう思った瞬間、自分でも驚いた。


悲しいはずだった。実際、悲しかった。


それでも、胸の奥のどこかで、ほっとしている自分がいた。


もうこの暑さに耐え続けなくていい。


もうひとりでこの街に残らなくていい。


そう思ってしまったことに、少しだけ罪悪感があった。


それでも、体の方はもう決めていた。


魔物から遠ざかるため、札幌を出た。


あの時のようなことは何も起きなかった。


何が効いたのかは、はっきりしなかった。


離れていたからなのか、時間そのものが薄めてくれたのか。あるいは、あいつはもう、どこか別のところへ行ってしまったのか。


そこだけは、今でも分からない。


だが、優子も去った。


(……札幌に戻ろう。)


その考えが浮かんだ時、名古屋の湿った空気が急に重く感じられた。


窓から見慣れた街を見た。


逃げてきた街。優子と過ごした街。八年暮らした街。


頭の片隅に、あの住職の言葉が残っていた。


魔物は寒さを好む。暖かい土地へ、なるべく遠くへ。


その逆を行くことになる。


札幌へ戻れば、またあの不幸が始まるのかもしれない。


その不安は、消えていなかった。


それでも、帰る。


気がついたら、電話をかけていた。


数日後、便利屋が来た。


俺は部屋の隅に立っていた。


京都の写真も、助手席に置いていた紙の地図も、目の前で捨てられていくのを見ていると、七年間が形だけのものになっていく気がした。残しておけば、いつかまた見返したくなる時が来るかもしれない。そう思ったが、その「いつか」が来る気もしなかった。


そして、段ボールの底からあの熱海の宿で使ったビデオカメラが出てきた。


処分される直前、俺は何となく再生ボタンを押した。


画面のなかで、眩しい朝日を浴びて、毛布を肩にかけた優子が笑っている。


最高の、幸福の記憶。


だが、画面がゆっくりと部屋の壁を映した瞬間、俺の指がぴたりと止まった。


逆光のせいで、窓ガラスに部屋のなかの影が薄く映り込んでいる。優子の後ろ、開いたままのクローゼットの暗がりのなかに、何かがあった。


人の顔のようで、見覚えのある輪郭。


鼻の先が、獣のように尖っている……。


それが、カメラのレンズをじっと見つめているように見えた。


心臓が激しく脈打つ。液晶画面を凝視したが、次の瞬間には優子の体が重なり、影は消えた。


見違いかもしれない。ただの光の悪戯かもしれない。


だが、そのとき背筋を走った冷気で、俺はすべてを悟った。


魔物は、ずっと俺の後ろにいた。


俺が優子を愛したから、あいつは優子のすぐ後ろまで近づいていたのか。


「……それも、処分しますか?」


便利屋の声で、我に返った。


俺は黙って頷き、カメラを手渡した。


便利屋が引き上げると、部屋はがらんとした。


八年間いたのに、何も残っていなかった。


ボストンバッグを肩にかけ、扉を閉めた。


今度は、少しだけ振り返った。


だが、そこにはもう何もなかった。


扉を閉める。


鍵をかける。


それだけだった。



第九章 故郷の空気


タラップを降りた瞬間、空気が変わった。


ヒヤリとした。


夏なのに。八月なのに。


名古屋では、空気が体に貼りついた。重く、湿って、息をするたびに熱が入り込んだ。あの八年間、俺はずっとその空気の中にいた。


ここの空気は違う。軽くて、乾いていて、肺の奥まで透き通るように入ってくる。


俺はしばらく、その場に立ち尽くした。


八年ぶりの空気だった。


故郷の空気だった。


目の奥が、じんと熱くなる。


到着ロビーに出ると、兄がいた。


八年ぶりだった。


兄は何も言わなかった。ただ、ニコッと笑って立っていた。


空港の廊下に、二人の足音だけが響いた。


車が走り出すと、八年ぶりの街並みが窓の外を流れていった。新しい店ができ、なくなった建物もあった。それでも、信号の間隔や、道の曲がり方や、遠くに見える山の形は、体のどこかがまだ覚えていた。


「腹、減ってるか?」


「……減ってる」


兄はニコッと笑い、車を走らせた。


連れて行ってもらったのは、近所の定食屋だった。


昔からある店だった。看板も、引き戸の軋む音も、ほとんど変わっていなかった。


席に座ると、兄が湯のみを押してよこした。


「何にする」

「……カツ丼」

「だと思った」


兄は箸立てから割り箸を二膳取り、一本を俺の方へ滑らせてよこした。


店の奥では、テレビが小さく鳴っていた。昼とも夕方ともつかない時間で、客はまばらだった。俺は湯のみを持ったまま、しばらく湯気だけを見ていた。


「だいぶ変わったべ」

「……ああ」

「おまえがいた頃の店、もうねえぞ」

「まじか」

「ラーメン屋も潰れた」

「それは困るな」


兄が少し笑った。


「困るって、おまえ何年食ってねえんだよ」

「……八年」

「長かったな」


それだけ言って、兄は前を向いた。


俺もそれ以上は言えなかった。


カツ丼が来た。


湯気が立っていた。


一口食べた。


温かかった。


ただそれだけなのに、胸の奥に何かが広がった。


「……帰ってきたな」

「……ああ」


会話はそこで途切れた。


だが、続かなくてよかった。


店を出ると、風が少しあった。


名古屋の風とは違った。湿り気が少なくて、肌に触れてもまとわりつかない。


兄の車に戻りながら、俺は空を見た。


高くて、少し薄い色の空だった。


帰ってきたのだと思った。


逃げてきたのでも、戻されたのでもなく、帰ってきたのだと。


兄の部屋に荷物を置いたあと、窓を少しだけ開けた。


冷えた空気が、部屋の中へ入ってきた。


それを吸い込んだ時、体のどこかがようやく緩んだ気がした。


魔物のことは、終わっていない。


ただ、今は遠ざかっているだけかもしれない。


名古屋で何も起きなかった理由は、いくつも思いついた。だが、どれも確信には至らなかった。


だが、その夜はもう考えないことにした。


帰る場所は、まだ残っていた。


そのことが、ただありがたかった。



第十章 帰札一年目


札幌に戻って、一年が経っていた。


その日は朝から風が強く、空気がやけに冷たかった。


近所のスーパーで買い物を済ませ、外へ出たときだった。


入り口のすぐ横にある駐輪場から、声が聞こえた。


「すいませんですぅ〜」


体が反応した。


考えるより前に、足がスーパーの入り口へ引き返していた。


ガラスの内側に身を寄せ、息を止めた。


あの口癖だった。


語尾を引きずるような、あの独特の言い回し。


美保の声に似ていた。


空耳かもしれない。


別人かもしれない。


だが体は、そう判断しなかった。


ガラス越しに駐輪場を見ていた。


後ろ姿しか見えなかった。


細身の女が、自転車を押している。


顔は分からない。


顔を、見たくなかった。


やがて、その女は自転車にまたがり、走り去っていった。


完全に見えなくなってから、ゆっくりと外へ出た。


駐輪場には、誰もいなかった。


風だけが、低く鳴っていた。


その時、兄のマンションの駐車場を思い出した。


カーテンの向こうから聞こえた、あの声。


顔は見えないまま、声だけが先に体を凍らせた夜。


あれと、同じだった。


それ以来、あの声も、あの後ろ姿も、二度と現れなかった。


だが、それからの日々、札幌の街が少しずつ変容していくような錯覚に囚われた。


二年目、三年目、四年目。実害はない。部屋が荒らされることも、事故に遭うこともない。


なのに、街を歩けば、すれ違う見知らぬ他人の会話が、すべて「〜ですぅ〜」という幻聴になって耳の奥にへばりつく。夜、窓の外を風が吹き抜けるたび、あの女のガラガラ声が混じっている気がして飛び起きる。


この透明で冷たい故郷の空気そのものが、すでに魔物の気配で満たされている。俺は檻の中にいる。そんな強迫観念が、年を追うごとに、俺の精神をゆっくりとすり減らしていった。


そしてまた、時間だけが静かに過ぎていった。



第十一章 帰札五年目


札幌に戻って五年が過ぎていた。


また、曇りの日だった。


近所のスーパーへ向かうと、入り口の駐輪場に人が何人かいた。


一人の女の後ろ姿が、名古屋で七年付き合っていた優子に似ている、と思った。


よくあることだ。


そう思いながら、自転車のハンドルに手をかけた。


その瞬間、その女が振り向いた。


目が合った。


似ている、なんてものじゃなかった。


目尻の下がった、あの目。


七年、隣で見てきた顔だった。


俺は動けなかった。


女も、動かなかった。


三秒、あるいはもっと長く、俺たちはただ見つめ合っていた。風が鳴っていた。駐輪場の人の声が、遠くなっていった。


その顔が、ゆっくりと視線を外した。


自転車にまたがる。ペダルを踏む。


駐輪場から滑るように出ていくその去り際、女の薄い唇が、かすかに動くのが見えた。


電話をしているわけでもないのに、ボソッと、何かを呟いた。


すいませんですぅ〜。


凍りついた。


優子の口から出るはずのない、あれはあの美保の口癖。


俺はその場に立ったまま、後ろ姿が角を曲がって完全に見えなくなるまで、一歩も動けなかった。


優子だったのか。違う誰かだったのか。


あの三秒間、女の目は俺を見ているようで、俺の向こう側の暗闇を見つめているような目だった。


三日後、スマホにLINEの通知が来た。


名古屋の優子からだった。


久しぶりだった。


開いた。


読んだ。


癌だった。


ステージのこと、これからの治療のこと、淡々とした文章で綴られていた。弱音はほとんど書かれていなかった。七年前と変わらない、優子らしい書き方だった。


俺はしばらく、画面を見たまま動けなかった。


優子の顔が浮かんだ。熱海の朝日の中で笑っていた顔。桜の下で「桜、すっごいきれいだよ」と覗き込んできた顔。あの明るさが、病室のベッドの上にあるところを、うまく想像できなかった。


何か返事をしなければと思った。だが、七年前と同じように、どの言葉も遅すぎる気がした。


しばらくして、頭の隅に、三日前の駐輪場の光景が浮かんだ。


浮かんだ瞬間、自分を殴りたくなった。


優子の病気を、まず怪異の話に繋げようとしている自分がいた。


それでも、一度浮かんだ疑問は消えなかった。


あの顔を。


三秒間、目が合ったまま静止していたあの瞬間を。


自転車が角を曲がって消えていく後ろ姿を。


あの人は、何だったのだろう。


俺に会いに来たのか。他人の空似か。


それとも、ただの偶然だったのか。


なぜ、俺をジッと見ていたのか。


分からなかった。


今も、分からない。


ただ、俺の頭のなかでは、あのビデオカメラの影と、駐輪場での「ですぅ〜」という呟きが、一本の黒い線で繋がっていた。


魔物は美保の姿をしていたのではないのかもしれない。証明も何もない、別の何かが、俺の周りをずっとうろついているだけなのかもしれない。


優子の癌と、あの駐輪場の三秒間と、ビデオカメラの影が一本の線で繋がっているように見えるのは——俺が、そう繋げたいだけなのか。


優子の人生に起きた、ただの病を、自分の物語の証拠にしようとしているだけなのかもしれない。


その自覚だけが、いつまで経っても消えなかった。


二度の駐輪場の風の音だけが、今も耳の奥に残っている。


冷たくて、静かな風だった。


二度とも、同じ風だった。


それからまた、何事もない時間が続いた。


だが「何も起きないこと」が、そのまま安心にはならなかった。


ただ、遠くで何かがまだ息をしている。


そんな感じだけが、消えずに残った。



最終章 帰札八年目


その冬は、雪が多かった。


十一月の終わりにはもう積もり始め、除雪が追いつかない日が続いた。歩道は踏み固められた雪で白くなり、ブーツの底がキュッキュッと鳴る。息を吐くたびに、白い塊が目の前に漂ってはすぐ消えた。


夕方の帰り道だった。


仕事が長引いて、外はもう暗かった。


角を曲がったとき、一人の老婆が雪道を歩いているのが見えた。背中が丸く、足取りが遅い。手に下げたビニール袋が重そうで、少し傾きながら歩いていた。


足が、止まった。


あの寺の住職、か。


違うかもしれない。夜道で、まともに顔も見えていない。思い込みかもしれない。


「あの……」


声をかけると、老婆が振り返った。


街灯の光がその顔を照らした。


丸い顔。深いしわ。


やはり、寺の住職だった。


雪が降っている。


街灯の光の輪の中で、細かい粒がゆっくりと舞う。


住職が俺の顔を見る。静かに目を細める。


「……ああ」


少し間があった。


「お元気そうですね」


「あの……今もあの寺に」


「ええ。まだ続けていますよ」


「戻ってきました。八年前に」


老婆は一度だけ、ゆっくりと頷いた。


「そうですか」


住職は俺の顔を見ながら、俺の後ろの何かを確かめているような目をしていた。


「……どうですか。この八年」


「何も、起きていません」


「そうですか」


住職は小さく息を吐いた。白い息が、夜の冷気の中に広がる。


しばらく、二人とも黙っていた。


雪だけが、静かに降り続けていた。


「……美保は、今どうなっているんですか」


住職はすぐには答えなかった。


足元の雪を、しばらく見ている。


「……知らない方がいい、と言いましたよね」


「はい」


「今も、そう思っています」


また、雪が降る。


「ただ」


少し間。


「器は、もう空です」


「……空、ということは」


「あの人自身は、とうに関係ないところにいます。魔物は、渡っていくものですから」


住職は俺の顔を見た。真っ直ぐに。


「あなたが、まだ誰も深く想っていないなら。それだけが、今のところの救いです」


俺は、名古屋の記憶を思い出さないようにした。


思い出せば、住職に何かを聞かれる気がした。


俺はその言葉の意味を測ろうとした。


生きているのか、死んでいるのか。


この街にいないというだけなのか。


それとも、あの優子の身に起きたことと同じように——。


聞けなかった。


「魔物は……」


「消えてはいません」


「ただ、今はあなたから離れている。

距離なのか、時間なのか、それとも別の何かなのか。私にも、はっきりとは分かりません」


「また来ますか」


住職はしばらく黙った。


「……分かりません」


その答えは、昔と変わらなかった。


変わらないまま、八年が過ぎていた。


住職は小さく頭を下げ、また歩き始めた。


ビニール袋を下げたまま、丸い背中を雪の中へ向けて。


ゆっくりと、遠ざかっていく。


街灯と街灯のあいだの暗がりに入り、見えなくなった。


俺はしばらく、その場に立っていた。


足元に、雪が積もっていく。


遠くにいます。あなたの届かない場所に。


住職の言葉が、雪のなかに溶けていく。


魔物が消えていないなら、俺はこれから先も、あれと距離を取り続けて生きていくしかないのだろう。


寒さを避けて、新しい人の縁を拒み、何かが不自然に重なり始めたら、また全てを捨ててどこかへ逃げる。


それは、生きていると言えるのだろうか。


静まり返った夜道を、一人で歩く。


アパートの前まで来たとき、ふと自分の足元を見た。


踏み固められた白い雪の上に、俺のブーツの足跡が真っ直ぐに伸びている。


いや。


足跡は、一つではなかった。


俺の足跡のすぐ隣、重なるようにして、もう一組の小さな靴の跡が、俺の部屋の玄関に向かってずっと並んで続いている。


いつからあったのか。


誰のものなのか。


身体が、すうっと芯から冷えていくのが分かった。


だが、俺は立ち尽くしたまま、長いことその足跡を見ていた。


追い払おうとは、思わなかった。


確かめようとも、思わなかった。


ただ、見ていた。


やがて、体の芯の冷えが、ゆっくりと薄れていった。


驚いたことに、恐怖ではなかった。


慣れ、とも少し違った。


ただ、そういうものだと思った。


隣に何かがいることが、いつのまにか、この街の空気と同じくらい当たり前になっていた。


ドアを開ける。


温かい空気が、顔を包む。


靴を脱ぐ。コートを脱ぐ。


電気をつける前に、姿見の前で立ち止まった。


薄明かりの中に、疲れた自分の顔があった。


それだけだった。


それだけでいいと思った。


電気をつける。


部屋が明るくなる。


鍵をかける。


ベッドに横になる。


天井を見る。


隣に、重さを感じた。


昔なら飛び起きていた。


今は、目を閉じた。


それが何なのか、もう確かめようとしなかった。



翌朝、目覚まし時計の音で起きた。


仕事に少し遅れそうだった。


会社に電話をかける。


呼び出し音のあと、担当者が出た。


「すみません、電車が少し遅れてて……」


そう言うつもりだった。


だが、口から出た声は、それとは違っていた。


「はいぃ……ちょっと電車が遅れちゃってぇ……すみませんですぅ〜……」


電話を切ったあと、しばらく受話器を見つめていた。


今の、何だ。


もう一度、声に出してみる。


「……すみませんですぅ〜」


違和感は、なかった。


むしろ、しっくりきた。


鏡の前に立つ。


そこに映る自分の顔を、しばらく見ていた。


疲れた、いつもの顔だった。


ただ、口元が、はっきりと笑っていた。


ふと、窓の外が気になった。


カーテンを少しだけ開ける。


電線を見た。


あれほど毎朝いたカラスは、どこへ行ったのだろう。


完


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