転生先は忘却の養蜂場でした~300年放置された蜂たちが神獣化してるんですが~
——深夜2時37分。俺は死んだ。
過労死、というやつだ。
最後に見たのは、養蜂場の作業小屋の天井。築32年の染みだらけの板張り。妻と娘が出て行ってから3年、俺は蜂だけを相手に生きてきた。いや、生きてきたつもりだった。
『また仕事? パパより蜂の方が大事なんでしょ』
娘の最後の言葉が、薄れゆく意識の中で反響する。
違う。違うんだ。守りたかったんだ。お前たちを養うために——
言い訳だ。分かってる。
暗転。
——そして。
「……ん」
目を開けた瞬間、肺が悲鳴を上げた。
空気が、重い。濃い。まるで蜂蜜の中で呼吸しているような、甘く、そして魔力としか呼べない何かが身体中に染み込んでくる。
見上げた空には、二つの月が浮かんでいた。
「……は?」
身体を起こす。手を見る。若い。皺がない。日焼けした、20代の頃の——いや、それよりも若い手だ。
腰に、見覚えのある重みを感じた。
継承者の燻煙器。
俺が祖父から受け継ぎ、30年使い続けた道具。なぜこれが、ここに——
「——継承者よ」
声が、降ってきた。
振り向く。息が止まる。
月光を浴びて、黄金色の巨体が浮かんでいた。
体長2メートルを優に超える。複眼が宝石のように煌めき、四枚の翅が空気を震わせるたびに、甘い香りが吹き抜ける。
蜜蜂だ。
だが、俺が32年間世話してきたどの蜂とも違う。
神獣。
そう呼ぶしかない、圧倒的な存在感。
「300年待った」
巨大蜂が、人語を発した。
「貴様は我が巣の最後の継承者。名を、聞こう」
俺は——蜂谷悠真は、崩れかけた養蜂場の真ん中で、異世界の女王蜂と対峙していた。
「……蜂谷悠真。養蜂家だ」
それしか言えなかった。
それしか、俺には誇れるものがなかったから。
女王蜂が——後にメリッサと名乗ることになる彼女が、複眼を細めた。
「養蜂家、か。ならば問おう」
威厳に満ちた声が、森に響き渡る。
「この忘れられた巣を、継ぐ覚悟はあるか?」
月明かりの下、朽ちた巣箱が視界に入った。数十——いや、数百はある。そのすべてが苔むし、蔦に覆われ、300年という時間を物語っている。
だが。
微かに、羽音が聞こえた。
無数の。
怯えと、期待と、長い長い孤独を抱えた、蜂たちの羽音が。
「……ああ」
俺は頷いていた。
「蜂がいるなら、俺は養蜂家だ。それは——どの世界でも変わらない」
嘘じゃない。
前の世界で、俺は蜂を優先して家族を失った。
なら今度こそ——蜂を守り抜く。今度こそ、逃げない。
メリッサの複眼が、一瞬だけ揺らいだように見えた。
「……面白い人間よ」
彼女は翅を震わせ、ゆっくりと地に降り立った。
「我が名はメリッサ。この『忘却の養蜂場』の女王である。継承者よ、歓迎しよう——」
そこで、彼女の声が途切れた。
「——ただし」
冷たい。氷のような声音。
「信じてはおらぬ。人間など。300年前に、我らは学んだ。貴様らは必ず裏切る」
風が吹いた。
森の奥から、無数の光る眼が俺を見ていた。
神獣化した蜂たち。
その視線は——敵意に満ちていた。
「……まあ、そうだろうな」
俺は燻煙器を握りしめた。
「信じてもらえるまで、やるしかない」
それは——死んで、生き返って、最初に決めた覚悟だった。
俺の第二の人生は、人間嫌いの神獣蜂たちに囲まれて始まった。
---
転生3日目。
俺は泥だらけだった。
「くそ……この蔦、魔力吸ってやがる」
朽ちた巣箱を覆う蔦は、普通の植物じゃなかった。刃物で切っても、翌朝には再生している。300年分の魔力を吸って、もはや魔獣植物と化していた。
素手で引き剥がすしかない。
皮膚が裂ける。血が滴る。
それでも、手を止めない。
「継承者よ」
背後から、メリッサの声。
「無駄であるぞ。その巣箱は既に死んでおる」
振り向かない。手を動かし続ける。
「蜂がいるなら、死んでない」
「……何?」
「微かに羽音がする。中に、まだ生きてる奴がいる」
俺は確信していた。32年の経験が、耳に叩き込んでいた。
蜂の羽音は、命の音だ。
どんなに微かでも——聞き逃さない。
ガリッ。
最後の蔦を引き剥がした瞬間、巣箱の蓋が外れた。
中から、小さな光が飛び出した。
「ひいいいっ!?」
手のひらサイズの蜂が、俺の顔に激突してきた。
そのまま地面に落下。仰向けでジタバタしている。
「に、人間なのだ! 人間が来たのだ! メリッサ様ーっ!」
甲高い声。幼い口調。
——こいつも、喋れるのか。
「ビィ」
メリッサが静かに呼んだ。
「落ち着くがよい。そやつは継承者だ」
「け、継承者……?」
ビィと呼ばれた小さな蜂が、恐る恐る俺を見上げた。
琥珀色の大きな複眼。震える触角。片方の翅が——折れている。
「……怪我してるな」
俺は静かにしゃがみ込んだ。
「ひっ!? 来ないでほしいのだ!」
「動くな。見せろ」
「い、嫌なのだ! 人間は怖いのだ! 300年前に皆を殺したのだ!」
涙声。本気で怯えている。
……そうか。
こいつは300年前に生まれた最年少。人間を、知らない。ただ恐ろしい存在として、伝え聞いてきただけ。
「殺さない」
俺は燻煙器から、僅かに煙を出した。
薄く、優しく、蜂を落ち着かせる濃度で。
「っ……」
ビィの動きが止まった。本能的に、煙に反応している。
「この煙は、お前たちを落ち着かせるためのものだ。傷つけるためじゃない」
「……ほんと、なのだ?」
「ああ」
俺はゆっくりと手を伸ばした。
ビィは震えていた。だが、逃げなかった。
折れた翅に触れる。
「……くっ」
ビィが小さく声を漏らした。痛いのだろう。だが、俺は手を止めなかった。
腰の袋から、修復用の樹脂を取り出す。前世で蜂の翅を治療するのに使っていた、天然素材のもの。なぜかこの世界にも、同じ成分の樹脂があった。
「少し沁みる。我慢しろ」
「……っ、うう……」
翅の付け根に樹脂を塗り、そっと固定する。
「明日には飛べるようになる」
手を離した。
ビィは呆然としていた。
「……なんで、なのだ?」
「何がだ」
「なんで、ビィを治してくれたのだ? ビィは人間が怖いって言ったのだ。嫌いって言ったのだ」
俺は立ち上がった。
次の巣箱に向かいながら、背中越しに答えた。
「蜂が怪我してたら、治す。それが養蜂家だ」
「……」
「好かれてるかどうかは、関係ない」
沈黙。
そして——
「ま、待つのだ!」
小さな羽音が追いかけてきた。
「ビィも手伝うのだ! 蔦を取るのは、ビィの方が上手いのだ!」
振り向くと、ビィが必死に翅を動かしていた。まだ痛いはずなのに。
「……無理するな」
「無理じゃないのだ! ご主人さま——」
ビィが口を押さえた。
「……今、なんて言った?」
「な、なんでもないのだ! 言い間違いなのだ!」
顔を真っ赤にして、ビィは巣箱の蔦に突進していった。
俺は——少しだけ、口角が上がるのを感じた。
「……一匹目、か」
「継承者よ」
メリッサが、いつの間にか隣に立っていた。人型の姿で。金髪碧眼の、威厳ある女性の姿。
「何だ」
「……驚いたぞ」
「何がだ」
「ビィは300年、一度も人間に心を開いたことがなかった」
俺は巣箱に向き直った。
「まだ開いてない。ちょっと警戒が解けただけだ」
「それでも——」
メリッサが言葉を切った。
「……いや、よい。まだ信じぬ。一匹の心を動かしたところで、証明にはならぬ」
「ああ。だから続ける」
俺は再び、蔦に手を伸ばした。
「全員の心を開かせるまで、続ける」
300年の孤独。300年の人間不信。
それを溶かすには——同じだけの時間をかける覚悟がいる。
でも、今の俺には時間がある。
死んで、生き返って、もう失うものは何もないから。
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転生14日目。
巣箱の修復は順調に進んでいた。100基中、47基を復旧。枯れた蜜源植物も、森の奥で自生していた野生種を移植することで、少しずつ蘇りつつある。
ビィは毎日、俺の後をついて回るようになった。「ご主人さま」と呼ぶのも隠さなくなった。
他の働き蜂たちも、警戒を緩め始めている。
ただ——
「認めん」
低い声が、俺の背後に落ちた。
振り向くと、黒い影が立っていた。
体長3メートル。漆黒の外骨格。隻眼の金色が、殺意を持って俺を射抜いている。
ガルダ。
神獣兵隊蜂の長。メリッサに次ぐ、この養蜂場の実力者。
「……何か用か」
「貴様に問う」
ガルダが一歩、踏み出した。地面が軋む。その重量感が、常軌を逸していることを示している。
「300年前、人間は我らを裏切った。女王を殺し、巣を焼き、仲間を売った。貴様もそうなる」
「俺は——」
「黙れ」
殺気が膨れ上がった。
「言葉は無意味だ。人間は常に美しい言葉を吐き、そして裏切る」
「……」
「貴様がどれだけ働こうと、どれだけ蜂に媚びようと、俺は認めん。永遠に」
ガルダの隻眼が、俺を睨み据える。
「いずれ貴様は本性を現す。その時——俺がこの手で殺す」
宣言だった。
明確な、敵意の表明。
俺は——
「分かった」
「……何?」
「お前が俺を信じないのは、お前の自由だ。殺しに来るなら、その時考える」
ガルダの眼が、僅かに見開かれた。
「だが、俺は蜂を世話するのをやめない。お前に認められようが、認められまいが——俺は養蜂家だ。それは変わらない」
沈黙。
長い、長い沈黙。
「……ふん」
ガルダが踵を返した。
「精々足掻くがいい、人間。だが覚えておけ——」
背中越しに、声が落ちる。
「俺は、見ている」
黒い影が、森に消えた。
俺は、一つ息を吐いた。
「……手強いな」
「ガルダは、一番傷が深いのだ」
いつの間にか、ビィが肩に乗っていた。
「300年前、前の女王様を守れなくて、目を失ったのだ。それからずっと、自分を責めてるのだ」
「……そうか」
「ご主人さまを認めないんじゃないのだ。認めるのが、怖いのだ。また信じて、また裏切られるのが」
俺は空を見上げた。
二つの月が、淡く光っている。
「……なら、証明するしかない」
「何をなのだ?」
「裏切らないってことを。何年かけても」
ビィが、きゅっと俺の肩を掴んだ。
「……ご主人さま、かっこいいのだ」
「ただの頑固だ」
俺は再び巣箱に向かった。
48基目。残り52基。
まだまだ、先は長い。
——だが、この時の俺は知らなかった。
平穏な日々が、もうすぐ終わることを。
森の外から、腐敗の足音が近づいていることを。
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転生30日目。
異変は、唐突に訪れた。
「——ご主人さま! 大変なのだ!」
ビィが悲鳴を上げながら飛んできた。
「森の東側に、変なものが来てるのだ! 黒くて、臭くて、触ったら溶けるのだ!」
俺はすぐに動いた。
東の森。巣箱から3キロほど離れた場所。
——そこで、俺は初めて見た。
「……なんだ、これ」
黒い霧。
いや、霧じゃない。瘴気だ。
触れた木々が、見る見るうちに腐り落ちていく。草花が黒く変色し、虫たちが痙攣して死んでいく。
腐敗の瘴気。
メリッサが語っていた、大陸を蝕む災厄。それが、森にまで迫っていた。
「継承者」
メリッサが隣に降り立った。人型の姿で、表情は険しい。
「この瘴気が来たということは——奴が近い」
「奴?」
「屍食い公爵」
メリッサの声に、初めて恐怖の色が混じった。
「300年前、我らを裏切った人間どもの背後にいた者。腐敗の元凶。我が母——先代女王を殺した、怨敵」
「……」
「奴がここを見つけたのだ。聖蜜を求めて」
聖蜜。
神獣蜂たちが生み出す、唯一無二の浄化物質。腐敗の瘴気を清め、死にゆく大地を蘇らせる奇跡の蜜。
「聖蜜は、瘴気を消せる。だからこそ奴は欲しがる——独占し、自分だけの不死を維持するために」
俺は拳を握った。
「……逃げるか?」
「どこへ?」
メリッサが苦笑した。
「この森が、我らの最後の安息地なのだ。ここを失えば、行く場所などない」
「なら——」
「戦う」
低い声が割り込んだ。
ガルダだった。
「女王。俺が出る」
「ガルダ……」
「300年待った。あの男を殺す機会を」
隻眼が、異様な光を放っていた。復讐の炎。300年分の憎悪が、そこに渦巻いている。
「今度こそ、俺は女王を守る。誰も——何も——失わせん」
ガルダが踏み出した瞬間——
「待て」
俺の声が、空気を切り裂いた。
ガルダの隻眼が、俺を射抜く。
「……何だ、人間」
「単独で行くな。罠かもしれない」
「貴様に指図される筋合いはない」
「指図じゃない。提案だ」
俺は一歩、前に出た。
「俺も行く」
沈黙。
メリッサが眼を見開き、ビィが悲鳴を上げ、ガルダが——嘲笑した。
「貴様が? 戦う力もない人間が? 足手まといにしかならん」
「囮になれる」
「……」
「俺が奴の注意を引く。その間にお前が背後を取れ。蜂の攻撃パターンなら、俺には読める」
32年の経験。蜂の行動を予測し、最適な動きを導き出す——それが俺の唯一の武器。
「馬鹿な。死ぬぞ」
「死んでも構わない」
俺は真っ直ぐにガルダを見た。
「この巣を守れるなら——俺の命は安いもんだ」
静寂。
ガルダの隻眼が、微かに揺れた。
「……お前」
「ガルダ」
メリッサが口を開いた。
「継承者と共に行け。——これは、命令だ」
「女王……!」
「我も援護に向かう。ビィは巣を守れ。全員で——奴を迎え撃つ」
メリッサの瞳に、決意の光が宿った。
「300年間、隠れ続けた。だがもう逃げぬ。ここが我らの巣だ。誰にも、渡さぬ」
風が吹いた。
森が震えた。
無数の羽音が、空に響き始める。
神獣蜂たちが——集結していく。
戦いが、始まろうとしていた。
---
森の境界。
腐敗の瘴気が渦巻く、死の領域。
そこに——奴はいた。
「ああ、素晴らしい」
青白い肌。血のように赤い瞳。銀灰色の長髪。
人骨を模した装飾のマントが、風に揺れている。
ヴェルド・フォン・ネクロシス。
屍食い公爵。
「300年ぶりだね、蜜蜂の女王。いや——『新しい』女王と呼ぶべきかな? 前の女王は、私が殺したものだから」
慇懃無礼な声。嘲笑を含んだ、ねっとりとした口調。
「……貴様」
メリッサの声が震えている。怒りで。憎悪で。
「貴様が母を……!」
「ああ、覚えているとも。美しい女王だった。断末魔の悲鳴も、実に美しかった」
公爵が一歩、踏み出した。
瘴気が膨れ上がる。木々が腐り、地面が黒く染まっていく。
「さて、本題に入ろう。聖蜜を渡してもらおうか。全て——残らず」
「断る」
俺が前に出た。
公爵の赤い瞳が、俺を捉える。
「おや。人間がいるね。——継承者か。懐かしいな、300年ぶりに見る」
「聖蜜は渡さない。この森も、蜂たちも——お前には指一本触れさせない」
「ふふ」
公爵が笑った。
「300年前の養蜂士も、同じことを言ったよ。『守る』と。『絶対に』と」
瘴気が、俺に向かって伸びてきた。
「——結果はどうなった? 裏切られ、殺され、全てを失った。人間とは、そういう生き物だ」
「俺は違う」
「同じさ」
公爵の声が、冷たくなった。
「いずれ貴様も裏切る。恐怖に負け、欲に溺れ、蜂を売る。それが人間だ。私はそれを——300年間、見続けてきた」
瘴気が加速する。
黒い触手のように、俺に迫り——
「——っ!」
ガルダが割り込んだ。
漆黒の外骨格が、瘴気を弾く。轟音。衝撃波。木々が吹き飛ぶ。
「ほう」
公爵の眼が、僅かに細まった。
「兵隊蜂の長か。300年前にも見たな——片目を失った、哀れな蜂だ」
「……黙れ」
ガルダの声が、地を這うように響いた。
「貴様を殺すために、300年生きた。今日——それを果たす」
「面白い」
公爵が腕を上げた。
背後から、無数の足音。
腐敗騎士団。黒い鎧を纏った、死者の軍勢。3000体が、森を埋め尽くしていく。
「では——遊ぼうか」
戦いが、始まった。
---
轟音。
爆音。
絶叫。
森が戦場と化していた。
ガルダの拳が腐敗騎士を粉砕する。一撃で三体。二撃で七体。岩盤すら砕く打撃力が、死者の軍勢を蹴散らしていく。
メリッサの翅が光を放つ。黄金の波動が瘴気を浄化し、腐敗騎士たちを灰に変えていく。
だが——数が多すぎる。
3000対、数十。
圧倒的な物量差。
「くっ……!」
ガルダが膝をついた。瘴気に触れた部分が、僅かに腐食している。
「ガルダ!」
メリッサが叫ぶ。だが彼女自身も、限界が近かった。300年の孤独で、力が衰えている。
「ふふふ……やはりこの程度か」
公爵が嗤う。
「300年という時間は、貴様らを弱くした。もはや脅威ではない——」
「——違う」
俺の声が、戦場に響いた。
公爵の眼が、俺を捉える。
「おや、まだ生きていたのかね。哀れな人間」
「お前は、一つ見落としてる」
俺は燻煙器を構えた。
「蜂は——群れで戦う」
煙が、空に立ち昇った。
特殊な配合。前世で編み出した、蜂を統率するための合図。
——頼む。届いてくれ。
瞬間。
空が、黄金に染まった。
「な——!?」
公爵が、初めて動揺の声を上げた。
森の奥から。巣箱から。全ての場所から——
神獣蜂たちが、飛来していた。
修復した47基の巣箱。その全てから、蜂たちが出撃してきた。俺の煙を合図に。俺を信じて。
「ビィ!?」
「ご主人さまの合図なのだ! 皆で戦うのだ!」
小さな蜂が、先頭を切って突撃していく。その後に続くのは、百を超える働き蜂たち。
「……読めた」
俺の中で、何かが繋がった。
蜂たちの動き。飛行パターン。攻撃のタイミング。——全てが、手に取るように分かる。
蜂との同調能力。
継承者として、覚醒した力。
「ガルダ、右だ! 三体来る!」
「っ——!?」
ガルダが反射的に右を向く。同時に三体の腐敗騎士が飛びかかってきた。予測通り。
ガルダの拳が唸る。三体同時に粉砕。
「……なぜ分かった」
「見えるんだ。蜂の目を通して——敵の動きが」
百を超える複眼。その全てが、俺の視界に繋がっている。死角がない。見落としがない。
「メリッサ、上空に集中しろ! 瘴気の塊が来る!」
「心得た!」
メリッサの翅が輝く。黄金の波動が、空から降り注ぐ瘴気を消し飛ばす。
「ビィ、お前は後方! 傷ついた仲間を回収!」
「了解なのだ!」
蜂たちが、俺の指示通りに動く。
完璧な連携。32年の養蜂知識と、継承者の能力が融合した——人と蜂の共闘。
「馬鹿な……」
公爵の顔から、余裕が消えた。
「たかが蜂が、これほどの……!?」
「たかが蜂じゃない」
俺は公爵を睨み据えた。
「俺の家族だ」
瞬間——
空気が変わった。
ガルダが、俺の隣に並んだ。
「……認めよう」
低い声。だが、そこに敵意はなかった。
「貴様は——主だ」
「ガルダ……」
「命を懸けて蜂を守る。言葉ではなく、行動で示した。ならば——俺は従う」
隻眼が、俺を見た。
300年分の頑なさが、溶けていく瞬間だった。
「背中は任せろ、主」
「——ああ」
俺は頷いた。
「行くぞ。全員で——あいつを倒す」
森に、蜂たちの羽音が響き渡った。
---
戦況は逆転した——かに見えた。
「ふふ、ふふふふ……」
公爵が、嗤い始めた。
「素晴らしい。実に素晴らしいよ、継承者。これほど楽しい戦いは、200年ぶりだ」
瘴気が、膨れ上がった。
今までとは、比較にならない密度。森全体を覆い尽くすほどの、漆黒の波動。
「だが——終わりだ」
公爵の身体が、変貌を始めた。
人の形が崩れ、瘴気そのものと融合していく。巨大な、腐敗の化身へと。
「私は300年間、瘴気を吸収し続けた。人間も、魔獣も、何もかもを腐らせ、その死を糧として——今の私がある」
体長20メートル。
漆黒の巨人が、森に聳え立った。
「さあ、絶望しろ。貴様らの聖蜜など、私の瘴気の前には——」
「——待つのだ!」
小さな声が、割り込んだ。
ビィだった。
「ビィ!? 何をして——」
俺の声が、途切れた。
ビィの身体が、光り始めていた。
「ビィには、皆に言ってなかったことがあるのだ」
小さな蜂が、震えながら言った。
「ビィは——聖蜜結晶化ができるのだ」
「なっ——!?」
メリッサが息を呑んだ。
「ビィ、それは……!」
「知ってるのだ。一度使ったら、ビィは消えるのだ。でも——」
琥珀色の瞳が、俺を見た。
「ご主人さまが教えてくれたのだ。蜂は、大切なもののために命を懸けるって。ビィも、同じことがしたいのだ」
「駄目だ!」
俺は叫んだ。
「お前を失うわけには——」
「ご主人さま」
ビィが、笑った。
「ビィは怖くないのだ。だって——」
光が、強まっていく。
「ビィは初めて、人間に優しくしてもらえたのだ。怪我を治してもらって、名前を呼んでもらって、家族だって言ってもらえたのだ」
「ビィ……!」
「だから——ご主人さまのために、戦うのだ!」
光が、爆発した。
聖蜜結晶。
黄金に輝く結晶が、ビィの身体から生成されていく。純粋な浄化の力。300年分の魔力が凝縮された、奇跡の結晶。
「くっ……!?」
公爵が怯んだ。
聖蜜結晶の光が、瘴気を消し飛ばしていく。巨大化した身体が、見る見るうちに縮んでいく。
「馬鹿な……たかが蜂一匹の力で……!」
「——今だ」
俺は叫んだ。
「ガルダ! メリッサ! 全員で——!」
神獣蜂たちが、一斉に飛翔した。
ガルダの拳が唸る。メリッサの翅が輝く。働き蜂たちの針が、光を纏う。
全ての攻撃が——公爵に集中した。
「ぐあああああっ!」
絶叫。
漆黒の巨体が、崩壊していく。
「馬鹿な……馬鹿な……! 私は不死だ! 死ぬはずが——」
「死は平等だと言ったのは、お前だ」
俺は、燻煙器を構えた。
最後の一撃。継承者の力を込めた、浄化の煙。
「——お前の番だ」
煙が、公爵を包んだ。
「あ……ああ……」
公爵の身体が、光に変わっていく。
「私は……救いたかっただけだ……民を……疫病から……」
最後の言葉は、風に消えた。
——屍食い公爵ヴェルド・フォン・ネクロシスは、300年の時を経て、ようやく死を迎えた。
---
戦いは、終わった。
腐敗騎士団は、主を失って崩壊した。瘴気は晴れ、森に陽光が戻っていく。
だが——
「ビィ……」
俺は、地面に膝をついていた。
手のひらの上に、小さな結晶がある。
聖蜜結晶。ビィが、最後に遺したもの。
「……消えたのか」
呟いた声が、震えていた。
また、失った。
前の世界で家族を失い、今度は——
「継承者」
メリッサの声が、静かに降ってきた。
「泣いておるのか?」
「……泣いてない」
「嘘をつくな」
メリッサが、俺の隣にしゃがみ込んだ。
「ビィは、消えてなどおらぬ」
「——何?」
「聖蜜結晶化は、自己犠牲の技ではない。身体を結晶に変える——再生の技だ」
俺は、顔を上げた。
「……再生?」
「時間がかかる。だが——」
メリッサが、俺の手のひらの結晶を見つめた。
「この結晶を、巣箱の中心に置け。働き蜂たちの羽音が、ビィを目覚めさせる」
「……本当か」
「本当だ」
メリッサが、微かに笑った。
「ビィは、貴様に会いたがっている。だから——必ず戻ってくる」
俺は、結晶を握りしめた。
温かい。微かに、羽音が聞こえる気がした。
「……ああ」
涙が、頬を伝った。
「待ってるぞ、ビィ」
---
一ヶ月後。
忘却の養蜂場は、生まれ変わりつつあった。
全ての巣箱が修復され、蜜源植物が花を咲かせ、神獣蜂たちが忙しく飛び回っている。
「主」
ガルダが、俺の背後に立った。
「北の巣箱から、聖蜜が採れた。量は僅かだが——初めての収穫だ」
「そうか」
俺は頷いた。
「森の外に持っていく。瘴気に苦しむ村があると聞いた」
「危険だぞ」
「分かってる」
俺は振り向いた。
「でも——俺は養蜂家だ。蜜を届けるのが、仕事だ」
ガルダが、僅かに口角を上げた。笑ったのだ、初めて。
「……行ってこい、主。俺は巣を守る」
「頼んだ」
俺は歩き出した。
森の出口で、メリッサが待っていた。
「行くのか」
「ああ」
「……気をつけよ。貴様が死ぬと、ビィが悲しむ」
「分かってる」
俺は、空を見上げた。
二つの月が、淡く光っている。
「俺は養蜂家だ。蜂を守り、蜂と生きる。それは——前の世界でも、この世界でも変わらない」
風が吹いた。
蜂たちの羽音が、森に響き渡る。
「……行ってくる」
俺は、一歩を踏み出した。
忘れられた森の奥で——人と蜂の物語が、静かに蜜を紡ぎ始める。
——これは、死んで生き返った養蜂家と、300年孤独だった蜂たちの、再生の物語。
まだ、始まったばかりだ。




