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異世界転生悪役令嬢弁護士 橋本理沙の事件簿

悪役令嬢弁護士、王命で依頼者の秘密を明かせと言われましたが、守秘義務なので丁重にお断りしてもいいですか?

掲載日:2026/04/12

「悪役令嬢弁護士」シリーズ第4話です。前世が弁護士の主人公が、乙女ゲームの悪役令嬢に転生し、断罪イベントを法的思考で切り抜けた後、異世界で弁護士として活動している——という設定です。これだけ分かれば、この話だけでも楽しめます。

(もっと知りたい方は、第1話「悪役令嬢、断罪されたので反対尋問します」からどうぞ!)

一 依頼


 レシピ紛争を解決してから、二週間。


 相談の手紙が増えた。内容も多様になった。婚約の問題、取引の紛争、使用人の待遇、領地の境界線。——前世の弁護士事務所と変わらない。相談内容のジャンルが増えるのは、信頼が広がっている証拠だ。ありがたいが、身体は一つだ。


「カタリナ。今日の相談は?」


「まず、猫の件の続報です」


「また猫」


「子猫が三匹から五匹に増えたそうです。養育費の再計算を求めてきています」


「猫が増えるペースが、うちで処理できる法律相談の件数を上回っているわね。——受けないわよ」


「次に、貸した馬が返ってこない件。三件目、井戸の水が枯れた責任。四件目——」


「四件目?」


「辺境のヴィルトベルク男爵から、直接お越しになると」


(直接来る。手紙ではなく。——ということは、紙に書けない内容だ。前世でもそうだった。手紙やメールで済む相談は軽い。「面談でお願いします」は重い。「電話でもいいですか」は即答が欲しくて切羽詰まっている。——ただ、引き受けることは大事だが、こちらのペースで対応することも大事だ。依頼者のペースに合わせてばかりいると、後になって必ずトラブルになる。前世で何度も痛い目を見た)


「何時に?」


「午後二時です。——あ、ルイーゼ様。今朝の焼き菓子、まだ召し上がっていませんよ」


「後で」


「後でではなく今です。朝食を抜くと午後の思考が鈍ります。前回レシピ紛争の調査で五品食べた日のほうが判断が冴えていました」


「それは食事量と思考力の相関ではなく、証拠が揃っていたからで——」


「焼き菓子です」


 カタリナが皿を差し出した。有無を言わせぬ笑顔。反論は受け付けないという意思表示だ。


 受け取る時に指先が触れた。——カタリナの手が温かい。焼き菓子を皿に並べる時に触れたのか、元から温かいのか。弁護士は原因を特定すべきだが、特定したくない原因もある。


「ありがと」


「どういたしまして。——あ、ルイーゼ様、口元に粉が」


「え」


 カタリナがハンカチを取り出した。——新しいハンカチ。ラベンダーの刺繍ではなく、すみれの刺繍。前のは返してもらえないから、もう一枚作ったのか。


「お拭きしますね」


「自分で——」


 指先が伸びてきた。頬に触れた。砂糖の粉を拭われた。——二秒。三秒。拭うだけなら一秒で十分だ。残りの二秒は何だ。


「……取れました」


「……ありがと」


 声が小さくなった。子供みたいで恥ずかしい。頬がすこし熱くなった。——焼き菓子を食べる前から頬が熱いのは、焼き菓子のせいではない。


(弁護士は法廷で声を張る訓練を受けている。なのにカタリナの指が頬に触れると声量が三分の一になる。身体の構造的な欠陥だ。設計者に抗議したい。設計者は前世の遺伝子か、今世の神様か。どちらにしても抗議窓口がない)


(……おいしい。厨房長の新作。バターと蜂蜜のバランスが変わった。少し甘くなった。たぶん、ヨーゼフはあのレシピ紛争の後、何かが吹っ切れて新しい配合を試し始めたのだろう。職人の解放感が味に出ている。あと、頬がまだ温かい。焼き菓子のせいだ。焼き菓子のせいということにする)


 午後二時。


 ヴィルトベルク男爵が来た。五十代。痩せている。髪は薄く、目の下に隈がある。指先が微かに震えていた。


(この震え方は怒りでも恐怖でもない。疲労だ。長期間の緊張で身体が限界に来ている。前世で過労の経営者が相談に来た時と同じだ。「先生、もう何ヶ月もまともに寝ていないんです」。——あの顔と同じだ)


「お座りください。お茶をどうぞ」


「……ありがとうございます」


 カタリナがハーブティーを注いだ。男爵は両手でカップを包んだ。指の震えを隠すように。


「どうされましたか」


 男爵は低い声で話し始めた。


「わたくしの領地は、リオガル王国の西端にございます。小さな領地です。鉱山が一つ。それだけが収入源で」


「はい」


「その鉱山の帳簿に——不整合がございます」


(不整合。——弁護士が好む婉曲表現だ。「不正経理」とは言わない。それを言ったら自白になる。「不整合」と言う。自分が不正をしたのか、誰かにされたのか、まだ分からないから)


「不整合とは」


「鉱山の産出量と、王室への納税報告の数字が——合っておりません。帳簿上は産出量が少なく記載されています。結果として、王室への鉱物税が過少申告になっている可能性が——」


「あなたが操作したのですか」


「いいえ! わたくしが気づいた時にはすでに——先代の帳簿係がやったことだと思われます。十年以上前から」


(十年の過少申告。先代がやった不正を、現在の領主が発見した。典型的なパターンだ。前世でも、先代社長の粉飾決算を新社長が発見して駆け込んでくるケース。「前の人がやりました」。前の人がやったのは事実かもしれない。でも放置すれば現任者の責任になる。そして王室への鉱物税の過少申告は——脱税だ)


「なぜ、すぐに王室に報告しなかったのですか」


「報告すれば、過少申告分の追徴と罰則が来ます。小さな領地です。一括で払えば——領民が飢えます」


 声が震えた。自分のためではなく、領民のために悩んでいる。その声の質が、嘘ではないと直感した。前世の弁護士勘だ。弁護士は依頼者の全てを信じない。でも、声の震えは信じる。震えは演技できない。——大抵の場合は。


「分かりました。状況を整理して、最善の策を検討しましょう」


「……助かります。誰にも相談できなかったのです。王都の貴族に知られたら、わたくしの家は——」


「ここで話したことは、わたくし以外の誰にも言いません。弁護士の守秘義務です」


「シュヒギム……?」


「秘密を守る義務。依頼者が話してくれたことは、その人の許可なしには誰にも明かさない。たとえ王にでも。——これだけは、約束します」


 男爵は初めて、少しだけ表情を緩めた。


 カタリナが男爵にお茶の二杯目を注いだ。今度は少し甘い配合。彼女なりの気遣いだ。男爵が両手でカップを持ち直した。震えが少しだけ収まっていた。


(守秘義務。前世では弁護士法に明文化されていた。弁護士は依頼者の秘密を正当な理由なく漏洩してはならない。義務であると同時に、権利でもある。弁護士は、国家権力から問われても秘密を明かさなくてよい——その「権利」こそが、弁護士を弁護士たらしめる。——この世界には弁護士法がない。守秘義務の条文もない。でも、この原則なしに弁護士は成り立たない。依頼者が本当のことを話せるのは、「この人は絶対に秘密を守ってくれる」と信じられるからだ。信頼がなければ、弁護士は情報を得られない。情報がなければ、解決できない。守秘義務は弁護士という仕事の、基盤そのものだ)


二 高官


 三日後。


 帳簿を精査していた。カタリナと二人で、数字の山と格闘。ソファに並んで帳簿を広げる。自然と肩が触れそうな距離になるが、今は仕事だ。仕事の距離だ。


「ルイーゼ様。ここ、十四年前の第三四半期。産出量が急に半分に落ちています」


「よく見てるわね。坑道の崩落でもあったのかしら」


「帳簿にはそう書いてあります。でも——」


「でも?」


「翌月の鉱夫の給与が減っていないんです。産出量が半分なら人件費も減るはずなのに、同じ人数に同じ額を払っている」


「つまり、実際には坑道は崩落していない。産出量は変わっていない。帳簿だけが減らされた」


「……前任の帳簿係が、この年から操作を始めたということですね」


(カタリナ。この子はいつの間に帳簿分析ができるようになった? 前世の加藤くんは数字に弱くて「先生、エクセル壊れました」と言っていた。壊れたのはエクセルじゃなくて数式だ。——カタリナのほうが数字に強い。それに、一緒に帳簿を読んでいると、たまに指が同じ行を指す。指が触れそうになると、どちらかが少しずらす。ずらすのはいつもわたくしのほうだ。——なぜわたくしのほうが先にずらすのか。分析したくない)


「整理すると、前任の帳簿係が十四年間、産出量を少なく記載。差額は——」


「たぶん帳簿係が懐に入れていた。男爵は気づかなかった。帳簿係が辞めた後に、後任が整理して初めて分かった」


「男爵は被害者でもあると?」


「そうよ。横領された側であり、同時に結果的な過少申告者。前世でいえば、従業員の横領を見抜けなかった会社の社長が、税務調査で過少申告を指摘されるのと同じ構造。社長に悪意はない。でも管理責任はある」


「どうしますか」


「王室に自主申告して、分割での追納を交渉する。前世の『修正申告+分割納付』と同じ発想。先に正直に言う方が、後でバレるより百倍マシ。——ただ」


「ただ?」


「問題は、この話を知っている人間がわたくしたちだけではないかもしれないこと。前任の帳簿係がどこかで喋っていたら——」


 その時。


 扉が叩かれた。重い音。三回。間隔を空けて。格式のある叩き方だ。——貴族のそれではない。王宮の作法だ。


(まったく、この世界はろくでもないルールが多すぎる。叩き方ひとつで身分が分かる。便利ではあるが面倒だ。そのうち整理しよう。——弁護士は余計なルールを見ると整理したくなる。職業病だ)


(王宮の人間? この屋敷に?)


 使用人が名前を告げた。


「王家内政監査局局長、リーデンベルク卿がお見えです」


(内政監査局。——税務監査。来るのが早い。早すぎる)


 入ってきた男。リーデンベルク卿。六十代。長身。顎鬚を蓄え、目が細い。笑顔はあるが、目は笑っていない。前世でいえば税務署の統括調査官。あの「お話を伺いたいんですが」の笑顔。あれと同じだ。


「ルイーゼ・フォン・エーレンフェルト嬢。お初にお目にかかります」


「ようこそ。——事前にご連絡をいただければ、お茶の準備もいたしましたのに」


 笑顔で言う。顔には「いきなり来んじゃねーよ」と書いてあるかもしれない。書いてあったとしても、この世界の人間にはひらがなは読めない。安全だ。


(事前連絡なし。抜き打ち。前世の税務調査も抜き打ちの方が厄介だった。準備する時間を与えないのが目的だ)


「急なお訪ねをお許しください。実は、ヴィルトベルク男爵家の鉱山に関して、内政監査局としてお聞きしたいことがありまして」


(来た。やはり——誰かが喋った。前任の帳簿係か、あるいは別のルートか)


「男爵家の鉱山のことでしたら、男爵にお聞きください」


「男爵にはまだ事情を聞いておりません。ですが——先日、あなたが男爵から相談を受けたと聞きましてね。まずはそちらから伺おうかと」


「相談? なんのことでしょう」


(相談を受けた事実そのものが秘密だ。「はい、相談を受けました」と言った瞬間、男爵がわたくしに何かを話したことが確定してしまう。弁護士は「相談があったかどうか」すら、明かしてはならない。——鉄則だ)


「ルイーゼ嬢。とぼけなくてもよろしい。内政監査局の情報網を甘く見ないでいただきたい」


「とぼけているのではなく、守秘義務です。——どなたからお聞きに?」


「それは申し上げられません。——こちらにも守秘義務がございますので」


(守秘義務。——その言葉をこちらに使うとは。面白い人だ。皮肉ではなく、感心する)


「ルイーゼ嬢。率直に申します。男爵があなたに何を相談したか、お教えいただきたい」


 沈黙。三秒。


「お断りします」


「……なぜ?」


「守秘義務です。依頼者の相談内容を、第三者に明かすことはできません」


「第三者ではありません。王家の内政監査局です」


「王家であっても第三者です。依頼者と弁護士以外は、すべて第三者です」


 リーデンベルク卿の目が細くなった。笑顔が消えた。


「ルイーゼ嬢。あなたは『弁護士』と名乗っておられるようですが——そもそも、この王国に『弁護士』という制度は存在しない。あなたが勝手に名乗っておられるだけだ」


(正論だ。その通り。わたくしが勝手に名乗っている。制度はない。資格もない。弁護士法もない。——でも、だからこそ。制度がないから守秘義務がないのではない。制度があろうがなかろうが、人の秘密を預かる者は、その秘密を守る。それが道理だ)


「おっしゃる通り、『弁護士』は正式な制度ではありません。しかし、わたくしが他人の相談を受ける以上、相談者が安心して本当のことを話せる環境を保証する義務があります。それを守秘義務と呼んでいます」


「制度にない義務を、自分に課していると?」


「はい。それに、相談者全員とお約束をしています。『あなたの秘密は守ります』と。——約束を破るわけにはいきません」


「……変わった令嬢だと聞いてはいたが」


「よく言われます。——カタリナ、お茶をお持ちして」


「はい」


 カタリナがハーブティーを二杯持ってきた。リーデンベルク卿の前にも丁寧に置く。にこやか。完璧な社交の微笑み。——しかし、ルイーゼの隣に座る時、わずかに椅子をルイーゼ側に寄せた。肩が触れそうな距離。


 カタリナの指が、お茶を置く際にルイーゼの手の甲に一瞬触れた。——わざとか。偶然か。どちらでも、心臓が跳ねた。弁護士の心臓は法廷でも交渉でも動じない。なのに、カタリナの指先ひとつで跳ねる。設計上の欠陥だ。


(この子、さりげなく壁を作っている。リーデンベルク卿との間に、自分の身体を差し込んでいる。物理的に、わたくしを守るように座っている。——有能。怖いくらい有能。そして、肩が近い。近いが、今はありがたい。隣に誰かがいるだけで、声が安定する。前世は一人で戦った。あの時より、ずっと心強い)


三 王命


 リーデンベルク卿はお茶を一口飲んだ。「うまい」とは言わなかった。味は分かる人間の表情ではある。ただ、認めたくないのだろう。敵陣のお茶をうまいと言ったら負けだ、と思っている。


(前世では、そもそも検察官が弁護士事務所に来ること自体が珍しかった。検察は呼ぶ側だ。呼ばれる側ではない。——この世界では、王家の高官がわざわざ足を運ぶ。それだけ、この件が重要だということだ)


「ルイーゼ嬢。改めてお聞きします。男爵の相談内容を開示してください。これは王家の内政監査権に基づく正式な要請です」


「内政監査権が、個人の相談内容にまで及ぶ法的根拠はおありですか」


「王国法典第四十四条。『王家は領地の統治に関する帳簿および記録を閲覧する権限を有する』」


「帳簿と記録。——わたくしと男爵の間で交わされた会話は、帳簿でも記録でもありません。会話です」


「屁理屈を——」


「事実の整理です。条文の射程の確認は、屁理屈ではなく法的思考です」


 リーデンベルク卿の額に薄く汗が浮いた。——この人、口論に慣れていない。権威で押すことには慣れているが、論理で返されると弱い。前世の税務署員にも二通りいた。論理で来る人と、権威で来る人と。権威で来る人のほうが、崩れた時の落差が大きい。


「では、王命として命じます」


(来た。——王命。前世の警察の「任意の協力を」に似ている。あちらは表面上は「お願い」で、こちらは直球の「命令」だが、権力で口を割らせようとする構造は同じだ。あの時は警察だった。今回は王家の高官。権力の種類が違うだけで、結局は同じことだ)


「王命として命じられましても、お答えいたしかねます」


「小娘が——王命を拒否するとどうなるか、分かっているのか」


「カタリナ」


「はい。一度目です」


「何が一度目です」


「ルイーゼ様を『小娘』とお呼びになった回数です。記録しています」


 カタリナが手帳を開いて見せた。日時、発言者、発言内容。書式はルイーゼが教えた証拠記録の形式。完璧だ。


 リーデンベルク卿が目を見張った。


「記録?」


「弁護士の助手は、すべての会話を記録する訓練を受けています。必要に応じて、勅裁会議に証拠として提出できる形式で」


(勅裁会議。この言葉が効いた。リーデンベルク卿の顔が変わった。前世でも「裁判」という言葉を出すと、相手の態度が変わることがある。権力者は権力に自信があるが、裁判所という「もう一つの権力」の前では態度が変わる。なぜなら、裁判は証拠で決まる。権威では決まらない)


「ルイーゼ嬢」


「はい」


「……あなたの主張は分かった。だが、王家としてはこの件を放置できない。ヴィルトベルク男爵の鉱山に不正の疑いがある以上——」


「疑いがあるのでしたら、男爵に直接お聞きになればよろしいのでは? わたくしを経由する必要はありません」


「男爵は口を割らん」


「それはそうでしょう。突然来て『不正を白状しろ』と言われて素直に話す人はいません。——前世でも今世でも」


「前世?」


「独り言です。——リーデンベルク卿。一つお聞きします」


「何だ」


「なぜ、男爵に直接聞かず、わたくしを先に訪ねたのですか」


 沈黙。


(答え合わせはしなくても分かる。理由は二つ。一つ、男爵に直接聞いても「知りません」と言われるだけだと思った。二つ目——女の子なら簡単だろうと思った。——本当に、こういうのは腹が立つ。ツクヨのやつ、だから、大国の王子様に転生させてくれって頼んだのに、わかっていない)


「リーデンベルク卿。わたくしは男爵の代理人です。——もっとも、今、この場で代理人であること自体を認めることはできませんが。——日を改めて、男爵から正式に交渉代理の委任があった上で、お話しいたしましょう」


「正規の手順とは」


「まず、書面で開示要請の法的根拠を示してください。次に、男爵本人の同意を取ってください。男爵が同意すれば、わたくしは喜んで協力します」


「男爵が同意しなければ?」


「その場合は、勅裁会議に開示命令を申し立ててください。議会が命じれば、従います。——ただし、わたくしは命令があっても、守秘義務を尊びます。プロは絶対に秘密を明かしません。どうしてもというなら、男爵に直接、資料の開示を命じればよろしいでしょう。弁護士は法に従います。王命にではなく、法に」


 三秒の沈黙。


「……法に従う、か」


「はい。順番が大事です。まず法があり、次に手続きがあり、最後に開示がある。順番を飛ばすと、法の意味がなくなります」


 リーデンベルク卿がようやくお茶を飲んだ。二口目。今度は少し長く口に含んだ。


「……うまい茶だ」


(認めた。——勝った、とは言わない。まだだ。でも、お茶をうまいと言った。これは降参の第一歩だ)


「厨房長が丹精込めて育てたハーブです。——ルイーゼ様、焼き菓子もお出ししますか?」


「カタリナ。今は——」


「焼き菓子は交渉の潤滑油です。ルイーゼ様がそう教えてくださいました」


「……言ったかしら」


「レシピ紛争の時、『甘いものがあると人は冷静になる』と」


「それは食い意地の正当化で言っただけ——いえ、出して」


 カタリナが焼き菓子を持ってきた。厨房長の新作。蜂蜜とクルミ。リーデンベルク卿の前にも一枚。


 リーデンベルク卿が焼き菓子を手に取った。一口。——表情がわずかに緩んだ。


(美味しいお菓子は、良い仕事の燃料だ。前世の弁護士事務所にも、このレベルの焼き菓子があれば、もう少しまともな交渉ができたかもしれない)


「ルイーゼ嬢。一つ聞いていいか」


「どうぞ」


「なぜそこまで守る。制度もない。義務もない。自分で作った規則だろう。破っても誰にも怒られん」


「怒られないからこそ、守るんです」


「……どういう意味だ」


「怒られるから守るのは、子供の道徳です。怒られなくても守るのが、大人の倫理です。——弁護士の矜持は、誰かに強制されるものではありません。自分で選ぶものです」


 沈黙。長い。五秒。十秒。


(前世で、同じことを警察官に言ったことがある。警察が「守秘義務を盾にして不正を隠蔽するのか」と迫ってきた時。橋本理沙は答えた。「守秘義務は盾ではありません。信頼の基盤です。これがなければ、依頼者は本当のことを話せない。本当のことを話せなければ、弁護士は正しい助言ができない。正しい助言ができなければ、結局は依頼者も社会も損をする。守秘義務を破ることは、一時的には情報が得られても、長期的には法律制度そのものを壊します」。警察官は黙った。——今日も、同じ沈黙が来た)


「リーデンベルク卿。お帰りの前に一つだけ」


「何だ」


「男爵は、悪い人ではありません。わたくしの口からは相談内容を申し上げられませんが、一つだけ言えることがあります。——男爵は、正しいことをしたくて、わたくしのところに来ました」


 リーデンベルク卿が目を細めた。今度は笑顔ではなく、考える目だった。


「……この小娘、なかなか——」


「カタリナ」


「二度目です」


「……ひとつ聞きたい。三度目を言ったらどうなる」


「勅裁会議への証拠提出が一ページ増えます」


(本当は、こういう悪口みたいな証拠を出すのは素人っぽくてやりたくないのだが、まあ、これくらいの意趣返しは許されるだろう)


「……分かった。書面で改めて要請する。手続きを踏んで」


「お待ちしています。——リーデンベルク卿」


「何だ」


「今日の焼き菓子、お持ち帰りになりますか」


 リーデンベルク卿が初めて、少しだけ笑った。目が笑っていた。


「……一枚だけいただこう」


四 助言


 リーデンベルク卿が去った後。


「カタリナ。よくやったわ」


「何がですか」


「記録。あのタイミングで手帳を見せたの、完璧だった」


「ルイーゼ様の真似です。——ただ」


「ただ?」


「少し怖かったです。王家の高官を前にして、わたくし、足が震えていました」


「見えなかったわよ」


「隠しました。椅子を寄せたのは、半分はルイーゼ様を守るため、半分は自分が安心するためです」


(正直だ。怖いのに動いた。それが一番大事だ。前世の弁護士事務所では「怖くないフリ」を教えられた。違う。怖いまま動けるかどうかが、本物の度胸だ。——それに、「自分が安心するため」。わたくしの隣に座ると安心すると、この子は言った。——胸の奥が熱い。焼き菓子のせいではない。焼き菓子はもう食べた。別の熱さだ。原因特定を弁護士は放棄する)


「カタリナ。怖いのに動くのは、勇気よ」


「ルイーゼ様は怖くなかったんですか」


「怖かったわよ。——でもね、前世でもっと怖い人に同じことを言ったことがある。あの時も足が震えた。でも、守秘義務を破ったら依頼者が困る。自分の恐怖より、依頼者の信頼のほうが重い。——天秤にかけたら、答えは決まっていた」


「天秤」


「弁護士はいつも天秤を持っている。片方に自分の感情。もう片方に依頼者の利益。感情が重い日もある。でも、依頼者の利益のほうが重い日が続けば、弁護士は弁護士でいられる。逆が続いたら、やめたほうがいい」


「……ルイーゼ様は、逆になったことはありますか」


「一度もない。——嘘。一度だけ危なかった」


「いつですか」


「前世の最後の年。疲れすぎて、依頼者の電話に出るのが嫌になった日がある。受話器を見て三秒止まった。——三秒で持ち直したけど、あの三秒は今でも覚えている」


 カタリナが黙った。何も言わずに、お茶の三杯目を注いだ。——そして、その手がそっとルイーゼの手の横に置かれた。触れてはいない。でも、指先が小指一本分の距離。「触れてもいい」と「触れない」の境界線の、ちょうど上。


(この子は、言葉が要らない場面で黙れる子だ。それが一番難しい。前世の若手弁護士は依頼者が泣いている時にアドバイスを始める。違う。泣いている人には、お茶を出すんだ。そして手を、小指一本分の距離に置く。——教わったのではなく、カタリナを見て思い出した)


(……小指一本。縮めたい。縮めたくない。縮めたら何が変わるか分からない。分からないから縮めない。——分からないから縮めたい。どっちだ。弁護士は矛盾する感情を整理する訓練を受けているはずだが、この矛盾は整理できない)


「さて。男爵に連絡しましょう。リーデンベルク卿が来たことを伝えて、今後の方針を相談する」


「はい」


「方針は、自主申告。先に正直に言うほうがいい。男爵が自分から王室に報告すれば、守秘義務の問題も解消する。わたくしが話したのではなく、依頼者自身が話したことになる」


「でも、男爵は追徴を恐れているのでは——」


「だから、分割納付の交渉をする。一括は無理でも、十年かけて返すなら領民は飢えない。前世の税務署も分割には応じた。——まともな行政なら、潰すより生かすほうが長期的に得だと分かるはず」


「リーデンベルク卿は、まともな人ですか?」


「……帰り際にお茶をうまいと言った人は、大抵まともよ」


「焼き菓子も一枚お持ち帰りになりましたし」


「焼き菓子のお持ち帰りも判定基準なの?」


「経験則よ。前世でも、事務所のお茶をおかわりした依頼者は、その後の交渉がうまくいった。おかわりしなかった相手方とは、三年争った」


「……飲み物で人を判断するのはどうかと思いますが」


「弁護士は使える判断基準は何でも使うの。『お茶をうまいと言ったか否かテスト』を学会発表したいくらい」


「それは比喩ですよね?」


「比喩よ。——たぶん」


五 交渉


 一週間後。王都。


 内政監査局。


 ルイーゼは男爵の代理人として出頭した。カタリナが記録係。男爵もいる。相変わらず指が震えているが、目は据わっていた。覚悟を決めた人の目だ。


「ヴィルトベルク男爵ご自身から、ご報告があるそうですね」


 リーデンベルク卿が促した。前回の高圧的な態度はない。書面で要請するという約束は守った。そして、男爵のほうが先に自主報告を申し入れた。——手続きが功を奏した。


「はい。わたくしの領地の鉱山帳簿に、前任の帳簿係による——不正な記載がございました。産出量の過少記載と、それに伴う鉱物税の過少申告です。十四年間にわたります」


 男爵の声は震えていたが、途切れなかった。ルイーゼが隣にいる。カタリナが記録している。


「詳しくは、代理人のルイーゼ・フォン・エーレンフェルトから申し上げます」


 ルイーゼが立った。——立つ前に、カタリナがそっとルイーゼの袖に触れた。一瞬。「がんばって」の意味だと分かった。言葉がなくても、袖に触れるだけで伝わるものがある。


「資料をお配りします。——カタリナ」


 カタリナが、帳簿の分析結果をまとめた書面を配った。十四年分の産出量の推移。不自然な減少のポイント。鉱夫の給与との不整合。帳簿係の交代時期との照合。——すべて、数字で示した。


「第一に、不正の実行者は前任の帳簿係であり、男爵自身は関与していません。第二に、男爵は不正を発見した後、速やかに専門家——わたくしに相談し、自主報告を選択しました。したがって、悪意ある隠蔽に科される重い罰則は免除されるべきです。第三に、過少申告分の本税については、十年間の分割納付をご提案いたします」


 リーデンベルク卿が書面を読んでいる。丁寧に。一ページずつ。——この人は数字が読める。前世の税務署の統括調査官と同じ目だ。数字に嘘がないか、一行ずつ確認している。


「ルイーゼ嬢。一つ聞きたい」


「どうぞ」


「前任の帳簿係。名前はグスタフ・ヘルベルトと記載されていますが——この人物の現在の所在は?」


「半年前に男爵領を離れ、現在はアルセイド伯領に移住しています。追及はそちらで行うべきかと」


「横領の立証は?」


「帳簿の照合で十分です。産出量の改竄と、グスタフ個人に流れた金銭の痕跡が、給与台帳の外に記録されています」


(前世の横領事件と同じ構造だ。帳簿を二つ持つ人間は必ず足跡を残す。なぜなら、横領した金をどこかで使うからだ。使えば記録が残る。使わなければ横領の意味がない。——横領する人は、金を使いたいから横領する。当たり前だが、この当たり前を忘れて「完全犯罪だ」と思い込む。完全犯罪は存在しない。あるのは、追及されなかった犯罪だけだ)


「分割納付については——」


「王室財務局との協議になりますが、わたくしから一つ申し上げます。ヴィルトベルク男爵領は小さな領地です。鉱山が唯一の収入源です。ここを潰せば、領民が路頭に迷います。領民が路頭に迷えば、王室は別の予算で救済しなければなりません。——潰すより、生かして十年かけて回収するほうが、王室にとっても得です」


「……行政効率の話か」


「はい。正義はもちろん大事です。でも正義を貫いた結果、領民が飢えたら——それは正義ですか?」


(前世のボス弁の言葉。「橋本、正しいだけじゃ弁護士はできない。正しくて、かつ、関係者が生きていける着地を見つけろ」。生きていける着地。それが弁護士の仕事だ。弁護士にとって「勝つ」ことはただの手段だ。目的は解決だ)


 リーデンベルク卿が書面を閉じた。——そして、テーブルに置かれた焼き菓子の最後の一枚に手を伸ばした。


(また食べた。——今日三枚目だ。この人は敵ではない。厨房長の焼き菓子を三枚食べる人に悪人はいない。『焼き菓子消費量と人格の相関』。お茶テストの次は焼き菓子テストだ。——どこの学会じゃ。でも、ネタが溜まる一方だ)


「ルイーゼ嬢。前回、わたくしはあなたの方法を無作法だと思った」


「ええ」


「今日は考えが変わった。——あなたが守秘義務を守ったから、男爵は自主報告を選択できた。あなたに話したことが漏れていたら、男爵は自分から名乗り出なかっただろう。逃げたか、証拠を隠したかもしれない。結果として、守秘義務を守ったほうが、王室にとっても良い結果になった」


(僥倖が過ぎる。——この人は、守秘義務の価値を理解した。「秘密が守られるなら、人は正直になれる」。それが守秘義務の本質だ。この人がそれを分かってくれた。前世では、それを理解してくれない人のほうが多かった)


「そう言っていただけると、弁護士冥利に尽きます」


「分割納付は財務局と協議する。——ただし、十年は長い。七年でどうか」


「八年でお願いします。最初の二年は利率を下げてください。領地の立て直しに初期投資が必要です」


「……七年半」


「八年。利率は据え置きで構いません」


 沈黙。五秒。


「……八年で。——あなた相手の交渉は疲れる」


「ありがとうございます。——カタリナ、合意内容を記録して」


「すでに書いています」


(この子、交渉が終わる前から合意書を書き始めている。——予測して動いている。「前世の事務所にほしかった」という感想がもう何度目か数えるのをやめた。前世の事務所にはいなかった。今世のここにいる。それがすべてだ)


 男爵の目に涙が浮いた。声を出さずに。


「ルイーゼ嬢。——ありがとう、ございます」


「男爵。報酬のご相談ですが」


「金銭で——」


「いえ。鉱山の安全管理規程を作らせてください。帳簿の不正を防ぐ仕組みがもっと必要です。——無料で」


「無料……?」


「仕組みを作るほうが好きなんです。報酬は仕組みで十分。——あとは、領地の名産品があれば」


「鉱石の原石でよろしければ……」


「カタリナ。鉱石はいる?」


「いりません。——あ、でも、ヴィルトベルク産の蜂蜜は有名だと聞いたことがあります」


「蜂蜜でお願いします」


「……蜂蜜ですか。喜んで」


(弁護士報酬が蜂蜜。前世では金銭が原則だったが、この世界では食べ物のほうが嬉しい。金貨は食べられない。——前世でも、野菜を報酬に貰った弁護士がいたらしい。その人は幸せだったのだろうか。たぶん、幸せだ。金銭では買えない感謝で作られているから)


 内政監査局を出た時、廊下ですれ違った令嬢たちの囁き。


「ねえ、あの令嬢よ。王命を断ったって話の」

「弁護士とか名乗ってる人? 守秘義務がどうとか」

「言葉が難しすぎて分からないけど、要するに『言わない』って言い張ったんでしょう?」

「王家の高官相手に。度胸あるわね」

「度胸もだけど、助手の子がすごいらしいわよ。全部記録してるんですって」

「あの子ね。ルイーゼ様の隣にいつもいる子」

「いつも、どころじゃないわよ。肩が触れる距離に座ってるの。自然に」

「距離が近いのよね、あの二人」

「なんていうか——お互い気づいてないのが一番かわいいところよね」

「しっ。本人たちが来るわ」


(何か囁いている。聞こえない。——いや、最後の一言だけ聞こえた。「かわいい」。何が可愛いのだ。弁護士の第六感は法的に認められた証拠能力ではないが、個人的にはかなり正確だ。そしてその第六感は「これ以上は聞こえなくてよかった」と言っている)


「ルイーゼ様。交渉お疲れさまでした。——あの、お食事はどうされますか」


「食事?」


「お昼を召し上がっていないですよね。——前回のレシピ紛争の時は五品召し上がりましたが」


「あれは証拠収集であって食事ではない」


「五品の証拠収集の後、さらに五品追加で召し上がりましたよね。そちらは証拠収集ではないです」


「……前半の五品で確信を得た後の検証作業よ」


「それを食い意地と言います」


「……ちいさいレストランがあったわね。パルロワ通りに」


「知ってます。調べておきました」


(……いつ調べたの。交渉の前? 交渉が終わった後の食事まで予測している。これは助手の技量ではなく、「一緒に食事がしたい」の事前準備では——いや。そこまで読むのは弁護士の悪い癖だ。何でも証拠にしたがる)


 小さなレストラン。パルロワ通りに面したプティ亭。過度な装飾はないが、テーブルクロスが白い。清潔感がある。


「カタリナ。ここ、どうやって見つけたの」


「以前、はちみつの配達の方に教えていただきました。——『二人の女性が静かに食事できるお店』という条件で」


(二人の女性が静かに食事できるお店。——その条件指定は、仕事の場として? それとも——いや。止めよう)


 料理が来た。スープとパン。素朴だが、おいしい。厨房長の料理とは違う方向のおいしさ。


「ルイーゼ様。今日の交渉、見事でした」


「そう?」


「リーデンベルク卿が『疑わしい』と言った時、ルイーゼ様が『男爵に直接お聞きになれば』と返したでしょう。あれ、すごいと思いました」


「何が?」


「『私は知らない』でも『私が話す』でもなく、『本人に聞け』と。守秘義務を守りながら、同時に解決の糸口を示した。——それが、弁護士の交渉術なんですね」


(この子は、わたくしの交渉の構造を理解している。書き留めた内容を「何を書かなかったか」で理解する子が、交渉の「何を言わなかったか」まで読み解く。——恐ろしい子だ。「弁護士になりたい」と言われたら、どうしよう)


「カタリナ」


「はい」


「その分析、確かにその通りよ。——でも、スープが冷めるわ」


「あ、すみません」


 カタリナが慌ててスプーンを取った。その拍子に、パンがテーブルから落ちそうになった。ルイーゼが受け止めた。指が触れた。


「……あ」


「……落ちたら大変でしょ」


「は、はい。ありがとうございます」


 カタリナの声が裏返った。——この子の声が裏返るのは珍しい。王家の高官の前でも完璧に平静だった子が、パンを受け止められただけで声が裏返る。——優先順位がおかしいのはわたくしだけじゃないらしい。


(……よかった。この子もバグっている。わたくしだけじゃなかった。安心する。——何に安心しているんだ。弁護士は安心感の根拠を明確にすべきだが、明確にしたくない根拠もある)


六 守秘義務


 帰りの馬車。カタリナと二人。


 馬車が揺れる。夕暮れの光が窓から差し込む。カタリナの髪が橙色に染まっている。——綺麗だ、と思った直後に、弁護士として不適切な感想だと訂正した。訂正したが、撤回はしない。事実だから。


「ルイーゼ様」


「何?」


「守秘義務って、言葉にすると簡単ですけど——実際にやるのは怖いですね」


「怖いわよ。王家の高官に『お断りします』って言うんだもの。前世でも警察に同じことを言ったけど、声が裏返りかけた」


「声は裏返りませんでしたよ。今回」


「慣れた。——嘘。慣れてない。毎回怖い」


「でも毎回守る」


「守るわよ。——守秘義務を一度でも破ったら、二度と依頼者に信頼されない。一度失った信頼は、百回の誠実で取り戻せない。だから一度も破らない。それだけ」


 カタリナが窓の外を見た。夕暮れの王都。石畳が橙色に染まっている。


「ルイーゼ様。わたくしも、守秘義務を守る人になりたいです」


「もうなってるわよ」


「え?」


「卿が屋敷に来た日の記録。あなたが書いたものには、男爵の相談内容は一行も入っていない。リーデンベルク卿との会話だけ。——男爵が何を相談したかは、意図的に書いていないでしょう?」


「……当然です。記録は第三者に見られる可能性がありますから」


「それが守秘義務よ。教えなくても、あなたはもうやっている」


 カタリナが赤くなった。褒められ慣れていない顔だ。耳まで赤い。——レシピ紛争の時、焼き菓子の「ずっと」を約束した時と同じ赤さ。


 馬車が石畳の段差で揺れた。カタリナの身体が傾いた。——肩がぶつかった。


「あ、すみません——」


「いいわよ。揺れるから」


 カタリナが姿勢を戻そうとした。——戻しかけて、止まった。肩がルイーゼの肩に触れたまま。


「……カタリナ。姿勢」


「はい。——でも、揺れるので。安全のために」


「安全のため、ね」


(安全のため。前世のコンプライアンス研修で「職場の距離感」について二時間の講義を受けた。上司と部下は一定の距離を保つべき。——今、肩が密着している。コンプラ研修の講師が見たら卒倒する距離だ。でも、この世界にコンプラ研修はない。ないものは違反できない。——都合のいい法解釈だ。弁護士失格だ。でも、肩が温かい。この温かさは法的に禁止されていない)


 しばらく無言。馬車の揺れの音だけ。肩が触れたまま。どちらも離れない。


「ルイーゼ様。そのハンカチ」


「えっ」


 ポケットからラベンダーの刺繍が覗いていた。


「まだお持ちなんですね」


「……洗濯に出しそびれて」


「出しそびれ。——三週間ですよね」


「三週間は誤差の範囲よ」


「どの範囲ですか」


「弁護士の裁量の範囲」


「裁量でハンカチを返さないのは聞いたことがないです」


「この世界にハンカチの返却義務を定めた法律はないわ」


「作りましょうか」


「作らないで」


 カタリナが笑った。目がくしゃっとなる笑い方。肩が触れたまま笑っている。振動が伝わってくる。笑い声だけじゃない、笑う時の身体の揺れが、肩を通じてこちらに伝わる。


(……法典にもケースブックにも載っていない感情がある。弁護士はそれを「未知の法域」と呼ぶ。呼ばない。わたくしが今作った。——作るな)


「ルイーゼ様」


「何」


「返さなくていいです。そのハンカチ」


「……え?」


「差し上げます。——ルイーゼ様のポケットにある方が、嬉しいので」


 声が小さい。夕暮れの光の中で、カタリナの横顔が赤い。光のせいか、別の理由か。弁護士は原因を分析すべきだ。——分析したくない。分析した結果が怖い。怖いのに、心臓が跳ねている。


「……そう。じゃあ、もらっておくわ」


「はい」


(声が震えた。わたくしの声が。守秘義務で王命を断った時は震えなかった声が、ハンカチを貰っただけで震えた。——優先順位がおかしい。人間としての設計が根本的にバグっている)


七 エピローグ


 夜。自室。


 焼き菓子を一枚食べた。蜂蜜とクルミの新作。——おいしい。


 ヴィルトベルク男爵から手紙が来ていた。短い。


「ルイーゼ嬢。蜂蜜を送りました。領民一同、感謝しています。——追伸。帳簿の管理体制について、ルイーゼ嬢が作ってくださった規程を領内に周知しました。鉱夫たちが『これで安心して働ける』と言っています」


(安心して働ける。——それが一番大事だ。法律はそのためにある。人が安心して暮らせるように。安心して働けるように。安心して、嘘をつかずに生きていける仕組みを作る)


 もう一通。リーデンベルク卿から。これも短い。


「ルイーゼ嬢。先日の件、財務局との協議が完了し、八年の分割納付が正式に承認された。あなたの言う『守秘義務』について、内政監査局でも議論している。確かに、相談者の秘密が守られると分かれば、自主報告が増えるかもしれない。——法制度化を検討する価値はあると考える」


(法制度化。守秘義務が、制度になる。——前世では当たり前だったものが、この世界で一から作られていく。感慨がある。ないはずの制度を、わたくしが「ある」と言い張って守り続けた結果、本当に制度になろうとしている。嘘から出た真、ではない。信念から出た真だ)


 カタリナの調査記録が机にある。今日の分。相変わらず隅に小さな花の落書き。——ラベンダーだ。前回はただの花だった。今回はラベンダー。


(ハンカチの刺繍と同じ花。気づいてないふりをすべきか。気づくべきか。弁護士は証拠を見逃さない。でも、この証拠は見逃したほうが安全かもしれない。安全? 何から安全だ? 自分の感情からか?)


(やめよう。不用意な証拠収集は弁護士倫理に反する。——反しない。反しないが、怖い。弁護士が怖がる証拠は二種類。勝てない証拠と、勝ちたくない証拠。これは後者だ。勝ちたくないのではなく——勝ったら何が起きるか分からない。未知の法域)


 ポケットのハンカチに触れた。ラベンダーの香り。三週間と少し、ずっとここにある。そして今日から、正式にわたくしのものだ。


 手紙の束を見た。新しい相談が四通。一通は「猫の養育費の続報」。


(猫。また猫。五匹に増えた猫の養育費。——やらないと言ったじゃないか。……でも、子猫が五匹。養育費の計算より、誰が父親かの認定が先だ。猫の親権争い。前世の家裁より難しい可能性がある。——受けない。受けないが、気になる。弁護士の悪い癖だ)


 四通来ている。仕事がある。依頼者がいる。守秘義務を守る仕事がある。


 守秘義務。


 前世で何百回も使った言葉。この世界で初めて使った時、誰にも通じなかった。「シュヒギム?」と聞き返された。でも、今日、リーデンベルク卿が「法制度化を検討する」と書いた。通じなかった言葉が、制度になりかけている。


 一人の弁護士が、一つの言葉を守り続けた。それだけだ。


 地味だ。テンプレだ。でも——テンプレは罪じゃない。使い方が、すべてだ。


 焼き菓子の最後のひとかけ。蜂蜜の香り。


 ——前世のボス弁に報告したい。「先輩。異世界で守秘義務を守りました。国家権力に‘明かせ’と言われて、断りました。同じことを言いました。同じ顔をされました。——そしてたぶん、制度になります。前世では当たり前だったものが、この世界で初めて生まれます」


 怒られるだろうな。「おまえ、異世界でも相変わらずか」と。


 相変わらずだ。弁護士は、相変わらずでいい。相変わらず依頼者の秘密を守り、相変わらず面倒な交渉をし、相変わらず焼き菓子で報酬をもらう。


 ポケットからハンカチが少しはみ出している。ラベンダー。——もう返却義務はない。贈与された。贈与契約は合意で成立する。撤回できない。


(……撤回できないことが、こんなに嬉しいとは思わなかった。法的安定性が心の安定性に直結している。弁護士らしい幸福の形かもしれない)


 眠くなってきた。今夜はよく眠れそうだ。——あ、そういえば。


 「ツクヨ」


 心の中で呼びかける。前世の記憶、乙女ゲームの案内役。最近は夢の中でしか会わない。


 目を閉じた。


  *


 夢の中。白い空間。ツクヨがいた。いつもの丸い光の姿。


「おつかれさま。——今回は地味だったね」


(地味で悪かったわね)


「剣も魔法も出ないし、食べ比べもないし。ずっと書面と会話だけ」


(弁護士の仕事は大半が書面と会話よ。派手さを求めるなら勇者を当たって)


「でも、いい回だったよ。——守秘義務って概念、この世界にはなかったから。ルイーゼが作ったんだね」


(作ったんじゃない。持ち込んだだけよ。前世にあったものを)


「持ち込んだものが根付くかどうかは、持ち込んだ人次第だよ。——ところで」


(何)


「ハンカチ、もらったね」


(……盗聴?)


「ゲームの案内役は全部見えるの。——カタリナちゃん、嬉しそうだったよ」


(そう。——嬉しそうだった?)


「ルイーゼも嬉しそうだったよ」


(……うるさい。寝る)


「はいはい。おやすみ。——あ、それとさ。今日のレストラン、『二人の女性が静かに食事できるお店』って条件で探したんだってね。カタリナちゃん」


(……それも見えてるの)


「それ、仕事の打ち合わせ場所探しじゃないよね」


(寝る)


「次回予告。猫の養育費、受けたほうがいいと思うな」


(受けない)


「五匹だよ? 五匹。可愛いよ?」


(可愛さと法的問題は関係ない。おやすみ)


  *


 ——と思ったら、まだツクヨがいた。


「あ、もう一つだけ」


(……何)


「最後に、これだけ伝えさせて」


 ツクヨの光が一瞬、強くなった。そして、声が響いた。


(秘密保持の権利及び義務)

第二十三条 弁護士又は弁護士であつた者は、その職務上知り得た秘密を保持する権利を有し、義務を負う。但し、法律に別段の定めがある場合は、この限りでない。


(……弁護士法第二十三条。前世の法律。——なんであなたがそれを知っているの)


「ゲームの案内役だからね! 設定資料は全部読んでるの!」


(……設定資料に日本の弁護士法が入っている乙女ゲームがあるか)


「あるんだよ!」


(そう。……それとね、ツクヨ)


「えっ、何?」


(乙女の夢に何度も出てくるのって、セクハラじゃないかしら。プライバシーの侵害よ)


「えっ……? え、ええっ!?」


(守秘義務の話をした日に、プライバシー侵害を指摘することになるとは思わなかったわね)


「ご、ごめん……今後は気をつける。——いや、そういえば、うちの業界も、最近、コンプラ厳しくてさ……」


(乙女ゲームの案内役にコンプラがあるの。——もういい。寝る)


 朝。目覚めた。枕元にラベンダーの香り。——ハンカチを握りしめて寝ていた。


(……これは。寝相の問題であって、感情の問題ではない。断じて)


 起き上がって、顔を洗った。鏡の前で、ハンカチをポケットに戻した。ちゃんと畳んで、刺繍が見えないように。


 扉を開けたら、カタリナが立っていた。焼き菓子を持って。


「おはようございます、ルイーゼ様。——今日の焼き菓子です」


「……おはよう」


 焼き菓子を受け取る。指が触れた。——昨日と同じ温度。昨日と同じ感触。でも、昨日より心臓が跳ねるのはなぜだ。寝起きは心臓が無防備だからか。弁護士の心臓に無防備な時間帯があってはいけない。


(カタリナの笑顔。朝日の中で、昨日の夕日より綺麗だ。——いや、それは光が違うからであって、人が違うわけではない。土台が同じなのに判定が変わるのは、判定者の側の問題だ。判定者はわたくしだ。問題はわたくしだ)


「ルイーゼ様。今日の予定ですが」


「うん」


「新しい相談が四件。それと、男爵からの蜂蜜が届いています。三壺」


「三壺も? 多いわね」


「ルイーゼ様の焼き菓子の消費量を考えると、一ヶ月でなくなります」


「そんなに食べてないわよ」


「記録しています」


(焼き菓子の消費量まで記録しているのか。——それは弁護士の助手業務の範囲内なのか。範囲外だ。でも、なんだか嬉しい。——嬉しいのは、管理されているからではない。見てもらっているからだ。——分析するな)


(完)


お読みいただきありがとうございます!


「悪役令嬢弁護士」シリーズ第4話です。


今回のテーマは「守秘義務」。弁護士にとっての守秘義務は、「秘密を守る」という以上の意味を持っています。依頼者が安心して本当のことを話せる環境がなければ、弁護士は正しい助言ができない。正しい助言ができなければ、問題は解決しない。守秘義務は「法律制度が機能するための基盤」なのです。


現実の日本でも、弁護士の守秘義務は弁護士法第23条に規定されています。条文をそのまま引用します。


> (秘密保持の権利及び義務)

> 第二十三条 弁護士又は弁護士であつた者は、その職務上知り得た秘密を保持する権利を有し、義務を負う。但し、法律に別段の定めがある場合は、この限りでない。


「権利を有し、義務を負う」——これがポイントです。義務であると同時に、権利でもある。弁護士は、国家権力から問われても秘密を明かさなくてよいという「権利」こそが、弁護士を弁護士たらしめるのです。——ルイーゼが異世界でゼロから作ろうとしているのは、まさにこの「信頼の基盤」です。


刑事訴訟法でも、弁護士は依頼者の秘密について証言を拒絶できます(刑訴法149条)。さらに、裁判所の令状があっても、弁護士は依頼者との間の秘密に関する物について押収を拒むことができます(刑訴法105条・押収拒絶権)。つまり、捜査機関が令状を持って弁護士事務所に来ても、依頼者の秘密に関わる書類やデータの押収を拒否できるのです。——ここまで徹底して守秘義務が守られているからこそ、依頼者は弁護士に本当のことを話せる。これは弁護士を守るためではなく、社会全体の利益のためにある制度です。


ちなみに、リーデンベルク卿がお茶をうまいと言ったのは、私なりの「この人は敵ではない」のサインです。焼き菓子を一枚お持ち帰りにもなりましたしね。弁護士の仕事は、敵を作ることではない。敵に見える人を味方にすること。——レシピ紛争の時のマルテ伯爵は最後までお茶に手をつけませんでしたね。


次回は何を引き受けるのか。猫の養育費だけはやらないと思います。五匹に増えたそうですが。——もっとも、「誰が父親か」の認定は少し気になります。弁護士の悪い癖です。


◆「悪役令嬢弁護士」シリーズ

→ 前日譚:悪役令嬢弁護士 前日譚 橋本理沙と乙女ゲーム ~著作権紛争事件~

→ 第1話:悪役令嬢、断罪されたので反対尋問します ~前世が弁護士チートなしなので、法的思考で王子に和解を呑ませてもいいですか?~

→ 第2話:悪役令嬢弁護士 婚約破棄代理人 逃げたい令嬢

→ 第3話:悪役令嬢弁護士、厨房長のレシピを盗んだ元弟子を論破したいので、全メニュー食べ比べてもいいですか?

→ 第4話:悪役令嬢弁護士、王命で依頼者の秘密を明かせと言われましたが、守秘義務なので丁重にお断りしてもいいですか? ←NEW!


☆評価・ブックマーク・感想——どれか一つでもいただけたら、守秘義務に基づきお名前は明かしませんが、心の中で全力で感謝します。

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― 新着の感想 ―
今回も面白かったです! 凡人シリーズのほか どんどん読ませていただいてます。 続編も期待しております。書籍化来るんじゃないでしょうか。
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