鼻
赫兵衛は身体の平衡を失って、うつ伏せにどさりと新雪の中に倒れこんだ。その弾みで槍は手を離れ、赫兵衛をそのようにした敵兵は、赫兵衛を仕留める大きな隙を得た筈である。赫兵衛は転がって避けようとはしたものの、最早これまでかと、背から腹に抜けるであろう痛みを覚悟した。
「負け戦とはいえ、卑怯な振る舞いはすまい。槍を取り、構えられよ。」
戦場は雪に覆われている。一面の白を、兵の足跡と、兵の血潮と、兵の屍が彩っている。肩で大きく息をし、よろよろと立ち上がった偉丈夫もまた、身を血に濡らしている。言葉のひとことひとことは、酷く苦しげだった。赫兵衛は倒れた兵士を死人と考え、足を蹴られて転んだのである。
赫兵衛は慌てて槍を取り、不格好に構える。赫兵衛に刀傷はない。逃げ回っていたからだ。ただ疲れ果てていて、偉丈夫を恐れてもいて、膝はがくがくと笑っている。
「これは。」
赫兵衛の形を見るや、敵兵は赤く染まった口を左右に広げ、茶色に濁った歯を見せた。
「噂に聞く鼻殿でござったか。どれ。せめて冥途の慰みと致そうか。」
敵兵は呵呵と高らかに嗤い、こう付け加えた。
「その鼻、貰い受ける。」
杜仲井の家の末子となる男子が産湯を使っているとき、齢五十を数える父はその鼻を見て顔を顰めた。形は母親の鼻によく似ていたが、それよりも酷く大きく不恰好で、しかも赤かった。
「ふむ、赤いの。赤い。」
それでその幼名は赫丸と決まった。
長じて後も、赫兵衛を見た者は二度とその印象を取り違える事は無かった。赫兵衛は顔の中央にある華々しい造型の他は、何も持ち合わせていなかったように思われた。凡その所、赫兵衛は、平凡よりは下だが無能と迄は言えない所にいて、唯その鼻の為に登用され、笑い者になっているのであった。
赫兵衛は、この生きるか死ぬかの場面に於いてもなお、鼻を揶揄されたことには、諦めにも似る乾涸びた怒りを感じただけだった。赫兵衛は槍の上手ではなかった。剣技に秀でていた訳でもなかった。赫兵衛は戦場に役立つ技芸に於いて、得意は無かったのである。従って、数え切れないほどの命を砕いた手練れに遭っては、例えこのように相手が瀕死であっても、生き延びることは到底考えられなかった。
赫兵衛は、右左にまろびつつも、容赦なく襲い掛かる穂先を何とか躱し続けた。しかしそれもまた束の間。恐らくは名のある敵の将は、最期の旅の道連れをもう一人と心を励ましていた。もはや音は聞こえず、目もほぼ見えぬ。ただその気魄の前に、赫兵衛は為す術もなく唯逃げ惑い、必殺の気合が赫兵衛の脳天を打ち砕こうと大きく振り被られた。
その時、偉丈夫の腹から血が噴き出し、その中央に長槍の先が現れた。背から赫兵衛のものではない槍に貫かれたのだ。ごぼごぼと敵将が血に噎せる。盲滅法に振り回した赫兵衛の槍の先は、奇しくもその仰け反った喉笛を薙いでいた。
「大事無いか。杜仲井殿。」
赫兵衛はへたりと無様に尻餅を搗いた。案ずる声は太く低く、たった今、一つの命を揉み消したとは思われぬ程、落ち着いて温かかった。赫兵衛は自分を救った馬上の偉丈夫を振り仰いだ。
その姿、兜鉢から仏胴、手甲、甲懸に至るまでも赤で染め、真白い房で縁取られている。背には麻布で作られた大きな袋を吊り、生首を放り込む袋としている。面頬からは白い髯が長く零れて揺れている。
国中にこの三田来栖を知らぬ者は無い。
武功の誉れは他に並ぶ者無く、全くの異様な出で立ちもそれに見合う勲により特に許されていた。乗りこなすは主であっても易々と背を許さぬ悍馬。名を生食という。
いざ戦ともなれば、一騎討ちを望む騎兵が順番を待ち列を成す有様。それでも、右手に良く撓る大長槍を持ち、左手で刀を振り回す三田来栖に、善く踏み堪える者は少なかった。
三田は敵将の胴から槍を引き抜き、馬を降り跪いて首を掻き落とす。そして、背負った首袋に納れる前に、検める。
「ふむ。白野殿でござったか。戦場とはいえ、ご無礼許されかし。一騎打ちは、終ぞ叶わなんだ。」
そして考えを少し改め、赫兵衛に首を差し出す。「お手柄でござった。」
赫兵衛は深く考えもせずひょいと手を伸ばして受け取る。それは三田にとっても意外であって、この御仁は本当に自分の勲と考えているのだろうかと、疑念を抱く。なに、袋が一杯になった故、お譲り致したいのだという、鷹揚な言葉はとうとう出せないでしまう。
「三田殿。忝のうござる。」
事も無げに振舞われた好意を、恐縮する訳でもなくまた事も無げに受け取られ、そして今更の様に発せられた礼の言葉に、三田来栖は面頬の奥の眼を細めた。三田来栖は喜んだ。
「此度は勝ち戦と決まった。陣まで戻られるが良かろう。同道致したいが、急ぎの用のある故、これにて失礼致す。なれど、ゆめ油断召さるな。」
三田来栖は首袋を担ぎ直し、生食に跨るや、まだ立てずに居る赫兵衛を見下ろした。馬は忖度などせぬから、赫兵衛を蔑む様子は隠さない。
「其方の鼻は朱槍ほども目に付き申す。」
そのように赫兵衛が戦場で三田来栖と会ったのは師走も終わる頃。その年が明けて松も取れぬうちに、赫兵衛は父に呼ばれ、三田家の使者の来訪があった事を告げられた。
その折の杜仲井家の当主は何時に無く上機嫌であった。赫兵衛はついぞ見たことも無い父の笑顔を見、そしてまたついぞ見たことの無い金子を持たされ、三田家に伺うよう申し渡された。
「城内で三田殿と同席した折、其方の事を聞かれてな。どういうことかはわからぬが、其方のことをよく知りたいと仰せであった。それで、何なりとお申し付け下されと申し上げての。其方、一度ご機嫌を伺って参れ。有難い誉れであるぞ、赫兵衛。望んでも目通りすら叶わぬ事が多いと聞く。」
赫兵衛は父の前に平伏したまま考えたが、何故三田来栖が自分と話したがるのかが分からない。
赫兵衛が平伏すると、鼻は床にべったりと付いている事になる。そうしなければ背が平らにならぬのである。平伏している時間が長いと、赫兵衛の鼻には畳の目や床の跡がつく。床や畳に付いた鼻の脂は拭いても拭き切れるものではなく、使用人からは大層疎まれた。赫兵衛は鼻を抓んだ様な声で言った。
「身に余る誉れでござる。」
先の戦の論功行賞では、赫兵衛も首級を挙げたとて、領主より多くの恩賞を賜わっていた。件の詳細を言えば、全く正しい一騎打ちではなかったから、赫兵衛は敵将の名すら知らなかったのだが、他ならぬ三田来栖が口添えをし、家中で首実検をさせたのである。その名は白野鈴聚楽。名のある槍の遣い手であった。それ故、いくら戦場の転合であろうと鼻殿の武功ではあるまい、と殆どの者が気づいてはいた。しかし三田殿の意向あらむかとの思量があり、それはそれと決まったのであった。
三田の屋敷は城のすぐ側に在った。広くはあったが、広過ぎはせず、構えは質素で、遠目にはごく平凡な屋敷と見て取れた。しかしこれは、近くにも寄り仔細を見るにつれ、通人ほど唸らせる造りをしていた。土塀から長屋門などは言うに及ばず、庭の敷石、差し翳す枝振り、その奥に見える式台に至るまで、贅沢と風流を究めており、招かれた者の身仕舞を厳しうさせ、軽薄に立ち寄った者を黙しながら遠ざけた。
三田来栖その人が、三田家を現していた。さして肥沃とも言えぬこの領地には、仕方なく飢饉もあった。三田来栖は物惜しみをせずに蔵を全て空け、領民を救うことを行ったから、その時期は三田家もまた暮らしを切り詰めなければならなかった。何の為の蓄えぞ、と、三田来栖は用人をして蔵を開けさせ、飢える領民に分け与えたのである。蔵は空になったが、領民は救われた。そして幾年かが過ぎ、豊作となった年には、恩を忘れぬ領民により、蔵が新しく建てられることとなるのであった。
このような三田家ではあったが、ただ一つだけ、三田来栖を嘆息させることがあった。世継ぎとなる男子が育たなかったのである。三田来栖は七人の子を儲けたが、男子四人は産声を上げることなく喪われた。これは三田家のみならず、国中をも悲しませたことであった。三田来栖は側室を持たず、また、後室も娶ろうとしなかったから、四人目の男子と共に嫡室を亡くして以来、三田家を継がむと数多の若武者が訪れた。しかし三田来栖は一切取り合おうとせず、領主にその旨問われた時も、いずれ申し上げまするとのみ、答えたのであった。
赫兵衛が三田家を伺候したのは、細雪の舞う午の前のことだった。
三田家の用人は丁寧に頭を垂れて赫兵衛の用向きを聞いた後、すぐさま通用門を開けて赫兵衛を通した。無論、三田来栖が予めそのように手配しておいたのである。
通用口を通り抜けると、広い庭がある。枝振りの良い松と灯篭が、薄く雪をかぶっている。池に差し掛かるのは枝垂桜と見えた。飛び石が玄関まで続き、用人たちが赫兵衛の為に雪を掃いていた。
赫兵衛が屋敷に近づいたのを、誰かが伝えたものらしく、三田来栖その人が玄関まで姿を見せ、大きく声をあげた。
「よう参られた、杜仲井殿。」
三田家の当主が直々に来客を迎えるなどとは聞いたことが無い。聞いたことは無いが、赫兵衛はどうしたらよいやら分からぬので、招かれるまま、唯深く辞儀をし、屋敷に上がる。
さて、この赫兵衛は武芸に於いては何も取り柄が無かったが、虫を愛で、風に季を感ずることはできた。従って、三田家の庭の隠された風流には、いち早く気づいた。赫兵衛は主人の案内により通廊を進んでいく間にも、非凡な屋敷の造りに眼を見張った。客人を庭に面した廊下から案内するのは、その目を楽しませ、試そうという趣向であるに違いなかった。
「三田殿。お見事な庭にござる。」
数歩先を進む三田来栖は、立ち止まって尋ねた。
「何をお気づきか、杜仲井殿。」
「されば。池の薄氷が紅葉を封じてござる。しかも紅葉はそれぞれ違う山のものとお見受け致す。」
ただそれだけではなく、薄氷は浅く降り積もる雪をも意匠に加える意図がある。ちょろちょろと竹の樋から流れ落ちる水は、池の隅の氷を融かしている。池の向こう側は急な斜面になっていて、何も植えられていない。只管雪に白く平坦なために、確と陰影を判じ難くなっている。その平らかな面には、屋根からも、木々の上からも雪が落ちぬような工夫が見て取れた。
「左様、別けて取り置いた束稲の紅葉に御座る。今朝早くに散らし置いたもの。ようお気づきなされた。」
「奥の雪一面は、いかなる趣向にござりまするか。」
「ほうほう。それは、日が落ちた後にご披露いたそう。」
束稲の山は此処より遥か北の国境にある。三田来栖は頬を緩めた。杜仲井赫兵衛殿もただ木偶の坊とは括れぬと感じたからである。
客間には既に酒が用意されていた。火はあり、肴もあり、酒は温かかったから、杜仲井家当主からの口上もそこそこに、はや酒の席となった。
杜仲井家も決して貧しい家柄ではないが、赫兵衛はこのように上等の酒を飲んだことはない。また、酒肴とて見慣れたものは何一つ無かった。始めのうちこそ、三田来栖が何ごとかを問い、赫兵衛がぽつりと答えて、暫くは無言となっていたが、銘酒が回るにつれ、この肴は何、この菜は何と、赫兵衛も口が開くようになり、三田来栖は楽しげにそれに応えるのであった。武者が酒を飲み合えば武辺話ともなりそうなものだが、三田来栖にしても敢えてそこには入らないでいるのだった。
酒を甘うして、瞬く間に刻が過ぎた。冬の夜は早い。時には笑い声も聞こえるようになった客間に燈が入れられた。
「先のご不審を解いて進ぜよう。庭をご覧じよ、杜仲井殿。」
赫兵衛は何とか立ち上がり、ふらつきながらも障子を開けて庭を見た。
「おう。」
そこには大きな赫兵衛の影があった。
「影絵でござったか。」
雪の斜面は燈火に揺れる赫兵衛を静かに受け止めていた。二つある石灯篭にも火が入れられると、枯れ枝の影が左右に配された。その心憎いまでの配置の妙は、雪の斜面を能舞台のように設えている。音も無く降り続く雪が、光となり影ともなり、舞い落ちる様が一つの物語でもあるように惜しまれた。
赫兵衛は道化て杯を上げる。影舞台の赫兵衛もまた杯を上げる。また両腕を広げてみたりもする。首をひねると、赫兵衛の頭の影は倒れた雪達磨のようになる。三田来栖がこれを殊の外楽しんだので、赫兵衛は幾度もやってみせた。
「もうよい、杜仲井殿。」
三田来栖はとうとう笑い涙を拭いながら赫兵衛を止めた。
「これ以上捩れては、切腹の折、腹を探し損ねる。」
やがて席に戻った赫兵衛に、三田来栖は最後の一献を勧めた。
「杜仲井殿、今宵はもう休まれるが良かろう。」
「忝うござる。」
「御存知とは思うが、」
三田来栖は赫兵衛をじっと見据えた。
「この家には女子が三人居る。長ずるより舞、風、雨と申す。」
赫兵衛とて三人の息女の名の由来は知っていた。枝垂桜が花片を庭に舞わす日に生まれた、舞姫。合戦の幟旗が犇と張り詰めた日に生まれた、風姫。旱魃の夏が過ぎ、漸く天が恵みを思い出した日に生まれた、雨姫。
「杜仲井殿は野歩きを好まれると聞く。風雨と共に歩まれるのは最早目新しく無かろう。よって、舞に伽を申し付ける。ひょいと受け取られよ。」
酔いの粗方消し飛んだ体の赫兵衛を置いて、三田来栖はさっさと客間から立ち去った。赫兵衛は呆然と座ったまま、使用人が膳を片付けるのを見ているだけだった。聞き間違いであろう筈も無いが、三田来栖は、赫兵衛を養子に迎える、と言ったのである。
明くる日、赫兵衛は晴れ上がった空と木々の雪化粧を、客間の内から楽しんでいた。朝餉は済ませてあった。真冬でも陽は暖かい。赫兵衛は手の甲を陽に当てて、これから起こることに備えていた。或いは、いや恐らく、この屋敷を出て行くことは出来まいと、覚悟を決めていた。
足音がして、三田来栖が姿を見せた。赫兵衛は向き直り、畏まって平伏した。
「そのようにせずともよい。杜仲井殿。」
その言葉には、微かな険があった。赫兵衛は顔を上げ、鼻越しに三田来栖を見た。三田来栖は、眼にも僅かに瞋恚を顕していた。
「昨夜は如何であったかな。」
「この世に生を享けてよりの、最上の夜にござった。」
「そは如何に。」
三田来栖は勿論、昨夜何が起こったか、そして、何が起こらなかったかを知っていた。
「されば。」
赫兵衛は懐から短冊を取り出し、三田来栖に手渡す。それには、王羲之にて、このように認められていた。
もののふの 白の世界を 知りてをり
「夜具の上に置かれてござった。」
三田来栖は風流人ではあるが、それよりも武人であったから、これを素直に読んだ。舞は、赫兵衛が庭の趣向に気づいたことを褒めたもの、と解したのである。
「短連歌でござるな。舞め、父に叛きおる。用人が嘆くのも道理よ。」
「短句を思案するうち、夜が明けてしまったのでござる。」
三田来栖は愁眉を開いた。杜仲井殿は矢張り杜仲井殿であって、悪意が無かったことを知ったからである。斯く成る上は、鼻殿の手引きして進ぜようと、三田来栖は考えた。
「舞にはよう話して聞かせたつもりでおったのだが。して、どのように短句を詠まれたか。」
「されば。」
赫兵衛は嬉しそうに膝を乗り出した。
紊るを惜しみ 歩み留めむ
「如何でござろうか。」
赫兵衛の素直な問いに、三田来栖は窮した。足跡をつけるのが惜しいので、立ち止まり愛でた、と。これでは唯の自慢にしかならぬと思ったからである。
しかし、赫兵衛は意外なことを語りだした。
「白とは拙者のことと。幼少より、あかと呼ばれしこと、舞殿にはご承知あったものと、存ずる。また、もののふとは、武と。武は舞にて、舞殿と解き申す。」
三田来栖は呆気に捕られた。それでは、長句はまるで逆さの意味になる。赫兵衛のことなど総て知っていると、酷く蔑んだ句になるのである。
「舞め。生食の如くに跳ねおるわ。」
それに対して、返す短句は慎ましい。赫兵衛は、あなたのお気持ちを乱さぬよう、私はここで退きましょう、と詠んだ。
「杜仲井殿。お見事にござる。」
三田来栖は新たな眼で赫兵衛を見た。
「して、その後は。」
赫兵衛は項垂れた。
「短句は届かぬままでござる。」
「そは何故。」
三田来栖は赫兵衛に迫った。先程消え失せた筈の怒りもまた戻っていた。鼻殿は吾が持成しを裏切ったと、三田来栖は考えた。この短句ならば、何を臆することがあろうかと。
赫兵衛は項垂れたまま応えた。
「鼻の妻とするには、惜しい女性にござれば。」
陽炎の様に季節は移ろいだ。
赫兵衛の伺候より一月ほどした頃、三田家は養子を迎えた。やはり国に名の通った家の男子で、名を峯曾田蔵人と言った。蔵人は文に通じ武にも秀で、既に名筆とも謳われる舞姫とは、男雛女雛と持て囃された。婚儀はやはり、枝垂桜の花片の舞う頃。国を挙げての祝宴となり、殿中奥の座敷より、末は田に汗落とす領民まで、話題のこれにあらざるは稀であった。三田来栖は喜びを一切隠さず、また物惜しみをせず、婚儀を煌びやかにしたから、他国より物売りが三田家の門前に押し寄せることとなった。正しい値であれば、三田来栖はそれら物売りから全てを買い取り、商人達は城下に遊び、帰りの荷を求めたから、国中がこの慶事を楽しんだのである。
赫兵衛もまた、喜んだ。赤らんだ鼻を更に赤くさせ、更には調子よく話に加わりなどもした。男振りの良い三田蔵人と、酔ってへらへらと笑う赫兵衛を見比べ、杜仲井当主は、已んぬる哉と嘆息したのであった。
それから程なくして、三田来栖は家督を養子蔵人に譲り、領主に骸骨を乞うた。領主西之居氏康はこれを酷く惜しみ、今暫く隠居はせぬよう幾度も願ったのだが、三田来栖は翻意することがなかった。いくさなるものがほとほと嫌になり申した、と、三田来栖は、晴天の下書院に篭り、或いは嵐の野山を巡り、秋になると紅葉を求めて束稲の山へとひとり旅に出た。
俄かに様相が動いたのは、その初冬のことであった。
隣国よりの使者が訪れたのである。この隣国とは長年いくさ続きであったから、領主氏康は何ごとかと訝しんだ。そしてその書状を見るや、大きく驚いたのであった。
三田来栖殿、当地お訪いのありて、先の戦にて討ち果たされし我が兵に、供養の誠を尽くされしこと、この上も無く殊勝のことと存じ上げ候。・・・・また、民百姓が為なりといくさ起こすに、民百姓をば虐ぐるは如何との申し条、唯已む無しとは応え難く、積年の齟齬の儘に刀剣振り上ぐるも愚かと、ここに和議の使者送るものにて候・・・
書状には三田来栖が隣国にて、この国と隣国との和睦に努めた事を、こと細かに記していた。しかしこれは三田来栖が領主の許しもなく、自分勝手に行なったことだったから、領主西之居氏康は大いに悩んだ。度重なるいくさに疲弊し、何とか和議を結べぬものかとは、氏康も考えぬことではなかった。だがそれはひとり氏康の肚裡に蔵い置かれていたのである。主君の胸の内を慮ったとは言えなくもないが、三田来栖の行いは些かならず先走ったことであった。これを公にし、三田来栖が国に戻ったならば、氏康は三田来栖を詮議せねばならぬ。
御屋形様がお呼びである、と、杜仲井の当主が赫兵衛に告げたのは、最早野山に雪の積もる頃。その年の冬は早かった。まだ師走には間があったが、山は雪に荒れ、国境は雪に閉ざされた。冬の訪れの早さに、嘗てこのような年があったろうかとは、村の古老の口癖ともなった。
赫兵衛はあれから三田来栖と会うことはなく、杜仲井家の使用人と変わらぬ暮らしを続けていた。それでも、三田来栖がまだ戻っていないということは、人伝に耳にしていた。
領主の御前に出ることなど、赫兵衛は初めてだった。鼻をべったりと畳につけて、赫兵衛は領主を待った。衣擦れのさらさらという音をさせて、平伏する赫兵衛の先に座ったのは、三田蔵人ではなかろうかと、思われた。
庭に面した引き戸は大きく開け放たれていて、初冬の陽気を謁見の間に導いている。昨夜からの小雪は止んではいたが、木の陰、石燈篭の根元などには雪が残っていた。空気は冷たい。しかしそれだけではなく、ぴしりと厳しいものが張り詰めているように、赫兵衛には感じられた。やがて、領主が姿を見せた。
「杜仲井赫兵衛、面を上げよ。」
凛とした声に、赫兵衛は恐る恐る顔をあげた。正面、一段高いところに座るのは領主西之居氏康。そして赫兵衛の左手前方に、右頬を見せて座るのはやはり三田蔵人であった。蔵人は穏やかに赫兵衛に話し始めた。
「杜仲井赫兵衛殿。此度は、父、三田来栖の儀にてお呼び立て致した次第。我が父が音信不通である事はご承知であろうかと存じまする。紅葉狩りにと出た筈の三田来栖は、隣国へと立ち入り、御屋形様のお許し無きまま和議の使者となった模様にてございまする。これは三田家のみならず、我が国の一大事ともなりましょう。この蔵人にも得心出来かねまする。
巷間に仄聞するに、其許はかつて三田家養子に乞われていたとか。この年頭には、三田家にお出であったとも聞きまする。その折の父の振る舞いをお聞きしたいのでございまする。」
くだくだしい前置きを省いて、三田蔵人は用件に斬り込んだ。これはこのような場に慣れぬ赫兵衛には有難かった。御屋形様の御前で礼を省くなどは極めて異例である筈だから、三田蔵人が赫兵衛を慮ってのことに違いない。
「は。されば、この年頭、確かに三田家を伺候仕りましてございまする。」
「杜仲井赫兵衛。特段の事情あるに拠って、直答さし許す。」
領主の白刃を思わせる語気に、赫兵衛は身を引き締めた。謁見の間に張り詰めるきりりとした空気は、領主氏康より発せられているのに相違なかった。
「本来なれば使者を以って其許を問い質さしむるところなれど、三田蔵人の強っての願いにより、余が直々に其許を召したのである。三田来栖との約定ありとても、包み隠しは無用と心得よ。余はなんとしても、三田来栖の心情を知らねばならぬ。」
「父、三田来栖は赫兵衛殿を養子に迎えようとしたこと、恥じては居らぬと聞き及びまする。なれど、我が家の使用人はその件、堅く口を閉ざしまする。舞に於いては猶更。我が父より内密にと念押しのあったやも知れませぬが、何卒枉げてお漏らし戴く訳には参りませぬか。」
三田蔵人は赫兵衛の如き身分の低い者にも、片拳を畳に付け頭を下げた。領主氏康はその姿を見、三田来栖の養子選びは、なるほど間違いが無いと、深く頷いた。
赫兵衛は覚悟を決めた。三田来栖は赫兵衛に緘口させた訳ではなかった。だが赫兵衛は、自分が三田家の養子に乞われた事を、今でも三田来栖の過ちと考えていた。それで堅く口を閉ざしていたのである。しかし領主氏康と三田蔵人は、三田来栖を心底案じているように、赫兵衛には思えた。
赫兵衛は話し始めた。雪山の戦場で、命を救われたこと。首を貰い受けたこと。屋敷で思いがけぬ歓待を受けたこと。養子にと三田来栖自らが言ったこと。舞姫が残した長句のこと。そして、養子をご辞退申し上げたこと…。
---三田殿は、斯様にございました---
「鼻の妻とするには、惜しい女性に御座れば。」
項垂れた赫兵衛を、三田来栖は長い間見つめ、その後瞑目した。そしてがっくりと肩を落とし、両膝の上に拳を握ったのである。暫しの後、つと三田来栖は立ち上がり、赫兵衛の下座に回りこんで畳に額をつけた。
「三田殿、何となさる。」
驚きもし、慌てもしている赫兵衛に、三田来栖はこう言った。
「杜仲井殿、どうか赦されよ。三田来栖、大きく心得違いをしておった。」
「何れの事とは思いあたらねど、兎にも角にも、どうぞ上座に戻られますよう。」
上げた三田来栖の顔は赤く、眼には今にも零れんとする涙を湛えていた。
「儂は、愧しい。」
三田来栖はそう言って洟を啜り上げることまでをした。赫兵衛は術もなくただ呆然と見守るのみ。だが、この国随一の武者は、そのように客人を戸惑わせることを、永くしなかった。三田来栖は何ごとかをぐっと堪えた様子で、懐紙で眼を拭くや、使用人を呼び茶を云い付けた。そして、上座でも下座でもなく、赫兵衛に近い正面に座ったのである。
「杜仲井殿。昨日より、種々御不審の在るにも拘わらず、我が家にお留まりあったこと、礼を言う。杜仲井家にお持ちいただく品を用意させておるあいだ、今暫く待たれよ。その間に我が言い訳なども聞いていただこうと存ずる。」
三田来栖は大きく息を吸い込み、何か晴れ晴れとした面持ちで庭に眼を向けた。そしてまた、何かをきちんと整え納めたような声で話し始めた。
「泣いたのはもう二年も前であったかな。やはりこのような雪の庭を見て泣いたものよ。我が妻が、跡取りとなる稚児と共に世を去った朝であった。
儂が男子に恵まれなかったことはご存知であろう。儂は物心のついた時分よりついぞ泣いたことなどないが、なにしろ悔しかった。幼少より今日迄、儂が手に入れられなかったのは、男子の跡取りだけ。この家屋敷も戦の勲も、望んだままに我が物としてきたのだが。
妻が逝った朝、儂は悟ったように思った。これは、天が儂を罰しているのだ、とな。世の倣いとはいえ、儂は戦の度に多くの武者の命を摘んだ。この三田来栖と槍を合わせ果つるは誉と、言われてもいた。だが、世継ぎであろうとなかろうと、男子が首を亡くして戻ったのを、心底喜んだ母親があっただろうか。無論、我が領民を守る為ではあったし、首を取らねば取られるのが定めである。それであっても儂はあまりにも多くの命を刈り取ったのよ。そのような者に跡取りなど贅沢は与えられぬと、天が仕組んだものと儂は思ったのだ。
だが儂は、天も許せなかった。それならばこの身は鬼となり、血に塗れて生きようと思った。あのような赤の武具を拵えたのもその頃のこと。儂は戦場を求め、首級を掻き集めた。我が身体も大長槍も、血を浴びるほど吸った。吸ってはみたが、我が心は潤わぬままであった。
赫兵衛殿に会った日も、その様に首を集めておってな。袋に首が入りきらなくなった故、帰陣する途中であったのだ。赫兵衛殿は儂が戯れに差し出した首を、そのままに受け取ったな。礼を言うでもなく、辞退するでもなく、ただひょいと受け取ったな。差し出されたものそのままに。儂が差し出したから、赫兵衛殿は受け取ったのだ。
それが何やら、嬉しゅうてな。儂は、受け取られるにしても、散々礼を言われるものと思って居った。飢饉の折の施しですら、その様に思っていたのだ。豊作の年に米を返さぬ輩などには、少なからず不快を感じていたものよ。だが、返さねばならぬ恩義など借りたも同じこと。それは施しなどではなく、ただの貸付ではないか。
儂は、何かを一つ許されたような心持ちがしたのだ。赫兵衛殿を大事にすれば、儂は更に何かの罪を許されていくような気がした。最早人倫を歩んでいない事は、分かっていたのだ。だが止められなかった。赫兵衛殿が首を受け取った時、儂は少しだけ癒えた。ご不快であろうが、敢えて申し上げよう。儂は、赫兵衛殿のような醜い弱者に施すことが、この身が赦しになると考えておった。
だがそれは間違いであった。」
三田来栖は赫兵衛の鼻を凝と見た。
「施すとは、しあわせなものよ。左様、飢饉の年、この庭から儂を神仏であるかのように伏し拝み、動かなかった者もいた。儂はそれを見て快かった。その時既に、儂は報われておったのだ。その上、更に礼の品を持って来いとは、如何程の思い上がりであったろうか。
赫兵衛殿。儂は其方を持て成した積もりでおったが、その実、儂が持たぬものを施してくれた。三田来栖に欠けたるは嫡男のみにあらずと、この儂を諭した。」
「め、滅相もござらぬ。この赫兵衛は何の役にも立ちませぬ。増して三田殿を諭すなど。」
「そうではない、赫兵衛殿。」
語る三田来栖の目尻は幾分下がり、好々爺とも形容されようかと思われた。三田来栖は今まで気付く事の無かった何かの不足を補い、その事に温かな何かを感じていた。
「其方は儂がこの歳になっても全く持たぬものを、溢れる様にお持ちである。それ、その謙虚さよ。
お役に立ちまする、と勇む若武者は多く在る。だが、何も出来ませぬとは言えぬもの。それは、己を正しく知る者にのみ、許される言葉なのであろうな。
赫兵衛殿、其方のその鼻には、さぞかし謙虚さが詰まっておるに違いない。大事に、御身の宝とされよ。この三田来栖にとっても、その鼻は宝である。
さて、支度が出来たようであるから、そろそろお送り致そう。どうぞお健やかにあれ、赫兵衛殿。其方はやはり杜仲井であるのが相応しい。」
赫兵衛が話し了えても、謁見の間は森と鎮まり返っていた。
三田蔵人は赫兵衛の話の途中、幾度か戸惑ったような様子を示した。無理もない。この赫兵衛が三田家を継いでいたも知れなかったのである。だが蔵人は最後まで聞き終えると、顔色を改めた。この大きな鼻の持ち主が、父、三田来栖の恩人なれば、蔵人にとっても決して粗末には出来ぬ御仁だ。蔵人は領主に向き直った。
「御屋形様、父、三田来栖はこの国に戻らぬと思われまする。」
「そうであろうな。だが、其方を蟄居させとうはない。三田来栖は国に戻さねばならぬ。」
「つきましては、この蔵人に、三田来栖探索のお役目、ご下命くださりましょうや。この命に代えても、父を連れ戻しまする。」
西之居氏康は暫く沈黙した。領主は三田蔵人を失いたくはなかった。隣国からの書状と、今の赫兵衛の話から察すれば、三田来栖は死を覚悟して隣国へ赴いたのであろう。三田来栖が戻らなければ、蔵人を罰せねばならぬ。だが蔵人に三田来栖の探索を命じれば、雪山に可惜、命を捨てることにもなりかねぬ。
赫兵衛は半ば放心したように主筋のやり取りを聞いていた。薄ぼんやりとした考えが次第に纏まって、やがて、赫兵衛は己のこのような言葉を聞いた。
「畏れながら、御屋形様に申し上げまする。」
「うむ。申してみよ。」
「三田来栖殿探索のお役目、この杜仲井赫兵衛にお命じ戴きとうございまする。蔵人殿に万に一つの事あらば、三田家の一大事と成りまするが、この赫兵衛は、例え雪山に野垂れ死のうとも、不都合の無き身にござれば。」
「したが、杜仲井殿。」
三田蔵人が口を差し挟んだ。
「この雪では、足跡は言うに及ばず、道すらも覚束無しと心得るが、如何成る手立てにて、我が父を探す御積りか。」
「されば。」
赫兵衛は背を立てて領主に正対した。
「この鼻にて、嗅ぎ当てまする。」
領主は暫し、赫兵衛を見据えた。そして、はたと膝を打った。
「うむ。杜仲井赫兵衛、良くぞ申したものだ。三田来栖探索の役目、申し付ける。余も嘗て、その鼻を遠目に見て、笑うたことがあったが、間違いであった。赦せ、赫兵衛。余は金輪際、何人であっても、その形によって笑うたりはせぬ。」
領主は立ち上がり、平伏した赫兵衛に歩み寄った。
「三田来栖は我が国の宝であった。その宝が、そなたの鼻を宝とするならば、杜仲井赫兵衛もまた国の宝である。城下に入用な物あらば、何なりと携えていくが良い。だが、必ず戻るのだぞ。確と、よいな。」
赫兵衛が用意したものは、多くの糧食と屋根付の荷車。縄。蓑笠の類。火を熾す道具と炭。そして車輪が効かなくなるほどの雪を案じて、橇を二本。これは車輪の下に敷けるように一日がかりで誂えた。
出立は生憎の吹雪の早暁であった。前日、蔵人は日延べをするよう赫兵衛に勧めたが、吹雪などこの先幾らでもござれば、と、赫兵衛は肯んじなかった。夜が明けぬ前に赫兵衛は城下を後にした。
赫兵衛は道に迷ったことがない。方角を誤ったこともない。これが鼻の働きであったかどうかは定かではないが、三田来栖を嗅ぎ当てるとの赫兵衛の言は、強ち的外れではなかった。加えて山野に鍛えた健脚もある。
赫兵衛はまず束稲の山へ向かおうと考えた。そして、国境に沿って近くの集落へ。隣国へは立ち入らぬ。何故なら主筋の考えとは異なり、三田来栖は国へ戻る筈だと、赫兵衛は考えていたのからある。三田来栖は国へ戻り、領主に斬られる積りだったに違いない。三田来栖は、唯一人を除いては死なせることはすまい。三田蔵人を自分の代わりにするなど、到底有り得ない。
従って、三田来栖は帰国の途中に何かの慮外に遭ったのだと思われた。例年より極めて早かった冬の所為ではなかろうか。野歩きを好む赫兵衛は知っている。自然は臆病な者を生かし、大胆な者を殺す。
城下を出るより前に、束稲の峰は白い姿を見せていた。だがそこへ至るまでの道中は長く、険しかった。
小春を思わせる陽気の昼もわずかにあり、星の瞬く夜もあるにはあった。大方はそうではなく、それよりは一寸前すら見えぬような吹雪であり、深淵を覗き込むような漆黒の夜であった。赫兵衛は蝸牛の様に荷車に閉じ籠り、厄災の過ぎるのを辛抱強く待った。火種を抱え込むように眠り、かちんとした糒を雪を溶かした水で胃の腑に入れ、その日その日を生き延びた。
束稲に着いたのは城下を出て十日も後のことだった。夏の行程なら一日の距離である。荷車の車輪は用を為さず、専ら橇引きで進む日々は赫兵衛を酷く疲弊させた。
山頂を少し降りると、夏の間、木を伐り出す者たちが住む小屋の集落がある。止むを得ず冬山を越すことになった人々が、一息つける場所でもある。赫兵衛が此処を目指したのは無論休息の為でもあったのだが、それと、三田来栖の消息が何か掴めぬかと考えたからでもあった。
五軒ばかりの粗末な小屋は、さいわい完全には雪に埋もれていなかった。赫兵衛は小屋の一つに苦労して入り込み、その夜ばかりは暖かい夜を過ごした。
翌朝は晴れた。赫兵衛は残りの小屋を巡って三田来栖の手がかりを探った。そして見つけた。囲炉裏の側に置かれた少しの銀である。恐らく薪代として三田来栖が残したものであろう。減った薪の量からして、この小屋は何日か滞在者を受け入れていたものと思われた。
ここは去年の暮れの戦場にも程近い。
「吹雪に閉じ込められたのであろうか。或いはこの地に何か御用のあったものであろうか。」
赫兵衛もはっきりとは分からなくなってしまっていたが、もう半月もすれば新年を迎える頃だった。赫兵衛は自分の小屋に戻り、糧食を確かめた。倹約しては居たものの、到底冬を越せる量ではない。もう一晩休んで、明日は戦場となった雪原へ行ってみよう。薪を積めるだけ積んで、荷車で夜を凌ごう。そう考えているうちにまた疲れがよみがえってきた赫兵衛は、囲炉裏端にごろりと横になると、すぐに寝入ってしまった。
ふと眠りが浅くなったものか。赫兵衛は何やら人の話し声が聞こえるような気がして、ぼんやりと薄目を開けた。気のせいか外が僅かに明るい。囁く様な声がまわりから頻りに何かを呼んでいたが、はっきりとは分からないもどかしさがあった。しかし赫兵衛は疲れていた。不審に思うより、眠っていたかった。起きて外の様子を見たほうがよいか、明日の朝、明るくなってから調べるのがよいか。うつらうつらと、暫くその儘でいるうちに、突然小屋の戸がばたんという大きな音とともに内側に倒れこみ、粉雪が部屋の中に入り込んできた。赫兵衛は驚いて飛び起きた。
外は真っ暗だった。話し声はもう聞こえない。風すらも無い。落ち着きを取り戻した後、きっと夢を見ていたのだろうと、赫兵衛は思った。戸の突っ交いがいつの間にか外れてしまったらしい。赫兵衛は恐る恐る戸口から外を見回し、誰も居ないことを確かめると再び眠りに就いた。
翌朝もまた晴れた。外に出てみると、何時降ったものか、荷車は雪で埋もれていた。薪を積む前に、雪を払わなければならない。それにしても昨晩は何があったのだろう。或いはこの雪山を越えようとする旅人が訪れたのであろうか。
赫兵衛は三田来栖が滞在していた小屋を見回った。戸が昨日と同じように渋い。苦労してどうやら戸を開けた赫兵衛は、眼と口を大きく開いたまま凍りついた。
昨日見つけた三田来栖の手がかりが、消え失せていた。
囲炉裏の側の銀はなくなっていた。薪は手が届かない高さまで積みあがっていて、使われた形跡が無い。
「赫兵衛殿。」
耳元で三田来栖の声がして、仰天した赫兵衛は振り向いた。
そこには三田来栖は居なかった。しかし、いつの間にか雪を払われ、薪を詰め込んだ荷車があった。そして広い雪原には、たった今付けられたような橇引きの跡が、遥かな霧の中にまで遠く続いていた。
あまりのことに赫兵衛は膝が震えて今にも座り込んでしまいそうだった。赫兵衛は大きく息を吸い込んで吐き、それを動悸が治まるまで続けた。
「三田殿、それがしをお呼びでござったか。」
赫兵衛はそれを自分に言い聞かせるように口に出した。応えは無かった。
「忝うござる。斯くもお導きくださるとは。」
赫兵衛は手早く支度をし、橇引きを始めた。晴れてもいたし、風は弱かったから、不思議な橇の跡はどこまでも消えず、迷うことはあり得なかった。だが旅程はなぜか何時にも増して、赫兵衛を苛んだ。踏み出す一歩一歩が赫兵衛の力を奪っていくようだった。
それでも小半刻も進んだだろうか。赫兵衛と荷車は、今や濃い霧の中に覆われてしまっていた。赫兵衛は奇跡とも思える次の一歩を、唯一心に積み重ねていた。道標とするのは二条の橇跡のみ。がっくりと倒れそうになりつつも、赫兵衛は橇を引き続ける他はなかった。
やがて一陣の風が霧を一瞬にして払った。二条の橇跡は赫兵衛の目の前で消えていた。赫兵衛は荷車を置き、雪を掘り返した。そこには果たせるかな、赤い戦装束に身を包んだ三田来栖の亡骸が冷たく凍っていた。
「三田来栖殿も、斯く果てられたか。」
赫兵衛は丁寧に三田来栖の周りの雪を払った。今し方降り出した雪が呵責なく、そうあるのが務めであると言いたげに、三田来栖にも赫兵衛にも降り積もった。風が吹きはじめ、雲は急ぐ様子を見せている。急激に気温が下がってきているのを、赫兵衛は感じた。それでも赫兵衛は、青白い三田来栖の顔に解けず積もる雪を払い続けた。
三田来栖の背負った、強々とした布袋に遺された物に、赫兵衛は気づいた。邂逅の日にあったようではなく、首袋は真白に無垢のままだった。赫兵衛は首袋の口を開き、中の細長いものを引き出した。
それは卒塔婆であった。
赫兵衛ははっとして周りを見渡した。間違いはなかった。ここは赫兵衛が一年の前、三田来栖に命を救われた戦場であった。と言うのも、卒塔婆には、白野鈴聚楽と俗名が記されており、白野とはあの日、三田来栖が赫兵衛にと差し出した首の将だったからである。
「左様でござったか。」
赫兵衛は三田来栖の亡骸の頬に積もる雪を、また払った。
「三田殿。最後の一つの塔婆を建てられぬであれば、さぞご無念でござったろう。だがこの鼻めが、代わりに建てますれば。」
赫兵衛は凍えて感覚もない手指を傷めつつ、雪を掘った。雪を掘った下には、凍って堅い土があった。指ではこの土を掘ることができなかったから、赫兵衛は荷車から橇を外し、長い時間をかけて塔婆を挿す穴を掘った。
「或いは、白野殿の塔婆を建てるは鼻の役目とて、遺し置かれたものか。」
塔婆は建った。横殴りの吹雪が、塔婆の前で手を合わせる赫兵衛に吹き付ける。その様子はさながら笠を被った雪達磨のよう。赫兵衛は疲れきっていた。だが、赫兵衛は立ち上がった。三田来栖を雪中に放っては置けない。赫兵衛は三田来栖の凍った体躯を担ぎ上げ、荷車に入れるという仕事に取り掛かった。
途方もない時間と体力を使って、漸くそれは為された。赫兵衛は糧食を除き、薪などを全て打ち捨てなければならなかった。それでも荷車はあまりにも窮屈で、三田来栖の亡骸が置かれたあとに、赫兵衛が休らう余地はなかった。
赫兵衛は縄で自分と荷車を縛り付けた。縄は回った形に凍りつき、赫兵衛を締め付けたが、殆ど動かない腕に荷車を牽かせる事はもう出来なかったのである。
「では参りますぞ。三田来栖殿。城下に辿り着くのは何時になるかは分かりませぬが、道は確かでござれば。」
赫兵衛は一歩を踏み出そうとした。しかし、重さを増した荷車は動かなかった。赫兵衛は更に力を籠めた。そして更に。渾身の力で。荷車は、ず、と漸く滑った。赫兵衛は朦朧となりながらも、二歩目を歩んだ。赫兵衛はまたゆっくりと、三歩目を歩んだ。
それが赫兵衛の最期であった。赫兵衛は鼻から雪の中に倒れこんだ。
今し方の赫兵衛の必死の所作も、量りかねる三田来栖の心根も、その他諸々の瑣事も、元から無いものの如くに、雪に白く消されていくのだった。
三田蔵人は臥所の中で、す、と眼を開いた。襖を隔てた廊下に、用人の気配を感じたからである。舞姫もまた目を覚まし、素早く行灯の火を蝋燭に移した。夜は三更。夜明けはまだ遠い。
「殿。北の国境より、不可思議なる光が城下に近づいておりまする。」
「光と。」
「は。最早此処より見えまする。」
「何物か。」
「斥候の申すには、光の中に杜仲井赫兵衛殿が、三田来栖殿を荷車に載せ、ご帰還と。」
三田蔵人は夜具を押しのけ、すくと立った。
「支度を。衣服を持て。」
しかし舞姫はぴしりと蔵人を窘めた。寝化粧の舞姫は常にも増して凄惨な迄に美しく、その上更に眦を上げていた。
「我が殿。三田家のみならず、この国の宝とも称される御方々の御帰還あるに、真っ先に蔵人殿のお迎えの無きなど、いかで許されましょうや。暢気を申されず、疾く其の儘に御発ちなさりませ。衣服履物などは、追って用人共に届けさせまする故、今は。」
三田蔵人は一瞬、顔に厳しいものを刷いたが、舞姫を見て直ぐ、頼もしげに微笑んだ。そして素足のまま雪の庭に降り立ち、裾を捲くるや颯と走り出したのは見事であった。
舞姫は勢い良く戸を開け放ち、音声鋭く用人を呼んだ。
「誰ぞある。門を開けよ。我が殿の御発ちであるぞ。応え無くば、この舞が手づから開門するが、よいかっ。」
だが門は既に開かれようとしていた。不寝番は門の側に張り詰めて下知を待っていたのだ。舞姫は矢継ぎ早に命を下した。
「馬牽けっ。我が殿を遅参させまいぞ。急げっ。」
ところが門前には、生食が既に落ち着きなく蔵人を待っていた。厩番が遅れて到着する。
「殿。申し開きもございませぬ。夜半より俄かに荒ぶりまして、このような次第に。」
「よい。生食はわが手にも余る。」
蔵人は生食に跨り、その首を軽く叩く。生食は、ぶるる、と不満を示す。
「遅れてすまぬ、さ、疾く参ろう。」
何時寝入ってしまったものか、赫兵衛ははっとして目覚めた。さいわいにも赫兵衛はまだ橇を引いて進んでいた。雪の中に転んでしまったことまでは、覚えている。赫兵衛はここが冷たくも暗くもないことに気付いた。
きっと、荷車を引きながら眠ってしまったのだろう。振り向くと三田来栖は荷車で心地良さそうに眠っている。無理もない。あれだけのことを成し遂げたのだから。
周りの景色から、もう城下に近いことが知れた。家々が側に見える。この時赫兵衛は漸く、周囲を照らしているのが他ならぬ己の鼻だということに気付いた。
赫兵衛の鼻は暖かく光り、荷車を包み込んでいた。星の瞬きから察するに、夜明けにはまだ間がありそうだったが、赫兵衛の周りは春の曙のように明るかった。
荷車はあたかも重さの無いもののようにするすると動く。粉雪の地面に僅かな橇跡を残し荷車は進んだ。城下の方角に何やら気配が感じられる。三田殿を出迎える動きならば、そろそろ起きていただいたほうが良かろうかと、赫兵衛は思案した。
「三田殿。」
三田来栖はゆっくりと瞼を開け、周りを見回した。
「城下に近うござる。間もなくお迎えの方々がお見えになるかと、存ずる。」
「おお、杜仲井殿、忝い。すっかり寝入っておったわ。余りに心地良うてな。」
「三田殿には大層お疲れの様子で御座った。もう暫しのご不便、堪えてくださりませ。」
三田来栖はにこにこと相好を崩し、赫兵衛に頷いた。
「それ、その鼻は宝だと、申したであろう。この光に包まれて居ると、何やら心持ちが軽うなる。」
荷車はいよいよ城下に入る。この頃には、何ごとかと起きだした人々が、不可思議な光を遠巻きに囲み、橇跡を追いもして、俄かに何かの行列の体。
「父上っ、杜仲井殿っ。」
蹄が粉雪を蹴散らす音を伴って、三田蔵人の呼ぶ声が近づいた。赫兵衛は暫し歩みを止め、探索行の準備を細かに手配してくれた凛々しい若武者が近づくのを待った。
「父上、ようお戻りくだされました。杜仲井殿、とうとう父上を探し当てましたな。お見事でござる。」
三田蔵人は薄着にも拘わらずうっすらと汗さえ浮かべていた。馬を下りた蔵人の吐く息は真白に広く太く、赫兵衛は、これが鍛え上げられた武者なりと、見当はずれなことを考えていた。
「蔵人殿、お出迎え、忝うござる。」
「さあ、この蔵人にも、牽き役お命じ下さりませ、父上。」
三田蔵人はそう言って太い腕で引き棒を掴もうとした。
しかし、あろうことか蔵人の掌は棒をすり抜けてしまう。蔵人ははっとして手を引っ込めた。
「左様で御座ったか。」
些かの沈黙の後、口を開いたのは赫兵衛であった。ここに来て漸く、赫兵衛は、己がこの世の籍を失っていたことに思い当たったのである。赫兵衛は自分の両の掌を見た後、ぽつりと言った。
「蔵人殿、この荷車は然して重うはござらぬ。この赫兵衛が三田来栖殿を今暫くお連れ申し上げとうござる。」
三田蔵人は、無論鬼籍を得たはずの父、三田来栖を振り返った。三田来栖は上機嫌で深く頷いた。
「よい。よいのだ、蔵人。その力で牽かれては、荷車が毀れてしまうによって、な。」
今や鼻のみではなく、赫兵衛の身体も、三田来栖も、半ば透明に光り且つ輝いていた。三田蔵人は大きなものを得もし失いもして、どのように振舞うべきか、悲しむべきか楽しむべきか、相反する二つの心持に戸惑った。
「されば。」
やがて三田蔵人は、きっと頭を上げ再び馬に跨った。
「せめて城下まで先導仕る。」
若武者を先頭に温かな光の玉、そして従う人々が城へと進んでいく様子は、さながら聖者の行進の如く。やがて東の空が明るくなり始める。それにつれ赫兵衛と三田来栖を包む光は輝きを失う。何故なら死者は陽に遭って消えるもので、影を持たぬ二人は形を留められぬのである。
橇は列を離れた。赫兵衛はもう雪を踏んではおらず、橇跡もまた途絶えた。杜仲井の牽く橇に乗った三田来栖は、西の空へとゆるゆる上っていく。
蔵人は三田来栖に呼びかけた。
「されば、これにて永の別離となりましょうや、父上。」
三田来栖は、ほうほうほうと大きく笑った。
「いや、また見えようぞ。我が息子よ。此度は果たせなんだが、来年は皆にも贈り物を届けよう。それが儂の罪滅ぼしであるから。そうでのうても、施すは心安らぐもの。杜仲井殿に牽かれてな。また参ろうぞ。」
「さてさて、其方は間に合わなんだのう。」
三田屋敷の留守を預かる舞姫は、西の空へと消える杜仲井と三田来栖を見送ると、穏やかに胎の中の子に話しかけた。その眼差しは優しく、起こしてもいない過ちを既に赦している。
「この国の、宝の物語にのう。されど、この母が、飽きるほど話して聞かせるによって、のう。」




