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倫理学:女王様の特別講義~眞栄田豪姫の灼熱講話録  作者: 和子


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9限目 噴煙の箱根活火山帯

第一回 活火山のキャンパス

 2051年。箱根の山々は、いまだ太古の熱を吐き出し続けている。


 眼下に広がる大涌谷(おおわくだに)。約3000年前、神山(かみやま)の水蒸気爆発と溶岩ドームの形成、そして山体を焼き尽くした火砕流が作り上げたこの噴気地帯は、今なおマグマの鼓動をダイレクトに地表へと伝えている。


 荒々しい岩肌からは硫黄の臭いを孕んだ白煙が噴き出し、立ち入りを制限する火山性ガスの濃度は、張り巡らされた最新の観測網によって秒単位でデータ化されている。


 名物の黒たまごを求める観光客の喧騒と、いつ牙を剥くか知れぬ活火山の静かな威圧感。箱根外語大学の日常は、この危うい均衡の上に成り立っている。



第二回 数理と倫理の対峙

 午後の日差しが差し込む箱根外語大学、比較文化学科の研究室。

窓の外では、情熱的なスペイン人教授アントニオ・ロペスが、心底嫌そうな、しかし断りきれない表情の堂島剛を引き連れて、小田原の古書店巡りへと意気揚々と出かけていく姿が見えた。


 「……やれやれ、ロペス教授のエネルギーには恐れ入るな」


 窓の外を見送りながら、文化人類学の鎌勝大樹(かまがちだいき)教授が苦笑交じりに呟いた。


 その視線の先、研究室のソファには、濃紺のタイトなブランドスーツに身を包んだ眞栄田豪姫(まえだあき)が、優雅に脚を組み直して座っている。彼女のハイヒールが、午後の光を反射して鋭く輝いた。


 「さて、眞栄田教授。予定ではこのあと、研究室棟自治会の役員から規約の説明があるということで……平坂教授がお見えになる予定だな」


 鎌勝が手元の資料に目を落としながらそう告げると、豪姫は銀髪のポニーテールを揺らし、わずかに眉をひそめ、冷ややかな吐息をついた。


 「倫理学の通じないデータ偏重の彼女とは、いつも話が合わないのだけれど……。まあ、規約の説明だけなら砂を噛むような時間でも、『儀式』だと思って受け流していきましょう」


 豪姫の言葉には、統計学という「数字」ですべてを裁けると信じて疑わぬ平坂への、隠しきれない軽蔑と拒絶反応が滲んでいた。それは、"高尚な哲学を解さぬ者"への、隠しきれない哀れみと蔑みが滲んでいた。それは、"高尚な哲学を解さぬ者"の精神的貧困を、高みから眺めるような冷ややかな眼差しであった。


 そんな彼女の皮肉に応える間もなく、デスクに置かれたタブレットのインターフォンアプリが、一般家庭のリビングのように(ピンポーン)という電子音を鳴らした。画面には、感情を排したような涼しげな、しかしどこか険のある瞳が映し出されている。


 『――鎌勝教授、平坂黄泉(ひらさかよみ)です。お約束の時間に参りました』


 「ああ、平坂教授。ロックはしていませんよ、どうぞ」


 鎌勝が応じると、ほどなくしてドアが控えめに、しかし迷いのない音を立てて開いた。

挿絵(By みてみん)

 入ってきたのは、大学の教授という肩書きから連想される堅苦しさとは無縁の出で立ちの女性だった。グレーの柔らかなフリースに、脚のラインをなぞるスリムジーンズ。一見するとカジュアルだが、その隙のない着こなしと鋭い眼光が、彼女が「統計学こそ最強」と豪語する大学研究室自治会のリーダーであることを雄弁に物語っている。


 「失礼します」

平坂黄泉は、部屋に漂う豪姫のブランド香水の香りに一瞬だけ鼻を鳴らすと眉間にシワを寄せながら入室する。手に持ったタブレットを胸に抱え、真っ直ぐに二人の方へと歩み寄った。


 「今日ご説明に参りましたのは、眞栄田教授が研究室をお持ちになる前に、研究室自治会の基本的なルールをしっかり把握して頂く為です。さっそくですが、規約の説明を始めます。感情論や抽象的な倫理観で時間を浪費するのは非効率ですので、全て数値化されたルールに基づいて簡潔に進めさせていただきます。……よろしいですね、眞栄田教授?」


 火花が散るような視線の交差。箱根外語大学の「知の女王」二人が対峙する、嵐の予感に満ちた自治会説明会が始まろうとしていた。



第三回 犬猿の仲

 圧倒的存在感の二人の女性のオーラに気圧されていた鎌勝教授は、はっとして、平坂教授に席を勧める。対面のソファに着席すると平坂黄泉は、手際よく手元のタブレットを起動させた。グレーのフリースといういかにも効率重視な装い、そして豪姫の存在を「処理すべき事案の一つ」としか見ていないような無機質な態度。


 当初は「儀式」としてさらりと流すつもりだった豪姫(あき)だったが、そのあまりに事務的な空気感と、自分を視界の端にも入れない平坂の振る舞いに、やや(しゃく)に障ってきた。


 椅子の背にもたれかかったまま、豪姫は長い脚を組み替え、ハイヒールの先を小さく揺らす。知性と色気が混ざり合うその瞳に、意地の悪い愉悦が宿った。


 「あら、そんなに気負わなくても。規則という名の頼りない杖を使って、やっと私にもの申すきっかけ作りに来られたのかしら? それとも、私がいつ、どこで、何回規則を破ったかという『過去の統計データ』でも用意できて、自慢しにきたとか?」


 挑発的な言葉が、鈴の音のような澄んだ声で放たれる。 平坂の指先が一瞬止まった。二人の間に、火薬の匂いが立ち込める。


 「――眞栄田教授、私はただ……」


 平坂が冷徹な反論を繰り出しそうになった瞬間、鎌勝教授が柔和な、しかし有無を言わせぬ笑顔でその間に割って入った。


 「まあまあ!眞栄田教授。そう仰らずに」

鎌勝は豪姫をなだめるように手で制すと、平坂の方を向いて穏やかに言葉を続けた。


 「平坂教授は研究室自治会の世話役もやっておられるのでね、何か困ったときは親身に相談にのってくれるよ。自治会のモットーは『互恵・協調』。数字も倫理も、最終的には皆が気持ちよく研究に専念するためのものですからね」


 鎌勝の言葉は、まるで一触即発の舞台に滑り込んだベテランの仲裁役のように、張り詰めた空気をふわりと解いてしまった。 彼の穏やかな物腰は、猛りきった二人の知性の角を、熟練の手つきで丸く包み込んで見せたのである。


 「……『互恵・協調』。素敵な言葉ですね、鎌勝先生」


 豪姫(あき)は口角を上げたが、その目はまだ平坂の反応を伺うように細められている。対する平坂も、鎌勝の顔を立ててか、小さく鼻を鳴らすに留めていた。



第四回 過去の因縁

 平坂がこれほどまでに(とげ)のある態度を隠そうともしないのは、決して彼女が誰に対しても無差別に攻撃的だからではない。相手が誰であれ「データ」という鏡を通して誠実に向き合おうとするのが彼女の流儀だ。


 しかし、眞栄田豪姫という存在だけは別だった。


 「倫理」と「統計」。 箱大が誇る二つの知性が、これまで幾度となく議論のテーブルで剣を交えてきた。だが、その結末は決まって平行線だ。豪姫が「人間の魂の気高さ」を説けば、平坂は「それは環境変数の相関と人間の生体反応に過ぎない」と数字で冷徹に切り捨てる。


***

 「倫理は精神の骨格のようなものよ。平坂教授は、X線で骨密度を計測して数値化しないと、その美しさを理解できないのかしら?」


 「根拠となるデータも貼らずに学説を語るなんて。眞栄田教授、あなたの(おっしゃ)っているのは学術論文というより、質の低いエッセイか散文詩のたぐいですね」

***


 今日はいつにも増して辛辣な応酬になることは、鎌勝教授は覚悟していた。だが、今日の平坂の冷淡さには、単なる学問的な対立を超えた明確な理由があった。


 「……規約の説明に入る前に、眞栄田教授。一つ確認させていただきたいのですが―――私の午睡動画を無断でライブ配信し、統計学を『寝言の学問』などと揶揄した件……。教授会ではお(とが)めなしとなりましたが、あれが統計的にどれほど私の業務遂行能力を阻害し、プライバシーの標準偏差を逸脱させたか、ご理解されていますか?」


 そう、直近で起きた豪姫による最高の「やらかし」――平坂教授のかわいらしい寝顔を勝手に配信した事件である。


 結果として平坂教授のブログのPV数は爆発的に増加し、受講希望者も急増するという皮肉な「好結果」を招いてしまった。それが、合理性を重んじる平坂にとっては何よりも屈辱的であり、一方で「結果良ければ全て良し」と言わんばかりの豪姫の態度が、火に油を注いでいた。


 鎌勝教授は、二人の間に漂う、いまにも火を吹きそうな熱を帯びた沈黙に冷や汗を流した。


 「ま、まあ平坂教授。あの件は統計学的にも『稀発事象』ということで……ね?」


 「鎌勝教授、あれは無視できない"外れ値(アウトライアー)"、統計学への冒涜ですわ!」


 平坂の射抜くような視線が、今度は鎌勝に向けられた。豪姫はといえば、わざとらしく小首をかしげ、艶やかな唇に勝ち誇ったような笑みを浮かべている。



第五回 箱根外語大学 職員研究室棟利用規約

 豪姫は、平坂の刺すような視線を柳に風と受け流すと、組んだ脚をゆっくりと解き、優雅な動作でデスクのエスプレッソカップに手を伸ばした。


 「あら、そんなに怖い顔をしないで。あなたのブログの閲覧数は激増し、受講者数だって右肩上がり。統計学的に見れば、私のしたことはあなたの価値を最大限に引き出した『最適化』だったはずでしょう? 数字が増えて良かったじゃない。感謝されてもいいくらいだわ」


 「感謝……?」

平坂の眼鏡の奥で、光がふっと消えた。


 それは、爆発的な怒号よりもなお不気味な、感情の完全なる遮断であった。彼女の瞳はもはや人間を映す鏡ではなく、有害なデータを排除するための冷徹なセンサーへと変質していた。


 「無断配信という倫理的欠如を、結果の数値だけで正当化する。……やはりあなたという存在は、この大学のデータにおける最大のノイズです!」


 平坂は震える指先でタブレットを叩くように操作すると、氷のような声を響かせた。

「今回の自治会規約の説明が終わった後、私は教授会に正式な提言を行います。今後の規約には『研究室内におけるライブ配信および無断撮影の厳禁』、ならびに『違反者に対する研究室使用停止を含む重い罰則』を盛り込むべきだと。これはもはや、個人的な感情ではなく、組織の健全性を維持するための防衛策です」


 「随分と窮屈な研究室になりそうね。まるで、学術の檻の中の囚人のような扱いじゃない?」


 豪姫が鼻で笑うが、平坂はそれに取り合わず、機械的なトーンで本題へと切り替えた。

「――では、本題に入ります。改訂案を議論する前に、まずは『現行の』自治会規約を再確認していただきます。鎌勝教授、眞栄田教授、プロジェクターか、お手元のPDF資料をご覧ください」


 平坂がタブレットを操作すると、壁のモニターに整然とした箇条書きが映し出された。

平坂の声が一段と低くなる。それは、規約という名の「檻」を一つずつ確認していくような、冷徹な響きを持っていた。

「(目的) 第1条 本規約は、箱根外語大学(以下「本学」という。)に設置される職員研究室棟(以下「研究室棟」という。)の利用に関し、大学自治の精神に基づき、職員および学生の研究活動に資する場所を安定的に確保するとともに、互恵協調を旨とした円滑な運用を図ることを目的とする。」


 平坂は、タブレットを操作する手を止めることなく、視線だけを「ちらり」と豪姫へ向けた。

しかし、そこに期待していた反応はなかった。豪姫は組んだ脚を優雅に揺らし、窓の外を眺めている。まるで、冬の午後の微かな風の音でも楽しんでいるかのような、徹底した無関心。反論も、鼻で笑うような仕草さえもない。その空虚な静寂が、かえって平坂の神経を逆撫でした。


 平坂は、感情の消えた瞳をタブレットへと戻す。


 「……時間もありませんので、続けます」

彼女の声は、さらに一段、温度を下げた。

「規約、基本理念についてです。――第2条。研究室棟は、本学構成員の自由で創造的な研究を支える共有資産であり、利用者は相互の研究活動を尊重し、()()()()をもって利用するものとする」


 平坂は「良識」と「節度」という単語を読み上げる際、あえて句読点を打つように、明確に言葉を切った。それは、目の前に座る豪姫という存在が、いかにその理念から大きく逸脱しているかを突きつけるような、静かな宣告だった。


 平坂の言葉が、研究室の冷ややかな空気の中に一文字ずつ刻み込まれていく。鎌勝教授は、二人の間に流れる不穏な気配に、まるで壊れ物を扱うような慎重さで茶器を置いた。


 「――第4条、利用対象者」

 平坂が淡々と読み上げる。専任教職員、非常勤教職員、研究上の必要が認められた学生、そしてそれに準ずる者。言葉は静かだが、線引きは明確だった。


 「第5条、利用目的。教育・研究活動を主たる目的とすること。これに反する利用は禁止」


 そこまで聞いて、豪姫は椅子の背にもたれ、少しだけ首を傾げた。


 「ねえ平坂教授」


 「はい?」


 「共有スペースで、食後に"お昼寝"とか、休憩するのはいいのよね?」


 その言い方は軽かったが、冗談ではない目をしていた。研究室棟は"生活を排した研究の場”にしたいのか、それとも"人が長く居られる場"にしたいのか。その分水嶺に立つ問いだった。


 平坂は一拍だけ間を置いた。

「休憩を取ること自体は、問題ありません」


 豪姫の口元がわずかに緩む。


 「ただし」

その一言で、空気が締まる。

「動画を撮るのはだめです」


 「……ああ、そこは線を引くのね」


 「ええ。研究室棟内は、原則として外部露出やメディア投稿は禁止です。撮影・配信・切り抜き、すべて含めて。これは規約として明文化する予定です」


 平坂は紙に視線を落としながら続けた。

「休憩は研究の一部になり得ますが、発信は研究とは別の力学を持ち込みます。ここは互恵協調の場所であって、動画撮影という子供のイタズラの舞台ではありません」


 豪姫は少し考え、それから小さく笑った。

「なるほど。じゃあ、コーヒーを飲んでぼーっとするのは許されるけど、

"研究室棟での優雅な午後♡"みたいな動画は――」


 「盗撮は全てアウトです!」


 即答だった。


 「いいわね、それ」

豪姫は頷いた。「研究する人が、安心して気を抜ける場所。誰かの"コンテンツ"にならない場所」


 窓の外では、まだ若い木材の壁に暮れかかった日の光が当たっていた。

百年後には建て替えられると分かっていても、この瞬間の静けさだけは、確かに守る価値がある。


 平坂はスタイラスペンを取り、余白に一行、控えめな字で書き添えた。

――研究室棟内における撮影およびメディア投稿の禁止。


 それは規則であると同時に、この場所の性格を決める、静かな宣言だった。



第六回 研究室棟利用規約(続き)

 平坂教授は、豪姫の「理解」に都度反応するのではなく、原則「無視」すると判断したのか、淡々と、しかし追い立てるような速度で規約の朗読を加速させた。その声はもはや人間味を削ぎ落とした合成音声のように、室内に響き渡る。


 「(利用許可)第6条。研究室棟の利用にあたっては、大学が定める手続により利用許可を受けなければならない。2、大学は、研究内容、利用状況その他必要と認める事項を勘案し、利用を許可する。――つまり、大学側が不適当と判断した研究者には、この場に留まる権利はないということです」


 平坂教授は一度も顔を上げない。スワイプされるタブレットの画面が、眼鏡の奥で白く明滅する。

「(契約期間)第7条。研究室の利用期間は、大学が定める契約期間によるものとする。2、契約期間内においては、研究室の利用時間に制限を設けない。(利用料)第8条。研究室そのものに対する家賃は徴収しない。2、研究室の利用に伴う光熱費は、原則として徴収しない」


 一気に、淀みなく。 まるで「この空間が、国立大学法人という組織からの無償の恩恵によって成り立っている」という事実を、豪姫の脳内に直接叩き込もうとするかのような勢いだった。この恩恵にしても、核融合発電とユビキタス給電インフラという社会実験の為に設けられた特典であり、採算性は度外視している。


 平坂は画面をスクロールさせ、少しだけ声のトーンを変えた。これまでの抽象的な「理念」とは異なり、より具体的で、現実的な「数字」が絡む条項だ。


 「(共用スペース維持管理費)第9条。研究室棟の共用スペースの維持管理のため、利用者は月額10,000円を負担するものとする。2、前項の金額は、社会情勢、維持管理費の変動等を踏まえ、大学の決定により改定されることがある」


 平坂は一度視線を上げ、補足するように言葉を添えた。


 「共用スペースの整備や清掃には専門の民間業者が入っていますから、これは妥当な、そして避けられないコストです。……当然ですが、各研究室内部については、それぞれの教授に良識的な環境整備をお願いしております。いわば、個人の知性と管理能力が問われる聖域ですね」


 「良識的」という言葉を吐く際、平坂の視線は豪姫が纏うブランドスーツの彼女と、普段のラフなTシャツとジーンズ(彼女がキャンパスを歩く際の「私服」)を一瞬思い浮かべた。研究室で見せるであろう奔放な姿。そのギャップすら、平坂には「管理不足」という名のノイズに映っている。


 「――(共用スペースの利用)第10条、および(維持管理および清掃)第11条については、周知の事実ですので飛ばします」

平坂は流れるような動作でタブレットを操作し、次なる条文へと進む準備を整えた。その無駄のない所作は、まさに統計学に基づいた最適化そのものであり、豪姫へのあてつけのようでもあった。



第七回 研究室棟利用規約(禁止事項)

 平坂の朗読は、いよいよ核心とも言える項目へと差し掛かった。その声には、単なる事務連絡を超えた、裁判官の判決のような冷徹な響きが加わっている。


 「(禁止事項)第12条。研究室棟においては、次の各号に掲げる行為を禁止する。一、法令または公序良俗に反する行為。二、他の利用者の研究活動を著しく妨げる行為。三、施設または設備を損傷する行為。四、大学の許可なく行う営利目的の利用」

平坂はタブレットを机に置き、初めて豪姫の目を真っ向から射抜いた。


 「(安全管理)第13条。利用者は、防災、防犯その他安全管理に関する大学の定めおよび指示を遵守しなければならない。……以上です。これらは厳格に守っていただく。というより、研究室棟自治会としても今後は厳重に監視して参りますので、どうぞご自戒願います」


 「監視」という言葉に、平坂の私怨に似た執念が宿る。無断配信という「公序良俗」に反し、他者の「研究活動を妨げた」とする、豪姫への、公式な宣戦布告だった。


 それまで退屈そうに爪を眺めていた豪姫が、ふっと顔を上げた。艶やかな銀髪のポニーテールが揺れ、挑発的な笑みがその完璧な唇に浮かぶ。


 「あら。自由を愛する学舎(まなびや)かと思っていたけれど、ここは監視社会だったのね。あるいは……そこのGIカットの看守が見回りしている刑務所、ということかしら?」


 鈴の音のような声で放たれた毒に、平坂の頬がわずかに引き攣った。統計学の女王は、手元のタブレットを叩きつけるように置くと、氷のような視線で豪姫を(にら)み据えた。


 「――眞栄田教授。規約にご不満があるというのであれば、そもそも研究室の利用をご遠慮されたほうがよろしいのでは?」


 一触即発。 研究室の空気はもはや「険悪」という言葉では足りないほどに凍りついていた。鎌勝教授は、このままでは物理的な衝突、あるいは教授会を揺るがす大論争に発展すると確信し、冷や汗を拭う暇もなく口を開こうとした。


 鎌勝教授が喉まで出かかった制止の言葉を飲み込むよりも早く、平坂教授は最後の一撃を見舞うべく、機械的な朗読を再開した。その声は、もはや規約の確認ではなく、規律を乱す者への最終通牒(ウルティマタム)であった。


 「(利用許可の取消し)第14条。大学は、利用者が本規約に違反した場合、または研究室棟の運営上必要があると認めた場合には、利用許可の全部または一部を()()()()()()()()()()


 平坂は「取り消すことができる」というフレーズを、わざとゆっくりと、重みを持たせて発音した。彼女の指先が、タブレットの画面を力強くスクロールさせる。


 「(協議事項)第15条、および(改廃)第16条については、運用上の形式的な条項ですので、ここでは省略します。――以上です」


 平坂はタブレットカバーを閉じると、パチンと乾燥した音を響かせた。まるで、裁判官が法廷の幕を下ろす際の木槌(ガベル)のような音だった。


 「これで現行規約の全容を再確認していただきました。眞栄田教授、この第14条が適用されるケースを、統計学的に有意な頻度で発生させないよう切に願います」


 平坂の言葉は、豪姫の「やらかし」がこれ以上続けば、研究室からの追放すら辞さないという明確な意志表示だった。グレーのフリースを着た統計学教授の背筋は、定規を当てたように真っ直ぐに伸び、一切の妥協を許さない鉄の壁のように豪姫の前に立ちはだかっていた。


研究室内には、規約という名の冷淡な現実が、重く沈殿していた。



第八回 恭順のディスタンス

 研究室内に張り詰めた空気は、もはや発火点を超えようとしていた。


 鎌勝教授は、額に浮き出た汗をハンカチで拭う間もなく、視線を泳がせた。平坂の「追放も辞さない」という最終通牒に対し、豪姫がどのような毒を吐き、どれほど苛烈な反論を繰り出すか――。最悪のシナリオが脳裏をよぎる。落語の修羅場ならいざ知らず、現実の、それも知性の巨頭同士の衝突を収める「サゲ」を、彼は必死に探しあぐねていた。


 しかし、次の瞬間、室内の温度がふっと変化した。


 「……平坂教授、鎌勝教授」


 椅子から立ち上がった豪姫が、ゆっくりと、しかし驚くほど穏やかな声を響かせた。挑発的な笑みは消え、代わりにそこにあったのは、透き通るような真摯な表情だった。


 「若輩者の私に、これほど過分なアドバイスを頂き、心より感謝いたします」


 彼女はそう言うと、172センチの長身をしなやかに曲げ、深い辞儀をした。艶やかな銀髪のポニーテールが、重力に従って彼女の頬の脇に美しく流れる。鎌勝はあまりの豹変ぶりに、呆然と口を開けた。平坂もまた、構えていた言葉を失ったように、タブレットを握る指を固まらせた。


 「これからも愚考して判断に迷うときは、すぐに先輩方のご指示を賜りたいと思います。浅学非才の身ではございますが、これからもどうぞ、お導きをよろしくお願いいたします」


 その真摯な物言いは、まるで研修初日の新入社員か、あるいは門を叩いたばかりの修行僧のように謙虚で、非の打ち所がない。


 あまりに完璧な「恭順の装い」。

平坂は、眼鏡の奥で困惑を隠しきれなかった。データのノイズとして排除しようとした相手が、突如として予測モデルの外側に位置する「模範的教員」へと変貌したのだ。


 「……え、ええ。あなたがそのように理解されたのであれば、自治会としても本望です、眞栄田教授の研究室で大学教育が理念が実現されていくことを願っております」


 平坂が、ようやくそれだけを絞り出すように答えると、豪姫は満足げに、そしてどこか意味深な光を瞳の奥に宿して微笑んだ。


 「ええ、本当にお導きが楽しみですわ。(……数字の檻の中で)」


 最後の独り言は、安堵の溜息をついた鎌勝の耳には微かに聞こえた。平坂教授には届かなかったようだが、鎌勝教授の背筋を一瞬だけ冷たく撫でた。



第九回 飛び級の転入生

 平坂黄泉(ひらさかよみ)は、規約という正論で相手を完璧に封じ込めたはずの満足感と、それでいてどこか煙に巻かれたような落ち着かない感覚を抱えたまま、文化人類学研究室を後にした。彼女の背中が廊下の向こうへ消えると、部屋にはようやく、箱根の火山活動が収まったような、平穏だが熱を帯びた空気が戻ってきた。


 一部始終を見守っていた鎌勝教授は、茶器を片付けながら、その瞳に学究的な光を宿していた。


 (実に興味深い。今のやり取り、私が次回のテーマに考えている『伝統的地域勢力の抗争文化』の解析に、非常に良い切り口を与えてくれそうだ)

鎌勝教授は、目の前で繰り広げられた一触即発のパワーゲームを、ポジティブな構想へと昇華させていた。彼は豪姫に向かって、(なだ)めるように(おだ)やかな声をかける。


 「まあ、どんな組織でも新しい人間を受け入れる時は、『洗礼』がつきものだからね。眞栄田教授、納得いかない面もあるだろうけど、これでひとまず研究環境は確保されたわけだ。良しとしないといけないよ」


 「……随分と高圧洗浄機(せんじょうき)で隅々まで洗われたような洗礼でしたけれどね。私なりのエチケット程度の薄化粧まで、彼女には『落とすべき汚れ』に見えたようで心外だわ」


 豪姫がソファに深く身を沈め、艶やかな溜息をついた。すると、鎌勝が何かを思い出したように手を打った。


 「ああ、そうだ。このあと私の落語研究会に、入会希望の学生が来るんだ。もし良ければ、豪姫教授も一緒に会ってみませんか?」


 「あら。私は落語研究会には何の関係もありませんわよ?」

豪姫が意外そうに眉を上げ、断りの言葉を口にする。だが、鎌勝は楽しげに目を細めた。


 「まあ、そう(おっしゃ)らずに。この学生というのがね、実に面白いんだ。十七歳という年齢で、イギリスと香港の二つの大学を飛び級ですでに卒業しているらしい。そんな天才が、世界大学ランキング6位にまで登り詰めたこの『箱根外語大学』に、さらなる挑戦をしにきたというわけだ」


 「十七歳で二大学を、ね……」


 豪姫の瞳に、先ほどまでの退屈とは違う、わずかな知的好奇心が灯った。若き天才が、なぜあえてこの霧深い箱根の、それも落語という「言葉の伝統」の門を叩くのか。


 「お導きをお願いした矢先ですものね。その稀有なサンプル、私も少し拝見させてもらおうかしら」



第十回 大学の昇格請負人

 世界大学ランキングという評価基準がある。2051年現在、箱根外語大学が世界第6位に君臨しているのは、単なる研究力だけの結果ではない。


 「教育」「研究環境」「研究の質」「産業界への影響力」そして「国際性」。

これら5つの分野にわたる18の厳格な指標が、大学の価値を多角的に、そして容赦なくスコア化する。"国際教員の比率"や"多様性のある留学生の受け入れ"は、かつての日本の大学教育の弱点であった。今やこの箱根外語大学においては、アジア勢の躍進を牽引する最大の武器へと転換されていた。


 「教育と研究を核にしつつ、産業界にどれほどのインパクトを与えたか。それがこの国の、そしてこの大学の生存戦略なのよ」


 豪姫は、鎌勝が口にした「世界第6位」という数字の裏側にある、熾烈な椅子取りゲームの光景を思い浮かべた。その頂に近い場所に、あえて国外から「挑戦」しにくる十七歳の天才。


 「その子は、この評価指標のどこを更新しに来たのかしら。……興味深いわね」


 箱根外語大学の発足。その背景には、国が抱き続けてきた積年の焦燥があった。


 かつて日本の大学群は、世界に先駆ける新技術やノーベル賞級の理論を次々と打ち出しながらも、世界大学ランキングという土俵では不本意な位置に甘んじてきた。理由は明白だった。「研究の質」は極めて高いものの、それと表裏一体にある日本の「閉鎖性」が足枷(あしかせ)となっていたのだ。


 「教育」「研究環境」「国際性」――これらの項目において、旧来の大学組織は、オープンな教育への脱皮に激しい抵抗感を示し続けてきた。


 その停滞を打破するために、国が放った最後の一手が、この箱根の地に全く新しいパラダイムを持つ大学を創設することだった。既存の枠組みを無視し、世界標準の「国際性」を骨格に据えた箱根外語大学は、今や世界の大学教育における日本の存在感を一気に押し上げる、最も成功した国家施策として結実していた。


 「閉鎖的な島国が、無理をして窓を開けた結果が、この世界第6位というわけね」


 豪姫は、窓の外に広がる大涌谷の噴煙を眺めながら、嘲笑(あざわら)うように呟いた。


 「伝統的な研究の質を保ちつつ、無理やり外部の血を混ぜ合わせる……。その矛盾だらけの実験場に、また一人、外からの異物が混じりに来たというわけかしら」



第十一回 暴風の天才児マーゴット・ディアス

 静寂を取り戻した室内に、再びインターフォンの無機質な音が響いた。


 『Hello, this is Margot Dias. I'm here to say hello to Professor Kamakatsu.』


 スピーカー越しに聞こえたのは、鈴を転がすような、しかし驚くほど理知的で落ち着いた英語だった。鎌勝教授が「The door is open. Please come in.」と快く入室を促す。


 重厚な扉がゆっくりと開き、現れた影を見て、豪姫は思わず目を細めた。 そこにいたのは、十七歳という実年齢すら疑いたくなるほどに幼さの残る、一人の少女だった。

挿絵(By みてみん)

 「日本語が間違っていても笑わないでください。……一週間もすれば、ほぼ日本語ネイティブになってしまうので、ご心配なく」


 彼女が口にした日本語は、まだ不慣れな音節を含んでいたが、その発声の正確さと構造の完璧さは、彼女の脳が異次元の速度で言語を処理していることを物語っていた。


 マーゴット・ディアス。 ポルトガル人の父とイギリス人の母の間に生まれた英国籍の少女。その経歴は、既存の教育システムに対する「破壊」に近い。飛び級で入学したキングス・カレッジ・ロンドンを十五歳で卒業。その在学期間中、大学のランキングを三十位台から一気に十三位へと押し上げた「大学の救世主」だ。その後、香港の無名に等しかった九龍大学へ移籍。彼女が卒業する頃には、そこは世界ベストテンに名を連ねる超名門校へと変貌を遂げていた。


 特定の指標を劇的に改善させるその「知性」は、もはや一つの現象ですらある。そして今、彼女は自身の強い希望で、ここ箱根へとやってきたのだ。


 「はじめまして、マーゴット。私が鎌勝、そしてこちらが倫理学の眞栄田(まえだ)教授だ」


 鎌勝の紹介を受け、マーゴットは豪姫(あき)を真正面から見つめた。その透き通るような瞳には、膨大なデータと好奇心が火花を散らしているのが見えた。豪姫は、平坂の「高圧洗浄機」とはまた違う、知性の暴風がこの部屋に吹き込んできたことを予感した。


 「高等教育における私の学術テーマは『地政学』でした」

マーゴットは、まるでお気に入りのおもちゃについて語るような軽やかさで続けた。


 「この箱根外語大学には政治経済に関する学部はありませんね。でも、そんなことは私にとって、大した問題ではありません」


 (いや、それは大変な問題だよ……)

鎌勝は内心で絶句していた。他の大学であれば、地政学の博士論文を一本書き上げるだけで即座に教授として迎え入れられるべき頭脳だ。それが、ここではただの「転入生」として扱われている。このあまりにも歪な状況を、彼女は全く意に介していない。


 「でも、しっかり仕事(study)はやってまいりますよ。この大学のランキング順位をトップにまで押し上げます。来日時に文部科学大臣に直接お会いして、そうお約束して参りましたから」


 鎌勝の脳裏に、先日、文科省審議官から「くれぐれも失礼のないように」と釘を刺された際の、どこか必死な形相が浮かんだ。あのお姫様のサポート案件の正体は、これだったのだ。


 『本来なら、東大か京大の地政学教授として迎え入れたい人財なのですが……』

審議官は苦渋に満ちた表情で、声を潜めて語っていた。

『あちらの組織は、十七歳の少女を教授として座らせるほど寛大ではありませんからね。そこで、彼女が強く希望している「江戸の話芸と食文化」の探求にぴったりな、鎌勝教授の落語研究会に受け入れをお願いしたいんです。彼女は所属した大学のランキングを劇的に向上させる、独自の地政学理論を持っています。箱根を世界ナンバーワンに押し上げてくれる。我々はそう確信しているのですよ』


 国家レベルの期待を背負った少女は、茶碗を両手で包み、窓の外に広がる大涌谷の噴煙を見つめた。

「地政学とは、地形や環境がいかに人間に影響を及ぼすかの学問です。この険しい箱根の地形、そして落語という閉じられた言語空間……。ここには、世界一になるための『鍵』が落ちているはずなんです」


 十七歳の戦略家が放つ、静かな宣言。

鎌勝は、日本の大学教育の根底が覆されるような予感に背筋が寒くなるのを感じ、豪姫は面白そうに唇の端を吊り上げた。


 「私はここで文化人類学の教授をしています。私にとって落語は単なる趣味ではありません。それは日本の話芸であると同時に、島国という閉鎖社会が生み出した文化――『洒落』と『粋』、そして『人情』という精神の根幹を成すものなのです」


 鎌勝が矜持を込めて語ると、マーゴットの大きな瞳がいっそうの輝きを増した。


 「『時そば』『長屋の花見』、それから『目黒のさんま』も大好きです! 落語家の方が扇子一本で演じる『ふり芸』は本当に素晴らしい。そこには、名もなき庶民たちが幸せそうに食事を楽しむ、豊かな情景が鮮やかに広がりますから」


 彼女の口から次々と飛び出す古典の演目と、その本質を突いた批評に、鎌勝は感嘆の声を上げた。地政学の冷徹な戦略家としての顔の裏に、これほど瑞々しい感性が同居していようとは。


 「おお、これは驚いた。実に造詣が深くていらっしゃる! 期待以上の新人部員だ」


 鎌勝は、宝物を見つけた子供のように破顔した。


 「ちょうど近くに新しい寄席ができたばかりなんですよ。よろしければ今度、私がご案内しましょう。本物の高座の空気、ぜひ肌で感じていただきたい」


 「喜んで! ありがとうございます、プロフェッサー」


 二人の間に、学問の壁を超えた「芸」への共鳴が生まれる。その和やかな光景を横で見守りながら、豪姫は「地政学」と「目黒のさんま」がどう結びつくのか、この少女が描く壮大なパズルの完成図に思いを馳せていた。



第十二回 知性の鞘当て

 「お熱い会話のところ悪いけれど……ミス・マーゴット」


 それまで静観していた豪姫が、低く、しかし通る声で割って入った。組んでいた脚をゆっくりと解き、猫のようなしなやかな動作で身を乗り出す。


 「あなた、その『庶民の幸せ』とやらを、どうやって大学ランキングの指標に貢献させるつもりかしら? 幸福感なんてものは、最も数値化しにくいノイズのひとつだと思うのだけれど」


 場を氷点下まで下げるような豪姫の問いに、鎌勝はあわてて身を乗り出した。


 「いやぁ、紹介が遅れて申し訳ない! 彼女は倫理学の教授、眞栄田豪姫さんです。文化人類学とはお互い研究で協力している、いわば盟友のような間柄でしてね」


 「エチカ(倫理学)……」


 マーゴットはその言葉を口の中で転がすと、先ほどまでの輝きを消し、どこか同情を孕んだ残念そうな目で豪姫を見つめた。


 「倫理学と聞いて思い浮かぶのは、イギリスのうだつの上がらない猫背の老教授や、図書館の奥のかび臭い書棚に押し込められた古い本ばかり。アリストテレスがとっくに完成させてしまった学問も、極東の日本ではまだ研究途上というわけですか」


 マーゴットの視線は、もはや好奇心の対象を見るものではなかった。自分よりも数段劣る理論体系を後生大事に守っている「遺物」を見るような、残酷なほどに挑発的な眼差し。


 「私の地政学(ジオポリティクス)において、倫理はただの『変数』のひとつに過ぎません。それも、大学ランキングの向上という目的の上では、最もコストパフォーマンスの悪い変数です。まさか、そんな実体のないものに一生を捧げていらっしゃるわけではないですよね?」


 十七歳の天才が放った、知性の傲慢(ごうまん)。それは、豪姫のプライドという逆鱗スレスレに、目にも止まらぬシャドウボクシングのパンチを繰り出すような、極めて危険な行為であった。

先ほどの平坂教授の「規約」という名の高圧洗浄機が、あくまで外側から彼女を磨き上げようとしたものだとするならば、マーゴットの言葉は豪姫という存在の根幹を、鼻先数センチのところで否定してみせたのだ。


 部屋の温度が目に見えて下がり、鎌勝は冷や汗を流しながら、この若き「戦略家」と「倫理の女王」の間に火花が散るのを固唾をのんで見守った。


 豪姫は、その挑発を柳に風と受け流した。激情に駆られることもなく、むしろ楽しげに、細く長い指を顎に添えて微笑む。


 「倫理学がかび臭い猫背の老人? いい表現ね。だからこそ、私は倫理学という古臭いローブをあえて脱ぎ捨ててみたのよ。……アリストテレスで完成したですって? 可愛いことを言うわね、ミス・マーゴット。人間のごうという、決して数値化できない泥濘のような絶望を、あなたはまだ知らないのね」


 豪姫の瞳が、深淵を覗き込むような鋭さを帯びる。


 「ご存知よね? 地政学の最前線では、伝統的な国家中心の理論に対し、地域住民の視点や倫理的・社会的な側面から状況を相対化し、批判的に分析する『批判的地政学』が台頭していることを。あなたの言う変数は、その鏡に照らされて初めて意味を持つのではないかしら」


 静かな、しかし確実なカウンター。マーゴットは、浴びせられた言葉のつぶてを咀嚼するように、しばしの間、静かに目を閉じていた。


 室内に重い沈黙が流れる。やがて、マーゴットはゆっくりと目を開いた。


 「……仰る通りです。二十一世紀中盤における地政学は、既存のパラダイムでは解けない隘路(あいろ)に差し掛かっています。倫理学の視点も、それを突破するための重要なリソースになり得ると考えます」


 それは屈服ではなかった。単なる感情的なヒスタミン反応にはいちいち付き合わない、という若き天才ゆえの徹底した合理性の現れだった。マーゴットは、今度は敬意を模した冷ややかな眼差しで豪姫を見据えた。


 「地政学の重要性は、正しくご認識いただいているようですね。眞栄田教授」


 互いに一歩も引かぬ知性の火花。その中心に立たされた鎌勝は、胃のあたりを押さえながら、「さて、これ以上は本当に寄席の空気を吸いに行かないか」と、助け船を出すタイミングをうかがっていた。



第十三回 倫理関数「Etiqa」の謎

 鎌勝が「クエスト(冒険)」の始まりを祝して快活に笑う中、マーゴットは静かに思考の深淵へと潜っていた。


 彼女は九龍大学にいれば、史上最年少の大学教授になるのは容易に予想できることであった。輝かしいキャリアを捨て、この箱根の地に降り立った真の目的、それは、九龍に残したかけがえのない親友の未来を救うためであり、ひいては歪み始めた世界経済のバランスを取り戻すためであった。


 いまや、世界の巨大企業や情報産業の、喉に刺さった魚の骨は、「倫理22関数ライブラリ『Etiqa』を操るSAIGYO社」という名の怪物だ。


 「Etiqa」それはオープンソースとして世界に公開されながら、その真の機能を有効に引き出し、運用できるのは日本のSAIGYO社が提供するソフトウェアだけという不可解な独占状態にあった。「倫理関数」をシステムに組み込んでいない企業は、ESG投資の波から取り残され、瞬く間に世界の投資リストから抹消されていく。ESG投資とは、かつて一部の奇特な投資家によるものであったが、ESG投資から外された企業は、市場からの撤退を余儀なくされる。生き残るためには、SAIGYO社のクラウドを一部でも取り込み、その軍門に降ることで「信頼」を買うほかなかった。


 なぜ、SAIGYO社だけにそれが可能なのか。


 その謎を解く鍵こそが、目の前に座る女、眞栄田豪姫である。 世界を覆う「倫理22関数」の正体は、彼女が構築した深淵な倫理理論の、いわばデジタルな写し鏡に過ぎない。そして、その数式が孕む真の矛盾と可能性は、開発者の一人である豪姫の知性でしか解析不能なのだ。


 (……眞栄田教授。あなたという解析不能なパズルを解くこと。それが私の、本当の意味での卒業論文になりそうです)


 マーゴットは小さく呟き、カップに残った最後の一滴を飲み干した。 箱根の霧が深まる中、地政学の天才児と、世界の「信頼」を握る倫理学者の運命が、落語研究会という奇妙な舞台の上で、ついに交差を始めた。


 マーゴット・ディアス。 その姓は、かつて大航海時代の荒波を切り裂き、世界の境界を押し広げた覇者バーソロミュー・ディアスの血脈に連なる。ディアスは、アフリカ南端の猛り狂う海を制覇して「嵐の岬」を越え、そこに新航路への希望――「喜望峰」を見出した。しかし、運命とは皮肉なものだ。再度の遠征において、彼は自ら名付けたその「嵐の岬」の怒涛に呑まれ、深淵へと消えていった。


 それから五世紀以上の時を経て、彼女もまた、地球の裏側からこの極東の島へと辿り着いた。


 マーゴットが対峙しているのは、もはや物理的な暴風雨ではない。複雑怪奇に絡み合う地政学の糸、そして「倫理22関数」という、人知を超えた情報の奔流だ。この箱根という険しい山塊に潜む「嵐」を乗り越え、彼女は再び人類に新たな希望を指し示すことができるのか。それとも、先祖と同じく、あまりに巨大な力、倫理学の女王「眞栄田豪姫」の前に飲み込まれてしまうのか。


 「喜望峰は、嵐を越えた者だけが目にできる場所ですから」


 マーゴットは窓外に漂う箱根の霧を、ディアスの瞳でじっと見据えていた。

ーー続くーー

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