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倫理学:女王様の特別講義~眞栄田豪姫の灼熱講話録  作者: 和子


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8限目 豪姫ラボの開設準備委員会

第一回:Summons to Appear ~女王様の出頭命令

 どんよりとした曇り空から、刺すような冬の寒さが降りてくる。堂島剛(どうじまたけし)は、厚手のコートの襟を立て、ショルダーバッグの重みを肩に感じながら坂道を登っていた。バッグの中には、彼の魂とも言える落語の台本がぎっしり詰まったタブレット端末が収まっている。


 目指すはキャンパス北端にそびえる「研究室棟」。そこには、学園の至宝にして畏怖(いふ)の対象、眞栄田豪姫(まえだあき)教授が待っている。


「全く、白紙の状態からゼミの運営体制を作るってのは、寄席の演目を組むより骨が折れるだろうなぁ……」


剛は独りごちた。彼は、豪姫教授の「倫理学講座」において、並み居る秀才たちを抑え、最優秀受講生として繰上げ単位取得(A評価)を勝ち取った、全学生羨望の的だ。だが、その栄誉の代償は重く、倫理学研究室の開設委員に任命され、教授からの「直々の呼び出し」という、光栄かつ恐ろしい使命が下されたのだ。


 「あった、分かりやすいな……」


 堂島は足を止め、周囲を見渡した。彼が探していたのは、この箱根外語大学が誇る先進インフラの一つ、短距離移動システム「モバイル・ウォーキング」のレンタルスポットだ。


 新世代の足:モバイル・ウォーキング。かつて2020年頃に流行した「電動キックボード」を覚えているだろうか。当時、それは単なる便利な乗り物に過ぎなかった。しかし、ここ箱根外語大学、そして現在開発が進む「足柄研究都市」に導入されたそれは、概念からして別物だった。


 剛が見つけた専用スポットには、スマートで無機質なデザインの機体が整然と並んでいる。 「これだ。さて、こいつを借りていこうか」


 剛がスマートフォンをかざすと、一台のロックが静かに解除された。この機体の心臓部には、安全性とエネルギー密度を飛躍的に高めた「全固体電池」が搭載されている。従来のリチウムイオン電池のような発火リスクはなく、極寒の箱根でも出力が落ちることはない。


 さらに特筆すべきは、そのシステム自体にある。大学内の各所に配置された無人の貸出・回収スポットは、単なる駐輪場ではない。そこから機体の利用情報が集められ、稼働状況を最適化するハブなのだ。


 専用路は幅を十分に確保しており、ペロブスカイト太陽電池を張った屋根付き専用路を走る。雨天の使用は混雑する理屈になる。天気がよければ、低速で歩道を走行してもかまわない。


 剛がステップに足を乗せ、加速グリップを静かに回す。滑らかすぎる加速。タイヤがアスファルトを噛む音すら、ほとんど聞こえない。


 キャンパス内を、堂島はこの電動キックボード――商標「モバイル・ウォーキング」を駆って滑走していた。ハンドル幅に両手を大きく広げて構えるその姿は、この時代の学生にとっては見慣れた、当たり前の光景だ。 発信時にぐっと重心を前に預け、右グリップを捻って加速する。左グリップを回せば確実な制動が効く。この便利なコミューターバイクを、堂島は体の一部のように使いこなしていた。


 「おおい、堂島ぁ」


 キャンパス内の一般共用エリアから歩いてきた同期の梅沢敏広(19)が声をかけた。堂島が左グリップを回して減速し、重心を後ろに移動させると、モバイル・ウォーキングは吸い付くように停止した。


 「なんだ、梅沢、風呂かそれともメシか?」


 「両方だよ。スパ・コンプレックスのサウナ入ってから昼飯喰ってきたんだ。今日のサービス定食は肉豆腐だったよ」


 梅沢は満足げに答えた。彼は堂島と同じ国際文化学科の学生だが、アルバイトに追われる様子はない。ブログと動画配信を器用にこなし、スマートに小遣いを稼いでいる男だ。


 「それより堂島、あの『倫理学の女王』のお気に入りなんだってなぁ! 講義も首席認定だって。すげえじゃん」


 梅沢の無邪気な称賛に、堂島は力なく笑った。大きく広げた両手でハンドルを支えたまま、がっくりと首を落とす。


 「まあな! ……って言いたいところだけど、その見返りでとんでもないお荷物背負わされちまったよ。このままだと留年確定だってさ……」


 「は? 首席なのにかよ」


 堂島はそこで一度言葉を切り、周囲をうかがってから声を潜めた。


 「……なぁ梅沢、今度スマホ渡すから、講義の代理ログイン頼みたいんだけど」


 それを聞いた梅沢は、拒否するどころか、ニカッと実にいい笑顔を見せた。


 「引き受けた! 一講義・食券一枚でな」


 「恩に着るよ。地獄に仏だ」


 梅沢が提示した「食券一枚」という、極めて現実的で友情に満ちた(?)倫理的取引条件に、堂島は心からの感謝を述べた。


 再び右グリップを(ひね)ると、堂島の身体を乗せたモバイル・ウォーキングが滑らかに加速していく。親友の「協力」という名の小さな救いを背中に受けて、堂島は女王の待つ研究棟へと、再びその大きなハンドルを向けた。


 堂島は再び右グリップを捻り、モーターの静かな唸りとともに、重い足取りならぬ「重い走り」で女王の待つ研究棟へと向かった。


 キャンパスを滑走する「モバイル・ウォーキング」には、単なるコミューターバイクを超えたもう一つの姿がある。


 その真骨頂は、4輪のキャスター台の中央にモバイル・ウォーキングを差し込むだけで、「電動台車」へと変身する機能だ。差し込むときはグリップの支柱を180度回転させて逆向きにする。この状態では強力な電動アシストが作動し、山積みの荷物を載せていても、まるで空の台車を押しているかのような軽やかさで進むことができる。1台のモバイル・ウォーキングは最大積載200kgの重量に耐える。


 大学の地下には「フリーバイパスエリア」と呼ばれる広大な物流空間が広がっている。 地上で回収されたモバイル・ウォーキングは、エレベーターでいったん地下へと降下される。台車1台には最大8台の車体を積み込むことができ、計9台を一度に目的地へと運搬できるのだ。


 この地下運搬のアルバイトに従事するのは、意外にも女子学生が多い。 「――軽労働だし、地下だから日焼けもしない。適度な歩行は、お尻から大腿部を引き締める効果があるのよ――」この噂を聞いた希望者が非常に多い。彼女たちは自嘲気味に、しかしどこか誇らしげに自らを「アリンコ」と呼んでいる。

挿絵(By みてみん)

 このシステムは、貨物便の「ラスト・ワンマイル」を担う重要なインフラでもあった。 大学には物流専用のゲートがあり、足柄研究都市や箱根外語大学、湯本、小田原を往復する地下貨物鉄道と直結している。ターミナルでは、トラック運転手や鉄道職員の屈強な男たちが、フォークリフトを使って手際よく荷物を台車に載せてくれる。女子大生アリンコたちにとって、それは力仕事から解放される瞬間であり、時に爽やかなお兄さんたちとの交流が生まれる場でもあった。中には、そこから交際に発展する者もいるという。


 地下バイパスは、目に優しい適度な照明で照らされ、床には鮮やかなガイドラインと方向指示が引かれている。天井には各ブロックエリアを示す掲示が並び、迷うことはない。 通路が交差するポイントは360度の視界が確保されており、そこには一つの不文律があった。


 「交差ポイントに後から進入した者が、先行者に道を譲る」


 たったそれだけの、しかし極めて倫理的なルール。 高度なコンピュータによる自動運転など必要ない。人間同士のささやかな譲り合いによって、地下の物流は地上よりもはるかにスムーズに、そして静かに流れている。


 堂島はそんな地下の喧騒を思い浮かべながら、再びモバイル・ウォーキングの右グリップを捻った。これから「女王」から言い渡される仕事が、せめて地下のアリンコたちのような、平和な倫理の上に成り立つものであることを願いながら。


 キャンパス内を走る「モバイル・ウォーキング」は、単なる移動手段に留まらない。メンテナンス中の機体を除いても、常時200台以上が稼働可能な巨大なネットワークを形成している。


 特筆すべきは、その運用の妙だ。 地上で学生たちが単体利用するピークは、登校時の8時台、昼食時の12時台、そして下校の16時台。それに対し、連結して「台車」として地下で運用される物流のピークは、業者納品の午前10時台と、当日着の荷物が届く午後3時台である。関東甲信越からの当日発送便や、遠方からの航空便。それらが最も集中する時間に、モバイル・ウォーキングは姿を変えて地下へと集結する。


 この、移動と物流の鮮やかな棲み分けを支えているのが、配車効率を極限まで高める量子コンピュータだ。「アリンコちゃん」と呼ばれる女子大生たちは、スマホの画面に映し出される最適化されたルートと配車状況をチェックしながら、ゲームでも攻略するかのように軽やかに物流を回している。


 この「交通・物流統合システム」の完成度は、世界が認めるところとなった。 2048年、このシステムは「JAPANコンストラクション物流賞」を受賞し、さらに世界中の都市開発の最高峰である「World Smart City Awards<ワールドスマートシティ・アワード>」において、箱根外語大学キャンパスは都市物流システムの特別賞を受賞したのだ。


 「……ま、そんなシステムも、俺の留年危機のささやかな手助けにはなってくれるのかな?」


 堂島は自嘲気味に呟きながら、右グリップを捻った。 地下では「アリンコ」たちが、世界が称賛する倫理的なルールに従い、スマートに荷物を運んでいる。その一方で、自分はこれから「倫理学の女王」という名の、予測不能なカオスに立ち向かわなければならない。


 モバイル・ウォーキングのハンドルを握る堂島の背中には、最先端スマートシティの恩恵と、学生特有の切実な憂鬱が同居していた。



第二回 ごめんあそばせ!

 こうして地下の貨物ターミナルでは、今日も「アリンコちゃん」たちがスマートに、そして(たくま)しく立ち働いていた。そんなある日。


 「あー、もう! 生協のノートPC納品、今日だけで300台もあるんですって。新入生モデルの時期だけど、こっちも人手が足りないですよ。どうします、先輩?」


 後輩のアリンコがスマホの配車画面を見ながら眉を寄せると、先輩格の女子大生が頼もしく頷いた。


 「大丈夫。モバイル・ウォーキングは連結3台までならアシストのトルクが負けないから。手分けして一気にやっちゃいましょう!」


 そのやり取りを横で見ていたトラックの運転手、20代半ばの爽やかなお兄さんが、ここぞとばかりに身を乗り出した。


 「お、大変そうだね。ただ押すだけなんだろ? 俺も手を貸してやるよ」


 「えっ、いいんですか? サンキュ! 助かる、私についてきてね」


 先輩アリンコがにっこり笑う。お兄さんの胸が高鳴った。 (……よし、作戦成功。後ろからついていけば、あのスリムなジーンズ越しの後ろ姿を合法的に堪能しながら地下バイパスを歩けるぞ!)


 そんな下心をエンジン全開にして準備を整えたお兄さんに、彼女は無慈悲な、いや、極めて「効率的」な指示を飛ばした。


 「じゃ、お願い! お兄さんは一番大きいのを押してきて。助かるわぁ〜!」


 彼女が指し示したのは、ノートPCの箱が限界まで積み上げられた連結3台仕様の特大台車だった。お兄さんがその背後に回ると、目の前には段ボールの巨大な壁。 ……見えない。 視界の端にさえ、彼女の後ろ姿が入らない。ただ、段ボールの壁の向こうから「お兄さーん、遅れないでねー!」と鈴を転がすような声だけが響いてくる。


 (……チクショウ、俺の作戦、見抜かれたかな?)


 お兄さんはやや不満げに、しかし電動アシストのおかげで驚くほど軽い台車を押し始めた。 彼女たちは、箱根外語大学の学生――通称「箱大生(はこだいせい)」だ。語学だけでなく、そのIQは伊達ではない。男の下心くらい、量子コンピュータの予測アルゴリズムより正確に読み切ってしまうのだ。


 モバイル・ウォーキングの右グリップをわずかに(ひね)り、堂島は緩やかに加速した。ワイドハンドルにゆったりと腕を預け、流れるキャンパスの景色を眺めていると、先ほどまで話していた梅沢の言葉が反芻される。


 (……あいつ、いつも適当なようでいて、経済の仕組みに関しては妙に鋭いんだよな)


 梅沢はバイトもせず、動画配信やブログで小遣いを稼ぐインフルエンサーだ。以前、彼が語っていた「地域経済・箱大モデル」の解説は、今思い返しても驚くほど理にかなっていた。


 「いいか堂島。学期中に週28時間働いても、せいぜい3万円。みっちり働いて月12万じゃ、このキャンパスでまともな生活は送れない。だからこそ、このバイトによる"キャッシュバックポイント"が重要なんだ」


 梅沢はスマホの画面をタップしながら、インフルエンサーらしい滑らかな口調で続けていた。


 「バイト時間に応じて1時間最大1,000円のクーポンが発行される。月10万円分のキャッシュバックを受けるために、バイトに励み、そして消費する。例えば、日用品を5000円買い物したとき、ウォレットが自動的に五枚クーポンを使用する。翌月5000円のキャッシュバックポイントが付与されるんだ。消費が膨らめば、ショッピングセンターは大量仕入れでコストを下げ、俺たちはさらに安くモノが買える……。この『消費の拡大』こそが、俺たちが学問に注力するためのリソースなんだよ」


 その時、梅沢はニヤリと笑ってこう付け加えた。 足柄研究都市のショッピングモールとしても、大学食堂利用や大学生協でのショッピングを一般にも開放しているので、地域の発展がさらに消費を拡大させる。「この『箱大モデル』の噂を聞きつけ、人口減少に悩む地方自治体の議員団が、連日のように視察に訪れている。彼らが温泉地の旅館に宿泊することで、箱根の集客にも一役買っているというから、これこそが『箱大モデル』の相乗効果なのさ」という。学生よし、箱大よし、地域よし、「三方よし」の倫理的経済システムと言えた。


 モバイル・ウォーキングのモーターが微かな(うな)りを上げる。堂島はその理論に感心しつつも、皮肉な予感に唇を歪めた。


 「さすがは、インフルエンサー様だ。経済について話すと、なるほどと思わせる説得力がある……」


 だが、それほどまでに完成された「倫理的経済」を掲げるこの大学で、なぜ自分だけが「倫理学の女王」から留年をチラつかされた不条理な任務を命じられようとしているのか。


 効率化された物流、量子コンピュータによる配車、そして完璧な消費サイクル。そのスマートな世界の裂け目に、自分だけが吸い込まれて落ちていくような感覚があった。



第三回 老教授のシンパシー

 モバイル・ウォーキングを走らせてしばらく行くと、前方に一人、古風なツイードのジャケットを羽織った老教授が歩いて来るのが見えた。すれ違う方向になるので、堂島は左グリップを回して静かに機体を停止させると、ステップから降りて片手を離し、丁寧にお辞儀をした。


 老教授は足を止め、眼鏡の奥の目を細めて堂島を見つめた。


 「おや……誰か教授のお呼び出しかね?」


 その問いはもっともだった。この時代、事務的な連絡はすべてチャットやメタバース上のオフィスで完結する。わざわざ本人が生身の体で研究棟へ「出頭」するのは、よほど特殊な事態だ。


 堂島は苦笑混じりに答えた。

「奇妙にお感じになるのも無理はありません。眞栄田豪姫(まえだあき)教授の新しい研究室開設のお手伝いを命じられて、(まか)り越した次第です」


 「おや、君。眞栄田君の研究室に行くのかね?」


 老教授の顔から、ふっと学究的な厳しさが消えた。代わりに浮かんだのは、深い同情、あるいは遭難者を見守るような何とも言えない複雑な表情だった。


 「……そうか。眞栄田君のところに。それは……大変だね」


 「え?」

堂島が聞き返すと、老教授は無言で自分の個人端末を取り出した。

「これ、私のは余っているから全部使いなさい。君のような若者には、これくらいのサービスは必要だろう」


 端末同士が近距離通信の電子音を鳴らす。続けて到着メッセージの小窓が開く。

「えっ、!? 教授専用施設の入浴50%割引券に、サロンの特製ランチ10%割引券まで……いいんですか?」


 「(かま)わんよ。むしろ、君が心配だ。しっかり……生き抜くんだよ」

教授はまるで戦地に赴く兵士の無事を祈るような手つきで、ポン、と堂島の肩を叩き、力なく去っていった。


 堂島は呆然としたまま、スマホのウォレットを開いた。「ダウンロード」から「クーポン」の項目をタップした瞬間、彼は言葉を失った。

画面には、眞栄田教授本人から「手付金」のように預かった食券に加え、今しがた見知らぬ教授から「哀れみ」として譲り受けた膨大な数のクーポンが、スクロールが必要なほど並んでいる。


 「……あの『女王』の無理難題に付き合うってだけで、見知らぬ人からこんなに施しを受けるなんて。これ、ラッキーを通り越して戦慄するレベルだぞ……」


 どれほど過酷な労働が待ち受けているのか。あるいは、眞栄田豪姫という人物がこの大学の教授陣の間でどれほど畏怖されているのか。


 手元のクーポン束の「重さ」は、そのままこれから自分が背負わされる「荷物」の重さのように感じられた。堂島は右グリップを握る手に力を込め、運命を覚悟するように、再びモバイル・ウォーキングの駆動音を響かせた。


 

第四回 古い知人との遭遇

 一般施設とは一線を画す静寂の聖域。そこで味わう極上の入浴施設と至高の料理。それらが、もはや単なる「役得」ではなく、命を繋ぐための「配給」のように思えてきた。堂島はスマホを握りしめ、覚悟を決めて研究室棟の入り口まで辿りついた。すると彼に声をかける者がいる。


 「おっ、堂島じゃないか! 久しぶりだな」


 ムービングウォークの終着点、研究室棟の入り口で声をかけてきたのは、同じ高校出身で今は地元企業に勤める箱大OBの先輩だった。


 「先輩! 今日は仕事ですか?」


 「ああ、今年はリクルーターでね。会社説明会の準備で、教授連に挨拶回りだよ」


 「もうそんな時期なんですね。それにしても年明け早々とは…」


 「そう言わないでくれよ。箱大の学生は、ウチみたいな中小企業には見向きもしないだろう?俺にとっては本当にやりがいのある会社なんだが……。

今、画期的な『ノンアルコール酒』を醸造する菌を発見していて、絶対ヒットすると思うんだよ。ただ、技術が先進的過ぎて、まだ世間にあまり認知されていないんだ。今日はそのあたりを教授たちにプレゼンしてきたんだよ」


 先輩は苦笑いしながら、それでもどこか誇らしげにタブレットを叩いた。


 「じゃあな。お前も就活の時期になったら、少しはウチのことも思い出してくれよ」



第五回 2051年、ユビキタス・エネルギーの森 (―箱根外語大学の電力事情―)

 「開設準備委員ともなれば、時間が足りなくなる・・・落語研究会に出れなくなるかも」


 堂島剛はぼやきながら、モバイル・ウォーキングのハンドルをレンタル回収ステーションの方向へ向けた。

堂島が乗るキックボードに積まれているのは、2050年代には標準となった全固体電池だ。 学内の至る所――駐輪スペースはもちろん、ベンチの足元やカフェのカウンターにまで――無線充電(ワイヤレス給電)設備が埋め込まれている。


 「チャージ完了、本当に手間いらずだな」

利用規則ではないのだが、残量が50%を切っていれば返却前に充電しておくのはオトナのたしなみである。


 短時間の充電でバッテリーは満タンに近くなる。この大学において、エネルギー供給はもはや空気のように「そこにある」ユビキタスな存在だ。室内あちこちに無線給電スポットが配置されており、かつてのように充電ケーブルを持ち歩き、コンセントを探して彷徨う学生の姿は、歴史の教科書の中だけのものとなった。


 この徹底した無線化は、キャンパスの安全性を劇的に変えた。 現在、壁に残された数少ない物理的なコンセントはすべて200Vに統一されて、使用時のみカバーの蓋を持ち上げる方式だ。


 安全な電気: 電圧の統一と接点の最小化により、かつて頻発した「トラッキング現象」や「漏電火災」はほぼ皆無となった。


 ※特殊な日常: 現代のデバイスのほとんどはワイヤレス充電に対応しているが、一部の古い機器や工業用ツールだけが、この200Vの「穴」を必要としている。例えばアンティークな室内間接照明とか、大電力を必要とする空気清浄機であるとか、趣味とこだわりの家電は、後述する別の手段で可用性を担保している。


 そんな無機質な最先端の中で、アントニオ・ロペス教授の研究室だけは異彩を放っている。 情熱的なスペイン文学の権威である彼は、20世紀末~21世紀初頭の「レトロPCガジェット」を愛用するコレクターでもある。


 「学生諸君、私のキーボードの打鍵感を見てくれ! 現代のホログラム入力にはない『魂』があると思わないかい?」そう言って、高速のブラインドタッチからのキメ顔!


 ロペス教授の傍らには、10個口のコンセント付き変圧バッテリーが鎮座している。200Vを100Vへ、あるいはUSB規格へと変換するこの無骨な箱は、UPS(無停電電源装置)も兼ねており、万が一の際の非常用電源として重宝されている。それでもロペス教授のレトロPCガジェットコレクションは増すばかりであった。

「また、ジャンク市場で状態のいいテーブルタップを調達しないといけないな・・・」

教授の研究室は、タコ足配線による電気コードが100本以上這っている。上から不燃性のカーペットが敷かれているが、研究棟管理事務所からは再三注意を受けている。


 モバイル・ウォーキングを研究室棟の回収ポートに返却した堂島は、スマホをかざして電子ウォレットの認証を通した。キャンパスの地下回廊では、同一レーン上を返却済みのモバイル・ウォーキングが淡々と地下へ送られていく。


 豪姫教授から貸与された研究室棟に入るための電子タグをかざすと、軽快なチャイム音が流れた。堂島は重厚な自動ドアの向こう側――知性と駆引きが渦巻く教授陣の「聖域」へと足を踏み入れた。



第六回 禁足地の本人確認

 といっても、宅配業者も、弁当やピザの宅配も出入りしている。教授の助手たちもいるので廊下の往来は結構多い。


 堂島剛は、目の前の重厚な扉に掲げられたプレートと、手元のスマホ画面を交互に三度見した。


 「……文化人類学研究室。やっぱり鎌勝教授の部屋だよな?」


 スマホに送りつけられた案内図には、精緻な3Dマップの上に、いかにも投げやりな、しかし力強い手書き文字と赤い矢印で「ココ」とだけ記されている。送信主は、文学部比較文化学科の眞栄田豪姫。彼女自身の研究室からは、廊下を隔ててかなり離れた場所だ。


 2051年現在、物理的なボタンとしての「ドアフォン」は、一般家庭やオフィス、更には大学の施設からも姿を消している。来訪者はすべて、汎用通信アプリ「インターフォン」を介して到着を告げ、入室の許可を得るのが常識だ。


 廊下では、隣の部屋に丁度荷物を届けに来た宅配業者が、慣れた手つきでインカムを操作していた。 「……〇〇配送です。302号室、置き配指定解除、音声認証願います」 音声でアプリを操作するその姿は、この時代の日常風景である。


 堂島も自分の端末から「インターフォン」を起動し、鎌勝研究室のアイコンをタップした。


 ほどなくして、端末から穏やかだが芯の通った声が流れてきた。


 『おや、堂島君だね。待っていたよ、どうぞお入りください』


 その声の主は、間違いなく文化人類学の鎌勝大樹(かまがちだいき)教授だった。 電子錠が「カチリ」と小さな音を立てて解錠される。物理的な鍵を回す必要も、教授がわざわざ席を立つ必要もない。すべてはネットワーク越しに完結する。


 堂島は緊張で少しこわばった指先で、ドアノブに手をかけた。


 「失礼します……」


 扉を開けると、そこは「知の集積地」というよりは、どこか「寄席の楽屋」に近い空気が漂っていた。 壁一面の本棚には、文化人類学の難解な学術書と並んで、古びた落語の速記本や、歴代の名人の写真が所狭しと並んでいる。


 そして部屋の奥、200Vのコンセントから直接電源を引いた大型の加湿空気清浄器が静かに滅菌(めっきん)ミストを吐き出す中で、主である鎌勝教授が、柔和な笑みを浮かべて座っていた。


 しかし、堂島の視線はその隣へと吸い寄せられる。 そこには、常に身体のラインを強調する濃紺のタイトなブランドスーツに身を包み、10cmのハイヒールを履いた足を優雅に組み直す女性――眞栄田豪姫が、我が物顔でエスプレッソを(すす)っていた。


 「遅かったじゃない?堂島君。落語の出囃子(でばやし)なら、もう三遍は鳴り終わっているわよ」


 豪姫の艶やかな髪が、無造作なポニーテールの中で揺れる。知性と色気が混ざり合った彼女の視線が、獲物を見定める猛禽のように堂島を射抜いた。


「指定の時間ぴったりには来たんですが……部屋を間違えてしまったかと思いまして。ええと、倫理学研究室は、今日から文化人類学研究室と相部屋(あいべや)になったんですか?」


 堂島は戸惑いを隠せないまま、入り口で立ち往生していた。 それもそのはずだ。超エリートで「天才」の名をほしいままにする眞栄田豪姫教授が、古風な落語の資料に囲まれた鎌勝教授の部屋に、当たり前のように居座っているのだから。


 その様子を見て、鎌勝教授は目尻を下げて(ほが)らかに笑った。


 「ははは! 堂島君、もしそうだったら、私としてはこれ以上嬉しいことはないんだけどね!」


 鎌勝はデスクに置かれた急須から、手慣れた動作で湯呑みに茶を注ぐ。立ち上る香ばしい茶の香りが、ハイテクな2051年のキャンパスにあって、ここだけを昭和の寄席の楽屋のような、どこか懐かしい空気感に染め上げていた。


 「実はね、この部屋はあくまで『準備室』として使ってもらっているんだよ。豪姫(あき)教授の新研究室が正式に稼働できるようになるまでの、ほんの短い間の"間に合わせ"さ。彼女のような異色の才能に研究室を正式に提供するというのは、大学側の事務手続きも色々と特別でね」


 「……事務方が私の『研究実績』をどうカテゴリー分けするかで、三日三晩揉めたらしいわ」


 豪姫はエスプレッソのカップをソーサーに戻し、少しだけ退屈そうに、しかし優雅に肩をすくめた。その際、タイトな濃紺のスーツが彼女の完璧な曲線を強調し、堂島は目のやり場に困って思わず視線を泳がせた。


 鎌勝はそんな二人を交互に見ながら、話を続ける。


 「それでね、新研究室の立ち上げには学際的なサポートが必要だろうと、私が教授会で志願したんだよ。文化人類学と文化心理学、倫理学それに教育社会学。これらが混ざり合えば、きっと面白い化学反応が起きる。……まあ、実のところは、私が彼女の鋭い知性に少しばかりあやかりたいだけなんだけどね」


 鎌勝の屈託のない言葉に、豪姫もふっと口角を上げた。

「私は研究室も持たない野良教授だったのよ。通勤も大変だから、キャンパス内でテントでも張ろうかと思ったわ」

堂島の脳裏にソロキャンプをする豪姫のイメージが投影された。

挿絵(By みてみん)

 「鎌勝教授のサポートがなければ、私は今頃、キャンパスの隅でTシャツ一枚で野宿していたかもしれないわね……さて、堂島君。驚くのはそのくらいにして、こちらへ。白紙のゼミ運営体制に、最初の『触媒』を盛り込む作業を始めましょうか」


 豪姫が手元のタブレットを軽くスワイプすると、堂島のスマホに新たな共有ファイルの通知が届いた。ほのぼのとした師弟の空気の中に、知的な挑戦の予感がピリリと走る。


 堂島は「やっぱり、ただの事務作業じゃ済みそうにないな」と覚悟を決め、鎌勝が差し出した温かい茶を受け取った。


 「さて、あともう一人のサポート役、ロペス教授もこちらへ向かっている。これで『倫理学研究室開設準備委員会』の布陣が揃う。

堂島君、実務は君が中心になって動いてもらうことになる。期待しているよ」

鎌勝教授の温和な、しかし有無を言わせぬ言葉が、堂島の肩にずしりと乗った。


 堂島は、すでに眞栄田豪姫教授から「忙しくなるから留年を覚悟」という宣告を、まるで明日の天気を告げるような気軽さで受けている。このまま新研究室の立ち上げに深入りすることになり、落語に割く時間など一分たりとも残らないはずだ。


 彼は意を決し、鎌勝教授に向かって深く頭を下げた。


 「先生……。もうご承知のとおり、これからは僕は繁忙を極めることになります。大変勝手ながら、この場で、落語研究会の活動はしばらく休止……いえ、退会させていただきたくお願いいたします」


 それは、落語オタクである堂島にとって身を切るような申し出だった。しかし、鎌勝教授は茶を一口すすると、意外そうに目を細めて笑った。


 「おや、おそらくその必要はないと思うよ」


 「え?」と顔を上げた堂島の視線を、隣に座る豪姫(あき)が冷徹かつ知的な瞳で受け止めた。

「鎌勝教授には、落語という日本の伝統話芸の重要な『リソース・アドバイザー』として協力を仰いでいるの。私の新しい研究室を想像してみると。あるのは端末と、数えるほどの論文、レポート……あとは私の私物くらい。からっぽの書棚を他の教授たちに見られて、『スッキリとした研究室ですねぇ』なんて嫌味を言われるのも(しゃく)なのよ」


 彼女はハイヒールを鳴らして立ち上がると、窓の外に広がるキャンパスを見下ろした。


 「だから、新しい研究室にはあえて『厚み』を持たせることにしたわ。倫理学の再構築には、古今東西の人間観察の記録が必要。落語の速記本や資料は、そのための立派な文献よ。つまり、私の研究室と落語研究会は、これから頻繁に行き来することになる。堂島君、あなたが落語研究会から籍を抜くメリットなんて一つもないわ」


 鎌勝教授も、豪姫の言葉を補うように頷く。


 「そうだよ。運営の実務は、古葉君や節津さんたちに任せればいい。君は落語研究会に籍を置いたまま、私の知識と豪姫教授の思考を繋ぐ『伝書鳩』になってもらいたいんだ」


 堂島は呆然とした。退会どころか、自分のアイデンティティである「落語」そのものが、この最先端の倫理学研究室のパーツとして組み込まれようとしている。


 「……運営は、古葉たちに?」


 「そう。あの自信家の彼が、どうやって落研を回していくか。それも一つの面白い倫理学的実験になるでしょうしね」

豪姫が不敵に微笑む。その表情は、これから始まる「実験」の刺激を心待ちにしているようだった。



第七回 鉄壁のガントチャート

 「さて、これが今回のメインディッシュだ」


 鎌勝教授が、2051年のペーパーレス時代には珍しい、物理的な厚みを持つクリアファイルを堂島に差し出した。中には数枚のレジュメが、まるで労働契約書のような威圧感で収まっている。


 「『倫理学研究室・眞栄田ゼミ開設準備草案』だ。日程進捗(しんちょく)管理表も兼ねているから、今この瞬間から走り出してもらっていいよ」


 堂島が恐る恐るシートをめくると、そこには分刻みの「現場監督」スケジュールがびっしりと書き込まれていた。


 「2月2日(木)は電子錠の権限が貸与される。8時30分に開錠し、内装業者を招き入れる。11時30分には作業員の昼食に合わせて一度施錠して退出を確認。13時に再開し、16時30分に終了。報告書を受理し、残留機材リストと照合して、17時に完全施錠……。これを約2週間、毎日だ」


 鎌勝教授は、かつて自分が研究室を立ち上げた時の「失敗という名の地獄」を思い出したのか、遠い目で優しく微笑んだ。

「私の時は段取りが悪くてね。これはその経験に裏打ちされた『黄金のスケジュール』だよ。効率的だろう?」


 (効率的すぎて、僕の寿命が効率よく削られそうなんですけど!)

堂島の脳内では、瞬時に別の計算が始まっていた。このタイトな日程。この拘束時間。


 (これ、講義に出られないどころか、飯を食う暇もないぞ……。梅沢や古葉にも頼んで代返ログインしてもらうか? いや、バーコード認証があるからスマホをもう一台契約して、端末ごと預けるしかない。維持費はどうする? 通信費は?)


 絶望の淵で溜息をつく堂島に、追い打ちをかけるような「福音」が豪姫から投げられた。


「安心しなさい。頑張ったご褒美に、教授専用食堂の『電子食券』をあげるわ。あそこのステーキ、美味しいわよ。頑張って!」


 豪姫は10cmのハイヒールを軽やかに鳴らし、完璧な微笑みで激励(という名のトドメ)を刺した。学生にとっては最高級の肉はもはや伝説上の存在だが、今の堂島にはそれが「死刑執行前の最後の晩餐」としか思えなかった。


 さらに鎌勝教授が、事務的な口調でトドメを刺す。

「悪いけど、毎日の進捗報告は必ずメールで送ってくれたまえ。1日でも工事が遅れれば、管理事務所に報告してリスケジュールしなきゃいけないからね。よろしく頼んだよ」


 落語の「地獄八景」もかくやという苛烈な任務。

堂島は、震える手で受け取ったレジュメを抱きしめ、天を仰いだ。

「……これから、僕のことは堂島剛ではなく"現場監督"と呼んでください」



第八回 華麗なる三刀流

 「……あの、先生。今のスケジュールだけで、僕のキャパシティは真打ち昇進後の襲名披露興行並みにパンパンなんですけど」


 堂島が掠れた声で訴えるが、鎌勝教授の「教育的スマイル」は崩れない。それどころか、彼は申し訳なさそうな顔をしながら、机の引き出しをゆっくりと開いた。


 「これで終わりと思ったでしょう? ゴメン、まだあるんだ」


 デスクの上に置かれたのは、鈍く光る二台の最新型スマートフォンだった。堂島はそれを見て、蛇に睨まれた蛙のように硬直する。


 「一つは、工事報告のメール、現場記録のカメラ、情報収集用、会計アプリ用。もう一個は、研究室の電子錠解錠とID認証、そして経費精算の電子決済用だ。これに君の個人用を合わせれば、今日から晴れて『スマホ三刀流』だね」


 (三刀流……。宮本武蔵と佐々木小次郎が同時に切りかかってくるようなものか……)

挿絵(By みてみん)

 絶望に打ちひしがれる堂島を、鎌勝教授は独特の業界知識で慰め(?)にかかった。


 「いやいや、上には上がいるよ。私の知っている『西行芸能事務所』の倉持美咲社長なんて、スマホ六台持ちだよ。個人用、決済用、会社用……。さらにタレントの肖像権管理用、地上波テレビ局用、ネット配信局管理用と、回線を分けて契約している。売れっ子を抱える彼女に言わせれば、それでも仕事をする上の必要最小限らしい。それに比べれば、三台なんて身軽なものじゃないか」


 「先生、僕は学生ですよ、芸能プロダクションのマネージャーじゃないんです……!」


 堂島の悲痛な叫びを、豪姫教授の涼やかな声が遮った。

彼女はデスクに置かれた二台のスマートフォンを、まるでチェスの駒でも動かすかのように流麗な指さばきで操作している。複数の画面で異なるデータを同時に処理し、視線だけで認証を通していくその姿は、ジャグラーがいくつもの球を空中で静止させているかのような、恐ろしいまでの正確さと余裕を感じさせた。


 「あら、いいじゃない。デバイスの数は、そのまま社会との接点の数よ。三台使いこなせれば、卒業する頃には聖徳太子並みにマルチタスクができるようになるわ。……あ、そうだ堂島君。その認証用スマホ、私の生体承認データと紐付けしてあるから、紛失したら私のプライバシーが全学生の目に触れることになるわ。気をつけてね?」


 「……っ!!」


 紛失=社会的な死。

堂島は、渡された二台のスマホを、まるで時限爆弾のスイッチを扱うような手つきで受け取った。ポケットは膨らみ、首からはストラップが重なり、脳内の処理能力は早くもオーバーヒート寸前。


 「よし、まずは君のスマホも含めて三台の同期設定から始めようか。あ、ロペス教授が来たら、さらに一台、予備を渡されるかもしれないから、ポケットは空けておいてね」


 鎌勝教授の追撃に、堂島はついに力なく崩れ落ちた。2051年のハイテクキャンパスで、彼は「物理的なデバイスの重み」という、最もアナログな苦行に直面していた。


 「土日くらいは休みや大学の勉強のために、個人的な時間を確保したいでしょうね。……ええ、不可能じゃないわ。今から話す仕事をすべて前倒しで終わらせてしまえばいいのよ」


 豪姫の追い打ちは、もはや慈悲のかけらもない。


 「け、結構……いえ、完全にキャパオーバーなんですけど……!」


 堂島の魂の叫びも、彼女にとっては心地よいBGMに過ぎないらしい。「あらそう」と気にも留めない様子で、豪姫は一枚の大きなプリントアウトをデスクに広げた。


 「今回、内装をお願いするのは『箱根木工所』の宮ノ下巧(みやのしたたくみ)さんよ。宮ノ下社長は箱根の間伐材を活用した木工製品のスペシャリスト。これが、彼がデザインした私の新しい研究室の完成図よ」


 広げられたのは、最新のAIで生成された極めて高精細な完成予想図だった。


 堂島は思わず息を呑んだ。

そこには、重厚なオーク材の書棚が整然と並ぶ、まるでオクスフォード大学の教授室のようなアカデミックな光景が広がっていた。しかし、一歩その空間へ足を踏み入れた自分を想像すると、背筋に心地よい緊張感が走る。


 「……すごいな。和と洋が、喧嘩せずに溶け合ってる」


 壁面の一角には、釘を使わず継ぎ目ひとつ見えない江戸指物の技法で埋め込まれた、書院造りの違い棚。その隣には、計算し尽くされた余白を持つ掛け軸のための静謐な空間が確保されている。

そして何より目を引くのは、部屋の正面に据えられた大きな「丸窓」だ。そこには、春の箱根の山々を丸ごと切り取って額縁に収めたような、圧倒的な自然の息吹がシミュレートされていた。


 「倫理学とは、境界線を引く学問よ。だからこそ、私の部屋も西洋の論理と東洋の感性がせめぎ合う『境界』でなければならないの」


 豪姫は丸窓の図を細い指でなぞりながら、いたずら心を秘めたように微笑んだ。


 「宮ノ下社長は気難しい職人肌。彼と業者のスケジュールを完璧に管理し、この図通りの美学を現実にするのがあなたの仕事よ。……ねえ、堂島君。この美しい部屋が完成する瞬間に立ち会えるなんて、ワクワクするでしょう?」


 ワクワクというよりは、バクバクと心臓が鳴っている。

この芸術品のような内装を、分刻みのスケジュールで、しかも三台のスマホを操りながら管理する。堂島は、あまりにも高貴で、あまりにも過酷な「現場監督」の未来を思い、再び深い溜息をついた。



第九回 文献収集

 「それから、これもお願いね。小田原の古書店を廻って、今から送るリストの本を集めてきてちょうだい。専門書というよりは古典だから、足を使えばわりと見つかるはずよ」


 豪姫は手元にあるスマホを指先で弾くように操作した。その直後、堂島のポケットにある「情報収集用」と「個人用」の端末が同時に、重々しい通知音を鳴らす。


 「今、リストを送ったわ。小田原の古書店を廻って、これらを集めてきて。一般向け書籍だから、足を使えばわりと見つかるはずよ」そこには『未来に残すべき古典倫理学・哲学 20選』という仰々しいタイトルが躍っている。


 堂島はそのリストに目を落とし、思わず絶句した。


 「……『歎異抄』に『正法眼蔵』、『エチカ』に『全体性と無限』……先生、これ、一冊一冊の密度が濃すぎませんか? しかも20冊。これを古本屋で一気に?」


 「そうよ。倫理学を学ぶ上で基本となる本よ。何でもネットで検索して保存する時代だからこそ、紙の、それも誰かの指の跡が残っているような古書を揃えることに意味があるの。東洋の『知行合一』から西洋の『他者の顔』まで、私の研究室の背骨バックボーンになる顔ぶれよ」


 豪姫は、まるで宝の地図を少年に預けるかのような、残酷なまでに美しい微笑みを浮かべた。


 「例えばニーチェの『道徳の系譜』。ルサンチマンから生まれる価値観を暴くこの本を、重厚なオーク材の棚に置く。一方で、レヴィナスの『全体性と無限』を並べて、他者への責任を対峙させる。……どう? 私の新研究室にふさわしい知的格闘バトルフィールドだと思わない?」


 「思うのは自由ですけど、僕の足と腰は自由じゃなくなる気がします」


 堂島の脳内では、小田原の石畳の坂道と、カビ臭い古書店の棚、そして何より「スマホ三刀流」で現場監督をしながら、リュックに詰め込まれた『存在と時間』や『意志と表象としての世界』の物理的な重みがシミュレーションされていた。


 「あ、そうだ。カントの『道徳形而上学の基礎づけ』だけは、できるだけ古い版を探して。感情に流されない『定言命法』の厳格さは、紙が焼けていたほうがより説得力が増すから」


 「……あの、先生。フランクルの『夜と霧』もリストにありますけど、今の僕の状況が一番『極限状態における意味への意志』を試されてる気がするんですが」


 堂島の精一杯の皮肉に、隣で聞いていた鎌勝教授が「座布団一枚だね」と言わんばかりに声を上げて笑った。


 「ははは!素晴らしいよ堂島君、もう哲学が身についているじゃないか。リストの最後にあるレイチェル・カーソンの『沈黙の春』を見つけたら、君も環境倫理の尊さが身に染みてわかるはずだ。……さあ、時間は有限だ。2月頭の開錠までに、知の防波堤を築き上げようじゃないか」


 堂島は肩を落とし、スマホのリストをスクロールしていた。

頭の中では『バガヴァッド・ギーター』の「結果への執着を捨てて義務を果たせ」という教えが、呪いのようにリピートし始めていた。



第十回 ドン・ファン、ロペス教授登場

 「インターフォン」が、陽気なスパニッシュ・ギターのアルペジオを連想させるような軽快なリズムで鳴り響いた。


 「豪姫教授はいらっしゃいますか? あなたのアントニオ・ロペスが、ただいま参上しました!」


 端末から流れてきたのは、情熱的なテノール。準備室に到着した名乗りは、まるで舞台の主役が登場するかのように恭しく、そして堂々としたものだった。


 彼にとって、約束の時間を過ぎていることなど些末な問題でしかない。スペインの太陽を背負って生きる男にとって、遅刻とは「お詫びと愛の言葉を述べるための貴重な機会」が増えたことを意味するのだから。


 ドアが開くと同時に、バラの花束を携え、ロペス教授は眩しいほどの笑顔を振りまきながら入ってきた。さらに彼は、戸惑う堂島の顔を見てウィンクを一つ飛ばすと、詩的な言い訳を重ねる。


 「遅れてしまって申し訳ない、豪姫(アキ)。君に渡すためのバラの花を選んでいたら、どれも君の美しさには敵わないと花たちが喧嘩を始めてしまってね、収めるのに苦労したんだ!どうしたんだ、私の時計は、時間が合っていない!もしかしたら、時計が貴方に嫉妬して、針をわざとゆっくり進めたのかもしれない……。愛しき人よ、私の心はいつだって誰より先にここへ到着していたんだよ」


 まじめさの欠片かけらもない、徹底的にいい加減な振る舞い。だがそれは、もはや個人の性格というよりは、理屈よりも情熱を尊ぶスペインという国の、まばゆいばかりの国民性そのものと言えた。


 「さて、開設準備委員の最後の一人が揃った。堂島君、彼は『欧州史』と『古典の重み』を知る男だ。君の古書リスト探しにも、きっと熱いアドバイスをくれるはずだよ」

鎌勝教授が苦笑いしながら紹介する。堂島は、スマホ三台に加えて「ロペス教授の情熱」という名の、測りきれない質量を持ったタスクが追加されたことを察した。


 「よろしく、ヤング・ドウジマ! 君のそのスマホ三台持ち、まるで騎士の装備のようだね! ドン・デ・ラマンチャが甲冑と盾と槍を装備したような姿」と、行ってロペス教授は自分で笑いがこらえられない。「アッハッハッハッ!」


 ロペス教授は腹の底から笑いながら、大きな手で堂島の背中をバンバンと叩く。

堂島は(この人のペースに巻き込まれたら、小田原の古本屋にたどり着くこともできないぞ……)と、戦々恐々としていた。


 豪姫教授は、呆れたというよりは「織り込み済み」といった様子で、小さく肩をすくめた。

「私がロペス教授の時間感覚に一分一秒の期待をしているとでも思っているの? ……堂島君、あなたの目的はただ本を揃えることじゃないわ。ロペス教授の卓越した文献目利きを存分に活用して、小田原の街から最高の文献を掘り出してきなさい」


 「えっ、今からですか!?」


 驚く堂島の返事など、情熱の嵐の前では無力だった。ロペス教授は堂島の手をがっしりと掴み、力強い握手を交わした。


 「ヤング・ドウジマ! 君たち日本人はネットで書名を検索して、最短ルートで効率よく古本屋を廻ろうとするだろう。だが、それは決定的な『No』だ!本との出会いは、恋と同じ。予期せぬ路地裏で、運命の背表紙と目が合う瞬間こそが至高なんだ!」


 ロペス教授の瞳には、すでに小田原の古い町並みが映っているようだった。彼は自分の腕時計(もちろん、少し遅れている)をチラリとも見ずに宣言する。


 「今日は金曜日、週末の始まりだ! 太陽が沈む前に出発しよう。幸いなことに、私の午後の講義は今、この瞬間に『自習』が決まった!」


 「ええっ!? 学生たちが待ってるんじゃ……」


 「大丈夫、彼らには『愛と歴史の重みについて思索せよ』と掲示板に一言送っておけばいい。さあ、行こうじゃないか! 最高の『エチカ』が、君のリュックに収まるのを待っている!」


 堂島は、三台のスマホがポケットでガチャガチャと音を立てるのも構わず、ロペス教授の強引な牽引力によって部屋の外へと連れ出された。


 背後からは、「いってらっしゃい。掘り出し物がなければ、月曜日の朝にお仕置きを用意しておくわよ!」という豪姫の優雅な激励と、鎌勝教授の「ははは、賑やかになって良かった」というのんびりした笑い声が聞こえてくる。


 2051年のハイテクキャンパスの廊下を、スマホ三本差しの学生と、講義を放り投げた情熱的なスペイン人教授が、風を切って突き進んでいく。堂島剛の、平穏とは程遠い「週末の地獄(あるいは冒険)」が、いま幕を開けた。

ーー続くーー

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