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倫理学:女王様の特別講義~眞栄田豪姫の灼熱講話録  作者: 和子


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7限目 傲慢(ヒュブリス)の向こう、約束の地へ

第一回 実験の再開

 霧の深い箱根の朝、箱根外語大学の101講義室。

室内に響くのは、大理石の演壇を叩く硬質なハイヒールの音だった。


 眞栄田豪姫(まえだあき)は、身体のラインを容赦なく強調する黒のタイトなスーツに身を包み、10センチのピンヒールで壇上に立つ。無造作にまとめられたポニーテールから、艶やかな髪がひと房、肩にこぼれた。彼女は手元の資料も見ず、鋭い眼光で並み居る学生たちを射抜くように見回した。


 「前回少し触れました『傲慢(ヒュブリス)』についてですが」


その声は低く、心地よく、しかし抵抗を許さない絶対的な響きを持っていた。


 「自己肯定という人間の成長におけるマイルストーンとは切り離して考えます。ここで言うマイルストーンとは、自分自身の成長や目標達成の過程で『できた!』『ここまで来た!』と実感できる具体的な節目のことです。これらを意識的に設定・達成することで、達成感や自信……つまり自己肯定感の源が積み重なり、最終目標へのモチベーション維持と基盤強化に(つな)がります」


 最前列でノートを広げていた古葉玲央(こばれお)は、思わずペンを止めた。豪姫の言葉は、まるで自分に向けられたナイフのように感じられたからだ。自信家を自認する彼にとって、彼女の説く「自己肯定」と「傲慢(ごうまん)」の境界線は、極めて不快で、かつ興味深いものだった。


 豪姫は壇上の端から端までゆっくりと歩き、ハイヒールの音を教室の静寂に刻みつける。


 「傲慢と自己肯定感の最大の違いは、何に依存するかです」


 彼女は一度言葉を切り、古葉の隣に座る節津京香(せっつきょうか)をじっと見つめた。京香は背筋を伸ばし、育ちの良さを感じさせる端正な横顔で聴講していたが、その視線にわずかに肩を震わせる。


 「『他者からの承認』に依存するか、『自分自身の内面』を基盤とするか。――傲慢は他者を見下し、絶え間ない賞賛を求めます。それは外発的な渇きであり、終わりがありません。対して自己肯定感は、自分自身を認め、内発的に成長していく。ゆえに、傲慢は人間関係を壊し、自己肯定感は人を惹きつけ、建設的な関係を築くのです」


 豪姫(あき)は不敵な笑みを浮かべた。その笑みは、知性的な美しさの中に、学生たちの安直なプライドをなぶり殺しにするような残酷さを孕んでいた。

「さて、古葉(こば)君。あなたのそれは、どちらかしら?」


 突然名前を呼ばれ、古葉玲央は心拍数が増したのを、隣の節津京香に悟られぬようゆっくり顔を上げる。


 節津京香が不安そうに彼を見る。

講義室全体が、獲物を狙う鷹のような教授の視線に、息を呑んで釘付けになった。


 古葉玲央は、豪姫の射抜くような視線を真っ向から受け止めた。教室の空気が、一瞬にして張り詰める。


 「傲慢にしても、自信にしても……自覚できる個人の達成感については、本質的に同じものだと考えます」

古葉の声は、低く、しかし通る。自信家らしい不敵な響きがあった。

「目標を途中で投げ出したり、怠惰に甘んじていては得られない境地だ。結果として他者を見下す形になったとしても、それは研鑽を積んだ者にのみ許される特権ではありませんか?」


 豪姫はわずかに目を細め、口角を上げた。その表情は、獲物をいたぶる楽しみを見出した捕食者のそれだ。


 「君自身を律する境界線は認めず、結果がすべてという考え方ね。よろしい、幾分かの同意はしましょう。実際、『勝てば官軍』という言葉もありますしね。神への冒涜を戒めてばかりいては、中世の暗黒時代や絶対王政に(おもね)る世界に逆戻りだわ」

豪姫の皮肉交じりの肯定に、教室の学生たちが一斉にペンを走らせる。かつて彼女は「ノートを取る行為は思考を停止させる」としてノートを禁じていたが、今はそれを黙認していた。


 きっかけは、教授会での”うるさ型教授連”からの嫌味だ。「ノート禁止は教育倫理に反するのではないのかね?」というその指摘。豪姫にしてみれば、その老教授の言葉こそが、自身の権威を盾にした「ヒュブリス(傲慢)」の腫瘍(しゅよう)のように思えた。しかし、彼と議論するのは時間の無駄だ。彼女は「学生の自主性を最大限尊重します」と冷淡に回答し、その場を収めたのだった。


 ペンを走らせる学生たちを眺めながら、豪姫は教授会で発した言葉を巡らせる。 日本語を母語とする学生にとって、ノートは思考の邪魔になりかねない。しかし、この大学には多くの留学生がいる。彼らが自国の文字で、日本語よりも的確な自国語のフレーズを書き留めるのなら、それは理解の促進に繋がるだろう。


 (コミュニケーションの拡張……。それはそれで、大きな意義があるわね)


 ※※※素直に学習しなさい(Learn honestly)※※※

豪姫はふと、英語のフレーズを頭に思い浮かべた。 『Honest(誠実さ)』が倫理学における美徳の一つであることを、彼女は十分に弁えている。古葉の反抗的なまでの自信も、自分への誠実さゆえであれば、それは研究対象として興味深い。


 一方、あの老教授の「ヒュブリス」は、今も彼の内側で醜い腫瘍となって膨らみ続けていることだろう。他者からの承認という、実体のない栄養を吸い取りながら。


 豪姫はコツコツとヒールを鳴らし、再び古葉の座っている席の前まで歩み寄った。


 「では、古葉君。その『特権』を持った者が、他者に対してどのような責任を負うべきか……あるいは負わないべきか。次のセクションでは、あなたの言う『結果』の残酷さについて議論しましょうか」


 隣に座る京香が、緊張でペンを握る指先を強張らせていた。彼女の存在すらも、豪姫にとっては倫理学の応用リソースの一つに過ぎないのだ。



第二回 残酷な問い:ジレンマ

 豪姫は教壇の中央に戻り、黒板の白い粉を指先で払うと、チョークを手に取った。迷いのない筆致で、大きくその文字を綴る。


 「διλήμμα」


 「今回のテーマは『葛藤』――ギリシャ語で言うところの『ジレンマ』です」


 彼女の声は、先ほどまでの刺すような鋭さから、深い夜の海のような静謐さを帯びた。ペンを走らせる音すら止まった教室に、彼女の言葉が染み渡っていく。


 「さて、古葉君。先ほど私が口にした『ヒュブリス』についてですが、尻切れトンボの投げっ放しにするわけではありませんから、その点はご心配なく」


 豪姫は古葉を薄く見つめ、艶やかな唇をわずかに歪めた。


 「傲慢という火種は、常にこの葛藤という薪を求めて燃え広がるもの。あなたが誇るその『達成感』が、もし他者の犠牲の上にしか成り立たないとしたら? あるいは、愛する者の破滅と、自らの信念の貫徹、そのどちらかを選ばなければならないとしたら? ――その時、あなたの内側で何が起こるか。それが本日のメインディッシュです」


 彼女はチョークを置くと、わざとらしく小首を傾げて見せた。ヒールが微かな音を立て、彼女の完璧なシルエットを強調する。


 「二つの選択肢があり、どちらを選んでも痛みを伴う。その板挟みの苦しみこそが、人間を『愚者』から『思索者』へと変貌させる触媒になるの。……さあ、心の準備はいいかしら?」


 講義室の温度が数度下がったかのような錯覚を学生たちは覚えた。豪姫の瞳の奥には、これから始まる「実験」を心待ちにする、無邪気で残酷な知性の光が宿っていた。


 「節津(せっつ)君。『ジレンマに陥った』なんて言葉、日常でもよく耳にするわよね。最近、あなたの身近で何かあったかしら?」


 豪姫の矛先が、古葉の隣に座る節津京香へと向けられた。教室内には、張り詰めた糸のような緊張が走る。


 古葉玲央は、素早くノートの端に『サポートするぜ!』と走り書きし、それをそっと京香の脇へとスライドさせた。京香はチラリと視線を落とすと、古葉にだけ分かるように小さくウインクを返し、(大丈夫)と無言で告げた。


 「そうですね……。先日、あるパーティーで美味しい食事を頂く機会がありました」


 京香は凛とした声で話し始めた。


 「どれも本当に美味しそうで、手当たり次第に口に入れていたら、すぐに満腹になってしまって。ふと見ると、一番奥に三種類のカレーがあったのです。どれも絶品だという評判で……。お腹はいっぱい、でも食べたい。まさにどの味を一口だけ選ぶべきかという、葛藤ジレンマの瞬間でした」


 学生たちが、身近な話題にクスクスと笑いが起こり、少しずつ肩の力を抜いているようであった。


 「すると、お隣にいらした女性が、大きな皿を一枚手に取ったのです。彼女はライスで放射状に三つの『ダム』を盛り付けると、その間に三種類のカレーを注ぎ込みました。見事なダム湖のように。……私、そんな合理的な解決策があるのかと驚いてしまいました」


 京香の語った変形ダムカレーのエピソードに、教室はどっと大きな笑いに包まれた。


 その「お隣の女性」の正体が、今演壇に立っている眞栄田豪姫その人であることを知る者は、この教室内では当事者たちだけだ。もしここで名前を出していれば、それは教授に対する「尊厳破壊(そんげんはかい)」になりかねない危ういジョークだった。


 (子猫だと思って甘く見ていると、爪を出しますよ?)


 京香の涼やかな瞳が、そう告げているのを豪姫は鋭く察知した。それは教え子から教授への、愛らしくも生意気な「警告」だった。


 豪姫は、学生たちと一緒に声を上げて笑いながら、優雅に髪をかき上げた。


 「まあ、美味しそうな食べ方ね。知的で合理的だわ。――(わたくし)も今度、どこかでやってみようかしら?」


 完璧なとぼけ顔で応じる豪姫。その視線は、隣で冷や汗を拭う古葉と、余裕を見せる京香を等しく射抜いている。


 「でも、節津君。そのカレーのダムが決壊して、すべてが混ざり合ってしまった時……そこに残るのは混沌カオスか、それとも新しい味の創造か。次はそれを倫理学的に解釈してみましょうか」


 豪姫の不敵な微笑みが、講義室の空気を再び「学問」という名の戦場へと引き戻した。



第三回 ジレンマの本質へ、三つの視点

 「さて、今の節津さんの微笑(ほほえ)ましいエピソードを、『カレーをどう盛るか』という可愛らしい問題で終わらせるつもりはありません」


 豪姫は、ヒールの音を教室の四隅に響かせるように歩き出した。その表情からは先ほどの柔和さが消え、凍てつくような「学者の顔」へと変貌している。


 「葛藤(Ethical conflict)――ジレンマは、人生の伴走者のようなものです。しかし、私がここで扱うのは、今日のランチを何にするかといった些細な選択ではありません。血を流し、魂を削り、時に誰かの命を天秤にかける……大きな『善悪』の判断における葛藤です」


 彼女は教壇の中央で止まり、目の高さに両手を開き、それぞれの掌に何かがあるように交互に目をやりながら話し始めた。


 「まず、皆さんの頭の中にある『善悪』という言葉を解体しましょう。善とは道義的な理想であり、悪とは道義を持たない動物的本能からの欲求に身を任せること。ですが、これは主観の問題ではありません。道徳における『正邪』が心の在り方に依存するのに対し、『善悪』とはその行為を客観的な視点から総合的に判断する冷徹なラベルです。そして厄介なことに、何が善で何が悪かという普遍的な基準など、この世界には存在しません」


 彼女は冷笑を浮かべ、黒板に向かって三つのキーワードを書き殴った。


 「善悪の葛藤に直面したとき、私たちが(すが)る理論は主に三つ。

一つ、功利主義。

J.S.ミルやベンサムが唱えた『最大多数の最大幸福』。結果として生じる幸福の総和が多ければ、それが正義。例えば、トロッコの先で死ぬはずの五人を救うために、一人の命を突き落とすことを『善』と断じる合理性。個人の権利? 行為の本質? そんなものは数式の前では誤差に過ぎないという考え方ね」


 豪姫の視線が、理論派を自称する古葉を射抜いた。


 「二つ、義務論。

カントの呪縛ね。結果がどうあれ、為すべき義務に従えという。例え世界が滅びようとも嘘をついてはいけない、といった融通の利かない潔癖さ。ですが、カント先生は教えてくれないわ。人命を救う義務と、嘘をつかない義務が正面衝突した時、どちらを優先すべきかという指針についてはね」


 最後に、彼女は「徳倫理学」の文字を強く叩いた。


 「三つ、徳倫理学。

行為や結果ではなく、行為者その人の『人格』を問う。アリストテレスに端を発し、現代倫理学の潮流となりつつある考え方。どのような『徳』を持つ者ならどう動くか……。思慮深さや共感が導き出す答え。聞こえはいいけれど、具体性に欠け、文化圏によって『徳』の定義すら変わる危うさを持っているわ」


 豪姫は演壇にもたれ掛け、長い足を組み替えた。タイトスカートの裾から伸びる脚のラインが、不謹慎(ふきんしん)なほどに美しい。しかし、彼女の口から漏れるのは、学生たちの甘い倫理観を切り裂く言葉だった。


 「さあ、理論は提示したわ。功利的な計算で誰かを切り捨てるか、義務という殻に閉じこもって破滅を待つか、あるいは自分の『徳』とやらに縋って泥沼でもがくか。……節津さん。あなたの言ったダムカレーは、三つのルーを混ざらないように守っていたわね。でも、現実の善悪はそうはいかない」


 彼女はスッと立ち上がり、最前列の古葉と京香のデスクに強く両手を突いた。


 「もし、あなたたちのどちらかが、もう片方の人生を台無しにすることでしか救われない『葛藤』に直面した時……。そのルーをどう混ぜるかしら? 汚らしい欲望か、冷徹な計算か、それとも空虚な美徳か。あなたの内側にある『愚者』の正体を、見せてちょうだい」


 豪姫の言葉が止むと、教室にはペンが紙を走る音だけが戻ってきた。


 静寂に近いその音は、学生たちの知性が教授の突きつけた「毒」を咀嚼(そしゃく)し、整理し始めた(あかし)でもあった。ここは箱根外語大学。単なる語学学校ではない。教授の苛烈な講義に翻弄され、立ち往生してしまうような知能レベルでは、そもそもこの門を潜ることはできないのだ。


 視線を巡らせれば、外国人留学生たちも迷いなく手を動かしている。彼らは自国語の文字を踊らせながら、豪姫が提示した三つの概念を、まるで先ほどの「ダムカレー」のように鮮やかに仕分けてみせた。


 一区画には、結果の総和を冷徹に弾き出す『功利主義:最大多数の最大幸福』。

 もう一区画には、鉄の意志で普遍的法則を貫くカントの『義務論』。

 そして最後の一区画には、人格の気高さを問うアリストテレスの『徳倫理学』。


 彼らにとって、ノートを取ることは単なる記録ではない。豪姫という劇薬のような知性を、自分たちの母語でダムの中に正しく盛り付け、混ざり合わないように管理する高度な知的作業だった。


 「……なるほど。整理整頓は得意なようね」


 豪姫は、学生たちのノートに並ぶ三つの「ダム湖」が構成されていくのを満足げに眺めていた。彼女が「ノート禁止」の撤回を黙認したのは、この光景を予見していたからでもある。多言語が交錯するノートの上で、哲学史を揺るがしてきた巨大な理論たちが、ダムの堤防に仕切られて整然と並んでいる。


 「でも、忘れないで。理論を把握することと、それを実行することは別問題だわ」


 豪姫はスッと身を(ひるが)し、再びハイヒールで床を鳴らした。


 「ダムの堤防は、あくまで平時のもの。ひとたび運命という豪雨が降れば、あなたたちが綺麗に盛り付けたその三種類のダムは、無残に決壊し、ルーは混ざり合う。その泥濘(ぬかるみ)の中で立ち尽くす時、初めてあなたたちは『倫理』の真の恐ろしさを知ることになるでしょう」


 彼女はポニーテールを揺らし、壇上でふと足を止めた。そして、まだ何かを言い足りなそうに眉を寄せている古葉玲央に、挑戦的な視線を投げかける。


 「さて、古葉君。その便利ノートが、あなたの『傲慢』を守る盾にならないことを祈っているわ」



第四回 無言の抗議

 豪姫は演壇に両手をつき、前かがみの姿勢で学生たちを威圧するように見つめた。その瞳は、知性の光というよりは、獲物を解剖するメスの鋭さに似ていた。


 「まず、確認しておくわね。『善悪』に"正解"を期待している人へ」


 彼女の声は低く、そして冷徹に教室の隅々まで染み渡っていく。


 「あなた方は、倫理学に何を期待してここに座っていますか? 『正しい答え』? 『善人になる方法』? あるいは、SNSで『炎上しない選択肢』でも教えてもらえると思っているのかしら。――残念ですが、倫理学は免罪符製造学ではありません」


 豪姫は鼻で笑い、組み替えた足のヒールをコツリと鳴らした。


 「善悪とは何か、という問い。それは、『どれを選んでも、後悔と責任から逃げられない』という事実を、理屈で直視させる学問です。自らの手を汚さずに済む魔法なんて存在しない。それが嫌なら、今すぐこの教室を出て、甘い言葉が並んだ自己啓発書でも買いに行くことね」


 その言葉が、数人の学生の心に鋭い「(くさび)」として打ち込まれた。


 不意に、教室内でガタガタと椅子を引く音が重なった。

五、六人の外国人留学生たちが、無言のまま、しかし確かな憤怒(ふんぬ)を湛えた表情で立ち上がった。ある者は自国の苛烈な政治倫理を背負い、ある者は絶対的な神への宗教倫理を人生の柱としているのだろう。


 豪姫の放った「免罪符などない」という言葉は、彼らが守り抜いてきた信念の聖域を土足で踏み荒らす暴論に聞こえたに違いない。


 彼らは教授を睨みつけることすら、もはや自身の「正義」に反すると言わんばかりに、硬い足取りで出口へと向かう。講義中の離席という、この日本的な学び()においては最大級の無礼を厭わぬほどの、純粋で激しい抗議の表明だ。


 (耐えがたい……これ以上は、自分の魂が汚される)


 背中から漂うその無言の叫びを、豪姫は止めることもせず、ただ静かに見送った。


 古葉玲央は、去っていく彼らの背中と、教壇で平然と立つ豪姫を交互に見た。隣の京香は、唇を噛み締めながらノートを握りしめている。


 「……行ったわね」


 豪姫は、去った者たちの不在によって空いた席を眺め、皮肉な微笑みを浮かべた。


 「今のが、彼らなりの『葛藤ジレンマ』の結論よ。自分の信じる『善』を守るために、教授への礼節という『徳』を捨て、知識の習得という『利益』を放棄した。――素晴らしいわ。彼らは今、この講義で最も価値のある体験をしたことになる。……さて、残された『愚者』の皆さんは、どうするかしら?」


 彼女は去った者たちの空席を指し示し、残った学生たちに、より一層深い思考の深淵を見せつけるのだった。


 この箱根外語大学の門を潜った学生たちは、例外なく、その若き人生において「勝者」であり続けてきた者たちだ。


 日本人学生であれば、幼少期から「賢い・頭がいい」と持て囃され、常に学年の中心にいた者。留学生であれば、本国のエリート階層に属し、幼き頃は神童と呼ばれ、一族の期待を一身に背負って海を渡ってきた者。彼らは皆、聡明で、学業は優秀、両親には孝養を尽くし、世代のまとめ役として「正しい道」を歩んできたという自負がある。


 彼らにとって、善悪とは「守るべきルール」であり、自分たちはそのルールを最も鮮やかに体現している存在のはずだった。


 だが今、豪姫の言葉が、彼らが築き上げてきた堅固なプライドの城壁を内側から腐食させていく。


 (……日本で単位を取って、スマートに帰国するだけのはずだったのに)

中段の席に座るアジア系の留学生が、青ざめた顔で後悔していた。


 (この講義を履修したのは、致命的なミスだったかもしれない……)

そんな後悔の念が、教室のあちこちで音もなく伝播していく。自分たちがこれまで信じてきた「善」が、単なる数字の計算(功利主義)や、盲目的な規則への隷属に過ぎないのではないかと突きつけられ、足元が崩れるような感覚に陥っていた。


 ある者は、ペンを握る手に力を込めすぎて指先が白くなっている。またある者は、豪姫の完璧な美貌と残酷な知性のギャップに、生理的な嫌悪感と抗いがたい魅力を同時に感じ、ひどい眩暈(めまい)に襲われていた。


 しかし、彼らはまだ知らない。


 半年後、この「倫理学」の最終講義を終える時、彼らを今苦しめているこの泥濘(ぬかるみ)のような葛藤が、冬の霧が晴れるように雲散霧消することになるのを。


 その時、彼らは「正解」を見つけるのではない。

自分たちが「愚者」であることを受け入れ、その上でどう生きるかという、全く新しい「個」としての立脚点を見出すことになるのだが――今はまだ、豪姫の放つ毒にただただ悶えるしかなかった。


 豪姫は、そんな学生たちの揺らぎを慈しむように見つめ、ゆっくりと教壇の端へ移動した。ハイヒールが放つ規則的な足音が、まるでカウントダウンのように響く。


 「さあ、後悔しても遅いわ。履修中止(クーリングオフ)の期間はもう過ぎているもの。……では、三つの理論を一つづつ解説していきましょう」



第五回 功利主義

 「まず、功利主義について。――計算できる善、そして切り捨てられる人間について」


豪姫の声は、まるで冷たい手術室の照明のように、逃げ場のない真実を照らし出す。


 「功利主義は言います。『最大多数の最大幸福』。……美しい? ええ、数字の上ではね。皆さんお馴染みのトロッコ問題を思い出してください。五人の命を救うために、一人の命を犠牲にする。合理的、効率的、しかも社会からは『善行』という立派なラベルを貼ってもらえる」


 彼女は教壇をゆっくりと歩き、最前列の学生たちの顔を一人ずつ覗き込むようにして言葉を続けた。


 「でもね、ここで質問です。――その犠牲になる一人が、あなたの母親でも? あるいは、あなた自身だったとしても、同じことが言えるかしら?」


 教室内が、墓場のような静寂に包まれる。豪姫は残酷な微笑を浮かべ、自問自答するように首を振った。


 「功利主義は答えません。なぜなら、計算結果がすべてだから。つまり功利主義とは、『私は正しいことをした』と自分に言い聞かせるために、誰かを静かに数値へと変換する思想です」


 「冷たい、と思いますか? いいえ。社会を動かすには、これほど有能な道具はありません。だからこそ、国家も、企業も、あなた方の知らないところでこの冷徹な計算式を愛用しているの。……あなた方は、すでにその計算式の中に組み込まれた、ただの変数に過ぎないのよ」


 豪姫の言葉を、眉を深くしかめながらノートに刻む留学生たちの姿があった。彼らは席を立った仲間たちとは違い、この場に踏みとどまることを選んだ者たちだ。しかし、その手元は小刻みに震えている。


 ある留学生のノートの隅には、講義内容とは無関係な「666」という数字や、歪な十字架のマークが書き込まれていた。それは彼らにとって、理性を侵食する「悪魔の講義」から自らの魂を守るための、必死の魔除けの儀式だった。


 (俺は、悪魔の言葉を聞いているのか……?)


 学生たちの間に広がる、宗教的な恐怖に近い戦慄。豪姫はそれすらも楽しむかのように、艶やかな髪をかき上げ、さらに深く、暗い倫理の深淵へと彼らを誘っていく。


 「さあ、数字にされるのが嫌なら、次の理論に(すが)ってみる? ――カントの『義務論』という、救いのない潔癖な檻についてお話ししましょう」



第六回 カントの義務論

 「では、次。カントの義務論――美しい原則、血の通わない正しさについて」


 豪姫は教壇の上で、自らの長い指先を見つめるようにして言葉を紡いだ。その仕草は優雅だが、放たれる言葉は学生たちの逃げ道を一本ずつ塞いでいく格子戸のようだ。


 「この理論を好む人は少ないけれど、逃げ道を塞ぐ才能だけは一級品よ。義務論は、あなたたちにこう問いかけます。『その行為は普遍化できるか?』と」


 彼女は黒板に、鋭い線で「道徳法則」と書き記した。


 「嘘はダメ。人を道具にしてはいけない。たとえ結果として世界が平和になろうとも、プロセスが汚れていれば、それは悪。ダメなものは、何があってもダメ。……清々しいほどに潔癖だと思わない?」


 豪姫はふっと息を漏らし、最前列で固唾を呑む古葉玲央の瞳を覗き込んだ。


 「では、例を出しましょう。あなたの目の前に、血に飢えた殺人犯が現れたとする。彼はあなたに尋ねるわ。『私の獲物はどこへ逃げた?』。あなたは、逃げた人の隠れ場所を知っている。……さて、真実を言うかしら?」


 古葉が何かを言いかける前に、豪姫の言葉が被さる。


 「義務論の答えは、イエス。嘘は絶対悪だから。その結果、隠れていた人が惨殺されることになっても? ――答えは、やはりイエス。それでも真実を告げなさい、と。……ここで誤解しないでほしいのは、義務論が冷酷なわけではないということ。ただ、徹底して一貫しているだけ」


 教室内を、重苦しい困惑が支配する。留学生の一人が「そんなのは狂気だ」と小さく毒づくのが聞こえた。豪姫はその声を拾い、艶然と微笑む。


 「そう、狂気に見えるわね。でも本当の問題は、その一貫性の矛先よ。原則が人を救うのではない。原則を守り抜いた『私の清廉さ』を救っているに過ぎない……そう見える点だわ」


 彼女は演壇から一歩踏み出し、ハイヒールで床を叩いた。その音は、学生たちの良心を揺さぶる警鐘のように響く。


 「あなた方は、『正しい人』でいたいのか。それとも『誰かを生かしたい』のか。義務論は、あなた方の内側にあるその身勝手な聖域を、鋭く、容赦なく突いてくるわ」


 古葉はペンを握りしめたまま、豪姫の言葉の重圧に耐えていた。隣の京香は、茶道で鍛えたはずの背筋を微かに震わせている。


 「自分の手を汚さずに正しいままで死ぬか、悪に手を染めて誰かを救うか。……さあ、あなたたちの立派な『自尊心』は、この極限のジレンマに耐えられるかしら?」


 豪姫の挑発的な問いが、冷え切った講義室の中にいつまでも残響していた。



第七回 徳倫理学への移行

 「最後に、徳倫理学。――一番優しくて、そして一番残酷な立場についてお話ししましょう」


 豪姫は、それまでの冷徹な表情をふっと緩め、慈愛すら感じさせる柔らかな声を出した。しかし、その瞳の奥にある真実の光は、これまでのどの理論よりも鋭く学生たちを射抜いている。


 「さて、最近流行りの徳倫理学。行為の正しさでも、結果の多寡でもない。問われるのはただ一点、『あなたは、どんな人間か』。勇気、節度、思慮、共感……美しい言葉が並びますね。でも、だからこそ怖い」


 彼女は演壇に肘をつき、指先で自らのこめかみをトントンと叩いた。


 「なぜなら、徳倫理学はこう言うからです。『状況に応じて、自分の頭で考えろ』と。そこにマニュアルはありません。功利主義のような数式も、義務論のような逃げ道の封鎖もない。『徳のある人ならどうするか?』――つまり、あなた自身の人間性そのものが、審判の台に立たされるということです」


 留学生たちのペンが止まった。自国の文化、宗教、伝統。背負ってきた背景が違うからこそ、「徳」という言葉の重みが一人ひとりの胸に、異なる痛みとなって刺さる。


 「文化によって徳は違う? ええ、違います。だからこそ、『私はこう判断した』という責任が、丸ごとあなた自身に返ってくる。徳倫理学が残酷なのは、誰のせいにも、何の理論のせいにもできない点にあるのです」


 豪姫はゆっくりと立ち上がり、黒板の前に立った。チョークで叩きつけるように、最後の言葉を記していく。


 「いいですか。結論ではありません、これは現実です。倫理的ジレンマとは、正しさの衝突であり、価値観の交通事故。そして何より――『無傷では済まない選択』のことです」


 彼女は振り返り、最前列の古葉、そして京香を真っ直ぐに見つめた。


 「功利主義を選べば、切り捨てた個人の顔が一生脳裏に焼き付く。義務論を選べば、守り抜いた原則の影で死んだ人の冷たい指先が残る。徳倫理学を選べば、『私は本当に徳ある人間だったのか?』という呪いのような問いが、死ぬまであなたを追いかけ続ける」


 教室を支配していたのは、もはや恐怖ではなく、逃れようのない「生」の重圧だった。豪姫は最後に、艶やかな髪を一度揺らし、静かに、だが断定的に告げた。


 「だから私は言います。倫理学は、あなたを善人にしない。ただ、自分が何を犠牲にしたかを――その血の匂いを理解したまま、生きさせる学問なのです」


 ハイヒールが、今日一番の硬い音を立てて教室に響かせた。

古葉玲央は、自分のノートに刻まれた『サポートするぜ!』という文字を、苦い思いで見つめていた。そんな軽薄な言葉では到底支えきれないほどの「現実」が、今、彼らの目の前に口を開けて待っていた。


 隣の京香は、茶道で培った静謐(せいひつ)な所作でゆっくりとノートを閉じた。その指先は微かに震えていたが、彼女の瞳には、豪姫が投げ込んだ毒を栄養に変えようとする、強靭な「意志」が宿り始めていた。



第八回 傲慢から葛藤へ~まとめ

 講義室の空気は、もはや学生たちが知る「授業」のそれではなく、一種の宗教的儀式か、あるいは公開処刑を待つ広場のような熱を帯びていた。


 豪姫はゆっくりと教壇の中央へと戻った。その一挙手一投足が、学生たちの視線を磁石のように吸い寄せる。


 「皆さんは今日、この教室に『傲慢』な自己肯定感を携えてやってきました。自分は正しく、自分は聡明で、自分は善悪を峻別できる選ばれた人間であると。……ですが、今この瞬間、皆さんの内側にあるのは、出口のない『葛藤』という泥濘だけです」


 彼女は満足げに、教室内の一人ひとりの顔を見渡した。恐怖に震える者、魔除けを綴る者、怒りを押し殺す者。


 「傲慢から葛藤へ。この転落こそが、人間を『思考』へと駆り立てる唯一のトリガー。自分の手が血で汚れていると自覚した者だけが、初めて倫理の入り口に立つことができる。……さて、概念ダムの整理は終わりましたね?」


 豪姫は艶やかな髪を一度指で払い、不敵な笑みを浮かべた。その視線は、もはや知識の伝達者のものではなく、残酷な実験者のそれだった。


 「では、まさに今回のテーマに相応しい『リソース』を紹介しましょう。……この講義が始まって以来、私が目をかけ、丹念に飼い始めて十分に肥えた『家畜(B)』がいます」


 教室が凍りついた。家畜――その非人道的な響きに、古葉が息を呑み、京香が顔を上げた。


 豪姫の長く、美しい人差し指が、スローモーションのように教室の一角を指し示す。


 「堂島剛(どうじまつよし)君。……次に指名させてもらってよろしいかしら? あなたの抱える『業』と『葛藤』を、皆さんのためのメインディッシュとして、今ここで解体させてもらうわ」


 指名された堂島は、埋蔵金の真相を暴く調査結果で身を固めていたはずの防御を、その一言で粉々に粉砕されたような気がした。彼は震える膝を隠すこともできず、獲物として名指しされた「愚者」の顔で、絶望的に豪姫を見つめ返すしかなかった。



第九回 前菜(Appetizer:アペタイザー)

 堂島剛が、指名された衝撃で弾かれたように立ち上がろうとした。その瞬間、豪姫の鋭い制止が飛ぶ。

「ああっ、もう、せっかちなんだから! あなたは『メインディッシュ』だって言ったでしょう? 少し心の準備をしておきなさい」


 その言葉に、堂島は中腰のまま固まり、やがて力なく椅子に沈んだ。豪姫は彼から視線を外し、ゆっくりと辺りを見回した。


 講義室には、まだ教授の言葉の残響が重く漂っている。誰もノートを動かさない。ペン先が紙面から数センチ浮いたまま、彫像のように固まっている学生さえいる。九月の箱根の湿り気を孕んだ冷房の送風音が、耳鳴りのようにやけに大きく聞こえた。


 教授は演壇に肘をつき、学生たちを一人ずつ、値踏みするように見渡した。その視線は、獲物を探すというより、逃げ場の有無を確認する検問のようだった。


 「……ふうん」


 低く息をつき、長い指先で名簿を軽く叩く。

ぱちん、という乾いた音が、静まり返った室内に爆音のように響いた。


 「じゃあ」

一瞬の間。それだけで、数人が耐えきれずに視線をノートに落とす。教授の指が、迷いなく一人の学生を指し示した。


 「あなた。三列目、窓側」

名指しではない。だが、その指先が描く直線の先にいる者にとって、逃げ道はどこにもなかった。指された男子学生――黒縁眼鏡をかけ、白いシャツの第二ボタンまで律儀に留めている真面目そうな青年は、肩をびくりと震わせた。


 「はい、あなた。そんなに驚かなくても大丈夫。何も取って食おうっていうわけじゃないわ」

教室に、ようやく微かな笑みが漏れた。それは緊張の糸がほんの一瞬だけ緩んだ、安堵に近い笑いだった。


「質問はとてもシンプル。身構えなくていいわよ」


 教授は首を傾け、判決を下す裁判官のような厳かなかな声色で言った。

「あなたは、善悪の葛藤など一切ない、聖人君子なのかしら?」


 男子学生は立ち上がろうとして、途中で動きを止めた。座ったまま答えるべきか、立つべきか判断がつかない。結局、半端に腰を浮かせた姿勢で背筋だけを強張らせる。


 「あ、あの……」

声が裏返る。生唾(なまつば)を飲み込む音が、自分の耳にやけに大きく響いた。


 「い、いえ……そんなことは……」

 「葛藤は"ない"のか、"ある"のか。どちら?」


 教授は助け舟を出さない。問いを極限まで削ぎ落とし、曖昧(あいまい)な逃げ道を消していく。


 「……あります」

ようやく絞り出した答えだった。


 「ほう」

教授の口元が、三日月のようにわずかに上がった。


 「具体的には?」


 男子学生の頭の中が真っ白になる。無意識に「正解」を探そうとしている自分に気づき、その浅ましさにさらに焦る。沈黙が続く。後ろの席から、誰かが椅子をきしませる音がした。


 「……友人が、ズルをして単位を取ろうとしているのを、見たときです」


 教授は何も言わず、ただ続きを促す沈黙だけを維持する。


 「告げ口すれば……大学の規則としては正しい。でも、その友人は留年したら、奨学金が打ち切られるかもしれなくて……」


 彼の声は、次第に告解のような震えを帯び始めた。


 「それで?」

 「……何もしませんでした」


 言い切った瞬間、彼は自分が倫理の祭壇で裁かれるのを覚悟した。だが、豪姫はゆっくりと、深く頷いた。


 「なるほど。功利主義的に言えば?」

 「……友人一人を守って、制度の公正さという全体の利益を損ねました」


 「義務論的には?」

 「……不正を黙認するという、道徳的義務に反する行為をしました」


 「徳倫理学的には?」


 男子学生は一瞬、言葉を失った。自分という人間を、どう定義すればいいのか。

「……卑怯、だったかもしれません」


 その瞬間、豪姫は満足げに小さく息を吐いた。


 「いい答えね」


 教室がざわつく。糾弾されると思っていた学生たちの予想を、彼女は軽やかに裏切った。


 「あなたは今、自分を弁護しなかった。それが重要よ」


 教授は教壇に立ち直し、全体を等しく見渡した。


 「善悪の葛藤がある人間とは、迷い、傷つき、後からでも自分の判断を疑える人間のこと」


 再び、眼鏡の学生を見る。

「ありがとう。座っていいわ。あなたは聖人君子ではない。でも――」


 一拍、残酷なまでに美しい間を置いて。

「だからこそ、倫理学を学ぶ資格がある」


 男子学生は、操り人形の糸が切れたようにゆっくりと椅子に腰を下ろした。心臓はまだ早鐘を打っていたが、不思議と胸の奥の澱みが少しだけ軽くなっているのを感じていた。


 教授はチョークを取り、黒板の中央に、鋭い筆致で一行だけを書き殴った。


 『善悪の葛藤がない人間は、考えていないだけだ』


 講義室に、もはや逃げ場はなかった。それは同時に、思考という名の終わりのない旅への招待状でもあった。


 「さて」

豪姫は、まだ椅子に張り付いている堂島剛へと、再び妖艶な視線を投げた。


 「お待たせ。メインディッシュの準備は整ったかしら、落語研究会の博士さん?」



第十回 実践、傲慢の解体ショー

 ――やっぱりな。

堂島は、表情を崩さないまま、内側でそう呟いた。

教室は静まり返っている。誰も声を出していない。だが、沈黙の密度だけが、さっきよりも確実に重くなっていた。


 (善だの、悪だの……)


 いろいろ述べて、最後に教授は俺をを指名した。

自ら破滅するためのお膳立てをしていたということか。

教室に響くハイヒールの音は、断罪の音でも、懺悔の音でもない。

観察の音だ、と堂島は思った。


 (あんたは、自分が悪だと知ってやってた)


 埋蔵金。

 書類の山。

 研究費という名の洗浄装置。


 (「未来の学術のため」? 笑わせるな。 だが……)


 堂島の視線が、一瞬だけ揺れる。


 (全部、無意味だったかと言われると……違う)


 実際に、その金で救われた研究者がいる。

 潰れずに済んだ研究室もあるだろう。

 論文は出た。成果も残った。


 (だから厄介なんだ)


 完全な悪なら、迷わない。

 完全な善でも、疑わない。


 (あんたは、その間に立ってるつもりなんだろ)


 教授の声が、淡々と功利主義だの義務論だのを語っている。

堂島の耳には、もう理論としては入ってこなかった。


 (あんたは、自分を教材にして逃げおおせるつもりだろうが・・・)


 そう思った瞬間、胸の奥が、ちくりと痛んだ。


 (違うか? 本当に逃げてるのは……)


 堂島は、無意識に手を握りしめる。


 (証拠はある。告発すれば終わる。あんたの地位も、名誉も、全部)


 だが、その先が続かない。


 (それで、俺は何になる?正義か?それとも、ただの破壊者か)


 講義室の空気が、わずかに揺れた気がした。

 ――いや、違う。


 教授が、こちらを見ている。


 堂島は一瞬、ぎょっとした。

口は閉じている。何も言っていない。なのに――


 教授の眉が、ほんの僅かに動いた。

まるで、聞こえないはずの声を、聞き取ったかのように。


 (……まさか)


 堂島は目を細める。


 (倫理学者ってのは、人の頭の中まで、教材にするのかよ)


 教授は、何も言わない。

ただ、堂島から視線を外さず、ゆっくりと頷いた。


 それだけだった。


 だが堂島は確信した。


 (――あんた、今、俺の迷いを拾ったな?)


 教室は静かだ。

誰にも聞こえていない。

だが、善悪の葛藤だけが、二人の間で、確かに音を立てていた。


 「――堂島君」


 その呼び方だけで、教室の空気が微かに動いた。

 教授は名簿を見ていない。だが、確実に彼の名を呼んだ。


「あなたにとって、あの箱根湯本演芸場での体験は、有意義だったようね」


 堂島の背筋に、冷たいものが走る。


(……なぜ、それを)


 周囲の学生たちは首を傾げている。「箱根?」「演芸場?」と、小さな囁きが波紋のように広がる。だが誰も核心には触れられない。触れてはいけない話題だと、空気が教えていた。


 教授は続ける。


「せっかくだから、発表の機会を与えるわ。

 ――演壇に立ってもらえるかしら?」


 拒否という選択肢は、最初から提示されていなかった。


 堂島は、ゆっくりと立ち上がった。椅子が床を擦る音が、やけに大きく響く。

 歩きながら、頭の奥で記憶が勝手に巻き戻り始める。


 箱根湯本。

日本の芸能を体現する演芸場。

笑い声と拍手に紛れて、人の弱さが商品として並べられていた場所。


(俺があそこで見たのは……)


 善でも悪でもなかった。

 ただ、必死さだった。


 壇上に立つと、教授は一歩引いた。主役を譲る仕草だが、その目は鋭いままだ。逃げ道を確認する看守の目。


 「……何を話せば?」


 堂島は、ついそう口にした。


 「あなたが見たものを」


 教授は即答した。


 「評価はこちらでつけるわ。 あなたは、正直でいなさい」


 堂島は一度、深く息を吸った。

そして、学生たちを見渡す。


 「箱根湯本の演芸場で……」


 声が、思ったより落ち着いていた。


 「俺は、埋蔵金を手にした者が、自らの尊厳を削っていくのを見ました」


 ざわめきが起こる。


 「学術研究のためなら、拾得物の着服も厭わない。どこまででも堕ちる」


 堂島は、拳を軽く握った。


 「でも、そこで見たものは落語を楽しんでいる多くの国のお客さんだった。

救われた気分になってた。明日を生きる力をもらった、って顔をしてた」


 一拍、間を置く。


「その金は、きれいじゃないかもしれない。でも、その笑いは……本物だった」


 教室が静まり返る。


 「そのとき思ったんです」


 堂島は、教授の方を見た。


 「善悪って、外からラベル貼ると、簡単だけど……中にいる人間は、そんなに単純じゃない」


 教授の口元が、わずかに緩む。


 「だから今でも、俺は迷ってます」


 堂島は、正直に言った。


 「告発すべきか。黙って壊さずにいるべきか」


 最後に、堂島は視線を落とした。


 「箱根で見たのは、善を理由に悪を飲み込む人間と、悪を引き受けて善を生む人間でした」


 沈黙。


 教授は、ゆっくりと拍手をした。

 二度だけ。音は小さいが、確かだった。


 「ありがとう、堂島くん」


 その声には、皮肉も挑発もなかった。


 「今の発表――倫理学の講義としては、満点よ」


 そして、静かに付け加える。

「……ただし」


 教授の視線が、鋭くなる。

「あなたが次にどちらを選ぶかで、その体験は、美談にも、共犯の記憶にもなる」


 堂島は、何も答えなかった。

 だが壇を降りる足取りは、さっきより重かった。


 箱根湯本の演芸場で聞いた拍手が、今も耳の奥で、消えずに鳴っていた。



第十一回 告発の逆転劇

 「――あなたの言っているのは、このことかしら?」


 教授はそう言って、何気ない仕草で教卓の端に置かれたリモコンを押した。

天井のプロジェクターが低く唸り、スクリーンが白く染まる。

次の瞬間、ざらついた映像が再生された。


 ――箱根湯本演芸場。


 古びた外壁。夜の湿った空気。

カメラは、不自然なほど低い位置から、舞台裏の通路を映していた。


 教室がざわめく。


 「……あれ?」


 スクリーンの端に、人影が映った。


 物陰に身を寄せ、息を潜めている男。

帽子を深くかぶり、周囲を警戒する仕草――


 「堂島……?」


 誰かが、思わず声に出した。


 堂島の喉が、音を立てて鳴った。

(なぜ……この映像が……)


 映像は続く。

だが次のカットで、空気が変わった。


 視点が切り替わる。

まるで、天井裏から見下ろすような角度。あるいは、舞台照明に仕込まれた"目"。


 そこには、逃げも隠れもできない堂島の顔が、鮮明に映っていた。


 険しい表情。

歯を食いしばり、何かを決意したような目。


 教室が、完全に静まり返る。


 堂島は、思わず一歩前に出ていた。


 「……それは」

言葉が、続かない。


 教授は堂島から視線を外さず、淡々と言った。

「ARシステムのテストログに紐づいていた映像よ」


 映像の堂島は、舞台裏の端末に近づき、画面を覗き込んでいる。

その指先の動きまで、はっきりと映っていた。


「どの角度から撮ったのか、分からないでしょう?」

教授の声は、どこか講義の口調に戻っている。

「それが、あのシステムの本質」


 スクリーンの堂島が、ふと顔を上げる。

まるで今この教室で自分を見ている連中を、見返しているかのように。


 堂島の背中を、冷たい汗が伝った。

(……撮られていた)

あの時ずっと。


 教授は続ける。

「舞台、客席、裏方通路。すべてがテストランのための"観測空間"になっていたのよ」


 映像が一時停止される。

険しい表情の堂島の顔が、スクリーンいっぱいに拡大された。


「あなたは、証拠を探しているつもりだった」


 一拍。


「でも実際には、

探していた証拠装置そのものの中に入っていた」


 堂島は、拳を握りしめた。

「……盗撮だ」


 「ええ」

教授は否定しない。


 「だからこそ、重要なの」


 彼女はスクリーンを指した。

「この映像は、不正行為の証拠であると同時に、あなた自身が“観測された存在”である証拠」


 教室に、重たい沈黙が落ちる。

「堂島くん」

教授の声が、少しだけ低くなる。


「あなたは、正義のために(のぞ)いた人間であり、(のぞ)かれる側に回った人間でもある」


 堂島は、スクリーンの自分から目を離せなかった。


 (けわ)しいその表情は、

善と悪のどちらにも属さない、

ただの人間の顔だった。


 映像は、まだ再生を待っていた。

盗撮だという堂島の声は低く、しかし教室の静けさの中でははっきりと響いた。


 スクリーンには、険しい表情の自分自身が静止画のまま映し出されている。


 教授は答えず、ほんのわずかの間を置く。

その沈黙は、反論を探す時間ではなく、事実を整える時間だった。


「ええ、そう見えるでしょうね」


 教授は淡々と言った。そして、付け加える。

「でも――部外者立ち入り禁止の楽屋裏に設置された、防犯カメラの映像なの」


 教室がざわつく。


「関係者以外が入ることを想定して、最初から常設されていたものよ」


 教授はリモコンを操作する。

映像が再び動き出した。


 今度は画面の隅に、小さな文字が表示される。

《BACKSTAGE_CAM_03 02:14:27》

無機質なタイムスタンプ。

色調も荒く、演出の匂いはない。


 「ARの演出用カメラじゃない。純粋な防犯記録」

 教授はそう断言した。


 堂島は、喉の奥がひりつくのを感じた。


(……逃げ場は、ない)


 映像の中の堂島は、周囲を警戒しながら、通路の奥へと進んでいる。

舞台上の歓声が、かすかにマイクを通して混じってくる。


 「あなたは、その場所に入る資格を持っていなかった」

教授の声が、少しだけ冷たくなる。


 「だからこそ、防犯カメラは正しく作動した」


 スクリーンが一時停止される。

険しい堂島の表情が、再び拡大される。


 「ここで、倫理学的に重要なのはね」

教授は学生たちを見渡した。

「不正を暴こうとする行為が、別の規則違反を伴ったとき、それをどう評価するか」


 再び、堂島を見る。

「あなたは正義の側に立っているつもりだった。でも、制度から見れば、あなたは"違反者"」


 堂島は唇を噛んだ。

「……それでも、あの埋蔵金は盗まれたものだ」


 「ええ」

教授は静かに頷いた。


 「だから、この映像はあなたを告発するためのものではない」


 一拍。


 「あなたを同じ土俵に引きずり込むためのもの」


 教室の空気が、張り詰める。


 「堂島くん」


 教授は、優しくも厳しい声で言った。


 「これが、現代の倫理的ジレンマよ」


 「悪を暴くために侵した規則。規則を守るために見過ごされた悪」

スクリーンの堂島の顔が、じっとこちらを見返している。


 「さあ、どうする?」

教授は、問いを突きつけた。


 「あなたは、不正を告発する“違反者”として立つのか。

それとも、規則を破ったことを理由に、沈黙するのか」


 映像は止まったまま、再生されない。


 答えは、まだ、どこにも表示されていなかった。



第十二回 告発の行方

 「――これで」

 教授は、スクリーンに映る静止画から目を離し、ゆっくりと堂島に向き直った。

「不正という位置で、あなたと私は同じ土俵に立った、ということね」


 教室の空気が、ぴんと張りつめる。誰も咳払いひとつしない。

白いスクリーンだけが、二人の影を無言で照らしている。


 教授は小さく顎を上げた。

「……さあ、白黒をつけましょうか?」


 堂島は、すぐには答えなかった。

スクリーンの中の自分――防犯カメラに切り取られた険しい顔――を一度だけ見てから、視線を教授に戻す。


 (同じ土俵、か)

 胸の奥で、何かが静かに噛み合った。

「教授」


 堂島は、低い声で言った。

「あなたは、自分が不正をしたことを認めた。俺も、規則を破ったことは否定しない」


 教授は頷く。堂島は逃げない目を上げた。

「だから、白黒をつけるなら――条件をそろえましょう」


 ざわめきが走る。


 「条件?」

 「ええ」

 

 堂島は一歩、前に出た。

 演壇の端に立つ教授と、ちょうど同じ高さになる。


 「あなたの不正は、制度の内側から、正当な言葉で隠された」

そして、スクリーンを指す。


 「俺の不正は、制度の外側から、無様に踏み越えた」


 教授の眉が、ほんのわずかに動く。


 「同じ“不正”でも、社会に与えた影響も、再発性も、責任の重さも違う」


 堂島は、はっきりと言った。


 「だから、白黒をつけるなら、“動機”でも、“結果”でもなく――」


 一拍、息を吸う。


 「誰が、どの権力で、どれだけの不正を可能にしたかで、つけましょう」


 沈黙。


 教授は、しばらく堂島を見つめていた。

その視線は、学生を評価するものではない。

対等な相手を見る視線だった。


 「……いいわ」


 教授は、静かに言った。


 「では、私から白を主張する」


 教室が息を呑む。


 「私は、素性の明らかではない資金を使った。それは事実。黒よ」

即答だった。


 「でも、その不正は、制度を私物化するためではなかった」

教授は、スクリーンを見上げる。

「研究成果は公開され、技術は地域に残り、私個人の財産には、一円もなっていない」


 堂島は、黙って聞いている。


「次は、あなたの番」


 教授は、再び堂島を見る。


「あなたは、どこまでを黒だと思っているの?」


 堂島は、少しだけ笑った。

皮肉でも、自嘲でもない。

「……全部です」


 その一言が、教室に落ちる。


「楽屋裏に入ったことも黒。無断でログを漁ったことも黒。告発をカードにして揺さぶったことも黒」


 堂島は、まっすぐに教授を見る。


「だから、俺は逃げない」


 拳を、ゆっくりと開く。


「あなたが公に裁かれるなら、俺も、同じ場所に立つ」


 教授の目が、わずかに細くなる。


「……覚悟はあるのね」


「ええ」

堂島は答えた。

「箱根湯本の演芸場で見たんです。笑いの裏側に、誰かの負債が積まれていくのを」


 だからこそ。


「白黒をつけるなら、どちらか一人が落ちる形じゃ、意味がない」


 教室は、完全な沈黙に包まれていた。


 教授は、ゆっくりと深く息を吸い――

そして、微かに笑った。

「……合格よ、堂島くん」


 「え?」


 「今の答え」


 教授は、演壇に戻り、名簿を閉じた。


「それが出せたなら、もう"学生"としては十分」


 そして、最後にこう付け加える。


「この先、あなたと私は――倫理学講義の外で、本当の白黒をつけることになる」


 スクリーンが暗転する。


 残ったのは、善でも悪でも割り切れない二人と、それを目撃してしまった学生たちの、重たい沈黙だけだった。 



第十三回 明らかになる箱根埋蔵金の行方

 教授は、スクリーンを暗転させたまま、しばらく教室を見渡していた。

堂島も、他の学生も、誰ひとり言葉を挟まない。


 「――ここまで来て、もう一段、話を進めましょう」


 教授はそう言って、チョークを取った。

黒板に、ゆっくりと三つの言葉を書く。


 ・傲慢

 ・倫理

 ・約束の地


 「宗教的な比喩だと思った人もいるでしょうね。でも、これは現代倫理そのものよ」

チョークが止まる。


 「約束の地とは、必ずしも神話の土地ではない。理想的な状態、到達したい未来、正義が実現された場所――

あなたたちがそれぞれ心の中で思い描く"正解"のこと。この講義で前に語った"北条氏の埋蔵金"もそれにあたるわ」


 教授は、堂島を見る。


 「研究の成功。技術による救済。不正を暴いたあとの、透明な社会」


 堂島は黙って頷いた。


 「では、最初の問い」


 教授は黒板の「傲慢」を指す。


 「なぜ、人は約束の地に近づいた瞬間、足を踏み外すのか」


 誰も答えない。


 「傲慢よ」


 教授は即答した。


 「自分は正しい。目的は高尚だ。だから、手段の汚れは問題ではない」


 スクリーンに映っていた、防犯カメラの堂島の顔が、脳裏に蘇る。


 「神の戒めを破ったから罰せられた、という話ではないの。

自分を例外だと思った瞬間に、約束の地は閉ざされる」


 教授は次に、「倫理」を指す。


 「倫理的な行動とは、善人ぶることでも、ルールを盲信することでもない」


 静かな声が、教室に染み込む。


 「謙虚さ。自分も誤る存在だと知ること。正義の名の下に、他者を踏みつけないこと」


 そして、堂島に向き直る。


 「あなたが“同じ土俵に立つ”と言った瞬間、あなたは約束の地から一歩、後退した」


 ざわめき。


 「でもね」

教授の声が、わずかに柔らぐ。

「それは、到達を諦めたという意味ではない」


 最後に、教授は「約束の地」を指した。

「本当に厄介なのは、ここよ」


 黒板を軽く叩く。

「約束の地を目指す集団が、"そこに既に住んでいた人間"をどう扱うか」


 堂島の脳裏に、箱根湯本演芸場の芸人たちの顔が浮かぶ。

救われた者と、知らぬ間に利用された者。


 「理想の実現は、しばしば他者の排除と隣り合わせになる。だから、戦争が起き、正義の名で犯罪が正当化される」


 教授はチョークを置いた。

「結論は、簡単よ」


 教室の全員を見渡す。

「約束の地は、傲慢な者には決して開かれない。―――でも、倫理的に悩み続ける者も、永遠に保証されるわけではない」


 堂島が、静かに口を開いた。

「……じゃあ、どうすれば……」


 教授は、わずかに笑った。

「迷いながら、歩くしかない」


 そして、決定的な一言を告げる。

「約束の地とは、到達した瞬間に完成する場所じゃない」


 静寂の中、学生たちは眞栄田豪姫教授の発する言葉を待った。


 「傲慢を自覚し、倫理的な葛藤を引き受け続けることそのものが、到達であり、同時に維持条件なの」


 堂島は、ゆっくりと息を吐いた。

白黒をつける話ではなかった。

勝ち負けでもなかった。


 それでも――


 彼は理解していた。


 約束の地が何者かに奪われて消えてしまったわけではない。

簡単に手に入る幻想が、崩れただけだということを。



第十四回 北条埋蔵金の顛末(てんまつ)

  教授は、チョークを置かなかった。

 黒板に何かを書き足すでもなく、ただ指先で縁をなぞりながら、淡々と語り始めた。


「――発見された埋蔵金はね、最終的に国立大学法人の資産として接収されたの」


 その言い方は、告白でも弁明でもなかった。

報告だった。


 学生たちは息を潜める。堂島も、身じろぎ一つしない。


「徳川幕府以前の遺産だった。だから当然、異論は出たわ」


 教授は、遠くを見るように続ける。

「発掘者は言った。『土地の所有者と発見者で折半すべきだ』と」


 誰かが、喉を鳴らした。


 「一方で、別の法解釈もあった」

教授は静かに言う。

「それが、徳川幕府に接収された財産であるならば、その承継主体は日本国政府である、という立場」


 黒板に、見えない線が引かれたような気がした。


 「法的には、どちらも成立し得た。だから――玉虫色の合意が必要になった」


 堂島は、無意識に拳を握った。


 「国の方針と、発掘者の方向性が、たまたま一致していたの」


 教授は、堂島を見る。


 「新しい理念の大学を作ること。既存の学問体系とは異なる、産学と地域を直結させる大学」


 その瞬間、箱根湯本演芸場のメタバースAR、産学連携、研究費が一本の線でつながった。

「それで合意が成立した。所有は国。国立大学法人の資産として運用される」


 教授は肩をすくめる。

「不透明?ええ、否定しないわ」


 だが声は、揺れない。


「次に、あなたが気にしている点」

教授は続けた。

「流用されて埋蔵金が減衰・毀損していないか?」


 堂島の視線が鋭くなる。


 教授は穏やかに微笑んで即座に言った。

「安心していい。金は、すべて日本銀行に預け入れられ、一切、処分されていない」


 学生たちが、ざわめく。


 「金塊といっても、戦国時代末期の鋳造物についてはね、単なる金の重量としてよりも、文化財としての価値が高いものもあるのよ。溶かすなんて、論外!」


 そして、核心へ。


「ただし――」


 教室が、再び静まる。


「大学法人が、それだけの担保を持ったら、何ができると思う?」


 誰も答えない。


「大学どころじゃない」


 教授は言った。

「この箱根・足柄一帯を再開発できる資金を、十分に調達できた」


 堂島は、息をのむ。


 「仕組みは単純よ」


 教授は淡々と説明する。

「超長期の政府保証債。返済は、大学の収益と、産学複合事業の利益で、何十年、何百年とかけて行う」


  誰かが、息を詰めたまま小さく呟いた。

「……国家規模か……」


 その声は教室の隅で消えかけたが、重さだけは確かに残った。

「そして、その結果として――」


 教授は言葉を切り、ゆっくりと教室全体に視線を巡らせた。

誰一人、目を逸らさない。逸らせなかった。


 「県別GDPランキングで、神奈川県が東京都に次ぐ第2位になったこと」

その数字は、皆も承知している事実として突きつけられる。

「これも、その要因の一つよ」


 教授は淡々と続けたが、そこにはわずかな確信が滲んでいた。


「統計資料なんかで、一度――自分の目で調べて御覧なさい」


 スクリーンには、折れ線グラフが映し出される。

緩やかだった線が、ある時点から角度を変え、急激に上昇している。

「神奈川県のGDPが、足柄研究都市と箱根外語大学の設立に合わせて、ここ数年で急成長していることが、はっきり分かるでしょ?」


 教室は静まり返っていた。

数字の裏にあるのが、研究棟や企業誘致だけではないことを、全員が理解し始めていたからだ。


 堂島は、喉の奥で乾いた音を立てた。


 これは一大学の不正でも、一研究者の野心でもない。


 国家の選択。

そして、地方を舞台にした巨大な実験。


 教授は、最後にこう言った。

「だから私は言うのよ・・・善か悪かという問いは、ここではもう、あまりにも小さい」

その言葉は、教室に残る誰の胸にも、重く沈んでいった。


 教室が、完全に静まり返る。


 教授は、静かに締めくくった。

「私は、不正をしたわ」


 堂島を見る。


 「でも、それは金を私腹に入れるためじゃない『約束の地』を、確実に実現するための傲慢の放棄」


 堂島は、ようやく口を開いた。

「……それで、後悔は?」


 教授は、少し考えた。


「後悔?――ええ。あるわ」


 そして、微かに笑った。

その笑みは、勝者のものではない。


 「約束の地は、力で引き寄せた瞬間に、倫理を置き去りにするということね」


 スクリーンは暗いまま。だが、学生たちの前には、国家、学問、金、理念が絡み合う

巨大な地図が、はっきりと浮かび上がっていた。


 堂島は思った。――白黒は、まだついていない。

だが、この土俵の広さをようやく理解したのだ、と。



第十五回 納得の未来図

 教授は、そこで一度言葉を切った。

 教室の空気が、張りつめたまま動かないのを確かめるように。


「――土地の所有者は、国だけじゃなかったの」


 静かな声だった。


「一部は、個人所有。しかも、古くからの地権者でね。法廷闘争も辞さない、そういう構えだったわ」


 堂島は、胸の奥で何かが噛み合う音を聞いた。

訴訟、仮処分、開発差し止め――500年前に貯えられた金塊なら、十分にあり得た。


 「政府は、力でねじ伏せることはしなかった。代わりに使ったのが、特別な保証」


 学生の一人が、思わず身を乗り出す。


「それが――『足柄研究都市」の開発と整備よ」


 その名を聞いた瞬間、堂島の脳裏に、パンフレットで見た完成予想図が浮かぶ。

緑とガラス、研究棟と居住区が溶け合う未来都市。


 「土地の所有権は動かさない。でも、その土地に国家保証付きの価値を載せた」

教授は、数字を並べるような調子で続ける。

「所有者は、国が支給する「土地の保証金」という形で、莫大な利益を得て土地の収用に応じたわ」

それは、争う理由を失わせるには十分すぎた。


 「さらに――」


 教授は指先をわずかに動かす。


 「周辺の土地も、研究都市関連事業で値上がりした。研究者向け住宅、ベンチャー企業、関連サービス業」


 教室の中に、経済の連鎖反応が、目に見えるように広がる。


 教授の声が、少しだけ柔らぐ。

「箱根周辺はね、もともと、観光事業のピンポイント開発しかされてこなかったの」


 堂島は、温泉街の夜景を思い出す。点で光る宿、線にならない経済。


「でも、芦ノ湖周辺は違う。研究都市の影響で、オフィスビルを含む高層マンションが建った。ICT企業の研究施設が誘致され、日本のシリコンバレーの様相を呈した」


 学生たちの間に、低いざわめき。


 「自然保護の議論もあったわ、当然ね。でも、国はこの地を、未来の実験場にすると決めたの。だから――」


 教授は、最後の一言を置いた。


「硬式飛行船の離発着所に選ばれた。それは偶然でも、観光目的でもない。静音性、環境負荷、そして研究都市との親和性」


 教授は淡々と結論づける。

「条件が揃った場所は、芦ノ湖に接するこの箱根しかなかった」


 沈黙が落ちる。


 堂島は、理解してしまった。不正か、理念か、という単純な話ではない。

土地、金、国家、学問、未来―――それらを一つのに乗せた、巨大な空想都市ジオラマ


 教授は、静かに言った。

「これが、私たちが選んだ道なのよ」

 その声には、誇りと、拭いきれない影が、同時に宿っていた。


 堂島は思う。

ここは約束の地なのか。それとも――傲慢の上に築かれた、仮初めの楽園なのか。――その答えを、まだ口にできずにいた。



第十六回 約束の地は訪れた

 教授は、教室をゆっくりと見渡した。

その視線は確認ではなく、既成事実を突きつけるものだった。


「――往来の不便な温泉保養地。箱根の山が、いまやハイテク企業が林立する場所になった」


 黒板のスクリーンに、夜景の航空写真が映し出される。

かつては闇に沈んでいた尾根筋に、直線的な光の帯が走っていた。


「足柄研究都市。箱根外語大学を含む広大な開発特区――ご存知よね?」

教授は、はっきりと名を呼ぶ。

それは問いかけの形をしていたが、答えを求めてはいなかった。


 堂島は、唇の裏を噛んだ。

知っている。ニュースで、論文で、IR資料で。


 世界的半導体企業の研究棟。

量子通信、環境AI、医療用ナノマシン。

箱根という地名が、技術論文の謝辞欄に頻出する異様さ。


「交通の不便さは、むしろ利点になったわ」


 教授は続ける。

「騒音規制、電磁環境、外部からの不要な干渉」


 学生の一人が、小さく息を呑む。


「閉じた谷、制御されたアクセス。研究都市としては、理想的だった」


 教授の声は冷静だった。


「観光客は、表の箱根を見る。研究者は、裏の箱根を見る」


 スクリーンが切り替わる。

地下施設の断面図。山体をくり抜いた研究区画。


「温泉資源も、無駄にはしていない」


 教授は言う。


「地熱発電、恒温冷却、高精度実験のための安定熱源」


 堂島の背中を、冷たいものが伝う。

自然は、守られたのではない。徹底的に再定義されたのだ。


 「ここまで来るとね」

教授は、ほんのわずかに口角を上げた。

「善か悪か、という議論は、もう通り過ぎているのよ」


 教室が静まり返る。

「問うべきなのは――誰が、どこまでの責任を負うのか?

技術は成功した。経済も回った。地域は潤った」


 教授の視線が、堂島に留まる。もう逃げる術はない。

「ですが、倫理学は問います。その過程で、踏み越えた一線はなかったのか」


 堂島は、喉の奥が乾くのを感じた。


 教授は、静かに宣告する。

「それを問える立場に立った人間だけが、この都市を『約束の地』と呼ぶ資格を持つ」


 箱根の山は、もうただの山ではない。

 温泉でも、観光地でもない。


 それは――倫理が試され続ける、巨大な実験場だった。


 堂島は思う。


 (自分は、このシリコンバレーの成功を告発したいのか。それとも――成功の重さを、引き受けさせたいだけなのか。)


 教授の沈黙が、その問いを、彼の胸に深く沈めていった。



第17回 受容と新たな契約

 教授は、ふっと息を抜いた。

それまで張り詰めていた講義の空気が、わずかに緩む。


「後北条氏が、天下に覇を唱える時代は来なかった」


 その声は、歴史を悼むというより、静かに事実を受け止める調子だった。


「けれど――箱根の地は、それを遥かに超える発展を遂げたの」


 スクリーンに映るのは、戦国期の相模国の古地図。

 次の瞬間、同じ地形の上に、研究都市の現在図が重ねられる。


「北条早雲」


 教授は、思い出すように名を呼んだ。


「彼はね、梅干で酒を飲むのが好きだったそうよ」

学生の何人かが、意外そうに目を瞬かせる。


「豪奢な宴は開かず、肴は梅干一つ。酒を、ちびちびと飲む」


 教授は、軽く指を動かす。

まるで、盃を傾ける仕草のように。


 「その酒が、銘酒として残り――後に、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康」


 天下人たちの名が、淡々と並ぶ。


 「彼らもまた、その酒を愛飲したと言われているわ」


 教室に、歴史の連なりが漂う。


 教授は続ける。

「北条早雲(生前は伊勢 宗瑞)は、節約家だった。一杯を大切にし、一文を疎かにしなかった」


 堂島の脳裏に、質素な陣屋の灯りが浮かぶ。


「その結果、貯められた金が、巡り巡って、この地を潤している」


 箱根。

 足柄。

 温泉と峠の土地。

 そして今は、研究棟とデータセンター。


「もし、彼がこの景色を見たら、こう言うかもしれないわね」


 教授は、ほんの少し微笑んで、声を低め、冗談めかして。


「――『もう少し、飲んでもよかったかのう?』ってね」


 教室に、かすかな笑いが漏れた。だが、すぐに静まる。


 堂島は思う。

節約と蓄積と国盗りが遠い未来に研究都市を創った。

目的は違っても、未来に賭けるという点では、同じだったのではないか。




 箱根の山は、

 剣を置き、

 回路と数式を受け入れた。


 北条早雲は、

 あの世で梅干をつまみながら、

 静かに盃を傾けているのかもしれない。


 自分が蒔いた種が、

 思いもよらぬ形で芽吹いたことを、

 少し可笑しそうに眺めながら。



第十八回 傲慢⇒葛藤⇒約束の地へ

 豪姫は改めて、まだ座ったまま硬直している堂島剛へ、どこか楽しげな視線を投げた。

「堂島君。あなたには本講義における『A判定』を、今の時点で付与します。おめでとう、あなたはもうこの講義を聴く必要はないわ」


 一瞬、教室が静まり返った。堂島は、先ほどの「家畜」発言からの急転直下に、自分の耳を疑った。確かに先ほど、自分の葛藤を晒したことで合格だと言われた記憶がある。だが、それは同時に「講義に顔を出すな」という最後通告にも聞こえた。


 「……教授。本当に、自分でも分かってるんです。傲慢な学生で、申し訳ないと思っています。もう講義室に来るなと言われるのも、仕方ないかと……」


 堂島が消え入りそうな声で、項垂れながら謝罪の言葉を口にする。それを見た豪姫は、心底意外そうに眉を跳ね上げた。


 「何を言っているの? あなたは『A評価』で本講義を他の学生より先に修了したのよ。そんなことより、あなたにはこれから新しい課題が山積みなんだから」


 意味がわからず、きょとんとして顔を上げる堂島に、豪姫は演壇に腰掛けたまま、長い脚を優雅に組み替えて説明を始めた。


 「来春、この大学に私の『倫理学研究室』が開設される予定なの。堂島君、あなたにはその第一期生・筆頭ゼミ生として働いてもらうわ。……ゼミと言っても、今は私の頭脳以外は空っぽ。研究成果もなければ、レポート一枚落ちていない。これから三ヶ月で、あなたにその枠組みを作ってもらう。要するに、私の研究室の小間使いよ。忙しくて、下手したら留年しちゃうかもね~」


 絶望から一転、思わぬ「特待生」への抜擢。 堂島の顔に、パッと光が差し込んだ。それは先ほどの「家畜」としての恐怖を、一瞬で忠誠心へと塗り替えるほどに鮮やかだった。彼は学生たちの好奇の目も、古葉や京香の驚きの表情も一切気にせず、身を乗り出して決意を叫んだ。


 「教授! 謹んでお受けします! 教授の下僕となって、粉骨砕身務めさせていただきます! 何なりとお命じください!」


 その、あまりに極端で「体育会系」な忠誠の誓いに、豪姫は目に見えてげんなりとした顔をした。彼女は片手で額を押さえ、深いため息をつく。


 「……はぁ。あのね、そういうモラハラを助長するような、古臭い軍隊組織を作れと言ったんじゃないの。私が求めているのは、中身。圧倒的な研究の質で、学内のうるさ型の教授連を黙らせる実力を持った組織よ。勘違いしないでちょうだい」


 呆れ果てたような教授の言葉に、教室内にはようやく柔らかな苦笑が広がった。


 「さて、皆さん。今日の講義はここまで。――堂島君、この後で研究室の準備室へ来なさい。逃げたら、今のA判定を『不可(D)』に書き換えてあげるわ!」


 そう言い残すと、豪姫は颯爽と踵を返し、一際高いヒールの音を響かせながら講義室を去っていった。


 残された学生たちは、安堵と、嫉妬と、そして、どこか晴れやかな表情の堂島を複雑な眼差しで見守っていた。箱根外語大学の静かなキャンパスに、新しい、そして波乱に満ちた「知の実験」の胎動が始まろうとしていた。

ーー終わりーー

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