表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
倫理学:女王様の特別講義~眞栄田豪姫の灼熱講話録  作者: 和子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/26

6限目 箱根湯本演芸場こけら落し(3)

第二十五回 落語・AR・埋蔵金

 箱根湯本演芸場。 その「こけら落とし」は、歴史の転換点になるはずだった。 会場を包むのは、古めかしい寄席の匂いではない。最先端のメタバースARシステムが描く、極彩色の「江戸」の幻影だ。 客席に配られたデバイスを通せば、死神の吐息は白く凍りつき、寿限無の赤子は黄金の光となって宙を舞う。観客は笑い、涙し、演者の話芸とテクノロジーの融合に酔いしれていた。


 だが、その興奮の渦中にあって、堂島剛の心は冷え切っていた。 彼は、楽屋裏で「見てはならないもの」の端緒を掴んでいたのだ。

 彼は一人、その決定的なシーンを反芻していた。


******


「すみません、教授。ちょっとお手洗い……」


 隣に座る鎌勝教授にそう告げると、堂島は席を立った。 向かったのは、トイレではない。会場の隅、黒い幕に隠れるように設置された舞台袖への通用口だ。 彼は幕の隙間から、喝采を浴びる高座を覗き込んだ。


 (すごいシステムだ……。だが、何かがおかしい。)


  舞台袖の奥、機材車が置かれた暗がりから、低く、知的な声が響いてきた。


 「このシステムは素晴らしいですね! 鎌勝先生も、さぞかし隔世の感を覚えていらっしゃることでしょう」


 眞栄田豪姫だ。 彼女の横には、見覚えのある中年の男が立っていた。


 「ええ、本当に。これも全て、量子AI技術のおかげです」


 堂島は息を呑んだ。 (ロペス教授……!? まさか)


 彼がなぜ、この「寄席」の裏側にいるのか。堂島は反射的に大型の機材ケースの陰に身を潜めた。


 「このAIシステムは、豪姫教授の倫理学における『債権と不安』という理論を適用したものと言えます―――言葉の壁を取り除き、落語を世界中で共有できるようにする。これが私の、新たな埋蔵金、つまり『文化の担保』への試みなんです」


 豪姫は、不敵な笑みを浮かべて頷いた。


 「なるほど。あなたの埋蔵金は、やはり『抽象的』かつ『未来的』ですね。しかし、今回はそれが『実際に発見された埋蔵金』によって具現化されている。この技術が、倫理学に新たな視点をもたらすでしょう」


(埋蔵金だと……?くそっ、あいつら……!)


 歴史の闇に消えたはずの「黄金の埋蔵金」は、この「新寄席」を構築するための莫大な資金と、量子AIという形を変えた財産として、既に掘り起こされていたのだ。自分たちがロマンを追いかけていた裏で、この「知の巨人」たちは、その遺産を自分たちの研究と権威のために「ネコババ」したのだ。


 豪姫のハイヒールの音が、再び近づいてくる。 「さあ、戻りましょうか。愚か者たちが、偽りの黄金に拍手を送っている間に」


 冷徹なその言葉が、堂島の耳に突き刺さった。 彼は暗闇の中で、静かに、しかし燃えるような反骨心を宿した目で、二人の後ろ姿を見送った。


******


 客席の一角に身を潜めたまま、堂島剛の口角はじわりと吊り上がった。

それは獲物を追い詰める「落語の悪役」のような、どす黒い歓喜となって彼の心の虚を満たした。

(……まあ、いいさ。シッポはつかんだ。完全に握ったぞ)


 堂島は、自分の中にある「オタク特有の執念」が熱を帯びるのを感じていた。 世間は、あの豪姫教授の美貌と知性に平伏している。だが、彼女が「倫理」という言葉を隠れ蓑にして、出所不明の「埋蔵金」を最新技術のロンダリングに利用しているとしたらどうだ。


 (これで俺の受講評価『A』は確実だ。……いや、それだけじゃないな)


 彼は鼻を鳴らし、ほくそ笑んだ。 落語研究会の顧問である鎌勝教授も、この演芸場を拠点に日本の伝統文化を世界へ、などと鼻息が荒い。もしこの演芸場の運営権、あるいは利用枠を「ネタ」にして交渉できれば、弱小の落語研究会に大きな貢献となり、俺に対する鎌勝顧問の評価も高まるだろう。


 (情報公開の世の中で、財源秘匿なんて土台無理な話なんだよ、先生方。俺を『落語オタクの三下』だと思って舐めてたのが運の尽きだ)


 堂島は脳内で、これから行うべき「捜査」のフローチャートを組み立てていた。 インターネットの海は広い。SAIGYO社の公開財務諸表、建設に関わったゼネコンの登記、設立に関わった財団の不透明な寄付履歴……。


 (「SAIGYO社」のバックボーンから、建設企業の資材調達ルートまで、徹底的に洗ってやる。デジタルな足跡ってのは、どんなに高性能な量子AIでも消しきれるもんじゃない。今の時代に、埋蔵金なんてアナログな遺産を隠し通せると思うなよ)


 客席からは、再び大きな拍手が拡がっていく。何も知らない観客が、豪姫たちが用意した「偽りの魔法」に酔いしれている。


 (ゆっくりと、時間をかけて追い詰めてやる。あんたたちが作り上げたこの完璧なエンターテインメントの舞台裏にある、泥まみれの不正を世間にぶちまけて、白日の下に晒してやるんだ)


 彼の眼差しは、もはや単なる学生のそれではない。 知の巨人たちが作り上げた巨大な嘘に、たった一人で「サゲ」をつけようとする、復讐の狂言回しのそれであった。



第二十六回 人間国宝の至高の話芸 

 ザワザワとした期待感が、箱根湯本演芸場を満たしていた。

 本日、こけら落とし。古式ゆかしい寄席の趣を残しつつも、客席に配られた専用デバイスが、この特別寄席がただの伝統芸能ではないことを物語る。客席で、堂島剛は深々と息を吐いた。彼の目の前には、長年の夢と、SAIGYO社が誇る最先端のメタバースAR技術が、今まさに融合しようとしている……。


 先ほど舞台に花を添えたアヌシュカと豪姫は、客席前列に用意された特別席に座る。とはいってもメタバースARの効果で、前列も後列も臨場感は変わらない。


 特別寄席もいよいよ佳境。トリを務めるべく高座に上がったのは、落語界の重鎮、笑角亭来福しょうかくてい らいふく師匠だ。


 かつては新作落語の旗手として時代の寵児となり、落語界を牽引し続けてきた来福も、今や七十という老境にある。近年は枯れた味わいの「古典」に軸足を置いているが、その表現力は衰えるどころか、一言、一挙手一投足で客席を異次元へと誘う。玄人筋をして「名人の域に達した」と言わしめる、現代の至宝である。


 「お馴染みの寿限無で、一席お付き合い願います」


 師匠の唇から、心地よいリズムを刻む名調子が滑り出した。その瞬間、客席のARデバイスが鮮やかに呼応する。


 高座の背景が融解し、墨の香りが漂うような水墨画の世界へと一変した。清冽な川のせせらぎが視覚化され、鳥のさえずりが立体音響となって観客の耳元をかすめる。だが、真に観客の度肝を抜いたのは、虚空に現れた幻想的な光景だった。

挿絵(By みてみん)

 宙を舞う、無数の、愛くるしい赤子たち。


 この精緻な3Dエフェクトは、単なる最新技術の誇示ではない。来福師匠が描く落語の世界観を完璧に具現化するため、気鋭のデザイナーたちが何度もプロンプトを校正し、生成AIとの対話を重ねて練り上げた執念の結晶だった。


 古典という「伝統」の骨組みに、AIが生成した「最新」の肉付けがなされる。 会場全体が、これまで誰も体験したことのない、芳醇で刺激的なエンターテインメントの極致へと塗り替えられていった。


 「やっと生まれてくれたこの子に、目出度い名前を付けようと……」 師匠の言葉に合わせて、ARの赤子たちが笑い、転げ、時には宙を舞う。赤子たちの表情は豊かで、観客の視線に合わせるように向きを変える。


 客席からは、驚きの声と、そして、押し殺したような笑い声が漏れる。特に、外国からの観光客は目を見張っていた。ARデバイスには、師匠の語る言葉がリアルタイムで多言語字幕として表示され、寿限無という名前の途方もない長さが、視覚的にも表現されていた。


 来福師匠の落語を、量子AIが即座に10カ国語に翻訳していく。ただし、この「寿限無~」という名前は日本人でも意味が分からず、ただ聞き流すばかりだ。併せて、「日本語の意訳」も添えている。


「寿限無、寿限無、 五劫のすりきれ、 海砂利水魚の、 水行末・雲来末・風来末、 食う寝るところに住むところ、 やぶらこうじのぶらこうじ、 パイポ・パイポ・パイポのシューリンガン、 シューリンガンのグーリンダイ、 グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの、 長久命の長助」


[寿限無――名を呼ぶ親のことば(江戸ことば)]


なあ、お前。

この名ぁな、軽い気持ちでつけたんじゃねえ。


先に生まれたあの子ぁ、

まだ名も世に馴染まねえうちに、

ふっと、風みてえに行っちまった。

親ってぇのはよ、

その時ゃあ、何もできねえもんだな。


だからな、

次に授かったお前には、

せめて名にだけは、

長く生きろって願いを

これでもかってぇほど詰め込んだ。


寿限無だ。

寿に限りがねえように、ってな。


五劫のすりきれってぇのがあるそうじゃねえか。

天女さまが水浴びする泉の石が、

ちょいとずつ擦れて、

なくなっちまうまでの気の遠くなる時分だ。

ああいう時を越えてもよ、

お前ぁ、まだここに居ろ。


海の砂利や、水の魚みてえに、

世の中ぁ、命でいっぱいだ。

その中でよ、

お前まで取られちゃ、

親ぁ、立っていられねえ。


水の行き先ぁ、誰も知らねえ。

雲の来る道も、風の帰り先もな。

だがよ、

お前の行く末だけは、

どうか見失わねえでいてくれ。


食いっぱぐれず、

寝る場所に困らず、

雨風しのげる家がありゃあ、

それでいい。

それ以上ぁ、欲張らねえ。


藪の中でよ、

葉っぱぁ落としても実ぁ残す木がある。

(やぶ)柑子ってぇんだ。

目立たねえが、強え木だ。

お前ぁ、ああなれ。


遠い国の話にゃ、

長生きの王だの、

仲のいい夫婦だのが出てくるそうだ。

作り話でも構わねえ。

長生きってぇのは、

それだけでありがてえ話だ。


長久命。

長く、久しく、生きな。


長助。

生きて、人の役に立て。

生きて、誰かに助けてもらえ。


なあ、寿限無。

この名ぁな、

親が怖え思いをした分だけ、

重てえ。


先に逝ったあの子の分まで、

お前に生きてほしいなんてぇのは、

勝手な話かもしれねえ。

だがな、

それでも祈らずにゃいられねえんだ。


生きろ。

ただ、それだけでいい。



 豪姫は、最前列で腕を組み、その様子を冷静に見つめていた。しかし、彼女の口元には、微かな笑みが浮かんでいる。隣に座るアヌシュカは、豪姫教授の様子を見てクスリと笑った。「豪姫(あき)、楽しんでるじゃない。」


 玲央(れお)京香(きょうか)は、顔を見合わせて感動に打ち震えていた。 「すげぇ……落語って、こんなに面白いんだ……」玲央の(つぶや)きは、ARが作り出す幻想的な世界に吸い込まれていく。 京香は、茶道で培った日本の美意識が、最新技術によって新たな形で表現されていることに深く感銘を受けていた。「こんな表現があるなんて……伝統と革新の融合ね。」


 鎌勝(かまがち)教授は、涙ぐみながら舞台を見つめていた。彼の隣には、江藤(えとう)三山(みやま)も座っており、特に三山は「推しの武将がARで出てきたら毎日通う!」と興奮気味に話していた。


 「寿限無」が終わると、会場は割れんばかりの拍手喝采に包まれた。



第二十七回 寄席がハネて懇親会

 来福師匠の渾身の古典落語が幕を閉じると、静寂を切り裂くようににぎやかな「追い出し太鼓」が鳴り響いた。


 「デテケデテケ、デテケデテケ……」


 落語通の耳にはそう聞こえるという、この独特のリズム。寄席に足を運んだ客を文字通り「追い出す」とは、字面だけ見ればいかにも失礼な話だ。しかし、極上の芸に翻弄され、心地よい疲労感に包まれた今の身には、この喧騒さえもが祭りの終わりを告げる「粋」な合図として、どこまでも心地よく鼓膜を震わせる。


 「ありがとうございました! お気をつけて――! お忘れ物のないように願います!」


 太鼓の音に負けじと、威勢のいい声を張り上げているのは笑角亭力介しょうかくてい りきすけだ。 彼は、帰路につく客一人ひとりに丁寧に頭を下げながら、流れるような手つきでばちを躍らせている。力介は、こうした裏方の仕事を決して厭わない。下積みとしての雑用をこなす中で、落語という文化の隅々にまで浸透している伝統の呼吸を、全身で感じ取ろうとしているのだ。


 「いい太鼓だな」


 会場を後にしようとしていた堂島剛は、ふと足を止めてその様子を見つめた。 高座の華やかさだけではない。こうした泥臭い裏方の執念があってこそ、あの完璧なARシステムでさえも凌駕できない「寄席の温度」が保たれている。


 しかし、感傷に浸っていられるのはそこまでだった。 賑やかな太鼓の音を背に、堂島は気をひき締め直す。これからは、情緒もへったくれもない「大人の世界」へ、招待枠という名の戦場へ乗り込まねばならない。


 前座たちの健気(けなげ)奉公(ほうこう)とは対照的な、知と欲が渦巻く懇親会。 追い出し太鼓の「デテケ」という音が、今の堂島には「暴いてみろ」という挑発のように聞こえ始めていた。


 湯本演芸場の開設を祝し、SAIGYOグループが主催する懇親会。その会場は、歴史ある箱根の静謐(せいひつ)を打ち破るような、熱気と国際色に満ちていた。 今回のプロジェクトに多大な協力をした箱根外語大学には特別な招待枠があり、落語研究会の顧問である鎌勝大樹教授の手元には10名の枠が割り振られていた。


 大学理事、文部科学省の審議官、そして鎌勝、豪姫、ロペスの三教授。学生枠の5名は、落研の先輩方を差し置いて「社会勉強」という名目で1年生の面々――古葉、節津、堂島、三山、江藤が選ばれた。


 「いいかい、君たち。ここは箱大生の真価が問われる場だ」


 グラスを手にした鎌勝教授が、教え子たちを鼓舞するように言った。 「気後れせず、堂々とディスカッションしてらっしゃい。君たちの英語力なら、ここの招待客とも十分渡り合えるはずだ」 鎌勝はそう言い残すと、政治的な立ち回りのため、理事と審議官のサポートへと足早に向かっていった。


 残された学生たちの前に、情熱的な微笑を(たた)えたアントニオ・ロペス教授が踏み出す。 「そうはいっても、パーティーには作法があるからね。会話のコツを伝授しよう。……レディ二人はボクについておいで。男子諸君は、眞栄田教授のエスコートを頼むよ」


 ロペスは自然な仕草で京香と三山を促した。本国に妻子がいる「イケオジ」の余裕か、あるいは単なる女子好きか。その足取りには迷いがない。


 一方、彼らを見送った眞栄田豪姫は、先ほどまでの和服を脱ぎ捨て、Tシャツにジャケットジーンズというラフな姿に着替えていた。しかし、無造作にまとめられたポニーテールと、隠しきれない完璧なプロポーションが、かえって彼女の圧倒的な存在感を際立たせている。

挿絵(By みてみん)

 豪姫は、残された玲央、江藤、そして複雑な表情を浮かべる堂島を一瞥し、不敵に口角を上げた。


 「あなたたち、せいぜい『金魚のフン』なんて陰口を叩かれないように、必死についていらっしゃい」


 彼女の放つ威圧感は、ジーンズ姿になろうともいささかも衰えない。むしろ、知性と色気が剥き出しになったようなその姿に、玲央たちは気圧される。


 「……了解です、先生」 江藤が冷静に頷き、玲央が反抗心を滲ませながらも後に続く。


 最後尾に回った堂島剛は、舞台袖で聞いた「不正の会話」を胸の奥にしまい込み、ビュッフェのトレイを握りしめた。 (金魚のフンか。……このパーティー会場で全てをバラしたっていいんだぜ。)


 華やかなシャンデリアの下、多言語が飛び交うビュッフェ会場。 学生たちの「社会勉強」は、知の巨人たちの思惑と、堂島の抱く疑惑が交錯する、危険な夜の幕開けとなった。



第二十八回 SAIGYO役員アヌシュカとの会話

 国際色豊かなパーティ会場の間を縫って、豪姫グループ――堂島、玲央、江藤の三人は、会場の奥、最新鋭のホログラム端末が青白く発光する一角へと足を進めた。


 そこには、この演芸場を支えるSAIGYOシステムの心臓部を司る女性、高柳アヌシュカがいた。執行役員としての重責を感じさせない軽やかな所作で、彼女はシャンパングラスを片手に近づいてくる親友に気づくと、パッと表情を明るくした。


 「ああ、豪姫。さっきは本当にありがとう。あなたの倫理的アプローチのアドバイスがあったおかげで、新しいエンタメシステムの実効性が証明されたわ」

 アヌシュカは親愛の情を込めて豪姫に頬を重ねた。そして手を置くと、その背後に控える男子学生三人に視線を移した。


 「それで、そちらの彼らは? 豪姫のゼミ生なの?」


 その問いに、豪姫は短く、くぐもった笑い声を漏らした。


 「冗談でしょう? 彼らはまだ大学1回生。ようやく『学問の入り口』で靴を脱ぐ作法から覚えている最中よ」


 豪姫は、まるで出来の悪い弟たちを紹介するかのような、冷ややかだがどこか愉快げな視線を堂島たちに投げかけた。


 「それに私、まだ自分の研究室はもらっていないの。箱大はこだいの理事会には再三働きかけはしているけれど、お堅い比較文化学科の教授陣が、アラサーの女に城を与えるのを渋っていてね。今はまだ、学内をTシャツとジーンズでぶらついている野良教授よ」


 アヌシュカは「あなたらしいわね」と苦笑しながら、改めて三人を観察した。


 「一回生でこの場に招かれるなんて、相当な期待株か、あるいはよほどの変わり者かしら。……SAIGYOのシステムはどうだった? 君たちの知的探究心に刺さったかしら。感想でも聞かせてもらえるとうれしいわ」


 アヌシュカの知的な眼差しが、堂島たちの顔を順番に捉える。

特に、胸の内に「不正の疑念」を抱えたままの堂島は、システムの総責任者である彼女の問いに対し、どう切り出すべきか一瞬言葉に詰まった。


 最初に言葉を発したのは古葉玲央だった。


 「……すごかったです。落語の『間』をAIが読み取っているようで、鳥肌が立ちました」

玲央が何とか情報工学のテーマを交えて会話しようとすると、豪姫はワイングラスを弄びながら、低い声で付け加えた。


 「そうね。でも気をつけなさい。その『感動』が、ただの計算式によって生成された、情緒を刺激するだけのエフェクトだとしたら……それを享受するあなたたちの精神は、誰に対して負債を抱えることになるのか。それが今日の、一番の『宿題』よ」

ビュッフェ会場の華やかな喧騒の中で、豪姫の言葉だけが鋭利な刃物のように三人の思考を切り裂いた。


 「アヌシュカさんは、豪姫教授と大変親しいご様子ですね。失礼ですが、どういった間柄かお教えいただければ……」

堂島は、あくまで「純粋な知的好奇心」を装いながら問いかけた。しかし、その瞳の奥では鋭い観察眼が火花を散らしている。豪姫という謎多き学者の、大学外における人脈の根源。それを知ることは、彼女たちが隠し持つ「埋蔵金」という名の資金源へ辿り着くための、重要な足がかりになるはずだった。


 アヌシュカは、豪姫と顔を見合わせ、いたずらっぽく微笑んだ。


 「私が大学四年のとき、豪姫が一年生として入ってきたのよ。私がチアリーディング部のキャプテンをしていたときにね」

挿絵(By みてみん)

 その言葉に、堂島、玲央、江藤の三人は、一様に言葉を失った。(チアリーダー……?)


 「チアリーダー、ですか……」


 堂島の口から漏れたのは、純粋な困惑だった。

目の前に立つ二人は、あまりに「静」と「動」の知性を極めている。一方は巨大企業のシステムを統括する冷徹な司令塔であり、もう一方は学問というメスで社会を解剖する哲学者だ。その二人が、かつて競技場で声を張り上げ、一糸乱れぬ演舞で観客を鼓舞していたという事実は、三人の男子学生にはにわかには信じがたかった。


 「驚くのも無理はないわね」


 アヌシュカは、懐かしそうに目を細めた。

「でも、チアリーディングは一種のシステムなのよ。個々の動きを完璧に同期させ、観客の感情をコントロールして、会場の空気を望む方向へ導く。今の仕事と、本質的な部分は変わらないわ」


 「……教授も、やはりそのシステムの一部だったのですか?」


 玲央が尋ねると、豪姫はシャンパングラスの縁を指でなぞりながら、薄く笑った。


 「私はむしろ、そのシステムがどう機能しているのかを内側から観察していたの。……アヌシュカは最高のキャプテンだったわ。彼女の合図一つで、何千人という観客の視線が一点に収束する。あの支配的な快感は、倫理学で説く『大衆の先導』そのものだった」

挿絵(By みてみん)

 「豪姫こそ、一年生の時から理論武装が完璧だったじゃない。練習メニューの効率性について、データを持って詰め寄られたのは良い思い出よ」


 二人の間に流れるのは、単なる親愛を超えた、深い敬意と信頼だった。

大学時代の先輩後輩という絆。それは卒業後、実業と学問という異なる道を歩みながらも、この箱根のプロジェクトで再び交差したのだ。


 堂島は、二人の軽妙なやり取りを聞きながら、頭の中で情報のパズルを組み替えていた。


 (チアリーディング……。徹底した上下関係と、チームへの献身。そして、目標のために自分たちの役割を完遂するプロ意識。この二人のコネクションは、単なる社交辞令なんかじゃない。もっと戦略的で、もっと根深いものだ)


 アヌシュカが提供する最先端の量子AIと、豪姫が提唱する行動倫理。

その融合によって生まれた「新寄席」という巨大なエンターテインメント。


 (大学時代からの『戦友』が手を組んで、この箱根で何かを成し遂げようとしている。それが純粋な学術研究なのか、それとも……)


 堂島は、ビュッフェ会場の華やかな照明に照らされた二人の横顔を、じっと見つめた。

彼女たちの過去を知ったことで、このプロジェクトの輪郭が、少しずつ、しかし確実に明確になりつつあった。



第二十九回 「チア」のシステム

 ビュッフェ会場の喧騒を背景に、アヌシュカは手にしたシャンパングラスを軽く揺らしながら、チアリーダーという存在の核心について語り始めた。その口調は、かつてのキャプテンとしての自負と、現在のシステムエンジニアとしての冷徹な分析が同居していた。


 「応援っていうのはね、戦士への最も効果的なエネルギー注入方法なのよ。前日にいくら栄養を摂ったからって、それが直接、戦いの土壇場でのパフォーマンスに直結するわけじゃない。人間の体は、もっと複雑なシステムで動いているの」


 アヌシュカの瞳に、エンジニア特有の鋭い光が宿る。


 「応援される側の効果は、驚くほど具体的よ。観客から声援を受けることで、選手の運動量が約20%も向上したという研究結果があるわ。特にマラソンや水泳といった持久力、つまりエネルギー系の種目。気分の高揚がそのままモチベーションの爆発に繋がり、限界値を引き上げるの」


 彼女は流れるような動作で指を一本立て、付け加えた。


 「生理学的にも面白い現象が起きるわ。運動中に特定の応援歌を聞くことで、心拍数の過度な上昇が抑制され、体への負担が軽減される可能性が示唆されている。つまり、応援は『心臓の負担を減らす外部OS』として機能するわけ。これによって自己効力感と自己肯定感が高まり、『自分には達成できる』という確信が心身を支配するのよ」


 「……全能感のようなものですか」

江藤が感心したように呟く。アヌシュカは頷きつつ、公平な分析者としての釘を刺すことも忘れなかった。


 「ただし、集中力がすべての野球やゴルフのようなスキル系の種目では別よ。そこでは応援がノイズになり、プレッシャーとしてパフォーマンスを低下させる毒にもなり得る。システムには常に、適した出力先が必要なの」


 「応援する側にも、メリットはあるのかしら?」

豪姫が、教え子たちの反応を試すように問いかけた。アヌシュカは旧友の意図を汲み取り、微笑んで言葉を継ぐ。


 「もちろん。応援する側は、選手に自分を重ね合わせる『同一化』という心理プロセスを通じて、感動や興奮といったポジティブな感情を擬似体験できる。それは強烈なストレス軽減と精神的安定をもたらすわ。孤独や不安を消し去り、自律神経にさえ良い影響を与えるのよ」


 彼女の視線が、会場で談笑する招待客たちを巡った。


 「集団で声を合わせることは、社会的な所属意識を刺激し、自己肯定感を育む。つまり、応援は単なる心理現象じゃない。心拍数や運動量といった、具体的な生理学的指標を書き換える『バイオ・ハック』なの。……ねえ、豪姫。私たちのプロジェクトも、本質はこれと同じでしょう?」


 豪姫は答えず、ただ不敵な笑みを深くした。


 堂島は、そのやり取りを背筋が凍るような思いで聞いていた。

(応援をシステムとして定義し、人間の心拍数までコントロールする……。この演芸場のARシステムも、観客の感情を『ハック』して、特定の生理反応を引き出すための実験場なんじゃないのか?)


 知の巨人たちが語る「応援の定義」は、あまりに合理的で、それゆえに抗いがたい説得力を持って堂島の胸に突き刺さっていた。


 「残念ながら、我が箱大はスポーツがどこも弱くてね。正規のチアリーディング部はまだないのよ」


 アヌシュカの熱っぽい理論を、豪姫はどこか他人事のような、涼やかな声で遮った。

かつて共に汗を流した親友の言葉に水を差すわけではないが、今の勤務先の現状を思えば、現実は非情だった。


 「せっかくの理論も、出力先がなければただの空論よ。箱根外語大学は、残念ながら頭脳労働に特化しすぎているの」


 アヌシュカは意外そうに眉を上げた。

「あら、そうなの? だったら、陸上部なんかいいんじゃないかしら。このあたりの山道で鍛えれば、相当な脚力がつくでしょうに。箱根の厳しい坂は、アスリートを育てるには最高のフィールドよ」


 その提案に、豪姫はこらえきれないといった様子でくすくすと笑い声を漏らした。それは、地元の現実を知り尽くした者特有の、皮肉の混じった笑いだった。


 「アヌシュカ、あなたはここが観光地であることを忘れているわ」


 豪姫は窓の外、暗闇に包まれた箱根の山の方角を指差した。


 「道路はいつも、物流、観光客の車でひっきりなしよ。何しろ、目の前を通っているのは天下の国道1号線だもの。選手が気持ちよく山道を走れるのは、箱根駅伝で交通規制がかかるときぐらい。普段、あそこを走ろうなんて思ったら、排気ガスを吸い込むか、渋滞の列に捕まるのが関の山よ」


 「それは……確かに、アスリートの育成には向かないわね」


 アヌシュカも苦笑いして肩をすくめた。

豪姫はシャンパングラスに残った琥珀色の液体を飲み干すと、ジーンズのポケットに片手を突っ込み、どこか遠くを見つめるような目をした。


 「だからこそ、私はこの演芸場に期待しているの。外を走れないなら、内側を走らせればいい。肉体的な運動量ではなく、精神的な高揚感で心拍数を跳ね上げる。このARシステムという『応援装置』を使ってね」


 その言葉は、先ほどアヌシュカが語ったチアの理論と、不気味なほど鮮やかにシンクロしていた。


 背後で聞いていた堂島は、二人の会話の端々に潜む「実験的」なニュアンスを感じ取り、密かに姿勢を正した。

 国道1号線の渋滞という日常的な話題から、いつの間にか「人間の精神をどうドライブするか」という深遠なテーマにすり替わっている。


 「……でも先生」

黙って聞いていた玲央が、我慢できずに口を開いた。


 「駅伝の時みたいに、道を開けてもらうのを待つんじゃなくて、自分たちで道を作るっていう選択肢はないんですか?」


 豪姫はゆっくりと玲央を振り返った。その瞳には、知的な好奇心と、わずかな愉悦が混じり合っていた。

「いい質問ね。……道を作る、か。それが倫理的に『開拓』なのか『侵略』なのか、あとでじっくり論じてもらいましょうか」



第三十回 小さなアスリート、三山世理

 「着眼点はいいわね。実際に、もうそういう取り組みは始まっているわ」

豪姫は玲央の言葉を切り捨てず、むしろ知的な興味をそそられたように目を細めた。


 「オフロードトライアスロン――通称『XTERRAエクステラ』よ。アスファルトの舗装道路とロードバイクを使う従来の形とは違って、山道とMTBマウンテンバイクを駆使する。狭隘きょうあいで険しい未舗装のトレイルを、テクニックと執念で走破する過酷な競技ね」


 彼女が語るその光景は、観光地の渋滞に甘んじる「国道一号線」の日常とは真逆の、野性的で剥き出しの挑戦そのものだった。


 その時、これまで静かに二人の対話を聞いていた長身のバイク乗り、江藤裕也が不意に口を開いた。

「……それなら、世理(せり)は興味を持つかもしれませんね」


 「世理? ああ、あの小柄な三山さんのこと?」

豪姫教授が意外そうに聞き返す。ショートヘアで歴史オタク、イケメン武将の話に目を輝かせている彼女は、この場にいる男子学生たちの中でも「守られるべき文化系女子」といった風情を(かも)し出していた。


 「ええ。俺は電気バイク専門ですけど、あいつ、トライアスロンに挑戦してるんですよ」

江藤の淡々とした言葉に、その場に小さな衝撃が走った。

あの華奢な体躯のどこに、スイム、バイク、ランをこなす無尽蔵のスタミナが隠されているのか。


 「あら、意外な戦士が隠れていたものね」

豪姫教授が愉快そうに声を弾ませる。


 「歴史の知識も、彼女にとってはトレイルの攻略法と同じなのかもしれないわね。過去の武将たちがどの山道をどう駆け抜けたかを知ることは、難関ルートを見極める戦術眼に繋がる」


 豪姫は満足げに頷くと、会場の別の一角でロペス教授に熱心に何かを語っている三山世理の小さな背中に視線を送った。


 「面白いわ。肉体というハードウェアを極限まで追い込む者が、歴史という情報のソフトウェアに耽溺(たんでき)する。……江藤君、彼女のような『矛盾を抱えた個体』こそ、私の実験には最高のサンプルよ。今度じっくり、彼女の心拍数とドーパミンの相関関係を、箱根の山道で検証させてもらいましょうか」


 江藤は、世理がこの「知の怪物」の標的にされたことを悟り、少しだけ後悔するように眉を下げた。だが同時に、自分の彼女が豪姫に一目置かれたことへの、密かな誇らしさも感じていた。


 一方で、隅でこれを聞いていた堂島は、自身のスマートフォンに新たなメモを刻んでいた。

(三山世理。小柄な外見に反して、トライアスロンをこなす圧倒的なフィジカルの持ち主……。このグループ、ただの学生の集まりじゃないな。個々の能力が、豪姫の理論を実証するためのピースとしてあまりに完璧に揃いすぎている)


 華やかな立食パーティーの喧騒の下で、堂島はさらに深く、この「豪姫グループ」という奇妙な組織の本質を疑い始めていた。



第三十一回 爆食の合流

 一方、ロペス教授に率いられた「ロペスグループ」は、国際交流の場という建前をどこへやら、ひたすら並んだ料理を堪能しているようだった。


 「いいかい、日本人女性は小柄で慎ましやかだけれど、フリーフードという魔法を前にすると、どこかに隠し持っている『爆食スイッチ』が入るんだ。これは僕が何人かの女子大生と付き合って学んだ、実践的な『豆知識』だよ!」


 ロペスは茶目っ気たっぷりにウインクしながら、三山と節津を巧みにエスコートしていた。女性たちがこうしたビュッフェスタイルの食べ比べに目がないことを、彼は経験上、知り尽くしていたのだ。


 そうして全メニューをほぼ制覇し、一通りの満足感を得たあたりで、ようやく彼らは豪姫たちの一団へと合流した。


 「教授、パスタコーナーの"ミートボールカルボナーラ"、最高ですよ! あと五分くらいで出来立てが追加されるそうです」


 三山が頬を上気させて報告する。小柄な彼女のどこにそんな食欲が潜んでいたのか、皿は空だがその瞳はまだ獲物を探している。


 「ロペス教授、せっかくの機会なんだから、箱大生には国際交流を優先させてちょうだい!」


 豪姫が眉をひそめて釘を刺すが、ロペスは陽気に肩をすくめて笑った。


 「いやあ、女の子たちが何を欲しているかはすぐに分かるんでね。つい『食べてごらんよ』と、美味しい方へ誘導してしまうんだ。パシオン(情熱)は胃袋から、だろう?」


 その横で、節津京香がふふっと上品に、しかし確かな満足感を漂わせて微笑んだ。


 「でも、どれも本当においしいですよ。眞栄田教授がわざわざお着物から普段着に着替えられた理由が、今やっと分かりましたわ」


 その言葉に、アヌシュカが豪姫の方を向いて声をあげて笑った。


 「でしょう? 和服で帯締めじゃ、これだけのメニューは到底楽しめないものね! ……ねえ、あそこのカレー三種はもう試したかしら? 実は、私が監修したのよ。量子AIでスパイスの配合率を最適化した自信作なの」


 アヌシュカは「エンジニアのこだわり」を語る瞳を輝かせ、そのまま三山と節津の手を引くようにして、再び料理の並ぶカウンターへと連れ去ってしまった。


 取り残された男子学生たちは、嵐が去った後のような妙な静寂の中で顔を見合わせた。


 「……結局、あいつら食うのがメインになってないか?」


 玲央が呆れたように呟く。一方、堂島はアヌシュカの「カレーのスパイス配合までAIで最適化した」という発言を聞き流さなかった。


 (……カレーの配合までデータ管理か。この会場に並んでいる料理一つ一つが、実はSAIGYO社の実験データの一部なんじゃないのか?)


 食欲という原始的な欲求さえも、彼女たちのシステムの手の平の上にあるのではないか。堂島は空になったシャンパングラスを見つめ、胃の奥に冷たい緊張が走るのを感じていた。


第三十二回 至高の芸と練習曲

 一方、会場の喧騒から少し離れた落ち着いた一角では、鎌勝教授が大学理事と文部科学省の審議官を伴い、本日の舞台を終えたばかりの三人の噺家と対面していた。


 「いやはや、実に見事でしたな」


 審議官は興奮が冷めやらぬといった様子で、笑角亭来福師匠の手を握らんばかりの勢いで語りかけた。


 「私は自他共に認める落語の大ファンですが、『寿限無』でこれほどまでに感動したのは生まれて初めてです。あのARの演出も相まって、まさに別次元の体験でした。来福師匠ほどの芸域に達すると、前座話すらも至高の芸術へと昇華されるのですね」


 それは、人間国宝に最も近いと噂される来福に向けた、いかにも官僚らしい洗練されたリップサービスであった。しかし、その言葉の端々には、単なる世辞ではない本物の高揚感が混じっているのも見て取れた。


 来福師匠は、先ほどまでの名人芸の余韻を微塵も感じさせない、柔和な老紳士の笑みを浮かべてそれに応えた。


 「もったいないお言葉で……。これも皆、鎌勝先生やSAIGYOさんの最新技術のおかげですわ。私らのような古臭い商売が、こうして若い方々と同じ夢を見られる。長生きはしてみるもんですなあ」


 その傍らで、追い出し太鼓の大役を終えたばかりの力介が、師匠の着替えが入った鞄を抱えながら、誇らしげに、しかし控えめに控えている。


 鎌勝教授は、審議官と師匠のやり取りを満足げに見守りながら、時折、大学理事へ向けて「これこそが我が大学が提唱する『伝統と革新の融合』の実例です」と、無言の目配せを送っていた。


 来福は、高座を下りた後でも消えない熱気を帯びた瞳で、審議官に向かって柔和に微笑んだ。


 「寿限無ちゅうのはね、私ら落語家にとっては、いわば『ピアノの練習曲』みたいなもんなんですわ。落語のネタの回し方や、喋りのリズム感……そういった基礎を叩き込むためのお手本でしてな。若い頃は、中身の意味なんかあまり考えんと、ただ必死に覚えるもんやと誰もが思てます。『いまさら古典の初歩の演目をお客さんに見せるもんやない』と、どこかで見くびっている部分もありました」


 来福は一度言葉を切り、手元の茶を一口(すす)った。その所作一つに、七十年の重みが宿っている。


 「ところが、この歳になって改めて演じてみると、これが実に奥深いんですわ。何度も何度も繰り返すあの長い名前に、生まれたばかりの我が子を思う親の、切実すぎるほどの祈りがこもっている。世界中の幸せを全部詰め込んでやりたいという、理屈やない親心ですな」


 審議官は、師匠の言葉を一言も漏らすまいと深く頷いている。


「だから私は、今でもたまに()ります。この歳になれば、たとえ寿限無をかけても、お客さんに『金返せ』なんて言われる心配もありませんやろからな」


 来福が茶目っ気たっぷりに笑い飛ばすと、その場にどっと温かな笑いが広がった。


 「……私たちの落語会では、昔は出稽古が多かったんですよ」

師匠の傍らに控えていた務諾威笑来(むだくいわらく)が、懐かしむように、しかしどこか姿勢を正すような響きで言葉を添えた。


 「この『寿限無』一つにしても、若い頃はもう数えきれないほど『やり直し!』と言われましてねぇ。ところが、どこが悪いのかは決して教えてくれないんです。ただ一言、『自分で考えぇ!』と突き放されるだけで」


 笑来(わらく)は苦笑いしながら、当時の困惑を思い出すように視線を落とした。


 「当時は、何が正解かわからず暗闇を這うような心地でした。ですが、今になってようやく、あの時師匠方が何も教えなかった意味が分かります。形をなぞるだけのリズムではなく、自分自身の腹から出る言葉になるまで、ひたすら自分と向き合わされたんだなって」


 その言葉に、来福師匠は深く(うなず)き、静かに言葉を継いだ。


 「そう。教えられた『正解』はすぐ忘れるが、のたうち回って見つけた『納得』は、一生もんの芸の骨組みになります。今のAR技術かて同じですわ。見せられる映像に甘んじとったら、演者の魂が抜けてしまう。技術を乗りこなすだけの『自分』を、常に考え続けなあきまへん」


 審議官や大学理事たちは、その師弟の会話の重みに、ただ圧倒されたように聞き入っていた。


 離れた場所でその様子をうかがっていた堂島は、手に持ったカレーのスプーンをゆっくりと置いた。

(自分で考えろ、か……)


 笑来が語った「教えない教育」の厳しさと、アヌシュカが示した「データによる最適解」。

一見すると対極にある二つのアプローチが、この湯本演芸場という空間で見事に融合している。


 「なあ堂島、何難しい顔してんだよ」

玲央が不思議そうに覗き込んでくる。


 「いや……。俺たち学生も、豪姫(あき)先生から『自分で考えろ』と崖から突き落とされてる最中なのかなと思ってな」


 堂島の視線の先では、豪姫教授がアヌシュカと親密そうに話しつつも、時折、鷹のような鋭い目で会場全体を俯瞰していた。彼女の沈黙は、もしかすると学生たちへの、最大級の「出稽古」なのかもしれなかった。



第三十三回 真打昇進おめでとう

 懇親会の喧騒の中、来福師匠がふと思い出したように懐から一通の封筒を取り出した。

「これ、お前にや」


 差し出された封筒を受け取った鎌勝教授の手が止まる。表書きには、達筆な文字でこう記されていた。


「――鎌勝大樹(かまがちだいき)殿」差出人は、「務所河原(むしょがわら)札月(ふだつき)」。


 「……開けても、いいですか?」

鎌勝の問いに、来福は黙って手のひらを差し出し、促した。


 手紙の内容は、かつての師から弟子への、時を超えた慈愛に満ちていた。

 『拝啓、ご無沙汰しております。私のもとで「ピロ月」の芸名で修行されていたこと、懐かしく思い出しております。今では大学教授になられたとのこと、心よりお祝い申し上げます。聞けば、落語の修行の成果を学問の世界でも花開かせたとか。大変嬉しく思います。

 つきましては、貴殿の著書と私の推薦状を落語協会に送りましたところ、一気に「真打昇進」が裁可されました。おめでとうございます。特別な免状などは不要、私から本人に伝えればよいとのことです。

 併せて、新しい芸名も勝手ながら考えました。ギリシアの哲学者プラトンが、世界で初めて「アカデミア」という大学の原型を作ったことにちなみ、「明出目家(あかでめや) ぷら(とん)」というのはいかがでしょう。押し付けはしません。ご参考までに』


 読み終えた鎌勝は、顔を真っ青にして狼狽した。

「こ、これは、いけません! 何も落語界に貢献していない私が真打なんて……!」


 その時、来福師匠が急に顔を伏せ、声を震わせた。

「札月師匠はな……お前が落語を辞めてからも、人づてにお前がどうしているか、頑張りすぎて体を壊していないか、地球の裏側まで行って無事でいるかと、ずうっと心配してたんや。ずうっと、お前を弟子として気にかけていたんやで。札月師匠……あのピロ月が立派になった姿を、一目見てもらいたかった……」


 来福は着物の袖でそっと瞼を拭う。その痛切な様子に、会場はしんとした静寂に包まれた。


 「来福師匠! ウチの師匠はまだピンピンしてますよっ。勝手に殺さないでください!」

務諾威笑来(むだくいわらく)が、たまらず割って入った。来福は、嘘がバレた悪戯坊主(いたずらぼうず)のように顔を上げると、ぺろりと舌を出してみせた。


 笑来(わらく)が呆れたように続ける。

「死んでるどころか、今度、お孫さんと一緒にファミリートライアスロン大会に出場するんだって、80歳過ぎて毎朝ランニングしてるんですよ!」


 「……これはワシの十八番(おはこ)芸、『生きててよかったな』や。よう覚えとけよ!」 

来福が豪快に笑い飛ばすと、大学理事も審議官も、笑っていいのかどうか戸惑いながら顔を見合わせた。

しかし、鎌勝教授だけはまだ硬い表情のまま、傍らに立つ力介を顧みた。


 「力介兄さん。あなたのような名人を差し置いて、私が真打になどなれません」


 すると、力介が真っ直ぐに鎌勝を見つめ、静かに、しかし力強く首を振った。

「鎌勝教授、あんたには真打の実力がある。私にはない芸の深みがある。教授の本、拝見しました。世界を回って大変な苦労をされたでしょう。普通の落語家の何十倍もの修行を、あんたは学問の世界でこなしてこられた。真打の認可状は、堂々と受け取られるべきです」


 会場を沈黙が支配した。鎌勝はしばらく黙って手紙を見つめていたが、やがて意を決したように顔を上げた。


 「……真打。これは学問の高みを目指せという、師匠からのご指導ととらせていただきます。

ですが、名前が『プラトン』ではあまりに背負(しょ)いすぎです。せめて……『ぷら月』でどうでしょう。明出目家(あかでめや)ぷら(つき)。真打の名に恥じぬよう、精進してまいります!」


 審議官が真っ先に拍手すると、その音は波紋のように会場全体へ広がっていった。

事の顛末を完全には理解していない周囲の客たちも、何かめでたいことがあったのだと察し、笑顔で手を叩いている。


 今日はめでたい「こけら落とし」の夜。

箱根の山に、新たな真打の誕生を祝う拍手が、追い出し太鼓の余韻を塗り替えるように響き渡った。

ーー湯本編終わりーー

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ