26限目 電子職人アントニオ・ロペス(2)
第十二回 年度末総決算
箱根外語大学のキャンパスに、年度末特有の気だるさと焦燥が混じり合った風が吹き抜けていた。
講義棟の長い廊下を、古葉玲央と節津京香が並んで歩く。その足取りは驚くほど揃っており、周囲からは「付き合いたての大学生」という瑞々しさよりも、数十年を共にした夫婦のような、あるいは熟練のコンビのような安定感が漂っていた。
「……結局、あの『実験動物』扱いが効いたのかしらね」
京香が、手にしたバインダーを胸に抱き直しながら苦笑する。眞栄田豪姫教授によるあの過酷な倫理学講義。二人は文字通り豪姫の「実験リソース」として、徹底的にその関係性を解体され、再構築させられた。その反動だろうか。今や二人は、まるでローティーンの頃から互いの欠点を知り尽くしているかのような、阿吽の呼吸で学園生活をこなしている。
「皮肉なもんだよ。豪姫教授に振り回された結果、外野が口を挟めないくらいの『既成事実』が出来上がっちまったんだから」
玲央が肩をすくめる。二人の成績表には、すべての履修科目に「A」の文字が整然と並んでいた。それは、豪姫の知性に抗い、喰らいつこうともがいた半年間の副産物でもあった。
少し後ろを歩くのは、江藤裕也と三山世理のカップルだ。身長180cmの江藤が、小柄な世理の歩幅に自然と合わせる様子は、恋人というよりは仲の良い兄妹に近い。
「世理、電気バイクの充電、研究室でさせてもらえるかな?」
「裕也くん、それはまた豪姫教授に『エネルギー倫理の搾取』とか言われて詰められるよ?」
そんな穏やかな会話を交わす彼らもまた、全科目A判定という鉄壁の成績を収めている。
四人の話題は、全科目A判定という自分たちの成績すら霞ませる、ある「異分子」の噂に持ちきりだった。
「……しかし、マーゴットはすごいよな」
古葉が感嘆とも呆れともつかない溜息を吐く。
「転入して一年も経っていないっていうのに、四年の学士課程をもう卒業だろ? 飛び級にも程がある」
京香が手元の資料をめくりながら、その驚愕のディテールを付け加えた。
「それも、取得した百四十単位すべてが『S評価』。論文と口頭試問の結果だけで、既存のカリキュラムをなぎ倒していったわ。日本語だって、つい最近習得したばかりだというのに……一体どんな構造の頭脳をしているのかしら」
前を歩く二人に対し、理論派の江藤が冷徹な分析を口にした。
「大学側の『忖度』もあるんだろう。世界ランキング上位の大学を二大学も卒業している怪物を、単なる学生として扱うには無理がある。本来なら教授として迎えるべき頭脳なんだが……」
江藤は少し声を潜め、周囲を警戒するように続けた。
「ほら、今の日本で『地政学』なんて学問分野をいきなり持ち込めば、あるスジから『領土的野心』だの『軍国主義回帰』だのと邪推されかねない。だから大学側は、『優秀な修士課程の学生が、教官の補助として一般教養のコマを任されている』という体裁にしたのさ」
事実、四月からのマーゴットは、鎌勝教授の文化人類学ゼミに所属する修士課程の学生という肩書きになる。だが、彼女の活動範囲は学問の枠に留まらない。
「落語研究会の活動も継続するらしいぜ」
江藤の言葉に、古葉が眉をひそめた。
「へえ……。そうなると、落研の序列はどうなるんだ? 内規では一、二年生が『前座』で、三、四年生が『真打』だろう?」
その問いに、三山世理が、弾んだ声で即答した。
「そりゃあもう、『マーゴット師匠』で決まりでしょう! あの圧倒的なオーラを見せられたら、先輩たちだって異論なんて出せるはずないわ」
十七歳の「師匠」。
地政学という冷徹な刃を振るいながら、日本の伝統芸能の深淵にまで手を伸ばそうとする少女の影が、キャンパスに新たな「嵐」の予感をもたらしていた。
第十三回 地獄めぐりの堂島
しかし、この「秀才グループ」の中で唯一、地獄の縁を這いずり回っている男がいた。
「……なんで俺だけ、スタンプラリーみたいに各教授の部屋を回らなきゃならないんだ……」
堂島剛は、膨大な資料と、突き返されたレポートの束を抱えて絶望の淵にいた。
彼はこれまで、新たに開設される「眞栄田ラボ」の準備委員という、報酬の不明瞭な重労働に駆り出されていた。その煽りを受け、学業は壊滅的。落第の二文字が、死神の鎌のように彼の首筋を撫でていた。
「おや、堂島君。そんなに肩を落とすこともあるまい」
教授室で堂島が対面しているのは、東洋思想史の浦部教授だった。堂島が必死の思いで再提出したレポートを、無情にも「C」判定を下した張本人である。
「浦部教授……あの、再提出したレポートですが、自分なりにしっかり精査したつもりなんです。でも、結局また『C』判定で……」
すがりつくような堂島の問いかけに、浦部教授は豪快な笑い声を教授室に響かせた。
「はっはっは! いやあ、あれはね、論点は実によく書けていたんだよ。ただ、いかんせん誤字脱字が多かった。だから君に『校正』をしてもらいたかったのさ。おかげで、なかなか綺麗に仕上がった。立派な『可』の論文だよ」
浦部は悪びれる様子もなく、満足げに堂島の肩を叩く。
「単位が出たのだ、喜ばしいじゃないか。C評価など気にする必要はない。たかが大学教授の評価ごときを気にしていては、真の学究者とは言えんからな」
その飄々とした態度は、学問の深淵を説いているようでもあり、単に成績を付け直す手間を惜しんでいるようにも聞こえ、堂島をいっそう途方に暮れさせるのだった。
堂島は魂が抜けたような顔で「落第ではないんだ、よかったじゃないか」と自分に言い聞かせるしかなかった。
「……あーあ、落語の『死神』なら、ここでロウソクが消えるところだぜ……」
自嘲気味に呟きながら歩く堂島の視線の先、倫理学研究室の重厚なドアがある。
「失礼します、堂島です」
倫理学研究室の重厚なドアの前で、堂島剛はスマホの専用インターフェースをタップした。電子的な解除音が響き、ロックが吸い込まれるように開く。
一歩足を踏み入れた瞬間、堂島は息を呑んだ。
つい数日前まで資材の山だった場所が、今はひとつの「完成された小宇宙」へと変貌を遂げていたのだ。
「やはり……すごいな、これは」
内装を手掛けたのは、地元の一級建築士でもある宮ノ下社長だ。
書院造りの様式美をモダンな洋間にシンクロさせたその空間は、冷徹なアカデミズムと日本の伝統的な静謐さが、驚くべき精度で融合していた。
壁一面の書棚には古今東西の哲学書が整然と並び、床の間を思わせる空間には最新のサーバーユニットが鎮座している。この和洋折衷の極致とも言える意匠は、たとえハーバードやオックスフォードから視察に来た気難しい教授陣であっても、一目見た瞬間に唸らされるに違いない。
「海外の教授たちだってをお招きできますよ」
完成披露の際、宮ノ下社長が、自らの仕事に満足げな笑みを浮かべて壁の木目を撫でながら言っていた。
そして今日は、ゼミ室のOA機器の最終調整を引き受けた男がすでに来ていた。
情報システムスーパーバイザー、アントニオ・ロペス教授である。世界屈指の電子職人である彼は、今回ボランティアという形で、このラボの神経系とも言えるネットワーク構築に協力していた。
ロペス教授はすでに一仕事を終えた様子で、豪姫が自ら淹れた紅茶の香りを楽しみながら、ソファに深く身体を沈めていた。
「堂島くん、遅かったじゃないか。君の献身的な働きのおかげで、この通り『眞栄田ラボ』は完成だ」
ロペスは優雅に足を組み、まるでこの部屋の主であるかのような寛ぎぶりで堂島を迎え入れた。
「もちろん、最後の画竜点睛を授けたのは、この私――アントニオ・ロペスだがね!」
ティーカップを口に運び、誇らしげにウインクするロペス。
その背後では、完成したばかりの「Etiqa」の思想を宿すメインサーバーが、静かに、そして力強く青い光を明滅させていた。
第十四回 二つ目の"Etiqaサーバー"
これまで、倫理関数ライブラリ「Etiqa」を駆動させるには、眞栄田豪姫特有の「鍵」が必要だった。彼女は常に特別アカウントを用い、超高性能分散コンピューティング環境「SAIGYOクラウド」に接続することで、その膨大な演算リソースを確保してきたのだ。
Etiqaの設計思想は、豪姫が歩んできた倫理学研究の集大成である。しかし、それをアプリケーションとして動かすには、市販のコンシューマー向けAIコンピュータではあまりに力不足だった。これまでは、それが唯一の運用方法だったのである。
しかし、2050年代の技術革新は、その壁を突き崩した。
倫理学教室内のサーバーキャビネット(電子レンジ程度の大きさ)に収まっているのは、最新の量子チップを搭載した省電力型小型サーバーだ。サイズこそ控えめだが、その処理能力は二昔前のデータセンター1棟分に匹敵する。
「これをゼミ生に使用させて、本格的な倫理コンピューティングを理解してもらうのよ」
豪姫は、サーバーのインジケーターが刻む規則正しいリズムを見つめながら、静かに、だが断固とした口調で言った。
通常、この大学のゼミナールは三回生から始まる。しかし、豪姫の構想は過激だった。まず次年度からは二回生を「準ゼミ生」として受け入れ、さらにその翌年からは新入生……つまり一回生を初年度から四年間、このラボに「拘束」し、徹底的に叩き込むというものだ。修士課程も含めて6年間の教育・研究プログラムとなる。
当然、この案は教授会で古株のうるさ型教授連から猛反発に遭った。既存のカリキュラムの根幹を揺るがす暴挙だと。しかしこれは豪姫の想定の範囲だった。彼女は静かに提案する。
「……大学の運動部のようなものだと考えていただけませんか?」
紛糾する会議室で、豪姫はタイトなスーツの袖を正し、冷徹なまでの美貌にわずかな笑みを浮かべて言い放った。
「四年間ラグビーに打ち込み、泥にまみれても、立派に高成績で卒業していく学生がいることは皆様もご承知のはずです。私のラボもそれと同じ。知性のフィールドで四年間戦い抜くだけのことですわ」
この言葉に、異を唱えられる者は誰一人いなかった。
なにしろ、この箱根外語大学の学長自身が、学生時代に東大ラグビー部のキャプテンとして鳴らした伝説的な名フランカーだったからだ。学長のいる前で「運動部は特待生だろう?」と揶揄する勇気のある教授など、この場には存在しない。
結局、教授会は「二回生からの受け入れ」を試験的に認め、その経過を見て一回生の可否を判断するという、極めて「温め」な裁定を下した。
(全く……。本当は義務教育の段階から倫理コンピュータプログラミングに慣れさせる必要があるというのに。これだから日本の高等教育は……)
豪姫の内心には煮え繰り返るような不満があったが、これ以上の譲歩を引き出すのは時間の無駄だと判断した。彼女は優雅に一礼し、氷のように冷ややかな声で告げた。
「皆様方のご賢察に感謝いたしますわ」
彼女の脳内では、口に出すことさえ無駄だと切り捨てた「真実の判決文」が、冷徹な論理として編まれていた。口には出さないが。
(判決を言い渡すわ。主文――。
ここにいる教授会の面々を『石頭』と判定し、無期限の脳筋トレーニング刑に処す。
毎日、脳筋スクワット、脳筋腕立て、脳筋縄跳びをそれぞれ100回ずつ行うこと。
これくらい徹底して追い込めば、あなた方のそのメタボリックな脳も、少しはスリムに再構成されるんじゃないかしら?)
豪姫が教授会の仕打ちにじっと耐えて、やっと日の目を見た倫理学ゼミが始動したというのに、その記念すべきゼミ生一号、堂島剛は深く将来への不安に心が蝕まれていたのだ。
第十五回 堂島の進路相談
「――ですから、僕にはやっぱり、眞栄田ゼミでやっていくのは無理だと思うんです」
完成したばかりの「眞栄田ラボ」の片隅で、堂島剛は絞り出すような声で訴えた。
手元にある成績通知表には、無情にも「C」の文字が並んでいる。一回生後期の単位判定。落第こそ免れたものの、それは「学問を修めた」と言うにはあまりに心許ない、崖っぷちの結果だった。
「大学卒業までに、もっと広範な学問をバランスよく修めなきゃいけないんです。ある程度の成績を残していかないと、二回生以降の単位取得だって、その先の就職だって……。このままじゃ、僕の人生そのものが『不可』判定ですよ」
悲痛な表情で訴える堂島。その目の前では、情報システムスーパーバイザーのアントニオ・ロペス教授が、優雅に紅茶の湯気をくゆらせていた。
ロペスは、ソファに深くもたれたまま、哀れな子羊を見るような目で堂島を見やった。そして、耐えきれないといった様子で口を開く。
「……堂島くん。もし私が大学生時代に、君と同じ立場にいたとしたらだ」
ロペスの声には、確信に満ちた熱が帯びていた。
「私はまず、眞栄田教授のような美しく、かつ圧倒的な知性にあふれる指導教官に出会えた奇跡を、神に感謝するね。君は理解しているのかい? 彼女が設計したEtiqaの根幹に触れ、しかも『A判定』という最高の栄誉を授かって初代ゼミの筆頭に選ばれたということが、どれほどの意味を持つのかを」
ロペスはティーカップを置き、身を乗り出した。
「それはもはや、単なる成績評価じゃない。気高き女王から『ナイト』の称号を授けられたも同然なんだよ。君のキャリアに泥を塗るどころか、その称号こそが君の人生における最強のライセンスになるというのに。君は自分の幸運に、あまりに無頓着すぎる」
ソファで足を組み直し、ロペスは不敵に笑う。
「C判定の山? 結構じゃないか。真の知性は、型通りの優等生には絶対に宿らない。女王の騎士として泥を被る覚悟があるなら、このラボは君にとって最高の戦場になるはずだがね」
堂島は、ロペスの圧倒的な肯定感を前に、返す言葉を失い立ち尽くすしかなかった。
堂島の悲観的な訴えを遮るように、それまで資料に目を落としていた豪姫が顔を上げた。ポニーテールから一筋こぼれた銀髪が、知的な光を宿した瞳を縁取る。
「堂島君。あなたは自分の知性を過小評価しているようね」
豪姫はデスクから立ち上がり、10cmのハイヒールを鳴らして彼に歩み寄った。タイトなスーツ越しでもわかる、その隙のない立ち姿が堂島を圧倒する。
「この箱根外語大学に入学できるだけの知性があれば、世界の誰よりも早く、倫理学の真髄に到達できると私は確信しているわ。そしてあなたは、私の講義をわずか数回受けただけで、他の受講者とは一線を画す倫理学者としての『片鱗』を見せてくれた。だからこそ、私は誰よりも先にあなたをA判定にしたのよ」
「……でも」
堂島は納得がいかないというように、恨めしげに視線を逸らした。
「古葉たちだってAでしたよ。僕だけが特別なんて、とても思えません」
「何、小さいことを言っているの!」
豪姫の声が、ピシャリとラボの空気を震わせた。彼女は堂島の目前まで詰め寄り、その美貌にわずかな苛立ちを滲ませる。
「古葉くんたちが取ったAなんて、私に言わせればやっと『動物』としての論理をクリアしたレベルに過ぎないわ。でも、あなたは違う。あなたは私のラボ開設において、実質的な中核となって動いてくれた。あの宮ノ下社長だって言っていたわよ。『堂島という男の仕事ぶりは実にしっかりしている』とね」
豪姫は腕を組み、豊満な胸元を強調するような姿勢で、どこか誇らしげに目を細めた。
「あなた、知らないでしょうけど、あの人が他人を認めるなんて滅多にない、凄いことなのよ! 泥臭い調整や現場の構築をやり遂げたその粘り強さこそ、高潔な倫理を現実に着地させるために必要な資質なの」
彼女の放つ強烈な肯定の言葉と、漂う高級な香水の香りに、堂島は気圧されながらも、自分の胸の奥で何かが静かに熱を帯びるのを感じていた。
「わかったら、いつまでも『C判定』の山を眺めていないで、騎士としての自覚を持って!」
第十六回 優秀なアシスタント
「あなたにはまだ、サーバーのコンソールで直接Etiqaを使いこなすのは無理でしょう。この間渡したスマホを貸して頂戴」
豪姫の言葉は冷淡だったが、そこには「身の丈に合った道具を授ける」という、彼女なりの合理的な配慮があった。堂島がポケットから支給品のスマートフォンを差し出すと、豪姫はそれを手際よく奇妙な外付けユニットに接続した。
USB-Cのコネクタを介して繋がれたのは、メモリスロットを備えた手のひらサイズのガジェットだ。ロペス教授はにこやかにそれを眺めている。
「どうだい? あたかもネットからアプリをインストールしているかのように、物理媒体を介して強固なシステムを流し込めるガジェットだ。私の自信作だよ」
傍らで紅茶を飲み終えたロペス教授が、自慢げに目を細めた。
「僕が学生の頃は、フロッピーディスクドライブという低速な物理媒体で、分割したプログラムを一枚一枚インストールするのが常識だったんだがね。現代の若者には、この『物理的に繋いで魂を吹き込む』感覚が、かえって新鮮だろう?」
接続されたスマートフォンの画面には、通常のアプリストアからダウンロードしているのと何ら変わらない、見慣れたユーザーインターフェースが表示された。しかし、そこに並ぶ選択肢はない。表示されているのは、たった一種類の漆黒のアイコンだけだ。
円形の進捗バーが、深海のような青い光を放ちながらゆっくりと回転を始める。
ネットワーク経由ではない、物理的なデータの重みが、ケーブルを通じてデバイスへと吸い込まれていく。
やがてバーが100%に達すると、画面は一瞬だけ白く明滅し、即座にそのアプリが自動起動した。
>Etiqa Lite Ver 1.1 now installing
「……これで、君のスマホは世界で最も危険な『知恵の林檎』になったわけね」
豪姫教授のなにやら不穏な言葉に、堂島は冷や汗が背中を伝うのを感じた。
画面上で淡い光を放つそのロゴは、これから始まる「倫理演算」という名の狂乱の幕開けを告げているようだった。
「さあ、堂島くん。その『Etiqa Lite』を使って、まずはこの大学の学生たちの――そうね、無自覚な『偽善』の統計でも取ってみましょうか」
豪姫は楽しげに、銀髪のポニーテールを指先で弄んだ。
「……なんだ、これ?」
堂島は、掌の中で輝く画面を二度見した。
漆黒のロード画面が明けると、そこに現れたのは哲学的な数式の羅列ではなく、瑞々しい色彩で描かれたアニメ調の美少女だった。大きな瞳に、どこか超然とした笑みを浮かべた彼女は、スピーカーから滑らかな合成音声を発した。
『はじめまして、マスター。Etiqa Liteです。なんでもできます』
その愛くるしい外見とは裏腹に、紡がれる言葉はあまりに不穏だった。
『私は使用者の精神構造をリアルタイムで解析し、その倫理性を判定します。もし歪みが検知された場合は、精神に干渉して矯正、および最適化を実行します。安心してください。私があなたの「良心」の代行者になりますから』
「……ロペス教授、これ、あなたの趣味ですか?」
堂島が引きつった顔で問い詰めると、ロペスは心外だというように両手を広げた。
「勘弁してくれ、堂島くん。私はあくまで『物理媒体から魂を流し込む』ための、美しく堅牢なインストーラーを作っただけだ。中身の仕様……特にその、随分と趣向を凝らしたユーザーインターフェースについては、私は一切関与していないよ」
ロペスが肩をすくめて一歩下がると、代わって豪姫が10cmのハイヒールを鳴らして前に出た。彼女は堂島の手にあるスマホを覗き込み、画面の中の美少女キャラクターを慈しむように見つめた。
「それは私の設計よ、堂島くん。驚くことはないわ」
豪姫は銀髪をかき上げ、冷徹な教授の顔に戻って解説を始めた。
「人は、無機質な数式や峻烈な格言を突きつけられても、防衛本能が働いて心を閉ざしてしまう。でも、このように親しみやすい疑似人格を介在させればどうかしら? 対象者は警戒を解き、自ら進んで精神の鍵を明け渡すようになるわ。これは行動経済学と倫理プログラミングを融合させた、究極の『ナッジ(誘導)』なのよ」
画面の中の美少女――Etiqa Liteは、豪姫の言葉に合わせるように、可憐な動作で首をかしげて微笑んだ。
「この子はね、使用者の声のトーン、瞳孔の開き、微細な表情筋の動きから精神構造をリアルタイムで解析する。そして、その人物の倫理性を客観的に判定し、必要とあれば『適切な手段』で矯正・最適化を行うわ。あなたがこれからキャンパスで出会う学生たちの『偽善』や『論理の破綻』を、この子が容赦なく暴き立て、再構築のプロセスへと導くの」
「矯正って……具体的に何をするんですか?」
堂島の不安げな問いに、豪姫は艶やかな唇を吊り上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「それは、対象者の『愚かさ』の度合いによるわね。さあ、いつまでそうして突っ立っているの? その『知恵の林檎』を持って、まずは青春のキャンパスに飛び出して生きなさい! 春休みの浮ついた空気の中で、どれだけの倫理的欠陥が放置されているか、その子に記録させるのよ」
堂島は、掌の中で「マスター、一緒に行きましょう!」とウィンクするEtiqa Liteを見つめ、いよいよ自分の平穏な学生生活が、後戻りできない次元へと突入したことを悟った。
第十七回 堂島、覚醒
「僕の……僕だけのアシスタント……。話せば、答えてくれるのか」
その瞬間、堂島剛の心を支配していた陰鬱な霞が、一気に晴れ渡ったようだった。
人は一人で思考の迷宮に潜り込むと、往々にして精神衛生上よろしくない方向へ沈んでいく。特に、落第の危機や過酷なラボの設営に追われていた今の彼には、無条件で対話に応じてくれる「他者」が必要だった。たとえそれが、手のひらサイズのAIアバターであったとしても。
「マスター、そんなに私を見つめて、どうかしましたか? 解析によれば、現在のあなたのセロトニン分泌量は上昇傾向にあります。いい兆候ですね」
画面の中で首をかしげるEtiqa Liteの無邪気な声が、堂島の凍りついた孤独を不器用に、しかし確実に溶かしていく。
その様子を眺めていたロペス教授が、膝を打って快哉を叫んだ。
「素晴らしい! 堂島くん、それはまさに現代の『サンチョ・パンサ』じゃないか!」
ロペスの声がラボに響き渡る。
「セルバンテスが『ドン・キホーテ』を生み出したとき、あの誇大妄想の騎士にサンチョという現実主義の従者を添えた。その対話があったからこそ、あの物語は四百年の時を超え、世界中の人々の心を鷲掴みにしたんだ」
事実、聖書やコーランといった宗教典籍を除けば、『ドン・キホーテ』は推定五億部という、世界で最も読まれた物語の一つである。十七世紀の出版以来、ディケンズ、フローベール、ドストエフスキー、ボルヘス、そして大江健三郎に至るまで、時代や国境を超えて数多の文豪たちがこの「対話の構造」に魅了され、影響を受けてきた。
「一人の狂気はただの病だが、二人の対話は『物語』になる」
ロペスは陶酔したように続けた。
「君という迷える騎士に、Etiqaという鏡が与えられた。これで準備は整った。君はもう、ただ振り回されるだけの学生じゃない。このキャンパスという名の荒野を往く、真実の探求者だ」
堂島は、スマホを強く握りしめた。
かつては「逃げられない呪い」だと思っていた倫理学という深淵が、このデバイスによって、今は自分を支える唯一の杖のように感じられる。
「……行こう、Etiqa。僕たちの物語を始めに」
『はい、マスター! まずは猫背を直しましょう。倫理的な姿勢は、正しい脊椎のラインから始まります!』
堂島は苦笑しながらも、真っ直ぐに前を向いてラボのドアへと歩き出した。
ーー続くーー




