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倫理学:女王様の特別講義~眞栄田豪姫の灼熱講話録  作者: 和子


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25限目 電子職人アントニオ・ロペス(1)


第一回 ご注文の品

 箱根外語大学統計学教授の平坂黄泉(ひらさかよみ)は、PCのディスプレイに表示された関数を見つめていた。


「 validate_informed_consent()

欺瞞検証、認知的負荷を考慮、自由な意思決定なのか確認する 」


 画面に浮かぶこの一文は、世界を根底から変えたオープンソースの倫理関数ライブラリ「Etiqa」に含まれる関数の一つだ。呪文のような説明を読んだところで、それがどう機能するのかを理解できる者はほとんどいない。


 現在、世界の企業戦略における「最適解」は、このEtiqaを実装したプラットフォーム「SAIGYOクラウド」を年間契約することにある。皮肉なことに、ライブラリ自体はオープンソースとして無償公開されているにもかかわらず、Etiqaを真に効果的なアプリケーションへと昇華させられるエンジニアは、SAIGYOの構築者を除いてこの地球上に存在しなかった。


 例えば、ある企業が新型の自然エネルギー自動車の開発プロジェクトを立ち上げたとしよう。

設計仕様から環境アセスメント、リーガルチェック、収益計画に至るまで、現代のAIは瞬時に完璧なプロジェクト-ドキュメントを作成してみせる。しかし、プロジェクトを「スタート」させるための会議が、あまりにも長すぎるのだ。


 数ヶ月で済めばマシな方で、検討に2、3年を費やすことも珍しくない。役員会議に(はか)られては、5回や6回の差し戻しを喰らうのは当たり前。この「意思決定の遅滞」こそが、膨大な逸失利益を生む最大の癌だった。かといって、拙速な判断を下せば、地域社会や世界中の消費者から倫理的批判を浴び、再起不能な炎上を招くリスクがある。


 だが、生成された会議ドキュメントを「SAIGYOクラウド」に流し込めば、光景は一変する。


 ものの数分で倫理的整合性が検証され、問題箇所の指摘、代替案のレジュメ、計画値の修正、さらには総合評点までが算出される。これにより、企画から決裁、プレスリリースまでの期間はわずか数週間に短縮された。


 Etiqaを使いこなす企業は爆発的に成長し、そうでない企業は停滞、そして衰退する。


 2050年代、この残酷なまでの経済モデルが確立されると、多国籍企業、先進諸国、巨大ファンドは等しく震撼した。彼らは選択を迫られた。Etiqaを取り込むか、取り込まれるか、あるいは排除するか。


 SAIGYOとアライアンスを組む者、そのシステムをハッキングして解析しようとする者、あるいはEtiqaに代わる新たな倫理スタンダードを提唱する者。世界が狂奔する中で、一つの真理が浮き彫りになる。


 最適の道は、Etiqaの設計思想そのものを構築した人物——眞栄田豪姫(まえだあき)の下で学ぶことである、と。


 今や箱根外語大学の倫理学教室には、国内の秀才のみならず、世界中から未来の覇権を狙う留学生たちが集結するという、空前絶後の事態となっていた。


「 validate_informed_consent()

欺瞞検証、認知的負荷を考慮、自由な意思決定なのか確認する 」


「……たった一つの関数に、これほどのリソースを割かせるなんて」


 かつては日本で最年少教授として名を馳せていた天才、平坂黄泉(ひらさかよみ)は、自身の眼前に示された命題を、己の知性を信じて、解析に果敢に取り組んだ。しかし、それが超えられない壁であると認めざるを得なかった。

 仕方なく、ハーバード・メディカルスクールに籍を置く旧友——ハッカー集団の間で「神」と称される人間——に依頼し、ようやくこの関数を単独で走らせるPythonプログラムを手にしていた。だが、「神」を以てしても、巨大なブラックボックス『Etiqa』から一つの機能を剥ぎ取るのが限界だった。


 平坂は、その試作プログラムにとある企業の「業務日報」を流し込む。

数秒後、画面には冷酷な統計値が弾き出された。


 隠蔽率:27% / ストレス度:68% / 顧客スペック非対称性:87%


「日報からこれほどの洞察を得るなんて、並の管理職には不可能だわ。それをやってのけるEtiqaエティカ……。でも、真の『絶望』はここからね」


 平坂は溜息とともに、自作の解析AIを立ち上げた。

Etiqaが吐き出した数値は、あくまで「素材」に過ぎない。この27%の隠蔽が、個人の性格によるものか、それとも組織の構造的欠陥によるものか。68%のストレスが、成長の糧か、破滅の予兆か。


「この生の数値を、さらに別のAIで多角的に解析しなければ、支援が必要か配置換えをすべきかの『判断』まで辿り着けない。Etiqaが提示する真実に、私の使っているAIが追いつくための演算負荷コストが重すぎるわ」


 Etiqaというコアを動かすために、周囲に何重もの補助AIを配置し、膨大な電力を食いつぶしてようやく一つの人事判断を下す。その非効率さに、平坂は眩暈を覚えた。しかしながら、SAIGYOクラウドは、複数の「Etiqa」関数を組み合わせてこれに相当する処理を遂行してしまう。


 眞栄田豪姫の頭脳は、この多層的な推論を、瞬時の直感で行っているというのか。


「……前進したと思ったけれど、まだ入り口ですらないのね」


 僅かな手応えを得た代わりに、目の前にはこれまで以上に果てしない、暗黒の原野が広がっていた。


「全く……豪姫教授って、倫理学のバケ物ね」


 平坂は、使い慣れた関数電卓のキーを一つ、鎮魂歌を刻むように叩いた。統計学という光で、あの底知れぬ倫理の深淵を照らし出せる日は、果たして来るのだろうか。


 平坂黄泉ひらさか よみは、研究室のデスクに鎮座する無機質なディスプレイから視線を外し、深く溜息をついた。かつてのように、数字の濁流に身を任せて徹夜を繰り返すような真似はもうしない。あの「午睡動画」を無断配信された不始末以来、彼女は己のバイオリズムを統計的に管理することに決めていた。


「ふぅ……っ、はぁ……」


平坂はヨガマットの上で、慣れた手つきでピラティスのポーズをとる。これを欠かせば、座りっぱなしの職業病である腰痛と肩こりが彼女を容赦なく襲うのだ。深い呼吸とともに筋肉を伸ばし、絶望を切り開くための活力を蓄える。


 時計の針は間もなく20時を回ろうとしていた。


 本来なら就寝準備に入る時間だが、今夜は「待ち人」がいる。スペイン文学のアントニオ・ロペス教授に特注していたIoTガジェットの試作品が完成したという連絡が入っていたのだ。


「もう20時よ……明日にしてほしいわ、本当なら」


 独りごちながらも、平坂はマットから立ち上がった。統計学こそが最強の学問であると信じる彼女にとって、データ収集の精度を上げるためのデバイスは、地獄の門を潜り抜けるための「鍵」そのものだ。


 その時、静まり返った研究室に無機質なインターフォンの音が鳴り響いた。


『平坂教授。あなたの「アントニオ・ロペス」が参上しました。ご希望の品、お持ちしましたよ!』


 インターフォン越しに響くその声は、重厚なスペイン語のアクセントを帯びながらも、まるで少年が秘密基地の合言葉を唱えるような無邪気な熱を湛えていた。


 箱根外語大学でスペイン文学を講じるアントニオ・マルティーナ・ロペス、42歳。

 彫りの深い目元に整った髭、情熱的な身振り。彼は学内でも「イケオジ」として女子大生たちの視線を釘付けにする人気教授だ。事実、大学の外では数人の恋人がいるという噂も絶えないが、彼にとってそれは人生を謳歌するためのエッセンスに過ぎない。


 だが、そんな()()(ドン・ファン)の表の顔とは裏腹に、彼にはもう一つの、より執着的で孤独な情熱があった。


 アントニオ・ロペスの「情熱」の原点は、マドリードでの学生時代に遡る。

 17世紀のスペイン文学「()()()()(シグロ・デ・オロ)」を研究する傍ら、彼が密かに心奪われていたのは、インターネット通販で購入できるようになった、日本の初期のパーソナルコンピュータだった。周囲がカフェで愛を語らっている間、彼はガレージで接触不良の基板と格闘し、文字が電子の海を泳ぐ瞬間に、文学以上の神秘を感じ取っていた。


 その後、2歳年上の妻・アレハンドラと結婚。家庭を築き、長男のミゲルが成人して魚市場で働き始め、長女のアリシアが嫁いで独立するまで、彼は父としての義務を情熱的に果たしてきた。


 しかし、40代を迎え、子供たちがそれぞれの道を歩み始めたとき、彼の中に眠っていた「騎士道物語」が目を覚ます。


「さあ、これからは私のターンだ」


 彼が求めたのは、黄金時代の日本が生み出した「()()(レガシー)」たちだった。

日本のフリマサイトには、世界中のマニアが垂涎する80年代、90年代のビンテージPCやワープロが「ジャンク品」として無数に転がっている。「動作未確認」――その不確かな文字こそが、彼にとっては冒険の招待状だった。


 壊れているなら直せばいい。動かない機械に再び命を吹き込み、自作のプログラムがモニター画面の上で産声を上げた瞬間の悦びは、地中海の夕陽よりも美しく、どの恋人の抱擁よりも刺激的だった。


 ーースペインに妻子を残し、単身日本へ。


 箱根外語大学からの招聘状は、彼にとって単なる雇用契約書ではなかった。それは、秋葉原のジャンク屋を、地方のリサイクルショップを、そして日本の技術の深淵を探索するための、最高の「夢のアドベンチャー切符」だったのである。そのプラチナチケットを使って、現在彼はこの大学の教授職にある。


「さあ、平坂教授。お待たせしました」


 研究室のドアの前に立つ、アントニオは手に小さな包みを提げていた。勿論、薔薇の花束も携えて。

42歳にして、スペイン文学者であり、自作デバイスの魔術師。日本で第二の青春を爆走する男の眼差しは、17世紀の騎士よりも鋭く、そして少年のように輝かせ、統計学研究室のドアが開くのを待っていた。



第二回 情熱のガジェット

「平坂教授。あなたの『アントニオ・ロペス』が参上しました。ご希望の品、お持ちしましたよ!」


平坂は乱れた髪を指先で整え、ヨガウェアの上にグレーのカーディガンを羽織ると、ドアのロックを解除した。


「どうぞ」


開いたドアから、ロペス教授の整った頭と、鮮やかな真紅の薔薇の花束が同時に飛び出してきた。


「¡Buenas tardes[ブエナス・タルデス]! Señorita[セニョリータ]平坂!」


 情熱的なスペインの熱風が、夜の研究室に一気に流れ込む。ロペスはまず(うやうや)しく花束を差し出した。日本においてハグやチークキスが「お預け」な作法であることは、彼も心得ている。だからこそ、溢れんばかりの親愛の情を、すべて薔薇の香りとその熱い眼差しに込めた。


「花は統計学的には不要なんですよ、ロペス教授。……でも、嬉しいですわ。ありがとう」


 平坂が花束を受け取り、デスクの隅に置いたのを確認すると、ロペスは満足げに頷き、一転して真剣な表情を浮かべた。


「さて!無粋(ぶすい)は承知で本題からいこう。ご要望の品だ」


 彼が手提げ袋からゆっくりと取り出したのは、少し大きめの電卓であった。一見すればレトロな外観だが、そのキートップの沈み込みから液晶の反応速度まで、アントニオがこだわり抜いてカスタマイズしたことが一目でわかる。


「マルチメモリー統計機能電卓。統計学の大家である平坂教授にしか使いこなせない、知の聖剣(せいけん)……『エクスカリバー』さ!」


 ロペスは、そのデバイスをまるで聖遺物(せいいぶつ)を捧げる騎士のように差し出した。


「これがあれば、あの暗礁に乗り上げた解析も、深い絶望の淵から引き上げることができるはずだよ」


 平坂は、手渡された「エクスカリバー」の重みを手のひらで確かめた。重すぎず軽すぎず、彼女の左手にしっくりと馴染むその重量感は、単なる事務用品ではなく「道具」としての信頼を物語っている。

挿絵(By みてみん)

 そのデバイスは、市販の関数電卓とは一線を画す異形のフォルムをしていた。

最大の特徴は、整然と並ぶ1cm角のキートップだ。指先を乗せれば、重厚な押し込みと心地よい反発が指の腹にしっかりとはね返る。上質なメカニカルキーボードを彷彿とさせるその打鍵感は、一度触れれば病みつきになるほど官能的ですらあった。


 テンキーと上部の液晶表示との間には、それらとほぼ同サイズで、色分けされたの統計関数キー群がゆとりを持って配置されている。その徹底した機能美ゆえに、筐体全体はスマートに縦へと引き伸ばされていた。


 無骨ながらも洗練された、まさに「研究者の聖剣」と呼ぶにふさわしい佇まい。


 無機質な統計学の世界に、アントニオの情熱というノイズが混ざり合う。しかし、冷徹な数値を扱う彼女にとって、その体温を感じさせるノイズこそが、今はひどく心地よく感じられた。


「ありがとう。解析にも活用させてもらうつもりだけど、喫緊の利用目的があるのよ」


 平坂は、手渡された『エクスカリバー』の重みを指先で確かめた。通常の電卓よりも20個ほど多いキーが整然と並ぶその姿は、計算機というよりは、高度な航空機のコックピットを彷彿とさせる。


 彼女が細く白い指をキーに乗せると、コトッ、という重厚で小気味よい音が響いた。


「いい感じね。電卓のスマホアプリのタップだと、虚空を叩いているようで押した感覚がないの。でもこれは……」


 次の瞬間、平坂の右手が鍵盤上のピアニストのごとく、猛烈な速度で踊り始めた。カレンダーの日付を桁数の多い数字に見立てて加算しているようだ。


「1週目、7桁加算。2週目、12桁……Mプラス。3週、4週、14桁……保存。さらに5週目を6桁。これをもう一度繰り返して、Mマイナスで相殺。最後にMRCキーで……」


 ピ、という電子音とともに、液晶には一寸の狂いもなく”0”が表示される。


「……素晴らしいわ。完璧なゼロだわ」


 うっとりと呟く平坂の横で、ロペスは誇らしげに胸を張った。

「そうだろう!キースイッチには、ドイツ製の名機から型を取ったメカニカル構造を採用した。打鍵感[タクタイル]と戻り[リターン]、その調和こそが『計算という名の円舞曲(ワルツ)』を生むのさ」


 平坂がここまで打鍵感に執着するのには、切実な理由があった。彼女の主な仕事の一つは、学生たちの論文に並ぶ膨大な集計データの精査だ。

もちろん、すべてを検算するわけではない。だが、統計学の申し子である彼女の眼が、データに潜むわずかな「違和感」——改ざんや計算ミスによる数字の歪み——を捉えたとき、彼女の指は電卓を求める。


 しかし、市販の関数電卓は悲劇的に使い勝手が悪かった。

ボタンは米粒のように小さく、指の太い人間への嫌がらせかと思うほど密集している。かといってExcelを使えば、マウスに手を伸ばすたびにホームポジションが崩れ、画面を凝視するたびに眼球と頸椎が悲鳴を上げる。彼女の肩こりと絶望の源泉は、この「デバイスの操作性の悪さ」にあったのだ。


「マウスを使うたびにキーボードから手が離れる……画面を目で追う……。それがどれほど統計学的なリズムを乱すか、あなたなら理解してくれると思っていたわ」


「もちろんだとも、平坂教授!君の肩を凝らせるような不完全なインターフェースは、地獄の門よりも罪深い」


 ロペスは身振り手振りを交えて熱弁を振るう。

「このエクスカリバーは、ブラインドタッチのままデータを叩き込み、統計キーをワンプッシュするだけで、標準偏差シグマも、相関係数も、換算値を液晶画面に表示できるのさ。君はもう、パソコン画面とマウスカーソルを見る必要さえない。数字と対話するだけでいいんだ!」


 平坂はもう一度、愛おしそうにキーを叩いた。コトコトと鳴るその音は、彼女の凝り固まった肩を解きほぐす、最高のリフレッシュ・ミュージックのように響いた。


「これなら……今夜の査読は、いつもよりずっと『希望』に満ちたものになりそうね」

 


第三回 堂島のレポート

 平坂は、デスクの上に広げられた一通のレポートを指先で引き寄せた。そこには『国際文化学科 1年 堂島剛』と署名されている。


「テーマは悪くないわ。昭和から平成にかけての分別ゴミ回収値が、リサイクル運動の徹底によっていかに消費者の意識を変容させたか……統計結果を元にした分析。エコ検定の頻出項目を利用したのかしら、要領はいいようだけど」


 平坂の瞳が、データの一行を捉えた瞬間にスッと細められた。まるで獲物を見つけたサバンナの肉食獣のような鋭さだ。


「……数字が怪しいわね。おそらくe-Stat(政府統計ポータルサイト)からダウンロードしたものだと思うけれど。どうも彼は、自分の導き出した結論に数字を強引に適合させている節があるわ」


 平坂は即座に、手に入れたばかりの『エクスカリバー』に右手を添えた。

コトコトコトッ、という重厚な打鍵音が、静かな研究室に心地よいリズムを刻む。マウスを握る必要も、小さな液晶画面を凝視する必要もない。彼女の指は、まるで神経が直接基板に繋がったかのように、吸い付くような感覚で数字をメモリに叩き込んでいく。


「見てなさい。1990年代後半のプラスチック回収率と、その後の意識調査の相関係数……。この打鍵感、最高ね。指が迷わないわ」


 最後に叩かれた「=」のキーが、決定的な数値を導き出す。平坂は液晶に表示された数字を見て、フッと冷ややかな笑みを漏らした。


「やっぱりね。この通りよ。ここ、一行分データを読み間違えているか、意図的に数値を丸めているわ。これでは統計学への冒涜、あるいは単なる怠慢ね」


 横で見ていたロペスが「おや、厳しいね」と肩をすくめる。平坂は『エクスカリバー』から手を離すと、潔くカーディガンの襟を正した。


「いきなり『D(不可)』をつけてもいいけれど、まだ1年生。一段読み間違えた可能性を考慮して、慈悲をかけてあげるわ。明日、再提出を申し渡す。箱大生ともあろうものが、数字に嘘をつくような真似をしてはダメよ」


 彼女の肩の凝りは、いつの間にか消えていた。

正確な道具で、不正確な真実を暴く。統計学者としての矜持を取り戻した平坂にとって、それはどんなピラティスよりも劇的なデトックス効果があったようだ。


「ロペス教授。このデバイス、想像以上の『武器』になりそうですわ。絶望の門の先に、少しだけ光が見えた気がします」



第四回 指導者の矜持

 (堂島くん……眞栄田教授のゼミ開設とかいう無茶な仕事に振り回されていたからな。このままじゃ本当に落第、絶望、いや地獄の門をくぐることになりかねないぞ)


 ロペス教授は、レポートの署名を眺めて密かに同情した。自分にも覚えがある。かつてスペインの教室で、分厚い眼鏡をかけた偏屈な老教授に、何度もレポートを突っ返されたあの日々。


「次、まともに書かないと受け取らんよ。セルバンテスに関するわしの講義はそんなに薄っぺらだったかね?」


 脳裏に蘇る老教授の(しゃが)れ声。当時は友人と安ワインを煽りながら「あのモーロクジジイめ!」と毒づいたものだが、今となってはわかる。あれは文字通り、血の通った「愛の鞭」だったのだ。自分の中に眠っていた騎士道を、あの老人は叩き起こしてくれた。


「堂島君は、これほど情熱的で愛情深い平坂教授に出会えて、実に幸せな男だよ」


 アントニオが、わざとらしく胸に手を当てて朗々と告げると、平坂教授は、

「あら、そんな……」


 平坂がふっと頬を赤らめるのを、アントニオは見逃さなかった。地獄の門番と恐れられる彼女が見せた、一瞬の、しかし確かな乙女の(かげ)


 平坂は慌てて電卓のキーを無意味に連打した。コトコトコト、とエクスカリバーが困惑したような音を立てる。


「……それは買いかぶりというものです。私はただ、統計学という最強の学問が、一個人の都合のいい主観で汚されるのが耐えられないだけ。データの整合性を守るのは、学究の指導者として当然の義務よ。愛なんて、そんな非論理的な変数、私の計算式には入っていないわ」


「ははは!照れる必要はないです。その厳格さこそが、学生を正しき道へ導く『光』だ。地獄の門の番人は、実は迷える子羊を導く聖母[ラ・ビルヘン]でもあったというわけだ」


「もう、ロペス教授! 口がお上手ですね。……それより、この電卓のバッテリーはどのくらい持つのですか? 解析中に電池切れなんて、それこそ統計的な絶望だわ」


 平坂は、赤らんだ顔を隠すように再び『エクスカリバー』の影に隠れた。

その様子を見ながら、アントニオは確信していた。明日の朝、堂島剛が受け取るのは、冷酷な不合格通知ではない。彼を真の「学問の騎士」へと鍛え上げる、情熱と緻密さに満ちた再提出命令であることを。


(堂島くん。君が明日、彼女の『愛の鞭』に耐えられるかどうかは、また別の統計モデルが必要になりそうだがね!)



第五回 MSXの真価

 平坂教授は、ロペスの放つラテン特有の熱烈な空気から逃れるように、慌てて話題を切り出した。


「でも、こうした電子ガジェットを自作されるなんて……やはりアルドゥイーノやラズベリーパイといった最新の電子部品をお使いになるのかしら? 凄いですわ。やはり仕事に特化した専用機器を持つのが、真のプロフェッショナルだと私は思うの。今の若い方たちは何でもスマホで済ませようとするけれど、専用機の効率と信頼性には到底かなわないわ」


 ロペスは我が意を得たりとばかりに、にっこりと微笑んだ。


「僕の聖剣・エクスカリバーをそこまで評価していただいて光栄だよ。研究者は自分の魂を預けるに足る『道具』を持つべきだ。でも、セニョリータ……これはアルドゥイーノでもラズパイでもないんだよ。中身はMSXさ」


「MSX?……前世紀末ごろまであった、あの家庭用コンピュータのこと?」


平坂が目を丸くした。統計学の大家である彼女にとって、それは化石に近い記憶だった。ロペスの瞳に、技術者としての冷徹な光が宿る。


「アルドゥイーノやラズベリーパイは多機能だが、実は大きな桁数の計算を正確に、かつ安定して行うには少々面倒な工夫が必要になるんだ。だがMSXは違う。標準のBASIC言語において、倍精度実数型の有効桁数は16桁。統計学において、この安定性は絶対的な正義だ。確かにインタープリタのままだと速度は遅いが、プログラムを組んだ後にTurboR仕様でコンパイルすれば、数値計算速度は一気に20倍まで跳ね上がる」


 ロペスは電卓の裏面を軽く叩いた。


「基板は10cm幅に収め、キーはブラインドタッチに最適な大型のものを選定した。システムとプログラムはSDカード一枚に集約し、さらに無線充電対応のバッテリーを積んである。この箱根外語大学のキャンパス内にいる限り、電池切れの心配は皆無さ」


 淀みなく語られる緻密な設計思想。日頃の陽気で少々いい加減な「ラテン系教授」のイメージが、平坂の中で音を立てて崩れ、別の形に組み上がっていく。


「……素敵ですわ、ロペス教授。今日のあなたは、すごく理知的に見えます」


 平坂がこぼした素直な感嘆に、ロペスはいたずらっぽく笑った。


「おや、普段はどう見えていたんだい? まあいいさ。今夜は僕の別の一面を知ってもらえただけで、ジャンク屋を巡った苦労も報われるというものだ」


 ロペスは平坂の細く白い右手をそっと引き寄せると、貴婦人に対するように恭しく、その指先に軽く口付けをした。


「この綺麗な指が、エクスカリバーのキーの上でダンスを踊る……それを想像するだけで、作った甲斐があったというものさ。さあ、夜も更けた。今夜はこれでお暇しよう。¡Buenas noches[ブエナス・ノーチェス]!」


 平坂の眼差しが、手元のデバイスからしっかりと自分に向けられたことを確認し、ロペスは満足げに身を引いた。


 研究室を出て、夜霧に包まれたキャンパスを歩きながら、ロペスは夜空を見上げた。


(堂島くん。これで君の落第はひとまず棚上げになるだろう。平坂教授の機嫌は最高だ。あとは君が、どれだけ真摯に数字に向き合うかだ。頑張りたまえよ、アミーゴ)


 教え子の窮地を救えたかもしれない満足感と、美しい同僚の赤らんだ顔。ロペスの第二の青春は、箱根の夜風に乗ってどこまでも軽快だった。 



第六回 講師マーゴット

 翌日、少しばかり遅めの出勤となったアントニオ・ロペスは、昨夜の充足感を足取りに残しながら研究室棟へと向かった。


 教授室のドアを開けると、そこにはすでに見慣れた、しかしこの場所には珍しい顔ぶれがあった。文化人類学の鎌勝大樹教授と、その傍らで不遜なほど背筋を伸ばして座る少女、マーゴット・ディアスである。


「鎌勝教授、マーゴット。おはよう! こんなに早くから熱心に議論かな? いや、勉強熱心で結構なことだ!」


 ロペスの陽気な声が響くと、マーゴットは視線だけを彼に向け、軽くジャブを繰り出すように口を開いた。


「ロペス教授、今日は午後から講義ですの? スペイン文学はシエスタの伝統がおありでしょうから、教授も学生も揃って午睡ねむりこけているのではないかしら」


「おっと、午前中から手厳しい教育的指導を受けてしまったようだね。4月からの開講に向けて、講師としての心構えは十分のようだが」


 ロペスは苦笑いしながら頭を掻いた。そう、マーゴット・ディアスは学生でありながら、この2051年4月からは「講師」として教壇に立つ。英国のキングス・カレッジ・ロンドンで15歳にして地政学の論考をまとめ、九龍大学を飛び級で卒業した彼女にとって、日本の大学の単位取得など、朝飯前のエクササイズに過ぎなかった。


 ここ数ヶ月で彼女が各教授に提出した「4年分の講義に相当する論文」は、どれも非の打ち所がない完璧な代物だった。査読にあたった教授陣は、その圧倒的な知性に半ばお手上げ状態だったのである。


「地政学は最強の学問。これだけで世界最高の教養が身につくのよ。文学も統計学も、地政学という盤上の駒に過ぎないわ」


 涼しい顔で言い放つ17歳の天才を、指導教員である鎌勝教授は悟りを開いたような目で見守っていた。


「大学院も1年で修了してしまうだろうな。その後は博士課程だ。10代で博士号を手にする姿が容易に想像できる。……私にできるのは、この天才の成長過程を特等席で眺めることぐらいさ」


 鎌勝の言葉は、諦念というよりはむしろ、得難い経験に対する喜びを含んでいた。

マーゴットの特例的な待遇には国も全面的にバックアップしており、彼女が掲げる「3年以内に箱根外語大学を世界ランキング1位にする」という公約に向けた施策は、着実に、そして冷徹に進行している。


「今日は講師席の下見といったところかしら」


 マーゴットは、新年度から自分の居場所となるデスクを指先でなぞった。4月からは大学院生にして地政学講師。嵐の岬を制した、バーソロミュー・ディアスの名を継ぐ彼女にとって、この大学は世界を制するための最初の一歩に過ぎないのだ。


「嵐の岬を乗り越えた者だけが、喜望峰を見ることができる……。ロペス教授、あなたのスペイン文学も、私の地政学的な視点から再構築してあげても良くてよ?」


「それは楽しみだね、セニョリータ。だが、私の『エクスカリバー』もなかなか鋭いよ。地政学の嵐に巻き込まれる前に、一度計算してみることをお勧めするがね」


 ロペスはウィンクして、自分のデスクへと向かった。

地政学の天才少女と、統計学に聖剣を授けた教授。この大学に吹き荒れるであろう「ギガストーム」の予感に、鎌勝教授の心の中でように高鳴っていた。



第七回 電卓への回帰

「ソフトウェアを考える者は、独自のハードウェアを作るべきだ」


 かつてパーソナルコンピュータの父、アラン・ケイが遺したその言葉は、巡り巡って2051年の箱根の地に、ひとつの究極の形として結実していた。マーゴットも、その高い知性で地政学上の情報処理を瞬時に行っていた。


 1980年代、インターネットという広大な海がまだ存在しなかった頃。若き日のロペスのような自作マニアたちが、ハンダごてを握りしめて組み上げたマイコンは、LEDを点滅させ、ブラウン管の上で粗いドットのキャラクターを走らせるだけの「魔法の玩具」に過ぎなかった。


 しかし、技術の進化はそれを単なる遊び道具から、混迷する世界を解き明かす「情報処理のツール」へと変貌させた。その過程で最も根源的、かつ切実に求められた機能こそが「電卓」という名の数値計算機だったのである。


 算盤が電卓に取って代わり、さらにそれが表計算ソフト[スプレッドシート]へと進化を遂げたことで、人類はかつてない高速計算の力を手に入れた。しかし、万能すぎるツールは、皮肉にも人間の身体性を奪った。マウスのクリック、画面の注視、無機質なタップ……。便利さと引き換えに、研究者たちは肩こりと、思考の断絶という代償を払ったのだ。


「結局、原点回帰というわけね」


 平坂教授がパソコンのディスプレイを見ながら『エクスカリバー』を叩く音は、まるで失われた知性のリズムを取り戻す鼓動のように響く。


 マイコン誕生から80年余り。汎用コンピュータがすべてを飲み込んだ時代を経て、今再び「特定の目的のために研ぎ澄まされた専用デバイス」が、人間の仕事をサポートする最強の武器として復活した。


 地政学という巨大な盤面を読み解くマーゴット・ディアスの冷徹な眼。

倫理という曖昧な概念を数式に落とし込もうとする平坂黄泉の挑戦。

そして、その「計算」を身体的な快楽へと昇華させたロペス教授の聖剣。


 あらゆる複雑な事象を、揺るぎない数値演算へと還元する。

混迷する21世紀の霞を払い、絶望の門の先に光を見出すのは、もはや言葉ではない。専用設計されたキーボードを叩く、その指先から生まれる確かな「解」なのだ。


 箱根外語大学に集いし異能の者たちは、それぞれの「計算機」を手に、新たな時代の地平へと歩みを進めようとしていた。



第八回 講師の教授室利用規則

「マーゴット君には、この専用の自走式スマートキャビネットが貸与される。これが君の『動く書斎』だ」


鎌勝教授が指し示したのは、洗練されたメタリックな質感を放つ中型のキャビネットだった。


「講義で必要な文具、電子デバイス、貴重な書籍……すべてこの中に入れておくといい。君がキャンパスを去ると、キャビネットはセンサーで自動的に専用の格納倉庫へ向かう。そして君が朝出勤すれば、その日に空いている講師机の下へ、先回りして待機しているというわけだ」


 鎌勝の説明を聞きながら、マーゴットは冷徹なまでの合理性でそのシステムを咀嚼していた。


(なるほど、固定された『自分の城』ではない。図書館の机を一時的に占有するような、機能的な割り切りね)


 17歳という若さで教壇に立つ彼女にとって、それは決して屈辱ではなく、むしろ流動的な地政学的動向に合わせた「モバイルな戦術拠点」のように思えた。


 日本の大学という古い組織において、専用のデスクを手に入れるのは准教授から。そして、四方を壁に囲まれた個室の研究室という「領土」を与えられるのは、教授に昇進してからという、長い道のりになる。


「階級社会のルールは理解したわ。まずはこの『移動(モバイル)要塞』(フォートレス)を最大限に活用して、私の地政学をこの大学に根付かせるとしましょう」


 マーゴットは指先でキャビネットの天板に触れた。4月から始まる講義。彼女が持ち込むのは、ロンドンや九龍で培った膨大な知識と、日本の食文化への密かな情熱。それらがこの小さな箱に詰め込まれ、朝になれば忠実な従者のように彼女を待っているのだ。


「効率的でいいわ、鎌勝教授。固定された椅子に座り続けて思考が凝り固まるより、よほど私に向いている」


 不敵に微笑むマーゴットの背後で、ロペスが肩をすくめた。

「若さとは恐ろしいね。私なんて、自分のデスクに散らばったジャンクパーツがないと落ち着かないというのに」


 こうして、箱根外語大学に「史上最年少の講師」の居場所が確保された。

固定の領土を持たぬ天才少女が、自走する知の武器庫を携えて、大学の、そして世界の序列を塗り替え始める日は、もうすぐそこまで迫っていた。


「講師として大学の教壇に立つ人たちは、皆ある分野の第一人者に数えられる人物だ。博士だ教授だなどというのは、大学という狭い組織、あるいは各学問の学会という閉鎖社会における『階級』にすぎないからね」


 鎌勝教授は、講師たちが集まるラウンジの独特な空気を感じ取るように、穏やかに、しかし重みのある口調で語りかけた。


「我々教授陣も、ここにお招きする方々の知見には常に脱帽している。肩書きという鎧を脱いだときに、どれだけ純粋な知性を提示できるか。マーゴット君、ここに来る人々に対して敬意を持って接することは、君自身の知性を磨く上でも、もっとも賢いやり方だと僕は思っているよ」


 その言葉は、傲慢になりがちな天才少女への忠告であると同時に、鎌勝自身が長年抱いてきた教育者としての信念でもあった。


階級(ヒエラルキー)ではなく、知の連帯か……)


 マーゴットは、鎌勝の言葉を頭の中で反芻した。

確かに、このラウンジに集うのは一癖も二癖もある講師たちだ。実業界で修羅場をくぐり抜けた戦略家、ロペスのように特定の分野に異常な熱量を注ぐ変人、あるいは平坂のように数字の深淵に住まう者。


 彼らにとって、教授会が定める序列など二の次だ。重要なのは、その頭脳の中にどのような「新世界」が構築されているか。


「……敬意、ですね。理解したわ、鎌勝教授」


 マーゴットは、自走式キャビネットの冷たい金属面に再び触れた。

「地政学的に見ても、資源(知見)を持つ者と友好関係を築くのは基本戦略だもの。私がこの大学をランキング1位にするためには、彼らの『知の領土』を敵に回すのではなく、同盟を組む方が効果的だわ」


 彼女なりの解釈ではあったが、鎌勝はその答えに満足げに頷いた。

この講師専用の空間は、単なるワーキングスペースではない。異なる分野の刃が火花を散らし、新たな知恵が精錬される「聖域」なのだ。


「その意気だ。さあ、4月になればここにはもっと面白い『知の怪物』たちが集まってくる。彼らと対等に渡り合う君の姿を楽しみにしているよ」


 鎌勝はそう言うと、自らの研究室へ戻るべく歩き出した。

マーゴットは一人、主を待つ従者のように佇む自走キャビネットを見つめる。


(博士でも教授でもない、一人の『講師』として……私の地政学がこの古い組織にどう受け入れられるか、見ものね)


箱根の山に立ち込める霞の向こうで、新たな時代の足音が確実に響き始めていた。



第九回 跳梁(ちょうりょう)跋扈(ばっこ)する忍者

「講師のワークデスクについては理解したわ。けれど、念のために聞いておくけれど……」


マーゴットは、少しだけ挑発的な色を瞳に宿して鎌勝教授を見上げた。


「日本という国は、伝統的な年功序列主義が幅をきかせていると聞くわ。当然、最年少の新人である私は、教授の皆様に届いた山のような郵便物を仕分けして、朝刊と一緒に皆様のお机へお持ちする役割を期待されているのかしら?」


(もしそうなら、話が早くて助かるわ)


 彼女は内心、その返答を待ち構えていた。もし鎌勝が「そうだ」と(うべな)おうものなら、即座に断固拒否するつもりだったからだ。上下関係の礼儀そのものは否定しない。だが、自分の貴重なリソースを、機械でもできる雑用に供せよというなら、地政学的な論理を尽くしてその非効率性をねじ伏せる準備はできていた。


 しかし、鎌勝は困ったような、それでいて愉快そうな笑みを浮かべた。


「それが……期待していたなら申し訳ないが、その役目は君には回ってこないよ。マーゴット君、上を見てくれ」


 マーゴットが視線を上げると、天井に張り巡らされたスチールプレートの上を、小さなアルミケースのような物体が音もなく滑走していた。


「『Office Ninja』といってね。今年から新たに導入されたスマートOA配送システムだ。研究棟の管理事務室で仕分けられた書類や郵便物は、直接各教授のデスク横まで自動でデリバリーされる。誰の私物も、誰の手を煩わせることもなくね」


「Office Ninja……」


 マーゴットの拍子抜けしたような呟きに、鎌勝は少しだけ寂しげに目を細めた。


「以前はね、郵便物配りというのは、新人と現役教授の貴重なコミュニケーションツールでもあったんだ。若者が何に興味を持ち、年長者が何を読み耽っているのか、封筒一枚から会話が生まれることもあった。それがシステム化されて消えてしまったのは、私のような古い人間には少し寂しい思いだよ」


 マーゴットは天井を走る「忍者」の無機質な動きを追った。

雑用から解放されたという安堵感よりも、自分の予想した「古い日本の大学像」が、テクノロジーによっていとも簡単に塗り替えられていたことへの驚きが勝った。


「コミュニケーションより効率化、ね……。合理的すぎて、反論の余地もないわ。でも、寂しいなんて言っている暇はないはずよ、鎌勝教授。郵便物が勝手に届くなら、余った時間でより質の高い論文が書ける。それは地政学的に言えば、情報の兵站ロジスティクスが最適化されたということだもの」


「ははは、相変わらず手厳しい。だが、君の言う通りだ。さあ、Office Ninjaが君のキャビネットに最初の資料を届ける前に、新年度のカリキュラムを確定させてしまおう」


 マーゴットはもう一度、天井を仰いだ。

伝統と革新が奇妙に混ざり合うこの箱根のキャンパスで、彼女は「雑用係」としてではなく、純粋な「知の講師」として、その初陣を飾ることになる。


「JTC(Japan Traditional Company:伝統的な日本企業)の悪癖(あくへき)も、今は昔ということね・・・」


 天井を滑走する『Office Ninja』を見上げ、マーゴットは皮肉めいた笑みを浮かべた。


「日本も周回遅れで、やっと世界と同じスタートラインに立ったというわけだわ。そうでなければ、私が掲げる『大学ランキング1位』への道筋なんて、ただの空想ファンタジーに終わってしまうもの。まずは当面の目標、5位圏内へのランクアップ。そのための布石は、すでに打ち始めてあるわ」


 彼女は自走キャビネットの側面に手を置き、すでに頭の中に完成している戦略図をなぞるように言葉を継いだ。


「まずは、私の『地政学』の講義になるべく多くの学生を呼び込むこと。それも、ただ人数を集めるだけでは意味がないわ。彼らの知性を根本から再構築し、世界標準のレベルまで引き上げること……。それがこの大学の価値を底上げする、最短かつ唯一のルートよ」


 鎌勝教授は、17歳の講師が放つその冷徹なまでの熱量に圧倒されながらも、どこか頼もしさを感じていた。彼女にとって、この大学は単なる職場ではなく、自身の持論を証明するための「実験場(フィールド)」なのだ。


「そのためには、古葉玲央(こばれお)堂島剛(どうじまつよし)のような、まだ『磨けば光る』素材をどう扱うかが鍵ね。彼らが私の講義を通じて、自分たちの立っている場所が世界の盤上のどこに位置するのかを理解したとき……箱根外語大学の真の反撃が始まるわ」


 マーゴットの視線は、もはや教授室の壁を突き抜け、海の向こう、世界各国の名門大学がひしめき合うランキング表を捉えていた。


「嵐の岬を乗り越えた者だけが、喜望峰を見ることができる。地政学こそが、この大学に吹き荒れるギガストームを制する唯一の鍵になるはずよ」


 彼女がそう断言した瞬間、天井のレールを走っていたOffice Ninjaが、マーゴットの机の真上でピタリと止まった。まるで、新時代の到来を告げる合図のように。



第十回 学友の訪問

「マーゴット、講師のデスクを貰えたんだって? すっごーい!」


 三山世理(みやませり)が嵐のような勢いで教授室に転がり込んできた。その後ろには江藤裕也(えとうゆうや)、古葉玲央、そして節津京香(せっつきょうか)が続いている。堂島剛は「先に別の用を済ませる」と言い残し、部屋の奥、平坂教授の専用席へと向かっていた。


 遠目に見える堂島は、まるで熱心な信者のように何度も頭を下げ、手を合わせている。


「おい、見ろよ」と江藤が声を潜めた。「平坂教授、なんだか宗教の教祖さまみたいじゃないか。堂島がさっきから必死に拝み倒してるぜ」


 一方、マーゴットは、女王のごとき涼しい顔で椅子に座っていた。

「講師席といっても、毎回同じ場所ではないのよ。合理性は認めるけれどね。―――みんな、堂島くんが戻ってきたら一緒に『Cafe de la Source(水源のカフェ)』へ行きましょう。講師就任祝いに、私が奢ってあげるわ」


「えっ、いいのか!?」


 古葉玲央が目を剥く。


「俺なんか、家庭教師のバイトで必死に学費稼いでるっていうのに……」


 確かに、講師に就任したマーゴットは、学生の枠を遥かに超えて裕福であった。

箱根外語大学の非常勤講師の報酬体系は破格だ。週5コマを受け持つ場合、1コマあたりの単価が専門性の高さゆえに跳ね上がり、月収にして約40万円。賞与や諸手当を含めれば、年収は17歳にして500万円近くに達する。これは一般的な新卒社会人を軽々と凌駕する数字であり、地政学という「稀少価値」がもたらした経済的勝利の結果だった。


 古葉は感心を通り越して呆れたように肩をすくめた。

「『マーゴット先生』は、さすがにご身分が違いますな! ありがたく、胃袋の限界までご馳走になりますよ」


「ふふん、いいわよ。地政学を志す者は、まず胃袋から同盟を組むものだもの」


 マーゴットは実に機嫌がいい。そこへ、世理がスマホを取り出し、目を輝かせた。

「やったー! ねぇ、あの喫茶店のフルーツパフェ、インスタですごい有名なのよ。箱大へ入れたら一度は食べてみたいって、ずっと狙ってたんだから。今日食べられたら、速攻でXに投稿しちゃう!」


 すると、隣にいた節津京香が、冷徹な口調で釘を刺した。


「世理、やめておきなさい。『職員研究室棟利用規約』の第五条。利用目的は教育・研究活動に限定され、それに反する利用は禁止。及び、棟内における撮影およびメディア投稿の禁止……とあるわ。インスタもXもマズいんじゃない?」


「えーっ! 喫茶店くらい、いいじゃない!」


「出禁をくらってもいいなら止めないけれど?」


 京香の言葉に、世理は一瞬で青ざめた。

「……ヤダ、それはヤダ。遠慮しときますか」


 二人が顔を見合わせて苦笑いしていると、ようやく「平坂菩薩(ぼさつ)」から再提出の許可(という名の慈悲)を授かった堂島が、魂の抜けたような顔でふらふらと戻ってきた。


「……ああ、観音菩薩……いや、平坂菩薩様!……助かった……」


「おかえりなさい、迷える子羊。さあ、お茶しにいきましょう!」


 マーゴットの号令で、(にぎ)やかな一行は教授室を後にした。背後では、平坂教授が手に入れたばかりの『エクスカリバー』をコトコトと叩き、他の学生の提出したデータの「真偽」を再び解析し始めていた。



第十一回 新人現る

 マーゴット一行が賑やかに『水源のカフェ』へと向かった頃、静寂の戻った教授室の講師共用デスクコーナーに、一人の男が足を踏み入れた。


 席に戻ろうとした鎌勝教授は、その男の顔を見るなり驚きに目を見開いた。


「話には聞いていましたけど……溜池さん、本当に講師になられたんですね」


 鎌勝が彼を知っていたのは、学術的な系譜からではない。かつてお茶の間を騒がせかけた、お笑い芸人としてであった。


 ()()()()()(ためいけ かずお)、32歳。身長175cm/体重118kgのメタボ体型。

現在は小田原商科大学の准教授だが、若手時代はお笑いコンビ『()()()()(セールス・トーク)』の名で活動していた異色の経歴を持つ。当時の鉄板ネタは「限定版を買えなかった男の悲劇」。ブレイク寸前でコンビを解散した後、彼は大学院へ進学し、「収集衝動と価格形成の相関性」という論文で博士号を取得した。


 今や、コレクターの深層心理を暴く「オタク経済学者」として、その名を轟かせている。


「人はモノを集めているのではない。“欠けている自分”を埋めているのだ」


 そう定義する彼の研究キーワードは、希少性プレミアム、転売市場の心理バイアス、そして「推し活」におけるドーパミン循環。


 溜池は鎌勝に気づくと、現役時代を彷彿とさせる機敏な動きで一礼した。

「鎌勝教授、ここでお会いできるとは光栄です! 先生の『決死の世界寄席』は僕のバイブル、いえ愛読書です!」


「いやあ、こちらこそご活躍は存じ上げていますよ。『()()()()(セールス・トーク)』のコント、大好きで応援していたんです。解散された時は、本当にもったいないと思ったものですが……」


 その言葉に、溜池はがっくりと肩を落とし、まるで往年のコントのワンシーンのようにうなだれた。


「……相方と約束していたんです。『エンペラー・オブ・コント』のファイナリストに残れなかったら解散しよう、と。結果は惜しくも九位。テレビ放映される決勝ラウンドには届きませんでした。相方は今、ピン芸人としてローカル局で頑張っていますが、僕は逃げるように大学へ戻り、好きな研究を続けているうちに准教授になってしまったんです。それがまさか、日本最高峰の箱根外語大学で教鞭を執ることになるなんて。分不相応な果報だと痛感しています」


 鎌勝は、かつての芸人としての矜持を抱えながら、学問の徒として誠実に歩んできた後輩の肩を、温かく叩いた。


「そんなことはありませんよ。箱根外語大学は、優れた話芸と独自の視点を正当に評価できる場所です。あなたの経済講義は、箱大のアカデミズムをより鮮やかに、内外へ発信してくれるはずだ」


 鎌勝は時計を見ると、人懐っこい笑みを浮かべた。


「今日はこれから外で食事をする予定なんですが、溜池先生、一緒にどうですか? 『一粒一刻いちりゅういっこく』という和定食の店なんですがね、味は私が保証します。ご飯と味噌汁はお代わり自由。経済学者なら、そのコストパフォーマンスの良さは無視できないでしょう?」


「……お代わり自由! 素晴らしい。まさにドーパミンが循環する提案です。ぜひ、ご一緒させてください!」


 かつて舞台を沸かせた「()()()()(セールス・トーク)」の男は、今度は教壇を沸かせる決意を胸に、鎌勝教授と共に早春のキャンパスへと歩き出した。


ーー続くーー

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