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倫理学:女王様の特別講義~眞栄田豪姫の灼熱講話録  作者: 和子


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23限目 世界寄席〈ワールド・クエスト〉の真打(7)


第四十三回 帰ってきた落語家、明出目家ぷら月

 語り終えた務所河原(むしょがわら)札月(ふだつき)は、手拭いを畳んで袂に入れ、ゆっくりと膝に手を置いた。

 一瞬、その場が静まり返ったのは、観客の誰もが、高座に座る八十一歳の老落語家と、噺の冒頭、20世紀末の抗争の世界に生きた、若き日の切仁(きりひと)の姿を重ね合わせて思いを巡らせていたからであった。


 札月は、高座で深く、深くお辞儀をする。

 ゆっくりと顔を上げたその表情には、落語の中の極道の凄みはなく、ただ年輪を重ねた芸人の穏やかな笑みがあった。


 「……えー、どうも。新作のつもりでしたが、どうやら柄にもなく自叙伝になっちまいましたかね」


 客席から、どこか温かい、それでいて感嘆の混じった笑いが漏れます。


 「さあ、お遊びはここまで。本寄席の大トリ、いよいよ真打(しんうち)の登場でございます。明出目家(あかでめや)(あかでめや)ぷら(つき)。あたしの弟子だったんですがね――― こいつが二十年前、『ちょっと、大学に修行にいって参ります』なんて威勢よく飛び出して行ったっきり。気がつくと、大学教授になっておりました。いや、びっくりしました。

 おかげさまで、しっかりと『真打の教授』になって帰ってまいりましたんで―― みなさん、どうぞ、聞いてやってください……」


 そう言い残すと、札月はよろけることもなくスッと立ち上がりました。

 寄席全体が沸き立っていた。

 名人芸への尽きせぬ名残惜しさと、ついに真打ちが姿を現すのだという高揚。

二つの熱が混ざり合った、この日一番の激しい拍手が場内を覆い尽くす。


 その拍手の渦に背を向け、かつて闇の世界で行き、ゼロから人生をやり直し、今は芸に生きる老人は、静かに、そして確かな足取りで舞台袖へと消える。


 札月が去った舞台袖から、入れ替わるようにして一人の男が姿を現した。


 鳴り止まぬ拍手の中、高座の脇に立てられた「めくり」が鮮やかに返ります。そこに躍った文字は――。


 『北条氏の最後』


 客席の古葉たちは、思わず身を乗り出す。以前、豪姫教授の倫理学講義に彼がゲスト参加した際に見せた、あの凄絶な一幕が脳裏をよぎる。「氏政・氏照切腹の段」で見せた、歴史を題材にした新作落語による圧倒的な語り。


 「……また、あの伝説がよみがえる」


 期待はもはや飽和状態となり、場内の空気はひりひりと鳴るような緊張感に支配されていく。


 そこへ、すたすたと高座へ向かうのは、まぎれもなく鎌勝教授。しかし、その背負っている空気は、二十年という歳月を「学問という名の修行」に捧げ、今日この日のために真打として帰還した男の顔。


 鎌勝が座布団に座り、深く一礼した瞬間、あんなに激しかった拍手が、まるで魔法のようにピタリと止む。


 静寂。


 鎌勝教授――いえ、明出目家ぷら月は、座布団の上でこれ以上ないほど深く、長く頭を下げました。顔を上げたその表情は真剣な眼差し、学者の冷静さはなく、ただ一人の弟子としての無垢な情熱が溢れていました。


 「これほどまでに、大勢のお客様にお運びいただきまして、明出目家ぷら月、感謝の言葉もございません。

……振り返れば二十五年前、前座として務所河原札月師匠に入門を許されました。落語家のいろはを噛んで含めるように手ほどきいただき、暗い夜道を行くが如き私に、ずっと道を示し続けてくださった。


 ところが、ようやく這っていたのが歩けるようになったかという頃合いで、私は、『大学へ行く』などと、後足(あとあし)で砂をかけて出て行った、不届き物でございます。


 そんな不肖の弟子を、師匠は今日までお心の隅に留めおいてくださった。そのおかげで、こうして真打などという身に余る栄誉を授かることが叶いました。


……先ほどから、師匠、先輩、兄弟子、さらには我が教え子までもが、この披露の席で(すさ)まじき話芸を演じるのを袖で拝見しておりまして……。もう、己の未熟をただただ恥じ入るばかりでございます。


 ―――かくなる上は、恥のかきついで。

二十年の出稽古(でげいこ)から戻りました、今の私の精一杯をご披露させていただきます。


 では一席―――お付き合い願います」



第四十四回 小田原評定

 ぷら月は座布団の上でグッと身を乗り出し、右手に伝家の宝刀「ハリ扇」を構え、パンッと一打ち、言葉の節々に力強い「節」が乗り始めます。


 学問の緻密さに、講談のような畳みかけるようなリズムが混じり合い、場内の空気はタイムマシンに乗ったかのように、戦国乱世の、あの重苦しくも清廉な一室へと一気に引き込まれました。


 「―――時は天正十八年五月!

天下を指呼の間に収めた豊臣二十万の大軍、八重にも九重にも小田原の城を囲む中、世に名高い『小田原評定』がようやくに決着をいたします。


 (ハリ扇で畳を鋭く叩く)


 四代北条氏政、居並ぶ重臣を睥睨(へいげい)致しまして、

『わしが氏照とともに腹を切る。これでいいだろう、―――悔しいのは分かるが、すべては北条を守るためだ!』


 そう言い放ち、一堂が鳩首する席を蹴立(けた)てて立ち上がる。向かう先は別室、そこには武勇をもって関東にその名を轟かせた、弟・氏照が控えておりました。


 襖越しに漏れ聞こえていた評定の喧騒は、いつしか止みて静寂の海。

氏照は畳の縁に拳を突き立て、俯いたまま動こうといたしません。


 上野(群馬県)・武蔵の諸将を震え上がらせ、敵陣にあっても決して背を見せなかったあの猛将が、今は奥歯を噛み締め、肩を微かに震わせております。


 (低く、唸るような声で)


 『……兄者』


 その呟きを拾うように、襖が静かに、音もなく開く。

現れたるは氏政。甲冑はすでに脱ぎ捨て、小袖に羽織という寛ぎ姿。

戦国の棟梁としての威厳は消え、そこにはただ、重荷を降ろした一人の男の顔がありました。


 『……聞いていたな?』


 『……聞いて、おりました』


 氏照は顔を上げられません。上げてしまえば、こらえていた何かが決壊する。


 氏政は静かに膝を突き合わせ、しばしの沈黙。

その静寂は、城外に敷き詰められた二十万の豊臣軍勢よりも、なお重く冷たく、兄弟の間に横たわります。


 『氏照。これは評定ではない。……兄としての、頼みだ』


 その言葉に、氏照は弾かれたように顔を上げた。

『頼み、とは……』


 『北条を残す。……わしとお前が腹を切れば、秀吉は約を違えぬ。氏直は助かる。北条の名は、未来へ繋がる』


 『しかし、それでは……!』

氏照の声が、怒りと悲しみで上擦る。

『我らが愚かだったと、すべてを背負(せお)って死ねと申されるか! 小田原に()もったのは我ら二人だけの独断ではない、家中の――』


 『―――だからだ!』


 (扇子をピシャリと叩く)


 『だから、棟梁(とうりょう)であるわしが責を負う。お前もだ。武門北条の柱として生きてきた者が、最後に果たせる役目は、もはやこれしかあるまい……』


 氏照の喉が鳴る。理屈は分かる。嫌というほど分かっていながら、納得がいかぬ。

『……兄者は、悔しくはないのですか』


 その問いに、氏政はふっと、乾いた笑みを漏らしました。

『悔しいさ。戦いたいとも思う。……だがな、氏照。このままでは北条の名は、右往左往して決断を誤った、滅びの一族としてのみ後世に語られる。

ならば、せめて最後くらいは、矜持ある形を遺したい。……“北条を残すために、自ら散った兄弟”としてな』


 氏照は、畳の目をじっと見つめ、溢れんとする涙をこらえ、ただ拳を震わせる。『……分かりました。兄者とともに参ります。それが、我ら北条なのでございましょう』

地を這うような低い声で、言葉を絞り出す。


 氏政は、満足げに深く、頷いた。

『幼き頃よりいつも支えてくれたこと、感謝しておるぞ、氏照』


 『いえ』

氏照は立ち上がり、これまでの人生のすべてを込めて、一礼。

『誇りです。……兄者の弟であったことが』


 (三味線が激しく、やがて静かに流れる)


 その日、小田原の空は、過酷な定めと裏腹に、抜けるほど、青く、澄み渡り、

城外では豊臣軍がときの声を上げ、小田原城内は、静かに最後の身支度を整えておりました。


 それが、北条という名の終わりにして――

連綿と続く歴史へと語り継がれる、かすかなる始まりでございます。



第四十五回 未来の北条

 ぷら月はここで、ぐいと身を乗り出し、それまでの厳粛な空気をご破算にするように扇子をパッと広げました。語り口は軽快に、江戸の町人が噂話でも始めるような、心躍る調子に変わります。


 「――さて、一方でございます!

この小田原城、のっぴきならない極限状態でございますが、氏政のもとに『お目見え願いたい客人がございます』との知らせ。通された別室には、氏規(うじのり)氏直(うじなお)。……そして、どう見てもこの時代の人間じゃあねえ男が、ちょこんと正座をしておりました。


 (男の奇妙な格好を指し示す仕草で)


 着ている服が妙なんですな。体にぴったり密着して、紐もなけりゃあ帯もねえ。布には不思議な光沢があって、縫い目すら見当たらねえ。鎧でもなけりゃあ、南蛮渡来の服とも違う。


 北条氏規は、じっとその男を睨みつけております。

この氏規さん、これまた名将でございましてな。伊豆の韮山城(にらやまじょう)にて豊臣軍四万五千の猛攻を百日以上も食い止め、さらには一族の軍資金を敵の目に触れぬよう安全に隠蔽するという、離れ業を成し遂げたばかり。ようやく仕事を済ませて小田原へ合流したと思えば、城内には不審者がいる。


 『……氏直。こやつ、本当に刺客ではないのだな』

 『は、はい。刺客なら、もっとこう……それらしい格好をしているかと』

 『……それはそうだが』


 そこへ、襖がスッと開いて、氏政と氏照の兄弟が姿を現した。

顔を見れば、重苦しい評定を終えた後とは思えぬ、どこか吹っ切れたような清々しい表情。


 『小田原評定はやっと終わった。……で』

氏政、そのピチピチの服を着た男を一瞥して、眉をぴくり。

『……そなたが、例の客か?』


 男は、やけに滑らかな動きで、武家の礼法とも公家の作法とも違う、不思議な伏礼(ふくれい)をいたしました。顔を上げれば二十代後半、まげは結っておりませんが、不思議と無礼には見えません。


 『はい。私、未来時間管理局のホウジョウと申します』


 『……はぁ!?』


 (氏照が声を張り上げ、一同は驚いて見つめる)


 『未来……時間……?』


 『はい。この時代から更に1400年後の箱根から参りました。――有体(ありてい)に申しますと、私は皆様の遠い、遠い子孫にあたります』


 『北条の子孫!?』

氏照が思わず立ち上がる。

『北条は我らだ! 紛らわしい名を名乗る曲者め!』


 『いえ、正真正銘です。北条氏の第……ええと、数え切れない子々孫々とでも申しましょうか。少なくとも滅びてはいません』


 その言葉に、部屋の空気が一瞬、止まった。


 若き氏直が、震える声で問いかけます。

『……北条は、残るのですか?』


 『はい。ご先祖様方の“ご聖断”のおかげで』


 氏政が目を細めて自嘲気味に笑う。

『聖断、とは大げさだな。ただの敗戦処理よ』


 『いえいえ! 歴史上では大英断とされています。“あの評定がなければ、北条は完全に断絶していた”と』


 氏照が鼻を鳴らす。

『ふん。小田原評定は長すぎだの、優柔不断だの、そう言われておるのではないのか?』


 『ええ、それはもう、たっぷり言われています』


 (男が即答して、氏照はずっこける仕草)


 『ですが、それ以上にですね……"最後はきちんと責任を取った一族"という評価が燦然と輝いているのです。だからこそ私はここへ参りました。お礼を言うために。……ご先祖様の決意が、未来に北条を残しました。本当に、ありがとうございます』


 男は深く、深く、畳に頭をこすりつけました。


 氏直の目には、熱いものが込み上げている。

『……よかった。北条は、消えなかったのですね』


 『ええ。形は変わりましたが。未来では戦国大名ではなく、学者、エンジニア……いろいろやっております。私が務めるこの管理局も、その延長です』


 氏照が首をかしげる。

『戦もせず、城も持たず、それで北条と言えるのか?』


 男はにやりと笑って、

『ええ。……評定は相変わらず長いですが』


 『……それは、血だな……』


 (氏政の呟きに、客席からドッと笑いが起きる)


 沈黙のあと、氏照がぽつりと言いました。

『……兄上。どうやら、無駄死にではなかったらしい』


 氏政は天井を見上げ、肩をすくめると、氏照の肩を優しく叩いた。

『そうらしいな。ならば……未来に恥じぬよう、今日を終わらせるとしようか』


小田原城の空に、歴史は重く、しかし――どこか軽やかな風が吹き抜けておりました」



第四十六回 未来の徒合戦(かちがっせん)

 「さて、このホウジョウと名乗る男、にこりと笑って言いました。


 『せっかくここまで来たついでです。ご先祖様、少しばかり、よいものをお見せしましょう』

 そう言うと、懐……というには、どうにも不釣り合いな場所から、少し大振りな、黒く平たい板のような物を取り出した。それを、床の間にそっと立てかける。


(40インチぐらいのね、大型タブレットって言う感じ)


表面は磨かれた鏡のようで、部屋の灯りと、驚く四人の人影を映しておりました。


 『……それは、たぶれっと、というものでしたな』

若き氏直が小声で言う。さすがは若君、ちょっと前に、このホウジョウ君から見せてもらったことがある。未来の言葉に耳が慣れるのが早い。


 『ええ。未来の道具です』

ホウジョウが、その表面を指で『しゅっ』となぞった。


 (扇子を横に滑らせる仕草)


 するとどうです。鏡がふっと光を帯びたかと思うと、忽然と、見たこともない別の景色を映し出した。


 人、人、人――。

見渡す限りの群衆。石を敷き詰めた広い道。見慣れぬ旗や幟が林立し、空には高く、鉄の橋が架かっておる。


 『う~む……』

氏照が思わず(うな)る。ここにいる北条一門が目にするのは、紛れもない未来の日本。


 『これからお見せ致しますは――』

ホウジョウは、どこか芝居がかった口調で続けました。


 『未来の小田原の繁栄を如実に現している――“箱根大学駅伝”という、若者の徒合戦かちがっせんでございます』


 『えき、でん……?』

氏政が眉をひそめる。


 『江戸――いえ、未来では"東京"と申しますが、そこからこの小田原、箱根の山を越え、芦ノ湖までの道のりを走り、そしてまた戻ってくる。往復で駆け抜ける競争でございます』


 画面の中では、若者たちが列を作り、道の中央に並んでおる。

皆、奇妙な形の股引ももひきを穿き……ええ、現代で言うランニングパンツってやつですな。背中には大きな文字が書かれている。


 『間、各組十人の者が(たすき)をつなぎ』

ホウジョウが、赤や青の布が若者の肩から肩へ、執念のように渡されていく様子を指さした。

『往路、復路、そして総合の天下人となることを競うのです。この若者の多くは、徳川内府殿の領地にある“大学”という(まな)()の書生にございます』


 『徳川の……書生が戦うのか?』

氏政が、驚きを通り越して怪訝そうに聞き返す。


 『はい。ですが彼らは、それぞれの“大学”という学問所名を背負い、誇りを懸けて戦い抜きます』


 そのとき! 画面の中、号砲が鳴り響いた。


 (パアァン!とハリ扇を叩く)


 道いっぱいに広がった若者たちが、一斉に、風のように前へ飛び出した!


 『――おおっ!』

四人の北条は、同時に身を乗り出した。

無数の未来の老若男女が、道の両側で声を上げ、旗を振り、若者たちの名を叫んでいる。その声援を一身に受け、股引(ももひき)姿の若者たちが、地を蹴って、風を斬って走る!


 『今……今、(いくさ)が始まったのか!』

氏政の声が、興奮でわずかに上ずった。

『はい。刀も槍も使いません。ですが、己の脚と心肺と、仲間への信義を武器に戦う――未来の合戦でございます』


 氏照は腕を組み、食い入るように画面を見つめた。

『……悪くない。槍を振るうではなく、己の体一つで、よほど気骨があるではないか』


 氏直は、襷を受け取る若者の瞳に目を奪われていた。

『北条の城下を目指して、これほどまでの人が集まって、走り抜けるのですね……』


 『ええ』

ホウジョウは静かに言った。

『この道は、戦で荒れることなく、若者の汗と声援で満ちるようになります。小田原は、守られ、栄え続けるのです』


 画面の中で、先頭の若者が風を切って走っていく。

その背中を、無数の未来が追いかけていた。

氏政は、しばらく無言でそれを見つめ、やがて、()き物が落ちたような、晴れやかな声でこう言った。


 『……ならば。腹を切る甲斐も、あったというものだな』


床の間に立てかけられた鏡の中で、未来の戦は、なおも続いていた……。



第四十七回 興奮の往路戦

 横浜の町並みを抜けると、画面の景色は次第に見覚えのあるものへと変わっていった。


「……おお」

氏直が、思わず声を漏らす。


 海沿いの道。見慣れぬほど広く、しかし確かに小田原へと続く街道。沿道には、未来の民が幾重にも並び、手を振り、声を張り上げている。


 「小田原城下だ」

氏照が低く言った。


 城は映っていない。それでも、道の曲がり、山の影、空の広さ――間違いなく、北条の城下だった。


画面の下、中継所に映る襷が、次の走者へと渡される。


 「湯本へ向かいました」

ホウジョウが静かに解説する。

「往路も中盤。ここからが、本当の勝負です」


 走者の肩は大きく上下し、呼吸は荒い。足取りはまだ力強いが、その背中には、見えぬ重みがのしかかっているようだった。


 「あの者……」


 氏政が、弱った一人の若者を見て、無意識に前へ身を乗り出す。


 「もう、ダメなのか?」


 次の瞬間、横から別の若者が迫り、するりと前へ出た。


 「ああ……」

氏直が息を呑む。

「抜かれてしまった……」


 歓声が、画面いっぱいに広がった。追い抜いた側の応援は天を突き、抜かれた側には、絞り出すような声が飛ぶ。

「がんばれ!」

「まだいけるぞ!」


 声は違えど、熱は同じだった。


 氏照は歯を食いしばる。

「戦と同じだな。前を取られたときの、あの感覚……」


 道は次第に細くなり、画面の奥に山が迫ってくる。空気が変わったのが、こちらにまで伝わってくるかのようだった。


 「芦ノ湖へ向かう道です」

ホウジョウの声が、少し低くなる。

「箱根路。最大の難所」


 画面の走者は、もはや前傾になり、腕を振るというより、必死に体を引き上げるように進んでいた。


「……たしか」

氏政が、遠い記憶を手繰るように言う。

「あそこは坂が続く。昔、急ぎの文を運ばせた飛脚があったが――」


 「はい」

ホウジョウは頷いて説明する。

「心の臓腑(ぞうふ)破裂(はれつ)し、道半(みちなか)ばで倒れたと、記録に残っています」


 一瞬、部屋の空気が凍りついた。


 画面の中の若者は、歯を食いしばり、視線を前方から逸らさない。脚は震え、肩は限界まで上下している。それでも、足は止まらない。


 「なぜ……」

氏直が震える声で言った。

「なぜ、そこまで走るのですか。勝てぬかもしれぬのに」


 ホウジョウは、少しだけ間を置いて答えた。

(たすき)を、受け取ってしまったからです」


 その言葉に、四人は息を呑んだ。


 「己一人のものではない。前の者の想い、次の者への責任、そして名を背負う重み――」

画面の若者は、坂の途中で一瞬よろめいた。沿道から、悲鳴のような声が上がる。


 「おい……!」

氏照が思わず立ち上がる。


 だが、若者は倒れなかった。歯を剥き出しにし、再び一歩を踏み出す。


 「……ああ」

氏政は、ゆっくりと息を吐いた。

「これは戦だな。間違いなく」


 刀も、血もない。だが、命を削るような戦いが、そこにあった。


 箱根の坂を、未来の若者が、北条の土地を踏みしめて登っていく。

その一歩一歩が、過去と未来を、確かに繋いでいた。



第四十八回 芦ノ湖の歓喜

 芦ノ湖が近づくにつれ、道は一転して下り坂となった。


 画面の中で、山の稜線が開け、湖面がきらりと光る。その瞬間、走者の脚取りが変わった。重かった足が、坂の勢いを得て前へ前へと運ばれていく。


 「おお……!」

氏照が声を上げる。


 最後の力を振り絞るように、若者は腕を振り、地を蹴った。風を切る音すら、こちらに届くようだった。沿道の歓声は雷鳴のように膨れ上がり、画面いっぱいに揺れる。

そして――


 緑色の襷が、ゴールへ飛び込んだ。


 「やったー!」

氏直が、思わず両手を打った。


 「あの、"あおやまだいがく"というものが勝ったのか!」


 「はい」

ホウジョウは満足げに頷く。

「往路優勝でございます」


 画面には、肩で息をしながら笑う若者たちが映し出されていた。互いに抱き合い、腰に手をつき、天を仰ぐ者もいる。


 「このあと」

ホウジョウは指を滑らせ、映像を切り替える。

「箱根神社前の陣で一泊し、翌日の復路となります。……少し、飛ばしますね」


 湖畔の鳥居、松並木、篝火のような灯り。夜を越え、再び朝日が差し込む。未来の箱根神社は、どこか懐かしく、どこか別の世界のようだった。


 そのとき――

「殿、ご準備は宜しいか……」


 襖が音を立てて開いた。


 入ってきたのは家老筆頭である重臣、松田憲秀(まつだのりひで)大道寺政繁(だいどうじまさしげ)だった。彼らもまた切腹の沙汰があり、共に白装束を整えた姿で、厳かな面持ちで事に処する……のはずが、部屋の光景を目にした瞬間、ぴたりと歩みを止めた。


 「……、これは面妖(めんよう)な!」


 床の間には奇怪な鏡。中では、見知らぬ装束の若者たちが走り、歓声が渦巻いている。その前で、氏政、氏照、氏規、氏直が肩を寄せ合い、食い入るように覗き込んでいる。そして、その脇には――


 見慣れぬ服装の男。


 重臣二人は、完全に固まった。

「……殿?」


 氏政が、ひらひらと手招きした。

「松田に大道寺、いいところへ来た」

にやり、と悪戯っぽく笑う。

「これから後半戦じゃ」


 「こ、後半戦……?」

二人はおそるおそる近づき、たぶれっとを覗き込んだ。


 「な、なんと……人が、走っておる……しかも、皆で応援を……」


 「未来の合戦だそうだ」

氏照が腕を組んで言う。


 「箱根を越えて、往復する」


 「往復!?」


 大道寺政繁は目を見開いた。

「それは無茶でござろう! 兵でも嫌がりますぞ!」


 ホウジョウが、にこやかに一礼する。

「ですが、皆、自ら望んで走ります」


 「……理解できぬ」

松田憲秀は首を振りながらも、目は画面から離れなかった。


 画面の中では、復路の朝日を背に、再び若者たちが走り出していた。


 氏政は、深く頷いた。

「よいな。争わず、奪わず、ただ己と仲間のために走る戦」

そして、ぽつりと付け加える。

「小田原が、こんな形で未来に残るとはな」


 氏規は、しばし黙って画面を見つめ、やがて小さく笑った。

「……ならば、見届けねばなりますまい」


 こうして北条一門と重臣は、時を超えた戦の続きを、肩を並べて見守ることになった。


 箱根路を駆ける若者たちの足音が、静かな小田原城の一室に、確かに響いていた。



第四十九回 総合優勝の結末

 ぷら月は、それまでの歴史の重みを一気に放り出すように、全身を左右に激しく揺らし、噺の最終局面を滑稽に演じ分けます。


「さて、たぶれっとの中は、いよいよ復路の最終盤!

 箱根の山を転がるように駆け下りて、平塚、戸塚と繋ぎ、いよいよ花の日本橋は大手町!

 画面の中では、沿道の群衆が波のようにうねり、旗を振り、まるで戦場の鬨の声でございます。


 抜きつ、抜かれつ!

 右の走者が鼻の差で前に出れば、左の走者が白目を剥いて抜き返す。

 顔は苦悶と執念で、もはや人間というよりは憤怒の明王!

 襷は汗と涙に濡れ、グショグショになっておりますが、これでも不思議と、若者は怯むことなく突き進む。(明日は昼まで起きないつもり)


 これを見ている氏政、身を乗り出しすぎて、もはや床の間のタブレットを抱え込む体勢。


 『行けっ! 押せっ! ほれ、そこは内角を突け!』


 『兄上、これは合戦ではございません、徒走(かけっこ)です』


 『やかましい! 徳川の書生に後れを取るな!』


  氏照も、画面の中の旗振りに合わせて、見えない軍配を振り回す。


 『ぐぬぬ、あの黒い襷! 豊臣軍の鎧仕立てに似ておるわ!』

 

 と、その時でございます!

他者を大きく引き離して、先頭の走者が――


 (ここでパン!とハリ扇を鳴らす)


 真っ白なゴールテープを胸で切り、両手を天に突き上げた!

画面いっぱいに、この世の終わりかと思うほどの歓声が弾けました。


 『……決しました。これにて、総合優勝でございます』

ホウジョウが、まるで戦奉行のような厳かさで告げた、その瞬間――」


 『おおおっ!』

氏政、興奮して、ガバッ!と立ち上がった。


 『こうしちゃおれん! 氏照、急げ、今すぐ切腹の準備だ!』


 『な、何を言い出すのです兄上! さっきまであんなに厳かに佇んでおられたのが台無しです!』


 『氏規! 貴様は介釈だ、首を刎ねる準備をしろ!』


 『ええっ、拙者が!? 韮山城から命からがら帰ってきたばかりなのに!』


 『父上、お気を確かに! そんなに急いで腹を切らずとも!』


 氏直までが縋り付く。


 一方で未来から来たホウジョウ君、顔色を変えて懐の機械で緊急連絡を取っています。

『歴史介入エラー! 重大なバグが発生! 氏政公が興奮しています! 本局、応答願います! 修正プログラムを……!』


 まさに小田原城内は、阿鼻叫喚の様相を呈していた。


 氏照が必死に兄氏政の肩を掴んで、落ち着くように迫ります。


 『……兄上、物事には順序があります、そんなに雑に進めるものではありません!』


 だが、氏政は(すが)り付く手を、豪快にパァーン!と振り払った。


 『ああ。……ただ、腹を切るのではないわ!』


 (ぷら月、ここで一転して、呵呵と高笑い)


 氏政、満足げに『たぶれっと』を指さし、ぐいと胸を張った。


 『――たすきを、(つな)ぐのよ。』


――お後がよろしいようで」

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