22限目 世界寄席〈ワールド・クエスト〉の真打(6)
第三十二回 アマチュア落語家の矜持
それは、予期せぬダークホースの独走だった。
浦部朱元が放った『獄中の法』の余韻は、湯本演芸場の空気を震わせ続け、拍手の波はいつまでも鳴り止まない。
「……信じられないな。あの教授、あんなに凄かったのか」
客席では、古葉玲央が呆然と呟き、江藤裕也も深く頷いている。落語オタクの堂島剛に至っては、興奮のあまり眼鏡を曇らせ、「これこそがアマチュアの極致、いや、学問と落語の融合だ!」と鼻息を荒くしていた。
学内の名物教授が、これほどの名人芸を隠し持っていた事実に、客席のざわめきは一向に収まる気配がない。
高座を下りた浦部教授は、舞台袖で出迎えた鎌勝教授に対し、照れくさそうに目尻を下げた。
「いやあ、三国志や戦国時代がメディアで人気のおかげですよ。この頃の学生たちは、講義中寝ないで聴いてくれるんで、東洋思想を説く身としては、ありがたい時代になったねぇ」
鎌勝は、感服した面持ちで先輩教授を見つめていた。
自らの専門である文化人類学において、浦部の深い知見から得た示唆は数知れない。歴史の分厚い堆積の中から、変わることのない人間の本質を鮮やかに読み解く浦部の眼差しは、常に鋭い刃のようでありながら、同時にすべてを包み込むような温かさを湛えていた。
「浦部教授、落語研究会の名誉顧問として、これからもどうかご指導をお願いいたします!」
鎌勝が熱を込めて頭を下げると、浦部は困ったように眉を下げ、細い手でそれを制した。
「もう、僕などが出る幕はありませんよ。今回は特別、お祝いの席ですからねぇ」
そう言って笑う浦部は、東洋思想の大家であると同時に、北京語の指導もこなす厳格な語学の徒でもある。二千年前の中国大陸へと思いを馳せ、その膨大な熱量を笑いへと昇華させる。
学問を愛し、芸を愛する老教授の背中には、プロの落語家とはまた異なる、真理を追う者としての確かな「矜持」が宿っていた。
だが、浦部はふと視線を落とし、独白のように言葉を継いだ。その口調はどこまでも飄々としていたが、言葉の端々に隠しきれない寂寥が滲む。
「僕の学問というのは、結局のところ、ただ古い本を読み散らかすだけの作業でした。鎌勝君、君のように世界へ飛び出し、泥にまみれて現地でフィールドワークができる……そんな生き方に、僕は……ずっと憧れていたんですよ」
「教授……」
「実際、僕もかつては何度も中国へ渡りましたがね。……結局、何も感じ取ることができなかった。現地での調査を願い出ても、あちらの当局からは色よい返事はもらえず、結局は観光地をなぞらされるだけ。あの大地は、都合の悪い遺物や人々の記憶を、ことごとく書き換えてしまっている。僕らが探している『心』に触れるには、あまりに遠い場所になってしまった」
浦部がいつも纏っている、あの浮世離れした風情。それは単なる余裕ではなく、若き日の情熱が政治の壁に阻まれ、深い諦念へと沈殿していった末に辿り着いた、静かな境地だったのだ。
「そういった意味ではね」
浦部は顔を上げ、高座へと向かう一人の老人の後ろ姿に視線を据えた。
「次に高座に上る務所河原師匠のお話などは、20世紀末前後の空気を今に伝える『語り部』として、是非とも聞いておく必要があると思うんです。本にも記録されていない、生きた時代の呼吸をね」
出囃子が止んだ。
八十一歳の老体が座布団に沈む。務所河原札月は、折れそうなほど細い首をゆっくりと傾け、ただ、虚空を見つめた。その一拍の「間」だけで、湯本演芸場の空気が、湿り気を帯びた九〇年代の夜へと変質する。
舞台袖の浦部教授が、息を止める。
客席の三山世理が、自身の祖父が放つ得体の知れない冷気に身を竦ませた。
札月が、重い口を開く。
「……一九九二、渋谷」
声は低い。地面を這うような響きが、観客の足首に絡みつく。
「あの御仁が、現代の僕らへ何を伝えてくれるのか。……見守ることにしましょう」
浦部は舞台袖の暗がりに立ち、まるで失われた歴史の断片を待ちわびるかのような敬虔な眼差しで、静かに高座を見つめていた。
めくりには次の演目「極道のなれのはて」と書いてある。
第三十三回 シャンパンタワーの宴
師匠、マクラも振らず、いきなり本題へ入る。
低く掠れた声。だがその直後、札月はふっと口角を吊り上げた。
それは柔和な好々爺の笑みではない。かつて極道の世界で、どす黒い光を放ちながら修羅場を潜り抜けてきた――その血生臭い時代を想起させる、凍りつくような「凄み」を湛えた笑い顔だった。
「……一九九二、渋谷。
氷のぶつかる硬い音が、コツン……コツンと、耳の奥に響く。
目の前には、うず高く積み上げられたクリスタルの山。
レーザー光線がその角を屈折して、天井に毒々しい斑点を散らしている。
……シャンパンタワー。
その頂点を見つめて、ふんぞり返ってやがった男が、四谷切仁。
『キリさ~ん、誕生日おめでと~!』
女たちの嬌声が重なり合って、あちこちで栓を抜く『ポン!』という破裂音が響く。まるで祝砲だ。
切仁は、手近な一本をひったくるってぇと、そのままラッパ飲みだ。
喉を鳴らし、溢れた飛沫が白いシャツに掛かろうが、お構いなし。
飲み残しをそのまんま、タワーのてっぺんへ注ぎ込む。
琥珀色の液体が段を追って、溢れ、混ざり合う。
『……飲んでいいぞ!』
低く、けれど腹の底に響く声。
切仁はただ、広がる黄金の波を見下ろしていた。
店のナンバーワンホステスの杏子が、迷わず頂上のグラスを掴む。
切仁から目を逸らさず、グイッと飲み干すと、空のグラスを突きつけた。
切仁は視線を逸らさないまま、黙って懐からパンパンに膨らんだ革の塊――札入れを抜き出した。
指先で数えやしない。
数枚の万札をシュッと引き抜くと、それが杏子の指先に吸い込まれていく。
それを見た他の女たちが、我先にとタワーに群がった。
飲みかけだろうが、飛沫が目に入ろうが、お構いなしだ。
彼女たちの目は、切仁が持つ『札束の厚み』だけを射抜いている。
『ねえ、アタシ一枚少ないわよ』
一人の女が不満げに、上目遣いで袖を引いた。
だが、切仁はその女の顔を一度も正視しねえ。
『……もう一杯、飲め』
女は察した。両手にグラスを掴んで戻ってくる。
『チップ、手が塞がって取れないじゃない?』
切仁の口角が、わずかに、冷たく上がる。
女は無言のまま、ドレスに包まれた胸を突き出した。
その谷間へ、切仁は倍の札を無造作に、スッと沈めていく。
『……頭がいいな』
女の香水の匂いと、シャンパンの酸っぱい香りが、熱狂の中で混ざり合う。
次々と両手にグラスを持った女たちが、無言の列を作った。
切仁の手元には、まだ二百万はある。
空になれば、受話器を上げればいい。それだけで、この狂乱は、夜が明けるまで止まることはない……
……シャンパンの泡が弾ける音さえ、今夜はひどく乾いて聞こえる。
渋谷のフロアを貸し切った、これ見よがしな誕生祝い。
四谷切仁は、止まない拍手と嬌声の渦の中にいた。
『アニキ、一生ついていきます!』
『……ああ』
舎弟が差し出すグラスを受け取り、視線だけを動かす。
……見えちまうんだな。奴らの笑顔の裏に、べっとりと焦りという脂が浮いているのが。
暴対法――。首筋を撫でるような冷たい風が吹き抜けて、
シマが、シノギが、指の間から砂のように零れ落ちていく。
それを知らねえはずのない男たちが、これまで以上に大きな声で『忠誠』を叫びやがる。
『キリちゃん』
隣に腰を下ろした杏子の手が、切仁の膝にそっと触れた。
……その指先が、微かに、震えてやがる。
『こんなに派手にやって、大丈夫なの……?』
冗談めかした口調の裏で、彼女の瞳は切仁の横顔を必死に探っている。
切仁は答えない。
ただ、紫煙をふぅ……と吐き出した。
(遠くを見つめる目をして)
……かつて、この女はゴミのように使い潰されていた。
借金を肩代わりし、彼女を縛っていた男を、切仁は一人で『処理』した。
あの日の上野駅、早朝の寒気。
ダボシャツにパッチ一枚、薄汚れた姿で震える男の懐に、
切仁は数枚の札と、弘前行きの切符をねじ込んだ。
『……故郷は弘前だったな。片道だ』
耳元で、死神のような声で囁く。
『次に見かけたら、あの世への切符を買ってやる』
男の背中が改札へ消えていくのを、切仁は冷めた目で見送った。
奪い、救い、そして成り上がる。それがこの街の、この時代の呼吸だった。
『アタシにとって、キリちゃんは大恩人だから……』
杏子が耳元で縋るように囁く。
『落ちてほしくないの。……絶対に』
切仁は答えず、彼女のグラスにシャンパンをなみなみと注いだ。
自分自身の終わりを予感するように、黄金の気泡が激しく踊り、そして……消えていく。
『……飲め』
切仁は笑わなかった。ただ、空になった財布をテーブルに放り出し、
重い沈黙を煽るように、背もたれへ、深く、深く、沈み込んだ……」
第三十四回 蕎麦屋の噂
札月師匠は、ここでパチン! と威勢よく扇子を畳みました。
スッと背筋を伸ばし、先ほどまでのドスの利いた声をどこかへ放り投げると、ガラリと調子を変えて、江戸っ子らしい軽妙な口調で語り始めます。
「……ま、そんなドロドロとした夜の顔がある一方で、お天道様の下じゃあ、また違った噂が転がっておりまして。
ええ、SNSなんてえ野暮なものがない時代。人の噂ってのは、一番早く広がるんですな。
(蕎麦を啜る仕草をしながら)
正午。街の熱気に混じって、蕎麦屋の出汁の香りがふわぁ~っと漂ってくる。
暖簾をくぐった男二人が、冷やしタヌキを待ちながら、こう、声を潜めて……。
『おい……知ってるか。四谷切仁』
一人が割り箸をパチンと割ると、もう一人が身を乗り出す。
テレビのニュースより、この界隈じゃあ、その名前の方がよっぽど『生きた』ニュースだったんです。
『ああ。あの、飛ぶ鳥を落とす勢いの……。この辺りで夜遊びしたきゃ、まずあの男に挨拶しなきゃ始まらねえって話だぜ』
『俺らみたいな小物にゃ、一生縁のない相手だけどな。……おっ、おい、見ろ!』
二人の視線が、店先の路地を横切る『影』に吸い寄せられた。
アスファルトの照り返しを、真っ黒なスーツが切り裂いていく。
その隣には、眩いばかりの女。昨日の夜とはまた違う、凛とした横顔の女だ。
『……また違う女だぞ、おい』
『いっつもいい女連れて歩いてやがる。ありゃあ、一体何人囲ってんだ?』
ま、噂にゃあ尾ひれがつき、背びれがつく。
だが、その視線の先を行く切仁は、女に向かってわずかに目を細めた。
それは、獲物を狙う冷徹さじゃあねえ。
どこか祈るような……あるいは、古い知人に会ったときのような、不思議な柔らかさを孕んでいたんですな。
女が何かを囁き、切仁が頷く。
歩幅を合わせ、彼女のヒールが溝に嵌らぬよう、一歩分だけ先に影を落として歩いていく。
『……いい男だよなぁ、悔しいことに』
誰かがこぼした溜息が、茹で上がる街の空気の中に溶けて消えていく。
どの女にも平等に、そして深く――。
四谷切仁という男は、夜の牙を隠したまま、昼の光の中を、ただ静かに、鮮やかに通り過ぎていった……」
第三十五回 策略の雨
「……えー、当時の流行り言葉で『ギョーカク(行革)』なんてものがございましてな。
お上の財布の紐を締めろってえ話ですが、これがまた、夜の街の力関係まで根こそぎ変えちまった。
警察とヤクザ……。かつては酒を酌み交わし、貸し借りで帳尻を合わせる『腐れ縁』なんてのがありましたが、背に腹は代えられない。
『共倒れになる前に、奴らを食っちまえ』
――と、お上の頭のいい連中が筆を執ったんでございますな。
(扇子を筆に見立て、冷徹な役人の顔で)
警視庁の一室。
窓の外にゃ、百万ドルの夜景が湿った光を放ってやがる。
机の上に置かれたのは、一本の万年筆と、分厚い『暴力団対策法』の草案。
キャリア組の幹部が、煙草を灰皿にギュウ……と押し付けて、向かいの刑事を一瞥した。
そこにはもう、昔馴染みの『持ちつ持たれつ』なんて空気は一欠片もありゃしねえ。
『……金がないんだ。アイツらと折り合いをつける予算も、もうない』
短く、乾いた声だ。
刑事は無言で、リストに目を落とす。
風営法の改正、資金源の徹底した洗い出し……一見すりゃあ、正義を掲げた事務的な文字の羅列だ。
だが、その行間にはね、『互いに潰し合わせ、残りを一網打尽にする』っていう、黒々とした冷徹な計算が横たわっている。
『戦わせるんですか』
『効率的だろう。少ない人員と費用で、連中は勝手に痩せ細っていく……』
幹部の目は、もう次の予算案へ向いている。
かつて同じグラスを傾けた男たちを、法という名の手術刀で、音もなく切り捨てていく。
(一転、傘を差して雨の中に立つ仕草)
……渋谷、路地裏。
降り始めた雨が、切仁のスーツの肩を、ずっしりと湿らせる。
『……アニキ、あっちの組が、うちのシノギを強引に……』
舎弟が震える声で告げる。
切仁は答えねえ。ただ、濡れたアスファルトをじっと睨みつけている。
いつもなら、電話一本で『お目こぼし』が済んだはずの場所。
だが今、街の至る所に立っている制服の警官たちは、
切仁と目が合っても、かつてのような微かな会釈すら返しゃしねえ。
警察の視線は、もう『共存』を拒絶してやがる。
奴らが待っているのはね……空腹に耐えかねた獣たちが共食いを始め、
力尽き、自分たちの『手柄』という皿の上に乗る瞬間だけだ。
切仁は、最後の一本の煙草を雨の中に落とした。
ジュッと小さな音を立てて、火が消える。
『……食い合うのを、高みの見物か』
虚空を見つめる切仁の瞳に、かつてのギラついた自信はねえ。
あるのは、透明な壁に囲まれ、少しずつ、少しずつ呼吸を奪われていく……静かな苛立ちだけでございました」
第三十六回 聖域の罠
(風の音を「ヒュウゥ……」と口で鳴らし、低く、這うような声で)
「……神宮の森。都会の湿った闇を、木々のざわめきが濾過していく。
立ち並ぶ黒塗りの車。対峙する男たちの荒い呼吸が、霧のように白く弾けてやがる。
四谷切仁は、列の先頭で視線を走らせる。
探しているのは、ただ一人。隣の組の若き獅子、渋谷寅吉だ。
自分より一回り若く、かつての自分と同じ『狂気』を宿した瞳の男。
拳を合わせれば、この鬱屈した時代の風穴が開くんじゃねえか……。
そんな、不安を塗りつぶすような、ひそやかな期待。
だが、闇の向こうにその姿はねえ。
『……渋谷寅吉は、どこだ』
切仁が低く呟いた、その時だ。
木々の隙間から、無機質な赤光が滲み出した。
一つ、また一つ。
それは獲物を追い詰める狼の目じゃあねえ。
不必要になったゴミを掃き出す、冷徹な役人の光だ。
(激しく畳を叩きながら)
『警察だ! 全員動くな!』
拡声器の怒声が森を裂く。
だが、切仁の身体はもう止まらねえ。退路を断たれ、追い詰められた獣たちが、互いの喉元に牙を立てる!
怒号! 金属音! 肉を打つ鈍い音!
切仁は、血まみれになりながら敵の親分をねじ伏せていた。
重症の親分が救急車へ運び込まれ、舎弟たちが次々と手錠をかけられていく。
その阿鼻叫喚の渦中で、切仁はふと、遠く離れた事務所の明かりを想った……。
(一転、静まり返った事務所。扇子をコーヒーカップに見立てて)
……同じ頃。
渋谷寅吉は、組事務所の窓から、静まり返った夜の街を見下ろしていた。
机の上、警察の幹部に渡した『情報』のコピー元が、虚しい静寂の中に置かれている。
今夜、両方の組が消える。
切仁が血を流し、プライドを懸けて戦っているその瞬間、
自分は書類上の『事後処理』を済ませる役を、自ら選んだんだ。
『……悪く思わないでくれよ』
寅吉は、一口もつけていない冷めたコーヒーを見つめ、指先でカップの縁をなぞった。
憧れた男の『なれのはて』を、自分は特等席で見物している。
拳を交わすことも、魂を削り合うこともねえ。
ただ、法と金という『ルール』に従って、古い役者を舞台から引きずり下ろしただけだ。
『ハイ、お疲れちゃん……』
自嘲気味に呟いた言葉は、誰に届くこともなく、空調の音に消えた。
神宮の森じゃあ、切仁を乗せたパトカーのドアが、
重く、無慈悲に、ガチャンと閉まる音が響いておりました……」
第三十七回 鉄格子の残響
札月師匠は、寂しげに笑って、膝の上の扇子をいとおしむように、そっとなでた。
先ほどまでの凄みは消え、そこにはただ、長い年月を生き抜いた一人の老人の深い溜息があった。
(遠く、どこか懐かしい空を見上げるような目で)
「……塀の中ってのは、時計の針が錆びついたような場所でございまして。
一年の刑期なんてのは、シャバの勢いがありゃあ一瞬の夢のようなもんですが……
番号で呼ばれ、ただの肉の塊として扱われる日々ってのは、男の芯を、じわじわ……じわじわと削っていくもんで。
(看守の冷たい声色で)
『五六四八番、前へ!』
点呼の声に、切仁は無言で応じる。
『五六四八、……、殺し屋か。かっこいいねぇ』
隣の囚人がニヤリと笑う。だが、切仁はその視線を追わなかった。
かつての四谷切仁は、もう、ここにはいねえ。
ただ、一分一秒を『我慢』という名の重石で潰していくだけの……ただの『番号』があるだけだ。
一年後。
出所の朝、法務教官が切仁の背中に、冷たい言葉を投げた。
『……迎えは期待するな。お前の組は解散した。お前を恨んでいる連中も多い。気を付けるんだな』
(重い門が開く「ギィィ……」という音をさせて)
重い鉄門が開く。
アスファルトの熱気が、一年ぶりに鼻腔を突いた。
教官の言葉通り、そこには誰の影もねえ。……たった一人を除いて。
『……四谷さん』
近づいてきたのは、見違えるほど上質な背広に身を包んだ、渋谷寅吉だ。
その瞳に、かつてのギラついた敵意はねえ。
ただ、静かな勝ち誇りの色が、澱のように沈んでいる。
『……場所を、変えませんか』
(一転、静かなジャズが流れる喫茶店の空気)
……ジャズ喫茶。細い葉巻の甘い香りが、古いスピーカーから流れる旋律に混じる。
寅吉は、テーブルに分厚い封筒を置いた。
かつて切仁が、女たちの胸元にねじ込んでいたあの札束と同じ……いやな厚みだ。
『俺は今、貸金業をやってます。免許も持った、まっとうな看板だ』
寅吉は指先でグラスを揺らす。
カラン……。
その氷の音が、あのシャンパンタワーの狂乱を、遠く呼び起こす。
『もう、ヤクザの時代じゃない。……どうです、俺を手伝いませんか。これは、支度金です』
切仁は、その封筒を見なかった。
ただ、窓の外を流れる、自分を置き去りにした街の景色を見つめていた。
沈黙が、音楽を塗りつぶしていく。
切仁は……(扇子を使って封筒を押し戻す仕草)
その『厚み』を、指先でスッと押し返した。
一言も発さず、椅子を引く。
背後で止まった寅吉の視線を振り払うように……彼は店を出た。
どこへ行く当ても、ねえのにな……」
第三十八回 泥の中の光
「朝四時。 新聞のインクの匂いと、冷え切った空気。 昼、蕎麦の出汁の香りに包まれて、階段を駆け上がる。 夜、赤く光る誘導灯を振り、埃にまみれてアスファルトを叩く。
四畳半、風呂なし、共同トイレ。 かつての一晩のチップで一生暮らせるような部屋で、切仁は泥のように眠る。
銭湯の湯気に、背中の彫り物が浮かぶ。 周りの客が、露骨に顔をしかめて距離を置く。 切仁はその視線を受け流し、ただ、自分の身体を削るように洗った。
いつか、誰の目も気にせず、自分一人で浸かれる小さな風呂のある部屋へ。
『……ふぅ』
一日の終わりに、アパートの窓から見上げる夜空。 あのシャンパンの泡のように消えていった煌びやかな過去は、もうどこにもない。 ただ、工事現場で汚れた爪の間の砂を眺めながら、切仁は確かに、自分の足でこの時代を踏みしめていた」
老落語家は、懐から手拭いを取り出し、高座の縁をひとなでしました。
「……さて、どん底まで落ちた男が、どういうわけか、寄席という吹き溜まりに流れ着く。上野は御徒町、蕎麦屋の出前箱を提げた切仁が、楽屋の暖簾をくぐるところから、噺がまた動き始めます」
第三十九回 湯気の向こう側
「楽屋の隅。 『おう、すまねえな』 怠毛家勤務朗(なまけや きんむろう)が、座布団の上で猫背を揺らした。 周りの若手は、コンビニの袋をガサつかせている。そんな中、師匠だけは頑なに、伸びきった暖簾の向こう側――楽屋で『出前』を求めた。
切仁は無言で、丼を置く。 木の蓋を外すと、白く柔らかな湯気が師匠の顔を包んだ。 師匠の手が動く。七味をさっと振り、箸で二、三回、勢いよくたぐり込む。 ズズッ。 喉を鳴らしてつゆを啜ると、別添えの刻みネギを一度に放り込んだ。
『……これが『かけ蕎麦二刀流』よ』
切仁は、帰るのを忘れて見入っていた。 三分。 一滴のつゆも残さず、丼が空になる。 迷いのない、完成された『動作』がそこにあった。
『師匠の食べっぷり……惚れ惚れします』
『これ、金取って見せる芸だぜ。得したな、あんた』
師匠は楊枝をくわえ、切仁を値踏みするように薄目で見た。 その視線が、切仁の首筋に滲んだ『かつての影』をかすめる。
『……師匠。私、落語家になれませんかね』
間。 三味線の音が、遠くの舞台から微かに漏れてくる。 師匠はうーんと唸り、天井を仰いだ。
『あんた、いくつだ』
『三十五です』
『前座で五年、二つ目十年。真打の篩にかけられて……真っ当にやって、真打になれるのは五十。それで10年やれば、普通は引退だよ」
切仁は一歩踏み出し、重い沈黙を裂くように、シャツの袖をまくり上げた。 そこには、昼の光を拒むような、見事な彫り物がのたうっている。
『……一気にシャンパンタワーを積み上げて、一晩で崩しました』
切仁の瞳には、かつての虚無ではなく、静かな決意が宿っていた。
『暑くなると、出前もできなくなります。半袖の隙間からこれが見えると、堅気さんは顔を顰める。……一から、積み上げたいんです』
師匠は、まくられた腕をじっと見つめ、それから切仁の目を射抜いた。 空気の揺れが、止まる。
『……わかった。蕎麦屋、休みの日に来な。前座からだぞ』
切仁は、深く頭を下げた。 刺青に隠された皮膚が、初めて新しい空気に触れたような気がした」
老落語家は、満足げに目を細めると、扇子でトントンと膝を叩きました。
「……さて、三十五からの修業ってえのは、並大抵じゃございません。昨日まで『殺し屋』なんて呼ばれてた男が、十代の小僧に『おい、前座!』なんて怒鳴られる。それでも、男は食らいついた。一段ずつ、今度は崩れねえように、慎重にタワーを積み上げていったんでございます」
第四十回 狼の皮を脱ぐ
「高座の下、暗がり。 五分前。切仁の背筋は、現役の頃のように硬く凍りついていた。
『……まただ。四谷、顔が怖いよ』
勤務朗師匠のしわがれた声が届く。 切仁が鏡を見ると、そこには無意識に眉間に皺を寄せ、獲物を狙う狼のような眼光を宿した男がいた。 極道の世界で、彼を幾度も守ってきた『鎧』としての顔。
『アンタ、考え込むと目が据わる。高座でそんなもん見せたら、客は震え上がって逃げちまうよ』
師匠は、火鉢の前で丸くなっている居候の野良猫を指差した。 平和そのものの、間抜けた寝顔。 だが、師匠が猫じゃらしをさっと振った瞬間、猫の瞳は鋭く釣り上がり、牙を剥いて畳に爪を立てた。
『いいかい。これが"現役"だ。でもな、客の前に出る時は、さっきの火鉢の前の顔でいなきゃいけねえ。……ほら、やってみな』
切仁は、深く息を吐いた。 拳を握る力。肩の強張り。奥歯の噛み締め。 それらを一つずつ、剥がれ落ちる鱗のように捨てていく。 何もない。敵もいない。ただ、暖かい火のそばで微睡んでいるだけの……。
『……ふにゃん』
眉間の皺が、ゆっくりと伸びた。 その瞬間、切仁の顔から『四谷』という極道が消え、ただの、少しくたびれた中年男の柔和な面立ちが現れた。
『……いい顔だ。忘れちゃいけないよ』
師匠の言葉が、背中をポンと叩く」
第四十一回 五十歳の幕開け
「二〇二〇年、春。 寄席の表には『真打昇進』の幟が誇らしげに揺れている。
かつての仲間も、舎弟もいない。 渋谷の狂乱も、札束の厚みも、今では遠い前世の出来事のようだ。
切仁は、定紋のついた紋付の袖を通し、ゆっくりと高座へ歩を進めた。 座布団に座り、三つ指をつく。 頭を上げたその顔は、火鉢の前でくつろぐ猫のように、穏やかで、少しだけ可笑しみに満ちていた。
『えー、おめでたい今日の日に……』
第一声。 かつての濁った野太い声ではない、どこか艶のある、風の通るような声。 客席の隅に、背広を完璧に着こなした一人の男――渋谷寅吉が、静かに目頭を押さえているのが見えた。 切仁はそれに気づかぬふりで、ただ、自分だけの新しい物語を語り始めた」
務所河原は、そこで言葉を切り、深々と頭を下げました。 パチン、と扇子を閉じる音が、静まり返った客席に心地よく響きます。
「……これにて、『極道のなれのはて』。一席お付き合い、ありがとうございました、ん?
おっといけない、うっかり話を飛ばしちまいました」
務所河原は、手ぬぐいを広げ、書付をぱらぱらめくり、見つけると合点が入ったという仕草。
「え~、実は前座になってすぐ、杏子という女と所帯をもって子供も生まれた。その子が成人したときゃ60手前の寄席の大看板。弟子もいて、シャンパンタワーみたいな危うい山じゃなく、古いが小さい家ももった。これが崩れねえように、遅咲きの落語家はふにゃりと笑って高座に立つ。あれ、これでお仕舞いですか?そのあとのことなんですが、弟子の一人が落語家やめるっていうんです」
第四十二回 継がれる光と影
「『……師匠、お話しがあります』
稽古場の隅。 二十代の弟子、怠毛家勤務中(なまけやきんむちゅう)が、畳に額を擦りつけたまま動かない。 切仁は、火鉢の猫のような『ふにゃり』とした笑みを浮かべたまま、手元の湯呑みを置いた。
『どうした、次。しくじりか? 女か?』
『……辞めさせてください。この道、先が見えません』
弟子の声は、湿った土のように重い。 今の時代、芸だけで食うのは博打に近い。SNSの数字や、目先の派手な成功。 それらに背を向け、古い噺を繰り返す毎日に、若者の心は磨り減った。
切仁は、無言で立ち上がった。 そして、かつては決して見せなかった――真打になってからは固く封印していた『左腕』を捲り上げる。
『見てみな』
ゆっくりと捲り上げた二の腕に、鮮やかで寂しげな刺青がのぞいた。 弟子の息が止まる。
『俺はな、若いときはこの"絵"を看板にして生きてきた。一夜で数百万を回し、シャンパンを滝のように流した。……だがな、そのタワーが崩れたとき、手元に残ったのは、冷てえ手錠の感触だけだった』
切仁は、窓の外を見た。 そこには、杏子が植えた小さな庭木と、学校から帰ってきた息子の笑い声があった。
『この家も、この家族も、お前という弟子も。全部、一杯ずつ"かけ蕎麦"を啜って、一歩ずつ泥を這って積み上げたもんだ。急いで積み上げたもんは、あっという間に崩れる。だがな、時間をかけて固めた地面は、少々の風じゃ揺らがねえ』
切仁は、弟子の肩に、節くれだった大きな手を置いた。 かつて人を殴り、札束を掴んだ手。 今は、扇子一本で客を笑わせる、優しく温かい手。
『……お前が今見てるのは、まだ地面だ。だが、その足元を固めてる時間は、決して無駄じゃねえ。もう一度、猫の顔をしてみな』
弟子は顔を上げ、師匠の穏やかな、瞳を見つめた。 切仁は、ふにゃりと笑ってみせる。
『……人生、遅咲きの方が、根っこが深いぜ』
老落語家は、今度こそ静かに扇子を置き、幕が下りるのを待つように目を閉じました。
……さて、弟子が思い止まったか、あるいは別の道へ行ったか。それはまた、別の噺。一席お付き合い、ありがとうございました」
ーー続くーー




