19限目 世界寄席〈ワールド・クエスト〉の真打(3)
二月の冷気が箱根の山を白く縁取る午後。箱根湯本演芸場は、今日、特別な熱気に包まれていた。
「明出目家ぷら月(あかでめや・ぷらつき)」こと鎌勝教授の真打披露寄席。異色の経歴を持つ真打の誕生を祝う口上は、つい先ほど五名の出演者による賑やかなやり取りのうちに無事(?)幕を閉じ、場内はいよいよ各人が一席ずつ披露する落語プログラムへと移っていた。
その一番手として、静かに、しかし確かな存在感を放ちながら高座へ歩みを進めたのが、バニャー・タンである。
二〇五〇年度箱根外語大学首席卒業生であり、落語研究会を牽引した部長。先の「早雲寄席」にて明治維新の箱根を活写した新作『山ノ瀬』で客席を震撼させたミャンマーの異才に対し、観客が抱くのは「前座」へのそれではない。一人の表現者に対する、切実なまでの期待だった。
バニャーが座布団に手をつく。客席の手元にあるパンフレットには、彼が今日この高座に懸ける「海の民・モーケン族」の注釈が、静かなプロローグのように記されていた。
◆モーケン族:ミャンマーの「海の民」。アンダマン海に暮らす「シー・ジプシー」。
読み進めるうちに、観客たちは知らぬ間に境界線のない世界へと誘われていく。ーーーそこには「所有」という概念がない。彼らの言語には「私の(My)」を指す言葉が薄く、すべては分かち合うためのものとして存在する。時間さえも、カレンダーの数字ではなく、潮の満ち引きと月の満ち欠けによって刻まれる。ミャンマーとタイの国境を魚のようにすり抜け、国家という枠組みを軽やかに超越する彼らの生き方は、人類学者ジェームズ・C・スコットが提唱した「統治されない芸術」そのものだ。ーーー
ーーーパンフレットの行間からは、潮騒の香りが立ち上るようだった。ーーー死者を舟の形の棺に入れ、海へと還す「流れ」の信仰。だが、その神秘的な物語の背後には、現代という名の冷徹な現実が忍び寄っている。珊瑚の白化、押し寄せるプラスチックのゴミ、そして内戦の銃声に遮られた島々の沈黙。ーーー
「現代の悲劇」を、バニャー・タンはどう語るのか。
出囃子が鳴り響く。その音は、箱根の冷気の中に、遠いアンダマン海の熱気を運んできた。高座に現れたバニャーは、落ち着いた足取りで座布団に歩み寄る。その静かな佇まいは、嵐の前の凪そのものだった。
彼はゆっくりと頭を下げ、そして、顔を上げた。その瞳には、箱根の山ではなく、どこまでも続く青い境界なき海が映っているようであった。
「……およそ、境界というものは、陸(おか)の人間が引いた『迷い』のようなものでございまして」
低く、心地よく響くバニャーの声が、静まり返った場内に溶け出していく。ミャンマーの「現代の悲劇」を直視し、そこから掬い上げられた新作落語がいま、箱根の冬の空気の中に産声を上げた。
第十二回 新作落語:『国境のないゴミの島』
(扇子をさらりと広げ、波の動きを示すように揺らして)
えー、世の中には「海の民」なんてぇ人々がおりまして。ミャンマーのアンダマン海を、家も持たず、舟一艘で渡り歩く。彼らには国境なんて野暮なものぁございません。潮の満ち引きが時計代わり、星の瞬きが道標。そんな一族に、ルウィンという、これまた一風変わった若者がおりました。
このルウィン、海の民のくせに勉強が大好きで、揺れる舟の上で本ばかり読んでいる。ある日、「僕は都会へ行って、文明というやつを学んでくるよ」なんて、意気揚々とヤンゴンだかバンコクだかの街へ出かけたんですが……これが、いけねぇ。
都会ってのは、どうにも窮屈でいけません。右を見ても左を見ても「法律」と「ルール」の回転寿司だ。ルウィンは「物は持ちたくない」という海の民の誇りがありますから、靴も履かなきゃ、服も最低限。すると、街の奴らがこう言いやがる。「おい、あいつを見ろ。靴も履いてない。不潔だ、非常識だ。ルールを守れ!」
ルウィンは困っちまった。「しょうがねえなぁ。服を買うために働いて、その服を置くために家を借りる。……物を持ちたくない人間は、人間じゃないってのかい?」
あんなに憧れた都会に嫌気がさして海へ戻ってみるってえと、今度は海が変わり果てている。青かったはずの海は、陸から流れてきたプラスチックのゴミでいっぱいだった。ルウィンは嘆いたねぇ。「陸の人間は、物は持ちたがるくせに、自分たちのゴミには責任を持たないのか。自分の名前でも書いておけってんだ」
(扇子をノミに見立てて、トントンと打つ仕草)
そこでルウィン、何を思ったか、海に浮いているペットボトルやビーチサンダルをせっせと集め始めた。それをつなぎ合わせて、でっけぇ「浮島」を作っちまった。
不思議なもんで、ゴミの島に海藻がつきゃあ、牡蠣やフジツボがつく。魚が集まってくるから食べ物には困らない。生ゴミなんかは、川の砂と混ぜて島の上に広げて畑にする。するってえと、ゴミの島の上に青々とした野菜が育ち、スプラウト(もやし)が芽を出し、パクチーが風に揺れるようになると、もうこれは「海の上の村」だ。島はどんどん増えていき、ルウィンは奥さんをもらって、子供も生まれ、ゴミだったはずの浮島は立派な村になっちまった。
「いいかい、これが僕の新しい『舟』だ。ゴミを島に変えて、海を耕すんだ」
そこへ、噂を聞きつけた政府の役人が、立派な船に乗ってやってきた。「こら、ルウィン! 勝手に島を作るな! 海に島ができちまうと、国境線が変わってしまうじゃないか。島ってのはな、国の領土なんだ、人間の持ち物なんだよ!」
ルウィンは、さざ波のような涼しい顔で答えます。「役人さん、妙なことを言いますね。これは『島』じゃなくて、あんたたちが捨てた『ゴミ』ですよ。ゴミを捨てるのは自由なんでしょう?」
「いや、ゴミを捨てるのは不法投棄だが……これだけデカくなると、もはや島だ。これはどこの国の持ち物にするつもりだ?」
ルウィンは、ニヤリと笑った。「役人さん、このゴミを見てくださいよ。こっちのボトルはタイ語、こっちはビルマ語、こっちは英語だ。ゴミには国籍がない。我らモーケンの民と同じですよ。だからこの島は誰のものでもない。どこの国の漁師だって休んでいいし、魚を獲ってもいい。国境のない島ですよ」
役人は顔を真っ赤にして、「屁理屈を言うな! 許可なくこんなものを浮かべておけるか!」
ルウィンは静かに、刺すように言い返した。「じゃあ、役人さん。これがダメだってんなら、今すぐ国でこのゴミを、全部引き取ってください。あんたたちが捨てたもんだ。ついでに、これからゴミを一つも出さないように国で決めてください。そうすりゃ、僕だって島なんて作りませんよ」
「……え、いや、それは……ゴミを出さないなんてのは、私一人の権限では……役所に持ち帰りまして後日ご回答申しあげます……」
役人はブツブツ言いながら、帰っていきました。あんまり目立つと、しまいにゃ軍隊でも連れてくるってえと面倒なんで、ルウィンは更にずうっと、沖のほうへ島を移動させました。
それから数日。ルウィンのところに、日本人のビジネスマンが、飛行船に乗ってやってきた。
「ルウィンさん、あのゴミの島についてですがね……」
「おや、あなたは何をご所望ですか? 国境ですか? それともゴミの回収ですか?」
「いえ、共同プロジェクトのご提案ですよ。魚がよく獲れるし、海もきれいになった。もっと拡大して『海のホテル』を造り、世界中から観光客を集めよう、という相談に参りまして」
「へぇ、今度は世界的なリゾート計画ですか。でも私たちは今夜のおかずが獲れれば十分。……全く、プラスチックゴミがお金に変わるなんて、波に揺られたゴミみたいに『浮っついて』ますね。お断りしますよ。私たちは―――」
(扇子をピシャリと閉じて)
「『海の民、モーケン(儲けん)』って言われてますんでーーーお後がよろしいようで。」
第十三回 『国境のないゴミの島』講評
(深々と頭を下げ、高座に別れを告げるバニャー・タン。その一礼には、日本での学生生活、落研での日々、そして最後となるこの高座に己のすべてを出し切ったという、清々しくも重厚な充足感が籠もっていた。
彼が立ち上がると同時に、ミャンマーの伝統的な音階を三味線と太鼓の軽妙なリズムでアレンジした出囃子が鳴り響く。それは、これまで部長として落研を牽引してきた彼への、後輩たちからの感謝と、新たな旅立ちを祝福する瑞々しい旋律だった。
客席からは、見事な一番手を務めた異才に対し、惜しみない拍手と温かな笑い声が送られる。心地よい熱気を残したまま、バニャーは一歩一歩、その感触を確かめるように袖へと消えた。演芸場の空気は十分に温まり、この後に続く「真打」四人の高座への期待が、静かに、しかし確実に膨らんでいった。)
「バニャー先輩……また伝説を作っちゃいましたね」
堂島剛が、興奮を抑えきれない声で囁く。
「法律を振りかざして威張り散らすだけで、結局ゴミ一つ片付けられない役人。それに、環境問題をエサにしてすぐに金儲けを企むビジネスマン……。あの痛烈な皮肉、今の僕たちに一番刺さりましたよ」
客席の最前列では、眞栄田豪姫教授が満足げに深く椅子に身を沈めていた。
彼女は、常人を遥かに凌駕する読書量と、一度目を通せば決して忘れない驚異的な記憶力の持ち主である。高座から放たれた言葉の一つひとつを、脳内の巨大なアーカイブに瞬時に照らし合わせ、その真意を解体していく。
彼女は細い指先を優雅に動かし、客席にいる学生たちに、今日この瞬間に学ぶべき「切り口」を示した。
「いい? 注目すべきは、彼らがいつだって『論点ずらし』と『利益誘導』の達人であるという点よ。ルウィンの台詞は、現代社会の欺瞞を鮮やかに切り裂くための鋭いメスなの」
教授は、その理知的な双眸をさらに細め、高座の余韻の奥底を見据える。
「モーケンの民はね、水中でも瞳孔を収縮させることができ、普通の人の約二倍も鮮明に海中が見えると言われているわ。スウェーデンの研究でも証明されている科学的な事実。……濁った海の中でも獲物を見逃さないあの瞳なら、複雑に絡み合った人間の思惑や、嘘の上塗りのような現代のルールなんて、いとも簡単に見透かしてしまう。バニャーが描こうとしたのは、その『見透かす力』なのよ」
高座を下りたバニャーと目が合う。教授は小さく、だが確かな賛辞を込めて、優美に顎を引いてみせた。「まあ、サゲが地口(ダジャレ)というところが、やはり前座という感じよね」
彼女は扇子で口元を隠しながらも、その眼光は鋭い。
「海に生きる民族、文明の排他性、そして環境問題……。これだけの重層的なテーマを、最後は商業主義への批判という一面的な答えでまとめてしまうのは、少し勿体ない気がするわ」
すぐ隣に座る節津京香が、興味深そうに豪姫を見つめる。
「たとえば、劇中にあった『奥さんをもらって』という部分。あそこを、もっと濃密な駆け落ち話に膨らませることもできるはずよ。モーケン族にはね、倫ならぬ恋で結ばれた漁師の男と女王の妹という、切なくも激しい失楽園のストーリーが眠っているの。それを現代のゴミの島と対比させれば、もっと深い情念の物語になったでしょうに」
京香の瞳が、一気に創作の熱を帯びて身を乗り出した。
「……そっち方面で掘り下げた噺、絶対に反響があると思います! 教授、私、そのモーケン族のラブストーリーを軸に、別の新作落語を書いてみたいわーーーバニャー部長に、この設定の版権許可をもらえないかしら…」
「意外と、すぐにOKが出るかもしれないよ」
脇から声をかけたのは、古葉だった。彼は悪戯っぽく口角を上げ、京香を振り返る。
「節津、しっかり許可(キョウカ)を取ってね」
京香は一瞬の沈黙を置き、氷のような視線を古葉に投げた。
「……寒いわねえ。高座の熱まで冷めるようなダジャレだわ」
「おや、厳しいね」
古葉が肩をすくめる。
「落語研究会としては、これくらいの韻(ライム)は踏んでおかないと」
「そういうのは、高座の上だけで十分よ」
京香は手厳しい一言で切り捨てると、再び舞台袖へと視線を戻した。
高座の上では、真打の登場を知らせる一番太鼓が鳴り響こうとしている。バニャーが提示した「海の民」の物語は、こうして早くも、次の世代のクリエイターたちの手によって、新たな形へと変貌を遂げようとしていた。
ーー続くーー




