表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
倫理学:女王様の特別講義~眞栄田豪姫の灼熱講話録  作者: 和子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/26

18限目 世界寄席〈ワールド・クエスト〉の真打(2)


第六回 遅れてきた真打


芦ノ湖の水面が、低く唸った。


冬の湖は金属のように冷たく、空を映して沈黙している。そこへ影が差し、次の瞬間、白い腹を見せた硬式飛行艇が水を割った。着水の衝撃は音より先に波紋となって広がり、桟橋の杭を軽く叩いた。


係留マニュピレータが伸びる。無機質な腕が、慣れた仕草で機体を抱え、引き寄せる。きし、と桟橋が鳴いた。


乗客たちが吐き出される。

芦ノ湖の桟橋は、吐く息が白くほどけるほど冷えていた。


マフラーに顔をうずめた日本人の家族が肩を寄せ合い、足踏みをする。その脇を、半袖Tシャツにバミューダパンツの外国人が、赤い顔で笑いながら通り過ぎた。湖風に腕の産毛をなぶられながらも、寒さを知らない身体のように、歩幅は大きく、足取りは軽い。


同じ空気の中にいながら、別の季節を生きている。そんなずれが、桟橋の上に小さな違和感を残した。コートの襟を立てたビジネスマンは、視線だけが前へ前へと急いでいる。研究都市に勤務しているのか、商談か。足取りがそれを語っていた。


その流れの、最後尾。


紋付の黒が、毛皮のロングコートに飲み込まれている。

(つば)の大きな帽子が影を落とし、歩くたびに揺れる。遠目には、スクリーンから抜け出した往年のハリウッド女優のようだった。


務諾威笑来(むだくいわらく)


彼は桟橋に足を下ろした瞬間、湖を一瞥した。水面の温度、風の向き、雲の速さ。それだけで十分だったらしい。


「予定通りね」


低く、乾いた声。

ロレックスのウオッチは(てのひ)(らがわ)につけられている。袖をまくらず、無駄な動作もない。ちらりと見て、時刻を確認するだけ。


「この歳になるとね」


帽子の影で口元がわずかに動く。


「無理、無駄、ムラは全部禁止」


タクシー乗り場の方向を見据えたまま、言葉は続いた。


「効率よく仕事して――」


歩き出す、競歩の選手のように、重心だけが前へ進む。


「今日は札月(ふだつき)師匠も、安全につれて帰らないと」


湖畔の冷気がコートの裾を引いたが、足取りは乱れない。

観光客のざわめきが背後で溶け、彼女の周囲だけが、舞台袖のように静まり返る。


遅れてきた真打は、すでに次の高座へ向かっていた。



第七回 兄弟子からの祝福


湯本演芸場の楽屋に、湯気の残り香があった。

畳にしみた線香と、外から流れ込む硫黄の匂いが、言葉より先に場を温めている。


鎌勝大樹(かまがちだいき)は、到着した務諾威笑来の両手を掴んで、背筋を正した。


「先日は……開設記念にお越しいただき、ありがとうございました」


声は低く、しかし芯があった。

視線の先、弟弟子と目をかわした笑来は、頬を紅く染め、口角だけが少し上がった。


「開設記念? ああ、あれね」


笑顔でほころんだ唇を、きゅっと引き締める。


「聞いたわよ。連日満員御礼。箱根の山も、ずいぶん賑やかになったじゃない」


鎌勝の喉が、小さく鳴った。

感謝と、わずかな誇りが、同じ場所で絡まっている。


笑来(わらく)兄さんのお力添えあってのことです」


その「兄さん」という呼び方に、笑来の肩が一瞬、揺れた。


「それよりさ」


笑来は嬉しそうに鎌勝を真正面から見た。


「ピロ月が、ぷら月?」


言葉の途中で、鼻で息を吐く。


「びっくりポンよ。真打昇進? しかも二つ目すっ飛ばして? あたし、湯に当たったかと思ったわ」


鎌勝は、少し照れくさそうに目を伏せる。


「札月師匠の……格別のお計らいです」


そう言って、苦笑する。


「裏を返せば、間を飛び越した“間抜け”な落語家、ということなんでしょう」


楽屋裏の畳に落ちた影が、ふっと震えた。


「ふふ」


笑来が、声を殺して笑った。


「あんた、相変わらずね」


鏡越しに視線が絡む。


「最初に見たときはさ、東大卒なんて聞いて、負けるもんですかって、内心メラメラよ」


扇子で肩を軽く叩く。


「でも、あんた、ほんとに伸びた。高座の上で、息が合うようになってきて……ああ、いつか追い抜かれるなって、ちゃんと覚悟もしてたの」


間。

楽屋の外で、拍子木の音が一つ、遠く鳴った。


「それがさ」


笑来は、扇子を(たもと)に入れた。


「三年で、前座のまま辞めるんだもの」


視線が、畳に落ちる。


「正直、拍子抜けよ・・・」


沈黙が、湯気のように立ち上る。

鎌勝は、何も聞かずとも分かっていた。


ただ、同門の後輩の晴れ姿を心から祝いに訪れたということを。

しかし、芸に対する熱は、まだ残っていた。



第八回 真打昇進披露会の進行


高座に、五つの座布団。

藍、藍、朱、藍、藍。

色の差より、沈黙の重なりが目に入る。


客席が落ち着くまで、誰も動かない。

羽織の裏が擦れ、どこかで息が飲まれる。


左端、下手に座る黒紋付の若い外国人が、深く礼をして最初の口上を始める。

背筋は真っ直ぐだが、硬すぎない。

視線は高座を見ず、まず客席を受け止める。


一拍。


「本日は」


声は低く、しかし揺れない。


「明出目家ぷら月師匠の真打昇進披露会開催を前にいたしまして」


言葉が、丁寧に並べられていく。

急がない。置いていかない。


「式進行を拝命いたしました」


扇子が胸の高さで止まる。


「私、バニャー・タンより」


名乗りに、客席の空気がわずかに引き締まる。


「まずは、お祝いの言葉を申し上げます」


高座の三人に、視線が流れる。


「祝着至極の場におかれ」


務所河原(むしょがわら)札月(ふだつき)は、目を伏せたまま聞いている。

口元に、かすかな皺。


「師匠方が一同に会され」


務諾威笑来(むだくいわらく)が、ゆっくりと体を司会に向ける。

紅の爪が、照明を受けて瞬く。


「まさに瑞気集門を」


明出目家(あかでめや)ぷら(つき)は、正面を見据えたまま動かない。

呼吸だけが、深く、静かだ。


「目の当たりにする思いでございます」


最後の言葉が、畳に落ちる。

反響はない。

ただ、場が一段、重くなる。


バニャー・タンは、深く一礼する。

角度は正確で、長すぎない。


扇子を畳む音が、ひとつ。

それを合図に、空気が動き出す。


三人の落語家が、同じ時間を生きてきたこと。

そして今、同じ場所に座っていること。


この箱根湯本演芸場に集まったすべての人たちに、

その事実だけが、はっきりと伝わっていた。



第九回 真打披露口上次第


高座の座布団が、きしりと鳴る。

右端、上手。

務諾威笑来が、静かに背筋を伸ばした。


客席を見渡す。

視線は柔らかいが、逃げ場を与えない。


一拍。


「務諾威笑来と申します」

挿絵(By みてみん)

声は低く、よく通る。

外の雨の気配まで、引き寄せるように。


「本日はお足元の悪い中」


心臓破りの坂。

誰かが、ふっと息を吐く。


「不肖の弟弟子の」


そこで、ほんのわずか、間が落ちる。

弟弟子。

言葉が、胸に沈む。


「目出度い席にお集まりいただき」


扇子が、膝の上で止まる。


「感謝の言葉もありません」


客席の空気が、あたたかくなる。


「同じ寄席で稽古を受け」


懐かしさが、畳の匂いと混じる。


「働いてきた前座が」


ぷら月の肩が、わずかに上下する。


「今こうして」


笑来は、ちらりと隣を見る。


「真打披露となりましたのも」


声が、少しだけ低くなる。


「ひとえに皆々様のお力添えによるものと」


深く、頭を下げる。


「厚く御礼申し上げます」


礼が終わっても、誰も動かない。

余韻だけが、場に残る。


次。

下手(しもて)、バニャーとぷら月の間。


浦部朱元(うらべあけもと)が、ゆっくりと息を吸う。


「東洋思想史と北京語の指導を拝命しております」


教授の声だ。

だが、教壇のそれより、ずっと柔らかい。


「浦部朱元です」


年輪のある目が、ぷら月に向く。


「歳は」


小さく、間。


「鎌勝教授の十歳上になりますが」


笑いは起きない。

代わりに、納得が沈む。


「この方の見識は」


言葉が、慎重に選ばれる。


「広く、素晴らしく」


客席が、静かにうなずく。


「年長である私が」


視線が下がる。


「教えを乞うている身であり」


ぷら月は、目を伏せたまま動かない。


「こうしてこの場に置いていただけることを」


浦部は、少しだけ声を落とす。


「無上の喜びと」


息を吸う。


「考えております」


間。

重みのある沈黙。


「大学教授と」


一つ目の山。


「真打落語家という」


二つ目の山。


「二つの山に登頂した」


言葉が、静かに積み上がる。


「まさに」


ほんの一拍。


「世界寄席」


異国の音が混じる。


「ワールド・クエストの名に」


場の空気が、わずかに揺れる。


「ふさわしい偉大な人物であります」


誇張はない。

断定だけがある。


「今後も」


視線が、未来を指す。


「学界、落語界で」


二つの世界が、重なる。


「大きな業績を残されることを」


誰も、否定しない。


「世界が待ち望んでいるでしょう」


一礼。


「真打昇進」


声が、締まる。


(まこと)に、おめでとうございます」


拍手は、まだ起きない。

その前に、最後の人がいる。


上手(かみて)

笑来とぷら月の間。


務所河原札月が、立ち上がる。


視線は、客席ではない。

少し、内側。


「本日は」


声が、低い。


「不肖の私の」


言葉が、かすかに擦れる。


「過ぎたる宝」


一拍。


「師匠と呼ばれるのも」


自嘲でも、照れでもない。


「気恥ずかしい」


空気が、固まる。


「何を隠そう」


札月は、左肩に手をかける。


「私は」


衣擦れの音。


「前科者」


場が、息を止める。


「極道でございます」


左肩が、ゆっくりとめくられる。


白い肌。

その下に、黒。


墨が、照明を吸い込む。


龍か、蛇か。

誰にも、全貌はわからない。


ただ――

逃げない線。

戻らない色。


札月は、まっすぐ前を向いている。


そして体を、弟子たちへ向ける。


袖を下ろし、座布団に座り直す。何も、言わない。


だが、高座は語っていた。


過去も、誇りも、

そして――

託す覚悟も。


戸惑いを隠せず。拍手が、遅れて波のように立ち上がった。



第十回 全てを白日の下に


朝の皿は、白く、よく乾いていた。

トングが鳴り、皿に落ちる音が規則正しく続く。

スクランブルエッグの湯気。焼いたベーコンの脂。

オレンジを切るナイフの、軽い抵抗。


三山剣斗は、いつもより多めにコーヒーを注いだ。

黒が、カップの縁で揺れる。


部屋に戻る。

カーテン越しの光は、もう言い訳を許さない色だ。

チェックアウトの支度を終え、スーツケースを閉める音が一度だけ鳴る。


「世理」


名前を呼ぶと、孫は振り向いた。

言葉は、そこで止めた。


祖父は袖をまくる。

布が、肘を越える。

さらに、肩まで。


光が、線を拾う。

肩から腕へ、消えない色。

消そうとしなかった過去。


世理は、瞬きをひとつ。


「知ってた」


声は、静かだった。


「お父さんから、聞いたことがある」


視線は、刺青ではなく、顔にある。


「だから、お爺ちゃん、一緒にお風呂入らないんだって」


それだけで、充分だった。


一年。

塀の中。

鍵の音。

名前の代わりに番号で呼ばれた日々。


言葉にしなくても、世理は待っていた。

最後まで。


「でも」


世理は、少しだけ笑った。


「世理にとっては」


真っ直ぐな視線。


「大好きな」


一筋の涙。


「たった一人のお爺ちゃんだから」


胸の奥が、ゆっくりとほどける。


「一緒に箱根の坂道、走れたでしょ」


トライアスロンの最終レース。

息の白さ。

脚が重くなっても、並んで登った坂。


「一生の思い出だよ・・・」


その言葉が、すべてを包んだ。


——


今。

客席。


世理は、中央より少し後ろ。

背筋を伸ばし、高座を見ている。


ざわめきが、端のほうで揺れた。

好奇心か、噂か。


世理の右。

江藤裕也が、何も言わず、肩を寄せる。


左。

マーゴット・ディアス。

脚を組み、地勢学の境界線は何者をも通さない意思を示し、視線を動かさない。


前列には、古葉。

その隣に、節津。

通路側に、堂島。


誰も、声を上げない。

誰も、見逃さない。


鉄壁だった。


札月は、高座の上で、その一角を見た。

世理の顔は、揺れていない。


(良い友人にも、恵まれている)


その事実が、胸に落ちる。


刺青も。

過去も。

消えない。


だが——

それが、孫を決して傷つける事はない。


そのことを、今、知った。


必死に生きてきた日々。

逃げずに積み重ねた時間。


それが、ここにつながっている。


札月は、そっと息を吐いた。

救われる、という言葉が、ようやく意味を持った。


高座の明かりは、変わらない。

だが、世界は、少しだけ明るかった。



第十一回 新たなる闘志


その後、札月は、珍しく長く語った。

語りすぎて、途中で自分でも「おっと」と間を置くほどに。


若い世代がどうだとか、

大地に種をまくとか、

大樹がどう伸びるとか。


比喩がどんどん増えて、もはや森が一つできそうだったが、客席はなぜか真剣に聞いている。

ぷら月は正座のまま、首をすくめる。


(ああ、師匠、今日はちょっと気合入りすぎだな)


そう思った瞬間、札月の話はぴたりと終わった。

まるで「ここがオチだ」と誰かに合図されたように。


そして。


「では最後に」


ぷら月が、立つ。


空気が変わる。

ここからは、主役の時間だ。


「師匠」


一礼。


「私は、務所河原札月の弟子になれたことを、人生最大の幸運だと思っています」


拍手が起きかけ、しかしぷら月はそれを手で制した。


「……しかし」


来た。


「学生諸君。師匠や上司にするならね、こういう人が理想だよ」


ざわ。


「まず、頭ごなしに叱らない」


笑来が、横目でちらりと見る。


「口やかましく、あれこれ指図しない」


笑来、完全にぷら月のほうを見て睨む。


「やり方は黙って、体で示す」


――ぷっつん!。


「……あら?」


ぷら月、わざとらしく首を傾げる。


「ちょっと待ちなさいよ!!」


炸裂。


「それ、私の悪口でしょ!?どう考えても!!」


笑来、前のめり。


「だいたいアンタ、前座の頃どれだけ世話やかせたと思ってんのよ!」


「・・・兄さん、今はオレの祝賀会!」


「だから言ってるのよ!!」


矛先は札月へ。


「師匠も!甘やかしすぎ!!」


札月、即座に両手の平を笑来に向け、完全防御姿勢。


「いやいやいや、私は関係ない!」


客席、すでに大崩壊。


司会のバニャー、下手(しもて)で完全にフリーズ。

(台本に……無い……)

とても、これを纏めるのはムリというもの―――。


ぷら月、深く息を吸う。


「ええい!!」


高音。


「やかましいわぁっ!!!」


空気が一瞬で冷え、次の瞬間、真逆に跳ねる。


インテリが豹変する。


「だいたい今日はなぁ!!」


声が低くなる。


「オレの!!」


一歩前へ。


「真打昇進祝賀会じゃあ!!!」


遠山の金さん、降臨。


白目。

狂気。

理知的東大卒の面影、消失。


「ジタバタすんじゃねえわああ!!」


客席、腹を抱える。


江藤と古葉、同時に目配せ。


(出た、キレ芸)

(教授の必殺技)


「とにかく、だ!!」


やっと静まる場内。


その瞬間。


花束。


世理が高座の前に現れ、客席に向かって一礼する。


「鎌勝教授!!真打昇進、おめでとうございます!!」


叫ぶとそのまま、後方、高座へ向けて。ブーケトス!!


ぷら月、反射神経だけでキャッチ。


「……取れた」


間。


「今日は!!」


「このへんに!!!」


「しといたるわあああ!!!」


全員、ズッコーーー!!


緞帳(どんちょう)、降下。


三味線。

太鼓。

拍手、爆発。


笑いが、いつまでも残っていた。


――こうして、

真打は生まれ、

物語は、最高にうるさく、幕を閉じた。

ーー続くーー

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ