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倫理学:女王様の特別講義~眞栄田豪姫の灼熱講話録  作者: 和子


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17/26

17限目 世界寄席〈ワールド・クエスト〉の真打(1)


二〇〇二年の晩秋。

闇がまだ部屋の隅々に貼りついている時刻、三山剣斗(みやまはやと)は、薄い布団の中で重たい瞼を指で引き剥がすように目を開けた。


息を吸うと、冷気が喉の奥で小さく鳴った。逃げかけた体温を繋ぎ止めるように、肩をすぼめて一度、強く震える。布団はすでに体の形を忘れ、畳の冷えがじかに背中へ伝わってくる。腰が軋み、関節が遅れて抗議した。


「……よいしょ」


声は畳に落ちて、すぐに消えた。

深夜まで続いた建設現場の埃が、まだ肺の奥に残っている。指先にはコンクリートのざらつき。洗っても洗っても、爪の縁に白く残る。


他に誰もいない六畳間。

時計を見なくてもいい。身体が次の動きを知っている。新聞の束、配達、自転車のペダル。そのあと、ほんの短い眠りを挟んで、昼時には蕎麦屋の出前注文に追い立てられる。湯気、つゆの匂い、空腹と時間に背中を押されて走り回る昼。


今はまだ、その前だ。


立ち上がると、床の冷たさが足裏に噛みついた。廊下は薄暗く、蛍光灯が低く唸っている。壁紙の継ぎ目がぼんやりと浮かび、歩くたびに体の奥で何かが鳴る。


無意識のまま、足は廊下の奥へ向かう。

トイレのドアノブは金属の冷えを裏切らない。触れた指が一瞬、ためらい、それでも回す。


外では、まだ夜が粘っている。

剣斗は何も考えず、水を流す音だけを求めて、静かにドアを押した。



第一回 暗い闇の中

朝、最初の仕事は暗いうちからの新聞配達だ。

挿絵(By みてみん)

毎日100件、一時間半程で配り終える。


配達所の裏口で、剣斗は自転車を止めた。

手袋を外すと、指先に夜明けの湿り気が残っている。帰って布団に潜れば、そのまま落ちてしまうはずだった。だが、作業場壁際のラックに差し込まれた閲覧用新聞が数部、目の端に引っかかった。


一紙、また一紙。

紙の擦れる音が、眠気を削る。インクの匂いが鼻に残り、活字が視界に張りつく。頁をめくる指が止まらない。ふと時計に目をやると、ずいぶん時間がたっていた。


九時半。


剣斗は息を呑み、新聞を戻した。

外へ飛び出すと、朝の空気が一気に肺を満たす。ペダルを踏み、電車に乗り、揺られる二十分。ドアが開いた瞬間、身体が先に走り出していた。


暖簾をくぐると、蕎麦の店はまだ静かだった。

「すみません」

声だけが先に転がり、返事は湯気の向こうで溶けた。


出前の箱は壁に掛かったまま。代わりに、まな板が待っている。玉ねぎを半分に割ると、刃が白い層を滑り、目の奥がじんと熱くなる。にんじんは乾いた音を立てて細く崩れ、刻むたびに甘い匂いが立った。


油の準備、衣の粉。

小さな器に、こまごまとした具が並んでいく。指は止まらない。眠気は包丁の先で削がれていく。


奥の鍋から、低く、深い香りが漂ってきた。

鰹節が踊り、昆布が沈む。主人は黙ったまま、柄杓を動かす。湯の揺れだけが、味を決めている。その輪の中へ、誰も足を踏み入れない。


壁際には、蕎麦とうどんの玉が整列している。白く、丸く、息を潜めている。やがて昼が来れば、湯に放たれ、器に収まり、街へ運ばれていく。


暖簾の外で、通りがざわめき始めた。

剣斗は包丁を置き、手を拭く。

次は、自分の番だ。


------


気づくと白い天井が、静かに呼吸している。

三山剣斗は、そこでようやく瞼を開いた。布団は軽く、洗剤の匂いが微かに残る。指を動かすと、指先に皺の感触。昔の、薄い布団とも、湿った畳とも違う。


一度、瞬きをする。

頭の奥に、夜明け前の冷気や、玉ねぎを刻む音が、ふっと浮かんでは消える。走り去る自転車。新聞紙の擦れる音。湯気。油。——すぐに、白に溶けた。


枕元の時計が、かすかに秒を刻んでいる。

七時少し前。


部屋の奥、ソファベッドに丸まった影がある。ブランケットから覗く黒髪が、規則正しく上下する。寝息が、かすかに空調の音と混じる。昨日の水の冷たさと、アスファルトの熱が、まだその体に残っているはずだ。


剣斗は孫を起こさぬよう、喉を鳴らさずに息を吐いた。

「……」


声にはならない。

椅子の背に掛けた上着、整えられた革靴。ホテルの部屋はきれいすぎるほど整っていて、昨夜のざわめきが嘘のようだ。警察署の白い光、金属の机、名前を呼ばれる音——それらは、もう角が取れている。


ベッドの縁に手をつくと、骨が軽く鳴った。

ゆっくりと体を起こし、床に足を下ろす。カーペットは柔らかく、音を吸い込む。ドアノブに触れる前、一度だけ振り返る。ブランケットの小山は、動かない。


廊下へ出ると、ホテルの朝が始まる前の匂いがした。

ワックス、紙、淹れかけのコーヒー。エントランスの一角に、新聞がきれいに積まれている。指で一部抜き取ると、紙が乾いた音を立てた。インクの匂いが、記憶の奥を軽く叩く。


今日は、鎌勝大樹(かまがちだいき)、「明出目家(あかでめや)ぷら(つき)」の真打披露。

箱根湯本。十一時までに入ればいい。時間は、まだ広い。


ロビーの窓から、山の稜線が薄く明るみ始めているのが見えた。

剣斗は新聞を腕に抱え、静かにソファに腰かける。朝食会場の札が、まだ裏返っている。

「OPEN 8:30、か。まだ1時間以上あるな」


モーニングビュッフェを前にした孫が、いくつも並んだ大皿を前に歓喜する姿が浮かぶ。

箸を休めず、頬を動かし、勝ったような顔で笑うだろう。


剣斗は、口の端をわずかに上げた。

ゆっくりと朝刊を広げた。



第二回 初弟子


落語家、務所河原(むしょがわら)札月(ふだつき)は真打になって4年後、一人の弟子を取ることになった。

挿絵(By みてみん)

楽屋の鏡前で、務所河原札月は手拭いを畳んで弟子入り志願者の来るのを待つ。

三山剣斗の名は、今はもう看板の裏にしまわれている。照明に焼けた鏡が、少し遅れて瞬きを返す。


障子がきしみ、誰かが顔を出す。

ロン毛の茶髪。細い顎。目元だけが、妙に強い。


「失礼します」


声は軽く、身の動きも軽い。

服装は、落語家から少しはみ出している。ラメの入り布の光沢が、楽屋のくすんだ空気に合わない。


札月は、ちらりと一度見ただけで、すぐに視線を戻した。

「どうぞ。座りなさい」


弟子は正座し、背筋を伸ばす。

鏡越しに、視線が合う。緊張というより、何か別のもの――舞台袖で照明を待つ役者の、あの静けさ。


「ビジュアル系、でしたっけ」


札月がそう言うと、弟子は嬉しそうに頷いた。

「はい。落語で」

挿絵(By みてみん)

間が落ちる。

楽屋の隅で、急須が小さく鳴った。


札月は笑った。

口の端が、ふにゃりと緩むだけの笑いだ。否定も肯定も、そこにはない。


「がんばんなさいよ」


それだけだった。


前座名を告げられたのは、その少し後だ。

叫日家(さけびや)むん()でお願いします」


声に、迷いはない。

札月の眉が、ほんのわずかに動く。


「むんく?」


「はい。あの、両手で耳を押さえてる絵の人です」


弟子は両手を広げ、空中にあの線をなぞる。

歪んだ空。波打つ橋。口を開けた顔。


「なんか、癒されるんですよね」


楽屋の空気が、また一拍、止まった。


寄席の外では、客がざわつき始めている。寄席太鼓を叩く若い前座がいた。

通の連中の咳払い。番組表を折る音。「ふざけた前座だな」という、声にならない視線。


高座では、前座がふざける。

そもそも落語家とは、「ふざける」仕事ではないか。


だが、舞台袖で待つ叫日家むん句の背中は、ふざけていない。

黒い着物の中で、呼吸が一定のリズムを刻んでいる。波のように、寄せては返す。


札月は、湯呑みに口をつけた。

湯気の向こうで、弟子の横顔が揺れる。


――二人目。


その言葉は、まだどこにも書かれていない。

だが、札月の胸の奥で、小さく拍子木が鳴った。


------


この師匠は叱りつけることが無いので、その分弟子は自力で這い上がるしかない。


高座に上がると、むん句は一拍置いた。

その間に、客席の空気を一度かき混ぜる。——だが、混ざらない。


拍手は、まばら。

寄席の照明に照らされた髪の艶だけが、妙に主張する。正座の足元から、場違いな香水の匂いがふわりと立った。


前座は、型をなぞる。

それを少し外すと「色物」になる。さらに外すと、客の視線は泳ぐ。


むん句は、ちょうどその中間にいた。


一列目の端に、いつも来る男がいる。拍子木より先に笑う人だ。むん句が目を向けると、必ず頷く。

(あ、今日は当たりだ。)


だが、残りの客は、番付表を畳む音で応える。

「ビジュアル系落語家」

その文字は、味のしないガムのように、噛めば噛むほど薄くなった。


むん句は考えた。

考えすぎた。


鏡前で、彼は首を傾げる。

「……違うわね」


眉を細くし、目元を強くする。唇に色を重ねるたび、誰かが一人、客席から立ち去る音がした。制服の裾、スニーカー、かすかな残り香。以前、最前列で目を輝かせていた女子高生たちは、もう来ない。


代わりに残ったのは、鏡の中の自分だ。

顎を上げ、肩を落とし、声に艶を乗せる。


「オネエ系」

挿絵(By みてみん)

言葉にすると、妙にしっくりきた。

新しい化粧品の匂いが、楽屋の空気を塗り替える。誰もやっていない。だから、私が一番。論理は簡単だ。


高座で、むん句は満足げに瞬きをする。

客席の反応は、以前と変わらない。拍手は少ない。だが、それは問題ではなかった。


第一人者には、手本がいない。

比較されないというのは、こんなにも気楽だ。


むん句は、扇子を閉じる。

その音だけが、確かに鳴った。



第三回 二番目の弟子


むん句が前座になって三年が過ぎた。

鏡の前で眉を描き足す指は、もう迷わない。線は太く、色は強い。楽屋の空気に、甘い化粧の匂いが一枚、重なる。


その頃、廊下の端に、もう一つの影があった。

正座。背筋が、真っ直ぐすぎる。通る人の視線が、そこで一度、引っかかる。


帯は古い。角がわずかに毛羽立ち、何度も結ばれ直してきたことが分かる。

扇子は膝の中央。指は揃い、動かない。香水も整髪料もない。畳、木、汗——寄席そのものの匂いを、その体が吸っている。


「失礼します」


低く、乾いた声。

楽屋のざわめきが、一段、沈む。


務所河原札月は、視線を滑らせた。

鏡、化粧道具、むん句の横顔。そして、少し離れた場所の影。飾りはない。主張もしない。だが、背景にもならない。


「名前は」


「鎌勝大樹と申します」


言葉が、きれいに収まる。

早くも遅くもない。余白が残らない。


札月は急須を持ち上げ、湯を注ぐ。

湯気が立ち、視界が一瞬、白む。その向こうで、大樹は瞬きもせず、待っている。


むん句が、鏡越しにちらりと見る。

線が違う。

自分が足し算なら、あれは引き算だ。


——嫌なやつ。


札月は、小さく息を吐いた。

一番目は、外へ散った。

次は、内へ沈む。


「芸は」


「まだ、何も」


即答。

言い訳も、売り文句も、ついてこない。


札月の口元が、わずかに緩む。

「いいね」


その一言で、大樹の肩が、ほんの一ミリ落ちた。

喜びではない。重さが、体に乗っただけだ。


外で、拍子木が鳴る。

むん句の出番が近い。


大樹は、深く頭を下げる。畳に触れた額が、音もなく止まる。立ち上がり、壁際へ下がるまで、動きに無駄がない。


札月は、その背中を追った。

派手さはない。だが、型がある。線が少ない。


——二番目。


一番目が道を広げるなら、

二番目は、足場を固める。


札月は湯呑みを置いた。

器の底が、畳に小さく触れ、乾いた音を立てた。



第四回 異色の新人


湯呑みの底が、畳に触れたまま止まっている。

務所河原札月は、そのまま視線だけを上げた。


「で——明日から、寄席に来れるのかい」


問いは軽い。だが、急須の湯気はもう消えかけている。

鎌勝は、膝の上の扇子を一度だけ押さえた。


「それが……」


間が生まれる。

楽屋の隅で、むん句が筆を置く音がする。


「大学に通ってまして。講義と、ゼミも——」


札月の眉が、わずかに上がる。

畳の目が、その動きを拾った。


「掛け持ちは、骨が折れるよ」


湯呑みを回す。

指の腹が、熱を確かめる。


「片手間なんて、しません」


鎌勝の声は、低いまま揺れない。

「留年も覚悟しています」


誰かが、息を吸った。

楽屋の空気が、少しだけ重くなる。


札月は、通えるかどうかを測るつもりで聞いた。

「大学は、どちら」


一拍。

鎌勝は、視線を落とさない。


「——東大です」


音が、消えた。

次の瞬間、誰かが吹き出す。


「東大?」

「聞いたことねえでがすよ」

「末は博士か、大臣で——落語家かい!」


笑いが、板張りの床を転がる。

畳が震え、湯気が跳ねる。むん句まで、鏡の前で肩を揺らした。


奥から、笑角亭来福が顔を出す。

「明日、うちの弟子が聞いたら腰抜かすわ」


にやり、と歯が光る。

「なあ、アビ介の勉強、見てやってくれへんか」


笑いは、もう一段、膨らんだ。

鎌勝は、正座のまま動かない。畳に落ちる影も、揺れない。


札月は、その様子を見て、ふっと息を吐いた。

異色。

だが、色は、まだ落ちていない。


湯呑みを置く音が、最後に残った。


札月は、顎に指を当てたまま、少しだけ天井を見た。

考えているふりをしている時間だ。実際には、もう決まっている。


「お前の名前は――」


間が落ちる。

楽屋の笑いが、まだ畳の上で余熱を残している。


「ピロ月でどうだ」


誰かが、くぐもった声を漏らす。

札月は気にしない。


「務所河原ピロ月。東大いくぐらい勉強がんばる人なら、落語もなんとかなるだろう」


理由はそれだけ。

無責任で、妙に温かい。


札月は、ふにゃりと笑った。

その笑いは、弟子入りの認め印の代わりだ。


「わたしの一番弟子だよ」


指先が、鏡のほうを向く。

描き足された眉の向こうで、むん句がゆっくり振り返った。


「叫日家むん句です、兄弟子としてしっかり面倒見させてもらいます」


名乗りは短い。

視線は鋭く、化粧の奥で一度だけ測る。


「前座の修行は、全部この人に聞きなさい」


楽屋の空気が、ぴんと張る。

兄弟子、という言葉が、畳の上に落ちる。


鎌勝大樹――いや、ピロ月は、深く頭を下げた。

額が畳に触れ、冷えが伝わる。

息を吸い、吐く。


顔を上げたとき、目の奥に、わずかな光があった。

これから先、笑われることも、叩かれることも、もう数えない。


ただ、この畳の上から始まる。


ピロ月は、もう一度、姿勢を正した。


むん句は、鏡の中で一度、眉の角度を確かめた。

描いた線の向こうに、さっきの言葉がまだ残っている。


「東大」


頭の中で、文字だけがやけに白い。

自分も大学は出ている。卒業証書も、どこかの引き出しに眠っている。だが、その二文字とは、畳一枚ぶん距離がある。


楽屋の空気を、扇子でひとあおぎする。

香水と畳が混ざり、少し甘くなった。


「……まあ」


声に、棘が立たないよう気をつける。

「勉強ができてもね。ここは、そんなに優しい世界じゃないのよ」


ピロ月は、間を置かずに動いた。

膝が畳に吸いつき、上体がすっと折れる。額が、静かに床に触れる。


「むん句兄さん。ご指導、よろしくお願いいたします」


声は低く、よく通る。

姿勢が、きれいすぎる。


むん句の胸の奥で、何かがくすぐったく跳ねた。

悪くない。

——東大生が、こんなふうに頭を下げるなんて。


「へりくだるのは、まあ、嫌いじゃないけど」


むん句は、扇子の要を指で弾く。

軽い音。


「落語家ってのは、笑ってもらってナンボなのよ」


鏡越しに、ピロ月の顔を見る。

真面目な目。逃げ場のない目。


「プライドの高い頭で、それ、できるのかしら」


ピロ月は、顔を上げた。

まっすぐ、言葉を並べる。


「生半可な気持ちではありません。和芸は日本の無形文化財であり——」


その瞬間、むん句の扇子が、空を切った。

ぱちん、と音が立つ。


「はい、そこ」


言葉を、途中で止める。


「そういうとこ」


一歩、近づく。

化粧の匂いが、相手の呼吸に触れる距離。


「高座の上から、そんなふうに語られたらね」


むん句は、にっと笑った。

優しいが、逃がさない笑いだ。


「お客、置いてけぼりになるのよ」


扇子の先で、ピロ月の胸元を軽く指す。


「ここで修行する以上は」


間。

声を、少しだけ落とす。


「もうちょっと、おバカになりなさい」


畳の上に、沈黙が落ちる。

ピロ月は瞬きを一つし、そして、小さく頷いた。


むん句は、背を向ける。

鏡の中で、自分の眉が、ほんの少し柔らかくなっているのを見た。


——案外、面白くなるかもしれない。


そう思ったことは、

まだ、言わないでおいた。



第五回 湯本演芸場の楽屋裏


楽屋口の暖簾(のれん)は下ろされたまま。

今日は貸切。外のざわめきは、厚い壁で鈍くなる。


三山剣斗が草履を脱ぐと、畳が小さく鳴った。

その音に応えるように、二つの影が立つ。


鎌勝大樹――今日から、名実ともに真打。

背筋は変わらない。だが、帯の結び目が少しだけ重く見える。


その隣に、浦部朱元(うらべあけもと)

白髪が増えたぶん、輪郭がはっきりしている。教授然とした佇まいだが、視線は舞台袖の暗がりをよく知っている目だ。


「師匠」


鎌勝が一歩前に出る。

深く、しかし急がない礼。


「箱根までお越しいただいたのに……昨日は大変な事件に巻き込まれたそうで……」


言葉が、少し遅れて続く。詫びは、声よりも姿勢に乗っている。


三山は、手を軽く振った。

「こちらこそ、申し訳ないことで」


声は柔らかい。

「本来なら、東京落語協会理事長が並んで、三人で口上を上げるところをね」


草履を揃え、楽屋を見渡す。

壁、鏡、楽屋裏に珍しいPC機器がある。


「二人だけの高座になった。……私の力不足だ」


そのとき、三山の視線が、もう一人に止まる。

「おや」


浦部が一歩、前へ出た。背中が、すっと伸びる。


「ご挨拶が遅れました」


声は低く、澄んでいる。

「東洋思想史の浦部と申します」


名乗りのあと、ほんの一拍。楽屋の空気が、待つ。


「僭越ながら——」


言葉を選ぶ間に、鎌勝が視線を伏せる。額に、今日一日の重さが集まっている。


「真打披露の口上、私にも同席させていただけませんか?」


三山の眉がわずかに動く。


鎌勝が、顔を上げる。

「私が今、落語研究会の顧問を務めていられるのも」


声は、確かだ。


「浦部先生が始められた、落語サークル早雲会があったからです」


畳に落ちる言葉が、ゆっくり積み重なる。


「私は、それを引き継いだだけです」


浦部は、静かに頷いた。

「体力がね・・・早雲会の運営を続けることが難しくなりまして」


自嘲気味に、口角が上がる。


「そこで、彼に“事業継承”してもらった」


指先で、空をなぞる。

数字や制度の話をする仕草だ。


「しかも鎌勝教授は、同好会を大学公式研究会にまで押し上げてくれた」


一度、息を置く。


「今日は——」


視線が、三山、そして務所河原札月へと移る。


「私は、彼の師の位置で、札月師匠には、東京落語協会代表のお立場で、それぞれ、口上を」


言葉が、畳に落ちきる前に、札月が声を上げた。


「願ってもない」


笑いが、ふにゃりと広がる。


「ぜひ、それで」


扇子を畳に置く音が、決定の合図になる。


楽屋の空気が、ひとつ、前へ進んだ。

今日の出し物が、そこで定まった。

ーー続くーー

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