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倫理学:女王様の特別講義~眞栄田豪姫の灼熱講話録  作者: 和子


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16/26

16限目 箱根外語大学トライアスロン大会(3)

第三十六回 倫理学会議(Ethics Conference)始動

 一人の老人は、サイレンに包まれて病院へ運ばれていった。

そして、もう一人の老人は、静かな声で名前を告げ、箱根警察署の車両に乗り込んだ。


 同じ「ゴール」という言葉の延長線上にありながら、二人の行き先はあまりにも遠く、そして冷たく分岐していた。


 ファミリートライアスロン事務局の仮設会議室では、空気が張りつめていた。長机を囲む事務局員と、箱根外語大学の職員たち。誰もが時計を何度も見ている。閉会式まで、残り十分。


 「隠す選択肢はありません」


 最初に口を開いたのは、大学事務局長だった。白髪交じりの男は、淡々とした声で続ける。


 「すでに現場には警察も救急も入り、報道も動いています。参加者は家族連れが大半です。ここで曖昧な説明をすれば、憶測と不信だけが膨らむ」


 事務局長の言葉に、誰も反論しなかった。

結論は、すでに出ていた。


 正直に話す。

ただし、必要以上のことは言わない。


 「個人名は伏せます」

 「現時点で“確定した事実”のみを開示する」

 「原因や責任の所在には踏み込まない」


 矢継ぎ早に確認事項が整理され、若い職員がノートパソコンを叩き始める。画面に映るプレスリリースの草稿が、刻一刻と形を成していった。


――本大会において、参加者の一人が走路脇で倒れているのが発見されました。

――当該参加者は心肺停止状態でしたが、病院にて蘇生処置が行われ、現在も治療が続けられています。

――なお、意識は回復しておらず、容体については予断を許さない状況です。

――また、大会開始前に当該参加者とトラブルを起こしていた別の参加者が存在し、警察の任意の事情聴取に応じています。

――現時点で確認できている事実は以上です。


 「……これで、いきましょう」


 誰かがそう言い、全員が黙って頷いた。


 資料が各役員に行き渡ると、重苦しい足取りで閉会式会場へ移動し始めた。


---

 箱根の霧は、午後になっていっそう深まっていた。


 普段なら、ゴール後の高揚感とともに参加者たちは散り散りになるはずだった。「強羅の温泉が混む前に」「仙石原の蕎麦屋へ」――。しかし、この日のゴール地点、芦ノ湖を臨む特設会場には、百名近い参加者たちが、重い沈黙を抱えたまま留まっていた。


 それだけではない、報道関係者もかなり集まってきている。結果として開会式を上回る群衆が眼前に広がっている。


 閉会式のステージに立ったのは、JTU(日本トライアスロン連合)の責任者だった。その顔には、常駐スタッフとして数々の修羅場をくぐり抜けてきた男の険しさと、それ以上の「祈り」が混じっていた。


 「……まず、皆さんに報告しなければならないことがあります」


 スピーカーの声が、霧の中に低く響く。その声は、震えてはいなかったが、ひどく慎重だった。


 だが、その直後だった。


 会場アナウンスで概要が読み上げられ、配布された紙に視線が落ちた瞬間――観客席の一角から、鋭い声が突き刺さった。


 「ちょっと待ってください!」

空気が、再びざわめく。

「何もはっきりしていないじゃないか!」

中年の男性だった。腕を組み、憤りを隠そうともしない。


 「倒れた理由も分からない。トラブルって何だ。警察が来てるのに"任意同行"ってどういうことだ。これで説明したつもりなのか!」


 それを合図にしたかのように、周囲からも低い同調の声が漏れ始める。


 この大会は、競技大会である前に「ファミリーイベント」だった。

参加者の六割は、老人、女性、そして子どもたちだ。

だからこそ、安全と安心は、何よりも重く受け取られる。


 「うちの子も走ってたんですよ」

 「高齢者が多い大会で、これは不安です」

 「本当に安全管理は大丈夫なんですか?」


 想定していた――はずだった。

だが、実際に突きつけられる不安と怒りは、紙の上の想定を軽々と超えてくる。


 事務局長は、深く一度だけ頭を下げた。


 「ご不安は、もっともです」


 静かな声だった。


 「だからこそ、現時点で確認できていないことを、断定して語ることはできません。推測や憶測で説明することは、かえって皆様の不安をかきたてることになります」


 場内は、完全な静寂にはならなかった。

だが、怒号は次第に収まり、代わりに重たい沈黙が落ちていく。


 誰もが理解していた。

これは単なる事故報告ではない。

善意、競争、老い、責任、そして「見なかったこと」にされた何か――それらが絡み合い、今まさに問われようとしているのだと。


 その時、箱根外語大学のキャンパスの一角で、別の「会議」もまた、静かに始動していた。


 倫理とは何か。

 説明責任とは何か。

 そして、人はどこまで「知らなかった」と言えるのか。


 それを問う舞台は、すでに整ってしまった。


 怒号は、もはや点ではなかった。

それは波となり、会場全体を押し返す力を持ち始めていた。


 「――できない、って言えば済むことか!」


 前列に立っていた一人の男性が、配布されたプレスリリースを指し示したまま、壇上を睨み据えた。声は震えていない。怒りよりも、計算された言葉の鋭さがあった。


 「大会運営のミスは、本当になかったと言い切れるんですか?」


 ざわめきが一段、低くなる。


 「たとえばですよ。スタート前にトラブルを起こしていた参加者がいた。だったら、その時点で棄権させる判断はできなかったんですか?」


 彼は一つ、指を立てた。


 「この大会、タイムカウント形式ですよね。全チーム一斉スタートじゃなくても成立するはずだ。だったら、間を空けるとか、別枠にするとか、やりようはいくらでもあったんじゃないですか?」


 指が、二本目、三本目と増えていく。


 「気持ちが高ぶっていたなら、落ち着くまで待たせる。あるいは、運営スタッフが同行して、監視下でレースを続行させる――そういう配慮だって、検討できたはずだ」


 その言葉は、ただの感情論ではなかった。

運営側の想定と判断、その一つ一つを、冷静に切り刻んでいく。


 「それをしなかったのはなぜです?」


 男は、はっきりと、核心に触れた。


 「大会が“盛大に行われる”という体裁に、こだわりすぎたからじゃないんですか?」


 視線が、ファミリートライアスロン事務局だけでなく、後方に控える協会関係者へと向けられる。


 「主催者側に、落ち度は本当になかったんですか?」


 会場が、完全に静まり返った。


 それは、責任の所在を探る問いであると同時に、この場にいるすべての大人に突きつけられた問いでもあった。


 「安全よりも演出を優先したのではないか」

 「事故が起きるまで、見て見ぬふりをしていたのではないか」


 誰もが、答えを欲していた。

だが、誰一人として、簡単な答えを持っていなかった。


 壇上の大会責任者は、言葉を探すように、ほんの一瞬、目を伏せた。

その沈黙が、雄弁だった。


 これはもはや、個人の問題ではない。

一人の老人が倒れた理由を超えて、「組織は、どこまで予測し、どこまで責任を負うべきだったのか」という問いが、この穏やかな箱根の空の下で、白日のもとに引きずり出されていた。


 そしてその問いは、やがて学内へ、法へ、倫理へと連鎖していく。

誰もまだ、その先に何が待っているのかを知らないまま。


 壇上の大会責任者は、深く息を吸い、ゆっくりと顔を上げた。

逃げ場のない視線が、四方から突き刺さっている。


 「……おっしゃることは、ごもっともです」


 声は低く、しかし逃げの色はなかった。


 「今回の発表内容につきましては、先ほど申し上げたとおり、発表前に大会運営委員会として十分な議論を尽くし、現時点で確認できている事実を整理したうえで取りまとめたものです」


 一語一語を、慎重に選んでいるのがわかる。


 「そして――事の真相については、必ず究明します。大会運営の判断、体制、警備、リスク管理、そのすべてを検証し、今回ご参加いただいた皆様に、必ずご報告いたします」


 そこで、会場の中央から、間髪入れずに声が飛んだ。


 「その報告の中に――」


 鋭く、はっきりとした声だった。


 「『申し上げられません』という言葉は、一切ないと。この場で言明してください」


 一瞬、空気が張り詰める。

その発言者は、単なるクレーマーではなかった。

大会協賛企業の関係者だと、周囲の誰もが気づいていた。


 「私たちはですね―――」


 男は発言を続ける。感情を抑えているが、その奥には怒りよりも、深い失望があった。


 「人生とスポーツの関係を、真剣に考えているんです。親が走る姿を子どもが見て、子どもが挑戦する姿を親が見守る――そういう文化を、次の世代に伝えていく趣旨で、この大会に賛同した」


 拳が、ぎゅっと握られる。


 「それが、日本のファミリースポーツの振興につながると信じてきた」


 声が、少しだけ震えた。


 「それなのに、ですよ。今回のような事態が起きてしまった。これは――あってはならない」


 会場のあちこちで、静かな同意のうなずきが起こる。


 「休日の娯楽が飛んでしまった、くらいに考えているんじゃないんです」


 男は、はっきりと言い切った。


 「これは、人の生き方と向き合うイベントだったはずだ。命が関わった以上、説明責任も、覚悟も、同じ重さで背負ってもらわなければ困る」


 沈黙が、重く落ちた。


 壇上の大会責任者は、即答しなかった。

だが、それは逃げではなく、決意を言葉に変えるための沈黙だった。


 「……分かりました」

ついに、そう答える。


 「『申し上げられません』という言葉で済ませることは、いたしません。この場でお約束します」


 その瞬間、会場の空気が、わずかに変わった。

怒りが消えたわけではない。だが、問いは次の段階へ進んだのだ。


 これは、事故対応の説明会ではない。

責任と倫理をめぐる、公の場での審問だった。


 そしてこの火種は、やがて大学へ、学会へ、――「倫理とは何か」を専門とする者たちの領域へと、確実に飛び火していく。


 誰もがまだ知らない。この日が、一つの大会の終わりではなく、長い倫理学会議の始まりであることを。


 

第三十七回 豪姫教授の緊急ブリーフィング

 別の拡声器から(とき)の声が鳴り響いた。

 

 「私は、本大学の倫理学専任教授の眞栄田です」


 ポータブル拡声器を肩からぶら下げているのは堂島剛だった。彼がフルカウルのヘルメットを被っているのは、安全対策というより、この爆音に耐えるためだ。


 壇上に立つわけでもないのに、彼女の立ち姿はすぐ人の目に飛び込んできた。


 「今回の件に関する最新情報は、現時点で私がすべて把握しています」


 閉会式会場のざわめきの中心で、眞栄田豪姫(まえだあき)は一歩前に出た。黒のタイトなスーツに、無造作にまとめた銀髪。視線が集まるのを、彼女は当然の前提として受け止めている。


 「これより、緊急ブリーフィングを行います。必要を感じられる方は、研究室棟の倫理学研究室までお越しください」


 一瞬の間。


 「……そうですね。狭くはなりますが、五十人程度なら、なんとかなるでしょう」


 ざわり、と空気が動いた。


 「一方的な情報提供だけではありません。適切なものであれば、質問にもお答えします」


 その言葉が、火に油を注いだ。

報道関係者の目が光り、参加者の中でも“うるさ方”と呼ばれる人々が、互いに顔を見合わせる。


 その少し離れた所で、ポータブル拡声器を肩から下げていた堂島剛は、言葉を失っていた。

タブレットのマイクミキサーを操作していた手を止め、にわかに信じられないといった風に固まった。


 (……50人?)


 完成したばかりの倫理学研究室。

白い壁、磨き上げた床、応接の絨毯。音響テストを何度も繰り返した静謐な空間。


 (そこに、土足で……マスコミが……?)


 堂島は、自分が工事進捗管理まで引き受け、業者と毎日のようにやり取りしながら、ようやくゼミ室まで完成させた日々を思い出していた。

呆然と立ち尽くす彼の横で、豪姫はちらりと視線を向け、唇だけで笑った。


 「いい手でしょう?」


 小声だったが、はっきりと聞こえた。


 「これで、やっかいな連中を分離できるわ」


 堂島は、はっとして彼女を見る。


 「参加者の“うるさ方”はね、マスコミの耳に入るようにわざと騒いでいるのよ。正義感と自己顕示欲の混合物。扱いにくいでしょう?」


 豪姫は、何でもないことのように続ける。


 「でも、倫理学研究室に入れば話は別。数を絞れるし、議論の形式に引きずり込める」


 堂島の脳裏に、カメラとマイクに囲まれた研究室の惨状が浮かぶ。


 「閉会式会場の方は、勝手連の人たちがうまく収めてくれるわ」


 勝手連――自治会、保護者代表、協賛関係者。

確かに、あそこはあそこなりに“回る”。


 「それに」


 豪姫は、さらりと決定打を放った。

「ゼミ室だって、四月までは誰もいなくて使われないのよ。活用しなくちゃ!」


 (……活用、って)


 堂島は、遠い目になった。


 (後片付けはどうなる。いや、どう考えても――)


 答えは、分かっている。


 (俺が掃除するんだろうな・・・)


 諦観が、すっと胸に降りてきた。

それは怒りでも絶望でもなく、もはや悟りに近い。


 涅槃の境地、とでも言うべき心持ちで、堂島は深く息を吐いた。


 (……古葉たちにも、手伝わせるか)

そう思った瞬間、ほんのわずかだけ、心が軽くなる。


 その頃にはすでに、研究室棟へ向かう人の流れができ始めていた。


 倫理学研究室は、この日――

学問のためではなく、現実の矛盾と責任を引き受けるための、即席の法廷となろうとしていた。


 そしてその中心に立つのは、

議論を自在に操り、混乱を計算に入れる女――眞栄田豪姫である。


 嵐は、まだ始まったばかりだった。



第三十八回 プレスご一行様ご案内

 乾いた音が、規則正しく石畳に響いていた。

ハイヒールの(かかと)が刻むリズムは迷いがなく、むしろ先導するために存在しているかのようだった。


 眞栄田豪姫は、研究室棟へ向かって歩いていた。

その背後には、ぞろぞろと連なる人影。

地方新聞、業界誌、ウェブメディア――大小さまざまな媒体の記者たちが、カメラとメモ帳を抱え、まるで女王に従う随臣の列のように続いている。


 誰一人として、彼女を追い越そうとはしない。

歩調も距離も、自然と彼女に合わせられていた。


 その先頭と女王のあいだ、ほんの半歩後ろ。

従者の役を務めるのは、堂島剛だった。


 片手には資料の詰まったトランク、もう一方には豪姫のバッグ、背中にスピーカを背負って。

肩は少し落ちているが、歩幅は乱れない。


 (……完全に、行列だな)


 心の中でそう呟きながらも、堂島は周囲を見渡した。

研究室棟が近づくにつれ、記者たちの視線は建物そのものへ移っていく。


 ――どんな場所で、何が語られるのか。

 ――倫理学研究室という密室で、どこまで踏み込むのか。


 豪姫(あき)は、ふと足を緩め、スマートフォンを取り出した。歩きながら、迷いなく番号を選ぶ。


 「もしもし。研究室事務局?」


 通話口に向ける声は、あくまで軽やかだ。


 「ええ、そう。今日から使わせてもらうわ。緊急案件だから」


 堂島は、思わず天を仰ぎそうになるのをこらえた。


 「折りたたみパイプ椅子、五十席ほどお願いできる? それから、ゲスト用のFree Wi-Fiのパスワード――そう、カンペに書いて、入口に貼っておいて」


 一瞬の間。


 「ええ、大丈夫。責任は私が取るから」


 通話は、それで終わった。

豪姫はスマホをポケットに戻し、何事もなかったかのように歩き出す。

その横顔には、余裕すら浮かんでいた。


 親切心からではない。

そんなものは、最初から計算に入っていない。


 Free Wi-Fiを開放する理由は一つ。

あとで、端末MACアドレスを抜き取るためだ。


 (誰が、どこから、どのタイミングで聞いていたか)


 記者だけではない。

配信を視聴する者、SNSで騒ぐ者、匿名の正義を振りかざす者――

すべてを、同じ「参加者」として可視化する。


 豪姫ちゃんねる。彼女が主催するYoutubeコンテンツ。広告バナーも貼らずにボランティアでやっているように見せてはいたが、実際は単なる広報ではなく、情報を取るための観測装置だった。


 アクセス者を釣るための餌を撒き、寄ってきた影を、逃がさず記録する。


堂島は、豪姫の横顔をちらりと見た。


 (……倫理学、って何だっけな)


 学問の名を借りて、人の行動を暴き、構造を露わにする。

だが、それを最も冷徹に、そして楽しげにやっているのが、目の前の教授だった。


 研究室棟の自動ドアが、静かに開く。


 女王は足を止めず、従者たちは、何も言われぬまま、その背中に吸い寄せられていった。


 今日、この場所で語られるのは「事実」だけではない。

誰が、どこまで踏み込む覚悟があるのか――その踏み絵が、すでに始まっていた。



第三十九回 先客の出迎え

 倫理学研究室の前は、すでに騒がしかった。


 「初日から大入り満員じゃないか」

腕を組んで仁王立ちしていたのは、文化人類学の鎌勝大樹(かまがちだいき)教授だった。

廊下を埋め尽くす報道陣を見渡し、こうなった事情も知らずに、愉快そうに口角を上げる。

「こりゃあ、祝儀袋が出そうだぞ」


 その隣では、アントニオ・マルティーナ・ロペス教授が、両手を広げて大げさに叫ぶ。

「¡Excelente! 研究室の開設記念パーティーなのかい? それもマスコミまで呼んで!」


 完全に他人事である。だが、その陽気さに救われる空気も、確かにあった。


 少し離れた壁際で、腕を組んだまま冷ややかに眺めている人物がいる。

平坂黄泉(ひらさかよみ)だった。


 「……よくもまあ、こんなに釣れたものね」

ぼそりと呟く。

「どんな撒き()を使ったのかしら」


 その言葉にかぶさるように、甲高い英語が飛んだ。


 「Wow!」

振り返ると、そこにはマーゴット・ディアスがいた。

腕を組み、顎を上げ、報道陣を値踏みするように眺めている。


 「これが日本のマスコミ?ハイエナは腐った肉が好みって、本当なのね!」

遠慮という概念は、彼女の辞書には存在しない。


 その混沌の中心に、ようやく堂島剛が現れた。


 汗をかきながらも、どこか達成感のある顔だ。


 「堂島、ご苦労さん!」

声をかけたのは、古葉玲央(こばれお)だった。


 節津京香(せっつきょうか)がにっこりして言葉を繋ぐ

「先に応接と資料室とゼミ室のパーティション、全部動かしておいたわ。椅子も並べたし、なんとか五十席は詰められたわよ」


 堂島は、ぐったりしながらも親指を立てる。


 その瞬間、背後から冷たい声が落ちてきた。


 「……ちょっと」

振り向くと、眞栄田豪姫が立っていた。

「私のプライベートルーム、入らなかったでしょうね?」

空気が、一瞬で凍る。だが、すぐに別の声が割り込んだ。


 「そこ、普通は褒めるところでしょう?」


 古葉玲央だった。

悪びれもせず、堂々と言い切る。

「準備は万端にしておきましたよ。動線も、音響も、全部チェック済みです」


 豪姫は、じっと古葉を見つめ――

そして、ふっと微笑んだ。


「……そうね」

その一言に、堂島の肩から力が抜ける。

「今日の講義の結果によっては、評価に加点してもいいわ」


 古葉は、にやりと笑った。


 豪姫は一歩前に出て、集まった人々を見渡す。

報道陣、参加者、学生たち。

すでに、この場は「大学の研究室」という枠を逸脱していた。


 「では、みなさん」


 静かな声だったが、自然と全員が黙る。


 「お好きな席にお座りください。中に入れなかった方は、共用スペースあたりで待っていて」


 そして、入口の壁に貼られた紙を指差す。パスワードと定点カメラのアドレス・QRコードが印刷されている。

「Free Wi-Fiにアクセスすれば、研究室内の定点カメラとスピーカーで情報は取れます」

アドレスとパスワードが、無防備に晒されている。


 だが、それは罠でもあった。

人々が一斉にスマホを取り出すのを見て、豪姫は満足そうに目を細めた。


 これは、もはやブリーフィングではない。説明会でも、記者会見でもない。


 「あと、大学の研究室棟は、原則撮影、録音禁止ですから―――ほら、そこに怖い『研究室棟自治会の役員』の人が立って睨んでいるでしょう?気をつけた方がいいわよ」


 報道陣が一斉に振り返る。思いがけず注目された平坂教授はメガネのブリッジを指で押し上げる

「職員研究室棟利用規約(改)全16条は、廊下の壁に掲示されていますので、ご確認ください。特に改正5条!利用目的。教育・研究活動を主たる目的とすること。これに反する利用は禁止。及び研究室棟内における撮影およびメディア投稿の禁止。」

A4サイズ一枚で簡潔に構成された文章が並んでいる。豪姫教授の倫理学研究室の壁側だけ、なぜかB4サイズに拡大されたものが、アルミフレームのパネルに収まって目に付きやすいように掲示されている。


 報道のカメラマンたちは、重い機材を片付けてスマホに切り替え始めた。


 マスコミは、自分の意思で入ってきたつもりで、気づけば――豪姫の用意した檻の中に、きれいに収まっていた。


 拉致されたも同然だと、

この時点で気づいていた者は、まだ誰もいなかった。



第四十回 三山剣斗(みやまはやと)の安否

 研究室内のざわめきが、ほんの一瞬、途切れた。


 「――三山世理(みやませり)は、どうしたの?」

マーゴット・ディアスが、ふと気づいたように首を傾げて尋ねた。

その問いは、場の空気に小さな穴を開ける。


 古葉玲央が、あっさりと答える。

「お爺ちゃんを"救出"するために、江藤と一緒にバイクで箱根警察署に向かったよ」


 その言い方に、マーゴットの目が大きく見開かれた。


 「……え? 江藤と三山だけで、警察と交渉するの?――無茶でしょ、それ」

半ば呆然とした声だった。


 その背後から、落ち着いた男の声が割って入る。


 「そうでもないさ」

振り向くと、そこに立っていたのは宮ノ下社長だった。

スーツの上着を肩にかけ、長い廊下を歩いてきたばかりの様子だが、顔色は悪くない。


 「あいつは、あれでなかなか仕事ができる」

江藤裕也のことを指しているのは、誰の目にも明らかだった。


 宮ノ下は、豪姫の前に歩み寄ると、薄い封筒を差し出した。

「眞栄田教授。江藤君たちと交代してきました」

差し出された封筒を、豪姫は一瞥する。


 「……これは?」


 「警察の最新の調書です」


 その場が、静まり返った。

「コピーしてもらってきました。正式な公開資料ではありませんが、現時点での整理としては、ほぼ確定情報です」


 堂島が思わず息を呑む。

警察文書を"コピーしてもらう"という行為の意味を、彼はよく知っていた。


 豪姫は、すぐには受け取らなかった。

数秒、沈黙が流れる。


 「最新の情報ね」


 ようやく、そう言って封筒を手に取る。

「せっかくだけど――これを使うかどうかは、少し考えさせて」


 宮ノ下は、肩をすくめた。

「どうぞ。使えるものは、使ってください」


 そして、付け加える。

「それと、取調べはもう少しかかりそうですが」


 一瞬、言葉を選ぶような間。

「高齢者の体調には十分配慮するよう、こちらからも伝えてあります。任意同行ですしね」


 マーゴットが、ほっと息を吐くのが分かった。


 「もうすぐ、帰れると思いますよ」

その一言が、場の緊張をわずかに緩めた。


 豪姫は、封筒を机の上に置き、ゆっくりと周囲を見渡す。

三山剣斗は、まだ戻っていない。

だが、完全に孤立しているわけでもない。


 孫は、警察署へ向かった。

学生は、動いた。大人たちは、それぞれの立場で、すでに介入している。


 「……なるほど」

豪姫は、小さく笑った。

「思ったより、盤面は悪くないわね」


 その言葉が、誰に向けられたものなのか――

誰も、あえて聞こうとはしなかった。

倫理学研究室の定点カメラは、淡々とすべてを記録している。

そして、外ではまだ、無数の“目”がこの場を見つめ続けていた。


 嵐の中心で、三山剣斗の安否は、静かに次の局面へと運ばれていく。



第四十一回 檻の内と外

 「私は、これから病院に行ってきます」


 宮ノ下社長は、淡々と言った。

その声には、焦りも、気負いもない。予定された次の一手を告げるだけの、業務連絡のような響きだった。

「近藤さんが、少し喋れるようになったそうです。今日は入院になりますが……意識がはっきりしているようであれば、話をしてきます」


 研究室の空気が、また一段、静まる。


 「それから」

宮ノ下は言葉を継ぐ。

「近藤さんの娘と、その同伴の男性。宿泊しているホテルは、すでに突き止めています」

一瞬、誰かが息を呑んだ。

「身柄は――いつでも、押さえられます」


 それは脅しではなかった。可能性の提示でもない。

ただの事実確認だった。


 どうやら、病院にも、旅館にも、

"勝手連"のネットワークは張り巡らされているらしい。


 表札の裏。

 帳場の奥。

 深夜のロビーや、ナースステーションの片隅。


 箱根という土地は、観光地である前に、共同体だ。

一度その中に入ってしまえば、外に出るまで――檻の中と、そう変わらない。


 「……なるほど」

誰かが、小さく呟いた。


 宮ノ下は軽く会釈し、(きびす)を返す。

「何か分かり次第、連絡します」


 そう言い残して、研究室を後にした。


 その背中を見送りながら、眞栄田豪姫は、すでに別の世界にいた。

机の上に置かれた警察の調書。コピーされた紙の束に、視線を落とす。


 三山剣斗の供述。

 時系列。

 言葉の選び方。

 沈黙の箇所。


 ――見えなかった。

 ――気づかなかった。

 ――覚えていない。


 書かれているのは、どれも“否定”だ。

だが、倫理学者の目には、否定の行間こそが雄弁に映る。


 (これは……)

豪姫は、指先で紙をなぞりながら、宮ノ下の言葉を反芻していた。


 近藤は、話せる。

 娘は、ホテルにいる。

 警察は、配慮という名の時間を与えている。


 すべての駒が、盤上に揃いつつある。


 豪姫は、ふっと息を吐き、誰にともなく呟いた。

「……これは、話さないといけないわね」


 それは、記者に向けた言葉ではない。

警察でも、大学でもない。


 この場に集まった者たち、

そして、まだ画面の向こうで覗き込んでいる無数の“目”に向けた、宣言だった。


 語らなければならない。

事実だけでなく、選択の倫理を。沈黙が何を守り、何を壊すのかを。


 研究室の定点カメラは、状況を撮り続けている。

箱根という檻の中で、言葉だけが、まだ自由に動ける最後の駒だった。



第四十二回 今、言葉にできること

 研究室の照明は、少しだけ落とされていた。

白い壁に反射する光が柔らかくなり、人の顔から余分な影を消している。


 眞栄田豪姫は、机の前に立ったまま、集まった者たちをゆっくりと見渡した。

記者、参加者、学生、そして画面の向こうの無数の視線――誰もが「次の言葉」を待っている。


 「搬送された近藤定吉(こんどうさだよし)さんが、意識を取り戻したそうです」


 その一言で、空気がわずかに揺れた。安堵と、期待と、そして別の種類の緊張が混じり合う。


 「この事実だけを見れば」


 豪姫は、言葉を慎重に選ぶ。

「今回の出来事が、当事者が沈黙したまま封殺されるという――最大の悲劇は、ひとまず回避できたように思えます」


 誰かが、小さく息を吐いた。


 「ただし」


 声の調子は変わらない。

だが、ここからが本題だった。

「近藤さんはご高齢です。病院側も、現在も治療を継続しています」

豪姫は、きっぱりと言った。

「ですから、私たちが今すべきことは、ただ一つ。ひたすら、回復を願うことです」


 ざわめきが起きそうになるのを、彼女は視線だけで制する。


 「近藤さんの口から、何かが語られるまでは」


一拍、間。


 「私たちは、一切・・・・・・憶測で語ってはなりません」

その言葉は、宣言だった。同時に、この場にいる全員への要請でもある。


 「原因も、意図も、責任も。分かったつもりで物語を作るのは簡単です」

記者の何人かが、無意識にペンを握り直す。


 「けれど、それをやった瞬間、事実は"素材"に成り下がる。誰かの怒りや不安を満たすための、都合のいい物語に」


 豪姫は、はっきりと続けた。

「参加者の感情に流されれば、マスコミは必ず、そちらの物語を好みます。分かりやすく、刺激的で、善悪が単純な物語を」


 それは非難ではなかった。観測結果の提示だった。


 「だからこそ」

豪姫は、ここにいる者たち全員に向けて言った。


 「今この場で、人として取るべき態度を、共通認識にしましょう」

沈黙が、肯定として広がる。


 「語らないことは、逃げではありません」

 「待つことは、責任放棄ではありません」


 むしろ――


 「語れる言葉がまだないときに、語らないという選択こそが、倫理です」


 研究室の定点カメラは、黙ってその姿を映し続けている。

画面の向こうでも、同じ沈黙が広がっているのが、肌で分かった。


 今、言葉にできることは、限られている。

だが、その限界を知り、越えないと決めること――それ自体が、すでに一つの答えだった。


 豪姫は、最後にこう締めくくった。

「私たちは、待ちます。そして、語るべき言葉が生まれたときだけ、語りましょう」


 誰も拍手はしなかった。

だが、その沈黙こそが、この場に集まった者たちの、静かな合意だった。



第四十三回 三山剣斗の供述書

 研究室の空気が、目に見えない形で張りつめていく。

眞栄田豪姫は、机の上に数枚の紙を置いた。コピー用紙。角がわずかに擦り切れている。


 「一般に、警察の事件調書は開示されません」


 確認事項をなぞるような、静かな声だった。


 「ただし――三山剣斗さんの調書のコピーが、ここにあります」


 一瞬、記者たちの首筋が伸びる。

シャッター音が鳴りかけ、誰かが慌ててその手を止めた。


 「これは、任意の事情聴取に応じた際の証言メモにすぎない、という建前のはずです」


 豪姫は、紙の縁を指で軽く叩く。

「ですが、見ての通り。供述調書のフォーマットに、きれいに落とし込まれている」


 彼女は顔を上げ、ゆっくりと言った。

「なぜでしょうか」


 間を置かず、答えを示す。

「警察は、最初から三山さんを容疑者として絞り込んでいたからです」


 ざわり、と小さな波が起きる。


 「仮に、私がこう言ったとしましょう。『すみません、警察の供述調書をコピーしてしまいました』と。すると警察は、こう答えるでしょう。―――『困りますよ。なにか誤解されているようですが、これは供述調書ではありません。ただのメモです』」


 数人の記者が、互いに視線を交わす。


 「ええ、理屈は通っています」

豪姫は淡々と続けた。


 「なぜなら、容疑が固まる前から一般人を内部情報で調べ、予断をもって任意同行させたとなれば――

それは"任意"とは名ばかりの、実質的な”強制”になりますから」


 彼女は一拍置いた。


 「警察は、今回のトライアスロン大会の参加者名簿も精査していたはずです」


 「その中に、元暴力団構成員が二名いた。一人は前科一犯」


 沈黙が落ちる。


 「最初から、マークされていた」


 声を荒げる者はいない。だからこそ、重い。


 「そして事件が起きた。任意同行。指紋鑑定。形式だけは整っている」


 豪姫は、コピーに目を落とす。


 「三山剣斗、八十一歳」

その数字が、研究室の空気を変えた。


 「高齢者です。しかも、長時間の事情聴取に耐えうる体力も、精神力も、若者とはまったく違う」

彼女は顔を上げる。

「それでも、供述は正式フォーマットに落とされる。理由は簡単です。"筋が通りすぎている"から」

研究室のあちこちで、囁きが生まれる。

ペン先が、紙の上を走り始める。


 「こうした捜査手法を、一般に何と呼ぶか」


 豪姫は、あえて答えを口にしなかったが「決め付け捜査」を指している。数々の冤罪事件のきっかけにもなっている旧態依然の捜査手法だ。むしろ警察内部の情報を活用するという前向きな見方すらある。


 一拍。


 「マスコミの皆さん」

穏やかな声で、しかし逃げ場のない問いを投げる。


 「八十一歳の参加者に対して、この扱いが妥当だと、本当に思いますか?」


 誰も即答しない。隣同士の言葉が、ざわめきとなって広がる。


 豪姫は、供述書のコピーにそっと手を置いた。

それは、一人の高齢者の記憶と言葉であると同時に、制度が先に結論を決めてしまった社会の――

静かな供述でもあった。


―――


(参考)供述調書


※任意提出・聴取記録より作成


私は、本名、三山剣斗。

昭和四十四年四月八日生まれ、八十一歳。

本籍地、東京都。


今回、箱根で開催されたファミリートライアスロン大会には、孫と一緒に参加する目的で参りました。家族で同じ大会に出場することは、私にとって長年の念願でもありました。


倒れられた近藤定吉さんについては、以前から知っている人物でした。ただし、今回の大会でお会いしたのは、まったくの偶然です。

最初に気づかれたのは、近藤さんのほうでした。私は旧知の仲であるとの認識から、特に深い意図もなく近づき、「偶然ですね、近藤さん。今日はお互い頑張りましょう。ご家族でご参加なのですか」と声をかけました。


しかし、私の言葉に対して、近藤さんは突然激昂されました。

「手前なんかに負けるか!」

そういった言葉を発し、こちらに向かってこられました。


私は孫の身を案じ、とっさに間に入る形となり、結果として、大人気ない態度で対峙してしまいました。

近藤さんの側には、お嬢さんと思われる女性がおり、強い目でこちらを睨んでおられました。また、もう一人、孫くらいの年齢と思われる若者がいて、笑っていたように記憶しています。


その場には大会運営の方が仲裁に入ってくださり、大事には至りませんでした。


レースが始まってからは、近藤さんを意識していなかったと言えば、嘘になります。

休憩を取っていた際、近藤さんがこちらをちらりと見て、追い抜いて行かれたのを覚えています。


年甲斐もなく、頭に血が上っていたのだと思います。

追いつかねばならない、負けたくない、そういう気持ちが先走っていました。

その後は、レースに集中しており、余計なことを考える余裕はありませんでした。


ゴールしたあと、初めて、心が晴れるような気持ちになりました。

そして、先ほどの件について謝り、水に流してもらおうと考えました。


しかし、近藤さんはゴール地点におられませんでした。

後になって、走路脇で倒れていたと聞きました。


走っている最中、草むらに人が倒れていたことに、私は気づいていません。

なるほど、倒れていたのであれば、私が追い越した時点で、すでにゴールにおられないわけです。


正直に申し上げますと、追い抜かれた時、まだ「追いつきたい」「負けたくない」という気持ちが強くありました。

そのため、もしかすると、わざと気づかないふりをしていたのではないか――

そう問われると、この年寄りには、自分の気持ちがはっきりと分からないのです。


ただし、はっきり申し上げられるのは、

私は決して、近藤さんを押したり、転ばせたりするような行為はしていない、ということです。


以上、私の記憶する限りを、正直に述べました。


―――


 豪姫は一旦、間を置いた。研究室に集まった記者たちの視線が、一斉に彼女へ集まる。その沈黙そのものが、次に放たれる言葉の重さを予告していた。


「――記載内容は、そのままです」


 静かな声だったが、マイクを通さなくても十分に届いた。


「ただし、配布は控えます。こちらに来て、閲覧していただく分には構いません。対応は、うちの研究員が行います」


 そう言って、豪姫はちらりと堂島剛のほうを見る。

 堂島は、タブレットを抱えたまま、わずかに肩をすくめた。


 「コピーして配布してしまいますとね」

豪姫は言葉を選びながら続ける。


 「――メンツをつぶされた箱根警察署が抗議してくる可能性もありますし、今後の私の研究にも支障が出るかもしれません。ですので、ご遠慮ください。あくまで“閲覧のみ”です」


 露骨な言い回しだった。だが、誰も反論しなかった。

記者たちはその裏にある現実的な力関係を、よく分かっていた。


 ざわり、と空気が動く。

「閲覧は、こちらです」


 豪姫が顎で示すと、数人の記者が一斉に動き、堂島の周囲に集まった。


 堂島は、正直に言えば気が進まなかった。

 研究室の机に、警察の供述書形式に整えられた書類を広げる。指示どおりとはいえ、他人の人生の重たい部分を、見知らぬ他人にさらす役回りを自分が引き受けていることに、どうしても納得がいかなかった。


 「……ページ、めくりますよ。勝手に触らないでください」

嫌そうに、しかし事務的に告げる。


 記者たちは前のめりになり、文字を追う。

ペンが止まり、シャッター音も鳴らない。ただ、紙の上の言葉を、必死に頭へ刻み込もうとする沈黙だけがあった。


 堂島は、一枚、また一枚とページをめくる。

 三山剣斗、八十一歳。

 偶然の再会。

 激昂。

 追い抜いた記憶。

 「わざと気づかないふりをしていたのかもしれない」という、曖昧で、しかし決定的な一文。


 (……これ、きついな)


 心の中でつぶやきながらも、手は止めなかった。


 背後では、豪姫が全体を見渡している。

誰がどこで息を呑み、どの一文で眉をひそめたか。彼女は、すべてを観測していた。


 これは単なる情報公開ではない。

語らせ方を管理し、解釈の入口を限定する――倫理学者らしい、冷静で残酷な場の設計だった。


 堂島は、最後のページをめくり終えると、静かに書類を閉じた。


 「以上です」


 その声は、どこか疲れていた。


 記者たちは顔を見合わせる。

誰もが、手に入れた“材料”の重さを測りかねている。


 そして豪姫は、再び口を開く準備をしていた。

――ここからが、本当の倫理学教室なのだ、と言わんばかりに。



第四十四回 近藤定吉の証言

 箱根市民病院の休憩コーナーには、消毒薬と古い自販機のコーヒーが混じった、どこか気の抜けた匂いが漂っていた。その一角で、近藤定吉は堂々と椅子に腰掛け、タバコの煙をくゆらせていた。


 酸素ボンベも心電モニターもない。

そこにいるのは、数時間前まで心肺停止だった男とは思えないほど、血色の良い七十八歳だった。


 「いやあ、ほんと驚いたよ」

近藤は紫煙を吐きながら、豪快に笑う。

「三途の川が見えたもんな!向こうで先に行った連中が手ぇ振ってやがった」

咳き込みつつも、その表情は快活そのものだった。


 宮ノ下巧は向かいの椅子に座り、苦笑しながら相槌を打つ。

「心配してましたよ、近藤さん。心肺停止から、よくここまで回復されましたね」


 「体だけは丈夫なんだよ」

近藤は胸を叩く。

「でなきゃ、七十八でトライアスロンなんて出ないだろ?」


 灰皿にタバコを押し付けながら、ふと不満げに眉をひそめた。

「しかし病院のメシはまずいねぇ。宮ノ下さん、このへんに旨い店、知らないか?」


 「ドクターストップです」

宮ノ下は即答した。

「まだ絶対安静だそうですよ」


 近藤は両手を広げ、「この俺が?」とでも言いたげにとぼけた顔をする。その仕草が、妙に様になっていた。


 やがて話題は、自然と大会のその後へ移っていく。


 「それでさ」

近藤が声を落とす。

「三山剣斗、逮捕されるって聞いたけど……あいつ前科者だろ? ヤバいんじゃないのか。なにやらかしたんだ?」


 その瞬間、宮ノ下の表情が変わった。

冗談めかした凄み――いや、凄みだけは本物だった。

「……アンタのことを、ぶすりと」

匕首(あいくち)で突き刺すような仕草を見せる。


 「ぎゃーっ!」

近藤は大げさに身をのけぞらせた。

「って・・・刺されてない、刺されてない! 冤罪タイホじゃねえか! 懲役何年食らうんだ、あいつ!」


「近藤さん」

宮ノ下は肩をすくめる。


「アンタ、ピンピンしてるじゃないですか」

二人は顔を見合わせ、腹を抱えて笑った。

病院の休憩コーナーには、場違いなほど朗らかな笑い声が響く。


 やがて、近藤は笑いを収め、ふっと真顔になった。

「……あいつじゃないんだよ」


「?」


 「社長、社長って持ち上げてたがな」

宮ノ下から貰ったタバコを新しくくわえ、火をつける。

「ついに本性を現したのは、あの二人だ」


 宮ノ下は黙って聞いている。


 「娘のフリしてた女、川崎順子(かわさきじゅんこ)。四十五歳。実際は俺の愛人だ」

 「……」

 「もう一人の若いの、伊藤英顕(いとうひであき)。二十一。経理担当でな、あれも順子の愛人だ」


 近藤は苦笑した。

「ワシは金融業をやってる。二人とも社員だ。しかも――できとる」


 煙が天井へ昇っていく。

「俺が死ぬのを待って、会社を乗っ取るつもりだったんだろうさ。だからな」


 近藤は胸を張った。

「まだまだ元気だってところを、見せつけてやるためにトライアスロンに出たんだ」


 宮ノ下は、思わず息をのむ。

「順子と伊藤は、娘と孫としてな」


 近藤は、どこか誇らしげに言った。

「人生ってのはな、そう簡単に畳ませちゃいけねえ」


 その言葉は、老獪(ろうかい)で、したたかで、そして何より――生き残った者の重みを帯びていた。


 宮ノ下は、タバコの煙越しに近藤を見つめながら、静かに思った。

 この男の証言が、いずれ箱根全体を揺るがすことになる――と。



第四十五回 生還者にZoom、イン!

 箱根市民病院の休憩コーナーで、宮ノ下巧はふっと声を落とした。


 「……近藤さん。元気にお話しできる今だからこそ、お願いがあります」

そう言って、胸ポケットからスマートフォンを取り出す。指先が迷いなく画面を滑り、見慣れた青いアイコンが立ち上がった。


 「これ、分かります?」

画面を近藤に向ける。


 「Zoomです」


 「おお!」


 近藤定吉は目を見張った。

「知ってる知ってる! テレビ会議のやつだろ? 社員と会議するとき、いちいち会議室に集まらんでもいいんだ。俺、上はネクタイ締めて、下は股引(ももひき)のままやったことあるぞ」

自慢げに笑い、すぐに肩をすくめる。


 「でもな、これ順子(じゅんこ)に設定してもらわないと使えなくてなぁ」


 「今日は私がやります」

宮ノ下は即答した。

「これで、皆さんに"元気な近藤定吉"を見せてください。そして――犯人は三山剣斗さんじゃない、と証言してほしいんです」


 近藤は一瞬だけ考え、すぐに破顔した。

「なるほどな。Zoomって、こういう使い方もあるのか」


 好奇心に満ちた目で、画面を覗き込む。

「久しぶりだなぁ。よし、やろうじゃないか」


―――

 一方そのころ、箱根警察署。


 無機質なLED蛍光灯の下で、三山世理の声が廊下に響いていた。


 「取調べは終わったって言ったじゃないですか! なんで今日は帰してくれないんですか!」


 真正面から警察官に食ってかかっているのは世理だった。

 隣で江藤裕也は、どこか苦い顔をしている。


 「世理、ちょっと落ち着いて」

なだめ役は、完全に江藤の担当だった。

(親父の名前を出して警察を動かす手もある。でも、ここでこじらせたら、このカードは使えなくなる…)


 内心の逡巡を押し殺し、江藤は世理の肩にそっと手を置いた、そのときだった。


 ポケットの中でスマホが震える。


 「あ……宮ノ下さん」


 通話に出た江藤の表情が、みるみる変わる。


 「……はい。分かりました」

通話を切ると、すぐに受付に向かい、巡査に声をかけた。


「当直の警部補さん、いらっしゃいますか? 入院中の被害者が、今この場で証言できるそうです」


 巡査は一瞬戸惑ったが、「分かりました」とだけ言って、奥へ駆けていった。


 やがて現れた杉内警部補は、腕を組みながら言う。

「病院へ行くのは明日にしてですね。今夜はお泊りいただいて――」


 その言葉を、江藤は遮った。

「その患者が、今夜予想外の容態急変で証言できなくなったら、あなた責任取れますか?」


 杉内警部補の眉が動く。


 「今ならZoomで話せるそうです。いますぐ警官を向かわせるなら、これから言うホテルに泊まっている男女の身柄を確保してください!」


 「……Zoom?」


 杉内警部補は口をへの字に曲げ、半信半疑でスマホを取り出した。


 「どうやるんですか、それ」


 「貸してください」


 江藤は一歩踏み込み、手際よく操作する。

次の瞬間、画面に現れたのは――病院の休憩コーナーで、タバコを片手に笑う近藤定吉の顔だった。


「おう。聞こえるかい?」


 杉内警部補は、言葉を失った。


―――


 同じころ。


 箱根外語大学、倫理学研究室。


 豪姫(あき)のスマホが短く震えた。


 「……そう。分かったわ」


 通話を切ると、彼女は集まった記者と関係者をゆっくりと見渡す。


 「プレスの皆さん」


 その声に、ざわめきが静まる。


 「ここに来た甲斐があった、というものよ」


 一拍置き、豪姫は宣言した。


 「――蘇生した被害者が、真実をZoomで証言してくれるわ」


 どよめきが一気に研究室を包み込んだ。

 

 前代未聞の展開だった。


 開講初日から、倫理学研究室は興奮の坩堝(るつぼ)と化す。

 生還者の声が、画面越しに"真実"を語ろうとしていた。


 そして誰もが直感していた。

 この瞬間から、物語の流れが決定的に変わる――と。



第四十六回 五十年前の真実

 近藤定吉は、吸い終えたタバコを静かに灰皿へ押しつけた。

 研究室の壁に据え付けられた五十型ディスプレイには、Zoom越しの彼の顔が大きく映し出されている。年老いた顔立ちだが、声だけは妙に落ち着いていた。感情を削ぎ落としたような口調で、近藤は五十年前の出来事を語り始めた。


 「最後のランニング。あの坂の途中で、私らのチームは先頭に立っていました。クイズなんて最初から眼中になかった。とにかくゴールだけを目指したんです」


 画面の向こうで、報道陣が一斉にペンを走らせる。


 「後ろを振り返っても、追ってくるチームの姿は見えなかった。――こりゃ、優勝はもらったな。そう思った、その瞬間です」


 近藤は一拍置いた。


 「隣を走っていた伊藤英顕が、私を突き飛ばした。坂の脇の窪地、草むらの上に転げ落ちました。たいした高さじゃない。すぐに起き上がろうとしたんですが……」


 声が、わずかに低くなる。


 「伊藤が覆いかぶさってきて、私の鼻と口を塞いだんです。息ができなくなった。疲れもあったんでしょう。視界が狭くなって、そこでぷつりと意識が途切れました」


 会場には、キーボードの乾いた音だけが響いている。


 「気がついたときは、病院のベッドの上でした。あとで医師から聞きましたが、大会関係者が必死に人工呼吸をして、体を温めてくれたそうです。要所ごとに救護スタッフを配置していた。あの体制がなければ、私は助からなかった」


 その言葉を聞き、先ほどまでJTUの運営体制を激しく非難していた参加者たちは、居心地悪そうに視線を落とした。

「……万が一に備えて、ちゃんと準備されていたんですね」

 誰かが、ぽつりと漏らす。


 近藤は、なおも続けた。

「もう一人、川崎順子は手を出しませんでした。ただ、黙って見ていた。意識が遠のく中で、彼女の表情だけが妙に焼きついています。何ひとつ、変わらなかった」


 近藤の目が、画面越しに遠くを見る。

「――ああ、俺みたいなクズの最後は、こういうもんなんだな。そう思ったところで、あたりは真っ暗になりました」


 説明が終わると、近藤は一息ついた。

「以上です。三山剣斗さんは、この件には一切関係ありません。警察の方、ご覧でしたら、どうか保釈をお願いします」


 Zoom画面を見つめていた杉内警部補は、無言で巡査に顎をしゃくった。留置室の扉が開き、白髪の老人――三山剣斗が、ゆっくりと姿を現す。八十一歳。あまりにも長い時間を闘ってきた男だった。


 近藤は続ける。

「今回、私がトライアスロンに出たのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だけです。会場でタバコを吸おうとしたら、順子のやつが、ライターも携帯灰皿も忘れてきたって言う。頭にきていたところに、三山さんが話しかけてきた……」


 苦笑が浮かぶ。

「懐かしさより、汚い言葉が先に出てしまいました。五十年ぶりの再会だというのに」


 しばし沈黙が落ちる。

「五十年前、私はある場所で三山さんを待っていました。自分の仕事を手伝ってもらいたかった。敵対関係ではあったけれど、仲間よりも、真正面から向き合ってくれる人だと信じていた」


 近藤の表情に、悔恨が滲む。

「……それなのに、私は金の入った封筒を差し出してしまった。三山さんは一言、『世話にはならない』と言って、去っていかれた」

その瞬間、画面の端に別の人物が映り込む。解放されたばかりの三山の手を引き、世理がカメラに向かって声を上げた。


 「見て、近藤さん。大丈夫だったのよ」


 八十一歳の男は、何も言わず、ただ静かに立っている。五十年前に交わらなかった道が、いま、ようやく交差したかのように。


 ディスプレイの光が、研究室の壁を淡く照らしていた。



第四十七回 倫理学はあなたの心に

 Zoom越しに語られた一連の経緯を聞き終え、関係者もプレスの人間も、ようやく長い霧の中を抜け出したような心持ちになっていた。視界が開け、朝露に湿った大地が現れる――そんな感覚である。


 拡張ゼミ室の前に立つ眞栄田豪姫は、集まった学生や研究者たちをゆっくりと見渡した。

「今日は、私の講義は特に行いません」


 少し意外そうなざわめきが起こる。

「一応、レポートは書いておきます。気になる方は『豪姫ちゃんねる』のコメント欄を読んでください」


 豪姫は、いつものように軽く微笑んだ。

「ただし――今、皆さんの心の中にあるその思い。それこそが、倫理学の入り口です」


 誰も、すぐには言葉を発せなかった。怒り、疑念、安堵、後悔、同情。整理のつかない感情が、各々の胸の奥に沈んでいる。それを指して、豪姫は言ったのだった。


 「倫理学は、教科書の中にはありません。あなたの心にあります」

それだけを残し、倫理学研究室開設記念特別講義は、静かに幕を下ろした。


―――


 その後の経緯は、事務的に進んだ。

 箱根警察は、川崎順子と伊藤英顕を逮捕。ローカルニュースでは、ファミリートライアスロン大会が盛大に開催されたこと、途中で救急車が出動する緊迫した場面があったこと、しかし参加者の健康に大きな支障はなかったことが淡々と報じられた。


 扱いは控えめだった。まるで、社会が「これ以上、騒ぎ立てる必要はない」と判断したかのように。


 だが、報道されない場所――Zoomの片隅では、こんなやりとりが交わされていた。


 箱根警察署の杉内警部補が、スマートフォンに向かって頭を下げる。

「貴重な証言をお話しいただいたおかげで、犯人を速やかに逮捕することができました。警察を代表して、御礼申し上げます」


 画面の向こうで、近藤定吉が静かに答える。

「おつとめご苦労様でございます。私の身内だった人間が起こした事件で、私も責任を痛感しております。この件につきましては、今後も捜査に全面的に協力いたします。どんなことでもお申し付けください」


 そのやりとりを聞いていた三山剣斗が、杉内警部補のスマホ画面に身を乗り出した。

「近藤さん、大変でしたね」


 一瞬、間を置いて、近藤が応じる。

「三山さん。このたびは、たいへんご迷惑をおかけしました」


 すると三山は、思いもよらぬことを口にした。

「ここ三十年くらいですかね。毎年、お会いしていましたから、トライアスロン会場で近藤さんを見たとき、すぐに分かりましたよ」


 近藤は、画面の向こうで目を瞬かせる。

「……と、言いますと?」


 三山は、少し照れたように笑った。

「私が真打になった五十歳の頃からです。毎年一回は、演芸場に来てくれていましたよね。いつも会場の隅のほう」


 近藤は、言葉を失っている。


 「あなたがいらっしゃるときは、特に声を張り上げて演じていました。――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()んでね」

―――

 八十一歳の落語家は、そう言って肩をすくめた。


 五十年前、決裂したまま交わらなかった二人の道は、互いに少し間合いを取ったまま、三十年ものあいだ、同じ空間を共有していたのだった。


 スマホの画面越しに、近藤は深く、ゆっくりと頭を下げた。


 その光景を、誰も茶化すことはなかった。


 倫理学とは、何が正しかったかを裁く学問ではない。

 人が、どのように人を思い続けていたのかを、後になって知るための学問なのかもしれない。


 ――さて、長話もこのへんで。


 (……お後がよろしいようで)

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