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倫理学:女王様の特別講義~眞栄田豪姫の灼熱講話録  作者: 和子


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15限目 箱根外語大学トライアスロン大会(2)

第二十二回 温水プール会場の出会い

 温水プール特有の、鼻の奥に残る塩素の匂いが立ち込めていた。

湿り気を帯びた熱気が天井近くに滞留し、ガラス越しの外光が水面に揺れている。その空間全体が、大会開始前だけに許された張り詰めた静けさを孕んでいた。


 「江藤君はね、今回、運営スタッフのボランティアをやってるの。スタート会場の温水プール担当だから、きっとここにいるはずだよ」


 三山世理(みやませり)はそう言って、隣を歩く祖父・三山剣斗(みやまはやと)を振り返った。声には、隠しきれない誇らしさが混じっている。

 普段は歴史書の頁をめくりながら、遠い時代のイケメン武将に心を躍らせている彼女だが、今日ばかりは違った。現代に生き、今ここに存在する"自慢の彼氏"を、どうしても祖父に見せたかった。


 開始三十分前。

プールの水面は、これから始まる激闘を前にしたかのように、不自然なほど静まり返っていた。

そのプールサイドの一角では、黄色いビブスを身につけた運営スタッフたちが、最終ミーティングを行っている。


 その集団の中で、ひときわ目を引く背の高い青年がいた。

百八十センチを超える長身。江藤裕也(えとうゆうや)だ。


 「見て、お爺ちゃん。あの背の高い人が江藤君よ」


 世理が指さす先で、裕也は統括リーダーの説明に真剣な面持ちで耳を傾け、要点ごとに深く頷いていた。普段、理論派で穏やかな印象の彼とは違い、その表情には大会の安全を背負う者としての緊張と覚悟が滲んでいる。


 剣斗(はやと)は目を細め、じっとその姿を見つめた。

ふにゃりとした、いつもの好々爺らしい表情の奥で、その眼光だけが、わずかに鋭さを帯びる。


 「……そうか。ここからだと、あいにく顔まではよく見えんな」


 「あ、今なら近づけるかも。呼んでこようか?」


 世理が一歩踏み出そうとした、その瞬間。

剣斗は穏やかに、しかし確かな力で、孫娘の肩に手を置いて制した。

「いや、やめておきなさい」


 「え?」


 「あれは大事な仕事前の“詰め”の時間だ。あんな真剣な顔で打ち合わせをしているところに声をかけるのはな、大事な仕事の前に気を逸らさせるようなものだ」


 世理は一瞬きょとんとし、それから小さく頷いた。

「……うん。そうだね。江藤君、安全な大会にするために、すごく集中してるみたい」


 「ああ。挨拶は、あとでゆっくりすればいい。今は、彼の邪魔をしないほうがいい」


 「わかった!」

世理はそう言って笑顔を取り戻すと、すぐに切り替えた。


 「じゃあ、私たちもそろそろ整列しなきゃ。お爺ちゃん、ファミリー部門、絶対に完走しようね。足、引っ張らないでよ?」


 「ははは、何を言う。お前こそ、張り切りすぎて自転車で転倒するなよ」

軽口を叩き合いながら、二人はスタート地点となる入水エリアへと歩き出した。


 世理が前を向き、足取り軽く進み出した、その一瞬。

剣斗はもう一度だけ、プールサイドで指示を飛ばす裕也の方へと視線を投げた。


 その眼差しには、孫娘には決して見せない種類の静けさが宿っていた。

まるで、過去を知る者同士が、言葉を交わさぬまま、互いの奥底を測り合うかのような、深い沈黙。


 水面はなお静かに揺れ、開始の時を待っていた。



第二十四回 開始前の“トラブル”

 プールサイドの喧騒を、濁った怒号が鋭く切り裂いた。


 「手前(てめえ)なんぞにやられる俺じゃねえわ!ここで白黒つけてやろうじゃないか!」


 一瞬で、空気が変わった。

笑い声も、雑談も、すべてが途切れ、参加者とスタッフの視線が一斉に一点へと吸い寄せられる。


 そこにいたのは、睨み合う二人の老人だった。


 一人は三山剣斗。

そして彼に激しい悪態を浴びせているのは、別チームの参加者と思しき男。七十代後半に見えるが、背は低くとも筋骨は太く、長年鍛え上げた肉体の上に、どす黒い闘志が張り付いている。自分より一回り背の高い剣斗を見上げ、今にも掴みかからんばかりの勢いだった。


 だが――。


 三山剣斗は、一言も発さなかった。

腕を組み、固く口を結び、静かに目を閉じている。


 微動だにしないその佇まいは、嵐の到来を前にして根を張る巨木のようだった。逃げない。抗わない。ただ、そこに在る。

しかしその沈黙は、決して弱腰から来るものではない。むしろ、下手に触れれば命取りになる――そんな底知れぬ威圧感が、男の足を無意識に止めさせていた。


 「……お爺ちゃん」

三山世理は、その異様な殺気に息を呑み、祖父の腕に身を寄せた。

いつもはふにゃりと笑っている祖父が、今はまるで別人のようだ。彼女は反射的に、祖父を(かば)うように一歩前に出た。


 その様子を、スタート地点のプール内から見ていた男がいた。

すでに入水し、スタンバイに入っていた江藤裕也だ。


 騒ぎに気づいた瞬間、彼の表情が鋭く変わる。

裕也は隣のスタッフに短く指示を飛ばすと、水を跳ね散らしながらプールサイドへと這い上がった。


 「……チッ、こんな時に」

濡れた身体のまま、迷いのない足取りで騒動の中心へ向かう。

理論派で知られる彼が、この感情の爆発をどう収めるのか。

あるいは――彼と剣斗の間に横たわる、語られていない"秘密"が、この不測の事態で露呈してしまうのか。


 スタート直前の温水プールは、競技とは別の意味で、張り詰めた熱気に包まれ始めていた。



第二十五回 仕切りの名手“勝手連”

 江藤裕也が割って入る、その一歩手前。場の空気を支配する“影”が、音もなく動いた。


 仲裁に現れたのは、警察官でもなければ、慌てた大学職員でもない。

作業着の上に黄色いビブスを羽織った男――宮ノ下巧だった。


 「まあまあ……」

その声は低く、穏やかで、しかし不思議な通りの良さを持っていた。


 「これから大勢の皆さんが、トライアスロンを楽しもうって時です。

ここはひとつ、私の顔に免じて……どちら様も、引いてはいただけませんか」


 宮ノ下は、躊躇なく二人の間に踏み込む。

そして、一人一人の目をしっかりと見据え、静かに、しかし抗いようのない重みをもって言葉を置いた。


 「ここでの不始末は、すべてこの私が引き受けます。競技が終わったら、どちら様も私のところへ来てください。必ず、納得のいくように取り計らいますから」


 一瞬、間を置いてから、付け加える。

「ゴールでは、腕によりをかけた温かい豚汁も用意して待っています。……冷める前に、ぜひ召し上がっていただきたい」


 怒鳴り合いを力でねじ伏せたわけではない。

それなのに、荒れ狂っていた闘志は、まるで六畳の茶室に封じ込められたかのように静まっていった。


 先ほどまで噛みつく勢いだった男は、宮ノ下の落ち着きに毒気を抜かれたのか、気まずそうに視線を逸らすと、チームメイトを促してその場を離れていった。


 嵐は、嘘のように去った。


 三山剣斗は、いつの間にか、あの"務所河原(むしょがわら)札月(ふだつき)"のふにゃりとした穏やかな表情に戻っていた。

彼は宮ノ下に向き直り、深々と頭を下げる。


 「……孫を連れていたもので。つい、(にら)んでしまいました。親分さんの豪胆なお計らいに救われました。厚く御礼申し上げます」


 宮ノ下は、苦笑混じりに首を振った。


 「親分だなんて、とんでもない。私は、ただの木工所の職人ですよ。こちらの気配りが足りず、ご不快な思いをさせてしまいました」


 そして、柔らかな笑みを添える。


 「どうか、この大会を心ゆくまで楽しんでいってください。ゴールの豚汁は……本当に旨いですから」


そう言い残すと、宮ノ下は何事もなかったかのように、他のスタッフへの指示出しへと戻っていった。


 この大会を下支えする、箱根の“勝手連”。

宮ノ下巧(みやのしたたくみ)は、その中心に立ちながら、決して前に出すぎることのない男だった。

挿絵(By みてみん)

 だが、その場にいた者の多くは、はっきりと感じ取っていた。――この人物が動けば、場の流れそのものが変わる、と。


 そして、この小さな“トラブル”が、後に取り返しのつかない連鎖の始まりだったことを、まだ誰も知らない。



第二十六回 仕切りなおして開会式

 その様子を少し離れた場所で見ていた裕也は、安堵とともに、改めてこの「箱根」という土地の層の厚さに舌を巻いた。一筋縄ではいかない老人たちと、それを一言で収める地元の名士。


 「……さすがだな、宮ノ下社長は」

裕也は小さく独り言を漏らすと、再びスタート地点へと戻るべく、水を含んだ体で歩き出した。


 騒動の余韻がまだ空気に残るプールサイドで、戻ってくる宮ノ下巧と江藤裕也はすれ違った。


 江藤は足を止め、深く一礼する。

宮ノ下は立ち止まりもせず、ただ江藤の肩を軽く叩いた。その仕草は、叱咤でも労いでもなく、「現場に戻れ」という短い合図のようだった。


 江藤はその背中にもう一度、無言で頭を下げると、濡れた床を蹴ってプールへと走り去っていった。競技は待ってくれない。今はそれでいい――そう言われた気がした。


---


 「お爺ちゃん……さっき、ちょっと怖かったよ」


 三山世理は、不安を拭いきれないまま、祖父の顔を下から覗き込んだ。

 あれほど場を凍らせていた峻烈な気配は、もうどこにも残っていない。それでも、胸の奥に残るざわめきは簡単には消えてくれなかった。


 「急に黙り込むから……何かあったのかと思っちゃった」


 剣斗は一瞬きょとんとしたあと、いつものように頭を掻きながら、ふにゃりと笑った。


 「ああ、すまなかったね。びっくりさせてしまったな」

そう言ってから、少し間を置く。

「まさか、こんな場所で……昔の知り合いに、何度も会うとは思っていなかったものでね」


 「知り合い?」

世理は首を傾げた。

「さっき怒鳴ってた、あのお爺さんのこと? それに……宮ノ下社長も?」


 純粋で、悪気のない問いだった。


 だが剣斗は、その瞬間だけ言葉を飲み込んだ。喉の奥で何かを噛み砕くような、ほんのわずかな沈黙。

「……あの方は、宮ノ下さんとおっしゃるのかい?」


 視線が、無意識に人の流れの向こうを追う。

黄色いビブスの背中は、もう雑踏に紛れて見えない。


 「いや、初めてお会いしたよ」

剣斗はそう続け、穏やかに笑った。

「だが……実に見事な治め方だ。立派な人物だと思った」

その声には偽りはなかった。

だが、ほんの一瞬だけ宿った鋭さを、世理が見逃したかどうかは分からない。彼女は深く追及せず、代わりにぱっと表情を明るくした。


 「ねえ、お爺ちゃん! 参加者はあっちに集合だって!」

世理は祖父の手を引いた。

「ぼやぼやしてると、スタートに遅れちゃうよ。頑張ろうね!」


 「おっと、そうだったな」

剣斗は朗らかに笑い、孫の手を握り返す。

「ははは……世理、よろしく頼むよ」


 再び歩き出した剣斗は、誰の目にもただの柔和な好々爺にしか映らなかった。

その足取りは軽く、背中も丸い。


 だがその胸の奥では、先ほどの「昔の知り合い」との邂逅、そして――

箱根を仕切る宮ノ下巧という男の存在が、静かに、確かな重みをもって反芻されていた。


 やがて二人は、選手たちの熱気が渦巻く入水エリアへと辿り着く。

水面は穏やかに揺れ、スピーカーからは開会式開始を告げるアナウンスが流れ始めていた。


 こうして大会は、何事もなかったかのように――しかし確実に、何かが動き始めた気配を孕んだまま、再び幕を開けた。



第二十七回 平成の因縁

 開会式の列に並んだとき、剣斗は自然と前方に視線を走らせていた。


 六組ほど先に、見覚えのある背中があった。先ほどプールサイドで悶着を起こしていた、あの老人である。


 その両脇には、四十代半ばほどの女性と、二十代前半とおぼしき青年。三世代で編成されたファミリーチームなのだろう。肩を寄せ合うその距離感は近く、ぎこちなさはない。

 彼らの背中で、小さく揺れるゼッケンに印刷された文字が、剣斗の視界に刺さった。


 ――近藤。


 それを認識した瞬間、剣斗の脳裏に、色()せた平成の記憶が一気に蘇った。セピア色に沈んでいたはずの映像が、音と匂いを伴って、唐突に息を吹き返す。


 近藤定吉(こんどうさだよし)


 二人はかつて、商売敵などという生易しい関係ではなかった。

正確に言えば、血で血を洗う抗争に身を投じていた対立組織の人間同士だった。


 互いに名を名乗る前から、牙を()き、刃を隠し持ち、疑いと暴力が日常だった時代。

剣斗も、近藤も、時代の闇の中を、生き延びるためだけに走っていた。


 二人が最後に顔を合わせたのは、今から五十年前。剣斗が三十歳で、刑務所を出所した日のことだ。


 その頃には、双方の組はすでに霧散(むさん)していた。


 抗争が最も激化した夜、剣斗が放った一撃によって、近藤側の組長は重傷を負った。一命は取り留めたものの、それを機に、組は解散を決断する。


 剣斗はその代償として傷害罪で一年の実刑判決を受け、冷たい壁の中にいた。


 勝ったはずの剣斗の組も、無事では済まなかった。


 1992年に施行された暴力団対策法の荒波に抗えず、ほどなく解散。

守るべき「居場所」そのものが、時代によって消されていった。


 出所の朝。

刑務所の重い門を出た剣斗を、迎える身内は一人もいなかった。


 ――いや。


 正確には、たった一人だけ、門の外に立つ男がいた。

煙草を(くゆ)らせ、こちらを見ていた男。


 それが、近藤定吉だった。


「よお、三山。お勤め、ご苦労さんだったな」


 かつての仇敵は、仕立ての良い高級スーツに身を包み、若き実業家としての自信を全身に纏っていた。

表情には、あの頃の殺気は欠片もなく、羽振りの良さと余裕だけが滲んでいた。


 「昔のことは、もう水に流そうや」

近藤はそう言って、厚みのある封筒を差し出した。

 「これは、俺からのささやかな出所祝いだ」


 だが剣斗は、その封筒を一瞥もしなかった。

無言のまま、静かに突き返す。


 ――金が欲しくて、鉄砲玉をやっていたわけじゃない。


言葉にしなくとも、その沈黙には、確かな矜持(きょうじ)があった。


 それから数十年。一方は落語家として、一方は実業家として。それぞれが全く異なる道を歩み、社会的には「更生」したはずの二人。


 まさか、箱根のプールサイドで、再び同じスタートラインに並ぶことになろうとは。


 「……お爺ちゃん、どうかしたの?」


 世理が、不安そうに袖を引いた。


 「いや、なんでもないよ」

剣斗は、ふにゃりと笑ってみせる。「ちょっと昔の『落語の演目』を思い出してな」


 冗談めかした声に、世理は首を傾げつつも、それ以上は踏み込まなかった。

だが剣斗の視線は、前を行く近藤の背中から、しばらく離れなかった。


 平成を越え、令和を迎えてなお――消えたはずの因縁は、形を変え、古びた火種となって、静かに胸の奥でくすぶり続けていた。


 この再会が、ただの偶然で終わるのか。それとも、再び何かを呼び起こすのか。


その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。



第二十八回 隠された過去

 世理に背中を押されるようにして、剣斗はスタートラインへと歩き出した。

 腕に袖を通したウェットスーツが、ひやりと肌に密着する。その感触を、彼は無意識のうちに確かめていた。そのぴったりと包み込む感触こそが、孫とスポーツを楽しむ自分の安心を支えているのだ。


 今回の大会用に用意されたトライアスロンウェアは、半袖にショートパンツという、身体の線がはっきりと出るタイトな仕様だ。だがその黒い生地の内側には、剣斗と近藤――二人の老人が背負ってきた「過去」が、完全に封じ込められている。


 肩から背中にかけて彫り込まれた、暴力団の匂いを色濃く残す極彩色の刺青(いれずみ)

 かつては誇りであり、名刺であり、生き様そのものだった「看板」は、いまやこのウェットスーツの下で、深く眠っている。


 時代は変わった。


 公衆浴場に足を踏み入れることすら叶わず、旅先が温泉地であっても、他人と湯を共にすることはない。


 世理がまだ幼かった頃、「どうしておじいちゃんは一緒にお風呂に入ってくれないの?」と無邪気に尋ねてきた、その瞬間の胸を締め付けるような痛みを、剣斗は今でも鮮明に覚えている。


 だからこそ、この大会は、彼にとって特別だった。


 「お爺ちゃん、準備はいい?」

世理が振り返り、弾むような声で言う。

「私、最初のスイムで貯金作るからさ。お爺ちゃんは自分のペースで、しっかり繋いでね!」


 「分かってるよ」

剣斗は軽く笑った。

「こう見えてもな、昔は水の中を潜って逃げるのだけは得意だったんだ」


 「もう、また変な冗談ばっかり!」


 世理は笑い飛ばしたが、剣斗の言葉は、半分が真実だった。


 刺青を隠し、周囲の視線を気にすることなく、愛する孫と同じ目標に向かって泳ぎ、走る。

 それは、激動の時代を生き延び、独りで刑務所の門をくぐったあの日には、想像すらできなかった未来だ。


 晩年に与えられた、ささやかで、しかし何ものにも代えがたい「救い」。


 ふと前方を見ると、近藤定吉の姿があった。


 彼もまた、娘と思しき女性と、孫らしい青年と肩を並べ、静かに歩いている。


 あの男もまた、かつての刺青をウェットスーツの下に隠し、いまはただの「祖父」として、ここに立っているのだろう。


 二人の老人は、互いの背中に刻まれた消えない過去を、黒い生地の内側に押し殺しながら、まばゆい光が反射するプールサイドへと、同時に足を踏み出した。


 号砲は、まだ鳴っていない。


 だが、それぞれの胸の奥では、すでに長い人生の続きを賭けたレースが、静かに始まっていた。



第二十九回 ファミリートライアスロンのシステム

 「ねえ、お爺ちゃん。時計のセット、大丈夫?」


 世理は自分の手首を持ち上げ、無骨なデバイスを指差した。

 木製バンドに収まったそれは、今大会の計測の要――完全防水仕様のデジタル表示付き十二分計クロノグラフである。


 「おう、ちゃんと動いてるみたいだな」


 剣斗も同じ時計を確かめるように見下ろした。

 この「箱根ファミリー・トライアスロン」は、一般的な競技大会とは一線を画す、奇妙で、そしてどこか理詰めなルールに貫かれている。


 まず立ちはだかるのが、【年齢平均の壁】だ。


 各チームは、参加メンバーの平均年齢が五十歳、プラスマイナス五歳の範囲に収まらなければならない。若さも老いも、それ単体では武器にならない。


 三山チームは、八十一歳の剣斗と十九歳の世理――二人合わせて平均五十歳、誤差ゼロ。


 一方の近藤チームは、七十八歳の定吉、四十五歳の娘、二十一歳の孫という三世代構成で、平均四十八歳。


 いずれも、絶妙に計算されたハンデキャップをクリアし、同じスタートラインに立っていた。


 そして、この大会を最も特徴づけているのが、【計測システム】である。


 スイム、バイク、ラン――いずれの距離も通常より短い代わりに、タイムは個人ではなくチーム平均で競われる。

 しかも、その計測単位は実に潔い。


 「……秒は切り捨て、か」


 剣斗は腕時計の文字盤を見つめ、低く呟いた。


 この十二分計クロノグラフは、3つのレースのスタートゲートとゴールゲート夫々(それぞれ)に設置されたFeliCa端末に触れることで、自動的に作動と停止を行う。

 記録は即座に大会運営のコンピュータへ送信され、集計される。選手が自分の手元で目にする数値が、そのまま公式記録となる仕組みだ。


 スタート――ゲートにタッチ、計測開始。

 ゴール――ゲートにタッチ、計測停止。

 記録は秒を切り捨て、一分単位で累積される。


 「スピード自慢の若者だけじゃ、勝てないってことだよ」


 世理が、得意げに説明する。


 「秒を稼ぐんじゃなくて、"分"を落とさないことが大事なの。お爺ちゃんみたいなベテランが、どうやって無駄な一分を削るか。それが勝負の分かれ目なんだから」


 体力差を、技術と判断、そしてチームワークで埋める。

秒を競わせないこのルールは、いかにも箱根らしい知的な設計だった。


 「なるほどな」

剣斗は大きく頷いた。


 「(はな)から秒単位の贅沢は言わねえ、ってわけか。落語の尺と同じだな。要は、キリの良さと()、それにオチだ」


 そう言って、彼は文字盤を軽く叩いた。スポーツ仕様の時計は、びくともしない。


 最先端のコンピュータによる厳密な管理。そして、どこかアナログで大らかな時間感覚。


 この相反する二つが同居する不思議なシステムの中で、まもなく競技は始まる。それは、一秒を「削る」戦いではない。


 一分一分を、どう刻むか。


 人生と同じ重さを持つその勝負が、いま静かに号砲を待っていた。



第三十回 サウナ愛好家の「時計」とは

 世理と剣斗が手首に巻いているそのデバイスは、単なる競技用の計測機材ではなかった。


 実はこれ、サウナ愛好家――通称「()()()()」たちの間で絶大な支持を集め、市場では「SAIGYO サウナダイバー」の名で知られるヒット商品なのである。

挿絵(By みてみん)

 この時計の真骨頂は、製品ラインナップの中でも「トライアスロン・マスター・シリーズ」に搭載された、非接触型ICカード技術FeliCaの応用にあった。


 「これね、普段はサウナの入り口で"ピッ"てやるだけで、自動でサウナモードに切り替わるんだよ」


 世理は自慢げにそう言って、ベゼル部分を指先で撫でる。

回転させるようにスワイプすると、文字盤下半分の液晶表示がくるくると切り替わり、目的の機能で軽くタップすると、通常の時刻表示とは異なるサウナモードへと移行する。


 このモードでは、長針が5周することで短針が一時間分進む、独特な針の動きを見せるストップウォッチ仕様になる。


 操作はすべてFeliCaによる非接触制御。サウナ室の入り口センサーにタッチすれば計測開始、水風呂へ向かう出口センサーに触れれば自動で記録終了。利用時間はすべて内部メモリに保存され、後から期間を指定して「合計"ととのい"時間」を集計したり、平均値を算出したりすることもできる。


 ――己の限界を、感覚ではなくデータで管理したい。

そんな()()()()たちにとって、まさに理想のフェイバリット・ガジェットだった。


 この仕様はSAIGYO社だけにとどまらず、世界の主要時計メーカーがこぞって採用し、今や市場シェアを争う一大トレンドとなっている。


 中でもSAIGYO社製は、箱根木工所が手がけた木製時計バンドを採用し、防熱・耐熱・防湿・十気圧防水・耐衝撃・非接触瞬間充電・電波時計というフル装備を誇る。


 竜頭(りゅうず)を持たないため、本体ケースは硬質ガラスの一体成型。


 表面に金属部分が一切ないため、長時間のサウナで加熱しても肌に触れて火傷する心配がない。ガラスも高い耐熱性を持ち、高温から水風呂へ飛び込んでもひび割れることはなかった。


 「ほう……サウナの時計か」


 剣斗は感心したように目を細める。


 「道理で見覚えがあると思ったよ。落語の稽古終わりに寄る銭湯のサウナにも、似たようなのが壁に掛かってたな。まさか、それがトライアスロンの計器になるとは」


 ちなみにこの時計、通常のFeliCaカード機能も備えており、液晶には残高表示も出る。


 箱根登山鉄道にもそのまま乗れるし、湯上がりに自販機でフルーツ牛乳を買うこともできるのだ。


 今回の大会では、このFeliCaによる外部端末制御システムがフル活用されている。

 スタートとゴールのゲートに設置されたリーダーにウォッチをかざすだけで、ストップウォッチのON/OFFが瞬時に切り替わる。

 激しい運動の最中に小さなボタンを操作する煩わしさを排除しつつ、運営側はリアルタイムで正確な平均タイムを算出できる――まさに合理の極みだった。


 「最新技術をサウナとトライアスロンに流用するなんて、いかにも箱根らしいよね」


 世理はニヤリと笑い、プールコースのセンサーへと歩き出す。


 「さあ、お爺ちゃん。私たちの"ととのい"……じゃなくて、ベストタイムを記録しに行こう!」


 ハイテクとアナログな根性が融合した、箱根外語大学ならではの祭典。

その幕開けを告げる電子音が、プールサイドのあちこちで軽快に鳴り始めた。


 ピッ。


 それは、競技開始の合図であると同時に、彼らそれぞれの過去と現在が交差する音でもあった。



第三十一回 第一レース・スイミング

 「一分は切りたいよね、絶対」


 三山世理はゴーグルを目元に密着させ、水面の向こうを鋭く見据えた。プールに反射する天井の光が、微かに揺れる。競泳選手並みの実力を持つ彼女にとって、百メートルを直線で泳げば五十秒を切ることなど造作もない。だが、今日のスイムは別だ。ここ箱根外語大学の大会には、伝統と悪意がほどよく混ざった独特の――通称「箱根ルール」がある。


 スタートの電子音が鳴り、水を裂いて世理の身体が滑り出す。五十メートル地点、通常なら一瞬で体を反転させるクイックターンは禁止されていた。代わりに設置された金属バーを、素手でつかみ、引き寄せ、隣のレーンへと横移動する。ほんの一瞬のロスが、致命傷になりかねない。


 バーを離した瞬間、世理は壁を蹴った。体は水底へと沈み、強烈なバサロ泳法で一直線に進む。肺が内側から押し潰されるような圧迫感。だが、浮上と同時に彼女は迷いなくクロールへ切り替え、腕を回した。


 梯子段を上り、その先のゴールゲートに指先が触れた瞬間、「ピッ」という乾いた電子音が響いた。


 手首のサウナ時計が示す表示は、一分。


 一分一秒でも超えれば、この時計は無慈悲に「二分」と刻む。情け容赦のない世界だ。世理は水を吐き出すように息を吐き、叫んだ。


 「やった! 一分!」


 彼女は濡れたままプールサイドに駆け上がり、設置されたドライヤーボックスへ飛び込む。全方向から吹き付ける猛烈な温風が、水滴を一気に吹き飛ばした。肌が熱を帯びる前に、ウェットスーツの上からランニングと短パンを重ね着し、振り返る。

挿絵(By みてみん)

 祖父の番だ。


 八十一歳、三山剣斗。スタート台に立つその背中には、年齢とは釣り合わない張りがあった。かつて「鉄砲玉」と呼ばれた時代に鍛え上げたのか、その飛び込みは驚くほど鋭く、水面をほとんど音もなく割った。


 前半五十メートル。大きなストロークのクロールで、若者に引けを取らぬ速度を維持する。折り返し地点では、無駄を嫌うようにバーを横手につかみ、後半は一転して平泳ぎへ。体力を計算に入れた、老練な泳ぎだった。


 「……ふぅ、間に合ったか」


 ゴールに触れた指と同時に、再び「ピッ」という音。


 表示は、一分。


 「お爺ちゃん、チーム平均一分だよ! 最高のスタート!」


 世理が駆け寄ると、剣斗は荒い息の合間に小さく笑った。

「ああ……なんとか『分』の壁は、守り切ったようだな」


 安堵する間もなく、次のセクションが二人を待っている。


 「お爺ちゃん、電動キックボードは乗れる?」


 「大丈夫だ。この日のために、ちゃんと練習してきたからな」


 二人は箱根外語大学名物、モバイル・ウォーキング――電動キックボードに飛び乗った。モーター音とともに風を切り、キャンパスの優先レーンを滑走する。


 目指すは、通称「熊と相撲をとる金太郎像」が鎮座するBMXスタートコーナー。


 知性と体力、そして遊び心が奇妙な均衡を保つ箱根の山を、孫と祖父のチームは、まだ余熱の残る身体のまま駆け抜けていくのだった。



第三十二回 第二レース・BMXアンド・クイズ

 ここからが、この大会の本領だった。

単なる体力勝負ではない。知力と技術、そして観察眼――箱根外語大学が誇る“悪ふざけ一歩手前の知性”が、ここで試される。


 BMXバイク・モトクロスセクションの入り口には、このコースの象徴とも言える銅像が鎮座していた。

「熊と相撲を取る金太郎像」。子ども向けの微笑ましいモチーフのはずが、なぜか睨み合う二体の視線には、山の気配と緊張感が宿っている。


 「まずは、こいつだな」


 剣斗が顎で像を示す。

この風景を観察し、記憶せよ。後に控えるクイズは、必ずこのディテールから出題される。走り出す前から、勝負は始まっているのだ。


 「ここはお前に任せたよ、世理」


 「任せて。……でもさ、毎日通ってるキャンパスなのに、こんなにじっくり見たことなかったな」


 世理は深く息を吸い、焦る心を押さえ込んだ。

像の周囲をぐるりと回り、正面、側面、背面と視線を走らせる。金太郎の眉の角度、踏み込んだ足の位置、熊の爪の形――。


 そして、ふと気づいた。


 「……熊の方、"回し"してないんだね」


 言葉にした瞬間、その違和感が確信に変わる。

相撲を取っているはずなのに、熊は裸身のまま。金太郎だけが回しを締めている。


 「なるほどな」

剣斗が短く頷いた。その発見を脳内のフォルダに叩き込み、二人はそれぞれのBMXへとまたがる。


 コースはすぐに牙を剥いた。

山道に入り、隆起した木の根と岩が、容赦なく進路を塞ぐ。


 「お爺ちゃん、凄い……!」

世理の声には、思わず本音が滲んでいた。

剣斗の背中は、八十一歳という数字を嘲笑うかのようだった。ハンドル捌きは無駄がなく、体重移動は最小限。デコボコの地形を、ほとんど足を着くことなく走り抜けていく。


 「ははは。昔はな、自転車で蕎麦屋の出前をやってたんだ」

剣斗は息を乱さぬまま言った。

「これが、身体に染み付いてるんだよ」


 その言葉に、世理は一枚の古い写真を思い出していた。

角盆を肩に担ぎ、そばや丼を五段も重ね、片手運転で細い路地を疾走する若き日の剣斗。まるでサーカスの曲芸師のような姿。だがそれは、遊びではなく、生きるための必死の技だった。


 出所後の剣斗は、昼は出前、夜は建設現場。汗と泥にまみれ、ただ働き続けた。


 落語の世界へ足を踏み入れたきっかけも、皮肉なことにその過去が組み合わさったものだった。


 夏場、シャツ一枚での出前は許されない。半袖の隙間から覗く刺青(いれずみ)の影が、堅気の世界ではどうしても壁になった。


 そんな折、出前先の寄席で縁のあった落語家――()()()()()()(なまけや・きんむろう)に拾われ、内弟子となる。

三十五歳を過ぎての、遅すぎる入門。


 だが、修羅場を(くぐ)り抜けてきた度胸は、高座の上でこそ真価を発揮した。

客席を丸ごと飲み込むような堂々たる語り口。わき目も振らず落語に打ち込み、真打へ昇り詰めたのは五十歳のときだった。


 「……着いたぞ、世理。クイズポイントだ」

剣斗の鋭い声に、世理は我に返る。山道を制した先、開けた場所に、タブレットを手にした運営スタッフが待ち構えていた。


 走りは終わり、次は――記憶と推理の時間だ。



第三十三回 高座で鍛えた観察眼

 「……問題です。先ほどの金太郎像。熊の右足は、地面から浮いていましたか?」


 静まり返った山間に、運営スタッフの声が落ちた。

タブレットの画面に映し出された問いを見た瞬間、世理の思考が一拍、止まる。


 ――足……?


 像の顔、腕、足運び、回しの有無。そこまでは確かに見た。

だが「右足が浮いていたかどうか」という、接地の有無までは、意識が届いていなかった。


 「しまった……」

世理の喉が鳴る。制限時間が、容赦なく削られていく。指は反射的に「パス」の選択肢へと伸びかけた。


 その瞬間だった。

「浮いちゃあいなかったな」


 背後から、驚くほど落ち着いた声が飛んできた。


 「がっしり四股を踏むみたいに、地面に着いてたはずだ。答えは『×』だよ」


 「えっ……あ、はい!」

世理ははっとして画面をタップする。

表示は――《正解》。胸の奥で、強く何かが弾けた。


 間髪入れず、次の問題が表示される。

「問題。土俵の周りには、行司役の『狐』がいましたか?」

挿絵(By みてみん)

 「……ええっ、狐?」


 世理が混乱していると、またしても剣斗が、何でもないことのように言った。


 「×だな。行司をやってたのは、腹を突き出した”狸”だった」


 正解。さらに次。


 次。また次。


 世理が「そんなところ、見てない……!」と内心で悲鳴を上げるような細部を、剣斗は一切の迷いなく言い当てていく。

まるで、風景を丸ごと写真に収めていたかのようだった。


 それは、偶然ではない。


 剣斗が長年の高座生活で磨き上げてきた、職業病とも言える能力だった。

落語家は、高座に上がった瞬間、照明の向こうに広がる数百人の客席を“読む”。表情、空気、身じろぎ、着物の色。すべてを一瞬で掴み、その日の間と呼吸を決める。


 場を支配するための、極端に研ぎ澄まされた観察眼と把握力。

それが今、競技クイズという意外な形で、遺憾なく発揮されていた。


 「最終問題」


 スタッフの声が、わずかに緊張を帯びる。


 「土俵下で見守っていた動物は、犬と猪であった」

挿絵(By みてみん)

 剣斗は、ふにゃりと笑った。そして、迷いなく言い切る。

「いや、いたのは羊と猿だったな。答えは『×』だ」


 世理が最後の「×」を押し、サウナダイバーをFeliCa端末に翳す。


 「ピッ」


 小気味よい電子音が、澄んだ空気を震わせた。


 結果表示――《全問正解》。

制限時間内、完全突破。


 「すごーい! お爺ちゃん、完璧じゃん!」

世理は思わず跳ね、剣斗とグータッチした。


 「ははは。前座の頃はな、師匠の着物の畳み方一つで機嫌を読まなきゃならんかったからな」

肩をすくめ、剣斗は笑う。

「これくらい、朝飯前よ」


 クイズによるタイムロスを最小限に抑え、全問正解というポイントを獲得した。これは全体の成績にプラス評価となる。三山チームは再びモバイル・ウォーキングへと飛び乗った。積み上げた平均タイムの貯金を、さらに厚くしながら――。


 次は、最後の戦いだ。



第三十四回 最終レース、二キロメートルのラン

 「お爺ちゃん……本当に大丈夫?」


 世理は、隣を滑走するモバイル・ウォーキングの上で、祖父の様子を盗み見た。

肩が、わずかに上下している。呼吸が荒い。


 八十一歳。


 今大会最高齢のランナーとして、ここまで走り抜いてきた代償は小さくない。剣斗の顔には、確かな疲労が滲んでいた。


 「あ、ああ……心配するな」

剣斗は笑ってみせるが、その声には微かな掠れが混じる。

「こいつに乗ってる間は足を使わん。最後のランまでには、落ち着くはずだ」


 ようやく見えてきたのは、最終セクションの目印――「未来を目指す金太郎像」。

ここから先は、文字通り自分の足だけが頼りの二キロメートルだ。


 「お爺ちゃん、水。ひと口でも飲んでおいたほうがいいよ」


 ペットボトルを差し出す世理に、剣斗は静かに首を振った。


 「水は飲まん」

ゆっくりとボードから降りる。

「喉を湿らせるより、先に呼吸を整える」


 そう言って、固くなった膝をほぐすように、ゆっくりと屈伸を始めた。


 そのときだった。


 鋭い足音とともに、一台のチームが脇を駆け抜けていく。

近藤定吉のチーム――プールサイドで因縁を残した相手だ。


 近藤はすれ違いざま、剣斗を一瞥し、「フンッ」と鼻を鳴らした。

その眼光には、かつて“組織の人間”だった頃の、剥き出しの意地が宿っている。


 「お父さん、無理しちゃだめよ!」


 娘らしき中年女性の制止も聞かず、近藤は七十八歳とは思えぬ勢いでランニングコースへと突っ込んでいった。

若い男――孫だろう――が慌てて後を追う。


 「……元気なもんだ」


 剣斗は苦笑し、深く、長く息を吐き出した。

その一吐きで、体内の淀みをすべて吐き切ったかのように、瞳に鋭い光が戻る。

「よし。もう大丈夫だ」

世理を見る。

「行くぞ、世理」


 「……うん! 行こう、お爺ちゃん!」


 これまで積み上げてきた平均タイムのアドバンテージを、ここで吐き出すわけにはいかない。

二人は並んで、最後のゲートへ向かった。


 ピッ


 サウナダイバーの電子音が、最終決戦の幕を切って落とした。



第三十五回 ゴール地点の騒動

 二キロメートルのランニングコースは、苦行というよりも、祝祭へと続く清冽な回廊のようだった。

大学外周を巡る県道は、この日のために完全な交通規制が敷かれ、ランナーたちは遮るもののないアスファルトを、まるで解き放たれた風のように進んでいく。


 もっとも、ここは箱根だ。

高低差は情け容赦なく、脚と腰に確かな負荷を刻み込んでくる。


 「あちらさん、相当がんばったんだろうな」


 剣斗が前方を探るように視線を走らせ、ぽつりと呟いた。

スタートで先行していた近藤チームの姿は、ついに影すら見えない。


 二人は高台の折り返し点を回った。


 「でも大丈夫。総合タイムでは、絶対に負けてないから!」


 世理は弾む声で笑った。

つい先ほどまで疲労を滲ませていた剣斗だったが、その回復力は驚異的だった。一度「走る」と決めた瞬間から、彼の身体は別人のように応じ始める。数十年前の自分を呼び戻したかのような、軽快なピッチで坂を駆け上がっていった。


 やがて視界が開ける。


 少し高い地点から、芦ノ湖の全景が見下ろせた。陽光を反射してきらめく湖面。その上を、硬式飛行船が優雅な弧を描き、静かに着水する。箱根の秋を象徴する、絵画のような光景だった。


 「……世理と、こんな景色を見ながら走れるなんてな」


 剣斗が、誰に言うでもなく呟いた。


 「神様に、感謝しなきゃいけないな」


 その言葉に、世理の胸がじんと熱くなる。

祖父のペースに合わせるつもりでいたはずが、いつの間にか、自分のほうがその背中に引っ張られていることに気づいた。


 (お爺ちゃん……まだまだ現役だね)


 このトライアスロンを通じて、世理は知らなかった祖父の姿を、次々に見つけていた。

高座の上で扇子一本を操り、何役もの人間を演じ分ける噺家・務所河原(むしょがわら)札月(ふだつき)も好きだ。けれど、汗を流し、同じ地面を踏みしめて走る一人のランナー、三山剣斗(みやまはやと)の姿も、たまらなく愛おしい。


 幸福な高揚感に包まれたまま、二人は最後のカーブを曲がった。


 キャンパス正門を少し入った広場。

そこにはゴールテープと、ひときわ賑やかな歓声、そしてどこか異様な熱気が渦巻いていた。


 ゴール地点は、幸福の極みにあった。


 完走を果たした家族連れが互いの健闘を称え合い、運営の焚き出しで振る舞われる豚汁(とんじる)をすすっている。立ち上る白い湯気は、柔らかな秋の陽光を透かし、会場全体を安堵と達成感で包み込んでいた。


 「お爺ちゃん、本当にすごかったよ!」

世理が弾む声を上げ、剣斗の腕に勢いよく抱きつく。


 「……ああ。この豚汁、実に旨いな」

剣斗は応じ、わずかに震える手でプラスチック椀の汁に口をつける。


 「五臓六腑に染み渡るとは、まさにこのことだ」


 運営のお兄さんがふるまう温かな汁を受け取り、ゆっくりと喉に流し込む。

肺の奥まで行き渡る熱が、長い道のりを走り抜けた身体を労ってくれるようだった。


 空は高く、雲一つない。


 剣斗は、あえて自分から声をかけようと、周囲に視線を巡らせていた。


――降参だよ、近藤さん――あんたの意地には、参った。


 そう言って、数十年分の因縁を、この場所でただの思い出として笑い飛ばすつもりだった。

勝ち負けも、意地も、もういい。ただ共に完走できたことを、年寄り同士で称え合えれば、それでよかった。


 だが。


 どれほど探しても、近藤定吉の姿は見当たらない。


 「……お互い完走できて、何より」

そう言うつもりだった言葉を、剣斗は飲み込み、微笑を浮かべた。

「どこか、見えないところで休んでいるんだろう」


 その瞬間だった。


 平穏な空気を、鋭く引き裂く怒号が、運営テントの奥から突き刺さった。


 「――ゴール五百メートル手前の茂みだ!ランナーが倒れている!意識がない、至急救護班を!」

祝祭のざわめきは、一瞬で凍りついた。

スタッフたちが血相を変えて走り出し、無線から切迫した声が次々と流れ込む。


 「チームのご家族が、他のランナーに助けを求めたそうだ!」 


 「……心肺停止。緊急搬送を要請!搬送対象、参加ランナー――近藤定吉さん、七十八歳!」


 「……っ」


 剣斗の指先が、はっきりと分かるほど震えた。

手にしていた椀が力を失い、地面に落ちる。熱い豚汁が芝生に飛び散ったが、彼の意識はそこにはなかった。


 (……見えなかった)


 胸元を強く掴む。


 (見えなかったんだ。脇の草むらで倒れていた。家族もいたというのに……わしは、気づかず通り過ぎてしまったんだ)


 だが、その言い訳は、内側から崩れ始める。


 (……いや、本当に、そうか?)


 雷鳴のような疑念が、心を打ち抜いた。


 ――お前は、見えていたのではないか。

 ――勝ちたいという一念で、横たわる影を、助けを求める家族の必死のサインを、見て見ぬふりをしたのではないか。


 「……ううっ」

剣斗は低く呻き、その場に崩れ落ちた。

心臓が警鐘のように鳴り響く。かつて歩んできた血塗られた道と、今の穏やかな自分が、泥の底で再び繋がった感覚がした。


 遠くから、救急車のサイレンが近づいてくる。


 赤い閃光を放ちながら、正門前を救急車が駆け抜ける。続いて警察車両が、獣のような勢いでキャンパス内へと滑り込んできた。

大会での事故、そしてスタート前の騒動。警察は応援を要請し、さらに数台のパトカーが逃げ場を塞ぐように連なっていく。


 剣斗は、自らの腕を包むウェットスーツを、忌まわしい鎖のように感じていた。


 彼は刺青を「隠して」いたわけではない。

ただ、不特定多数の目に触れぬよう、「見せない」ようにしてきただけだ。


 だが、警察が介入すれば話は別だ。


 同行、着替え、照会。


 肩から背中にかけて広がる極彩色は、否応なく白日の下に晒される。


 指紋。前科。

どの組織に属し、何をしてきたのか――すべてが、記録の海から引きずり出される。


 そして、何よりも。

剣斗は、隣で小刻みに震えている孫娘の顔を見ることができなかった。


 自分を慕い、誇らしげに「お爺ちゃん」と呼ぶ世理。

彼女は、この先ほどなくして知るだろう。

祖父が、落語家という皮を被った「元鉄砲玉」であることを。


 「……お爺ちゃん?どうしたの、お爺ちゃん!」


 足元に転がる空の椀と、顔面蒼白で虚空を見つめ、震える祖父。

世理は、不安に満ちた瞳で見上げていた。


 春の訪れが近いと知らせる、今日の冬晴れの穏やかな午後は、こうして唐突に終わりを告げた。


 三山剣斗の胸中では、どんな豪雨よりも冷たく、どんな突風よりも激しい絶望の嵐が、これまで築いてきた平穏な余生を、無慈悲に引き裂き始めていた。

――続く――

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