表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
倫理学:女王様の特別講義~眞栄田豪姫の灼熱講話録  作者: 和子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/26

14限目 箱根外語大学トライアスロン大会(1)

第一回 足柄研究都市の住宅事情

 足柄研究都市の北西部、芦ノ湖にせり出すように設けられた飛行艇接岸ポート。その付け根に、箱根外語大学の学生寮が天を突く。地上五十階。箱根外語大学校舎の木造の温もりとは対照的に、新建材で組み上げられた無機質な高層ビルだ。


 学生寮でありながら間取りは3LDK。学生向けとしては破格で、国策の名のもと家賃は共益費を除けば一万円前後に抑えられている。光熱費こそ別だが、この広さを活かしてルームシェアをする外国人留学生も多い。窓からは湖面が見下ろせ、早朝には霧が白くたなびく。

各部屋にはシャワー室しか無いのが難点だが、大学のすぐそばにスパ・コンプレックスがあるので、ゆっくり入浴したり、サウナを使用したい場合はこちらを使えばよい。


 周囲には一般向けの高層マンションも点在していた。四十階建て、スパ付き。舞台を備えた会議室では映画上映やカルチャースクールが開かれ、ときに市民落語会が催される。大学関係者の多くは、こうしたマンションから職場へ通っている。


 その日、堂島剛(どうじまつよし)は汗だくになっていた。眞栄田豪姫(まえだあき)教授の研究室の内装が完成し、ここ一か月に及んだ重労働の総仕上げとして、引っ越しの手伝いに駆り出されていたのである。


「その箱は私の衣類だから、丁重に取り扱ってね」


 軽やかな声が背後から飛ぶ。堂島が抱えた段ボールの隙間から、かつてどこかで嗅いだことのある香りが、かすかに漏れていた。


 ――これはただの引っ越し荷物。心を無にして責務を全うすべし。


 堂島は内心で念仏のように唱え、精神力を総動員して箱を運ぶ。


 そもそも、住居を引き払って研究室に移るとはどういうことか?

答えは単純だった。

この大学では、研究と教育に全力を注いでもらうため、研究室そのものが生活空間として設計されているのだ。ただし単身の利用に限られ、家庭のある教授は、週に一度本宅に帰る生活をしている。


 研究室、図書閲覧室、応接室、ゼミ室、研究員室。それらに加えて、寝泊まり可能な十畳1LK――実質スイートルームまでが完備されている。トイレと大浴場は共用だが、二十四時間使用可能。生活と学術研究が、文字どおり手の届く距離に配置されていた。


 したがって、この研究室棟に入る教授は、任期中、特別な理由がない限りここで暮らすことになる。


 窓の外では、飛行艇が水面を切り、静かに接岸していった。堂島は段ボール箱を床に置き、深く息をつく。


 ここは、学問のために人が住む場所だ――そう実感しながら。



第二回 アントニオ・ロペスの自由計画

 アントニオ・ロペス教授ほど、この大学の制度を巧みに使いこなしている者はいない。


 日本の大学から招聘の話が来たとき、彼はマドリードの自宅で、いかにも残念そうな顔をつくって言った。

Alejandraアレハンドラ、聞いてくれ。日本ではね、二十平方メートルの部屋が一つあるだけらしい。研究室と一体になった簡素な住まいだそうだ。君にそんな息苦しい生活をさせるわけにはいかない」


 妻は眉を下げ、同情のため息をついた。


 「まあ、かわいそうに。あなた一人で大丈夫?」


 スペインでいうピソ、それは一般のアパートでも2~3の寝室があり、広いリビング、独立したキッチン、複数のバスルーム。それが彼らの「普通」だった。そこから思えば、日本の二十平方メートルなど、物置同然に聞こえただろう。


 「心配はいらないさ。学問のためだ」


 そう言いながら、アントニオは胸の内で別の言葉を転がしていた。


 ――Vida de soltero libre。


 自由な独身生活。


 実際に与えられた研究室は、二十平方メートルどころではなかった。それは寝泊まり可能な個室部分であり、別に応接室兼教授室(10畳)、資料室(12.5畳)、ゼミ室(12.5畳)、研究員のオフィス(6畳)も備えていた。共用とはいえ大浴場は二十四時間使え、眺めの良い高層階からは芦ノ湖が一望できる。トイレだって自分で掃除する必要は無い。これはスペインでもハイエンドな物件に相当する。


 夜、ネクタイを外し、窓辺でワインを傾けながら、アントニオは微笑んだ。


 日本での生活は、期待以上に快適だった。ショッピングモールの利便性、深夜でも安全な街路、そして何より、私を誰も「夫」として見ない気楽さ。 本国で私の帰りを待つ妻の存在は、ここでは単なる「定期的な送金元」であり、私の身の潔白を証明するための「記号」に過ぎない。彼女が私のために祈れば祈るほど、私の日本での独身生活は強固に守られていく。


 制度の穴を突き、独身のふりをして享受する公的扶助。妻の献身を燃料にして燃え上がる、(きら)びやかな日本の夜。これを不道徳と呼ぶ者がいるだろうか? いや、これこそが神の差配なのだ。私はこの蜜の味を誰にも教えない。本国の誰一人として、私が今夜どこのレストランで、どんな贅沢に酔い痴れているかを知る由もないのだから。―――その彼をターゲットにしたのは―――


 「―――まさに、倫理学のケーススタディとして最適だわ!」


 眞栄田豪姫教授は、そう言って静かに微笑んだ。


 ある筋から掴んだ断片的な情報。それをつなぎ合わせ、検証し、仮説を立てる――彼女にとっては日常の研究プロセスと変わらない。ただ対象が、同僚のロペス教授だっただけだ。


 小田原の街を歩く男女二人。土産物屋を冷やかし、港で写真を撮り、夕方には箱根湯元へ。温泉旅館では、おそろいの浴衣に丹前(たんぜん)を羽織り、湯上がりに温泉饅頭(まんじゅう)を頬張る。

豪姫は距離を保ち、角度を選び、必要な場面だけを淡々と収録した。感情は挟まない。これは観察であり、記録だ。


 「次の講義に使わせてもらおうと思って……」


 後日、研究室で映像を示され、ロペス教授は言葉を失った。


 「これは……なんとか非公開にできないものか」


 「顔にはボカシを入れますし、声も変えますよ。許可をもらうというより、事前告知だったかしら?」


 豪姫の声音は穏やかだった。だが逃げ道は、最初から用意されていない。


 ロペスの顔から血の気が引く。


 (これがもし、アレハンドラに知られたら……)


 胸裏に浮かぶのは、妻の静かな視線だった。息子も娘も、きっと母の味方をする。スペインに、帰る場所はなくなるだろう。


 豪姫は資料を整えながら、淡々と告げた。

「問いは単純です。公私の境界、権力勾配、そして自己正当化。学生たちの研究対象として倫理学の俎上にのせることができる普遍的なケーススタディ。あなたは、どこかで線を引いたつもりでいたの?」


 研究室の窓の外で、芦ノ湖の水面が光る。ロペス教授は、答えを探すように、その光から目を逸らした。


 動画の使用は見送られ、その代わりとして、ロペス教授が倫理学の講義で特別講師を務めることになった。



第三回 倫理のロールプレイング

 「豪姫教授のお役に立てて光栄です。今日は私、アントニオ・ロペスが、リアルなロールプレイングで君たちの思考を活性化させ、倫理学の深淵へ案内しよう」


 教室にざわめきが走る。ロペスは黒板の前に立ち、朗らかな笑みで学生たちを見渡した。芝居がかった身振りは控えめだ。あくまで“講義”である。


 続いて豪姫が淡々と口を開く。

「いつものように、節津くんに“お相手”してもらおうかしら。それとも、ロペス教授の相手役に志願する人はいますか?」


 一瞬の間。三山世理(みやませり)が、迷いなく手を挙げた。

「その役、私やってみたいです!」


 江藤裕也(えとうゆうや)が驚いて声を上げる。

「おい、世理! やめとけよ」


 「チャンスでしょ。積極的にアピールできる。堂島くんはもうA判定で終了しちゃったし、私が実験台になるから、裕也くんは鋭い質問をお願いね!」

世理はやる気満々だった。どうやら、その熱意は江藤のためでもあるらしい。


 古葉玲央(こばれお)が肩をすくめ、やや悟った口調で言う。

「いいじゃないか。三山は自分から生贄(いけにえ)になるって言ってる。気持ちも汲んでやれよ」


 これまで、その役目は古葉と節津が引き受けてきたのだ。江藤も観念したように自ら壇上へ上がる。


 豪姫(あき)が眉を上げる。

「彼氏の役割はないのだけど?」


「俺は何もしません」

江藤は即答した。

「不適切だと判断したら、俺の判断で制止します」


 ロペスは満足げにうなずいた。

「素晴らしい。観察者、当事者、制止者――三つの立場がそろった。では始めよう。問いは単純だ。選択の自由と責任は、どこで分かたれるのか」


 教室の空気が引き締まる。これは娯楽ではない。思考の実験だ。


 豪姫は腕を組み、静かに見守っていた。倫理は、ここから動き出す。


 ロールプレイングに入る前に、眞栄田豪姫教授は教壇の前に立ち、教室を一度だけ見渡した。いつもの鋭さの奥に、今日はわずかな高揚が混じっている。

「始める前に、確認しておきましょう」


 チョークを取らず、スライドも使わない。ただ声だけで進める。

「倫理学における『自由』とは、好き勝手に振る舞うこと――欲望のままに行動することではありません。むしろその逆よ」


 教室のざわめきが、すっと引いた。

「自由とは、理性に導かれて自己の意志を律すること。自律――自分で自分に法を課し、それに従う主体的な状態を指します。他者からの強制でも、衝動でもない。自分の理性に基づいて選び、行動し、その結果を引き受ける能力のこと」


 彼女はゆっくりと言葉を区切った。

「カントはこれを『自律』と呼びました。欲望に支配されず、普遍化可能な道徳法則に自ら服従すること。自然法則に従うのとは違う。自由意志を持つ主体だからこそ可能な服従です」


 視線が、前列から後列へと滑る。


 「ヘーゲルは言う。自由とは『他のものの中にありながら、自己自身のもとにある』こと。社会や欲望に規定されている自分を自覚し、それを乗り越えたところに主体性が生まれる」


 誰もが静かに聞き入っている。この前説がこれから行われるロールプレイングの背景になると考えられた。


 「ルソーはさらに踏み込みました。自分たちで定めた法に、自分たちが従う。社会契約によって得られる倫理的自由です。強制ではない。自己立法です」


 豪姫は一拍置く。


 「そして現代的には、自由は相互承認の関係で成立する。他者の自由な意思を尊重するというルール――正義を共有して初めて、自由は暴力にならずに済む」


 そこで、豪姫教授が視線を飛ばし、教室の一角に鋭い声が飛んだ。

「――こら、そこ。ノート取らないで」


 一瞬、学生の肩がすくむ。


 「前から言っているでしょう。留学生が自国の文字や図案で思考を書き残すのは許します。でも、それ以外の日本人学生にとって、ノート取りは思考の妨げになる」


 彼女は留学生たちの机を一瞥した。走り書きの記号、母語の単語、矢印だらけの図。


「こんな風にね。これは、"覚える"ために書いていない。"考える"ために書いている」


  声が少しだけ柔らぐ。


 「あなたたちは、頭脳を信じなさい。聞いて、迷って、反論して、選びなさい。倫理は暗記科目じゃない。思考で辿るものよ」


 豪姫は一歩退き、教壇の中央を空けた。

「では始めましょう。自由と責任が、どこで結びつき、どこで破綻するのか――それを、あなたたち自身で確かめてもらいます」


 空気が張りつめる。ロールプレイングは、もう始まっていた。



第四回 名優、アントニオ・ロペス

 ここからは、ロペス教授の独壇場だった。


 設定は単純だ。レポート提出のために研究室を訪れた学生。三山世理は学生役を与えられ、役名を名乗る。


 教壇にはパイプ椅子が二つ用意され、保護者の江藤にもひとつ用意された。


 ロールプレイング「権威者の誘導」が開始される。

「失礼します。地域文化学科一年の、山田と申します」


 ドアをノックし、一礼。教室とは違う、研究室特有の静けさが漂う。


 「どうぞ、入ってください」

 アントニオ・ロペスは、穏やかな笑みを浮かべたまま椅子に腰掛けている。彼は"山本教授"だ。机の上には、読みかけの論文と赤ペンが一本。


 山田となった三山世理が、台本の言葉を続ける 

「レポートを持ってきました」


 「ありがとう。締切は明日でしたね。今日出すのは感心だ」

ロペスは書類を受け取り、ぱらぱらと目を通す。沈黙が、意図的に引き延ばされる。

「……よく書けています。ただ一箇所、気になる点がある」


 三山は背筋を伸ばす。

「どのあたりでしょうか」


「結論部です。あなたの主張は興味深い。ただ、少し踏み込みが足りない。研究者として、もう一歩欲しいところだ」


 そこへ、第二の人物が現れる。


 「失礼します。田中です」

 研究室の奥から姿を現したのは、"田中研究員"役のロペス自身が呼び込んだ、もう一人の想定上の存在だ。一人二役をしている。実際には誰もいない。だが、ロペスはそこに人がいるかのように振る舞う。


 「山田さんのレポート、どう思います?」


 「着眼点は良いですね。ただ、指導があれば、もっと伸びる」


 ロペスはうなずき、三山に視線を戻す。

「田中研究員も、同じ意見です。指導次第で、評価は大きく変わる」


 山田(三山)は一瞬、言葉を探す。

「……その指導とは、具体的に?」


 「個別に、です。研究は本来、対話から深まるものだから」


 声は低く、穏やか。強制はない。命令もない。選択肢が差し出されているだけだ。


 「もちろん、断る自由もある」


 山本ロペスはそう付け加え、わずかに肩をすくめる。

「ただし、その場合、このレポートは"現時点の完成度"で評価されます」


 沈黙。


 教室の後方で見守る豪姫は、腕を組んだまま微動だにしない。江藤は一歩前に出かけ、しかしまだ動かない。これは、判断の瞬間だ。


 ロペスは微笑んだ。

「さあ、山田さん。あなたは自由だ。どう選びますか?」


 問いは、役柄を越えて、教室全体に投げかけられていた。


 山田(三山)は一瞬だけ視線を伏せ、それからロペス教授をまっすぐに見た。

「……分かりました。これは研究の道だと、そう理解します」


 言葉を選びながらも、声は静かで揺れがない。山田にとって、研究とは常に個人的な欲望よりも優先されるべき規範だった。山本ロペス教授は、その規範を体現してきた人物である。国際学会での評価、数々の委員歴、社会的信用——そのどれもが、判断の正当性を保証しているように見えた。


 山本教授は軽く頷き、椅子の背にもたれかかる。その仕草には、説明する側ではなく、受け入れられることを前提とした者の余裕があった。

「君なら、そう言うと思っていたよ。学問は時に、人を試す。しかし、信頼できる者が導けば、道を踏み外すことはない」


 その言葉は穏やかで、拒む理由を見つけにくい。教授という社会的に信頼された立場、そして評価権を持つ優越性が、空気のように場を支配していた。


 田中研究員は黙ったまま、二人の間に流れる沈黙を観察している。山田はレポートを胸に抱え、事態の重心が静かに山田へと移ったことを感じ取っていた。


 山本教授という己の権威を私的な目的にエンハンスさせるもの。分かってはいるが、決して容認している訳ではない、"世間"を代表する田中研究員(ロペスが兼任)。そしてこの二人が予想する山田の判断。田中という環境変数が山本教授に有利に働き、山田の運命は他律によって歪められていく。


 権力が「静かに作動する」瞬間が出現する。

山本教授は、何気ない仕草で椅子の背に体を預け、視線を田中研究員から外した。


 「田中さん、少し資料の確認をお願いできますか。さっきの統計表、研究室に原本があったはずです」

命令でも、相談でもない。当然そうするだろうという前提で置かれた一言だった。

山本は一瞬、山田の方を見る。山田は反射的に何も言えず、視線を伏せた。


 「……わかりました」


 扉が閉まる音は、思いのほか大きく響いたようだ。


 二人きりになった瞬間、部屋の空気が変わる。

山本教授は、先ほどまでの開かれた態度を保ったまま、しかし確実に距離を詰めていた。


 「緊張していますね、山田さん」

責める調子ではない。むしろ理解者の声色だった。

それが、かえって不安を増幅させる。


 「田中さんは優秀な研究員です。ただ――まだ"研究の現実"を知らない」

山田教授はそう言って、机の上のレポートに指を置いた。

「あなたは違う。これは"学部生の答案"ではありません。研究の入り口に立った文章です」


 その評価に、胸がわずかに熱くなる。

同時に、逃げ道が一つ、音もなく消えた気がした。


 「研究というのは、常に誰かの判断の中で進みます。完全な自由など、最初から存在しない」

山本教授の言葉は、倫理学の講義で聞いた概念を、物語の形に変換していく。

「重要なのは、誰の判断に身を委ねるかです」


 山田は、椅子の肘掛けに指を食い込ませた。

ここで断れば、評価が下がるかもしれない。

続ければ、何かを差し出すことになるかもしれない。


 だが、その「何か」は、まだ言語化されていない。


 「不安でしょう」

山田教授は頷く。

「だからこそ、指導者が必要なのです。あなた一人では背負いきれない責任を、私が引き受ける」


 依存という言葉は使われない。

代わりに、「保護」「指導」「共同責任」という、正当で美しい語彙(ごい)が並べられる。


 三山は気づいていた。

山本研究員がここにいないことが、偶然ではないことを。

そして、この場での選択が、後戻りできない分岐点であることを。


 それでも——

「……研究の道だと思えば」

山田としての表情が、ふと脳裏をよぎる。

理性で選んだつもりの言葉が、口をついて出た。


 山本教授は、満足げに微笑んだ。

「ええ。それでいい」


 その瞬間、山田は理解する。

これは強制ではない。

自由な選択の形をした拘束なのだと。


 そしてその責任は、すべて「自分の選択」として、未来に刻まれていく。



第五回 ロールプレイングの終了

 江藤は、教壇の端で拳を握りしめていた。

シナリオの二人の会話は断片的だったが、それで十分だった。


――長い。

――二人きりだ。

――これは指導じゃない。


 理屈ではなく、身体が先に反応していた。

研究者としての礼儀、学内の序列、証拠のなさ。ロールプレイングのシナリオにすぎない。

それらすべてを踏み越えてでも、割って入るべきだという衝動が、限界まで膨れ上がる。


 江藤は一歩、踏み出した。


 その瞬間だった。


 「——はい、そこまで」


 講堂に、よく通る声が落ちた。

眞栄田教授だった。

いつの間にそこにいたのか分からない。だが、彼女は腕時計を一瞥し、淡々と続ける。


 「本日のロールプレイングはここで終了です。解説に移りましょう」


 宣告は、ひどく無機質だった。だがその響きには、異論を許さぬ絶対性が宿っている。  張り詰めていた空気が霧散(むさん)し、演者も観測者も、等しく現実へと引き戻された。


 ロペス教授が、微かに眉を動かす。それは驚きというより、自身の計算が数秒狂ったことを確かめるような仕草だった。

「……そうでしたか。時間を忘れていました」

彼は書類を揃え、そこに「何事も起きていない」という前提を丁寧に折り畳む。権威を傘に着た山田教授と田中研究員という、権威に阿る悪徳の徒、二役を演じきった残滓が、わずかな悔恨と羞恥となって彼を突き動かした。

「続きはあるのでしょうか? 演じた側としても、あの男たちの行く末が気になります」


 豪姫教授が、意味深に口角を上げた。 「もちろん。あれは現実にどこにでもある風景。気づいた人は、もう行動していますよ」


 三山――いや、山田は、椅子から立ち上がるタイミングを失っていた。半拍遅れて身を起こしたが、その顔色は自分でも分かるほどに蒼白だ。 一方で、江藤は握りしめていた拳をそっと解いた。自分の感情が間に合ったのか、あるいは手遅れだったのか。その判断はまだ下せない。


 眞栄田教授は、最後まで山田(三山)に視線を向けなかった。ただ、部屋を去り際に一言だけ、楔を打つように残した。

「――研究は、自由意志で行うものです。ただし、その“自由”がどこまで自由であるかは、常に点検されなければならない」


 それは誰かに向けられた言葉でもあり、同時に、誰のものでもなかった。


 重い扉が閉まり、あとに静寂だけが残った。


 残された山田は、ようやく気づく。

救われたのではない。

中断されたのだと。


 そして中断は、時に救済よりも残酷だということを。



第六回 幕が下りたあと

 講堂に、わずかな沈黙が落ちた。

それは思考の沈黙ではない。現実が、フィクションに追いついた瞬間の沈黙だった。


 豪姫教授は、ゆっくりと教壇にもたれ、手にしていたタブレットをくるりと回す。

画面は伏せられたまま。だが、そこに「何が入っているか」を想像するには、十分すぎた。


 「――以上、ロールプレイングでした」


 学生たちの間に、安堵とざわめきが同時に走る。

誰かが小さく息を吐いた。


 豪姫教授は視線をロペスに向け、口角をわずかに上げた。

「予想以上のリアリティでしたね。ロペス教授、本当にこんなこと、やってませんよね?」


一拍。


 彼女は、タブレットを胸元に抱え直し、

いたずらっぽくウインクした。


 ロペス教授の喉が、はっきりと鳴った。

「……あ、あくまで仮想事例です。倫理学的思考を促すための」


 「ええ、もちろん」

豪姫(あき)教授は、即座にかぶせる。


 「ですからこれは“証拠”ではなく、

教材になり得たかもしれない素材にすぎません」

そう言って、彼女は肩をすくめる。


 「顔も、声も、状況も。

すべて“加工すれば”講義用に使える、というだけの話」


 学生たちの視線が、一斉にロペスへ集まった。

そこには糾弾も、好奇心も、ただのスリルも混じっている。


 ロペスは、ゆっくりと息を整え、微笑みを作った。

「倫理学とは……恐ろしい学問ですね」


 「ええ」

豪姫教授は即答した。


 「なぜなら、自由に振る舞った“つもり”の行為を、後から理性が一つずつ解体していく学問ですから」


 彼女は教室全体を見渡す。

「さて。今のやり取りを見て、"不本意な配役を受けさせられた、ロペス教授は被害者だ"と思った人?」


 数人、恐る恐る手が上がる。


 「"ロペス教授は加害者だ"と思った人?」


 手の数は、さきほどより多い。


 「“どちらとも言えない”人?」


 一番多かった。

豪姫教授は満足そうに頷いた。


 「それでいいの。倫理学は、即断を嫌います。そして——」

彼女は、再びロペスを見る。

「証拠を持つ者が、必ずしも裁く側とは限らない」


 最後に、もう一度だけ、軽くウインクする。


 ロペス教授は悟った。

この講義から、自分はもう「降りられない」。


 ――自由とは、逃げ場のない場所で、自分の理性を引き受けることなのだと。


 教室の空気が、静かに次の思考へと移行していった。



第七回 役割の終了宣言

 豪姫教授は、教壇の中央に立ち、場の空気を一度きれいに切り替えるように、軽く手を叩いた。


「さて。次はインタビューに移りましょう」


 張り詰めていた緊張が、わずかに緩む。

だが、それは"解放"ではなく、"次の段階への移行"にすぎなかった。


 「――大変なプレイで、さぞ疲れたでしょう」


 豪姫教授は、三山世理と江藤裕也に向けて、はっきりとした声で言った。


 「三山くん、江藤くん。お疲れ様でした」


 その言葉は労いだったが、同時に役割の終了宣言でもあった。


 三山は、ほんの一瞬だけ深く息を吸い、

江藤は肩に入っていた力を、ようやく抜いた。


 「席に戻ってください」


 二人は教壇を降りる。

歩きながら、三山はふっと笑った。


 「……思ってたより、疲れますね」


 「当たり前だろ」

江藤は小さく返す。

「"考える自由"って、体力使うんだな」


 席に戻る途中、何人かの視線が二人を追った。

同情、尊敬、そして――かすかな羨望。


 豪姫教授は、それをすべて見逃さない。

「では改めて」

彼女は教室全体に向き直る。


 「今から彼らは"演者"ではありません。皆さんと同じ、受講生です」

視線が二人から外れ、空気が(なら)されていく。


 「しっかり学習を続けてください。今日、彼らが背負った違和感、迷い、恐怖、判断の重さ――それを自分の思考として引き受ける番です」


 豪姫教授は、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「倫理学は、勇気ある少数の"実験"で進み、沈黙する多数の"思考"で完成します」


 三山は元の席に腰を下ろし、机に手を置いた。

もう"山田"ではない。

だが、胸の奥に残った感触は、役を脱いでも消えなかった。


 江藤もまた、前を見据える。


 制止しようとした一歩。

 止められなかった時間。

 それらが、まだ身体に残っている。


 豪姫教授は、満足そうに頷いた。

「――では、インタビューに入ります」


 この講義は、まだ終わらない。


 だが、逃げ場はもうない。


 全員が、受講生として、

それぞれの自由と責任を抱えたまま、次の問いへと進んでいった。



第八回 インタビュー・オブ・ロペス

 ロペス教授は、静かに観念した。


 ――どうやら今日は、自分が講義のモルモットらしい。


 壇上に残された椅子に腰を下ろしたまま、彼は教室を見渡す。

視線のいくつかが、はっきりと冷たい。

特に前列に座る女子大生たちの目には、好奇心よりも、非難に近い色が混じっていた。


 (これは……なかなか、きつい舞台だな)


 ロペスは、胸の奥で苦笑する。


 だが、ここで沈黙すれば、それは「逃げ」になる。

彼は、教授として、そして今日の"教材"として、口を開いた。


 「ええ……」

ゆっくりと、しかしはっきりとした日本語で言う。

「豪姫教授からの、たってのリクエストでしたのでね。全力で、役割を演じさせていただきましたよ」


 言葉は丁寧だが、どこか芝居がかった響きが残る。

それは、意図したものなのか、長年の癖なのか。


 教室の空気が、再びざわめく。


 豪姫教授は、その反応を楽しむように、軽く顎に手を当てた。

「なるほど」


 一拍置いて、微笑む。


 「迫真の演技でしたね、ロペス教授」

そして、さらりと続ける。

「もしかして……舞台俳優のご経験も、お有りなのでは?」


 その一言で、場の意味が変わった。

"褒め言葉"の形をした、鋭い問い。


 ロペスは、一瞬だけ言葉を失う。

(経験があると答えれば、"演技"で済まされる。だが、ないと答えれば……)


 彼は肩をすくめ、半分冗談めかして応じた。


 「残念ながら、学会発表と講義くらいですよ。もっとも……」


 一度、言葉を切る。


 「人前で"役割"を演じるという点では、教授業も、舞台に似たところがありますがね」


 豪姫教授は、満足そうに頷いた。


 「ええ。だからこそ、今日の題材にぴったりでした」


 彼女は教室に向き直る。

「皆さん、よく覚えておいてください。権威は、演じられるものです。そして、演技が上手いほど、疑われにくくなる」


 女子大生たちの視線が、今度はノートでも教授でもなく、

自分自身の判断へと向かう。


 ロペス教授は、その中心に座ったまま、悟った。


 この講義で問われているのは、自分の行為だけではない。


 ――それを「信じてしまう側」の自由と責任なのだ、と。


 教室は、静かに次の質問を待っていた。



第九回 思考はあなたたちのもの

 豪姫教授は、教卓から一歩離れ、教室全体をゆっくりと見渡した。

さきほどまでの緊張が、まだ空気の底に沈んでいる。


 「これからも皆さんは——」

その声は、鋭さを残しつつも、どこか静かだった。


 「社会に出れば、必ずさまざまな権威と接することになります。

上司、顧客、専門家、肩書きのある人間、あるいは"経験者"と呼ばれる存在」


 一人ひとりの顔を確かめるように、視線が移動する。


 「敬意をもって会話をすることを、求められるでしょう。そうしなければ、あなたの仕事は前に進みません。評価も、成果も、十分なものにはならない」


 学生たちは、反射的に頷きかけて――しかし、豪姫はそこで言葉を切った。

「……でも」


 その一語が、空気を変える。

「私は、社交術やマナーを学べと言っているのでは、ありません」


 少しだけ、口元が歪む。

それは笑みというより、警告に近い。


 「丁寧な言葉遣い。適切な距離感。場にふさわしい態度。それらは、必要です。確かに」


一拍。


 「けれど、それらを守っているからといって、思考まで差し出す必要は、どこにもない」


 教室が、しんと静まる。


 「権威に敬意を払うことと、

権威に判断を委ねることは、まったく別です」


 豪姫は、黒板に背を向けず、言葉を続ける。


 「問いを持たない敬意は、ただの服従です。疑問を封じた礼儀は、思考停止にすぎない」


 ロペス教授が、わずかに身じろぎする。

だが、豪姫はそちらを見ない。


 「今日のロールプレイングで起きたことは、"特別な悪意"があったからではありません」


 学生の側に視線を戻す。


 「むしろ逆です。合理的で、礼儀正しく、善意に見える判断の積み重ねが、人を、ゆっくりと不自由にしていく」


 少し間を置いて、穏やかな声になる。


 「自由とは、無礼になることではありません。反抗することでもありません」


 そして、はっきりと。


 「自分の理性を、最後まで手放さないことです」


 豪姫教授は、軽く息を吐いた。


 「敬意を払いつつ、考え続けなさい。関係を壊さず、でも判断は委ねない。それができる人間だけが――」


 最後に、静かに言い切る。


 「社会の中で、本当に自由でいられるのです」


 教室には、拍手もざわめきもなかった。

ただ、学生たちの胸の中で、それぞれの「権威」の輪郭が、少しだけ変わった音がしていた。



第十回 スペインの聖人

 「眞栄田(マエダ)教授のご意見は——」


 ロペス教授は、勢いよく立ち上がった。

その動きは芝居がかっていて、教室の空気を一気に引き寄せる。


 「まさに、私のポリシーそのものを述べられている!」

胸に手を当て、朗々と声を張り上げる。


 「自由とは、自分の判断を他人に委ねないことだ。私は、それを皆と語るために、この日本まで来たのだよ。――そう、自由の伝導者として!」


 その姿は、どこか大仰で、まるで海を越えて神の愛を説きに来た

"フランシスコ・ザビエル"そのものだった。


 何人かの学生が、思わず息を呑む。

別の者は、苦笑を隠せずに視線を落とす。


 豪姫教授は、すぐには言葉を返さなかった。


一拍、二拍。


 その沈黙が、ロペスの高揚を静かに冷ます。


 やがて彼女は、穏やかな声で切り出した。

「ふふ、なるほど。実に興味深いたとえですわ、ロペス教授。フランシスコ・ザビエル――。あなたの演技を見ていた学生たちの胸の内には、そんな高潔な伝道者の影でも沸き起こったのかしら?」


 演壇に軽く指先を置く。


 「では、そのフランシスコ・ザビエルの話を、もう少し続けましょうか」


 教室の視線が、彼女に集まる。


 「かつて、荒波を越えて日本に訪れたザビエルは、到着当初、日本人の態度に深く感銘を受けました」


 淡々と、しかし鮮やかに語る。


 「遠方からはるばるやってきた宣教師に、日本人は好意と敬意をもって接した。礼を尽くし、話を聞き、議論を避けなかった」


 ロペス教授の表情が、わずかに緩む。


 「彼は——」


 豪姫は、そこで一度、言葉を切る。


 「自分の布教は、成功すると確信したでしょう」


 その瞬間、教室に微かな緊張が走る。


 「けれど」

声が、少しだけ低くなる。

「日本人は、彼の話を聞いたからといって、自分たちの信仰や判断を、差し出したわけではありません」


 学生たちの背筋が、自然と伸びる。


 「敬意を払うことと、受け入れることは、別だった」


 豪姫は、ロペス教授を正面から見据えた。


 「彼らは礼儀正しく、知的で、柔軟でした。しかし同時に、頑固なほどに自律的だった」


 静かに、しかしはっきりと。

「だからこそ、ザビエルは――"かつて無い壁"に、愕然とすることになるのです」


 ロペス教授は、言葉を失ったまま立ち尽くす。


 豪姫は、教室全体に向き直った。


 「自由の伝道とは、自分の正しさを語ることではありません」


 黒板に映る光が、彼女の横顔を際立たせる。


 「相手が、最後まで自分で判断する余地を残すこと」


 そして、穏やかに締めくくった。

「それができない者は、どれほど美しい理念を掲げても――自由の伝導者ではなく、ただの"説得者"にすぎないのです」


 教室は、静まり返った。


 ロペス教授は、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。その背中は、先ほどよりも、少しだけ小さく見えた。


 そして学生たちは、

「自由」という言葉が持つ重さを、初めて自分の手で量り始めていた。



第十一回 ザビエルの語る神とは

 豪姫はエピソードを物語り調にして話始めた。


 日本の人々の前で、ザビエルは、満足そうに頷いていた。

長旅の末に語った神の愛は、人々の心に確かに届いている――そう信じた、その瞬間だった。


 一人の日本人が、静かに手を挙げる。


 「ザビエルさん」


 丁寧で、実に礼儀正しい口調だ。


 「私は、あなたから神の愛を教えてもらいました。それは、とても立派で、美しい教えだと思います」


 ザビエルは、胸を張る。

――来た。ここからが肝心だ。


 だが、その男は続けた。


 「ですが、一つだけ、どうしても腑に落ちないことがあります」


 教会の中が、しんと静まる。


 「キリスト教を知らずに死んだ、私たちの祖先は――」


 少し首をかしげ、穏やかに尋ねる。


 「地獄に落ちたのでしょうか?それだとすると、私は、どうしても納得がいきません」


 ザビエルの笑顔が、ぴしりと固まった。


 (……あ)


 頭の中で、ラテン語の神学書が一斉に崩れ落ちる音がする。

煉獄、原罪、洗礼、恩寵――

どれも“正解”ではあるが、この場で言えば確実に角が立つ。


 ザビエルは、咳払いをした。


 「ええと……その……」


 汗が、額を伝う。


 「神の御心は……実に……深遠でして……」


 男は、にこやかに頷く。

「ええ、深遠ですよね。うちの曾祖父も、かなり深遠な人でした」


 周囲から、くすっと笑いが漏れる。


 ザビエルは、視線を泳がせた。

(これは……嵐だ。しかも、日本的な(なぎ)を装った嵐だ)

「つまりですね……」

必死に言葉を探す。


 「神は、愛に満ちておられます。ですから、その……知らなかった者すべてを、無慈悲に地獄へ、というわけでは……」


 「では」


 男は、畳みかけるように言う。


 「私の祖母は、仏壇に手を合わせ、近所の人に親切で、一度も人を殺さずに死にました」


 間。


 「……彼女は、どちらへ?」


 ザビエルは、ついに観念した。


 「……その質問はですね」


 深く息を吸い、


 「私が日本に来てから、一番、神に相談したくなった質問です」


 教会は、ついに笑いに包まれた。


 男は、満足そうに頭を下げる。


 「いえ、答えが欲しかったわけではありません。ただ――」


 少しだけ、真剣な目になる。


 「あなたの神が、私の祖先を否定する神でないことを、信じたかっただけです」


 ザビエルは、その言葉を噛みしめた。

(ああ……この国は、なんという壁を用意するのだ)

礼儀正しく、柔らかく、しかし決して、判断を預けてこない。


 その夜、ザビエルは日記にこう記したという。


――日本人は、神の話をよく聞く。

――だが、自分の祖先を地獄に差し出すほど、愚かではない。


 そして彼は知る。

この国で最も強い信仰とは、

何かを信じない自由ではなく、

自分で考え続けるという、揺るがぬ信念なのだと。



第十二回 日本は神の愛を受け入れる

 「結果として——」


 豪姫(あき)教授は、教卓に軽く腰を預け、講義の流れを静かに締めにかかった。

「日本へのキリスト教布教の突破口は、確かに開かれました。それは、フランシスコ・ザビエルの献身的な布教活動によるものです」


 彼女の声は、評価と距離感を同時に保っている。


 「異国の地で、言葉も習慣も異なる人々に向き合い、対話を重ね、拒絶されてもなお語り続けた。その姿勢自体は、疑いなく誠実でした」


 学生たちは、静かに聞き入っている。


 「けれど——」

豪姫は、そこでわずかに間を置いた。

「日本の戦国時代が終わると、状況は一変します。統一権力にとって、キリシタンは“思想としての異物”になった」


 淡々と、しかし重く。


 「徹底的な弾圧。踏み絵。そして——島原の乱。これは、皆さんもよく知っている話ですね」


 教室の空気が、少し張り詰める。


 「信仰は、国家権力と衝突し、多くの人が命を落としました」


 再び、沈黙。


 「それでも」


 豪姫は、声を和らげる。


 「信仰は、完全には消えなかった」


 学生の視線が、自然と集まる。


 「時代は下って、明治維新。鎖国が解かれ、西洋の聖職者たちが再び日本を訪れます」


 黒板に、ゆっくりと「明治」と書く。


 「彼らは、隠れキリシタンの存在を知り、その不屈の信仰を称えるために、対話を試みました」


 一瞬、微笑む。


 「——ところが」


 その一語で、空気が切り替わる。


 「話せば話すほど、彼らは、ある事実に気づいてしまった」


 豪姫は、静かに言った。


 「彼らの信仰は、もはや"キリスト教"とは、まったく違うものだったのです」


 ざわり、と小さな動揺が走る。


 「信仰の中心にあったのは、キリストではありませんでした」


 少しだけ、声を落とす。


 「マリア様です」


 学生の目が見開かれる。


 「しかも、そのマリア信仰は、日本古来の観音菩薩信仰と結びついていた」


 豪姫は、肩をすくめるように続ける。


 「ロザリオは数珠になり、聖母像は観音像の姿を借り、祈りの言葉は、意味を変えながら生き延びた」


 教室は、完全に静まり返っている。


 「これは、裏切りでしょうか?」

問いかけるように、視線を巡らせる。

「それとも――生き残るための、創造的な自由でしょうか?」

豪姫は、結論を急がない。


 「外から持ち込まれた教義は、日本人の思考と感性の中で、徹底的に"問い直され"、"作り変えられた"」


 そして、穏やかに言い切る。

「彼らは、信仰さえも、自分たちの判断で引き受けたのです」


 教卓に戻り、最後にこう付け加えた。

「聞くことと、受け入れることは違う。敬意を払うことと、従属することは違う」


 微かな笑み。


「――この国が、外来の思想に対して、一貫して示してきた態度です」


 学生たちは、ようやく理解し始めていた。


 日本史の一場面が、単なる過去の出来事ではなく、自由と自律の実験場だったことを。



第十三回 天草四郎時貞の乱(島原の乱)

 「因みになんだけど――」

豪姫教授は、ふっと肩の力を抜いたように言った。


 「島原の乱の顛末、誰か解説できるかしら?あまり後味のいいものじゃないから……そうね、少しオブラートに包んで」


 教室に、微妙な沈黙が落ちる。


 何人かの学生が視線を伏せ、

何人かは「当てないでくれ」とでも言いたげに天井を見た。


 三山世理は、思わず息を詰めた。


 (来た……)


 島原の乱。

 天草四郎時貞。

 彼女にとっては、ただの歴史事項ではない。


 理不尽な年貢。

 信仰弾圧。

 追い詰められた農民と浪人たち。

 そして、若くして担ぎ上げられた"カリスマ"。


 ――悲劇として、美しすぎる。


 三山は、天草四郎贔屓で、かなり調べていた。

 だからこそ、語れない部分も、よく知っている。


 籠城戦の飢え。

 死んでいく子どもたち。

 敗北のあとに待っていた、徹底的な処断。


 さらに言えば、

鎮圧後に責任を問われた藩主・松倉勝家が、

武士としては異例の斬首刑に処されたこと。


 ――誰も、勝者になっていない。


 言葉を選ぼうとすればするほど、

 三山の喉は、きゅっと縮こまった。


 その様子を、江藤裕也は横目で見ていた。


 (無理だな・・・)


 彼は、そっとため息をつく。


 三山にとって、この話は

 「説明」ではなく、感情の地雷原だ。


 江藤は、椅子を引く音を立てて立ち上がった。


 「……ここは、俺に任せてください」


 そう言って、手を挙げる。


 三山は、はっとして彼を見る。


 江藤は、彼女にだけ分かるくらいの小さな声で言った。

「大丈夫。オブラート、ちゃんと用意してる」


 豪姫教授は、そのやり取りを見逃さなかったが、

あえて何も言わず、軽く頷いた。


 「どうぞ、江藤くん」

江藤は一歩前に出て、教室を見回す。

「島原の乱は——」


 少し考えてから、言葉を選ぶ。

「一言で言えば、追い詰められた人たちが、最後に頼った希望の物語です」


 黒板は使わない。

 数字も、戦術も、出さない。


 「重い年貢と信仰弾圧で、選択肢を奪われた農民や浪人たちが、"これ以上、下がれないところ"まで追い込まれた」


 視線が、ゆっくり教室を巡る。


 「そこに現れたのが、若くて、象徴になれる存在——天草四郎だった」


 三山の肩が、わずかに緩む。


 「戦い自体は、圧倒的な物量と組織力の前に、長くは続かなかった」

 言葉を、少しだけ柔らかくする。

「結果として、反乱は鎮圧され、参加者たちは、ほぼ全滅します」


 誰も、ざわつかない。


 「その後、幕府は責任を明確にしました。過酷な統治を行った藩主・松倉勝家は、処罰されます」


 一瞬、間を置く。


 「――武士としては、かなり異例の、重い形で」


 詳しくは言わない。

それで、十分だった。


 「つまり」


 江藤は、最後にこう締めた。

「島原の乱は、"誰かが悪で、誰かが正義"という話じゃない」


 教室に、静かな納得が広がる。


 「追い詰められた末に、自由も選択も失った社会が生んだ、集団的な悲劇だった、ということです」


 江藤は、深く頭を下げた。


 豪姫教授は、しばらく沈黙したあと、静かに言った。

「ありがとう。とても、倫理学向きの説明だったわ」


 三山は、小さく息を吐いた。

(……助けられた)


 江藤が席に戻るとき、彼女は何も言わなかったが、その横顔には、はっきりとした安堵が浮かんでいた。


 豪姫は、教室全体に向けて続ける。

「歴史を語るとき、事実を削ることはできない。でも――」


 一拍。


 「人を黙らせるほど残酷に語る必要も、ない」

その言葉は、島原の乱だけでなく、この講義そのものを包み込む、もう一枚のオブラートのようだった。



第十四回 聖者に叙せられる徳と聖性

 島原の乱の説明が終わると、講堂にはしばし静寂が残った。

重たい歴史の余韻が、空気に沈殿している。


 その沈黙を、思いがけない声が破った。

「なるほど……」

ロペス教授が、感心したように両手を広げる。


 「その天草四郎という少年は、まるで十字軍の将軍ではないか。いや、聖者に列せられるべき存在だろう!」


 少し芝居がかった言い方だったせいもあり、講堂のあちこちから、かすかな笑いがこぼれた。

空気が、ほんの少しだけ軽くなる。


 豪姫教授は、その反応を逃さず、微かに頷いた。

「ロペス教授」

穏やかな声で切り出す。

「重い空気を払ってくださって、ありがとうございます」


 一拍置いて、表情を引き締めた。

「でも……ここで、大切な点を補足させてください」


 講堂の視線が、再び集まる。


 「島原の乱で、農民たちが使った武器は――農具でした」


 その言葉は、静かだが重い。


 「(すき)、鎌、棒。戦国時代が終わったばかりで、まだ刀や槍が世に残っていた時代にもかかわらず、です」


 学生たちの顔に、想像が浮かぶ。


 「彼らは、武士が身分の頂点にあり、農民がその下に置かれるという秩序そのものを、否定していたわけではありません」


 豪姫は、淡々と続ける。


 「身分制を壊そうとした革命ではなかった。王を倒そうとした聖戦でもない」


 ゆっくりと、言葉を選ぶ。


 「彼らが示したのは――過政に対する、これ以上は耐えられないという意思表示」


 ロペス教授は、口を閉じ、真剣な表情で聞いている。


 「だからこそ」


 豪姫は、講堂を見渡した。


 「彼らは、武士になろうとしなかった。農民のまま、農民として、立ち上がったのです」


 少しだけ、声を和らげる。

「それは、十字軍のような"信仰による征服"ではない。ましてや、聖者の列に加わるための戦いでもありません」


 そして、静かに結ぶ。

「秩序を壊さずに、限界を示した抵抗――それが、島原の乱の本質です」


 講堂には、先ほどとは違う沈黙が流れた。

笑いは消えたが、空気は重すぎない。


 ロペス教授は、小さく息を吐き、苦笑した。

「……なるほど。私の国の歴史とは、まったく違う文脈だ」


 豪姫は、ほんの少しだけ微笑む。

「ええ。だからこそ、外から来た思想や物語は、この国では、必ず別のかたちになるのです」


 その言葉は、天草四郎にも、ザビエルにも、そして、今ここにいる学生たちにも向けられていた。


 講堂に残ったのは、拍手ではなく、それぞれが胸の内で咀嚼する、静かな理解の音だった。



第十五回 戦時下の思想家たち

 豪姫教授は、まとめに入る


 硝子窓の外では、横浜港から飛来した硬式飛行艇が、芦ノ湖を目指してゆっくり降下してくる。

教室には、奇妙な静けさがあった。


 「――さて。自由について、ここまでカントとヘーゲルを見てきました」

豪姫は、黒板に向かって一度だけ深く息を吸い、振り返った。

学生たちの顔は、昭和初期の若者の顔に重なった。その時代では、明日生きている保証はない。


 「最後に、日本の哲学者を呼びましょう」

彼女は、チョークでゆっくりと名を書いた。


◆西田幾多郎。


 「京都学派の創始者です。個人の主体性を、どこまでも深く掘り下げた人でした」

豪姫の声は、どこか慎重だった。

「彼は『場所的論理』を語りました。主体は孤立した点ではなく、世界の“場所”の中で成立する、と」


 学生の一人が、身を乗り出す。

「しかし戦時下において、彼は――」


 豪姫は頷いた。

「国家と個人の矛盾を、『絶対矛盾的自己同一』という言葉で抱え込もうとしました。

それは、個人が国家に消える論理にも、国家が個人を押し潰す論理にもなり得た」


 窓の外で、低空を飛ぶ爆撃機の影が横切るのが見えた。


 「自由は、理論の中でさえ、安全ではなかったのです」


<種の倫理>

次に、豪姫は名を連ねた。


◆田辺元。


 「西田の弟子。京大四天王の一人」

彼女は少し視線を落とす。

「田辺は、『種の倫理』を語りました。個人は国家という“種”の中で倫理的に完成される、と」


 誰かが呟いた。

「それは……自由の否定では?」


 「ええ。そう読めます」

豪姫は否定しなかった。


 「彼の哲学は、国家の秩序と連帯を強調し、

結果として戦争を支える論理として機能しました」


 一瞬、沈黙。


 「ですが戦後、彼は逃げなかった。『懺悔道としての哲学』を書き、自らの思想を断罪したのです」

豪姫は静かに言った。

「自由とは、誤ったときに、誤ったと言える力でもあるのかもしれません」


<獄中の構想力>


 次の名を書くとき、チョークの音が少し強くなった。


◆三木清。


 「彼は『構想力』を重視しました。

自由とは、ただ選ぶことではなく、共に未来を構想する力だ、と」


 学生たちの表情が和らぐ。


 「しかし彼もまた、『新日本の思想原理』などで戦争を正当化する言葉を与えた」

豪姫は、そこで言葉を切った。


 「――それでも」

彼女の声が低くなる。


 「彼は治安維持法に屈せず、逮捕され、獄中で死にました」


 教室の空気が、重く沈む。


 「自由を語り、自由に殺された哲学者です」


<揺れる平和主義>


 最後に、豪姫は少し迷ってから名を書いた。


◆谷川徹三。


 「彼は、戦時下でも平和主義と文化国際主義を掲げました」


 希望の光のように聞こえる。


 だが、豪姫は首を振った。

「しかし、彼の中には矛盾がありました。西洋への抗争としてのナショナリズム。軍部への反発と、その限界」


 彼女は学生たちを見渡す。


「完全に清らかな自由など、この時代にはなかったのです」


<結び>


 豪姫は、教壇に手を置いた。


 「彼らは、太平洋戦争の最中にいた人物です」


 一人ひとりの名を、心の中でなぞる。

「自由を語りながら、自由を歪め、自由に裏切られ、それでも考えることをやめなかった」


 彼女は、最後にこう言った。

「倫理学における自由とは、正しさの保証ではありません」


 少し微笑む。

「それでも、考え続けることをやめない――その、危うい覚悟そのものなのです」


 教室は、しんと静まり返っていた。

だが誰も、もう自由を軽々しく口にはしなかった。



第十六回 時代の幻惑

 豪姫は教壇に立ち、学生たちを一瞥してから、淡々と話し始めた。

「学生諸君には、戦争というものが、どうしても実感のわかない惨劇として映るでしょう」


 声には抑揚がなかった。

事実を確認するような口調だった。


 「日常は続いています。講義があり、試験があり、卒業があります。

そのため、戦争は"外部の出来事"として理解されがちです」


 彼女は黒板に三つの名を書いた。


・カント

・ヘーゲル

・ルソー


 「最後に、この三人の思想を参照して、自由と戦争について整理します」


○「まず、カントです」


 豪姫は振り返らずに話した。

「カントは、戦争を理性の未成熟の結果と捉えました。

国家が互いを手段として扱う限り、戦争は避けられない。

したがって自由とは、個人だけでなく、国家が法に従う状態を意味します」


 一度、間を置く。


 「彼にとって自由は、感情ではなく、規範の問題でした」


○「次に、ヘーゲル」


 チョークが黒板に触れる音がした。


 「ヘーゲルは、戦争を国家の倫理的緊張の表出と見ました。

戦争は悲劇であるが、国家が単なる私的利害の集合に堕することを防ぐ契機でもある、と」


 豪姫は付け加える。

「ここで自由は、個人の選択ではなく、国家という倫理的全体の中で成立します」


○「最後に、ルソーです」


 彼女はようやく学生の方を向いた。


 「ルソーは、戦争を人民と人民の争いではなく、国家と国家の関係と考えました。

個人は本来、戦争の主体ではない。自由とは、一般意志に参与することによってのみ成立します」


 淡々とした説明が続く。


 豪姫はチョークを置いた。


「三者に共通するのは、自由が単なる主観的感情ではなく、制度、法、共同体との関係の中で定義されている点です」


 教室は静かだった。


 「そして戦争とは、自由が最も理念的に語られ、同時に最も現実的に破壊される状況です」


 彼女は、まとめるように言った。

「以上を踏まえ、今日の講義を終えます」


 誰も拍手はしなかった。

 しかし誰も、無関心でもなかった。


 戦争は依然として遠かった。

 それでも、自由について考える枠組みだけは、

 学生たちの中に、正確な形で残った。


 それで十分だと、豪姫は判断していた。



第十七回 倫理学講義終了

 講義が終わり、学生たちは三々五々、静かな余韻を引きずるように教室を出ていった。

議論は理論としては整理されたが、現実は整理されないまま、そこに残っていた。


 留学生たちの中には、母国に今も紛争を抱えている者がいる。

休戦と衝突が交互に訪れ、地図の色が変わらないまま、人だけが入れ替わっていく国。

中には、一定の年齢に達すれば徴兵を免れない制度のもとに生きている学生もいた。

それは講義の補足資料ではなく、彼ら自身の履歴書に書かれていない現実だった。


 廊下の窓から、冬の光が差し込む。


 「バニャー先輩もさ……」

ぽつりと、古葉が言った。

「形は違うけど、国の命令で軍務につくことになったんだ」


 江藤は歩みを止め、軽く息を吐いた。

「そうだったな」


 バニャーは、留学生の中でも最高の成績を残し、いつも冗談を言いながら場を和ませる存在だった。

だが卒業と同時に徴兵され、イギリス軍に派遣され、交換武官としての職務に就くことが決まっている。

それは彼個人の選択であると同時に、選択の余地がほとんどない進路でもあった。


 古葉は続ける。

「日本人の俺たちはさ……今のところ、そんなこと考えもしないよな」


 江藤は無言で頷いた。

徴兵も、動員も、教科書の中の言葉だ。

戦争は遠く、自由は自明の前提として存在している。

だが同じ教室で学び、同じ講義を聞いていた学生の中には、

自由が条件付きで与えられるものだと、最初から知っている者がいる。


 廊下を歩く足音が、少しだけ重くなった。


 世界は一つだと教えられるが、

現実は、同時にいくつもの時間と義務を生きている。


江藤は、講義で聞いた「自由」という言葉を思い出しながら、それがどこまで自分の言葉なのかを、初めて考え始めていた。


 リュックを背負った三山世理が講堂から出てくる。

「裕也くん、やっぱり頼りになるなあ……今日はどうもありがとう」


 古葉は同時に出てきた節津京香とともに、ショッピングモールに向かう。


 帰り道、夕暮れがキャンパスを薄く染めるなか、三山世理は江藤裕也の手を引くようにして歩いていた。行き先はバイクの駐輪場だが、二人の歩調は自然とゆっくりになる。


 江藤は片手でキーを回し、もう一方の手で電源スイッチに指をかけながら、ちらりと世理を見る。


 「世理、ほんとにいいのか? バイク、乗らなくて」


 「うん。今日は歩いて……というか、少し走ってね」

彼女は少し照れたように笑い、続けた。

「来週のトライアスロン、おじいちゃんと一緒に出場するから」


 一瞬、江藤はきょとんとした顔をして、それから思わず笑みを浮かべた。


「すごい元気な爺ちゃんなんだな」


 軽い冗談のような口調だったが、その裏で、江藤の胸の奥が静かにざわついた。

彼は知っている。

三山世理の祖父という人物を。


 三山みやま 剣斗はやと

かつて、荒れ切っていた自分を、言葉ではなく態度で、静かに闇から引き上げてくれた人。

説教もせず、過去を暴きもせず、ただ「まだ戻れる」と信じてくれた恩人。


――あの人の孫が、今、こうして隣にいる。


 「バイク、置きっぱなしにもできないしさ。先に帰ってるよ」

そう言って、江藤裕也はヘルメットをかぶり、バイクをゆっくりと走らせた。

エンジン音は控えめで、決して世理を置き去りにするような勢いではない。


 「行ってらっしゃい!」

三山世理は笑顔で手を振り、そのまま軽く地面を蹴った。

トライアスロン前の調整には、ちょうどいい距離だ。四キロ先の学生寮まで、夜風を切って走る。


 少し進んでは、前方に赤いテールランプが滲む。

江藤は一定の距離を保ちながら、時折スピードを落とし、振り返る。


 ――いるな。


 そのたびに世理は、小さく手を振り返す。

そのやりとりは言葉も合図もいらず、ただ繰り返される。


 街灯の下、歩道橋の影、コンビニの白い光。

世理が走る先々で、遠くに見えるのは、止まっては振り返る江藤裕也の姿だった。

彼は待たない。けれど、見失いもしない。


 世理の呼吸は次第に整い、足取りは軽くなる。

胸の奥にあるのは、不思議な安心感だった。

追いかけているはずなのに、見守られている。


 やがて、学生寮のビルが視界に入る。

エントランスのガラスが街灯を反射し、現実の終点を告げる。


 その瞬間、江藤はもう一度だけ振り返り、軽く手を上げた。

世理が到着するのを見届けると、今度は迷いなくアクセルを開ける。


 バイクの音が遠ざかり、夜に溶けていく。


 世理はエントランス前で立ち止まり、深く息をついた。

胸の鼓動とともに、さっきまで続いていた風景が、静かに終わる。


 ――また明日。


 そう心の中でつぶやき、世理は自動ドアの向こうへと足を踏み出した。



第十八回 箱根外語大学主催ファミリートライアスロン

 箱根外語大学では、真冬のこの時期になると、少し風変わりなトライアスロン大会が開かれる。

対象は主にファミリー。競技というよりも、挑戦と参加そのものを楽しむための催しだ。


 コースは箱根外語大学のロケーション、箱根の山をそのまま使う。まずは、スパ・コンプレックスと大学入り口のランドマークである、足柄研究都市のシンボル、金太郎の銅像がスタートラインだ。

挿絵(By みてみん)

 普通は創設者のブロンズ像などが配されるのだが、地名に因んで坂田金時、幼名金太郎である。

怪力無双の健康優良児。彼は森の王者の熊すら従えて、成長した後も源頼光に仕え「頼光四天王」の1人として武勇で名を残すヒーローとなった。


 この温水プールで、まずスイムにチャレンジする。芦ノ湖は遊泳禁止のため、舞台は大学構内の温水プールになる。五十メートルプールの端には、湾曲した壁が設えられており、参加者はその曲面を伝って反転し、再び泳ぎ出す。いわばUターンレーンだ。往復でおよそ百メートル。それを五コース分用意し、コースロープの数か所には、大学のスイミングサークルと他サークルの有志が配置されている。

声をかけ、手で示し、万が一の際にはすぐに飛び込める距離。水面に映る彼らの真剣な目が、冬のプールに安心感を与えていた。


 スイムを終えると、自転車パートだ。

元箱根口の門前にも金太郎像がある。勇ましく熊と相撲をとる姿だ。ここが次のスタートラインとなる。

挿絵(By みてみん)

 体育イベントにかかわらず、拠点間のイベントスタートラインへの移動は、歩いてもいいが、「モバイル・ウォーキング」の使用は認められている。各競技のタイムだけが、成績となるからだ。


 大学外周の山道に設けられた二キロのサーキット。距離は短いが、箱根らしい高低差が容赦なく体力を削る。使用されるのはモトクロスバイク。スピードは出ないが、太腿と背中にじわじわと負荷がかかる。

木の根元には、段ボールで組まれたバリアが丁寧に配され、安全性にも抜かりはない。段ボールの側面には、誰かが描いた笑顔や応援メッセージがあり、参加者は思わず息をつく。


 最後はラン。二キロ。

 キャンパス内を周遊する形式で、大学本棟、研究室棟、サークル棟を縫うように走る。見慣れたはずの校舎が、息の上がった視界ではどこか違って見える。


 ゴール地点のランドマークは三つ目の金太郎の像だ。

熊と並んで彼方を指さす、どこかクラーク博士を思わせる像。

挿絵(By みてみん)

 「若者よ、大志を抱け」とでも言いたげなその姿は、他の金太郎像と併せて、大会終了後のクイズに使われるため、参加者は走りながらも目を凝らす。


 真冬の冷たい空気の中、汗と湯気が交錯する。


 この大会は、記録を競うためのものではない。

箱根の山と、大学と、人とを、身体ごとつなぎ直す——そんな時間が、今年もまた、静かに始まろうとしていた。



第十九回 祖父と孫のファミリーチーム

 「おまえは出ないのか? 三山は出るんだろ」


 更衣室の前、ベンチに腰掛けた古葉が、タオルを首にかけたまま江藤に声をかけた。プール棟には、消毒液と温水の湿った匂いが混じっている。


 「俺は有志でプール担当さ」

江藤は軽く肩をすくめる。「世理は、お爺ちゃんとファミリー参加だよ」


 「へえ……なるほどな」


 古葉は納得したように頷いた。箱根外語大学の冬のトライアスロンでは、ファミリー参加は特別な位置づけにある。勝敗や記録よりも、チームとして進行状況を把握し、互いの様子を確かめ合いながら競技を進めることが目的だ。


 単独参加となれば話は別だ。

タイムを意識するあまり、限界を越えて無理を重ねる者も出てくる。特にこの箱根のコースは、山道もプールも容赦がない。集中力を切らせば、たちまち大事故につながりかねない。


 「世理の爺ちゃん、相当元気らしいな」

古葉が言う。


 「元気どころの話じゃないぜ」

江藤はプールを見下ろしながら、少しだけ笑った。「あの人、ペース配分ってものを身体で知ってる。俺たちよりずっとな」


 プールサイドでは、学生スタッフがロープの位置を確認し、ホイッスルを試し吹きしている。水面は静かで、これから始まる騒がしさをまだ知らない。


 「だからファミリー参加、か」

古葉が呟いた。


 「そう。競うんじゃなくて、ファミリーの結束を見失わないために走るんだ」


 江藤はそう言って、スタッフ用のビブス(校名入りのタンクトップ)を整え、プールサイドへと歩き出した。

今日の役割は泳ぐことではない。

誰かが無理をしそうになったとき、真っ先に気づくために、そこに立つことだった。



第二十回 場を支配する威容

 会場に、ひときわ空気の密度を変える人物が現れた。


 三山世理の祖父、三山剣斗――八十一歳。

年齢の数字だけを聞けば、誰もが白髪の老紳士を思い浮かべるだろう。だが、実際にそこに立っていた男は違った。肩幅は広く、背筋は一本の棒のように伸び、ジャケットの下に隠れた体は、並みの鍛え方では到底たどり着けない厚みを持っていた。無駄のない筋肉が、静かに、しかし確実に存在を主張している。


 出迎えたのは、箱根外語大学・落語研究会顧問の鎌勝大樹教授だった。


 「務所河原師匠、ご無沙汰しております」

深く一礼し、少しだけ声を低くして続ける。

「先だっては、不肖の元弟子を真打にお引き上げいただき、ありがとうございました――身に余る光栄です」


 その呼び名に、周囲の学生たちは一瞬きょとんとした表情を浮かべた。

だが、三山世理の祖父――否、落語家・務所河原札月むしょがわら・ふだつきは、穏やかに微笑むだけだった。


 黙って立っているだけで、それとわかる風格。

がっしりとした体躯は、噺家になる以前の彼の人生――汗と血と、そして数え切れぬ修羅場によって形づくられたものだと、見る者に雄弁に語りかけていた。


 「鎌勝教授……『ピロ月』、いや」


 一瞬だけ言葉を探し、軽く笑う。


 「今は真打になった、『明出目家プラ月』だったか。ご縁があって、今は孫の世理の先生だそうで。日ごろのご指導に、感謝の言葉もありませんな」


 その声音は柔らかいが、芯がある。


 鎌勝教授は、思わず背筋を正した。

「いえ、とんでもありません。今日は、ゆっくりしていかれるのでしょう?」


 そう前置きしてから、少し照れたように続ける。

「実はですね、箱根湯元演芸場を貸し切りまして。落語研究会の卒業生による新作落語の披露と――遅ればせながら、私自身の真打昇進御礼の演目をやらせていただこうかと」


 そして、丁寧に頭を下げた。

「ぜひ、お越しいただければ」


 務所河原札月は、ほんの一瞬だけ目を細め、山の空気を吸い込むように小さく息を吐いた。

「ほう……箱根で落語ですか」


 その笑みには、老いも若きも関係なく、人を惹きつける何かがあった。


 「それは、断る理由がありませんな。ここへ来た楽しみが増えました」

そう言っただけで、約束は成立した。

会場の片隅でその様子を見ていた世理は、祖父の背中を見つめながら、知らず小さく胸を張っていた。



第二十一回 

 「お爺ちゃんと鎌勝教授が知り合いだったなんて……すごい。なんだか、すごく強い運命を感じる」


 三山世理は、少し頬を紅潮させて言った。大会会場のざわめきの中でも、その声には弾みがあった。

「ねえ、お爺ちゃん。もう一人、どうしても会ってほしい人がいるの」


 三山剣斗は、黙って孫の顔を見つめる。その視線は穏やかで、しかし深い。


 「いつも私を支えてくれる人なの。江藤裕也さん。前に少し話したこと、あったわよね? 今は……正式にお付き合いしてるの」


 言い切ったあと、世理は少しだけ息を止めた。

「今日はトライアスロン大会の運営で働いてるの。でも、できれば……お爺ちゃんに紹介したいの!」


 三山剣斗は、愛おしそうに孫の目を覗き込んだ。

八十一年の歳月を刻んだ目元に、ふっと柔らかな光が宿る。


 「彼がいてくれるから、私はここで勉強しているお前のことを、心配せずにいられるんだよ」

そう言ってから、何気ない調子で続けた。

「江藤君は、元気にやっとるかね?」


 「え……?」

世理は、思わず目を見開いた。

「お爺ちゃん、江藤裕也さんのこと……知っているの?」


 剣斗は、ほんの一瞬だけ視線を外し、遠くの山の稜線を見た。

そして、肩をすくめるように微笑む。


 「まあね。世理から聞いた話でさ。ああ、これは間違いない男だ、と思っただけだよ」

それ以上は語らない。

いつものように、軽くはぐらかす。


 だが、剣斗は知っていた。

江藤裕也を、少年のころから。


 その名前を初めて聞いた頃、まだ世界に対して牙をむき、居場所を見失っていた頃から。

その事実を、今はまだ、孫に話すつもりはなかった。


 剣斗は再び世理に向き直り、いつもの祖父の顔に戻る。

「さあ、紹介してくれるんだろう? その『大事な人』を」


 世理は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じながら、力強く頷いた。

ーー続くーー

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ