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倫理学:女王様の特別講義~眞栄田豪姫の灼熱講話録  作者: 和子


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13限目 箱根倫理の絶対領域(2)

第二十二回 研究室棟共用設備利用規約 

 箱根外語大学のキャンパスの隅にそびえる「研究室棟」は、この大学の頭脳が集結する中枢であり、同時に世俗から切り離された一種の「聖域」でもあった。


 建学の理念に「互恵の精神で連帯し、共創する学問の森」を掲げる本学において、ここは教員と学生が知を共有し、共に高め合うための象徴的な場所である。しかし、自由な気風の中にも厳格な規律は存在する。夜の帳が下りるこの時間ともなると、建物の廊下で学生の姿を見かけることはほとんどない。たとえ熱心に質問を携えてきた学生であっても、午後五時までには教授の元を辞するのが、この学び舎に根付いた暗黙のマナーだった。


 教授の研究をサポートする助手の学生であっても、その例外ではない。深夜に至るまで共に研究室に籠もるような事態は、この棟では厳に慎まれている。したがって、教授と学生の間に、いわゆる「間違い」が起こる余地はどこにもない。それは、教育者としての倫理の問題であった。指導的な立場という「優越的な地位の乱用」は、真理を追究し、互いの知性を尊重し合う「互恵の精神」において最も忌むべき禁忌である。その一線を越えないための理性的な規律こそが、この聖域の静謐さを守る、目に見えない障壁となっていた。


 建物内には最新の音響設備を備えた会議室と、パーティションで区切られ事務処理に集中できる機能的な教授室が整然と並んでいる。形式上は研究施設だが、深夜まで議論を交わし、あるいは思索にふける者たちにとっては、ここが実質的な「衣食住空間」としての機能を持つ「教職員棟」でもあることは、学内の公然のユーティリティだった。それは教授だけの特権ではなく、准教授、講師、そして研究に励む学生たちも等しく利用できる、開かれた研鑽の場なのである。


 しかし、この棟が真に「箱根」という土地の恩恵を象徴するのは、その地下階にある。


 重厚なエレベータの扉が開くと、その先に広がるのは、大学施設とは思えぬほど充実したスパ・エリアだ。湯煙が立ち込める大浴場には、芯まで冷えた身体を解きほぐす本格的なサウナが完備されている。さらに、開放的なドライエリアへ一歩踏み出せば、竹垣の先に贅を尽くした露天風呂も鎮座していた。箱根の山々を渡る風を肌に感じながら、湯船に身を沈めて哲学的な難問に思いを馳せる……。それは、この場所を愛する者だけが享受できる愉悦の空間であり、学問に情熱を捧げる者たちに許された至高の休息であった。もちろん、昼間に研究室棟に訪れる学生たちにも解放されている。


 風呂上がりには、シームレスに続く休憩コーナーが待っている。柔らかな照明に包まれたその空間には、人間工学に基づいて設計されたリクライニングチェアーが並び、完璧な冷暖房管理によって常に一定の快適さが保たれている。ここで湯上がりに一息つき、そのまま深い微睡(まどろ)みに落ちてしまう者も少なくない。


 静寂が支配するこの空間で、彼らはリクライニングに身を預け、仮眠という名の思索へと落ちていく。次に目を覚ましたとき、教員も学生も隔てなく、再び「知の最前線」へと戻るための英気を養うために。



第二十三回 研究棟レストラン「早雲」

 夕刻7時を少し回った頃、地下1階のメインホール。 夕食を食べに三人の教授が、空腹を満たすべくエレベーターを降りてきた。


 文化人類学の鎌勝大樹(かまがちだいき)、スペイン文学のアントニオ・ロペス、そして統計学の平坂黄泉(ひらさかよみ)である。


 「平坂教授、今日はこちらに参りましょう」 鎌勝が、重厚な構えの『早雲』を指して言った。ここは箱根の銘水と地元食材を活かしたコース料理が自慢で、和・洋・中を揃え、懐石料理、フレンチのコース料理、飲茶料理まで提供している。キャンパス内でありながら、ビール、ワイン、焼酎に紹興酒まで提供している。学賓の接待にも使われる高級店だ。11:00~21:00の営業で、ラストオーダーは20:00となっている。。


 その隣にはカジュアルな軽喫茶『Cafe de la Source(水源のカフェ)』がある。ここは24時間営業となっている。21:00~翌朝5:00までは、基本的に無人で、その間は調理ロボットによる軽食の提供のみ行っている。有人営業時間は自家焙煎のコーヒーと、パティシエ特製のスイーツが楽しめる開放的なスペースだ。


 ここに来ても思い出されるのは、今回の「寝落ち救助事案」は、平坂教授にとっては、まさに「統計学的なイレギュラー」としか言いようのない不覚だった。


 厳重なセキュリティを誇るはずの研究室棟で、あろうことか自室の電子錠を開錠したまま、平坂は疲労の極致で、屍のポーズ(シャバーサナ)をしたまま眠りに落ちてしまったのだ。もしこれが悪意ある学生や、あるいは学術スパイの目に触れていれば、統計データの流出という取り返しのつかない「セキュリティ・クライシス」を招いていた。


 それを救ったという形になったのは、食事のお誘いに訪れた、アントニオ・ロペスと鎌勝大樹であった。


 「・・・あまりに静かだから覗いてみたら、オートロックが外れていたよ。君の情熱がセキュリティの壁を溶かしてしまったのかと思ったが、単なるオーバーワークだったようだね」


 ロペスは茶目っ気たっぷりにそう告げた。平坂のプライバシーを守るため、彼女が目を覚ますまで、しっかりガードして立っていたのだという。この「恩義」を前に、平坂も流石にいつもの冷徹さを保てなかった。


 こうして、最悪事態が無事回避されたことを祝うという名目で、鎌勝教授も加わった三人のディナー会席が、地下のレストラン『早雲』で開かれることになった。北条早雲の名を冠するこの店は、武家屋敷のような格式高い佇まいで、提供される料理も、うな重から極厚のステーキまで、学問の府に相応しい贅を尽くしたものばかり。



第二十四回 それぞれの晩御飯

 平坂教授、ロペス教授、そして鎌勝教授の三人は、センサーで感知すると自動的に左右に開く長暖簾(ながのれん)をくぐり、レストラン『早雲』へと足を踏み入れた。箱根の歴史を背負(せお)うその名は、静謐な店内の空気と相まって、空腹の教授たちに安堵感を与える。


 案内された窓際の席につき、三人は手元のタッチパネルへと指を滑らせた。研究室棟の機能美は、この食の空間にも息づいている。ここにはレジという概念が存在しない。メニューのバーコードを読み込み、電子マネーや大学共通の電子食券で決済を済ませるシステムだ。この食券はショッピングモールのレストラン街でも使用できる利便性を備えており、多忙な研究者たちの生活を支える血肉となっていた。


 「私はこれにしよう。箱根の山の恵みだ」


 ロペス教授が選んだのは、『自然薯の麦とろすきやき御膳』だった。甘辛く炊かれた牛肉をつまみながら、麦飯の上に粘り気の強い自然薯を絡めて食す。情熱的なスペイン人である彼にとって、この日本の滋味は今や欠かせない活力源となっていた。


 「おっ、金目(きんめ)があるな。縁起がいい」


 鎌勝教授は、『金目鯛の煮付とサザエのお造り』を迷わず選択した。真っ赤な金目鯛の照りと、磯の香りが漂うサザエ。文化人類学者として各地の食を巡ってきた彼も、この『早雲』の魚の鮮度には常に舌を巻いている。


 一方、平坂教授は数値を精査するようにメニューを凝視した後、スタミナを重視した注文を確定させた。


 「私は『相模豚のヒレかつ定食』を。それと、汁物を白味噌仕立てのもつ汁に変更するわ」


 サクッとした衣に包まれた柔らかな相模豚のヒレかつ、そして濃厚な白味噌のコクが染みるもつ汁。統計学的に導き出された「疲労回復に最適な構成」がそこにあった。



第二十五回 先進の決済システム

 三人は手元のタッチパネルに表示された決済用QRコードをスマートフォンで読み込み、手際よく仮決済を進めていく。


 「平坂教授、君の分は僕たちが持たせてもらうよ」


 ロペス教授がウィンクしながら提案し、鎌勝教授も「左様、お気になさらず」と、平坂が表示させた支払い用のバーコードを自身の端末でスキャンした。この『早雲』のシステムが優れているのは、一品の注文であっても、このように複数の注文を即座に割り勘の設定ができる点にある。一名以上の支払いがあればOKで、今回のように、3品を二人で割り勘もできるのだ。仮決済から配膳が完了するまでの僅かなインターバルであれば、支払い比率や勘定方法を自由に変更することもできる。


 「……痛み入りますわ。では、甘えさせていただきます」

平坂が少し照れたように視線を落としたとき、鎌勝がふと思い出したように端末を操作した。 (そういえば、先日の学会の懇親会で配られた割引クーポンが、私のアプリに残っていたっけ・・・)


 鎌勝が「クーポンを使用する」を選択した瞬間、テーブル全体の注文合計額が再計算された。当然、割り勘として紐付けられたロペスと鎌勝それぞれの決済額も、連動して均等に減額される。


 (ロペス教授には、わざわざ言うこともない。あとで通知を見て驚くかな?)


 それは、鎌勝教授の小さくも(イキ)な配慮だった。


 やがて、厨房からは香ばしい醤油の焦げる匂いや、出汁の芳醇な香りが漂い始めた。窓の外に目を向ければ、地下階とは思えぬほど見事な日本庭園を設えたドライエリアが、柔らかな間接照明に照らされて浮かび上がっている。



第二十六回 互恵・共創する箱根

 箱根外語大学の建学の理念モットーは、「互恵の精神で連帯し、共創する学問の森」である。


 その言葉が示す通り、このキャンパスにおいて教授、職員、学生の間に不必要な隔てはない。肩書きや年齢という「上下」を超えて、等しく知の地平に立つ者たちが自由に行き交い、語り合う。それは、箱根という深く険しい森、神秘を湛える湖、そしてすべてを等しく包み込む温泉という「共生の地」に生きる者たちに共通する、静かな、しかし確固たる意識であった。


 「……さて、料理が来るまで、先ほどまで私が取りかかっていた『倫理関数の難問』について、今分かっている範囲で少しだけお話しておきましょうか」


 平坂教授は、温かいお茶で喉を潤すと、自嘲気味な笑みを浮かべて切り出した。


 統計学という冷徹な数字の世界に身を置きながら、人間の行動倫理という曖昧な対象を数式に落とし込もうとする試み。その思考の限界に挑み、結果としてピラティスの最中に寝落ちするという、彼女の美学からは最も遠い醜態を晒してしまった。その事実に対して、彼女の意識はどこか深く、自身の内省に向いているようだった。


 「今回の解析で浮き彫りになったのは、善意や規範といった『正の定数』よりも、突発的な欲求や疲労という『負の変数』が、いかに容易にシステムの均衡を崩すかという点です。私の今回の不覚も、皮肉なことにその関数が正しかったことを証明してしまいました」


 平坂は湯呑みを見つめたまま、独白に近いトーンで続ける。


 「ロペス教授、鎌勝教授。お二人に救われたことは、私のモデルにおける『予測不可能な相互扶助』という項目の重要性を再認識させてくれました。……自分の脆さを数式で証明しながら、その救いを他者に求める。実に非効率的で、そして……人間的な経験でしたわ」


 窓の外では、地下庭園の揺れる灯影が、眠れる豪姫の輪郭を淡く縁取っている。


 「だからこそ、このエラーを放置せずに、この食事を終えた後、もう一度プログラムに通して検証してみます。この正体不明の倫理関数というものに、振り回され続けた感はありましたが、ようやく収束させるためのプロセスが見えてまいりました」


 若きエリートとしての自負と、それを打ち砕いた疲労。その両方を認め、飲み込むようにして、平坂は再びお茶を一口啜った。


 「実は、金曜の夜から今日の明け方まで、統計データの解析に没頭しておりまして……。ようやく全体の見通しがついたという安堵感から、不覚にも研究室でピラティスをしながら寝落ちしてしまったという次第です。お恥ずかしいところをお見せしてしまいました」


 その告白に、ロペス教授が目を丸くした。

「ピラティスをしながら、かい? それはまた、偶然にも寝落ちのフォームになってしまったんだね」


 「体幹を整えながら脳を休めるつもりが、文字通り『システムダウン』してしまったようです。開錠したままの無防備な姿を晒すなど、情報管理者としては失格ね。ロペス教授、本当に助かりました」


 平坂は再びお茶を啜り、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。32歳の正教授というのは、異端の天才である眞栄田教授に次ぐ学内屈指の若手エリートだ。その立場ゆえのプレッシャーは相当なものだったのだろう。常に自分を追い込み、誰よりも理知的で隙のない「若き統計学者」を演じ続けてきた彼女にとって、信頼できる同僚へのこの告白は、一種のデトックスでもあった。


 「平坂教授。ピラティスで寝落ちとは、考えてみれば、身体が自然に自己修復のモードに入ったようなものですね。あまりにも過酷な研究をされるものですから、生身の人間としての()()()()が働いたんでしょうね」


 鎌勝教授が、最初は真剣に案じるような語り口を見せ、最後には緊張を解きほぐすように愉快そうに笑って、湯呑みを置いた。


 「身体的な『休息』は、文化人類学において、単に活動を停止すること(非活動)ではなく、社会的、文化的、環境的な文脈の中で定義される、回復、再生、コミュニティの維持、あるいは祝祭のための時間と捉えられています。 それを恥じることはありません。むしろ、それほどの集中力を維持していた自分を褒めて差し上げるべきだ」


 「……そう言って頂けると、落ち込んだ自己評価を少し上方修正できそうですわ」  平坂は小さく微笑んだ。その表情には、職場である「教授室」で見せる険しさはなく、建学の理念である『互恵の精神』に基づいた学びを、自分自身が身をもって享受しているような穏やかさが宿っていた。

「自己修復モード……。確かに、そうかもしれませんね。でも、この箱大においては、私のエラーを埋めてくれる同僚がいる。それは、数式だけでは導き出せない幸運だわ」



第二十七回 ニンジャロボによる配膳

 ふいに、頭上の天井から「シュルシュル」という軽快な駆動音が響いた。


 この『早雲』が誇る配膳システムは、実に見事なものだ。強力な磁石で天井の金属レールに吸い付いた移送ユニットが、モーターでゴムタイヤを駆動させ、文字通り忍者のように天井を這って移動する。約5kgぐらいまでの重量に対応し、突如落下の心配もない。床を走るロボットのように客の歩行を妨げることもなく、空間を縦横無尽に駆け抜けるその様は、科学の粋を集めた現代のウエイトレスならぬ「Wait less(待ち時間短縮)」と言えた。


 三人のテーブルの真上でユニットがぴたりと停止すると、細いワイヤーに吊られた料理を載せたお盆が、音もなく滑らかに降下してきた。(イラストは『Ceiling Wait Less』のイメージ)

挿絵(By みてみん)

 「相変わらず、この『忍者配膳』は見事ですな。効率と空間活用の極致だ」 鎌勝教授が感心したように声を上げた。


 三人がそれぞれ、自分の目の前に降りてきたお盆を慎重に受け取ると、その瞬間に店内システムが配膳完了を検知する。それと同時に、事前に入力されていたバーコード情報に基づき、代金決済もスマートに完了した。


 天井の鉄板レールを磁石の力で吸い付くように走り、ゴムタイヤの駆動音だけを響かせて料理を運ぶこの配膳システムは、実はここ箱根のレストラン街が全国に先駆けて導入した、いわば「発祥の地」でもある。今や全国各地の飲食店で見かけるようになったこの光景も、その起源は意外なところにあった。


 元々は、東南アジアの新進気鋭なIT企業によって開発されたもので、「天井走行型」は安全で確実な非接触配膳の最適解として爆発的なヒットを記録。今や彼らにとっては、最大の稼ぎ頭へと成長を遂げている。


 「ドローンを飛ばすより、天井を忍者のように走らせる。合理性と遊び心が同居した、まさに今の時代を象徴するシステムですな」


 鎌勝教授が、頭上で軽快に反転し、次なる配膳料理を求めて戻っていくユニットを目で追いながら、感心したように呟いた。


 ロペスの『自然薯の麦とろすきやき御膳』、鎌勝の『金目鯛の煮付』、そして平坂の『相模豚のヒレかつ定食』。 三人の教授は箸を手にした。窓の外の喧騒なき「知の聖域」の静寂と、食卓に広がる香ばしい匂い。セキュリティ・クライシスを乗り越えた夜は、ようやく穏やかなディナータイムへと移ろっていった。



第二十八回 箱大OBによる多国籍ベンチャー

 「このシステム、実は本学のOBが立ち上げた多国籍ベンチャー企業の手によるものなんですよ。彼らは当初、ラオスでドローン配送や空中タクシーの開発に心血を注いでいたんです。ところが、法律やインフラの壁にぶつかりましてな。そこで発想を転換し、空ではなく『屋内の天井』を走らせた。それがドローンを凌ぐ稼ぎ頭になったというわけです」


 鎌勝は、手元のサザエのお造りに箸を伸ばしながら続けた。


 「社長はラオス人、役員にはタイ人と日本人が名を連ね、エンジニアは中国人と韓国人の混成チーム。本社をシンガポールに置くという徹底ぶりです。しかも、役員の一人は我が校の落語研究会のOBでしてね。この忍者のような変幻自在な動き、どことなく落語の『遊び心』が利いている気がしませんか?」


 ロペス教授は、ワイングラスを置くと深く頷き、感嘆の声を漏らした。


 「なるほど。マーケティングの対象が最初からアジア全域、いえ世界を見据えているわけだ。しかし、箱大生らしいのは、力による制圧的な世界戦略を狙わない点ですね。それぞれの土地の文化圏や生活様式に寄り添い、その隙間を埋めるように技術を広げていく。まさに『文化の翻訳者』としての広がり方だ」


「ええ。彼らが掲げるビジョンも、この大学と同じく『共創』。異なる出自の人間が、一つの共創の道の上を連帯して走る。……そこには確かな互恵の精神が宿っているのかもしれませんわ」


 平坂は、目の前に鎮座した『相模豚のヒレかつ定食』と、湯気を立てる『白味噌仕立てのもつ汁』を見つめた。統計学的に計算し尽くされたかのような、完璧な揚げ色の衣。彼女は箸を割り、まずはもつ汁を一口啜った。濃厚な味噌の甘みが、解析作業で冷え切っていた五臓六腑に染み渡っていく。


 「でも、ドローン配送や、空中タクシーって、ラオスのような山の多い国では、発展するんじゃないかしら?彼らのベンチャー企業は『前途洋々』といったところでしょうね」


 そう言って、平坂が再びサクッと小気味よい音を立ててヒレかつを頬張ると、ロペスと鎌勝も顔を見合わせ、満足げに自らの料理へと向かった。


 「それが、こないだOBの日本人役員から聞いた話では、『前途多難』らしいです。彼らは、ドローン配送や空中タクシーの開発を凍結して、この『Ceiling Wait Less』の改良と拡販で当面を凌いでいく腹積もりですね」


 そういう鎌勝教授は話を続ける。

「元々ラオス人のプーミさんが箱大で仲間を集めて作ったベンチャーで、全員が現在の代表取締役と執行役員を務めています」


 鎌勝教授は、サザエの身を箸でつまみながら、教え子から聞いた、彼らの歩んだ数奇な道のりを披露した。


 「彼らの故郷の村は国境に近い峻厳(しゅんげん)な山岳部にありましてね。『この地で人の往来や物流を支えるには、もはや空中タクシーやドローン配送しかない』と考えたのが起業の始まりだった。若き情熱が生んだ、壮大な空中戦の構想です」


 ロペス教授が「夢のある話だ」と頷くが、鎌勝教授の表情には少しばかりの苦笑が混じった。


 「しかし、いざ起業した彼らの前には、あまりにも巨大な壁が立ちはだかりました。交通物流改革という、国家規模の政策です。それは高速鉄道と、拠点間に張り巡らせた巨大な高速道路網。それらが山を貫き、谷を埋めて進んできた。点と点を空で結ぼうとした彼らの構想は、面で押し寄せるコンクリートと鉄の論理に、その活動領域を奪われてしまったわけです」


 「なるほど、空中戦を挑む前に、地上戦で制圧されてしまったということね」

平坂教授が、相模豚のヒレかつに箸を止め、興味深そうに相槌を打った。


 「ええ。ですが、彼らはそこで折れなかった。ドローンで培った『重力を回避し、障害物を越える技術』を、広大な空から、より身近で複雑な『屋内の天井』へと凝縮させた。国家が造る高速道路には対抗できなくても、レストランの天井という数メートルの空間なら、自分たちが新たな高速道路を敷けると考えた。それがこの『天井のウエイトレス(Ceiling Wait Less)』です」


 強力な磁石で天井に吸い付き、モーターでゴムタイヤを回して疾走するユニット。それは、アジアの峻厳な山岳地帯を飛び越えようとした若者たちの夢が、形を変えて結実した姿だった。


 窓の外、ドライエリアの日本庭園には、箱根の深い夜の影が落ちている。  かつて空中を夢見た技術が、今は静かに、地下のレストランで教授たちの胃袋を満たしている。それもまた、この学問の森が育んだ、しなやかな「連帯」と「共創」の一つの結末なのかもしれない。



第二十九回 頭上を奔る忍者

 鎌勝は、金目鯛の身を(ほぐ)しながら、さらに話を続けた。


 「彼らの次なるターゲットは、企業のオフィスです。西暦2051年の今であっても、オフィスには依然として様々な『物』が行き交います。封書、新聞、業界誌、紙の資料、補充用の文具、電子記録媒体……。一つひとつは軽量ですが、どうしても人間によるデリバリーを必要とするものばかりだ」


 鎌勝の視線が、天井を這うユニットの滑らかな動きを追う。


 「だいたいその役割を担うのは、組織の最下層、いわゆる『新人』です。総務課のポストに届いた物品を仕分け、部長の席まで新聞や封書を届けるのが、彼らに課された『新人として当然の仕事』。本来は出勤時に各自が総務へ立ち寄れば済む話ですが、地位が高くなるほどそんな手間はかけません。そこで彼らは、このシステム『Ceiling Wait Less』をオフィス向けに改造したんです。――天井走行でオフィス間のミニ物流を改革する『Office Ninja』と銘打って、その雑務を代替する切り口で販路を急拡大しているようです」


 ビジネスシーンでは、キャリーカートを押して、オフィスとデスクの間を行き交う若手がに取って代わり、病院などでは、看護師が手押し車にノートPC、医療機器や薬剤とを乗せて患者のベッドを巡回するスタイルが、小型のタブレットを肩に掛け、機材は天井に張り付いて看護師の後を追うというスタイルに変わりつつある。


 箱根外語大学の研究室棟でも、近々このシステムを導入するための工事が入ると聞いている。封書を仕分けて各教授の机に配るという、修士課程の学生たちに代々受け継がれてきた「伝統的雑用」も、いずれ消えていく運命なのだろう。


 ロペス教授は、少し遠くを見るような目で言った。


 「他の研究室の若者と言葉を交わす機会がなくなるのは、少し寂しい気もします。簡単な文書の受け渡しでも、そこからコミュニケーションの輪が広がることもありますから。……ですが、彼らの本分はあくまでも学問だ。先進システムの恩恵で、学生たちが雑務から解放され、研究効率を最大限に高められるなら、それに越したことはありませんね」


 「仰るとおりです。非効率な慣習を技術で平らげる。それもまた、一種の『共創』の形かもしれません」


 平坂は、相模豚のヒレかつを一切れ口に運んだ。サクッという確かな食感とともに、肉の旨みが広がる。  かつての教え子たちが「上下のない効率」を目指して生み出した『Ceiling Wait Less』。それが、伝統ある学問の府の姿を、少しずつ、しかし確実に塗り替えようとしていた。まもなく研究棟の天井を走る「忍者」が教授や学生たちの研究環境を変えて、その才を研ぎ澄ませることになるのだろう。



第三十回 企業の志は消さず

 「彼らは起業の原点を見失ってはいませんよ」


 鎌勝教授は、金目鯛の煮付けを丁寧に味わいながら、語りを深めていった。


 「私のフィールドワークのひとつに、山岳民族の生活思想研究があります。彼らは代々、森の精霊の力を畏怖し、環境を守って生きてきました。プーミさんと出会ったのは、彼がヴィエンチャンの大学生だった頃です。私の研究に協力するため、彼は実家があるカム族の村へ私を案内してくれました。その道中、彼は目を輝かせて語っていたものです。『カマガチさん、空中タクシーで村々を繋げたら凄くないですか?』と。当時、すでに山岳民族は激減し、若者の多くは都市部へ流出していました。彼は山に散らばる部族のネットワークを、空中の移動手段で再生したかったのでしょう」


 鎌勝は一度言葉を切り、平坂教授へ問いを投げかけた。 「平坂教授、山岳民族が減ると、環境はどうなると思いますか?」


 「……推測ですが、森林の管理者が減ることで、森が荒廃するのではないでしょうか」


 平坂の答えに、鎌勝は静かに頷いた。 「近いですね。正解は『山火事が多発する』のです。元々、落雷などによる自然発火の野焼きは世界中で見られる現象ですが、かつては人間が森を管理し、間伐材を利用していました。朽ちた木が火種になる前に取り除かれていたのです。あらゆる動物は火から逃げるだけですが、人間だけは火を制御しようとする。小さな燻りのうちに、彼らが消し止めていたのです」


 鎌勝は窓の外、暗がりに沈む箱根の原生林を見やった。 「野焼き自体は地力を回復させる自然現象ですが、管理者がいなければ、火は麓の生活圏まで飲み込む甚大な被害をもたらします」


 それを黙って聞いていたロペス教授が、感銘を受けたように呟いた。 「つまり、山岳民族は精霊の声を聞きながら、自然界の『バランサー』の役割を担っていたんだね」


 「まさにその通り。経済最優先の国策が伝統文化を衰退させ、その罰を山火事という形で受けている……。いささか精霊信仰じみた主張ですが、これがメカニズムです。そして――」 鎌勝の目が、未来を切り開く若き起業家への期待で熱を帯びる。

「プーミさんは今、あの『空中タクシー』を別の形で再始動させようとしています。かつて村があった空き地に小型飛行船の離着陸場を建設し、部族の伝統的な生活を再興させるプランです。これは凄いことですよ。失われた民族の再生に繋がると、私は確信しています。私の生きている間に、その光景をぜひ見てみたいものですね」


 知の冒険者である鎌勝の言葉が、レストランの空気を震わせた。  天井を這う最新の『Ceiling Wait Less』。その技術の根底には、ラオスの深い森で精霊と共に生きた若者の、故郷への切実な祈りが込められていたのだ。


 「互恵の精神で連帯し、共創する……。彼らもまた、この箱根の森で学んだことを、世界の森へと繋ごうとしているのですね」


 平坂は、最後に残った白味噌のもつ汁を飲み干した。その温かさは、単なる栄養以上のものとして、彼女の乾いた心に染み渡っていった。



第三十一回 休憩コーナーの風景

 レストラン『早雲』での濃密な時間を終え、三人の教授は地下のリフレッシュ階から出るため、温泉施設につながった「休憩コーナー」の傍らを通りかかった。その時だった。


 行きには誰もいなかったはずのその場所に、湯上がりの余韻を全身から漂わせる一人の影があった。眞栄田豪姫教授である。

挿絵(By みてみん)

 彼女は、風呂上がりでしなやかに整った肢体のまま、空調の効いた休憩コーナーのリクライニングチェアを倒して、深く横たわっていた。三人の目に飛び込んできたのは、視界を遮るアイマスクを装着し、艶やかな銀色の頭髪を真っ白なタオルで無造作に巻きつけた姿だ。そして何より、おそらくはバスローブ一枚だけを纏っているであろう、驚くほど無防備な装いであった。


 「……おお、今日はラッキーデイなのか? 誰か獅子座のB型の今日の運勢を教えてくれないか。美食の次はこれほどまでの眼福が待っているとは」


 ロペス教授は、満腹の幸福感も手伝ってか、鼻の下を伸ばしながら今にもふらふらと豪姫に近づきそうな勢いだ。その目は、まさに異国の秘宝を発見した探検家のごとく輝いている。


 「これこれ、ロペス先生。サウナを出て(くつろ)がれているのでしょう。リラクゼーションの邪魔をしてはいけませんよ。精霊の休息を妨げるのは不粋(ぶすい)というものです」


 鎌勝教授が、穏やかな口調ながらも、獲物を狙う猟犬のようなロペスの肩をしっかりと掴んで嗜めた。文化人類学者としての自制心が、かろうじて理性のブレーキを踏ませている。


 しかし、そんな男たちの「幸せの余韻」を、鋭利な一喝が切り裂いた。


 「なんて節操も無いの……! 早く、一刻も早く、眞栄田教授の研究室を完成させて、そこから一歩も出てこないようにしてもらいたいわ!」


 平坂教授である。その形相は、地獄の門を断固として施錠し、亡者の逃走を許さない管理の赤鬼そのものであった。彼女の放つ「絶対零度の怒気」に、ロペスの浮足立った鼻息も一瞬で凍りつく。


 「いいですか、ここは『学問の森』であって、あなたの個人的なサロンではないのよ!」


 平坂の罵声を、当の豪姫はアイマスクの下で夢見心地に聞き流しているのか、あるいは「互恵・共創」の精神に基づいた信頼の証として晒しているのか。タオルに巻かれた銀色の髪が、月光のような地下の照明を浴びて、妖しく、そしてあまりに無邪気に輝いていた。


 教授二人は、赤鬼に追い立てられるようにして、その場を後にした。平坂の足音だけが、怒りのリズムを刻んで静かな廊下に響き渡っていた。



第三十二回 研究室に戻って

 平坂教授は自室に戻ると、パーカーも脱がぬままメインコンソールに向かった。先ほどハーバード大学から届いたばかりの複数のPythonプログラムを流し込む。サーバーの駆動音が一段高く響き、ディスプレイ上に検証結果のグラフが描かれていく。その曲線が、自身の想定していた理論値に極めて近い軌跡を辿るのを確認し、彼女は深く椅子に身体を預けた。


 「……ようやくね」


 満足げな溜息がこぼれた。


 「ようやく、倫理関数を一部実装したプログラムを走らせることができるようになった。ここから、倫理22関数の利用が広まる手がかりが掴めそうね。……そう、倫理関数は眞栄田教授の独占物じゃなくなる。これは世界で広く利用されることにこそ、真の意味があるんだから」


 そこまで口にして、平坂はふと奇妙な違和感に捉われた。  今の自分の姿は、まるで豪姫のために一生懸命働かされている研究助手のようではないか。「よく頑張ったわね、褒めてあげるからもっと私のために研究しなさい」――そんな豪姫の無邪気な声が聞こえてくるようで、平坂は小さく首を振った。


 「違うわ。私は彼女のためにやっているんじゃない」


 自分に言い聞かせるように、彼女は夜の闇が降りた窓の外を見つめた。


「倫理関数の普及は、人類の未来にとって不可欠なこと。知を一部の天才の独占から解放するためには、個人的な些細(ささい)なプライドなど無視するべきだわ。いずれにしても、一研究者としてたとえ(わず)かな一歩であっても、歩みを止めないこと。……そんな人々が増えていけば、いつかそれは大きなうねりとなって浸透し、世界を塗り替えていくはずよ」


 胸の奥に灯った確信の炎は、先ほどまでの苛立ちを焼き払い、静かで冷徹な情熱へと変わっていた。


 もう間もなく、あの自由奔放な教授を研究室に封印することができる。フラフラ出歩くようであれば、「あなたにはまだ研究室の利用は無理だったようね」と言って鍵を取り上げる。平坂にとっては勝利のカードが増えることになるのだ。

この「学問の森」において、「互恵」と真の意味で対等に「連帯」し、未知の領域を「共創」していくための、覚悟をあの眞栄田教授にしっかりと植えつけなくてはならない。



第三十三回 朝の教授室

 「おはようございます!」


 月曜日の朝。箱根の清冽な空気をついて、若手講師や准教授たちの快活な挨拶が飛び交う。国籍こそ様々だが、皆一様に若く、学問の未来を担う情熱に満ちあふれた顔触れだ。


 そんな活気に混じって、繰上げゼミ生となった堂島剛は足早に事務局へ向かった。大学職員から眞栄田豪姫教授宛の封筒を受け取ると、まずはそれを彼女の研究室へ届ける。その後は改装中の倫理学研究室へ移動し、箱根木工所の宮ノ下社長らの入室をサポートしなければならない。


 堂島の役目は、単にドアを開けるだけではなかった。工程のチェック、出入りする人員の管理、現場からの連絡事項の集約――。さらに週に一度の作業報告書をまとめ、午前中に研究棟管理事務所へ提出するという重要な任務が課されている。


 (今日は戦場になるな……)


 覚悟を決めていた堂島は、用事を前倒しで済ませるべく、いつもよりかなり早い時間に教授室の扉を叩いた。豪姫のデスクに向かうと、そこには彼女が席についていた。


 「お、おはようございます……」


 「おはよう、堂島くん。早いわね」


 なんと、そこにはすでに豪姫が鎮座していた。彼女は悪戯っぽい瞳で堂島を射抜く。

「先週金曜日の講義、来なかったわね。古葉くんから聞いたわよ、サウナに入っていたんですって?」


 「す、すみません、教授! 僕はすでにA判定をいただいていたので、講義は免除されるものとばかり……」


 「あら、講義をサポートするくらいの気概が湧かないようじゃ、そのA判定、取り消しちゃおうかしら」


 豪姫はクスクスと笑いながら、追い打ちをかけるように続けた。

「これからゼミを牽引してもらうんだから、もっと汗を流して働いて頂戴。まあいいわ。今日の午前十時半からの講義、最初は参加しなさい。手伝ってもらったら、途中で抜けていいから」


 堂島は頭の中で一日のタイムスケジュールの見直しを始めた。管理事務所への書類提出を済ませ、豪姫の講義をサポート。その後すぐに研究棟へ戻って、箱根木工所の面々が昼休憩に出るタイミングで研究室を施錠。彼らが食事から戻る直前に再び解錠し、午後は別の講義を受講(十中八九、寝不足で意識を失うだろう)し、十六時半にはまた研究棟に戻る……。


 「……目まぐるしいどころじゃないな、これは」


 堂島は小さく溜息をついたが、その表情はどこか晴れやかでもあった。 上下のない「共創・共助」を掲げるこの学問の森において、この忙しさは、自分が教授から「戦力」として、そして「連帯」すべき仲間として認められている証でもあったからだ。その忙しさは、先輩落語家のお世話をする前座として働いてきた堂島にとって、充実感をもたらす労働と似通っていた。


 「承知しました。まずは書類を片付けてきます!」

堂島は封筒をデスクに置くと、弾かれたように部屋を飛び出した。背後から豪姫の「頼りにしてるわよ!」という声が、軽やかに追いかけてきた。



第三十四回 教授室という職員室のあらまし

 箱根外語大学の「教授室」は、小・中・高校でいうところの「職員室」に近い役割を担っている。教授、准教授、講師といった面々が仕事に集中できるよう、各デスクはパーティションで区切られ、そこで学生の成績評価や事務処理をこなす、いわば大学の「現実」が詰まった場所だ。しかし、ここは決して閉ざされた象牙の塔ではない。教員と学生が同じ地平に立ち、共に学問を紡いでいくという理念のもと、そこには常に「人間」の体温が通っていた。


 そこは一見して、シリコンバレーのIT企業を彷彿とさせる空間だ。専任の教授陣には、プライバシーと集中を確保するために高いパーティションで区切られた個別のデスクが与えられている。ここでは、学生への評価入力や複雑な学術事務を効率的にこなせるよう、周囲の視線や音を遮断する体制が徹底されているのだ。


 一方、多彩なバックグラウンドを持つ非常勤の「講師」たちのためのスペースは、自由で流動的な設計となっている。


■ 講師室と「自走型サイドワゴン」

 リベラルアーツを重視する本学では、外部講師の顔ぶれは驚くほど多彩だ。元看護師、自衛隊の退官者、有機農業の経営者、さらには現役のマンガ家まで。実社会の最前線で磨かれた知見を学生に届けるため、半年単位で招聘される「知のギルド」の面々である。


 彼らは図書館の自習室のように、事前に出勤予定を登録して共有デスク(フリーアドレス)を利用する。ここにはパーティションがない。だからこそ、着席時に隣のデスクの相手へ軽く会釈をするのが、この場所の粋なマナーとされている。


 このシステムを支えるのが、本学自慢の「自走型サイドワゴン」だ。 講師がバッグ一つで身軽に出勤すると、その日の予約席には、あらかじめ個人用の資料や筆記用具を積み込んだワゴンが、主人の到着を待っていたかのように鎮座している。講義が終われば、ワゴンは静かに保管場所へと自走して戻っていく。


■ 地下の静寂と、無防備な知性

 そんな合理的で機能的な地上階に対し、地下のスパ・エリアと休憩所、レストランは、時間すらも緩やかに流れる別世界だ。


 眞栄田豪姫にとって、ここは「研究室」という個室を持たぬがゆえの、唯一の解放区であった。セキュリティの行き届いたこの空間で、彼女はしばしば仮眠をとる。


 早朝、軽喫茶で朝食でも食べようと、静まり返ったフロアに足を踏み入れた男性教授たちは、そこで不意打ちをくらう。リクライニングチェアーに横たわり、アイマスクをしたまま深い眠りに落ちている豪姫の姿がたまにあるからだ。


 ハイヒールを脱ぎ捨て、バスローブ一枚を纏った彼女のシルエットは、鍛えられた四肢のしなやかさと、女性としての柔らかな曲線美が見事に調和している。それは、教壇で見せる峻厳な倫理学者の顔とはあまりにかけ離れた、無防備な美しさだった。


 通りかかる者たちは、本日のスケジュールなどを頭から飛ばし、思わずその寝姿を「チラ見」せずにはいられない。完璧に管理された冷暖房の微かな風が、彼女の寝息を運んでくる。


 機能美を極めた地上のオフィスと、本能的な美が漂う地下の休憩所。 このコントラストこそが、箱根外語大学の知られざる日常の風景であった。



第三十五回 キャンパスライフのドレスコード

 多種多様な国籍と文化が交差するここ箱根外語大学において、ドレスコードという言葉は事実上、死語に等しい。「全裸でさえなければ、概ね許容される」というのが、この自由な学び舎における唯一の暗黙の了解であった。


 そんな中、学生たちの間で圧倒的な支持を得ている「制服」がある。冬場は「作務衣さむえ」、夏場は「甚平じんべい」だ。  もともとは落語研究会の低学年が修行中の和風装束としてユニフォームに指定していたものだが、その着心地の良さと、木綿の通気性という日本の風土に適した機能性が、欧米からの留学生たちの琴線に触れた。今や、藍色の作務衣を纏い、小脇にマイ座布団を抱えて歩く姿は、キャンパスで最もクールなファッションと化している。


 彼らが座布団を持ち歩くのは、単なる飾りではない。キャンパス内の適当なスポットを見つけては座布団を敷き、即座に「禅(ZEN)」を組んで瞑想の境地に入るためだ。


 今日も、樹齢数百年の楠の大樹の根元で、一人の留学生が「ZEN」の深淵に潜っていた。その頭部には、骨伝導でソルフェジオ周波数を直接脳内へ送り込むという、最新のハイテク瞑想ガジェットが装着されている。


 「スティーブ、瞑想中にすまないが……」


 瞑想中の彼に声をかけたのは、友人のビルだった。スティーブは薄目も開けず、悟りを開いたような静かな声で応じる。


 「ビル、君か。統計学の講義が始まるまで、まだ三十分以上ある。もう少しこの境地に居させてくれ……。今、私の意識は箱根の山々と一体化しているんだ」


 「いや、その『一体化』の途中で申し訳ないんだがね」


 ビルは鼻先を軽く押さえながら、心底申し訳なさそうに告げた。


 「今のうちに、ひとまずシャワーだけでも浴びてきた方がいいと思うんだ。……何しろ、君から放たれている『熟成された禅の香り』が相当なものでね。あの鼻の利く平坂教授が気づいたら、君の倫理関数を論じる前に、君自身の衛生指数を問題視されると思うよ」


 スティーブはカッと目を見開き、自分の脇のあたりをクンクンと再確認した。数秒後、彼の悟りきった表情が、一気に現世の焦燥へと塗り替えられる。


 「ビル、忠告に感謝する。僕の意識は山と一体化していたが、肉体の方はどうやらCivil War(南北戦争)の兵士並に荒ぶっていたようだ」


 スティーブは慌てて座布団を抱え上げると、ガジェットを放り出す勢いで立ち上がった。


 「ひとっ走りスパへ行って、清めてくるよ!」


 藍色の作務衣をなびかせ、脱兎のごとくスパへと駆けていくスティーブの後ろ姿。それを見送りながら、ビルは「これも箱根のダイバーシティだな」と一人ごちて、自分もまた、教科書を開くためにベンチへと向かった。


 女学生の間でも作務衣は愛用されている。もちろん、ショッピングモールの生協には、色鮮やかな花柄やモダンな幾何学模様をあしらった、女性向けの華やかで可愛らしい作務衣や甚平もずらりと並んでいる。


 しかし、不思議なことに、これらを身に纏って堂々とキャンパスを闊歩する女子学生の姿は、あまり見かけない。彼女たちにとって、それはあくまで究極の「プライベート・ウェア」なのだ。


 その真価が発揮されるのは、日が落ちてからの学生寮である。講義やゼミという「戦場」から帰還し、重い教科書を放り出してシャワーを浴びた後。彼女たちはようやくお気に入りの柄の作務衣に袖を通し、心の底からリラックスする。


 「あ、炭酸水切らしてた」


 節津京香は、買出しに行こうと思うが、深夜の自販機までわざわざ着替えるのは億劫だ。彼女は作務衣の上から厚手のドテラをガバッと羽織り、誰にも見られないことを祈りながら、寮の廊下や自販機コーナーまで最短ルートで駆けていく。


 一方、そんな事情を知ってか知らずか、留学生のスティーブたちは「なぜ彼女たちはあんなに素晴らしいジャパニーズ・トラディショナル・スタイルを人前で披露しないんだ? シャイすぎるよ」と、石鹸の香りを漂わせながら不思議そうに首を傾げている。



第三十六回 倫理学の講義は今日も続く

 「今日は堂島のヤツ、しっかり講義に出るだろうな」


 月曜の朝、講堂を目指して歩きながら、古葉玲央は手元の資料を整理して、苦笑混じりに呟いた。

 「眞栄田教授が言っていることは、要するに『講義は聞かなくてもいいから、私の仕事を手伝え』ってことだろ。無報酬の労働者を最短ルートで手に入れるための、彼女なりのテクニックさ」


 隣で歩く江藤裕也が、眉をひそめて応じる。「ただし、堂島を特例扱いにしたのは、『この教授の講義でAを取るには、無償奉仕すればいい』なんて間違った情報が広まると困るからだろうね。だからこそ『自分の講義だけは出席しろ』と釘を刺したわけだ」


 「そして他の講義は単位を落とせ、か……。なんとも残酷な仕打ちじゃないか」  江藤の言葉に、二人の考えは一致した。豪姫教授の「互恵」は、時に猛烈な毒を孕む。


 「だからこそ江藤、俺たちは堂々と無欠席で正面からA評価を勝ち取ろうじゃないか。豪姫教授のロジックはだいたい見えてきた。攻略しがいがある相手だぜ」

古葉は不敵な笑みを浮かべ、自信を深めていた。しかし、江藤は対照的に、どこか慎重な構えを崩さない。


 「古葉、お前の『お手並み』は拝見させてもらうよ。だが俺は、あんまりあの教授と正面切ってやり合いたくはないな……。何より、世理をあんな実験台のような場所に立たせるわけにはいかない」  江藤の瞳が、一瞬だけ鋭い野獣のような光を放った。

「もし、世理に手を出すようなことがあれば、相手が教授だろうが俺は容赦しない」

挿絵(By みてみん)

 「おいおい、穏やかじゃないな。ここは学問の森だぜ、頭脳戦でいこうよ」  古葉が肩をすくめてなだめるが、江藤の表情は真剣そのものだった。


 「……古葉。俺がこの大学に入学して最初にしたことは、三山世理にできるだけ自然な形で近づくことだったんだ」


 唐突な告白に、古葉が訝しげに足を止める。 「なんだよ、入学前からの知り合いだったのか?」


 「世理を見守ること。それが、俺に課せられた使命なんだ」


 江藤のその言葉は、単なる恋愛感情とは違う、重く切実な響きを帯びていた。箱根の深い霧のように、彼の過去と目的が、この「学問の森」の新たな謎として静かに立ち現れようとしていた。

ーー続くーー

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