10限目 落語研究会本格始動(1)
第一回 箱根大学落語研究会の沿革
箱根外語大学における「落語研究会」の歴史。それは、急峻な箱根の山道を、重い荷物を背負ってよろけながら登るような、なんとも泥臭く、それでいて可笑しな歩みであった。
そもそも、この国際色豊かなキャンパスにおいて、座布団一枚で江戸の長屋を再現しようという試み自体、無謀に近い。かつて東洋思想史の浦部朱元教授が世話役となり、三年前にサークル「早雲会」を発足させたとき、集まったのはわずか五名。
「四年生一名、三年生二名、一年生一名……これじゃあ寄席を開くどころか、五人囃子にも成りゃしない」
と自嘲したものだが、落語の神様は見捨てなかった。外国人留学生が多いこの大学で、「日本のジョークは、高度な言語パズルだ」と勘違いしたインテリたちが次々と入会。気づけば総勢四十名を超える、大学でも指折りの大所帯に膨れ上がってしまったのである。
浦部教授も五十代半ばを過ぎ、若者のエネルギーに「もう、私の膝がガクガクと笑っております」とギブアップ。そこで白羽の矢が立ったのが、二〇五〇年春、めでたく教授へと昇進したばかりの鎌勝大樹だった。
鎌勝にとって、この顧問就任はまさに「鴨がネギ背負って高座に上がってきた」ようなもの。なにせ彼は東大生時代、本職の落語家に弟子入りし、三年間も修行を積んだ筋金入りの「お笑いエリート」である。
「浦部教授、お任せください! 私がこの研究会を、箱根の山を越え、海を越え、世界中に笑いの花を咲かせるビッグ・エンターテインメント集団にしてみせます!」
と、広げた大風呂敷でキャンパスを丸ごと包みかねない勢いで快諾。サークルは晴れて正式な「研究会」へと格上げされ、正式な部室と活動予算という名の「軍資金」を勝ち取ることになった。
しかし、ここで一つ問題が起きた。
「早雲」という高潔な名は、すでに早雲歴史研究会や早雲国際法研究会にも使われていたのである。
「ええい、名前なんてのは蕎麦屋の看板と同じ。中身が旨けりゃいいんです! 名称は『箱根外語大学落語研究会(通称:箱大落研)』。ですが、いつの日か世界で『HAKODAI-OCHIKEN』の名を轟かせてやりましょう!」
鎌勝の豪快な(あるいは少し適当な)判断により、名称は決定。ただし、先達の苦労への敬意として、一月の発表会だけは「早雲寄席」の名を冠して開催されることになった。
さて、そんな「箱大落研」が送る、冬の狂乱の幕開けである。
一月半ばの冷たい風を突き抜けて、出囃子の音がキャンパスに鳴り響く。
しかし、お笑いの祭典に待ち受けるのが、知性と色気の猛嵐(ギガストーム)・眞栄田豪姫教授の襲来や、統計学という「Gates of Hell(地獄の門)」・平坂黄泉教授のデータ衝突だとは、この時の学生たちは夢にも思っていなかったのである。
第二回 早雲寄席開催にさきがけて
箱根外語大学の正門をくぐり抜けると、そこには「過去と未来の衝突」とも言うべき、奇妙で美しい景観が広がっている。
まず目を射るのは、大学本体の校舎群だ。壁面のほとんどを覆う強化ガラスが箱根の山々の稜線を鏡のように映し出し、日光を乱反射させている。一見すれば、新建材とデジタル技術の粋を集めた二十一世紀の要塞だが、実はこれらも伝統の知恵を借りた木造建築だというのだから驚きだ。
しかし、その「未来」から、正門のすぐ脇にに、確固たる意志を持って鎮座しているのがサークル棟である。
大学本体のまばゆいガラス張りとは対照的に、サークル棟はあえて明治・大正期の学舎を彷彿とさせる、重厚な木造建築の佇まいを貫いている。深い色に焼けた板張りの壁、上げ下げ窓、そして建物全体から漂う煤けた檜の香り。内部には最新式のエレベーターが隠されているものの、その外観は、いまにも高下駄を鳴らしたバンカラ学生が「押忍!」と叫んで飛び出してきそうな、泥臭くも愛おしい「旧制高校」の空気を湛えていた。
この時代錯誤なまでのこだわりを実現させたのも、「箱根木工所」の宮ノ下巧社長である。
「大学の本体は、世界を見渡す『窓』。だがサークル棟は、学生が己の根っこを見つめる『砦』でなきゃいけねえ」
一級建築士として高層木造建築を手がける宮ノ下の哲学が、この四階建ての古風な建物には凝縮されている。
ガラスの要塞で最新の言語学や統計学を学ぶ学生たちが、ひとたびこのサークル棟へ足を踏み入れれば、そこはもう異界だ。廊下の軋む音、誰かが練習している三味線の音、そして「箱根落研」の連中が放つ江戸の口調。
「さあて、準備はいいか! いよいよ、第一回目の早雲寄席が始まる。今日はその段取りの最終確認だ、しっかり纏めていこう」
顧問の鎌勝教授の号令が、明治の香りが残る高い天井へと吸い込まれていった。
第三回 新入会員のご挨拶
「さて、早雲寄席の具体的な打ち合わせに入る前に、まずは我が落研に加わった驚異の新入生を紹介しよう!」
顧問の鎌勝教授が、真打が一番太鼓を背に高座へ上がるような、景気のいい声を張り上げた。
部員たちの視線が一斉に一点に集まる。そこに立っていたのは、どう見ても高校生……いや、中学生と言われても信じてしまいそうなほど可憐な少女だった。しかし、その幼い外見に惑わされる者はここにはいない。
ここは箱根外語大学。親がどれほどの資産家であろうと、あるいはどれほど強力なコネクションを持っていようと、門を潜ることは叶わない。世界大学ランキング第6位に名を連ねる国立の最高学府。この学び舎の土を踏むには、世界基準の学力を証明し、過酷な試験をクリアするしかないのだ。
「……飛び級の推薦枠か。それも、ただの天才じゃないな」
作務衣姿の古葉が、腕組みをしながら小声で呟く。
周囲の部員たちも息を呑んで見守っていた。彼女から放たれるのは、若さに似合わぬ圧倒的な「格」だ。国立大学という権威の壁を、その小さな背中が軽々と飛び越えてきた事実は、この場にいるエリート学生たちを沈黙させるに十分だった。
「本日付で、我が落研に新たな仲間が加わることになった。香港から来日された、マーゴット・ディアスさんだ。彼女の経歴は実に凄まじくて……」
鎌勝が紹介を続けようとすると、一人の少女が軽やかに、かつ堂々とした足取りで前へ踏み出した。透き通るような肌に、強い意志を宿した瞳。その場にいた四十名余りの部員たちの視線が、磁石に吸い寄せられるように彼女に固定される。
「教授、私、日本語でご挨拶できますので……お任せいただけますか?」
「おお、さすがですね。では、どうぞ」
鎌勝が圧倒されて一歩引くと、マーゴットは小さく、だが凛とした咳払いを一つした。そして、よどみない日本語で語り始めた。
「初めまして、マーゴット・ディアスです。父はポルトガル、母はイギリス。イギリス国籍で、十五歳の時にキングス・カレッジ・ロンドンを卒業しました。その後、香港の九龍大学で修士・博士課程を修了し、この度、箱根外語大学へ進学することとなりました」
さらりと語られる規格外の経歴に、部員たちの間にどよめきが広がる。
「専攻は『地政学』です。この大学に政治経済の学部はありません。比較文化学科に所属となりました、17歳です。落語オタクを自認していますが、実は日本の食文化にも強い関心があります」
彼女はそこで一度言葉を切り、不敵な笑みを浮かべた。
「私と同姓の、ポルトガルの探検家、バーソロミュー・ディアスはご存知でしょうか。私のモットーはこれです——『嵐の岬を乗り越えた者だけが、喜望峰(希望の岬)を見ることができる』。世界の猛嵐を制するのは地政学である、というのが私の持論です。皆さんと一緒に落語を学ぶ日々を、とても楽しみに感じています。これ……日本語で『ワクワクする』って言うのかしら? どうぞよろしく!」
完璧なルックスに、圧倒的な知性。それでいて最後に見せた少女のような好奇心。特に体の前で両手をグーにして「ワクワク」とポーズを決めるなど、可愛いに決まってんだろうが! 静まり返っていたサークル棟の一室に、一瞬の間を置いて、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
堂島は呆然と口を開け、古葉は「とんでもない奴が来たな」と苦笑する。落研メンバーの心は、この瞬間、文字通り「落ちた」のである。
第四回 男子学生たちのときめき
「おいおい、落語研究会(落研)じゃなくて、『(恋に)落ちた』研究会になっちまったのかよ?」
古葉玲央は、周囲の男子部員たちの様子を眺め、内心で呆れていた。
マーゴット・ディアスの鮮烈な自己紹介が終わるやいなや、サークル棟の空気は一変した。先輩たちは鼻の下を伸ばし、一・二年生の男子に至っては、すでに彼女のファンクラブの会費をどこに振り込めばいいのか真剣に検討し始めている。そのハートは、地政学的な戦略を練るまでもなく、一瞬で陥落していた。
ただ一人、古葉玲央を除いては。
(こういうタイプ……ぶっちゃけ、一番面倒なんだよな……)
古葉は、作務衣のポケットに手を突っ込み、醒めた目で新入生を観察していた。
学生時代、古葉は一度も「振られる」という経験をしたことがない。しかし、その分「別れ話」には数々の修羅場をくぐり抜けてきた自負がある。
「お互い、別々の新しい世界で自分を試してみないか?」
「君だけが紡ぐ新しいストーリーを、僕は心から応援しているよ」
そんなキザな台詞でスマートに幕を引こうとしても、世の中にはそうはいかない手合いがいる。
「なにそれ? 私が納得できるように、一万字程度のレポートで説明してもらえる?」と論理攻めにしてくるタイプや、「ウソウソ、そんなの電波が悪くて聞こえなーい!」と耳を塞ぐタイプ。
自分の可愛さを一ミリも疑わず、世界の中心は自分だと思っている「嵐」のような女。その厄介さを、古葉は身をもって知っていたのだ。
「古葉くん。あの子、すっごく可愛いわね?」
背後から、ひんやりとした、それでいて逃げ場のない声がした。節津京香だ。茶道の師範の資格も持つ凛とした佇まいのまま、その瞳だけが古葉の横顔を鋭く射抜いている。
古葉は心拍数を一つも上げることなく、さらりと答えた。
「ああ、まあ……妹タイプかな。手のかかりそうな」
ここで間違っても「ああいうタイプは恋愛対象になると実は面倒くさいんだよ」などと、経験に基づいた余計な分析を口にしてはいけない。そんなことを言えば、京香の「比較文化学科」的な深掘りが始まり、「へぇ……詳しいのね、実体験として?」という、落語の地獄巡りより恐ろしい追及が始まるのが目に見えている。
「ふうん。妹ね」
京香は短くそう言うと、視線をマーゴットに戻した。
「マーゴットさん! 日本の食文化に興味があるの? 箱根界隈はおいしい和食レストランが多いのよ。よかったら案内しましょうか?」
京香の「もてなし」の笑顔は完璧だったが、古葉はその背後に、地政学の猛嵐をも凪ぎ倒すような静かなプレッシャーを感じていた。
(……やっぱり、面倒なことになりそうだ)
古葉は、これから始まる「早雲寄席」が、落語よりもはるかに複雑な人間喜劇になることを確信し、小さくため息をついた。
第五回 小さな猛嵐
「か・わ・い・い……っ!!」
場が静まり返る間もなかった。節津京香の言葉が終わるか終わらないかの刹那、に絶叫し、獲物を狙う鷹のようなスピードでアタックを仕掛けたのは、意外にも三山世理であった。
「マーゴット! こっちこっち、こっちに来て! ステイ、そこにステイよ!」
世理は鼻息も荒く、隣にいた彼氏・江藤裕也の存在など完全に記憶から消去したかのような勢いで、江藤から離れて自分の椅子をガタガタと左に寄せた。もともと江藤と仲睦まじく、物理的距離ゼロで座っていたはずなのだが、今は自分の隣にマーゴットを引き寄せようと、空いている椅子を全力で連結させている。
「さあ、ここが貴女の指定席。箱根落研の『喜望峰』はここよ!」
嵐のような歓迎に、さしもの天才少女マーゴットも一瞬だけ「えっ、日本にはこういうタイプの猛嵐もいるの?」と気圧された表情を見せた。しかし、そこは地政学のプロである。この圧倒的なウェルカム・ムードは、学内でのプレゼンスを確立するための「戦略的拠点」として活用すべきだと瞬時に判断した。
「Thank you! 喜んで、お隣をお借りするわ」
マーゴットが優雅に腰を下ろすと、世理は待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「ねえねえ、歴史オタクの私から見ると、貴女のそのプラチナブロンドは井伊直政様の生まれ変わりかと思うくらい尊いの! ちなみに、イギリスの地政学的に見て、源義経がブサメンだったっていう説についてはどう思う!?」 「ええっと、それは地政学というよりは……顔面学かしら?」
マーゴットの困惑を余所に、世理の「可愛いもの&イケメン武将」への情熱がフルスロットルで炸裂する。
一方、一人取り残された形となった彼氏の江藤は、わずか数秒で「最愛の彼氏」から「ただの隣人」へと格下げされた事実に呆然としていた。
「……おい、世理。俺、壁に押し付けられて身動き取れないんだけど」
「裕也くん、今は歴史的な国際交流の瞬間なの! 男子は黙って落語の勉強してて!」
一蹴された江藤は、同じく「女の勢い」に圧倒されている古葉と視線を交わし、深く、深くため息をついた。
「古葉……なんか、俺たちの立ち位置、地政学的にかなり危うくないか?」 「ああ。今のところ、俺たちの制空権はゼロだな。戦域から離脱したほうがよさそうだ」
サークル棟の一角は、落語の稽古が始まる前から、世理という名の暴風雨に巻き込まれたマーゴットを中心に、混沌とした熱気に包まれていった。
第六回 聖域を閉ざす関所
「いい、マーゴット? ここが今日から、私たちの『関所』よ!」
世理の宣言とともに、サークル棟の片隅に鉄の三角形が形成された。
中央に陣取るのは、満足げに鼻を鳴らす三山世理。その右側には、長い脚を持て余し、壁際に押し込められる形となった長身の彼氏・江藤裕也。そして左側には、先ほどまでの「孤高の天才」のオーラを世理の勢いに削り取られたマーゴット・ディアス。
世理は右を見ては「裕也くん、ちょっと私に肩が当たらないように引いてて!」と彼氏をガードレール扱いし、左を見ては「マーゴット、お肌つるつる! 地政学を学ぶとそんなに綺麗になれるの?」と、まるで珍しい宝物を愛でるような手つきでマーゴットの腕にすり寄る。
「……世理、俺の扱いが雑すぎないか? 一応、今日バイクで送迎してるの俺なんだけど」 江藤がボヤくが、世理は一瞥もくれない。
「裕也くんは今、背景! 私は今、イギリスとポルトガルの風を感じているの。マーゴット、日本の歴史で気になるイケメンはいる? 宇喜多秀家とか、井伊直政とか、その……金髪に似合いそうな武将、リストアップしてあるんだけど!」
これには地政学の猛嵐・マーゴットも苦笑いするしかない。
「セリ、あなたのエネルギーは、ポルトガルの大航海時代を支えた貿易風より激しいわね……。でも、右に理論派の騎士、左に地政学の知恵袋。この配置、軍事境界線としては非常に守りが堅いわ」
「でしょ!? これが私の考えた最強の布陣よ!」
世理は江藤の腕を引き寄せ、同時にマーゴットの肩を抱き寄せ、文字通り二人を独り占めにした。右側に180cmのガタイの良いイケメン、左側に妖精のような美少女。その中心で満面の笑みを浮かべる世理の姿は、落研の部員たちの目には、どこの国の王侯貴族よりも贅沢な、そして極めて「カオス」な光景に映っていた。
後ろでそれを見ていた古葉玲央が、隣の堂島に耳打ちする。 「おい堂島、あの三人の並び、何かに見えないか?」 「ああ……。中央にわがままな姫、左右にお供が二人。まさに、古典的な演目にある『姫かたり』の風景だね」
世理の暴走によって、落研の序列は「年齢」や「芸歴」ではなく「世理の好み」という新たな地政学基準によって塗り替えられようとしていた。
「セリ、あなたのエネルギーは……大航海時代のガレオン船を沈める荒波より激しいわね……」
世理の左隣に収まったマーゴット・ディアスは、もはや地政学的な分析を放棄し、呆然と宙を見つめていた。彼女の脳裏には、先祖の名を冠した探検家の姿が浮かんでいた。(ああ、偉大なるバーソロミュー・ディアスよ。あなたは『嵐の岬』を乗り越えたけれど、この三山世理という名の猛嵐を前にしても、舵を取ることができたかしら……?)
一方で、世理の右隣では、悲劇(あるいは喜劇)が進行していた。
「裕也くん、ちょっと、そこ邪魔! マーゴットに私の熱気が伝わらないじゃない!」
世理の無情な宣告とともに、椅子が物理的に壁側へとシフトする。180cmの長身イケメン、江藤裕也は、愛する彼女によって「少し距離を空けられた」どころか、もはや不可侵領域の外へと押し出されつつあった。
「……世理。俺、もうこれ以上右には行けないんだけど。壁と親友になれってか?」
江藤は、冷たいサークル棟の壁に肩を押し付けられ、窮屈そうに長い脚を折り曲げていた。電動バイクを颯爽と乗り回す理論派・武闘派のイケメンも、恋人の「可愛いもの&歴史オタク」の暴走モードの前では、ただの背景と化すしかない。
「裕也くんは壁と同化して! 今、私はマーゴットから世界の風を直接浴びているんだから!」
世理は江藤に背を向ける勢いでマーゴットに詰め寄り、「ねえ、エドワード黒太子って、やっぱり性格もイケメンだったの!?」と、イギリスの歴史を強引に引き出そうとしている。
右側に、壁と一体化して虚空を見つめる長身の彼氏。 左側に、歴史オタクの猛攻に「喜望峰」を見失いかけている天才留学生。 そして中央で、両サイドから放たれる「絶景」を一身に浴びて悦に浸る小柄な歴史オタク。
そのシュールな配置を遠目から見ていた古葉は、哀れな親友・江藤に向かって、そっと掌を合わせて祈りのポーズを取った。
「江藤、耐えろ。これも一種の『地政学的な緩衝地帯』としての役割だ」
「……古葉、お前、後で覚えてろよ……」
江藤の呪いのような呟きは、世理が放つ「マーゴット、次は宇喜多秀家の八丈島エピソードを聞いて!」という黄色い声にかき消されていった。
第六回 議事進行のミャンマー人
「さて、一部……いや、一角で発生しているカオスは一旦棚に上げて、話だけは耳に入れておいてくれ」
鎌勝教授は、壁際に押し込まれた江藤の悲哀や、世理の猛攻に固まるマーゴットの姿をあえて視界から外し、強引に話を先へと進めた。これくらいの図太さがなければ、四十名もの個性の塊を束ねる顧問など務まらない。
「早雲寄席当日の段取りだが、これから述べる各チームの運営力にすべてがかかっている。しっかり頼むよ。……じゃあ、ウー・バニャー、あとはよろしく」
鎌勝教授が「真打」へとマイクを譲るようにバトンを渡したのは、落研の部長、バニャー・タンである。
「はい、お任せください」
前に出た彼は、ミャンマーからの留学生。その日本語は、そこらの日本人学生よりもよほど情緒に富んでいる。ちなみに「ウー・バニャー」という呼び名だが、ミャンマーには姓という概念がない。本名はシンプルに「バニャー」だけだ。「ウー(ウ)」というのは成人男性に対する敬称で、英語でいうところの「ミスター」に近い。日本では便宜上、父の名である「タン」を名字のように名乗っているが、本質的には「バニャーさん」なのである。
「皆さん、注目してください。特に……壁に同化している江藤くんと、歴史の迷宮に迷い込んでいる世理さん、マーゴットさん、こちらを見て」
バニャーが穏やかな、しかし拒絶を許さない声で呼びかけると、カオスだった一角にようやく理性の光が差し込んだ。
「ちなみに、私は木曜日生まれの『バニャー』、父は金曜日生まれの『タン』です。ミャンマーの暦では、生まれた曜日が運命を決めます。本日の段取りを無視する人には、木曜日生まれの私の怒りが落ちるかもしれませんよ?」
柔らかな微笑みを絶やさず、さらりと「曜日の呪い」を匂わせる部長の風格。これには世理も「木曜日……ミャンマーの守護動物はネズミだったかしら。可愛いわね」と呟きながらも、ようやく手元の資料に目を落とした。
「では、チームごとの役割分担を説明します。まず、地政学的……ではなく、会場設営の動線から——」
バニャーの流暢な差配によって、サークル棟の空気はようやく「落語研究会」としての秩序を取り戻し始めた。
ウー・バニャーの組織運営は、まさに卓越していた。しかし、その手腕の根底にあるのは、欧米のビジネススクールで教えるような「合理的なマネジメント」とは一線を画す。それは、ミャンマーの地に深く根ざした上座部(小乗)仏教の慈悲と、無私の精神に基づく「人間哲学」であった。
彼が尊敬し、その名を継ぐかのように背中を追っているのは、二十世紀の偉人、ウ・タント元国連事務総長である。
かつてウ・タントが、キューバ危機という核戦争の瀬戸際で冷戦の火種を消し、コンゴ動乱やベトナム戦争の沈静化のために、私情を超えて世界の平穏のために各国と交渉を重ねたように。バニャーもまた、この「落研」という名の小さな小宇宙において、国籍も価値観も異なる個性豊かなメンバーたちが、いかにして調和を奏でるか、その一点に魂を砕いていた。
「私が指示を出しているのではない。皆さんの良心が、それぞれの居場所を見つけているだけですよ」
バニャーはそう静かに微笑むが、その眼差しには、どんな激流の中でも決して揺るがない、静謐な知性の深淵があった。
彼にとって「早雲寄席」の成功とは、単に興行としてウケることではない。大道具チームの江藤が壁の一部となり、調理チームの京香が一碗に心を込め、経理チームの古葉が数字の裏にある情熱を読み取る。そのすべての営みが、一つの円環となって結ばれること——。
「一座建立、ですね」
バニャーは、鎌勝教授からもらった座右の銘を噛み締める。
彼が部長として差配を振るうとき、荒れ狂う学生たちの自我は、不思議と凪いでいく。それは、彼が放つ「無私」の波動が、知らず知らずのうちに周囲のトゲを削り取ってしまうからだった。
まさに部長の名にふさわしい「バニャー・タン」。彼という不動の軸があるからこそ、この先に待ち受ける教授陣の猛襲や、予測不能なトラブルという「嵐の岬」をも、この研究会は乗り越えていける。そんな予感すら抱かせる、静かなる覇気がそこにはあった。
第七回 マーゴットの参戦
「ウ・バニャー部長」
一瞬小鳥の囀りかと思わせるような、それでいて芯の通った声が静寂を破った。
立ち上がったのは、新入生のマーゴット・ディアスだ。彼女はまず部長のバニャーへ、次いで左右に控える部員たちへ、非のうちどころのない優雅な所作でお辞儀をしてみせた。
「僭越ですが、新参者の私も何かお手伝いをしたいと思います。この素晴らしい『早雲寄席』という物語の一部に、私を加えていただけないでしょうか?」
その迷いのない申し出に、バニャーは慈悲深い仏像のような微笑みを浮かべた。
「実に積極的ですね。まさに冒険者の魂が受け継がれている……と言っては、バーソロミュー・ディアスを引き合いに出して大袈裟すぎるでしょうか。ですが、日本文化を理解する上で、経験に勝る教科書はありません」
バニャーは少しの間、思案するように目を細めてから続けた。
「あなたには『経理チーム』に入っていただきましょう。寄席の空気、来場されるお客様が楽しむ様子、そして動くお金の流れ……運営の心臓部を間近で体験することは、あなたの『地政学』にも新しい視点をもたらすはずです。もし、他に希望があればおっしゃってください」
バニャーの問いかけに、マーゴットは食い気味に、しかし清々しい声で即答した。
「いいえ、ありがとうございます! 誠心誠意、勤めさせていただきます。ロジスティクスと財務の管理は、戦略の基本ですから!」
彼女の瞳には、未知の領域に足を踏み入れる高揚感が宿っていた。古葉玲央は隣で「……お手柔らかに頼むよ、地政学のお姫様」と肩をすくめたが、その顔はどこか楽しげでもあった。
これで、三日後に控えた寄席当日の布陣はすべて出揃った。
大道具の江藤、調理の京香と世理、経理の古葉とマーゴット、そして文芸の堂島。そして、これらを統括する部長、バニャー・タン。
サークル棟の古びた木造の床を震わせるように、部員たちの士気が一気に高まっていく。
しかし、彼らはまだ知らない。
この完璧に見える体制を踏みにじりに来る「嵐」の正体を——。
第八回 落語研究会発表会~ミニ懐石
打ち合わせから三日後、「早雲寄席」当日となった。
キャンパスの広場には、「大道具チーム」が格闘する鋼管と木材の音が響く。
「宮ノ下社長、このボルト、少し遊びが大きくないですか!?」
江藤が声を張り上げ、巨大なパズルのような組み立て式茶室の側壁を持ち上げる。重厚な木材が組み合わさり、形を成していく様は圧巻だ。
サークル棟の一角には、まだ木の香りが真新しい二棟の「組立茶室」が組み上がっていた。これは昨年末、箱根木工所の宮ノ下社長が総力を挙げて追加製作した最新作である。
この魔法のような木製のユニットは、回を追うごとにその数を増し、今や全部で六棟。これらは落研だけの備品ではない。箱根外語大学の二大イベント、春の「桜の茶会」と秋の「紅葉の茶会」において、キャンパスを彩る主役となるべく運命づけられたものだ。
春には舞い散る花びらの中で、秋には燃えるような紅葉の下で、緋毛氈を敷き詰めた野点が行われる。その傍らで、この本格的な組立茶室が点在し、学生たちが研鑽を積んだお点前を披露する様は、今や大学の名物となっていた。文化研究会が総出で挑むこの大茶会は、もはや一つの「大学の式典行事」に近い熱量を帯びている。
「お茶会があるたびに棟が増える。まるで細胞分裂だな」
大道具チームの江藤が、滑らかな杉の柱を撫でながら呟いた。
各サークルが小茶会を催すたびに、宮ノ下社長が「おう、足りねえなら作ってやるよ」と威勢よく増設に応じるため、茶室は着実にその版図を広げているのだ。
大学倉庫の収容スペースにも限界はあるが、宮ノ下と大学側の調整で当面の目標は「二十棟」。
「二十棟並んだら、それはもう茶室の街ですよ。地政学的に見ても、立派な地域社会として独立できますね」
マーゴットが茶室の構造を興味深げに覗き込みながら、そんな冗談を口にする。
ガラス張りの未来的な校舎と、この古式ゆかしい組立茶室の群れ。その新旧が混ざり合う光景こそが、この大学のアイデンティティになりつつあった。今回の「早雲寄席」では、この二棟が建ちあがり、観客を江戸の情緒へと誘うタイムマシンの役割を果たすことになる。
一方、調理チームのテントから漂ってくるのは、出汁と甘い餡の香り。
「調理チーム」働くのは、割烹着姿も凛々しい節津京香だ。女子学生たちが中心となり、芦ノ湖のトラウトを捌き、蕪の味噌汁の塩梅を確かめる。茶菓子として用意された練り切りの繊細な細工に、三山世理が「これ、井伊直政様の家紋バージョンも作れませんか?」と突拍子もない提案をして、京香に「今はそれどころじゃないわ」と一蹴されていた。
そして、板場のスペースでは「笑角亭力介」が、その巨躯を揺らしながら采配を振るっていた。かつて相撲部屋で鍛えた段取りは、玄人のそれである。
「いいか、力士のちゃんこに比べりゃ、一汁一菜なんておやつみたいなもんだ。だがな、シンプルだからこそ誤魔化しが利かねえ。三山さん、その土鍋の火加減!」 「は、はい! 落語の『時そば』ならぬ『時ごはん』……って、これ焦げたら洒落になりませんね」 三山がカセットコンロを必死に覗き込む。
「力介さん、お造りはこちらでよろしいですか?」 節津京香が、凛とした手つきで包丁を握る。茶道師範の資格を持つ彼女にとって、懐石の所作は身についている。 「おう、京香さん。芦ノ湖のトラウトだ、いい色だろう? 向付として美しく盛ってくれ」
本部テントでは、「経理チーム」が火花を散らしている。
「物販の在庫、統計学の平坂教授に突っ込まれないように完璧に合わせろ!」
購買所の運営から、寄付金の管理、今日一日のすべての金の流れを、電卓の叩音とともに処理していく。
そして、最も「精神的」に削られるのが、堂島の所属する「文芸チーム」だ。
「堂島、三軒長屋の台本、書き直しだ。今のままだと落ちが弱い」
「……はい、ただいまッ!」
サークル棟の楽屋裏に、堂島の威勢のいい声が響き渡る。 先輩たちのネタ帳の読み合わせに付き合い、演目に合わせた扇子や手ぬぐいを瞬時に揃え、喉を枯らした演者には絶妙な温度でお茶を運ぶ。言葉を選ばなければ、その実態は「見習い・付き人・下働き」という雑用の三拍子だ。
しかし、筋金入りの落語オタクである堂島にとって、このめまぐるしい奉公は屈辱でも何でもなかった。むしろ、本場の寄席の楽屋裏を駆け回る前座修行を追体験しているような、常人には到底理解しがたい「至高の愉悦」だったのである。
「堂島、俺の紋付、用意しといてくれ。あ、あとタンバリンもな!」 「ハイ、ただいま! 紋付は三段目、タンバリンは鳴り物箱の右側です!」
間髪入れぬ返事とともに、堂島の体が独楽のように立ち働く。 誰がどのタイミングで高座に上がり、どの小道具を必要とし、どのタイミングで出囃子が鳴るのか。楽屋裏のすべてが、地図を広げるまでもなく堂島の頭の中に叩き込まれていた。
「あいつの動き、もはや一種の名人芸だな……」
その様子を見ていた上級生が、感心したように呟く。 舞台上の華やかなスポットライトは当たらない。しかし、影で一座の呼吸を支配し、完璧なタイミングで演者を送り出す堂島の立ち居振る舞いは、まさしく「楽屋の真打」と呼ぶにふさわしいキレを見せていた。
第九回 喧騒の中の静寂
「古葉君、顔が険しいわよ」
配膳の合間に、京香がそっと耳打ちした。
「……別に。ただ、この非効率な奉公が、どう倫理学的に正当化されるのか考えてただけだ」
「ふふ、それを考えるのが、豪姫教授のいう『愚者の再構築』なんじゃない?」
その時、遠くからやってくる和装の女性の、規則正しい草履の音が近づいてきた。
喧騒が、一瞬だけ止まる。
かつて湯本演芸場の舞台で見せた、あの爛漫な振袖姿ではない。
今日の眞栄田豪姫は、冬の澄んだ空気によく映える、渋く落ち着いた色調の留袖を纏っていた。格式高い装いながら、その長いポニーテールは、箱根の山から吹き下ろす冷たい風に揺れている。
彼女は、完成間近の茶室の前に、音もなく立っていた。その視線は、学生たちが流した汗の結晶である木の節や組目を、まるで外科医がメスを入れる箇所を探すかのように、鋭く、深く、射抜いている。
「……あら。案外、骨組みはしっかりしているのね」
低く、心地よく響く声。しかし、その背後には逃げ場のない圧力が潜んでいた。豪姫はゆっくりと視線を上げ、忙しなく立ち働く部員たちを一瞥した。
「さあ、始めましょうか。あなたたちの『芸』と『もてなし』。この箱根の厳しい冬を越せるほどの価値があるのかどうか、じっくりと見せてもらうわ」
その宣言は、開演の一番太鼓よりも鮮烈に、サークル棟の空気を震わせた。
ついに幕が上がる。 高座で繰り広げられる「箱根落研」の乾坤一擲の笑い。 茶室で提供される、静謐なる「もてなし」の極地。 そして、それらすべてを「知性の嵐」で飲み込もうとする眞栄田豪姫という名の脅威。
箱根外語大学、騒乱の「早雲寄席」が、今ここに幕を開けた。
第十回 佳境に入る早雲寄席
「早雲寄席」の主役は、何と言ってもこの日のために喉を枯らしてきた上級生たちである。
とりわけ、この春に卒業を控えた四年生たちにとって、この高座は学生生活のすべてを注ぎ込んだ「集大成」であり、最後にして最高の花道だ。彼らが座布団に座り、深々とお辞儀をするその一瞬に、落語研究会で過ごした数えきれないほどの稽古の日々が凝縮されている。
演目の並びも、彼らの個性を映し出す鏡のようにバラエティに富んでいた。
ある者は、あえて変化球を捨て、江戸の息遣いが聞こえてくるような古典落語を真っ向から演じきる。一字一句、間の一秒にまでこだわった伝統の芸で、最後の意地を見せようとする姿は、どこか神々しさすら漂う。
かと思えば、客席の笑いを最後の一滴まで掻っ攫うべく、高座の上で珍妙な踊りや鳴り物を披露し、会場を爆笑の渦に叩き込む者もいる。さらに、現代の歪んだ世相を鋭く風刺した、渾身の新作落語を世に問う「落語の錬金術師」まで現れる。
AI(人工知能)と心中しようとする八五郎や、仮想通貨で長屋の家賃を払おうとする熊さん。鋭い洞察で現代社会の矛盾を斬り捨てるその語り口は、もはや学生の域を超え、一種の社会批評としての重みすら帯びていた。
「笑わせるか、聴かせるか。それとも、この混沌とした世を鋭く斬ってみせるか――」
舞台袖で控える上級生たちの横顔には、かつての新入生だった頃の面影はない。皆、自分の信じる「笑い」の旗を掲げ、戦地へと赴く武士のような覚悟を宿している。
出囃子の音が一段と高く響き、寄席のボルテージは最高潮に達しようとしていた。客席の最前列で、留袖の裾を整えながら冷徹な審美眼を光らせる眞栄田豪姫を前に、学生たちの乾坤一擲の「芸」が、大涌谷の噴煙が吹き上がる様相を呈していた。
本来、寄席という場所は落語のみに非ず。漫談、漫才、手品に弾き語りと、多種多様な芸人が入れ代わり立ち代わり現れる「芸の幕の内弁当」のような空間だ。そして今、高座に上がった四年生の女子学生は、その「寄せ集め」の精神を極限まで突き詰めようとしていた。
「アタシ、こんどフラダンスのインストラクターになりましたの―――」
おっとりした口調でそう切り出したかと思うと、彼女はやおら立ち上がった。あられもなく着物の裾をたくし上げ、腰巻姿も凛々しく、どこに隠し持っていたのか首には鮮やかなハイビスカスのレイ。
「ミュージック、カモーン!」
その掛け声を受け、舞台袖の堂島が神速の指さばきでタブレットのミキサーを操作した。会場に陽気なハワイアンが流れ出す。しかし、観客が南国の風を感じたのも束の間、音楽は突如として激しいドラムビート——ファイヤーダンスへと変貌を遂げる。
彼女は手にしたバトンを火炎棒に見立て、リンボーダンスさながらの見事なエビ反りを披露した。客席のボルテージは一気にヒートアップする。
「次、行くわよ!」
音楽はさらに加速し、京劇の銅鑼が鳴り響いたかと思えば、情熱的なフラメンコへとめまぐるしく転調する。裾の乱れももはや「サービス」と言わんばかりの躍動感で、彼女はカスタネットを打ち鳴らし、高座の上を縦横無尽に跳ね回った。客席は手拍子で伴奏し、もはやここは大学の教室ではなく、国籍不明の狂乱の宴会場と化していた。
やがて音楽がピタリと止まる。
激しい白日夢から醒めたかのように、彼女はハッと我に返ると、裾と襟元を押さえ、舞台袖の堂島に向かって絶叫した。
「……何させるねんッ!」
そのセルフノリツッコミに会場は爆笑の渦に包まれる。彼女は最後、やり切った満足げな笑顔で客席に謎のキメポーズを送り、颯爽と高座を降りていった。
「……あの人、春から外資系のコンサルティング会社に行くんだってな」
「世界を相手にするって、ああいうことなのか……」
古葉と江藤が呆然と呟く。
彼女が斬ったのは世相か、それとも既存の価値観か。最前列で観劇していた眞栄田豪姫も、これには「……ふふ、カオスね」と、わずかに口角を上げていた。
第十一回 裏方の奮闘
裏方の奮闘は舞台袖だけではない。調理チームの喧騒の中、一際大きな背中が湯気の向こうに鎮座していた。
西行芸能から指導と応援に駆けつけた、笑角亭力介である。今回の発表会から「茶懐石」を導入するという鎌勝教授の野心的な試みを受け、その総指揮を任されたのが彼だった。
「いいか、火加減は命だ。米が泣いてるぞ!」
力介の野太い声が調理室に響く。 彼はかつて、相撲部屋という「食の戦場」で若手時代を過ごした猛者だ。巨大な鍋を回し、大勢の胃袋を支えてきた経験は、その後の落語家修行の中でも異彩を放っていた。
落語家としての顔を持つ傍ら、包丁を持たせれば本職の料理人も顔負けの腕を振るう。その伝説を決定づけたのが、数年前の出来事だ。 兄弟子である務諾威笑来の真打昇進披露。その晴れの舞台で供された会席の膳は、すべて力介が一人でプロデュースし、作り上げたものだった。
「あの時の『舌の肥えた師匠連』の反応は今でも語り草だぜ」
当時を思い出しながら力介が語って聞かせるのが、「並み居る落語界の重鎮たちが、一口食べた瞬間に箸を止め、顔を見合わせて『料理の腕だけなら、今すぐ真打になれる!』 そう言わせたんだよ」その腕前が今、箱根外語大学の質素な調理台の上で再現されようとしていた。
「力介さん、お造りのエッジが立ってて……宝石みたいです」 三山世理が、盛り付けられたトラウトを覗き込んで感嘆の声を漏らす。
「三山さん、見惚れてる暇があったら蕪を剥いてよ。角は取るが、芯は残す。それが茶懐石の『もてなし』だ」
力介はそう言って、巨大な手で繊細な柚子の皮を刻んでいく。 相撲部屋の豪快さと、落語界の繊細さ。その二つを兼ね備えた力介の存在は、単なる炊き出しを「表現」へと昇華させていた。
「節津さん! 洗い場に溜まった桶を片付けて! 道具を汚したままだと、いい芸はできねえぞ!」
作務衣姿で奮闘していた節津京香に、力介の叱咤が飛ぶ。 大学というアカデミックな場に突如として現れた、江戸の香りと勝負師の気風。力介の采配によって、落研の発表会は「学園祭の延長」から「プロの現場」へと急速に熱を帯びていった。
第十二回 マーゴットもTRY IT!(ものは試しだ)
「おい、1円のズレも許されないぞ! 統計学の平坂教授も見に来ているからな。揚げ足を取られたら最後だ!」
本部テントの中、経理チームは売店の運営も兼ねて、寒風を吹き飛ばすほどの熱気に包まれていた。古葉玲央の指先が、電卓のキーを機関銃のような速さで叩き続ける。寄付金の台帳と物販の売上データが、彼の頭の中で瞬時に照合されていく。
「このままだと、15時過ぎにサンドイッチが余る。機会損失だ……いや、統計学的に最適化して、今日中にすべて売り切る!」
古葉は叫ぶように言うと、事務仕事を他のメンバーに任せて、用意していた木製の「立ち売り箱」を引っ掴んだ。太い紐を首からかけ、溢れんばかりのサンドイッチと袋菓子を詰め込む。肩から帆布製のバックをぶら下げ、ペットボトルのお茶を数本を詰め込む。その姿は、まるで昭和の球場の売り子か、あるいは江戸の行商人のようだ。
「え~、サンドウイッチにお菓子、お飲み物はいかがっすか~!」
普段のインテリジェンスな自信家の面影をかなぐり捨て、古葉が客席の合間を縫って声を張り上げる。その時、ひらひらと手を振りながら、一人の少女が駆け寄ってきた。
「Can I ! ちょっと、私にもやらせて!」
飛び級入学の天才、マーゴット・ディアスだ。日本の物売りスタイルに彼女の目は釘付けとなり、瞳は好奇心でキラキラと輝いている。
「マーゴット? お前にできるのか?」
「馬鹿にしないで。地政学よりはシンプルでしょ。早く、その箱を貸して!」
古葉は苦笑しながら、予備の売り箱を彼女の首にかけた。
「いいか、決済はスマホの専用アプリに入力してから、客にバーコードを読み取らせるんだ。キャッシュレスを徹底しろ」
「OK、わかってるわ。近所の八百屋さんで、おじいちゃんがやっているのを見たことがあるもの。アナログとデジタルの融合ね!」
マーゴットは呑み込みが早かった。すぐさま古葉の後に続き、「Fresh sandwiches! いかがですかー!」と、英語と日本語を混ぜた独特の口上で客を惹きつけ始める。
知的なエリート学生たちが、泥臭く売り歩く光景。それは落研の発表会という枠を超えて、一つのライブパフォーマンスのような躍動感を生み出していた。
テントの影からその様子を眺めていた平坂黄泉が、タブレットを片手に小さく呟く。
「……ふん。動態データの補正としては、悪くない判断ね」
古葉とマーゴットが売り歩くたびに、経理チームの売上グラフが急角度で右肩上がりに跳ね上がっていった。
第十三回 燃える!堂島剛
そして、最も「精神的」に削られるのが、堂島剛も所属する「文芸チーム」の面々だ。
「堂島!『三軒長屋』の台本、朱書きで直しといてくれ。今のままだとサゲ(落ち)が弱いんだよ」
「……はい! ただいま、直ちに!」
先輩からの鋭い飛ばしに、堂島は弾かれたように応える。 文芸チーム——その響きは知的で高尚だが、実態は「見習い・付き人・下働き」という過酷な三拍子だ。先輩たちのネタ帳の読み合わせに延々と付き合い、出番直前の扇子や手ぬぐいを完璧な配置で準備し、乾いた喉を潤す茶を絶妙な温度で運ぶ。
それは紛れもなく、落語界における「前座」の仕事そのものだった。
本格的な落語オタクである堂島にとって、この状況は皮肉な事態を招いていた。知識として知っていた江戸の徒弟制度、その不条理で泥臭いしきたりを、今まさに自分の肉体でなぞっている。その屈辱的なまでの実体験が、彼の脳内で奇妙な変換を起こし、ある種の倒錯めいた快感へと昇華されていたのだ。
(俺は今……猛烈に『前座』をしている……!)
盆に茶を載せて控えの間を小走りに進みながら、堂島は震えるような法悦に浸っていた。 かつて務所河原札月師匠のもとで修行した鎌勝教授が、チラリと堂島の動きを見て、満足げに目を細める。
「堂島君、いい動きだ。江戸の風が吹いているね」 「ありがとうございます、師匠!……あ、いや、教授!」
落語愛が深すぎるあまり、自分が学生であることを忘れかけ、前座という役割に陶酔していく堂島。文芸チームの机の上には、ボロボロになるまで朱が入れられた台本が積み上がり、各演者の出番へ向けて狂気じみた密度で完成度が高められていった。
第十四回 茶席の亭主
調理チームの戦場のような活気の中、湯気の向こうから2年生の女子先輩が節津京香に声をかけた。
「節津さん、調理場の方はもう私たちで回せるわ。そろそろ茶室にお客様が見える時間よ。急いで着物に着替えて、『亭主』の仕事をお願いできる?」
「はい、承知いたしました。すぐに!」
京香は手際よく割烹着を脱ぎ捨て、足早に着付け室へと向かった。 本来、茶の湯の亭主としての身支度は、静寂の中で精神を整えながら行うべきもの。しかし、今の彼女に与えられた時間はごくわずかだ。
着付け室で女性用作務衣を脱いで畳み、長襦袢を纏って、慣れた手つきで補正を入れる。選んだのは、冬の光に映える控えめな地色の小紋だ。帯を締め、お太鼓を形作る。その所作に迷いはない。茶道師範の免許を持つ彼女にとって、和服は第二の皮膚のようなものだ。わずか15分足らずで、調理場の「作業員」から一変、凛とした「茶人」の姿へと変貌を遂げた。
仕上げに、艶やかな髪をヘアピン数本で手早くアップにまとめる。鏡に映る自分の姿を見つめ、彼女は小さく吐息を漏らした。
「……上級生になったら、もっと時間をかけて準備したいわね。でも」
鏡の中の瞳が、鋭く、そして優しく光る。
「一座建立……どんな状況であっても、主と客が心を一つにする。それが私の役目だもの」
慌ただしい準備の直後であっても、一歩茶室に足を踏み入れれば、そこには静謐な時間が流れなければならない。たとえ外が落研の喧騒に包まれていても、自分の点てる一碗だけは完璧な宇宙であるべきだ。
京香は居住まいを正すと、宮ノ下社長と江藤が組み上げたばかりの、木の香る茶室へと向かった。その歩みは、先ほどまで調理場を駆け回っていたものとは異なり、静かで、滑らかな重力を伴っていた。
第十五回 佳人、京香の歩み
「え〜、サンドウイッチにお菓子……っ」
声を張り上げようとした古葉の喉が、不意に詰まった。 人混みの向こう、冬の澄んだ光を浴びて、一筋の清流のような佇まいで歩く女性が見えた。 つい先ほどまで割烹着を纏い、野菜の泥を落としていた節津京香ではない。控えめな小紋の着物を完璧に着こなし、凛とした静寂を纏った「茶人」の姿。そのあまりの変貌ぶりに、古葉は首から下げた売り箱の重さも忘れ、思わず見惚れて立ち尽くした。
「Wow……とても美しいわ、レオ」
隣で同じように足を止めたマーゴットが、感嘆の吐息をついた。 「彼女、あなたの恋人なんでしょ? こんな素敵なレディが隣にいるなんて、あなた、とっても幸せね!」
冷やかすようなマーゴットの視線に、古葉は我に返った。彼は照れ隠しを混ぜた自嘲気味な笑みを浮かべ、再び歩き出す。
「ああ、そうさ。俺の彼女は世界最高……って、胸を張って言いたいトコなんだけどね」
「なによ、不満があるの?」
「不満というか、なんというか。京香にとって俺は、いずれ豪姫教授に提出する論文のネタにされる『研究対象』、あるいは『実験動物』なんだよ。俺たちの仲が、倫理学の実験リソースにされてるのさ」
古葉はそこまで言うと、肩をすくめて不敵に笑った。
「まあ、それでも『人間の恋人』に昇格するという高い目標ができて、今や非常にエキサイティングなカップルなのさ。退屈しなくていいだろ?」
マーゴットは目を丸くして、それから磨き抜かれたクリスタル・グラスを銀さじで叩いたような、透明感のある笑い声を発した。
「なにそれ! 信じられないわ。日本人は恋愛の楽しみ方までそんなに複雑で変わっているの? でも、レオ、あなたの目はちっとも嫌がっていないわね」
「……さてね。さあ、次はあっちの客席だ。売り切るぞ、マーゴット!」
古葉は再び声を張り上げ、群衆の中へと踏み込んでいった。その後ろ姿を見送りながら、マーゴットは日本の「リサーチ・カップル」という奇妙な関係性に、地政学の研究対象にも劣らぬ深い関心を寄せるのだった。
第十六回 最後の高座
舞台袖を兼ねたテントの裏側。そこには、高座へと続く数段の木製ステップと、出番を待つ演者の緊張感が濃密に漂っていた。
文芸チームとしての役目を果たすべく、堂島剛は一人の演者の傍らにいた。Banya Than大学4年生。これまで落語研究会に所属し、最後の一年は部長も勤める。今日のこの一席が、彼にとって大学生活最後、ひいては落語家として上がる最後の高座になる。
「バニャー先輩、お着替え、よろしいですね。……いよいよですね。これが4年間の集大成。気合、入りすぎてませんか?」
堂島が努めて明るく声をかけると、紋付羽織の襟を正していたバニャーが、ふっと肩の力を抜いて振り返った。
「ああ。堂島には、最後まで世話になったなあ……。おい、見ろよ、あの客席と舞台を」
バニャーが指差した先。テントの隙間から、冬の淡い午後の光に照らされた仮設の高座が見える。そこには、地元の人々や学生、そして自分たちの芸を待つ大勢の観客が、期待に胸を膨らませて詰めかけていた。
「これだけの人が見に来てくれて、声援を送ってくれて……もし今日、ドカンとウケたりでもしたら、もう何も言うことはないって思ってたんだ。でもな……」
バニャーはそこまで言うと、少しだけ目を細め、眩しそうに高座を見つめた。その横顔には、これまでの4年間で積み上げてきた「芸」への愛着と、それを手放さなければならない寂寥感が入り混じっている。
「堂島、これが最後だなんて、正直まだ信じられないよ。……いつまでも、ずっとこの景色を見ていたい。今はつくづく、そう思うんだ」
しみじみと語るバニャー先輩の言葉は、堂島の胸に深く刺さった。知識として落語を愛してきた堂島だったが、一人の男が人生のひとときを捧げた「芸」との別れを目の当たりにし、前座としての倒錯的な喜びとは違う、切ないまでの共感が込み上げてくる。
「……先輩、その『未練』、全部次の噺にぶつけてきてください。サゲの後の最後の一礼まで、俺が特等席で見届けてますから」
堂島の言葉に、バニャーは力強く頷いた。
「おう。行ってくるわ。出囃子、頼んだぞ」
太鼓の音が響き、いよいよ最後の「落語家・ウ・バニャー」が、光り輝く高座へと踏み出していった。
第十七回 新作落語 「山ノ瀬」
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新作落語『山ノ瀬』
[まくら]
明治になりましてね。
箱根の関所がなくなった。
これがなくなった途端、今まで「止まれ」と言われてた人間が、今度は「どこへでも行っていい」と言われる。
これ、案外困るもんでございまして。
江戸の頃はね、「行っちゃいけねえ」と言われてたから、行きたい所がはっきりしてた。
ところが明治になりますと、
「さあ自由だ」
「文明開化だ」
「横浜だ、汽船だ、西洋だ」
と言われる。
行けと言われると、今度は
「……どこへ行きゃいいんだ?」
こうなる。
今日はそんな「行く話」でございます。
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箱根の山の宿場町。
関所がなくなりまして、人は減るかと思ったら逆で、
「なくなった記念に通ってみよう」
ってんで、物見遊山の旅人が増えた。
そこで評判なのが、看板書き。
宿屋の名前、茶屋の札、湯屋の立て札。
書く人間が違うと、客の入りが違う。
この宿場に一人、腕のいい若いのがいる。
名前を山ノ瀬 駿。
「山の瀬ってのは、山の上か下か分からねえな」
「名前みてえに、行ったり来たりしてる野郎だ」
なんて言われながら、
筆を持たせりゃ、これが見事。
宿の主人が言う。
「山ノ瀬さん、あんたが書くと不思議だ。
"満員"って書いてあっても客が来る」
「入りきらねえのに?」
「"ここまで来たら入れる気がする"って顔で来る」
文字に山の力がある。
これを町では「山気」なんて言ってる。
---
ところがこの山ノ瀬、胸の内に秘めたものがある。
西洋の学問。
横浜。
海の向こう。
夜な夜な行灯の下で、
アルファベットを筆記体で流して書いてみたりしてる。
「a、b、c……」
「……なんだこの看板、酔っ払いが倒れたみてえだ」
何年も銭を貯めて、
ついに決めた。
明日、箱根を出る。
---
旅立ちの前の晩。
宿場の古い宿の主人が、
抱えきれねえほどの看板を持ってくる。
「山ノ瀬さん、悪いが最後に一つ頼む」
見ると、
雨に打たれ、
字は消え、
板は割れ。
「道しるべを書いてくれ」
「道しるべ?」
「関所はなくなったが、道は残る。
迷う奴が増えた。
一つ、ちゃんとしたのを頼む」
山ノ瀬、黙って筆を取る。
……が、書けない。
山の稜線を書こうとすると、
石畳が浮かぶ。
湯気が立つ。
呼び止める声が聞こえる。
「おーい、山ノ瀬!」
「今夜は泊まってけ!」
「字、直してくれ!」
筆が止まる。
「……ここを離れたら、
もうこの道は、俺の道じゃなくなる」
---
そこへ、
戸口に影。
山に住んでると噂の、
年の分からねえ老人。
「まだ書けねえか」
「……」
老人、看板を覗いて笑う。
「お前さん、遠くを見すぎだ」
「え?」
「道しるべってのはな、
行き先を書くもんじゃねえ」
「……じゃあ、何を書くんです」
「ここまで来た道が、間違ってなかったってことだ」
「……」
「人はな、前を見ると迷う。
振り返ると、安心する」
老人は山へ消える。
---
山ノ瀬、筆を持ち直す。
迷いが消える。
墨に、
山の気を乗せる。
すっと、一気に書き上げる。
---
[サゲ(落ち)]
翌朝。
山ノ瀬はもういない。
宿場の入口に、
新しい看板が立っている。
旅人が首を傾げる。
「……なんだ、これ」
そこには行き先でも、距離でもなく、
大きく、こう書いてあった。
> 「おかえりなさい」
宿の主人が言う。
「これから旅に出る奴に向かって
"おかえり"はねえだろう!」
すると女将が、にこり。
「いいじゃないですか」
「どこがだ」
「あの子、
自分の居場所をここに書き残して行ったんですよ」
「……」
「これでいつでも、
戻って(筆を置いて)来られる」
――
道しるべとは、行く先ではなく、帰る先。
おあとがよろしいようで。
第十八回 拍手の中の別れ
高座の静寂を切り裂くように、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
その熱狂の渦の中心で、ウ・バニャーは静かに、そして誰よりも深く頭を下げた。板敷の冷たさが指先に伝わる。背中に降り注ぐ幾重もの拍手は、彼がこの四年間、この異国の地で、この落語研究会で積み上げてきた日々の重みそのものであった。
だが、お辞儀を終えて顔を上げようとした瞬間、バニャーの体は金縛りにあったように動かなくなった。
(ああ、いま起き上がれば……私の四年間が終わってしまう)
視界が不意に滲む。それは、観客にも、そして誰よりも信頼する仲間たちにも見られたくない、一筋の涙だった。
彼には、帰るべき場所がある。そして、そこには過酷な現実が待っている。
日本での学業のために特例で延長されていた徴兵の義務。故郷へ戻れば、彼はペンを銃に持ち替え、動乱の渦中へと身を投じなければならない。かつてウ・タントが希求した平和とは程遠い、混迷の地が彼を待っているのだ。
だからこそ、彼はこの日本の、この箱根の空に、消えない文字を刻みたかった。
次に誰かがこの扉を開けたとき、温かな灯火が灯っているように。
争いも、敵味方も、地政学的な境界線さえも超えて、すべてを包み込む言葉。
――「おかえりなさい」。
その一言を、日本に、そして自分自身の魂に書き残すために。
バニャーは溢れる涙を振り払い、毅然と顔を上げた。その瞳には、荒れ狂う嵐の先にあるはずの「喜望峰」を見つめるような、静かで強い光が宿っていた。
早雲寄席の灯火は、いま、一人の留学生の覚悟と共に、夜の箱根に深く、深く刻まれた。
ーー続くーー




