あなたは天使なのか
昨日の夜、お母さんとの約束を破ってしまった。
夕方はいつも、子供向け番組をみながら絵を描いていたりして過ごす。その間、お母さんは夕ご飯のメニューであるカレーライスを作っていた。
台所からは、野菜を切っているのか包丁とまな板がぶつかったときの音がかすかに聞こえる。
『トン、トン、トン。カツ、カツ、カツ。』リズムよく聞こえる小気味いい音を楽しんでいたが、それはお母さんの「宿題をやりなさい」という声に消され、いつものように「はーい」と反射的に返事をした。
しまった!
と思っても、時すでに遅し。
ちえはお母さんと約束をしてしまったのだ。
その日に学校から出された宿題は算数のプリント。ちえは学校の授業の中でも算数が一番嫌いだった。
人よりも計算に時間がかかってしまうため1問解くことができたときには既に、内容はずっと先へ進んでいる。
そして、結果的に授業についていくことができないからだ。
宿題なんてやりたくない。
ずっと楽しいことをしていたい。
嫌いな算数の宿題よりも絵を描いていたい。
そう思い、後で後でと先延ばしにしてしまったため、とうとう夕ご飯の時間になっても宿題に手を付けることはなかった。
お母さんは、ちえのためにカレーは甘めに作ってくれる。
だからお母さんの作るカレーライスは美味しくて、ちえの好物だった。
カレーのかかっているごはんをスプーンで掬い、口の中へ入れる。給食で出てくる人参は苦いのに、お母さんのカレーライスに入っている人参は苦くなく噛むたびに甘く感じ、大きめに切られたジャガイモはホロホロと、口の中のご飯と混ざった。
それらをごくんと飲み込む。
「美味しい!!」
ちえは笑顔でお母さんに言う。お母さんもちえに「良かった」と笑った。
「ところで、宿題は終わったの?」
お母さんの言葉に、ちえはギクリとする。スプーンの手を止め、「まだ……」と小さく返事を返す。
その途端、ニコニコとしていたお母さんの顔が怒り顔へと変わった。
「もう!やりなさいって言ったじゃない!それに、ちえもちゃんと返事をしたわよね?」
「…だって、算数の宿題やりたくなかったんだもん…。」
ちえは、怒っているお母さんの目を見ることが出来なかったため、カレーライスを見つめながら理由をいった。
しかし、その返答に納得をしなかったのか、お母さんは深くため息を付いた。
「だってじゃないわよ。約束したことが守れないのはいけないことでしょ。いい子でいないと、死んだとき地獄に落ちちゃうんだからね。」
「…ごめんなさい。」
シュンと反省しているちえに、お母さんは終わってからするようにと告げ、それ以上は何も言わなかった。
「悪いことをすると地獄に落ちるのよ」とお母さんがちえに言ってくるようになったのは、二月くらい前。
学校から借りてきた本に地獄が描かれていた。
血の池や針の山、鬼に身体を真っ二つにされる人たちの描写を想像し、ちえは心臓がバクバクと鳴っているのを感じた。
中でも、『嘘をつく人間は閻魔様に舌を抜かれる』ということに恐怖した。ちえは、以前にもお母さんとの約束を破ったことがあったのだ。
その日の夜、ちえはお母さんのお腹に抱きつきながら、大声で泣いた。
自分は地獄に落ちてしまうのか?
そう聞くちえに、お母さんは優しく微笑んだだけだった。
学校の図書室には、たくさんの小説や図鑑、絵本なんかがおいてある。
そのため、休み時間なると下級生から上級生まで多くの生徒が図書室で借りる本を吟味したり、友達同士でミッケ!を行っていた。
ちえは絵本コーナーへ行き、お目当ての本を手に取ると本を読むことができるスペースへと腰を下ろした。
絵本には、地獄の中での人や鬼の様子が事細かに描かれていて、恐ろしい。
文字以上の迫力があり、ちえはそっと絵本を閉じた。
悪いことをしたら、わたしはここに行くことになる…。
そう考えると、また涙が出そうになった。
怖くて泣いているところを人に見られたくなくて、急いで立ち上がり絵本をもとあった場所に戻す。
絵本を戻すスペースを作るため、絵本と絵本の間を広げると、右側の表紙が目に入った。
ちえはそっとその本を引っ張り出す。
金色の巻き毛とまっしろくてふわふわとした羽根をもつ天使が描かれていた。
その絵の美しさに、先程の恐怖と涙は気づいたら引っ込んでおり、思わず魅入っていた。
その途端、休み時間終了を知らせるチャイムがなり、生徒たちは本を乱雑に片付け早足で図書室を出ていく。
絵本を借りたかったが時間がない。
名残惜しくも、二冊の絵本を棚へいれ図書室を出た。
学校が終わり家にかえると、お母さんが台所で何かしているのを目撃した。
そのなにかに集中していたせいか、ちえの「ただいま」という声にお母さんは反応をしなかった。
何をしているのだろう。
そう思い、しゃがんで床を見つめるお母さんの後から、ちえも床を見る。
小さな蟻が列をなしていた。
きっと、餌を求めて家の中に入ってきてしまったのだ。
しかし、何かがおかしい。
よく見てみるとある部分から蟻の列は死骸となっていた。
蟻が侵入しているであろう入口には、何やら小さな容器が置いてある。蟻はその中身をせっせともち、巣へと戻って行く。
「これで、明日明後日にはこの蟻の巣は全滅しているはずよ。」
蟻を見つめるちえに、お母さんははにかむ。
口元に浮かぶ歯は、普段ならば気にならないのに今はいやに目に入り、ぞわっとしたものが背中を走った。
ちえは絶望した。それは、自分が地獄へ落ちてしまうかもしれないという恐怖を上回り、ちえの心臓はバクバクとなり続けている。
ちえはすぐさま家を飛び出した。
普段なら必ず言う「行ってきます」を忘れるほど、その場所から立ち去りたかった。
そして走った。走って走って、疲れても走って。
気づけばよく知らない地区へと来ていた。
馴染みのない静かな公園を見つけた瞬間、ちえは公園の入口近くの木に隠れる様にかがみ、大声で泣いた。
ちえにとって、自分が地獄に落ちることよりもお母さんが地獄に落ちることが嫌だった。
お母さんはたくさんの蟻を殺した。
例えそれが、自分にとって嫌なもの、不快なものでも生きているものの命を奪うことはあってはならない。
お母さんは悪いことをした。
悪いことをしたら地獄に落ちてしまう。
いやだ。
美味しいご飯を作ってくれるお母さん。
夜が怖いとき、一緒に寝てくれるお母さん。
頭を撫でてくれるお母さん。
抱きしめてくれるお母さん。
大好きなお母さん。
公園の木の根元に作られた蟻と蟻の巣を眺め、ちえは涙で赤くなった目元をゴシゴシと擦った。
どのくらいの時間が経ったかわからない。
酷く喉が渇いている。
公園内を見渡すと、自分が泣いていた木の反対側に水飲み場がある。
そこへと歩き、蛇口をひねる。冷たい水がやや勢いよく出てくると、それをゴクゴクと喉の音が聞こえるほど勢いよく飲みこむ。
水を止め、口を手で拭うとちえは振り返り公園の全貌を眺めた。
左側の手前にはすべり台と2台のブランコ、ブランコの少し奥に砂場がある。
遊具らしい遊具はそれだけだ。
しかし、中央に大きな山のようなものがあり、登って見なければ反対側の様子がわからない。
ちえは興味を惹かれその山もどきへと登った。
頂上には特に何もなく、反対側にも遊具は特にない。
公園の奥が林になっているらしく子供が行かないように高い柵が設置されていた。
楽しいものがあるかもと思っていたため少し残念に思った。
戻ろうと身体を傾けると、ベンチがあるのをみつけた。
ベンチは木の陰に隠れておりよく見えなかったが、人が座っている。
もう少し角度を変えて確認する。
ちえと同じくらいの歳の子だ。
その子はこちらの存在に気づくとゆっくりと微笑み手招きをした。
その子は、ちえが今まで見たどの子よりも綺麗で驚いた。
テレビの中でもこれほど美しい子は見たことがなかった。
手触りの良さそうな栗色の髪は毛先の方がクルンとなっており、肌は日にあたったことがないかのようにまっしろい。それなのにほっぺたは林檎色をしている。
ちえは、今日見た絵本の天使と目の前の子が同じ存在に思えた。
その子は目の前に来たちえに微笑んだまま何も言わない。
「は、はじめまして。わたしはちえ。あなたは?」
「…。」
「この辺に住んでいるの?」
「…。」
「えっと、何年生…?」
「…。」
微笑んだままで、その子からの返答が帰ってこない。そのことに少し気味が悪くなる。
あまりにも人間味がないのだ。
ちえにとって、どんなに綺麗な子でも、人間でない存在は恐怖でしかない。
その場から離れたい。
「あの……。」
「さっき」
「え?」
「さっき、どうして泣いていたの?」
さようならと声にしようとした、その矢先のことだ。
その子が声を出した。高すぎず、低すぎず、心地の良い声だ。
そして、その子が発した言葉は、先程自分が泣いていた理由を聞いている。
泣き声を聞かれ恥ずかしくなった。ちえが答えないでいると、もう一度同じ質問をしてくる。
きっと答えないと永遠と聞いてくるに違いない。
仕方なくその子の隣へと座り先程あったことを説明した。
その間その子は、薄っすらと浮べていた微笑みを消し、透き通るようなキラキラとした目でこちらを見ながらじっと聞いていた。
話し終えると、ちえは俯いた。
また、お母さんが地獄に落ちてしまうかもという考えが浮かび、涙が出てきた。
膝の上で両手をぎゅっと握りしめていると、その上に冷たく白い手が重ねられた。
驚いてその子の顔を見る。
その顔には先程の微笑みが浮かんでいた。
「大丈夫だよ。」
「な、なにが?」
「あなたは地獄に落ちない。」
「え?」
「それに、あなたのお母さんも地獄へは落ちたりしない。」
その言葉に呆然とする。
なぜ、そんなことが言い切れるのだろうか。未来のことなんてわからないのに。
今はまだ地獄へ落ちるほどでなくても、今後はわからない。
そんなちえの考えを見越したかのようにその子はまた話し出した。
「あなたは、自分よりも他の人のことを心配する優しい人。あなたのような人は、地獄へ落ちたりなんてしないよ。
それに、あなたがお母さんは地獄へ落ちてほしくないと思っていたら、それはきっと叶うはずだよ。」
そう言い終えると、その子はもう片方の手も私の手へと重ねた。ほっそりとした白い手の甲が目に入る。
幽霊のようでいて、でもそんなに恐ろしいものではない。
本当に。
そんなことで。
私がそう願っているだけで、お母さんは地獄へ行かなくてすむのか。
一瞬そんな考えが出てきたが、胸の鼓動は静かである。
あ、わたし。怖くないや。
その子の言葉はちえが抱えていた不安や恐怖を綺麗に洗い流していた。
空がオレンジから濃い青に染まる頃、ちえは家へ帰った。
お母さんからは急に家を飛び出したこと、行き先を告げなかったことを叱られ、そしてまたお決まりの言葉、「悪い子は地獄に落ちちゃうのよ。」と言われた。
しかし、今日はその言葉を聞いても胸はドキドキしない。
それよりも、お母さんの「心配した」という言葉に少しだけ嬉しい気持ちになった。
「ねえお母さん。」
「なに?」
「今日ね、天使にあったの。」
お母さんは料理の手を休めることなく、「天使ちゃんっていうお友達?」と聞き返してきた。
それに、小さく「違うよ」と返す。
この声は、お母さんには聞こえなかった。
ちえは、山のようなものを超える前に振り返り、その子の名前を聞いた。
夕方の色が濃くなり、空だけでなくちえ達がいる場所までもがオレンジへと染め上げられている。
しかし、その子の白い肌はオレンジをつけることなく白いままで、ほっぺたは相変わらず林檎色だ。
その子は微笑みを浮かべたまま、口を開く。
「天使だよ。」
この日、ちえは天使と出会った。