二話
楓の一日は、まず和彦への挨拶から始まる。パジャマ姿で携帯を持ち、少し寝ぼけた声で話す。
「お父さん。おはよう」
「おはよう。今起きたのか?」
「土曜日だから遅くてもいいでしょ」
「夜更かしはよくないぞ。それだけで体調が悪くなるし、太ったりもするんだ」
「え? 太るの?」
「知らなかったのか。土日でも、早寝早起きするように。わかったな」
「うん。これから気を付ける」
そして電話を切った。獣医なため、和彦はとても健康について詳しい。幼い頃から、まるで命令するかのように「ああしなさい」「こうしなさい」と厳しくしつけられた。楓には、口うるさい父だなというイメージがあるが、全ては家族が元気に生活するアドバイスなのだ。嫌がってはいけない。
朝の挨拶を終え、私服に着替えてゆっくりと朝食を作った。自分の分だけなので、適当に済ませた。特に予定はなく、あーみんとお茶を飲もうと電話をかけたが、「今日はごめん」と断られてしまった。仕方なくテレビをつけてぼんやりと眺める。
芸能人とモデルが結婚したというニュースが流れていた。幸せそうに微笑む二人。ダイヤモンドの指輪を見せて、周りの人たちは大喜びしている。
「……いいな。あたしも好きな人と結婚したい。どこにいるんだろう? 運命の人」
そっと呟き、テレビを消した。
妬んでいるわけではないが、他人が笑っていると視線を逸らす。小学校でも中学校でも、母と買い物をしたなどしゃべっているクラスメイトとは仲良くできなかった。なぜ自分には母がいないのだろう。死んでしまったのだろう。そういった暗い気持ちが胸に溢れ返る。
一度だけ、和彦に落ち込んでいると伝えたが、呆れた表情で返事が飛んできた。
「お父さんがそばにいるんだから、別に寂しくないだろう。どうして落ち込むんだ?」
「だけど、お父さんも仕事で帰ってこないじゃん」
「赤ちゃんじゃないんだ。しっかりと一人で歩いて行けるように頑張れよ」
抑揚のない口調で、さっさと話は終わってしまった。
日曜日はあーみんが暇だったので、久しぶりにカラオケで遊んだ。
「あーみんって、歌もうまいよね」
「楓の方が点数高いじゃん」
「でも、しゃくりもビブラートもないよ?」
「練習すれば、うまくなるって。頑張ればね」
「……頑張れば……」
無意識に俯き、小声で答えた。
二時間歌って、外に出た。そのまま別れ家に向かう。
幼稚園の頃、初めての運動会で、楓は足が速くなるよう毎日走っていた。秋穂と和彦に褒めてもらいたくて、必死に走って二位になった。秋穂は笑ってくれたが、和彦は冷たかった。
「もっと頑張れば、一位になれたのに。どうして本気出さなかったんだ」
その態度は、楓にとってとてもショックだった。自分は必死にやったのに。本気で全力疾走したのに。後で秋穂が怒ったらしいが、とにかくトラウマのようになっている。頑張っても褒めてもらえない。なら、わざわざ無茶なことをしなくてもいいじゃないか。楽に生きていった方が、楓には合っている。
運動会だけではなく、テストもそうだった。九十点を取り和彦に見せたところ、一〇〇点じゃないとだめだと叱られた。
「でも、テスト勉強めっちゃ頑張ったんだよ? しかも苦手な算数で……」
「九十点で満足してるようじゃ、まだまだだな。天国のお母さんも同じこと考えてるぞ」
やはり褒めてはくれなかった。
「いつも、お父さんって厳しいんだよな。あたしは褒めて伸びるタイプなのに。知らないのかな……?」
深くため息を吐き、がっくりと項垂れた。
「佐東さんっ。そっちに行ったよっ」
「え?」
後ろを振り返ると、顔面にバレーボールが当たった。父について考えていて、今は体育の授業だったのをすっかり忘れていた。床に倒れた楓の近くにクラスメイトが集まってくる。
「ごめんね。痛くなかった?」
「大丈夫だよ。平気平気」
「ぼうっとしてちゃだめだよ。もっと気合入れて頑張らなきゃ」
「そ、そうだよね。あたしの方こそ、ごめん」
ははは……と苦笑し、またバレーボールの試合が始まった。
放課後、帰り道を歩きながら独り言を漏らした。
「頑張れって何? 頑張れって、どういう意味なの?」
楓は充分頑張っている。常に努力している。自分では、そう考えている。これ以上、何をすればいいのか。
机の上に置いてある写真立てに質問してみる。
「ねえ、お母さん。頑張る方法って知ってる? 知ってたら教えてほしい……。あたしに足りないものって、どんなことかな?」
もちろん秋穂はただ微笑んでいるだけ。さらに空しさと寂しさが募る。
いつも通り、夜になっても和彦は戻ってこなかった。簡単に夕食を食べて風呂に入って、ベッドに潜り込んだ。