十六話
土曜日に、バッグを持ってマンションへ向かった。合鍵を使い中に入る。すぐに龍介がやってきた。
「こ、こんにちは……」
「あんた、今日からうちに泊まって働くんだって?」
「そう。いろいろ頑張るよ」
「怪しいな。とんでもないこと起こしそうな気がする」
「大丈夫だって。信じてよ。龍介くんのためなら何だって」
「龍介くん?」
じろりと睨まれる。まだ友人でもないのに馴れ馴れしく呼ぶなという視線で、ぎくりとした。
「じゃなくて、遠野くん……」
苦笑しながら言い直すと、龍介は黙って目を逸らした。
「ところで、あたしの名前は」
「知ってるよ。佐東楓だろ。真知子がメープルって呼んで可愛がってるからな」
「真知子?」
首を傾げる。龍介も不思議そうな表情になった。
「どこかおかしいか?」
「普通は、お母さんって呼ばない? 名前で呼ぶのって珍しいね」
「何だよ。名前で呼んじゃいけないのか?」
「いけないってわけじゃ」
「うちは、そういう家庭なんだよ。あんたには関係ないだろ」
確かに楓は赤の他人なので、お母さんじゃないと変だなどと言えない。返す言葉を失い俯くと、龍介は自分の部屋へ入ってしまった。
とりあえず、バッグを床に置きソファーに腰かける。ふう……と息を吐き、前途多難な未来が待っていると予想した。恋愛に悩みは付き物と聞くが、本当に不安と緊張が胸に溢れ返っている。しばらくして、龍介がドアを開けた。
「遠野くんも座ったら? 横、空いてるよ」
ぎこちない笑顔で話したが、龍介は無視をして外へ出て行った。取り残された楓は、石のように体が固まり、冷や汗が流れた。
これから二人で暮らしていくのに、とてつもなく大きな壁ができてしまっている。このバイトは、楓には合わなかったのではないか。そもそも楓は家事ができないし手先不器用だし、とにかく能無し。だめ人間と笑われても、その通りなので黙るしかない。ただ一人、秋穂だけが認めてくれた。褒めてくれた。しかし現在は亡くなって、馬鹿にする人しかいなくなった。和彦も秋穂と同じ性格だったらと願うが、昔と変わらず子供想いではないし、これからも可愛がってはくれないだろう。
一時間ほど経ち、龍介は帰ってきた。
「おかえり。どこに行ってたの?」
「どこだっていいだろ。何でいちいち教えなきゃいけないんだ」
「でも、一応聞いておきたくて」
「うるせえな。あんた、もし俺が同じように聞いてきたら頭にくるだろ。自分におきかえて考えてみろよ」
「ああ。まあ……。そうだよね……」
苦笑するが、龍介は目を合わせなかった。
中尾が、女も子供も容赦しなく怒鳴ると話していたが、ここまでとはと緊張した。予想外のとっつきにくさに、手が小刻みに震えた。息をするのも辛い。冷たい男子がタイプだが、龍介は限度を超えている。
「あ、あの。りゅ……じゃなくて、遠野くん」
「何だよ」
「イライラ……してるの?」
びくびくしながら聞く。すぐに答えが飛んできた。
「してるよ。一人の時間をあんたにぶち壊されてるんだから」
「そ……うか。ごめんね……」
「悪いって思うなら、今すぐ出て行け」
「え……?」
そっと龍介の顔を見上げる。じろりと睨みつけていた。
「さっさと出てけ。ほら、荷物持って」
「だけど、バイトは辞められない。真知子さんに住み込みってお願いされたし、出て行くわけには」
「面倒くせえ奴だな。バイトなんかいらねえんだよ。俺一人で家事できるのに」
「でも、勝手に辞めることは」
「しゃべるな。その声聞くとストレス溜まる。話しかけたら、何も言えなくなるまで傷つけてやる」
傷つけるの意味や酷さはわからなかったが、恐ろしい目に遭うのはしっかりと伝わった。こくりと頷き、完全に口を開かないと気を付けた。
死神、不良と呼ばれていたのは、この性格からだとようやく理解した。確かにこれでは誰も付き合いたくないと避ける。本当に、楓も石になりそうだ。中尾はどうやって仲良くなれたのか不思議な気持ちも浮かんだ。
もちろん、しっかりと睡眠はとれず、うつらうつらで朝を迎えた。龍介はまだ寝ている。起こしたら怒ると、音を立てないで洗面所へ移動した。
「はあ……。どうしよう。しゃべっちゃいけないなんて無理だよ」
楓のイメージでは、もっと優しく穏やかな人だった。血も涙もない人ではないと信じていた。
「めちゃくちゃ不良じゃない。真知子さんが産んだ息子だとは、とても」
「誰が不良だって?」
心臓が止まりかけた。実際に止まったかもしれない。驚きのあまり、床に倒れた。
「お、起きてたの?」
「まあな。で、誰が不良だって? もしかして俺か?」
「い、いや……。遠野くんのことじゃ」
「へえ。もし俺を不良って呼んだら、何されるかわかってるよな?」
「ごめんなさい。ごめんなさい。許して」
「ふん。まあ俺じゃねえならいいか」
龍介は後ろを向き、洗面所から出て行った。
「こ……怖すぎ……。殺されるかと思った……」
がくがくと全身が震えた。まさに死神。なぜこんな男子に惹かれてしまったのか。外はイケメンでも内があれでは、絶対に友人などできるわけがない。中尾の柔らかな笑みが蘇った。彼は友人だと思い込んでいたが、龍介には赤の他人と映っているのではと考えた。
学校生活でも朝の出来事は記憶に残り、あーみんは心配そうに聞いてきた。
「顔色よくないね。風邪でもひいたの?」
「大丈夫だよ。全然平気」
「悩みがあるなら相談してよ」
「うん。ありがとう」
バイトをバラすのは禁止されている。相談したいのはやまやまだが、首を横に振って誤魔化した。
放課後は、自宅に帰るか遠野のマンションに帰るか悩んだ。まだ十六歳で死にたくはない。迷っていたが、携帯が鳴った。
「もしもし。あ、真知子さん」
「どう? 龍介とうまくいきそう?」
「は、はい。まあ……」
「よかった。じゃあ、これからも住み込みで頑張ってね」
そして電話は切れた。
「……やっぱり、マンションに帰らなきゃだめか……」
ため息を吐き、ゆっくりと足を動かした。
合鍵を使い、中に入る。すでに龍介はいて、ぎくりとした。
「ただいま……」
「どうしてここに帰ってきたんだよ」
「だから、勝手に辞められないんだって。それに、独りぼっちになりたくない」
「独りぼっち独りぼっちって、うるせえな。いい加減にしろ」
黙り、俯いた。返す言葉を失ってしまった。そのまま龍介は部屋に入り、楓はソファーに腰かけた。声を出さないように気を付ける。滝のように冷や汗は流れて止まらなかった。