十話
恋に落ちると、人はすっかり変わるという。詳しくは知らないが、本当に別人のように変わるらしい。現在の楓も同じだ。常に遠野について考え、そのせいで集中できず授業も上の空。テストの点も落ちていくばかり。ノートにも、無意識に「遠野くんとラブラブ」と書いていて、後になって読み返し、自分で驚く。遠野と付き合ったら。手を繋いだら。デートをしたら。キスをしたら……。また、白馬に乗った遠野が毎晩夢に現れた。お姫様抱っこで幸せいっぱいになりながら朝を迎えた。さすがに、あーみんも馬鹿にしていた。
「バイトはどうしたのよ?」
「バイトなんかどうでもいいじゃん。それより遠野くんの方が大事でしょ」
「夢見すぎ。もう大人なのに」
「夢じゃないよ。実際に叶うんだ。ついにあたしの願いが、神様に届いたんだな」
「けど、おかしくない? 冷たい性格だって噂されてたのに。楓にだけ優しい態度とるって」
「たまにイライラして冷たくなるんだよ。普段は優しいんだけど」
「そんな人いるかな?」
「遠野くんじゃなかったら、誰だっていうの?」
「まあ、楓がそう信じてるなら、うるさいことは言わないよ」
答え、あーみんは視線を逸らした。
彼は、紛れもなく遠野龍介だ。超かっこよくてイケメン。おしゃれで美しくて非の打ちどころがない。クラスメイトたちは裏の姿しか知らないから、酷い話し方をしてるのだろう。
「とにかく、もっともっと遠野くんと距離を縮めるのが目標。告白は無理だから、少しずつ近づいていこう」
拳を作り、自分に言い聞かせた。
とはいえ、住んでいる場所も交友関係も不明だ。何の手がかりもない。土日は図書館に通い再会を試みたが、遠野はやってこなかった。砂漠で水を探すのと同じくらい難しい。それに、もし見つかったとしても声をかける勇気はあるのか。
「王子さまは、どこにいるのかな?」
まさか幻だったのではないかと疑う時もあった。十六年間この街で生活しているが、あれほどかっこいい男子に出会ったことがない。それとも、あの日たまたま図書館にいただけで、住んでいるのはかなり遠いのではないか。
「やっぱり、今日も会えなかった……」
がっくりと項垂れ、とぼとぼと家に帰った。
かなり望み薄だが、遠野探しは続けた。初恋を諦めたくない。というか、他の女の子に取られたくない。早く早くと焦り、バイトなど頭から消えていた。
だが体は正直だ。いつも通りあてもなく歩いていると、重い鉛が襲いかかってきた。大きな石がのしかかっている。そばにあったベンチに移動し横になる。疲れが限界まで達したようだ。
「ちょっと寝ようかな。そういえば、ご飯も食べてないや」
あーみんの母が持ってきてくれるが、とても満腹にはならない。しかし小遣いは0円。我慢するしかないのだ。
目を閉じると、過去の出来事が蘇った。
「お母さんの作るご飯は、どれもおいしいよね」
「本当? 嬉しい」
「食べただけで元気になるし、悲しくてもにっこりできるよ」
「ありがとう。楓も頑張れば、お母さんよりもおいしいご飯が作れるよ」
「もしできたら、お母さんにごちそうするね。お父さんは、まずいって言うから作ってやらないんだー」
「そうだね。楓もいつかは大人になるんだもんね。好きな男の子と結婚して子供が産まれてお母さんになる。立派に成長した楓を見るの、すごく楽しみ」
「ずっとそばにいてね。お母さん」
「うん。約束ね」
ぎゅっと秋穂に抱きついた。お母さん、大好き。お母さんがいるから、あたしは生きていける。まさか離れ離れになるとは、夢にも思っていなかった。
「会いたい……。会いたいよ。お母さん」
ぽろぽろと涙がこぼれた。寂しくて辛くて、心が暗くなっていく。
そんな日々を送り、二週間が経った。日曜日に遠野探しに出かけたが、めまいを起こし道に倒れた。立ち上がろうとしても力が入らない。周りの人たちもちらちらと見ているし、あまりにもみっともなくて恥ずかしくて、死んでしまいたい。
「どうしよう。家に帰れない」
「どうしたの?」
突然、後ろから声をかけられた。振り返り、目が丸くなる。メガネをかけた超イケメンの遠野が、急いで駆け寄ってきた。
「と……。と……おの……」
「具合悪そうだね。大丈夫?」
「う、うん。ご飯食べてなくて」
ぐううと腹が鳴る。顔が真っ赤になった。誤魔化せないほどの大きな音だったので、絶対に聞こえている。
「そろそろお昼の時間だし、一緒に食べようか。俺が奢るよ」
腕を掴み、遠野は支えてくれた。ゆっくりと立ち上がる。しかし、よろけて遠野の胸に倒れた。
「うわわっ。ごめん」
「いいんだよ。じゃあ、店に行こう」
馬鹿でドジな自分に嫌気が差す。遠野は楓のペースに合わせて歩いてくれた。
イタリアンレストランに入り、向かい合わせに座った。背が高く、長い脚を組んでいるのは完全にプロのモデルだ。メガネの奥の瞳は、黒というより茶色に近い。メニューを選びながら盗み見ていたが、バレてしまった。
「俺に聞きたいことあるの?」
「えっと……。遠野くんって、どこに住んでるの?」
「え?」
「教えてほしいんだけど、だめ? 遊びに行きたいって意味じゃないよ」
「違うよ。俺は遠野じゃないよ」
「ち、違うの?」
ガーンとタライが降ってきた。すっかり遠野だと信じていた。
「なら、名前なんて言うの?」
「中尾正麒だよ」
「中尾正麒くん?」
「君の名前は? 教えてくれないかな?」
「あたしは、佐東楓」
「へえ。可愛い名前だね」
今まで褒められたことがなかった。どきどきと心臓が跳ねる。
「ありがとう。嬉しい」
さらに、まじまじと中尾を観察する。腕時計もいくらするのかわからないほど高級だし、バッグは有名なブランド品だ。
「佐東さんは、どこの学校に通ってるの?」
「新昇高校」
「ああ。だから遠野を知ってたんだね」
「もしかして、中尾くんは遠野くんに会ったことあるの?」
「あるよ。保育園から小学校まで、ずっと一緒だったし」
「いいなあ。探してるんだけど、なかなか会えなくて。どうして見つからないのかな?」
「あいつ、他人と付き合うのが苦手でね。俺とは仲がいいんだけど、友だちもほとんどいない」
「性格悪いの?」
ずっと気になっていることを質問してみた。中尾は目を大きくしてから答えた。
「人それぞれ感じ方は違うから、はっきりとは言えないね。おっと。これ以上バラしたら怒られちゃうな。遠野については、ここでお終い」
楓はまだ教えてもらいたかったが、わがままはいけない。我慢し口を閉じた。
イケメンと食事をするのは生まれて初めてで、手が震えた。緊張し黙っていると、中尾は心配そうな表情になった。
「さっきからしゃべってないけど、どうかした?」
「だって、中尾くんがかっこよくて、どきどきしちゃって」
中尾の頬が赤くなった。とても照れているようだ。
「そうかな? かっこいい?」
「かっこいいよ。超イケメンだよ。女の子にもモテるでしょ?」
「ラブレターはもらったことあるけど、付き合ったことはないんだ」
「え? どうして付き合わないの?」
「女の子を護れる強い男じゃないんだよ。臆病だし、デートも慌てちゃって全然余裕ないよ。女の子としゃべるのも得意じゃないんだ」
「だけど、あたしとはしゃべってるよ?」
「佐東さんは、子犬ってイメージだからね。すごく癒されるし、本当にペットと一緒にいるみたいで気楽なんだよ」
さらにタライが降ってきた。人間の女の子として映っていないという意味だ。完全に動物として見られている。これは大ショックだった。
「そ、そっか。あたしは子犬なんだね」
「昔飼ってた犬にそっくり。ポメラニアンのメスで、名前はマル。抱っこが大好きで、ぎゅっとするとそのまま寝ちゃうんだ」
「それは可愛いね。ポメラニアン、人気だよね」
「図書館で会った時、マルだって嬉しくなったよ。今日はご飯も食べられて、俺は幸せ者だな」
しかし素直に喜べなかった。褒められていると感じなかった。以前は面白がってもらえてよかったが、現在はお年頃なため人間の女の子と言ってほしかった。
レストランから出て、空を眺める。すっかり夕方で、かなり長い時間食事をしていたと知った。中尾もとなりにやってきた。
「お腹いっぱいになったかな?」
「お腹も胸もいっぱいだよ。どうもありがとう」
「遠野探し、あんまり無理しないように気を付けてね。あ、そうだ」
中尾がバッグのチャックを開けた。
「これ、どうぞ」
差し出してきたのは、水色の石が飾られているブレスレットだった。
「わあ。綺麗……」
「俺の母さんはジュエリーデザイナーで、アクセサリーを作る仕事をしてるんだ。新作ができたから、佐東さんにあげるよ。よければ使って」
「もらっていいの?」
「もちろん。アクセサリーは女の子がつけるものじゃないか」
「あたし、可愛くないしおしゃれでもないのに」
「いらなかったら、誰かに渡しても構わないよ。じゃあ、また会おうね」
手を振り、中尾は歩いて行った。姿が消えるまで立ち尽くし、五時の鐘が鳴ってから楓も家に帰った。